「在るがままに・・・」



【アニメトランス】アンインストール【YURIE】・・・・・

晴れた日は晴れたなりに、雨の日は雨の日なりに・・・
暑い日も寒い日も永遠ではなく。
朝も夜もそれが止まる事は無い。
良き事も悪しき事もたったひと時で過ぎ去り、

やがては我が命もまたその過ぎ去るものの一つとなって消え行かん・・・。

祖母はよく夏の炎天下での畑仕事を得意としたが、こうして自身が米を作り畑仕事をし、家族の朝夕の食事の支度をしていると、今なら人が出る事を避ける炎天下に何故畑仕事をしていたのか、それがおぼろげ乍見えてくるような気がする。

夏の日で一番の時の利は「早朝」であり、これは暑くない事も確かだが「アブ」や「ウルリ」などの吸血虫が飛んでいない為である。
だがこの「早朝」の時の利は時間が短く、次に時の利となるのが「夕方」になるが、これだと「アブ」や「ウルリ」の執拗な攻撃と蚊の攻撃まで加わってくる事になる。

昔だと布を縄状に編んだものに火を付け、これを身に付けて虫よけにしたが結構不自由なもので、食事の支度をしなければならなかった祖母が選んだ時間は、暑さで虫も少なくなる炎天下だったのだろう。

勿論祖母はこうした事を計算して時間を選んでいたのでは無く、食事の支度と言う事情、虫を避ける為と言う状況、更には体が自由に動かせると言う自分の希望の中で自然にその時間に中に流れ込み、やがて炎天下そのものが祖母の体を鍛え、虫も暑さを避ける時間のあの在り様を作ったに違いない。

事情や状況と言うものは良い事が少なく、悪い事、不利な事になる場合が多いが、また希望がすべて叶えられる事は殆ど無いが、こうした良きに付け悪きに付け「事情」や「状況」がその人間を鍛え、定まらないところを定めるもののような気がする。

更に畑を耕すに雨の日を選べばいつまで経っても耕せないばかりか、それから後も土がフカフカにならずに団子状になって上手く行かなくなるが、晴れた日を選べば土が助けてくれているが如く綺麗に耕せる。

雨の日に畑を耕すは怒涛の勢いの水に逆らっているようなものだが、晴れた日のそれは文字通り天と地の満面の恩恵の中に在るようなものだ。

だが惜しむらくは人間はこうした天の恩恵に逆らい続けて生きている。
その理由は「社会」とか、或いは「文明」と言うものだが、例えば小さなところから言えば家族がいて、そしてその家族を守る事を思った瞬間から天の恩恵がまともに見えなくなる。

自分の事情でものを見るようになり、その事が小さければ自然の采配の中に収まる事も有るが、大きくなったらそれは自然の流れの中には収まらず、やがては天の恩恵や自然の流れに対抗する事になっていく。

大した用事が無ければ雨の日は出歩かなければ良いのだが、人間の事情は雨の日に人を歩かせ、それがいつしかアーケード街になり、巨大シヨッピングモールになっていった時から、人間は気候とその恐ろしさを忘れる。

そしてどんどん天の恩恵から離れ、やがて人間自身が気候に影響を受けないような文明を築こうとするが、その文明を滅亡に追いやるものはいつも自然や天の理なのである。

人の豊かに暮らしたい、便利な暮らしを求める気持ちは常に「過」で有り、その気持ちが強いほど時の利、地の利に逆らったものになって行き、その存在が持つ最大限の可能性、言い換えれば最も自然や天の恩恵を受け得る可能性から遠ざかっていく。

政治や経済の本質は「調整」である。

2人の人間がいてその双方が折り合う共通のフレームこそがその正体で有り、ここに留まっていればギャップは生まれないが、より多くの者が集まって「目標」と言う自分達の社会概念の中で考える「道」を持った瞬間から、そこに一つ高い「過」が生まれ、しかし現実に生きている人間の多くはこの「過」に付いて行けない。

結果として政治や経済と一般庶民の意識はやがて乖離し、目標を達成できる少数の人間と、そうではない多くの人間の分離が始まり、本来「調整」で有ったものに対して更に「調整」が必要になり、この事は現在の状況を一つ前の状況に戻すに近い効果を持っている。

人間社会はこうして意味の無い所を行ったり来たりしながら、物を作らせても、自分達の暮らしでも、より劣化したもの、不自由な方向へと自らを向かわせている。

雨の日に畑を耕す事が出来ない事を不自由と考え、そこで自由を求めるなら更なる巨大な不自由が待ち構えている事を忘れてはならないかも知れない。

また人は今を生きられない生物で、必ず近い遠いの差は有っても未来を生きている。
そしてこの未来こそが「過」なのだが、ここを追いかけていると「過」の為に今と言う時を我慢し、苦しみながらそれが延々続く事になるのかも知れない。

禍福は一つのものであり、この中で人間は禍を悲しむが、如何なる深い禍もまた天の大きな恩恵なのだろう。
今在る状況、事情が如何に苦しいものでも、それを有り難くおし頂き感謝する事が今の禍も未来に措ける禍も福と為す道なのだろう、そんな事を思う。

毎年この春の一番忙しい時期に村の春祭りが有り、それに参加した私は神社で大祓いの儀式を受けていたが、一瞬誰もいないはずの自分の右後方にミシッと言う音がし、何者かが立ったような気配がしたが、多分春の陽気で木が乾燥し、きしんだ音だったに違いない・・・・。















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「飽和反転経済」



The Poseidon Adventure(1972) - The Morning After・・・・・

「過ぎたるは尚、及ばざるが如し」
過剰に生産された物資は基本的に「損失」で有り、この場合提供された労働生産力も含めて全てがマイナスになり、企業で有れば経営を圧迫する。

従って企業は需要に合わせて物資を生産しなければならないが、需要の動向が不安定な場合、その将来を或る程度予測して生産を起こし、それを保管する費用と該当する金利などを予め含んだ金額を、需要が存在している時から定めて置かねばならないが、極端に景気が落ち込み需要が消失した時期が長くなると、当面の決済の為に利益が必要になり、当初決めていた価格より安くても販売せざるを得ない状況になる。

そして需要と供給の関係は条件によって左右され、言い換えれば需要は価格の下落によっても存在するのであり、この需要でも生産原価を下回る価格でしか取り引きが成立しない場合、そこに生産側のコストダウンに関する企業努力が必要になり、更にこれを超えると「需要の創出」と言う取り組みが必要になるが、この状態の本質は生産の飽和である。

需要の創出と言う言葉が出てきた場合、それは通常概念の需要が消失しているか生産飽和状態に有って、更なる需要は基本的に存在していないと言う事であり、デフレーションとはこうした経済の収縮を意味し、日本のような少子高齢化社会では年々歳々発生する需要より失われていく需要が上回り、常に生産は過剰になって行くのが普通である。

つまりマクロ経済では昨年より今年の売り上げが減少して行くのが正しい在り様となり、売り上げが上昇する事の方が異常事態となるが、政府も国民も毎年基本需要が失われていく事を解っていながら、それでも尚景気が良くなる事を望むのは、どこかで現実が見えていないとしか言いようが無い。

また政府や経済の専門家、或いはマスコミでも使っている「需要不足」と言う表現だが、これは経済云々の問題より「言葉」としても既におかしい。
需要とはそれを必要とする現実、或いは必要と思う気持ち、または将来の予定で有って、不足と言う定義は有り得ない。

テレビや車を買おうとする国民の気持ちが不足しているなど、一体どこからものを見ているとそんな言葉が出てくるのか、まるで最初に生産量が存在し、それに合わせて需要が存在しているかのような物言い、つまりは生産者や販売側の都合からの目線で有る。

需要とは元々国民の側のものである。
お金が貯まったら家を建てよう、車を買おう、子供部屋の一つも作ってやりたいと思う庶民の希望の集積である。
これに不足が有ると思う者は、その経済の出口から入口を見ているようなものである。

需要の本質は民衆の夢や希望、生きる事の在り様そのものであり、これには本来過不足は存在しない。
需要が高ければ価格が上昇し、需要が無ければ価格が下落し、更に需要が無ければその生産を調整する事で市場の自然な判断が下される。

しかし需要が不足していると言うもの言いは既に市場を無視した概念で、「庶民の暮らしなど我がこの手の内に有る」と言われているに等しく、こうして追い詰められた生産が起こす需要の創出の正体は民衆からの搾取、民衆に対する不利益の拡散と同じ定義である。

今からもう30年も前になるだろうか、私が知己を得た外務省職員は日本の国民と言う言葉をいつも口にしていたし、通産省の職員でも石油権益交渉に当たっていて、企業の利便性を計るために寝ずに働き、過労死した者もいた。

彼らは決して特別ではなかった。
官僚と言えど日本と言うものを、国民を意識したものの考え方をしていた。

それが今は平気で「需要不足」であり、これに対して国民も何も思わない社会は、既にみんなが出口から、結果からしかものを見ないようになってしまっていると言う事であり、このような状況を私は「飽和反転経済」と呼んでいる。

あらゆる事が最初からマイナスのスタートで、それを穴埋めする事が最初に考えられる社会だからこそ、需要に対して不足と言う考えが発生してくる。
国家衰退の時には需要も供給も溶融して一体になり、そしてスパイラルで堕ちて行くものである事を後世の者たちに記しておく。

需要が無くなってから出てくる「需要の創出」は結果として本来企業が被るべき損益の大衆に対する拡散であり、この点で言えば金融緩和政策で円安を通して国民に拡散される流出税制と同じ事であり、国民はこれから先膨大な負担を強いられる事になる。

政府や行政にもみ手する者は生き残り、そうでない者は水道電気さへ止められ、或いは餓死して死んで行く二極化社会へと突入するが、その生き残った者にしても年々劣化が避けられず、このような社会こそ混乱の極み、滅亡した社会だと私は思う。

頑張った者が報われる、額に汗した者が報われる社会と滅亡で生じる貧富の差は違う。
前者は弱い者、貧しき者からは搾取しないが、後者は弱い者、貧しい者から搾取する社会である。
傲慢と卑屈が無関心と絶望の狭間で対峙し、相互に何も考えなくなった社会。

国家の滅亡とは焼け野原の瓦礫に帰した大地を言うのではない。
その民族が希望を失った状態を言うのである。






「調査名目の食文化」



Go West - Pet Shop Boys - World卒s Armys・・・・・・

2014年3月31日、オランダに本部を置く「International Court of justice」(国際司法裁判所)は日本の調査捕鯨を調査目的とは言えないとして、鯨の捕獲を中止するよう裁定したが、これに対して日本国内からは激しい失望の声が上がった。

しかしこの国際司法裁判所の裁定は極めて整合性がある。

日本には調査名目で捕獲した鯨を流通させ、それを料理する料亭や専門店まで存在する訳で有るから、これは事実として資源消費概念が定着している事になり、この一点でも科学的調査捕鯨とは言い難く、更に日本国内では鯨の消費を「食文化」としている為、既に日本国民の概念は科学的調査捕鯨は口実となり、明確に生物資源の消費が目的と看做されるからである。

従ってここで日本が鯨は食文化だと申告すればするほど、調査捕鯨の概念からは遠ざかるのであり、かかる事態に鯨肉料理の専門店が、調査捕鯨された鯨をそのまま破棄するのは勿体無いから我々はそれを食していると言う申告は甚だ詭弁である。

生物資源消費としての鯨の捕獲は明確に世界条約で禁止され、資源調査でのみ捕獲が許される状況で、捕獲された鯨が消費される流通経路が設けられている事自体に整合性が無い。

かつて日本では渡り鳥保護条約に基づき「鶫」(つぐみ)の霞網猟(かすみあみ猟)が禁止された時、警察に見つからねば大丈夫だと言う事で密漁が横行し、ここでは各地域の警察署長に鶫料理で「おもてなし」し、見のがしてもらっていたケースが多く見られた。

鶫は「スズメ」と名前をカモフラージュされ平気で料亭で出されていたが、日本国内で有ればこうした事もまかり通ろうが、南極付近で有ってはそうは行かない。
既に決まっているルールを平然と破り、詭弁を弄して何とかなるのは日本国内だけである。

またこうした国際司法裁判所の決定に対し、日本の林農林水産大臣が「鯨は食料資源」で有り、これを科学的に利用する道を模索し続ける旨の発言をしているが、「鯨は食料資源」と言っている段階で調査捕鯨と言う名目を蔑ろにしている事を自己申告するに等しく、刺身や竜田揚げのどこが科学的利用と言えるだろうか、反論するにも愚か過ぎる。

更に国際司法裁判所は勧告裁定の概念を持っている。

これから先の未来にもしかしたら各国で法制化される事柄に対する指針となる概念で、裁判所の決定の上に薄く横たわる指針、「未来」の概念を持っていると言う事である。

この意味に措いて各国に存在する裁判所の決定が過去の事例や、せいぜいが現在を反映するものとすれば、こうした過去や現在の概念を束ねていく方向性を持っている。

世界の文化は種々多様で、コウモリを食べるところも有れば犬を食べるところも有る。
また日本のように鯨が食文化となっている国も有るが、こうした異文化がそれぞれに歩み寄って一つの方向性を見出す役割を国際司法裁判所が担っていると言える。

それゆえ国際司法裁判所の概念は「未来」なので有り、この事は何を言わんとしているかと言えば、日本国内で調査捕鯨の中止裁定に対して異論を唱えている年代が「高齢者」付近の年代と、捕鯨や鯨料理によって生計を立てている「業者」で有ると言う点である。

今現在10代、20代、30代、或いは40代の年代層に調査捕鯨が中止された事を話しても、彼らは一様に「そうですか」と答えるだけである。
彼らは鯨を食べる文化を持っていないので有り、また鯨が美味しいとも思わないのである。

鯨は食文化と言っているのは特定の年代から上の層だけであり、この点では捕鯨が日本全体の文化とは言い切れず、単に高齢世代の郷愁に過ぎないかも知れない事、或いは他地域と比較して特色がない地域の、地域起こしの概念でしかない事を考える者はいるだろうか。

文化と言っても必要が無ければ、また社会や広義では国際的な概念でそれが衰退して行くものを守る事は、必ずしも「文化を守る」とは言い難い。
むしろ必要の無いものは衰退して滅んで行くのが正しく、こうした中で自然に残って行くものこそ「文化」と言うものの本質ではなかろうかと思う。

国際司法裁判所の調査捕鯨中止命令に対して若者はどう思っているか、それを報道したマスコミュニケーションは存在しただろうか。
反対意見だけ、特定の年代だけの意見を報道し、それが日本の総意だと言うのは法治国家とは言えない。

そしてこれから先の国際社会を生きていかねばならないのは若者達である。
高齢で有れば、人生の先輩であればこそ悪戯に自分が持つ文化と言う価値観を若者に押し付けたり、或いはそれを強要して文化を守っていると思う愚かさを慎むべきなのではないだろうか。

少なくとも私は日本の調査捕鯨の概念より今回の国際司法裁判所の裁定の方が、言葉に対して整合性を持っていると思う・・・。

















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Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

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「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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