「市場に流出する税制」

われわれ一般大衆は基本的に生涯に措いて得られる所得(恒常所得)と将来世代への遺産、つまり子や孫へ残す遺産などを考えて、現在の消費や貯蓄を決定している。
だがここで政府が一定の政府支出増加に伴い、その資金調達として公債の発行、若しくは増税によって資金調達をはかろうとしたとしよう。

そしてこのパターンでは政府支出が増大したと言うことは、国内景気が今ひとつと言う状況でもあることから、増税よりは気軽な、公債発行によって資金調達をはかろうと言うことになり、公債が発行されたものとしようか・・・。

この時合理的に物事を考えるなら、政府が発行した公債はその元金と利子の支払いが未来の増税になることを理解しなければならないが、その原理は簡単だ。
足りなくなったから、公債を発行するのであって、その支払いはいつになったら終了するのかと言えば、政府が発行したものには終了点がなく、例えば相当景気が良い時期があったとしても、それが税収から得られた場合は「予算」となり、基本的には予算には貯蓄しておいて返済にまわす、と言うような思想が存在してない。

つまり毎年使い切りが原則であり、景気が良ければそれに応じた要求が民間から発生してくる。
それゆえ、本質的には政府が発行した公債はいずれの時期かに措いて、増税と言う手段でしか償還できないものなのである。
そこで一般大衆は自分と子孫の税負担の増加に備え、消費を増加させない、保有した公債は資産にはならず、未来に措いて起こってくるであろう「税負担の為の貯蓄」と言う考え方を持つのが正しい。

つまり公債発行は、それが行われた時点で未来に措ける増税を意味していて、この点で言えば現在の増税も、未来に措ける増税も同じことになり、こうしたことを運命論的に考えるなら、公債の発行は一般庶民の生涯所得に影響を与えない・・・。

これが古くは「リカード」(D.Ricardo 1772~1823)によって提唱され、「バロー」(R.J.Barro)が定式化した「リカード・バローの中立命題」、若しくは「同価定理」「公債の中立命題」「ネオ・リカーディアンの同価定理」と呼ばれる理論である。

だが国債の持つ性格はこれを金融資産と考えた時から、或いは紙幣を発行する側である中央政府銀行、日本で言うなら日本銀行が国債の買取をした時点で「リカード・バローの中立命題」から外れていく。

簡単に言うなら「税が市場に流出」していくのであり、政府が出した国債と言う債務は政府自体が利益活動をしていない事から、債務返済方法は将来の増税しか無い。

しかしこれを日本銀行が買い取った場合はどうなるかと言えば、債務を出した側が紙幣も印刷していて「泥棒が警官をしている」のと同じになってしまうのであり、これでもたらさせるものは通貨の信用不安と言う事になる。

その結果日本通貨は対外的な信用を低下させ「円安」と言う側面を持つが、これで発生してくるものは「物価の上昇」であり、通貨供給量を増やすと言う事の半分の効用は物価の上昇を意味するが、これによって増やされた通貨供給量の流れは水田に水を引く形と同じである。

流れの上から順にそれが個人や企業によって自身の所に蓄積される事から、一番下の方へ行くと殆ど何も残らない現象が発生する。

つまり一番大多数を占める一般庶民には通貨供給量の増加による物価上昇と言うマイナスは有っても、更に半分を占めるはずの「賃金の上昇」が無いか、有るとしても僅かになり、結果として一般庶民は「物価上昇」と言う負担だけを受ける事になる。

無論全ての国債を中央銀行が買い取る事は不可能で有るから、これに伴って健全な部分である「リカード・バローの中立命題」に従った「消費税増税」も実行されるが、日本の現在の国債に対する返済計画はこのように「市場に流出した税制」と、「健全な税制」の両方から健全化しようと言う方式が採られている。

従って政府が行う財政出動の償還は、一つは増税によって賄われるが、国債の買取が中央銀行によって為されている現実は、物価上昇と言う「市場調達増税」でも償還が為されている事を意味し、現在日本政府が行っている政策は「消費税増税」以外に「市場操作による税調達」が加わっていると言う事になるか、或いは物価上昇と言う現実はリアルタイムだが、賃金上昇が未来に対する希望の場合は「博打」を打っているに等しくなり、この間の負担は後に還元されない。

また国債の買取は政府による市場の干渉で有り、これを行ったら本来市場が持つ自然な動向に対してまでも政府が責任を持たねばならず、よって経済を社会主義化してコントロールする事は、ある種自然災害を人間がコントロールできると豪語しているような愚かさが付きまとい、必ず破綻する。

「リカード・バローの中立命題」から外れた通貨供給量の緩和がもたらす事の意味は、必要な資金がもう正規の手段では集められない状態に有る、「破綻した状態」であると言う事で、ここで発生してくるものは「貧困社会」の特徴的な傾向で有る「貧富の差」である。

元々国債はそれを買える資金が潤沢な者に取っては金融資産的な意味合いが有り、それを負担して行くのは国民と言う性質のもので、この図式から始まって貧富の差が出易い性質のものだが、この償還を市場に頼ってしまうと増税以上の国民負担を強いる事になる。

我々は「景気浮揚」や消費税増税だけを見ていてはいけない。

日本国債の中央銀行買い取りと言う行為は税制の市場流出、若しくは税制と市場が曖昧になる事を意味していて、これは事実上税制の際限の無い市場への流出の第一歩、泥沼化が始まった事を示している。










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「おもてなし経済」


東京は一番大きな「田舎」で有り、従って現在地方で起こっている問題が一番最後に巨大化して発生する事になる。

日本の地方経済と言うのは第一次産業から第二次産業の生産基盤が有って、そこから第三次産業が存在する仕組みだったが、第二次世界大戦後に始まった自由貿易によって、地方の農業や林業と言った第一次産業は衰退し、更に資本主義は工業などの第二次産業も「価格競争」の原理から衰退させ、ここに少子高齢化や人口流出が起こって、事実上地方経済は破綻していた。

この図式を鑑みるなら、こうした地方経済の破綻状況は今の日本の国状そのものと言え、この中で地方が考える事は地方交付税の増額や補助金の増額、或いは都市部からの集客による経済効果と言うものであり、こうした背景から始まるのが「おもてなし」と言うものだった。

だがこれでは地方経済の主眼がすべて「観光」を基盤としたものとなり、ここでは農林業と言った地方生産基盤まで全て観光の為に動く形式を発生せしめ、為に農林業が第三次産業化、所謂サービス事業化し、本業と全く関係ないサービスに労力を費やし、その挙句期待された経済効果は時の世界情勢によって成立する事が無かった為、事実上経済破綻が慢性化していた。

またこうした事情に加え、打ち続く自然災害によってあらゆる方策を失った地方経済は、「援助」と、観光と言う効果に更に依存する傾向を深め、実際には若年労働者が流出し、高齢者しか残存していない地方に一般通常の経済復興や発展を想定したが、既に生産の為の労働者は残っておらず、地方経済は「乞食経済」になっていた。

そしてここに「人さへ来てくれれば儲かる」と言う幻想が発生したが、その実体は地方に残っていた僅かな生産能力や、その能力を有する者たちに「おもてなし」と言う弱い全体主義を強いて疲弊させ、その上で「おもてなし」は成功したとしても、それで潤う観光業以外の産業は只ひたすら力を奪われて行ったのである。

私が「おもてなし」と言う言葉が嫌いな理由はここに有り、「表が無い」、裏ばっかりだと言う意味にしか解釈できない。

「人が来れば儲かる」時代は1980年代で終わっていて、1993年以降は人が来れば損をするのが現実になっている。

それとどうやら中国経済が限界を迎えているような気がする。
共産党指導部が必至になって報道を抑制しているが、中国農村部各地の「反共産党」運動は相当激化している可能性が高く、大変厳しい制度を引いている「表の金融」に対して存在する、共産党幹部関係の個人的裁量による「裏の金融」がそろそろ「誤差」の範囲を超えてきている。

通常中国の銀行で融資を受けるには大変厳しい審査が有り、一般人はまず融資を受けることが出来ないが、これが共産党幹部の関係者やそのお墨付きが有れば、何の審査も無く融資を受けることが出来る。

勿論この仕組みが全てではないが、簡略に言うなら返済計画もいい加減なら金利も適当な融資が裏で動いていて、これの存在が無視できない状態にまで膨れ上がってきていて、中国の通貨「元」とドルとの交換を可能にしているアメリカは、近い将来大きなダメージを受けるリスクを負っているが、これは日本も同じである。

中国の経済破綻は既に秒読み段階に入っている。

アメリカの連邦準備機構「FRB」がその量的緩和政策の縮小を考えるのは国内の金利矛盾の解消も去る事ながら、こうした中国経済のタイミングを計っている事も無視できず、FRBは1年半をめどに、段階的に通貨量緩和政策を縮小して行かざるを得ない。

その結果日本の円は更なる下落を迎え、ここに日本の円高によって貿易競争力を維持していた韓国経済は一挙に危機を迎える事になり、国民の負担は増加し、韓国政府はもとより韓国国民もそのどう仕様も無い状態に対する不満のはけ口を日本に向け、この状態は中国共産党も同じである。

簡単に言うなら中国、韓国とも経済危機を迎え、その矛先を日本に向ける状態がより一層激しくなると言う事である。

こんな状態の中、いちいちフランスの風刺絵如きに政府の官房長官が遺憾の意を表しているようでは、到底この先中国、韓国との関係改善など難しい。

また福島原発事故によって発生している大量の汚染水は、今の日本の技術では海洋投棄以外に方策が無く、この意味では今後30年近くはいつどこで放射能汚染の風評が発生しても不思議は無い状態に有り、政府はこれをコントロールできないばかりか、只さへ国債の金利償還が半分を占める国家予算の国債金利負担は、円の下落によって跳ね上がり、予算も労働力もオリンピック関係に取られる東北の復興は窮地に陥る。

そればかりか円の下落は海外から調達する原材料の高騰を招き、ここでも復興予算は大幅な増額が必要になる可能性があり、これは国民生活に措いても、医療薬品関係に措いても同じである。
加えてアメリカ通貨の量的緩和縮小政策は、円の下落を日本政府や日本銀行がコントロールできる範囲を一脱させる事になる。

日本も中国も韓国も経済危機に陥り、政情は不安定化し、その上に各国とも気象災害や地震災害に膨大な予算を必要とする事になるだろう。

万一関東地震や富士山の噴火が始まった場合、日本はオリンピックを開催できるかどうかが危うく、そうで無くとも今の世界情勢を鑑みるなら「おもてなし」で巨額投資を行い、その間オリンピックを拝み続けて高額負担を我慢してきた日本国民の経済的期待は、見事に裏切られる可能性が高い。

消費税増税、あらゆる生活物資の高騰、オリンピックに集約される予算によって縮小される地方予算や福祉関係予算、それによって二次的に発生する物資や建設関係工事額の高騰、災害など、今後7年間に日本人が辿る道は艱難辛苦の道になるが、片方では煌びやかな「おもてなし」が繰り広げられ、7年後にオリンピックが終わったら日本も終わりになる。

ちょうど田舎で一生懸命働いている者は何かの集会などにも出る時間が無く、そこで暇な者だけが集まって物事が決められ、その決められた事によって一生懸命働いている者達への負担が増やされる形式に同じである。

田舎はのどかなので無く、既にあらゆる滅亡が始まっている。

そしてこの田舎の姿が数年後の東京、日本の在り様と言うものだ・・・。





「これまでも、今も、これからも・・・」


もはや何も言いたくないが、これも日本民族の上に横たわる運命と言うものだったのでしょう・・・。

そもそも今回の候補3国はそれぞれにオリンピックと言う、或る種の理想や希望を世界に与えられる国では無く、特に日本にはその資格が無かった。

今後7年の間には間違いなく関東、東海、それに北近畿のいずれかが大きな地震に遭遇する。
そして福島原発の汚染水漏洩問題は絶対解決できず、ここではオリンピックに対して原発問題そのものが禁句になっていくような嫌な事になる。

その上で毎年関東、北関東では気象災害が発生し、もしオリンピック開催期間にこうした災害や地震が発生し、更には富士山などが噴火を始めたら日本政府が言うような「絶対安全」など吹っ飛んでしまう。
日本は海外の選手達の安全を保障できない。

安部政権は基本的に経済界に逆らえず、原発計画は推進されるだろう。
これまでの彼の言動は行動と相反するその場しのぎの言動ばかりで、弁舌が立つことで言えば海部政権に良く似ているが、いずれにしても音声羅列の範囲を出ない。

それに経済効果だが、残念ながら中東情勢は不安化し、EU経済は更に深刻化、結果的に日本は中国や韓国との関係を改善できない。
またオリンピックによって半ば外に追いやられる東北経済は完全に破綻状態を向かえ、この中では日本で開催されるオリンピックへの関心は世界的に低いものとならざるを得ない事から、経済効果は思った程は伸びない。

いやむしろかつて最悪のオリンピックとなる可能性も否定できず、ここでは世界に希望を与えるものとはなり得ない。
更に、これから先オリンピックにすがって動いていく日本経済はオリンピックで先の消費を食い潰し、オリンピックが終わったと同時に経済的に行き詰まる事になるだろう。

だが、これで良いのだろう。
きっと何かが破綻する時はこうしたもので、人の思いなどその大きな歯車の前には
どうにもならないものなのだろう・・・。
太平洋戦争と同じで、これは日本の運命と思う以外に道は無い。

「チェリーブロッサム」だが、最後に・・・・。
東海村の原発事故、2007年の柏崎刈羽原発事故、それに福島原発事故は何だ、
あれは夢の中の出来事だったのか・・・・。

「日本はこれまでも、今も、そしてこれから先も放射能汚染の危険の中に有る」のではないか・・・・。








「懐かしき瞳」


その男はかつて私が友と信じた男だった。

彼は私の家が門徒となっている寺へ、関西で修行を終えた後婿入りしてきたのだが、当時年齢も近かった私達は共に絵や陶器が好きだった事も有ってすぐに仲良くなった。

そして一緒に陶器を焼く場所を作ったり、そこで教室なども開くようになって行ったが、彼がこちらへ来て2年目くらいだろうか、少しずつ元気が無くなり、やがていつしかガックリ肩を落としたような姿になって行った。

彼は美しいものが好きだった。

だがこんな田舎の末寺の事、彼が思う仏教の教義には遠く、それは田舎の慣習や門徒との付き合いの中で利用される方便のようなものしか過ぎず、彼はそうした在り様と自身の理想の前に崩れて行き、5年後には幼い2人の娘を残して行方不明になってしまった。

それから半年後、どこからかけて来ているのかは分からなかったが突然電話が有り、「もう絶対に戻らない」と話す彼に、体だけは大切にするようにと伝えた。

当時まだ幼かった2人の子供達は、私が寺へ行く度に洋菓子など持って行った事から「おじちゃん、おじちゃん」と慕ってくれたものだった。

あれからもう10年以上の歳月が流れ、2年ほど前に彼が亡くなった事を知った。

先日、とある葬儀に参列した時の事だった。

向うから高校生くらいの女の子達が近付いてきたかと思うと、彼女達は私を見て「おじちゃんだ、やっぱりおじちゃんだ」と嬉しそうに笑い、その2人の女の子の顔を見た瞬間、私は涙がこぼれそうになった。

何とそこには在りし日の友の瞳が私を見つめていたのであり、まるで「お久しぶりです、お元気でしたか」と彼が話しかけているような、それでいてこれまでの自分の在り様の不甲斐なさを全て見透かされているような、そんな気がして思わず私は下を向いてしまった。

彼の娘達はそれぞれにもう大学生と高校生になっていた。
そして彼女達は間違いなく我が友の瞳を受け継いでいた。
理想に燃え、妥協を許さず、人間としての汚さを嫌った彼の瞳が彼の娘達の中で生きていた。

あの日力なく肩を落とした男が持っていた美しい瞳は今、私より遥かに大きな生命力に満ち溢れ、まるでそれが当然のように振舞われ、目の前に現れたのだった。

「ああ、勝ったんだな、我が友は決して唯惨めに滅んだのではなかったんだな」
「良かったな、ありがとう」
挨拶をして去って行く男の娘達の後姿に、私は心の中で手を合わせた。

生きて行くと言う事は何と辛く悲しく、惨めで、そして美しく、有り難いものなのだろう。
でもおじちゃんは最後まで君達の顔をまともに見ることが出来なかった。

余りにも懐かしい男の瞳が当然のように目の前に現れた事に驚き、「眼前の現実が全て」とあらゆる事に膝を屈し、ヘラヘラと笑って誤魔化しながら生きてきた私は、友に合わせる顔が無かった・・・。






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old passion

Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

[このサイトは以下の分科通信欄の機能を包括しています]
「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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