「暫定飲料水」

1970年ぐらいの事だったろうか、当時小学4年生だった私は良くヤマメを釣りに行って、そのヤマメをバスの運転手が買ってくれたので、ここは一挙に大儲けしようと考え、学校の池の鯉を捕まえてさばこうとして教頭に見つかり失敗、ついでいつも女子から殴られっぱなしだった事から、仕返しも兼ねて級友達がたまにやっていたスカートめくりの効率を上げようと、釣り針の代わりに針金を大きな釣り針状にしたものに糸と竿をつけた「スカートまくり機」を開発、これが二階の窓からもスカートがまくれると言うのでチョッとしたヒット商品になった。

しかし悪事は長くは続かないもので、「俺が作ったとは絶対言うなよ」と言っていたにも拘らず、級友達の自白によってこうした諸悪の根源は私である事が発覚、生徒総会で目を三角にした女子達に糾弾された上に校長室にも呼ばれ、この年母親は先の池の鯉事件も含めバカ息子のおかげで3回も学校へ呼び出しを食らってしまい、私が被った代償もとても大きなものだった。

実際スカートめくり機は怪我をしないように、針金を二重に使って先に針金の切断面が行かないよう安全面での配慮も為され、何度もテストを繰り返した労作だったが、こうした話は一切聞き入れて貰えず、親からは今度学校で問題を起こしたら近所の木の橋の欄干に吊るしてやると言われていた。

そこで今度は暑い夏になると、家の前から余り水を流していて、その水を通る人が飲んで行く事が多かった事から、水一杯を5円で売ってやろうと考え、ダンボールにマジックインキで「水、5円」と書いてコップを置き、更に金を入れるための籠を置いていたところ、一番先に祖母にこれを発見されてしまい、「バカかお前は・・・」と拳骨(げんこつ)と共に一蹴されてしまった。

現在もそうだが私の家は古くから湧き水を使っていて、こうした湧き水は使い惜しみや出し惜しみをすると枯渇すると言う伝承が有り、それをコップ1杯5円で売るなど言語道断だった訳で、私が子供の頃は家には水道の蛇口が無く、いつも水は竹筒から豊富に流れ続けていた。

だから水に関して一番最初に訪れたカルチャーショックは水道の蛇口だった。

家ではケチな使い方をすると涸れるとされていた水が、学校では無駄な水は流してはいけない事になり、更には用が無かったら止めると言う事に対して、家と学校で水に対する整合性が取れなかったのである。

そして水に対する整合性で言えば初めてカイロを訪れた時、空港でコカコーラと水が同じ価格か、若しくは水の方が少し高いくらいで売られているのを見て結構な衝撃を受けたものだったが、砂漠の地で有るならこれまた然りかと思っていたら、やはりこうした時期から日本でも水がペットボトルで売られるようになり、今日では水と言えばペットボトルの水を指すようになってしまった事は、何とも言えない感慨がある。

水は資源と言うが、この言葉はどこかで傲慢に思える。
私が幼い頃見ていた流れ続ける水と私の関係は「共存」、しかも私の方がそこから恩恵を受ける共存だった。

流れ続ける水は地球の循環の最先端に有り、その流れはやがて辿り付く海へと繋がっていて、時々その循環から少しだけ私の方に水が流れていたような、そんな感じがする。

それゆえ私は止まった水を危なく感じる時が有り、特にペットボトルの水には限りない猜疑心が有る。
水は流れているとそこに細菌や微生物が発生しにくいが、たまり水にはすぐにボウフラが湧き、微生物が繁殖する。

これを科学的に殺菌処理する時は沸騰させ蒸発した水滴を集めると「蒸留水」になるが、これだと水の味がしない。

だが常温の水に殺菌剤を入れると、ここでは殺菌剤の味がして飲めず、一番良い方法は蒸留水ではなく煮沸水そのものをフィルターで濾過し密閉する方法になるが、これでもその密閉が解放、つまりはペットボトルの蓋を開けた瞬間から微生物の繁殖が始まるのである。

実は日本の水道水の基準は世界最高レベルに有る。
科学的処理基準では、通常に販売されているペットボトル水より遥かに高い安全基準が設けられているが、家庭でも水道が有り乍テーブルの上にはどこそこの天然水等が置かれ、これを見ると私は非常に不思議な気持ちになる。

ペットボトル水の安全基準は水道水から見るとザルのような基準で、しかもミネラル含有と謳われながらそのミネラル成分が表示されていない。

ミネラルは基本的には溶け出した鉱物などであり、この成分は千差万別の組み合わせが有り、場合によっては調味料や歯科治療に使われる金属と反応するものがある。
しかも水道料金を考えるならコップ1杯の水はただのようなものだが、その数千倍の価格を支払って安全基準の低いペットボトル水を飲むことの整合性が私には理解できない。


過去ペットボトル水の普及段階初期には輸入飲料水が流通し、「海外の飲料水」と言う特殊性、ある種のブランド意識が存在し、これを炊き付けたのはバブル経済であり、ここでは無駄な最高水準が「水」に対しても求められ、その後渇水気候が頻発してくるとペットボトル水は価格競争を始めて来るに至り、今日では災害用としての需要も出てきている。

しかしペットボトル水は基本的に「暫定水」である。
特別に高価な美味しい水、或いは渇水時の非常用、更には災害時の需要に適してはいるが、本来水の豊富な日本に有って、ボトル水を消費する事は「過度」であると思う。

せめて水くらい美味しいものを、或いは手軽だからと言って常にそれを使う事は「普通」と言う一番合理的な部分を蔑ろにするもので、使われるペットボトルだけ考えても資源を蹂躙する行為と言える。

国家が貧しくなったり、或いは気候変動や災害による非常事態が解消されたら「普通」に戻る事の大切さが日本人には欠けている。
水は地球を循環しているものであり、この中であらゆる生命が育まれ、そこに人間もまた命を繋いでいる。

完全な殺菌を行ったもの、または人間に都合の良い物は完全な状態を不完全なものにした状態と言え、水に対して安全を求めれば求める程、人間はトータルで弱くなって行き、「恐れ」が増えていくのである。

さて、春になりました。

これから秋まで天との契約を果たす為に頑張ろうかと思います。

暫しお別れです。お元気にてお過ごしください。









スポンサーサイト



「Never give up」

相対性理論が発表された時、この理論を理解できる者は世界で8人くらいしかいないと言われ、その8人の中に理論の発表者であるアインシュタインは入っていなかった。

彼は理論の構築者であり、計算などは知り合いの数学者に頼んでいた為である。

「小母方晴子」理研ユニットリーダーの論文は生物科学上の相対性理論に匹敵する。
現段階に措ける世界の生物科学、細胞学の方向を逆流させる程の発見であり、この発見によってこれまで他の研究者や企業、大学が研究していた成果は全て水泡に帰する事になると、そう考えるのも無理はない。

従って論文の手続きを突いて、あらゆる反証を起こす動きも出てくるが、新しい理論、それが従来の常識を覆すもので有れば有るほど周囲の理解は得られず、ここで大切な事は「包装」を綺麗にしなければならないと言う事である。

由緒ある珍しい骨董品の価値などは一般人には中々理解しにくく、為に箱書きや残された書、或いは作者名や印璽などで計らねばその価値が立証できない。
STAP細胞を正確に理解できる人間は今の世界に何人存在するだろうか、恐らく一人もおらず、小母方リーダーですらその現象が何故発生するのか解明できていないはずである。

それゆえ論文手続きの正確さによって、学会や社会が持つフレームに自身の研究を押し込める事で、或る程度出てくる反証を防御する事が大切だったが、この手続きを総合的にプロデュースする能力は研究とはまた別のものだと言う事である。

また世の中に一般的に知られている理論、或るいは数式などを文書解説する場合、その表現は個人による文書的特性が出にくく、ましてや英語力が高くない時、同一理論を英語表記した文章をコピー&ペーストしたとしても、これが著作権や論文を盗用した事になるか否かは難しい。

即ち研究論文の価値は研究の成果に有って、表現に価値が存在しない事から、余りにも一般的な理論、研究者内で知られている理論を解説表記した文章には元々著作権が存在しにくい部分が有る。
簡単に言えば微積分の解説を私が書いても、他の人が書いてもそう大きな変化が無く、微積分に関して私が著作権を主張しにくいと言う事である。

研究論文だからと言って全て自分の言葉で表現する事は不可能であり、ここでは研究本体に影響が無ければ他者の解説や研究事例を織り交ぜ、それが一般的なもので有れば特に引用した文章に引用先を表記する手間を省略しても良いように私は思う。
そうしないと唯でさへ膨大な情報表記が煩雑化し、写真などの掲載も本論に偽りが無ければより鮮明に写った過去の写真を掲載する事も考えなければ、そもそも論文化する意欲を失ってしまう。

素晴らしい抹茶碗は焼けたが、字が上手くなくて箱書きが出来ず、その箱書きが無ければ世の中が理解してくれないと言うのは大変非合理的な話になる。

新聞やテレビが動画サイトから情報を引用し、それで飯を食っている今日、政治家が平然と公約を破って世の中を欺いていながら笑っている今日、最先端の研究者の手続きの甘さを突いて、社会全体がこれを攻撃する事の正統性を私は見い出す事が出来ない。

むしろSTAP細胞と言う非常識に挑戦した小母方リーダーは、論文の在り様でも最先端を突いたかも知れないと言う思いすら有る。

事象に措ける因果と結果、因果律に100%はない。
刻々と変化する宇宙の中で同じ条件だから全く同じ結果が現れることは厳密には有り得ない。
我々が見る因果律の絶対性は一定の時期、一定の範囲で現れているものに過ぎない。

ゆえ事象の因果律は常に可能性であり、この可能性を一定の確率で出現させる事が出来るものをコントロールと言い、一定の確率で現れるその確率を発見する事を「発見」と言うのであり、この段階でそれをおぼろげながらにでも見ている者は発見者だけである。

冒頭のアインシュタインの相対性理論でも、その理論の一部が立証されたのは発表から100年近く経過してからのものが有り、地動説を支持し異端審問にかけられたガリレオの名誉がローマ法王庁によって復活されたのは、彼が没してから500年の後の事である。

STAP細胞は小さな発見ではない。
これまでの秩序を壊し、そこに新しい秩序を開く可能性の有る発見であり、この技術が確立されたなら、全人類に大きな恩恵をもたらす発見である。
だからそう簡単には人々に理解されないし、また実験の再現も困難が伴うかも知れない。

小母方リーダーはSTAP細胞と言う未来への希望の扉を少しだけ押し開けたのである。
未来に対して希望の扉を押し開けた日本の若者を、みんなして追い詰めてどうするつもりか・・・。

確かに脇が甘かった事は事実だが、同じ研究者なら大きな発見で有れば有る程、その発表を急ぎたい気持ちは充分理解できるはずであり、また今日まで自分達が行ってきた研究がSTAP細胞の発見によってすべて水泡に帰するわけではない。
どんな事象も単独で存在する事は叶わず、これまでの研究の中にも等しく可能性が潜んでいる。

日本の若者が信じた可能性であるなら、我々も信じてやろうではないか。
一度見つけたSTAP細胞が見えなくなったら、我々も一緒になって探してやろうではないか。
それが日本人と言うものであり、若い者に対する年長者の在り様では無いか・・・。

おそらく今頃小母方リーダーは意気消沈しているだろう。
日本全体が世界全体が自分を攻撃しているように思えているだろう。
だが、私はたった一人になってもこの若者が見た希望を信じよう。

どれだけ時間がかかっても、もう一度語学の堪能な通訳を頼み、そして自分の言葉で文章を書き直し、誰にも文句を言わさない資料を揃えて論文を完成させて欲しい。
その天の才を持つ者には苦難を乗り切る義務が有る。

私は金が無いから大した事は出来ないが、それでもいつか完璧な論文を完成させた時、良かったらラーメンの一杯もおごらせて貰おう・・・・。

だから今は耐えて、自分が見たもの、希望を決して諦めるな。







「3月11日に思う」



歩いて帰ろう/斉藤和義・・・・・

物質の発生と崩壊、また或る生命体の生成と崩壊、大系の集合と分散状況は、一般的に関数座標上の正比例線である直線をイメージし易いが、現実には全て曲線を描き、その形はマイナス側に現れる2乗反比例曲線がプラス座標系に移動したような形、釣鐘状を形成している。

したがってこの世界の事象は、初めと終わりが1の1乗より大きな数字の大きな乗数になり、そのピークは1の1乗より小さな数字の小さな乗数の進行となるが、人間はこうした乗数変化の概念を描きにくく、変化を直線でイメージする、或いは過去の一点で停止した状態、軸に対して平行線を描くと理想と現実が乖離する。

日本の人口動態はもはや平均で27・6144%の確率で65才以上の年齢層が人口比率を占め、地方の端末地域の人口動態は既に60%以上が70歳以上の人口で占められ、こうした高齢者扶養の為の介護、年金、医療、地域サービス費用は国と地方の予算の50%近くを占める。

更に地域起こしなども厳密には少子高齢化対策と考えるなら、こうした地方行政はバケツに入った水が右に傾いたか左に傾いたかで総量が変わらない、つまりは或る地域で地域起こしが成立したとしても、その分が他で減少する事から総体は変化せず、総体そのものが逆2乗反比例曲線で下落している。

2000年に入って地震に被災した地域、能登半島、新潟県中越、東北地方の経済は現実には地震が発生しなければ経済的には破綻状況に有った。

そしてその後も急激に少子高齢化が進み、過疎化は拍車がかかっていたはずである。
しかし、ここに地震が発生した事から、急激な過疎化と地震と言うマイナスの乗数要因が発生し、一時的にプラス換算が発生する。

これはどう言う意味かと言えば、例えば不倫関係を続けていた女性が男性の子供を身ごもった時、彼女はこの子供を堕胎するか否かで迷うが、そこへ大きな地震が来て非常事態が発生すると、彼女の堕胎の決断は一挙に早まり、尚且つ正統性さへ発生してくるのである。

これがマイナスの乗数要因である。

つまり望まぬ子供を身ごもった女性は、その事により常に非常事態の状況に陥った。
しかしそこへ彼女が持つ非常事態など比較にならない大地震と言う非常事態が発生し、この事から彼女の以前の非常事態は緩和され、そしてその決断には非常事態と言う理由の正当性が発生してくる。

そして急激に収縮していく社会では、同じように会社を経営している者、行政の予算、人々の暮らしでも、程度の差は有れ皆が強弱の付いた非常事態に有った事から、災害がこれらを緩和、或いは麻痺させて行き、一時的にマイナスの状況に有った者がプラスマイナス0の状態に置かれ、その上で日本国だけではなく世界からも支援の手が差し伸べられる訳である。

ここでは希望される復興の目安が当然高く設定されるが、現実には日本の総量は変わらず少子高齢化の抑制策も全く無い事から、既存でマイナスに有ったところが一時的に0の状態、或いはプラスの状態になったとしても、それは他のマイナスの寄せ集めであり、結果として未来の先食いにしかならない。

能登半島は各地でそれらしい建物や道路が整備されたが、間違いなく高齢化が頂点付近に達し経済も人の心も破綻、その実情は補助金や交付金による運営、乞食経済になった。
新潟県中越も同じであり、これをやがて東北も後を追う形になるだろう。

震災を風化させないと言う言葉が有るが、これは生き残った者の傲慢である。
人は元々いつかは死に、それが交通事故や病気の場合は人に甘えられるだろうか。
いつまでも震災を盾に自助努力を怠ってはならない。

早く震災を忘れて自身の生活を立て直し、震災と言う非常事態に甘えた状態から立ち上がらねば能登半島と同じ道を辿る。

またこうした震災復興の中でその最も大きな足かせになっている放射能汚染問題だが、安倍総理は完全にコントロールできていると豪語したが、その実ヨーロッパやアジアでは日本製品の輸入規制が継続され、彼の言葉は世界的に信頼されていない事が明白な今、政府が取り組むべき最も重要な課題は憲法解釈や秘密保護法案ではない。

ウクライナ情勢ではロシアのプーチン大統領がロシア軍を派遣しながら、「あれは自警団だ」と言った、こうしたことの意味を知るべきだ。
大きな者は事を小さく見せようとし、小さな者は何でも大きく見せたがる。

韓国や中国と子供みたいな言い争いをしているからこそ、自国防衛が集団的自衛権に発展してしまうのだ。

日本の今はまさに「四面楚歌」である。
そして安倍総理がまた虚ろな目をして病気になる日は近い。
このままでは日本国中が特殊な事情を抱えた民衆、状況的に非常事態にある民衆を増加させ、やがて来る災害に寄りかかり、日本は加速を付けて瓦解していく事になる。

人間が受ける影響に措いて、影響とは一種の「依存」である。
良い影響はそれが長く続かないから依存は少ないが、悪い状況は比較的続き易く、為に気付かない間にどこかで依存していく。

悪い状況に対しては集中してこれに当たらねばならず、この過程でそれまでの通常が全て非常事態体勢になり、これはつまり悪い状況を中心とした体制になる事を意味し、いつしかそれを根拠にあらゆる事を考えてしまうようになって行くのであり、これは病気も会社中心体質、虚無感でも同じである。

そしてマイナスの乗数要因は堕胎される子供の話に立ち返れば分かるが、結果の早まりであり、その当初にマイナスの状況に在った者は災害で一時的に少しのプラス、つまりは0になったとしても、それが終われば必ず堕ちていく。

東北の経済、過疎化は10年後にはどうなっていただろうか、震災が発生しなければ発展していただろうか、それは違う。
東北も能登も、また他の災害で被災した地域、人が災害によって今被っている現状は5年後、10年後、或いは30年後が今に訪れただけである。

この事を心に刻んで、いつまでも過去にすがるのではなく、これからこの国に訪れるだろう現実を見つめ、死者の為に頑張るのではなく、地域の為に頑張るのでもない。
自分と自分の家族が生きて行く為にどうするかを、誰か人に頼るのではなく、自分で切り開いて行って頂きたい。

日本海溝地震発生から3年目の節目を迎えるに当たり、今は亡き人々に心より哀悼の意を表し、黙祷を捧げる。




「えっ、そんな事が有ったの・・・」

その社主応接室は入って左側の所に何故か縦長の鏡が有り、訪問者は秘書が指定した席で社主の登場を待つが、10分経っても20分経っても社主は姿を現さず、訪問者はやがて「おかしいな、事前に時間を打ち合わせしているのに、何か有ったのか」と思い始め、だんだん貧乏ゆすりが始まってくる頃、凡そ応接室に入って30分くらい経った頃だろうか、満面の笑顔でその男は応接室に入ってくる。

北国新聞社前社主、現在は会長に就任しているが、グループ事業総売り上げ240億円、総資産360億円を誇る北陸を代表する企業の頂点に立つ「飛田秀一」(とびた・しゅういち)会長はアポイントの無い来客には絶対会わない。

しかも事前に取材内容、若しくは要請ならばその主旨を文書で提出しておいて、初めてて面会日時が指定されると言う徹底振りで、尚且つ冒頭に出てきた応接室での30分間、飛田会長は何をしているかと言えば応接室からは鏡しか見えないマジックミラー越にし、隣室からひたすら訪問者の様子を眺めているのである。

勿論事前に訪問者に関するあらゆる情報が集められていて、自身に好意的な存在かそうでないかは確かめられているが、その上で30分様子を確認して性格を判断し、訪問者への対応を考えている訳である。
それゆえ初めて飛田会長に会った人間は、一様に「何て凄い人なのだろう」と思うのだが、彼はその人が求めている言葉を探り、その言葉を発しているだけで、現実には相手の事など歯牙にもかけてはいない。

彼はある種「インテリが作ってヤクザが売る」新聞と言うものを最も良く理解していると言えるが、その事を端的に現しているのが、販売店を集めた懇親会での態度であり、こうした席では冒頭の厳重な面会姿勢とは打って変わり、販売店の店主一人一人に酒を注いで回り、「皆さん有っての北国新聞ですよ」と言っているのである。

良く現実を弁えた態度だが、ここでも彼は地方、田舎と言うものを本当に理解していていると言える。
田舎の本質は傲慢と卑屈であり、ましてや高齢化社会となってしまっている地方にあって、そこを動かすものは正義や真実ではない。
「虚栄心」と「自己顕示欲」、「利権」が世の中を動かすので有って、これ以外のものは道具にしか過ぎない。

また現時点で石川県で最も大きな権力を持つ者は誰だと思うだろうか、何とソチオリンピックで奮闘した浅田真央選手に「大切な場面では必ず転ぶ」と発言した、歴代総理中最も低グレードの総理だった「森善郎」衆議院議員なのであり、飛田会長は森議員とは40年来の盟友なのである。

石川県のこれからの運命は推して知るべしだが、北国新聞が石川県で持つ市場独占率が実に70%を超える理由は「田舎物」や「自身をインテリだと思っている者」の扱いが上手かった事に起因している。
小さなイベントや教員上がりの老人が描いた水墨画の作品展などを新聞に載せ、それで田舎の虚栄心を煽る事に長けていたからである。

地方の動きの少ない状況の中ではこうして新聞やテレビで取り上げられる事が何より大きなステータスとなり、これは新聞投稿にまで及ぶ。
その上で北国新聞社は華道教室、お茶、花などあらゆる教室を運営し、これらを裾野に飛田会長が石川県に存在する美術芸術関連機関の代表の30%に就任していて、その上に石川県美術文化協会が有る。

更に北国新聞は死亡案内欄が充実していて、香典の相互扶助制度が厳しい田舎では、こうした死亡案内欄を確認しておかないと香典のかけ忘れが出る為、高齢者の中では死亡案内欄だけの為に新聞を購読している者も多く存在し、こうした意味でも田舎の制度を上手く突いているが、小さな事でも取り上げて自称インテリをおだて上げ、購読者を拡大して行き、森善郎議員の政治力と飛田会長の二者両輪支配体制が石川県の現実になっている。

能登半島地震では早々に取材写真を編集して「震災記録写真集」を販売し、節操も無く震災復興予算が付いた自治体等に売りさばき、日展や伝統工芸展を取り上げた記事では菓子箱賄賂や、先生に対する奉仕は潤滑油だと書いてしまう愚かさの背景、そしてそうした報道の在り様にどこからも非難が出ないのは、ひとえにこうした森、飛田連盟の支配が有るからであり、これに麻痺している石川県民も高齢化が進み、もはや客観的判断を出来る人材もいなくなっている。

それゆえ今般発覚した北国新聞事業局が行っている北国写真展に措ける知事賞の公印偽造事件も、これは明確に刑事罰に相当する事件でありながら、石川県内では「えっ、そんなことが有ったの」ぐらいで終わっている。

どの地域でもそうだろうが○○写真連盟などは既に老人会の様相で、その入会経緯もお友達クラブ、或いは老人が気に入った人しか入会できない組織になっているだろうが、北国新聞の下部民間組織である北国写真連盟と北国新聞が共催の形を採っているものの、実情は北国写真連盟の権威付けと言える北国写真展にしても、それでも知事が許可していない印璽を偽造する事は「公印詐称」である。

今の北国新聞に出来ない事は無いのかも知れないが、石川県の谷本知事は自民党の推薦が無ければ当選できない状況にあり、森、飛田連合に逆らう者はおらず、北国新聞の事業局で公印が偽造された知事は富山県と福井県の知事であった事を考えるなら、石川県の利権の中心に在って、しかもどこかでは金沢が北陸の中心と言う意識が有るからこそ、こうした事件が発生し、「このぐらいの事」と言うような程度の意識しか持てなくなるのである。

現在共催していた北国写真連盟は公式に謝罪文を掲載しているが、北国新聞事業局では女性職員の独断で偽造が行われたとしているものの、公式の見解を発表しておらず、同新聞にもこの件の事はまったく書かれていない。

トロフィに至るまで偽造した物が用意されていて、北国新聞社事業局が知らなかったでは済まされず、尚且つこうして偽造された証書が他社報道で発覚する少し前、北国新聞社を名乗る者によって回収されていた事実をどう説明するつもりか、限りなく組織隠蔽が疑われるのではないだろうか。

国際情勢や国内重要記事は全て大手配信社記事を転載するのみ、保守系以外の言論を一切排し、投稿に措いても自社批判、保守批判の投稿は全く無視し、自社称賛投稿文しか採用せず、他者の罪はこれでもかと言うぐらいに細かく報道し乍自身が犯した罪は全く隠蔽、まるで無かったことのように振舞う有様では朝鮮労働党新聞も真っ青の状態であり、例え石川県の中では王様でも、これでは一歩外へ出た途端石川県の恥にしかならない。

苦難の末にこの北陸の地にも世に真実を伝え、我等の存在意義を問う新聞を作ろうとした、創業者の「赤羽萬次郎」の意思を今一度北国新聞はかみ締めるが良い・・・。

最後に、何も北国新聞だけに限った事ではなく、日本の全ての新聞社は同じ状況だろう。

だが今デスクに向かって記事を書いている者は、次の瞬間、自身の意思次第で闇を切り裂く者となり得る、その責任がある。
この事をくれぐれも忘れるな・・・。




「メタボになった通貨」



EURODANCE: La Cube - Find My Way To You (Album Version)・・・・・

或る村に人参(ニンジン)を沢山持っている者がいて、その者は鍋が欲しいと思っていたのだが、同じ村で鍋を作っている者のところへ行き、そこで人参を何本渡せば鍋を譲ってくれるかと言う交渉をした時、実は人参は家にも沢山有って、50本も出さなければ鍋と交換する事は出来ないが、キャベツが無いのでキャベツなら5個で交換できると言われたとしよう。

この場合人参を持っている者は人参50本を出せば鍋を手に入れることが出来るが、それだと自分が損をするため、キャベツを沢山持っていて人参を持っていない者を探せば、或いは最終的に人参25本で鍋を手に入れることが出来るかも知れない。

こうしてあちこちに散らばった個人それぞれの事情を、同じフレームに入れて取り引き時に最も移動の手間がかからない代替価を換算する方式、フレームが通貨と言うもので、この場合通貨の概念は形が無くても信用だけでも成立するが、不特定多数が全て信頼関係で結ばれる事は有り得ず、従って権威者がこれを担保するその権威が通貨の本質になる。

これが国家の通貨と言うものだが、一般的に我々が「消費」と考えているものの概念は「等価交換」がその本質であり、消費と言うと何か唯無為に食べて失くしてしまうような印象が有り、経済活動的にも精神世界的にも言葉としての不適切さがある。

我々が働いて金銭を得るのは自身や家族が生きて行く為の物であり、この点では通貨は個人の事情で全てが特殊需要になってしまう需要の分散、平均化の役割を果たしていて需要の最効率化をもたらすが、どこかで未来に対しての需要に備えようとすると、そこから通貨の不足が生じ、この不足に権威者が通貨の供給を増やせば通貨の価値は下落し、通貨で未来に備える方式にはその以前と比較した損失が発生する。

そしてこうした事を繰り返している内に本来等価交換であり、その代替物だった通貨が本体の生産品目を支配し、物の価値を不安定にする作用へと働き、更には冒頭に有るように人参をキャベツに交換し、そこから鍋に交換する為の手間、所謂手数料が需要の効率化を超えてそれで利益を生むようになり、ここに民族的衰退が始まり、生産する者、働いている者が減少した場合、需要効率化に寄与すべき通貨取り引きの手数料が高騰する。

これが消費税の原理であり、消費税は通貨手数料の一種と言う事が出来るが、この通貨手数料が高騰すると、人々は通貨の更に代替品で取り引きを求めるようになり、これが投資取り引きや不動産取引、先物取引などの仮想の更に仮想概念取り引きになって行き、一方一般市場は通貨取り引き手数料の高騰から逃れようと通貨取り引き、つまりは消費を抑制する方向へと働く。

また通貨手数料が少ない取り引きに向かうので有り、仮想通貨や団体が発行する擬似通貨は今後も多く発生するだろう。
簡単に言うなら人参とキャベツの交換では消費税がかからないと言う事であり、これを信用で結びつければ手数料総額を抑制できる効果が発生するからである。

だがこれまでどうしてこうした事が考えられなかったかと言うと、人参を持つ人とキャベツを持つ人、鍋を持つ人がそれぞれの存在を認知できなかったからであり、これが相互認知出来るようになったのはインターネットの普及が始まった為である。

加えてピットコインに一定の信用が有ったのは、個人の取り引きをそこに参加している多くの連絡可能な「他」が認識している為であり、この点では個人の信用を守らせるために多くの「他」が相互扶助している制度だった為で、外からの不正が働かなければ、この制度は今まで国家や権威者が支配してきた経済の在り様を、民衆の市場の手に戻す効果を持っていた。

等価交換の代替価としての通貨は既に複数の手数料やら派生概念と言うゴミがくっ付き、重くて持ち運びには不便になってきているのである。

考えてみれば消費と言う言葉はまるで生きる為の事柄で物を買って食べる事すら、何やら後ろめたいような物言いで有り、今日明日食べる物を買うに付いても消費と言う考え方は理不尽だと思う。

それは生きるために必要不可欠なもので有り、基本的には等価交換である事を思うなら、今後通貨からの逃避傾向は益々増大するだろう。

ドイツなどはそれを恐れてピットコインの所有が1年を超えるものに課税する方式を採用したが、これなどは明確に通貨より軽いピットコインに通貨の重さを加えて動きを鈍くしようと考えたもので、その一方でこうした仮想通貨を認めた事にもなった。

通貨が発生した時代、通貨が必要だったのは需要の効率化が求められた為で、それは個人の認識や移動と言ったハードがとてつもなく重かった為で有り、これがインターネットで解消されつつある今日、人参を持つ者、キャベツを持つ者、鍋を持つ者が相互に瞬時に認識可能となった事から、或る意味国家や為政者の権威を本質とする通貨は、用済みの方向に有るのかも知れない。

ピットコインは今般の事で或いは規制をかけられ破綻するかも知れないが、通貨を使わなければ消費税がかからず、データ記録取り引きでは金融規制がかけられないとしたら、例えば大規模な物々交換サイトを立ち上げ、全てデータで取り引きする方式でもピットコインと同じ事はできる。

この事を考えるなら我々が消費と呼ぶものは、全て財物の交換、移動であると言う意味と、本来利便性の為の通貨が、既にどこかで人類のお荷物になっている事を今一度知らしめてくれたと言え、ピットコインは多数の被害と社会不安を引き起こしたが、それと同時に国際社会に対して通貨と言うものの意味を再認識させ、新しい経済の在り様を探る上で多くの課題と共に「可能性」を提起する結果になったと言える。

私は消費と言う言葉が大嫌いだった。

まるでキャベツの葉を瞬く間にかじって行く青虫を見ているような印象が有り、生きて行く中で物を買ったり食べたり、音楽を聴き映画を観ることが消費と言われると、どこかで自分の生きている事が否定されたような思いにさせられてしまうのであり、そこへ更に「税」などが加わった日には(怒)と言うものだ・・・。




「仮想通貨と一般通貨」



【ひぐらしのなく頃に】you [extended trance mix short ver.]【トランスアレンジ】・・・・・・・

通貨の本質は全て仮想である。
基本的には物品やサービスに対する代償を決済する為の信用である事から、通貨自体の価値は代償に相当する価値を初めから持っていないが、これを保障する者が在って通貨の信用は保たれている。

つまり我々は貨幣や紙幣を価値と看做しているがこれらの本質は信用なので有り、この信用の程度が国が発行している通貨よりも高く利便性が有れば、その形が紙切れで有れデータで有れ流通する事は自然の流れと言える。

ピットコインの問題は、少し乱暴な言い方をすればTPPの逆流理論であり、TPP(地域間自由貿易構想)では親友同士でやり取りしていた契約の在り様、優遇制度を国家間同士で適用する構想ゆえ、全ての国家が親友並の関係で有るはずも無く、よって交渉は困難を極めるが、この反対は大変滑らかな取り引きとなる。

A、B、Cの3人の友人グループが有ったとする、Aが今度引越しをする事になり、その手伝いにBが来てくれた為対価を渡そうとしたが、親友だからと言って現金を受け取ってくれなかった。

しかしAとしてはどこかで気が引けるところも有り、かねてよりCが車を変えたがっていた事を知っていた為、Aは自動車販売会社に勤務するBに親友のCを紹介し、Cはまた随分と値引きされた車を買うことが出来た。

そしてこのA、B、Cにはそれぞれまた別の親友がいて、こうしたやり取りを拡大して行った場合、そこでは実際に物品やサービスの提供が有りながら、貨幣や紙幣を使わず、誰が誰にどれほどの金銭勘定相当の貸し借りが有るか、そのデータが通貨の代わりを為し、しかも信用は対等の個人が為した取り引きの多さがこれを担保する形になって行く。

現実にはもっと複雑だが基本的にはこれがピットコインの原理だ。

ここではそれまで国家が担保していた通過の信用責任が、個人とデータ取り引きの長さによって得られ、しかもこうしたグループ内で有ればどこにデータがどれだけ残っているかすぐに分かり、それを必要する者に対して瞬時に決済が可能である。

つまりはデータをグループみんなの信用で保障している訳で有り、この意味では国家が発行する通貨以上の信用を有する事になり、国内通貨がインフレーションの場合、実際に国家の通貨から民衆がこうした仮想通貨に逃げ込む事態も有った。

この原理を成立させた背景はインターネットの「Peer to Peer」、P2P概念から派生してきたものである。

我々のパソコンはインターネットプロバイダーのサーバーに接続されて世界に繋がっているが、P2Pはそれぞれのパソコン同士の繋がりで対等の関係にあり、情報も共有されている為に、それぞれのパソコンがクライアントとサーバーの両方の機能を持ち、しかもそのグループ内では皆が直接相手のパソコンに接続できる関係にある。

更にはこうしたグループ内の情報を全ての参加者が共有する事から、皆が知っている事で情報の精度や責任が担保され、誰か一人ぐらい抜けても大きな人数を要するグループでは代替機能が働く為、全く影響が出ないのである。

この意味でピットコインは神のような利便性と信頼を持つが、その一方で麻薬取り引きの決済、マネーロンダリング(通貨洗浄)の場としても最適だったし、更には個人が通貨を発行してその取り引きの長さで信用を得る形態は、組織的に膨大な金額をかけてシステムを守っている国家や金融機関に比べると、明らかにセキュリティ上の脆弱さが有った。

その為FBI(アメリカ連邦警察)は、かねてよりサイバー攻撃に対するピットコインのセキュリティ上の脆弱さを指摘していたのであり、今般日本の取引所が民事再生法の適用を申請した事は、その指摘がまさに的中した形となり、これに対して日本政府の「麻生太郎」財務大臣は「いつかこうなると思っていた」と発言したが、彼は決して人の事を言える立場ではない。

紙幣にしてもカード決済にしても、或いは地域や商店などが発行するポイント、マイレージなども、基本的はそれを担保する存在が有って始めて成立するものであり、原理はピットコインと全く同じものだ。

TPPでは小さな信用取引を複数国家間へ拡大したが、ピットコインは国家の信用を個人の集まりに引き寄せただけの事で有り、この点で言うなら集まった個人がそれぞれを価値を認め合うなら、ある種通貨以上の信用と利便性を有している。

しかしこうした小さな信用を使って、これに投資して利益を出そうとしたところから、ピットコインはその価値に二重、三重の担保が付けられ、投機取引が介入して本来の価値が水増しされた状態になった事は、我々が現在使っている政府発行の通貨の在り様と全く同じ事である。

そして今般ピットコインの被害額は数百億に上るのかも知れないが、この被害者を我々は笑えない。

諸費税は増税、電気料金、ガソリン、保険、食料品もおしなべて値上がりした上に賃金は下落、収入に措ける租税負担率は40%を超え、この税率は戦国時代の北条早雲の時の北条領の税率を上回っている。

加えてこうした流れから教育費も高騰し、こちらも一般的家庭の収入に措ける割合が40%を超えている。

これから先我々はピットコイン被害金額の数万、数十万倍の金額を負担していかなければならない訳で、それでもまだ借金は増え続けているのである。

その被害額を考えればピットコインくらい可愛らしいものである。
マウント・ゴックスのマルク・カルプレスCEOの隣で安倍総理、麻生財務大臣、甘利経済財政担当大臣の3人の元負け犬トリオが神妙な顔で頭を下げていても、何等異存の無いところだ。

P2Pは流通の革命になるだろうし、これが安全に経済に取り入れられる仕組みもまた、これまでの経済概念を変え、或いは私達が持つ国家の概念すらも変えていく可能性を持っている。

そこを考えられない財務大臣の軽率な言葉は、いつかそっくり自分に帰ってくる事になるだろう。

日本経済が破綻した時、私は彼に「そうなると思っていた」と言うに違いない・・・。











プロフィール

old passion

Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

[このサイトは以下の分科通信欄の機能を包括しています]
「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

最新トラックバック

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR

月別アーカイブ