「形による言葉と心情の醸成」

ここに非常に部下思いの上司がいて、職責は部長としようか、彼が部下達の日頃の働きに感謝している事を形に示そうとして居酒屋で宴会を設けたとした時、これに反対する部下は勿論存在せず、彼等は皆「有り難うございます」と言うだろう。

そして実際宴席では部下達が皆笑顔でそれを楽しみ部長に感謝し、二次会のカラオケでも大いに盛り上がるに違いない。

これはこれで良い事なのだが、「有り難うございます」と言っているからと言って、部下達が本当に感謝しているかは別の問題、笑顔で盛り上がっているその笑顔が本当の喜びで有るかどうかは別の問題になる。

酒の宴席が価値観を持っていたのは1980年代前半までの事である。

国民の多くが貧しく、酒を飲む事も我慢しなければならなかった時代の宴席は慰労としての価値が存在していた。

しかし現在は1980年より貧富の差が大きく縮小し、少なくとも働いている者で有れば酒を我慢したり、居酒屋の料理が珍しい訳でもない。

加えて飲酒運転に対する罰則の強化により、車で通勤している者にとっては、酒の宴会によって発生するタクシー代や、代行運転費用を考えるなら「迷惑」の領域に差し掛かるものとなる。

が、部長の誘いともなれば断る事も出来ず、「有り難うございます」と言い、不機嫌な顔も出来ないから笑顔で宴席を楽しむ様子を演出し、更には聞きたくも無い同僚の下手なカラオケに拍手し、遅くなって帰る事になる為、いかにも不機嫌な女房殿に「いや~、本当は行きたくなかったんだけど」などと言い訳の一つもしなければならなくなる。

これが現実ではないだろうか・・・。

人間は自分が費用を払ったり、或いは人をもてなしたら、その対象者が喜んでくれるものと思っているが、これは大きな勘違いであり、酒食の価値観は既に低下していて現在は「時間の価値観」「経済の価値観」である。

つまりは長い時間自身が時間的拘束を受けるストレスが、酒食と言う恩恵を遥かにしのぎ、気持ちや心は金銭に置き換えられる時代になっているが、これを嘆くに及ばず、遠く4000年の昔から宴席とはこうしたものだった。

それゆえ形を当てにしてはならず、同じ事は葬儀でも存在し、葬儀に参列している人が皆故人の死を悼んでいるとは限らず、状況的に仕方なく参列している者も存在する事を知らねばならない。

或いは恋人同士でも、彼女や彼氏が笑っていたとしても、その笑顔は心から嬉しくて出ている笑顔か、それとも自身がそれを望んでいるからそうしてくれているのかの区別は判断できない。

恐らく本人でもそこに明確な区別は無いだろう。

笑顔や感謝の気持ちですらこんなものである。

人間の話す言葉などもっと正体の無いものなのだが、自身が良い事をしていると思っている者の目は決してこうしたところに向く事は無く、自身の推定で皆が感謝していると思っているだけである。

人は嘆き悲しみ恨む事は多くとも、感謝したり喜ぶ事は少ないのが正しい姿である。

それゆえ感謝の言葉の多くがそう言わなければならない状況に圧されてそう言っているのが常であり、本当に笑顔になれる時など一日に一度でも有れば良い方だが、こちらも状況に圧されて笑顔になっているだけで、この点で言えば人間の笑顔の大部分は偽りである。

その本質が笑顔とは相対するところに有るからこそ、笑顔でいなくてはならなくなっているだけかも知れない。

人の表情や言葉と感情は常に一致しているとは限らない。

だが冒頭の宴席の話に戻るなら、こうして心では反対の事を思っていても、状況によって感謝したり笑顔になったりして、それ以後も会社に所属する限りその時見せた笑顔が偽りで有ったなどと発言する事は無く、部長が会社を定年退職した後も付き合いが続くかも知れず、この時は過去には面倒臭いだけだった宴席を有り難かったと心底思うようになっているかも知れない。

そして部長にしても途中で部下がどう思っていたかなど知る由もなく、「ああ、自分は良い部下に恵まれた」と思うかも知れない。

これが人間の感情と言葉、そして環境の関係である。

人間は心を外に晒して生きて行く事は出来ないが、時間経過と共に環境によってもたらされた言葉や表情が、やがて心情と一致する時も出てくるのであり、この反対も有る。

状況によって過去には一致していた心情と、言葉や表情が一致しない時も出てくる。

それゆえ人の言葉や表情は全て実にして虚なのであり、心情はその中で揺れ動き、いつも安定している事は無い。

言語や表情はこの世で最も信じてはならないものにして、この世で唯一信じられる「他」なのである。




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「認知拒否対象情報」

殺人事件に措ける死体遺棄場所、死体を隠した場所や凶器の投棄位置、逃走経路など、その犯行の当事者か若しくは当事者と事情を共有できる者でなければ知り得ない情報を知っている者は、犯行を犯した当事者かそれに順ずる者としてまず容疑がかけられる。

これらの情報は発生した犯行の最も重要な部分であり、尚且つその当事者か、犯行が行われた時間に犯行現場にいた者以外にそれを知る者が存在し得ない事から、警察の初期捜査の段階では物的証拠以上の証拠能力を有している。

そしてこのような知っていると自身の大きなリスクに繋がる情報の事を「管理対象情報」と言い、自身が厳しく管理しないと、その情報を認知しているだけで将来重大な危機に見舞われる為、事の次第が殺人事件のような重大なケースでなくても、自分がその情報を管理できる自信が無い場合、該当情報はそもそも認知する事を拒否する必要が出てくる。

これを「認知拒否対象情報」と言う。

認知拒否対象情報は基本的に社会や政治的混乱、治安の悪化によって増加してくるが、近年個人同士の通信がインターネットによってランダムに平易になっている社会では、政治的混乱や治安の悪化状況以上に急激に知っていると不利益を被る情報が増大して来ている。

オレオレ詐欺、投資関連詐欺、結婚詐欺にデート商法、不動産の故意に不利益を与える取り引き、インサイダー取引に措ける他社マイナー情報など、その当場は一見大きな利益やチャンスに見える情報が、後に大きな禍をもたらすケースは全てこの「認知拒否対象情報」に相当するが、それ以上に気を付けなければならない情報は個人のプライベート情報となっている。

ここまで毎日女が殺され、夫が妻と愛人によって殺される、或いはストーカーによって殺害される事件が頻発している社会ともなると、下手に異性の連絡先などを知っているだけで、その対象者に悪意が無く偶然殺されたとしても、関係者として事情を聴取されるぐらいの事が発生する確率は高くなる。

日頃から良いなと思っていた受け付けの女性にやっと携帯の電話番号を教えて貰い、それで初めて電話したまでは良かったが、その翌日同女性が都内のホテルで殺害された場合、たった一度前日に電話しただけで、着信履歴から捜査段階の初期には最重要参考人になる可能性があり、それで無くてもこうした無差別殺人が横行する世の中に有っては、例え捜査の結果疑いが晴れたとしても、どうして個人的な連絡先を知っているのかと言う事実の発覚に伴う民事上、つまりは夫婦間ならば不貞の嫌疑が発生する可能性が有る。

この意味で言えば例えば既婚男性に取っては若い、或いはそうでは無い年齢を問わず関係の無い女の情報は常にリスクと背中合わせと言う事になり、これは既婚女性が夫以外の男性の情報を所有しているケースも同じである。

それゆえここでは異性を対象にしたが、世の中がおかしくなってきていて、その中で心を病んだ者が多くなっている現実は、基本的には自身がどうしても必要とする情報以外の個人情報は、男女問わず所有しない注意が必要になってくる。

これが「情報開示拒否」と言うリスクに対する先守防衛措置となる。

つまり今後関係がなさそうな人の情報、特に電話番号や住所などは、例え相手が教えると言ってもこれを拒否するセキュリティが必要な時代なのであり、この他にも明確に対象者そのものがリスクを抱えている場合や、男性に取っての女性、女性に取っての男性の連絡先の認知は勤務先を限度に留めておく注意力が求められる。

情報の共有はリスクの共有でも有り、この点では明日自身がリスクに遭遇した場合、自身の情報を知る者にはその情報の重要性に比例した嫌疑がかかり、こうした病んだ社会の中に有ってはいつ自分もリスクに遭遇するか、また自身が情報を共有している者がリスクに遭遇するか予想が付かず、その確率は年々増加している。

そしてこうした意味からもう一歩発展した考え方をするなら、現代社会のように明日歩いていて通り魔に殺される可能性の完全否定が出来ない社会に措いては、溢れる情報の80%が「認知拒否対象情報」か、それに準ずる情報になり、相手が情報を開示しようとすればするほどその情報は「情報開示拒否」事案の可能性が高まるのである。

多分古代にもこうした事を考えた人はいたのだろう。

「君子危うきに近寄らず」とはまさにこうした事を言い、現代社会ではもっぱら「君子、危うき情報に近付かず」と言う事になろうか・・・。

情報や知識がリスクになるかリターンになるかの分岐点は個人の事情によって分岐する。

従って個人が色んな事情を抱えている場合の情報は大部分がリスクになって行き、元々リターンの情報は数が少ない事から、リターン情報の中に在る者はリスク情報には近付かず、リターン情報と経済、権力構造は一致する為、ここに情報を巡っても階層社会が出現するが、こうした構造は基本的に最も初期の政治形態である「原始共産主義」「村社会」から始まって同じである。

所得税で国家が運営されている状態、言わば生産で国家が運営されている状態では情報や知識はリターンになるが、日本のように既に消費税型社会、マイナスを補填する為の運営になっている国家では殆どの個人が事情を抱える事になり、ゆえに情報や知識がリスクの中を彷徨う事になる。

悲しい事だが大部分の情報がリスクか、結果リスクにしかならず、積極的に開示される情報は最もリスクが高い情報と言えるのである。

積極的に開示される情報は開示する側に利が存在するから開示され、こちらに利が発生する情報は常にこちら側には閉ざされているのが正しい姿なのである。

鼻の下を伸ばして若い女性の携帯電話番号やメールアドレスを聞き出そうとしている殿方、若い女はそれだけでリスクだと言う事を覚悟した方が良いかも知れない。

また危ない男、色男は魅力的に見えるものゆえ憧れる女性も多いかと思うが、そんな男の連絡先を知っているだけで、いつ自分も危険に巻き込まれるかも知れない。

男女とも寄り道せずにさっさと家に帰る事が、お互いの関係を長続きさせ、相互にリスクを回避する最も基本的な心構えと言えるのではないだろうか・・・・。




「災害に措ける等価性」

国債の発行に関する古典理論でも出てくる「等価原理」だが、この原理は元々熱力学での絶対性から考えられたもので、我々が存在する宇宙もこうした基本原理から成り立っていると考えられている。

いやそもそも宇宙の基本原理だからこそ、熱力学や経済理論でも同じ傾向を示すのかも知れない。

人間の文明は物質と生物、正確に言うなら無機質と有機質を決定的な区別を持って考えるが、運動の原理が異なるだけで有って、その本質は同じものである。

我々人間は生きている事と死んだ状態を区別するが、生きている状態と言うのは物質や有機質が集中している状態で有り、その運動に関しては捕食も含めて一つの運動形態に過ぎず、自発的に動いているように考えるかも知れないが、広義では環境や状況によって運動をしていると言える。

この点で人間が死ぬと日本では火葬して熱エネルギーと煤煙、灰などに集中は分散するが、全てのエネルギーと残った物質の合計は生きていた状態の総エネルギーに等しい。
つまり地球規模、宇宙規模で考えるなら人間は生きていても死んでいてもエネルギー総量は変わらず、これが変化しているように見えるのは、時間経過によるエネルギーの分散や次の集合変化、変質と移動がそう見えているに過ぎず、全てのエネルギー総量は変化していない。

また運動形態も、火葬された遺体の灰が風に漂って動くその原理と、人間が理由を持って移動する原理は「粗等しい」と言える。

我々が移動する原理は基本的には生活する為、生きて行くためのものであるとするなら、その生きて行くための環境、時間経過に措ける状況によるもので有り、広義では環境や状況によって動いていると言え、この運動と風に舞う灰の運動原理の間には明確な差異が無い。

いやそんな事は無い、人間は自発的に動いていると言うかも知れないが、我々が動く時、細かく言えば心臓が動いている原理はその個体生物の意思で動いているのではなく、本質的には運動原理の存在意義は分かっていない。

何故生きているかに理由はなく、我々が意識する自発行動とはその人間がそう思っていると言う事に過ぎない。
それゆえ実際の世界、宇宙はこうして人間が普段は分離して考えている事柄が渾然一体になっている事に気が付かない。

自然現象、気象に措いてもエネルギーの等価原理の中に有って、地球的規模ではエネルギー総量は変わらないが、それがどこに出てくるかは混沌の中に有り、それは時間経過と共に変化し、全く同じものは二度と再び現れない。

昨年末から主に日本海で深海魚が定置網にかかったり、やはり同じく深海生物の大王イカが捕獲された報告が出ているが、山口県萩市では2014年2月17日から20日までに9匹の「サケガシラ」と言う深海魚が捕獲されている。

島根県松江市、鳥取県、石川県、福井県、新潟県沖、佐渡島、秋田県沖、そして今回の萩市の事例を考えるなら、これはもはや通常の状態を超えている。

地震ではないにしても、明確に何かが海底で起こっている事を考えなければならない時期に来ている。
等価原理は自然事象とその兆候現象でも同じ傾向が有り、こうして異常な現象が発生する場合、大きな地震が来なくてもそれに匹敵するエネルギーの変質が起こって来ると言う事である。

人間はその被害程度を金銭的換算で表すが、何らかの異常兆候は金銭換算上同じ損失となるものが発生してくる。
つまり大きな地震が発生しなかったとしても、それと同じ被害金額を被る可能性のあるものが近付いている事を示していて、この点ではその被害が地震で有るか否かには関係が無い。

だが全ての混沌、カオスはフラクタル性を持っている事から、自然現象の異常と災害の関係式に措いては、全く同じものは無くても、その変化は前の傾向に近似値を持つ。
この事から科学的根拠を類推できなくても、古来からそこに因果関係を見てきた人間の伝承と、実際の災害発生の因果律は全く無関係とは言い切れないものなのである。

2007年に発生した能登半島地震、それに追随して発生した中越沖地震、この少し前から日本海側ではいろんな異常が発生していたが、実際に地震が発生した後も日本海側の異常現象は続いていて、そして太平洋側の日本海溝で大きな地震が発生した。

日本海側の特定の地域で異常現象が発生している場合は、その地域を震源とする地震発生の確率が高いが、こうして日本海側全体で長期に続く異常現象は太平洋側の大きな地震発生の確率が高く、また東南アジアで大きな地震や火山の噴火が始まって5年以内に、日本で大きな地震が発生する因果関係も薄い確率で存在する。

日本は先の日本海溝地震で何かが終わったような、何かが去って行ったような気になっているかも知れないが、自然現象に終わりは無く、それは日々少しずつ変化しながらも必ず次が用意されているものなのである。

深海魚が異常に多く捕獲される事案をして「そのようなものは迷信だ」と言う事は容易いが、この宇宙で全く独立した存在と言うものが有り得ない様に、実際に発生してくる異常現象は「何か」を指し示しているのであり、ここで古来より言い伝えられてきた事を最優先に警戒する事は決して合理性を排したものとは言えない。

異常現象と災害の質は人間の意識の中でしか存在しない区分であり、本来発生する異常がもたらす未来の変化を人間が利することが出来ないものを災害と呼び、それによって利するものを恩恵と呼ぶが、この両者は同じものである。
しかも発生する異常に見合った未来の変化は何が起こっても等価であり、ここで経済を至上と考えるなら、この経済が最も大きな打撃に感じられ、尚、経済が疲弊している時はその災害の代償はとてつもなく大きなものとなる。

関東の地理的、歴史的周期は400年、200年、77年だが、こうした周期はどの瞬間にも当てはまり乍、どの瞬間にも全く一致することは無い。
それゆえ周期による未来予想はいつも外れ乍にして、全く外れる事も無い。

因果律は存在していない事と決定的に違い乍、まったく同じものなのである。




「消費税マインドコントロール」



【MAD】ミレニアムゴジラシリーズ 「We're All To Blame」・・・・・・

デフレーションを通貨供給量だけで見ていると正確な理解には遠い。
需要と供給と言うバランスは通貨と物品相互が同じ概念を持っている。

従って例えば消費税増税前だからと言って、2014年4月から消費税が増税された後に買うより安く物が買える、購入予定品目が安くなっているとは限らない。

消費税増税と言う消費者マインドを下げる要因は、本来長期的経済活動の面から見れば不利な展開になるが、この増税前には税金の安い間に物を買っておこうと言う消費者心理が働き、こうした消費者に対して消費税導入直後の時代のメーカーは対応に戸惑ったが、幾度か増税を繰り返す中で消費税増税に伴う駆け込み需要を一つの商機と考えるようになってきた。

そして消費税が増税になる前の需要を当てにするようになってきたのだが、こうした需要は基本的に未来の需要の先食いになる事から、良識有る生産者は将来の売り上げを確保しようと無理をしない展開を心がける事になる。

しかし需要が縮小状態に有って、生産が飽和していると、先の事は考えずに今販売しておかないと自身の良識が他者の利に繋がる事から、ここに前後の見境の無い販売合戦が始まり、こうした商戦に煽られた消費者は切迫観念から、今消費しなければ損をすると言う感覚に陥ってしまう。

消費税増税を使った大規模な消費者に対するマインドコントロールにも似たりだが、この状況では僅かな期間だが需要が供給を上回り、実際には商品物品の価格は上昇、物によっては高騰している状態になっていて、我々は5%の消費税が4月には8%になる事から、今買えば増税分の3%を免れた事のように錯誤してしまうが、物によっては高い物を買っている場合も出てくるのである。

現実には短期に集中する需要を見越して生産者は物を揃え、しかも消費税増税前と言う政府が与えてくれた利点だけで物が売れる状態は、全く値引きが無くても消費者には割安感が有り、刹那的では有るが販売する側としては一つの商機、利益を上げるチャンスとなり、需要が供給を追い越した状態は消費者よりもそれを提供する側が有利な立場にある。

それゆえ4月を目前に控えた現在、消費者は増税を隠れ蓑にした販売側に対して不利な状態、或いは気が付かない間に高い買い物をしている可能性が高いのである。

消費税増税前の駆け込み需要が終わると、一転今度は全く物が売れない状態になり、例えばマンションなどは今後安倍政権が掲げる経済政策の失敗によって、現在の70%ほどにまで価格が下落する恐れが有り、その他自動車なども消費税増税後は販売台数が減少し、これによって値引きはできなくても下取り車が有る場合、ここに値引き価格を添加して実質値引きされた価格で販売されるケースも出てくる。

物の価値はそれを必要とする人間が多くなると価値が高くなり、それを必要とする人間が少ないと下落する。
今物を求める人間が多い状態は物の価値が上がっている状態で、しかもこれは政府の増税と言う、後に経済マインドを下げる要因によって発生している。

4月からは確実に経済が落ち込むのである。

この事を考えるなら、わざわざ忙しそうにして売れて売れて困っていますと言うメーカーや販売会社に群がり、値引き幅の少ない物を買うよりは、消費マインドが下がって売れなくて困っている状態のメーカーや販売会社から物を買えば、場合によっては消費税ぐらいではない節約が出来る訳である。

消費税は今後段階を追って上げられて行く方向に有り、今年の11月には来年の消費税増税の判断が為されるだろうが、一般消費者や中小企業を苦しめる増税は、駆け込み需要と言う大企業に取っては有利な展開が存在する為に、大企業はおしなべて消費税増税は歓迎すると言う側面を持つ。

しかしこれは本質的には需要ではなく「反動」の一種であり、こうした反動のマイナス面は良い方向の反動の数倍厳しい状況を後にもたらす。
貧しい者が祭りで大盤振る舞いし、明日から食べる米がなくなるにも等しい在り様で、少子高齢化の日本社会では需要は急激な右肩下がりになっている。

若い世代は結婚したり子供を育てたり、或いは家を新築、マンションを購入する、または大型家電を購入するなどして蓄財と生活で大きな消費をするが、高齢社会ではこれらの消費が既に終わっていて大型消費が存在しない。
加えてこうした高齢者の年金や医療費などの社会保障費用が増加し、実に日本人の所得に占める税負担率は40%を越えてしまっている。

この状態では少ない若い世代が夢を描けず、結果として介護と言う形態を含めるなら、裕福な高齢者のおこぼれに与って生活する者が増加、今や日本人の半分が政府支出金で食べている状態と言っても過言ではなく、あらゆる物の需要低下は既に限界を通り過ぎているからこそ、増税前の駆け込み需要にすがるメーカーや販売会社の姿が在る。

この意味でデフレーションの脱却など夢のまた夢、安倍政権の打ち出した祭り経済政策は僅か半年で終焉を迎えた。
輸出黒字は輸入超過で簡単に相殺されただけに留まらず赤字になり、国民の平均賃金も改善どころか下落した。
つまりは労働力の超過であると言う事で有り、これが意味するところは需要の下落が政府が印刷する紙幣の速度を簡単に追い越していると言う事である。

日本と言う一つの国家政策だけで日本経済は回復しない。
むしろ日本経済は外的要因によって簡単に国内政策など吹っ飛ぶ状態に有り、少子高齢化対策と地方も含めた公務員数の削減、議員代議士の削減、年金、医療制度改革を避けた政策には絶望しか道が残されていない。

安倍政権の経済政策は初めから全てが詐欺だったが、ついにそれが露呈してきた。
民主党野田政権時の消費税増税法案成立の付帯事項、「時の経済状況を鑑みて時期を決定する」と言う部分を偽り、そのように見せかけた安倍政権にせめても恥ずかしいと言う気持ちが有るなら、4月からの消費税増税は撤回すべきだろう。

そして民衆は消費税増税前の駆け込み需要と言うマインドコントロールに騙されてはいけない。
消費税増税を山にして、この駆け込み需要で利益を出し、次の増税と言う山まで何とかしのぐ形の経済、或いは企業の売り上げ目的の税制優遇措置を使った経済の在り様を許してはならない。

この形態は良い言葉で言えば「扇動型経済」、悪く言えば政府と経済界が税制で癒着した「詐欺経済」で有り、結果はみんなして海に飛び込むネズミに似たりである。


「情報は誰のものか」

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       1989 5 3  Old passion

人間のコミュニケーションは情報の交換である。

例えば露店でたこ焼きを買う時、私達は自身の容姿と声、それに目の動きなどの動作、なまりも含まれる言葉の種類などの情報を相手に公開し、その様子からこれは金が貰えそうだと言う露天商の判断が行われて契約が成立するが、ここでの契約と情報の範囲はたこ焼きを買う事と代金を貰うと言う相互に単一の目的しかない。

よって我々も露天商も相手に対してそれ以上の情報収集の必要が無い事から、たこ焼きを買って代金を払った直後に情報の関係は清算される。
しかしどうだろうか、日々我々の元へ送られてくるダイレクトメールや保険勧誘の電話などが、どうして自分の住所などの情報を知り得るのか疑問に思った事は無いだろうか・・・。

この仕組みは簡単な事で、例を挙げれば日本生命で保険に加入するとベネッセからパンフレットが届き、東京海上日動火災保険で自動車保険に加入すると、オリックス系から生命保険の勧誘が発生すると言った具合で自身の情報が他者にも利用されているからである。

勿論保険加入時に保険会社は情報は契約意外一切使わないと言うが、これが使われたかどうかを立証する事は難しく、この辺は全てに措いて不透明になっている。

また現在のように情報主導型の経済では品質よりも情報を持つ方が利益率は高く、従って企業は生産コスト削減から自社生産を海外の安い労働力に頼り、顧客を見つける電話アポイントもアポイント専門会社に委託、商品説明も外部会社に委託し、契約まで契約専門会社に委託する形式になりつつあり、この点で言うなら経済の全ての比率が情報と言う時代になってきている。

為に情報を提供する側は一社に提供しているつもりでも、それが外部委託会社に出された途端その他の情報と同じ事になってしまい、個人が保険契約をする場合でもこちらは個人のつもりでも、その情報は企業にとってはその他多くの情報の一つでしかなく、ここに情報を扱う慎重性は個人と企業では問題にならない差が生じている。

振り返って冒頭のたこ焼きを買う場面はどうだろうか。

ここではたこ焼きを買う為に開示される情報は必要最低限だが、これをネットで買うとなったら大変な事になる。
メールアドレスは勿論、ネットバンキングの口座名に番号、送付先住所や電話番号などあらゆる情報を提供しなければ手に入らないが、その情報を管理する側はその他多くの情報の一つである。

いずれそうした情報が外部へ露出する確率はほぼ100%と考えて良い。

ネット社会へ参入した時点で自分は丸裸になっていると考えた方が良く、こうした中で一切後ろめたい事の無い人間は死体の状態以外有り得ない事になる。

では一体どうして自分の情報を守れば良いかと言うと、露店でたこ焼きを買う事を思えば対策は簡単である。
自分が動けば良いので有って、そこを動かずに時間をかけずに済まそうとするからネット検索を使い、そこから伸びた情報がnode(情報の端末、分岐点)に引っかかるので有る。

つまりは自分で出かけて買いに行けば、必要以外の情報が漏れず、またこれが出来なくても用の無いものを検索しないと言う事でも情報の散逸は防げる。

そして現代のようにトヨタのプリウスやホンダのヴィッツですら、何百万台と言うリコールを出す社会を鑑みるなら、どの企業も情報に追われて生産品の質が下落している事は明白であり、これはいつか必ず情報不安、情報の信用不安が発生し、やがては以前のような品質で勝負をする企業が見直されてくる事は必定、いや既に初めからその兆候が有ったからこそ、人々の情報はローカルな情報に向かうのである。

政府が特定秘密保護法案を成立させた背景には、現在の日本国内の情報管理制度が無秩序に近い状態だからとも言える。
しかしこうして政府が法案を作り罰則を作る事で情報の漏洩が止まるかと言えば、それは不可能であり、ここでは人に聞こえないように情報は漏洩される

秘密はそれを知る者の数の少なさに比例して保持率の高さがある。
しかし一国の政府ともなればその数は尋常ではなくなり、当然管理する職員は個人であり、その個人に取ってはやはり多くの情報の一つにしか過ぎない。

どんなに厳しい管理体制でもこうしたネット社会では完全な秘密保持は不可能である。
加えてこうした情報を権力で抑圧した場合、その延長線上にはプロパガンダが有る。

特定の情報を放出し、特定の情報を秘密にする事は大衆の判断を特定の道へと導く操作に同じで有り、これを始めて行ったナチスドイツのヒトラーのラジオ、新聞操作が結果としてドイツ国民を如何なる禍に導いたかを考えれば分かる。

ネットと言う、誰もがその世界の中では丸裸になる確率を持つ媒体で行うプロパガンダは、情報そのものの見かけ上の公正さを奪い、やがてそうした情報に逆らう事は無くても、下が腐って情報の全てが信頼を失う確率が高い。

ネット社会の情報は基本的に相互交換情報である。

従って情報を探る者は自身の情報をも晒していて、殆どの場合自身が受ける情報より、こちらが探っているはずの相手が受ける情報の方が多くなっていて、これは検索と言う一見何の害のもなさそうなものに措いても同じである。

どこかのnode(分岐点)にキーワードが引っかかっただけで簡単に糸を手繰り寄せることが出来てしまう。

例え天地人に恥じぬ暮らしをしていたとしても貶められ、友は信じられてもその友の友は信じられず、友の友の繋がりがネットの基本で有るなら、この社会で信じるに足る者はただ一人して存在できない。

それゆえネット社会の安全とは、できるだけネット社会から離れたところを意味し、その基本は「自分が動く」と言う事になる訳である。





「重い扉」

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        2014 2 4  Old passion

今から6年前、2014年2月5日・・・。
現代クラッシック界で一時代を築いた全聾(ぜんろう・聴力を全く失った状態)の作曲家「佐村河内 守」(さむらごうち・まもる・50歳)氏に付いて、その作曲過程はおろか全聾と言う申告までも「新垣 隆」(にいがき・たかし・43歳)講師の記者会見により否定、虚構である事があばかれた。

これに対してテレビ朝日系列の昼のニュース番組「ワイド・スクランブル」中で、作詞家の「なかにし・礼」(なかにし・れい・本名中西禮三・なかにし・れいぞう)氏が作品を含めて全否定していたが、なかにし氏の精神性は非常に浅いものと言わざるを得ない。

元々「服部良一」氏(はっとり・りょういち・1907年-1993年・作曲家・故人)が言っていたように、戦後の作曲家、作詞家は海外の音楽情報に接する機会が有るだけでヒット曲を飛ばす事が出来た。

そこに有るものは人が知らない海外の音楽を、人より先に知る環境に有っただけだと言う話に鑑みるなら、なかにし氏はまさにその流れの中にあり、幼少期はともかく、さしたる苦労や失敗も無く人生を送った感が有る。

その氏が佐村河内氏の作品までも、全く価値が無いと発言した事は、同氏が作品の精神性を問う中で、作品とは何かと言う深い考えを欠いているように思う。
即ち両親が望まぬ子は価値が無いのかこれ如何、作られた作品に精神性を問うなら「作品は誰の物か」を考える必要が有る。

私は常々心がけている事が有り、それは「作られた物に人間性を問わず、自身の人間性をして物を売らず」と言う事だった。
物を作る者として、その作られた物の良し悪しが全てであり、そこで自身の人間性や言動で売れた物こそ、物としての価値が無いと思っている。

私は私と言う人を売っているのではなく、物を売っているゆえ、私など板切れでもゴミでも構わない、作られた物で評価される事を望む。
従って例えどんな悪いいきさつが有っても、その楽曲が素晴らしければ私はその楽曲を評価するが、こうした事は順風満帆で生涯を送ってきたなかにし氏くらいでは理解しようも無いだろう・・・・。

さて、この傲慢な文章だが、何かおかしいとは思わないだろうか・・・。

実は私は佐村河内氏の楽曲など聴いたことも無ければ会った事も無く、なかにし氏にも会った事はない。
そして恐らくなかにし氏も佐村河内氏や新垣講師に会った事は無いだろうし、私の事も知らないだろう。

でもこうして文章にしてみると私と佐村河内氏、新垣講師、なかにし氏が簡単に繋がって、しかも私は自身が悪くないように書き、なかにし氏を批判している訳であり、聴いた事も無い楽曲を称賛してもいる訳である。

この文章を読んだ人々はなかにし氏擁護論と私に賛同論に分かれ、広がっていく。
これがインターネットの「負」の部分なのであり、今日はこのインターネットの負の部分について書いてみようと思う。

なかにし氏は作詞家、小説家であり、また佐村河内氏や新垣氏に会ったことも無く、本来はコメンテーターなど本業でもないのにテレビで安易な発言をし、佐村河内氏のみならず新垣氏まで切って棄てたが、なかにし氏は彼等の一体何を知っていて発言しているかと言えば、伝え聞いた報道以外何も知らない。

そしてその何も知らないなかにし氏を、これまたなかにし氏の何を知っているかと言えば何も知らない私が批判し、皆がそれぞれ本業ではないところで、全く知りもしない人の事を断罪しているのである。
考えて見れば馬鹿々々しい話だが、インターネットの情報とはこうした情報が99%を占め、本当に必要な情報は1%もないものなのである。

私もなかにし氏も規模は違うが一つのリンクであり、このリンクは「node」(情報センサーの先端)になっていて、nodeはそれぞれにリンクを持ち、情報はこうした相互に入り乱れた周辺に行くほど濃度の薄い束になっていて、これらがまた全く繋がっていないようで、情報によって瞬時に繋がる即時連動性媒体となっている。

この事から例えば一つの菓子メーカーが菓子の情報を発信しようと考えた時、実際にはその何万倍もの菓子以外の情報の束に囲まれ、ここではその菓子メーカーは本業以外の所でも終始厳しい監視をされているような形態、本来個人や一企業に帰結すべき情報が露出した状態になる。

一方情報を検索する側は与えられた情報の精度を認識する時、その情報の支持者の多さをまず基準とする事から、その情報の支持者のリンクを見る事になり、ここに一つの菓子の情報から始まって世界情勢にまで繋がる情報の海の中へ入って行く。

そしてこうして一度情報の中に入って行った者は情報の海に取り込まれ、今度は他者の利害によって自身が検索される事になる。

多くの企業のリンクや問い合わせはもはや顧客獲得ではなく、自身が顧客とされる情報とされ、この中では顧客よりも他社販売商品情報や、それに関する接触リンク数が圧倒的に多い状態になるのであり、ここではより小さな情報、より劣化した情報の方が信憑性を持つ事になっていく。

世界的に自身の意思が薄くなり、他者の意見に便乗して責任を回避する傾向の原因は、こうしたネット社会が持つ仕組みに起因していて、ゆえに企業のネット広告は徐々に当たり障りの無いものか、それで無ければ一つの商品に特化した、スピードを持った広告なっていくが、これでも情報の海の恐さ、いつ自社が攻撃対象になるか予想が付かない。

ここに情報にトルクを付けることが考えられてくる訳で、情報は開示しながら入ってくるものを制限する、所謂非利便性をあえて設け、必要以外の情報を整理する考えが出てくるのである。

私は昔、自身が事業を始めた頃、4畳半の仕事場で、しかも玄関の戸が古くて開きにくく、これを人から指摘された事が有ったが、修さなかったのは金が無い事の他にもう一つ理由が有った。

即ち大した用事の無い者はこの段階で諦めて帰るのである。
本当に自分に用事のある者は戸を蹴破ってでも入って来るが、ちょっとした押し売りなどは戸が開きにくいだけでも帰っていく。

これは良いなと思っていたのである。

今やブログでも表紙代わりのブログと、メインページを設ける形式が現れるを見るに付け、これからは情報に如何にトルクを付けるか、また自身がこうして全く利害関係ない佐村河内氏の事に付いて何も思わず、意見を言わない合理性を忘れない事の大切さを思うのである。




「SEO」



Kelly Clarkson - Stronger (What Doesn't Kill You)・・・・・・・

全く未知のものの中を一度でも通ると、そこの環境はその分だけ変化し緩くなり、それが繰り返されると更に環境は「緩み」と言う変化を起こし予測不能の未来をもたらすが、行き着く先は一番最初に存在した全くの未知、混沌、無、途中で派生した法則の消失である。

ネット社会に突入した21世紀に措いては、本来企業が生産する製品の質やサービスと共に、溢れて埋もれる情報の中で、一般大衆にいかにして自社の製品を知らせるかと言う事が重要なポイントになってくる。

つまり情報の海の中で自分の位置を知らせる必要が出てくるのだが、これは本来善意の者が全て有れば道が出来ていく過程に同じである。

即ち多くの者が通る所は大きな道になり、誰も通らなくなると道は草木に圧されて消失する事になるが、ここに位置だけ知らせれば要が足りるとするなら、道を歩かずに道を歩いたように見せかける事でも成立し、仮想の道を創り、更にその中で出来てくる法則性を使って道を創る作業を「SEO」(検索エンジン最適化)と言う。

ネット社会の道は実際に物理的に存在する道の上を走りながら、その実正確に実存する道とは重なっていない。

皆が過大申告する結果、申告の内容が本来善性のものでも信頼を失った状態で漂い、この中で善性の有る者は節操を持つことから逆に埋もれ、不正な者、非善性に有る者ほど自己宣伝に務める事から、情報の質は低下し、最後は実際に生産しているか否かの確認、工場や会社存在の確認作業と言う、最も初期の企業信頼に原因が帰結するのである。

この点では株式相場やテレビなどのマスコミ関係も同じ法則の中に有り、こうした大原則の中で目先の傾向を法則と考えるのが株式相場の「デリバティブ」であり、企業で言えば工場に相当する実際の取材と検証を怠ったマスコミの在り様は、「浮き草」状態になる事は必然だった。

どんなものでも何度もやっていれば、そこに有る程度の傾向が見えてくるようになるが、これが「環境の緩み」であり、この緩みはそれ自身によって先に混沌を開いていく。

従ってこうした傾向を法則と考えても、その法則は長くは続かず瞬間の未来で変化が必定のものである。

では何故デリバティブが一定の安定や定着を示し、「検索エンジン最適化」が不安定なのかと言うと、時間経過が一番大きな要因である。

即ちデリバティブはその当初、知る者が少なく知らない者が多い状態で、この中での利益と損益は極端だったが、現在のそれは一定の混沌をくぐり抜け、初期の何も無い状態に近付いている為である。

だから利益、損益の幅も小さく、これは結果として本来の株取り引きの大きな流れのすぐ近くを走っているからだが、「検索エンジン最適化」はこうしたデリバティブよりも更に道を外れたところを走っていて、しかもSEO(検索エンジン最適化)対策と、これを設定する側は常に追いかける側と逃げる側に分かれて、言い換えれば検索サイトはどうしたら正確な企業の情報をトップに持って来れるか迷い、そこをどうしたら楽をして検索トップになれるかを考える者が追いかけている状態に有る。

こうした状況の中では、例えば企業が良い製品を製造したとしても検索サイトの下位に有ったとしたら、それは深海に沈んだ状態になり、誰も知らない事になってしまう。

それゆえ企業は自身の製品を何とかして海の上に持って行き、人の目に曝されるところまで浮かんで行かなければならないが、これには膨大な時間と経費がかかる事から、沈んでいる状態から引き上げてくれる者の力を借りようと考える。

ここから沈んだ者を引き上げてくれる専門家が生じ始め、企業は効率性を考えると専門家に依頼せざるを得ないが、この努力は本来それぞれの企業が信頼と実績で築かねばならないものを、仮想世界で築いたように見せているだけである。

インターネットの構造は「スケールフリー」である事から、瞬時に一箇所に集中し、それが短時間で全く別の空間に移動し、その引っかかった一箇所に集中していく性質を持つが、この構造の中では常に一箇所が集中を独占する事は出来ず、非常に短い時間で独占状態は次に移行していく。

従って常に検索サイトの上位を占める条件は特殊性と、それを支えるアクセス数、リンク数になってくる。
この事からSEO事業会社は何等販売実績や製品を知らなくても検索サイトの上位掲載の傾向が分かれば良い事になる。

そこに製品の質やサービスの質は関係ない事から、ただリンクやアクセスを増やすだけを目的とし、これを利用してSEO対策事業を企業に販売するが、この根拠は全く不透明であり、例えばグーグルなどは以前はアクセス・リンク数を基準としていたが、最近は「最新」を重要視しているとも言われ、この意味ではSEO対策事業が一つの傾向を見出す頃には、検索サイトはそこから逃げようとして行く傾向に有る。

SEO事業会社が傾向を見出したと言う事は、その時点で検索サイト上位の価値が失われてきた事を意味し、言い換えれば現実に検索サイト上位に位置しなければならない企業と、そうではない企業が対等になってしまい、検索サイト上位の信頼が失われるからである。

そしてスケールフリーの持つ瞬時にして移動する構造と、こうした検索サイトの矛盾を考えるなら、SEOと言う概念が非常に短期的に変化していくネット社会の現実と相反する関係に有る事を意味する。
つまりはSEOは全く意味が無いと言う事である。

余談だがむかし、新しく赴任した銀行の支店長がたまたま私の知り合いだった事が有り、彼と話していたら行内に全くみすぼらしい身なりで、畑からすぐにやってきたような野良着姿の高齢婦人が入ってきて、彼女の姿を見た女性行員達は皆親しげに挨拶をして、私の知り合いの支店長までもが私との話を中断し、挨拶に行くと言う光景を目にした事が有った。

後に聞いた話だが、くだんの高齢婦人は毎月3万円ずつだが既に40年にも渡って一度も遅れることなく貯金を続けている人だと言う事だった。
そして知り合いの支店長の言う話では一度に数億円を預金する者と、例え一万円でも何十年にも渡ってそれが継続される者では、銀行に措ける信頼は後者の方が勝るとの事だった。

検索サイトトップになったからと言って物が売れるのではない。

確かな製品と顧客の信頼を裏切らないサービス、これこそがいつの時代も変わらない企業に措ける命題、地味ながら検索サイトすらも切り裂く究極の検索エンジンと言うものかも知れない。








「face bookのハザードモデル」



Inna - 10 Minutes・・・・・・


大きな山火事が鎮火するモデルは人工的消化活動の外に有る。

つまり山火事は自身で鎮火点を持っていて、そこへ達すると消火していくものなので有り、では何故鎮火していくかと言うメカニズムは分かっていないが、ここに1976年スーダンの「Nzara」で突然発生した感染症、エボラ出血熱の発生とそれが自然消滅したモデルを考えるなら、両者の関係に漠然とでは有るが一定の関係則を見ることが出来るかも知れない。

あらゆる生命、準生命、その生命が生んだシステムは拡大と繁殖によって消滅していくモデルを持ち、これは少なくとも地球上では物理学上の原理とも一致する。
山火事は火が山の頂上に向かう時は速度が速く、山を降りる火は足が遅くなる。
それゆえ全てのモデルがそうとは言い切れないが、山火事の頂点は山の頂点に一致する場合が多い。

同じようにエボラ出血熱では初めから決まった形のウィルスでは無く、無数の形状ウィルスが存在し、この事から一定まで感染繁殖した時、その初期の効力を失う傾向を持ったものと考えられ、これは繁殖し繊細になって行った為、変質速度が速すぎて感染生命体である人間の抗体変化の方が遥かに遅れ、その結果ちょうど円周上を一周した形になったウィルスが自滅したモデルが予想される。

ウィルスの増殖、滅亡は比較的良く知られたモデルでは有るが、この仕組みや原理の基本的な部分は分かっていないものの、その増殖速度と滅亡までの時間には一定の関係則が有り、急激に増殖するものの滅亡速度は速い。

先頃プリンストン大学の研究者である「John Cannarella」「Joshua Spehler」両氏によって発表されたSNSの滅亡論、所謂「Face book」(フェースブック)滅亡論は、その根拠を疫病とそれが収束していく過程をモデルにしていると言われているが、このモデルは他の社会システム理論でも解説が可能で有り、いずれはカードシステムやインターネット社会も同じ運命にある。

即ち拡大によって劣化したものを多く取り込み、その劣化に対抗する為に更なる劣化が生まれ、中が劣化だらけになって初期の利便性を失うからであり、カードを例に取るなら新規申込者は一定の収入が有れば簡単にカードを取得できたが、経済が山の頂上から転落を始めるとその初期の条件は変化し、一端劣化したものは復帰が難しい。

更に経済は元々波だから山があれば谷が有り、時間経過と共に谷の回数が増えて劣化した者がどんどん増え、そこで入会規定が厳しくなって新規入会が減少し、中身は劣化した不良債権と、優良なカード利用者とはカード決済を利用してない者を指す事になり、利益率は年々減少し使いにくいものとなって行き、やがて来る新しいサービスに駆逐される。

これはパソコン市場も同じで、一つの場所に座るなりして画面を見ながら操作する行為より遥かに機動力の有るスマートフォンの出現によって、パソコン市場が限られたものとなって来る中で、例えばブログサービスなどは広告収入が減少し、やがてサービスの打ち切りか、サービスの有料化が始まってくる傾向が現れ、ブログユーザーは一挙に減少する。

また生物には「自己範囲」と言うものが存在し、どんな生物も一定の距離まではそれが自分に利する事なら歓迎するが、この距離を過ぎるとあらゆることが利とはならず、負担となっていく。

つまり仲良くなっていく事は、より面倒な対応を増やす事になるのであり、この点ではSNSなどの比較的狭い範囲の親密な関係は、一定の発展を過ぎれば全てが負の材料となってしまい、こうした関係ばかりにコミュニケーションを依存していると、最後は漠然とした支配から抜け出せなくなり自覚症状の無い内に精神を病む。

その精神を病んだ者が多数を占める中、視覚的に表現するならモンスターやゾンビと化した者の中で、善良な者の存在を求めるなら規制や監視がどんどん強化され、それがface bookであればその大きな枠の中にまた小さな枠を作らなければならず、これによって初期のface bookの範囲や概念は失われる。

発展して行けば行くほど既に消失した面積が増え、内容が無くなり情報は劣化し、人々はまた新しいサービスを求めて彷徨うが、そこでまた新しいサービスが出てもやがてこれは同じ道を辿り乍堕ちて行き、いつしか人類は「情報の破裂」を起こす。

就寝時間を除く一日の5分の1の時間を、たわいも無いコミュニケーションと言う呪縛やゲームに費やしている社会では生産性の向上など望めず、隣にいながらスマートフォンで文字会話しているようでは、到底生身の男女の付き合いなど続くはずも無く、離婚の増加、非結婚希望者の増大は避けられない。

最後にコミュニケーションに付いては男女差が有り、男性のコミュニケーションは並列であり、女性のコミュニケーションは対面である。
即ち女性のコミュニケーション概念から来る友人は「共感」「相互批判しない関係」「支持出来る関係」「共通の目的」などであり、この中には緩くだが共通の敵を持つ者同士の「共感」が存在する。

簡単に言えば今の社会的傾向は女性的コミュニケーションの時代だと言う事であり、ここで言うところの男女の概念は社会的なものである。
現代社会の傾向が女性側に力関係が傾き、それに引っ張られる形で男性のコミュニケーションが女性化してきていると言うことなのかも知れない。

そして日本に付いて言えば、face bookの滅亡もさることながら、民族的滅亡状態に向かっている事も忘れてはならないところかも知れない・・・。





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Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

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「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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