「時間並行情報処理」(デジャブ)

一度も会ったことが無いのに何故かこの人には以前会った確かな記憶がある
初めて来た場所なのにこの景色は前に見たことが有る。

或いは今朝配達された新聞記事の内容と全く同じものを既に自分は知っていた、しかもそれはいつどこでとは言えないが確定的なもので有る場合、これを「デジャブ」(既視感)と言うが、その絶対的な記憶は遭遇した感覚の直前に構成されている可能性が高い。

目の前にいる初対面の人、景色、または新聞記事は視覚を通じて記憶されるが、その記憶にはもう一つの記憶、と言うより頻度に比例した絶対観が重なってくる場合が有る。
記憶は束の状態で脳に記録されるが、それを束ねている部分を表現するならボール紙に小さな穴を開けた、その穴を通って多くの近似値情報が入り込み、穴の反対側では情報が記録されている。

つまり近似値を持つ情報は必ず共通する小さな事項を通って先に広がっている事になり、この小さな穴を通る情報の数は膨大なものとなる為、そこに絶対的なもの、記憶の確信が発生している。


デジャブに措ける記憶の絶対観に対し、それが具体的な時間経過や場所の特定が曖昧になるのは、絶対観が予め存在し、そこに現実の情報が処理されているからだと考えられる。

こうした意味からデジャブは記憶の頻度と言う事が出来、多くの人に会う仕事や状況の人、或いは衆目の評価が仕事に繋がっている人気商売の人は人間に対するデジャブが起き易く、忙しい人や精神的に不安定な状況に在る人は、景色や眼前の状況に対してデジャブが起き易い。

更に新聞記事などのデジャブは記者や読書家には比較的頻発する事象と言えるが、これらはどれも自身が遭遇しやすい環境に在るか、若しくはその事象に対して非常に大きな関心を持っている為に発生し、しかもその非常に大きな関心は端末直結で記憶の中に飛び込んでくる。

キーワードからも飛び込んできて、眼前の本当は初対面の事象に対して絶対的な既視感覚が上に乗るのである。

人類が抱える精神疾患は正確には疾患ではない。
鬱病、多重人格、統合失調症は人間の脳の正常な働きだが、これを疾患とする境界は社会生活に適合できるか否かと言うところに有り、程度の差でしかない。

人間の脳の処理は基本的には拒絶か受領、簡単に言えば好きか嫌いかのどちらかしかなく、一端拒絶に分類されるとそれは見ないし聞いてもいなければ、感触を確かめようともしないが、受領に分類されるとあらゆる事が自分の都合の良いように解釈される。

白い壁を見ていて「これは赤い」と思えば、その白い壁に少しずつ赤い色が色が混じったように見えてくる。
人間の視覚は記憶と共に感情の支配を逃れられない為、我々が見ているものは自分が見たいものを見ているだけで、自分が聞きたい事を聞いているだけと言える。

「坊主憎ければ袈裟まで・・・」は人間の脳が持つ基本ユニットなのである。

ただこうして構成される感情の決定だが、あらゆる事象や状況に対する動きは二者択一の細かな選択の総合となっていて、視覚的に解り易い表現をすれば、オセロゲームのようにキーワードによって瞬時にひっくり返る事をその都度行っていて、これはまるで風に揺らぐ湖の水面のようなものと言えるかも知れない。

我々が記憶と思っているものは正確な情報ではなく、それは今眼前に広がる状況に対して過去の視覚を通した感情が加わったものと考えるなら、人間は今この眼前に見ている事象を正確に見る事が出来ないのかも知れない。

夢で見た事が現実に発生する事象、「予知夢」の正体は事象が発生した時に遡る、今創られる過去の記憶と言われている。
夢の記憶は目が冷めた時から時間経過と共に不安定になって行き、これは急速に失われていく記憶である。

叔父さんが亡くなった、「そう言えば今朝の夢で叔父さんが出てきて笑っていたが、あれはもしや予知夢か・・・」と言う場合、その夢に出てきていたものは叔父さんだったと言う確証は無く、今の段階の自分が叔父さんだったと確信している恐れがあり、この事は三つの点が存在すれば、そこに人間の顔を認識してしまう脳の情報処理形式に近い。

記憶はとても流動的な情報記録形式であり、一つの記憶は中心に近いところが濃度が高く、周辺に行くに従って濃度が薄くなる。
その内容は情報として処理されていない情報の方が圧倒的に多く、これら未処理の情報はキーワードごとにどこかにくっ付いて記録されようとする。

それゆえ自身が記憶と考えているものは、今の事象によって引き寄せた多くの瞬間的過去情報が加わった「今作られたもの」で有ると言えるのだが、これらが通るキーワードには多くの似たような情報が通過している為、そこに絶対的な感覚が存在し、これが総合されて人間の感覚の絶対性が認識されている。

デジャブも、今この瞬間目の前に広がっている現実も同じものである。
人間はどんな事象も正確に見る事は出来ない。
それは遠くから見ていれば形として見えるが、近付いて行けば形が無くなる。

遠い昔恋した幼なじみの記憶、その顔は忘れもしないだろうが、ではその顔の細部を憶えているだろうか、その記憶は今の自分が創っていて、自分の記憶の中で曖昧にしか記録されていないが、多くの忘れられない記憶に囲まれている。

だから細部の記憶は曖昧でもそこに絶対的な記憶の確信が存在する。
人間の記憶とは生き続けている記録媒体と言えるのかも知れない。











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「周回社会主義」



【卒業ソング】いきものがかり「YELL」 / Instrumental、歌詞入り・・・・・・

「働かざる者、食うべからず」と言う言葉は、カール・マルクスの「資本論」中の言葉だと思っている者も多いかも知れないが、この言葉はウラジーミル・レーニンの言葉で有り、彼が意図したものは基本的に「楽をして稼ぐな」と言う意味だった。

即ち台頭してくる資本主義による「非労働生産」、簡単に言えば額に汗することなく、金が金を生むような楽な金の稼ぎ方をするな、資本に支配されないよう、しっかり体を動かして働いて金を得る道を目指そうと言ったものだったが、後世日本に伝わった時、働けない者や失業者までも含めて理解されるに至り、どちらかと言えば失業者や社会的弱者を責める言葉になってしまった。

元々資本主義と共産主義や社会主義は同じ円周上を回る2つの対極する点であり、本質的には経済と言うものを個人から見るか、社会から見るかと言う視点の差に過ぎない。従って社会主義の極論に在ったレーニンのこうした言葉は資本主義の極論に同じで、資本主義の根底を為すものが「生産」で有る事を忘れると、資本主義そのものが成立しない。

現代の用語で言うならインターネットで商品を注文したからと言って、その商品がネット回線から出てくるわけではなく、配送業者と言う人間が自宅まで配送してくれる、このハード分野のサービスが無ければネット注文が成立しない事のようなものである。

その上で資本主義や自由主義が進んでくると、元々個人事情の集積でしかない民意と言うものが暴走し始め、やがてこうした傾向に政治が同調し始めた時、そこに発生してくるものは社会サービスが最初に存在する「非責任社会主義」と言う事になる。

つまりレーニンが言うところの額に汗して働いている者が圧倒的に少ない状態であり、為に少し前にも記事にしたような「需要不足」や「消費の低迷」と言う表現が出てくる訳で、これは基本的に働いて収入を得ている者が少ないと言う事だ。

消費や需要には本質的過不足が存在していない。

経済は資本主義であれば膨張と収縮を繰り返すのが普通であり、社会主義では個人と言うミクロが満たされない事から、必ずミクロに対する容認が必要になってくる為、ミクロ経済では資本主義でも社会主義でも景気が悪くなったら消費を抑制させ、景気が良くなったら消費が増えると言う循環が存在して初めて好景気と言う状態が存在する。

景気が落ち込む部分が無ければ好景気もまた存在しようが無い。

この点で言えば社会情勢を踏まえた民衆の消費動向はいつの時点でも「妥当」なものなので有り、更に質素倹約は有史以来ずっと人類が美徳している思想にも拘らず、昨今の日本の在り様はまるで消費しないことが悪い事のように考えられている。

景気が悪い時の経済対策で一番効果が大きなものは「金を使わない事」に尽きる。

従って金を使わない事は悪いことではなく、無駄な消費が抑制されている事は大変素晴らしい事なのだが、これが忘れられてしまう背景に「非労働収益」が有り、何もせずとも金が入ってくる人口が増えると国家の人口がみんなこれを目指すようになり、元々働いて得た利益ではない事から消費抑制効果は薄く、ここを目標にマクロ経済が動いて行く事になる。

ちなみに「非労働収益」とは年金制度、生産ではない調整が業務の公務員、代議士等の国家予算によって収益が保障されている者を指すが、こうした収益を得ている人口が多い国家はレーニンが危惧した資本主義の侵食よりも更に深刻な資本主義の行き着いた先の社会主義、資本主義が周回して社会主義化した周回社会主義の侵食を受けている状態と言える。

またこうした周回社会主義の「非労働制」が一般化した民衆も、出来るだけ楽をして利益を得る方法を考えるようになり、ここに前出のネット通販を例に取るならネット通販会社が乱立し、でも実際に荷物を運ぶ人がとても少ない状態が発生し、いつしか注文した品物が人によって運ばれている事を眼前に見ていながら、認識できない社会が現れてくる。

消費は美徳でも何でもなく、どちらかと言えば忌避されるべきものである。

それゆえ消費が落ち込んだと言う事はむしろ民衆の意識として喜ばしい事であり、皆して自分が外食産業のオーナーの立場になったり、或いは観光産業関係者になったり、家電量販店の店主になる必要は無いのである。

だがこうした部分で評論家的に物事を考えると言う事は、既にどこかで労働の責任が無い、言い換えれば働いていないと言う事なのであり、このような事に気が付かない社会とは、もはや労働収益人口よりも「非労働収益人口」が多くなっていると言う事なのである。

繰り返し言うが「質素倹約」は美徳であり、無駄遣いをしてはいけないと子供に言い乍自分はそれを忘れていないか、経済と言うマクロを意識して自身が本来持っているはずの道徳観念が飛んでしまっていないか、額に汗して得た金の有り難さを忘れてはいないか・・・。

色んな物を買ったら次は消費が控えられるのは事の理であり、従って景気は良い悪いが繰り返されるのが正常な状態で、通貨もこれに同じである。

民衆の暮らしが景気の良し悪しで左右される振れ幅は小さい。
しかし為政者や行政はこれによって税収が落ち込む事を恐れ、レーニンの言う働かずに食っている資本家、周回社会主義に在る者は大きな不安を抱く。

そして景気浮揚の政策が為される事になるが、この時為される政策は間違いなく国民負担で有り、景気は一時的に浮揚してもまた確実に低迷し、だが一度決まった政策はそれによって変化しない。

ここに国民負担がのみが蓄積される。

景気浮揚策、経済対策、政策の本質は、それによって今存在する傷を将来更に深くするものだと言う事であり、民衆もまた一時の景気浮揚期に措ける欲望を蓄積させ、今と言う時の不満を探しながら暮らしている・・・。












「未来に措ける形」



大友裕子 傷心・・・・・・

丸盆などの裏を見ると、その裏面の端に緩やかな傾斜が付けられたものが存在するが、こうした形式を「畳ずれ」、或いは「畳ずらし」と言う。

畳の上で盆をずらした時、その角が畳目に引っかからないようにと加工されるものだが、最初に正確に作って置き乍、後にその一部を消失させて成形する形の在り様は、絵画の抽象技法と同じ概念かも知れない。

抽象絵画の巨匠「Pablo Picasso」(パブロ・ピカソ・1881年~1973年)の絵は、初めから人物などの形が歪んでいる訳ではなく、その初期段階には正確なデッサンが存在し、それが彼の感性によって歪められたり、通常の色彩感覚とは異なるものとなって行った。

ここに正確な形とは何かを考えるなら、時間経過による動きが発生するので有り、物の形や色彩のどの時点を表現するかによって同じ形でも相異が出てくる。

ナチスドイツの独裁者「Adolf Hitler」(アドルフ・ヒトラー・1889年~1945年)は「廃墟になった時の美しさを思って街を作る」と言うような事を言っているが、この概念はある種の「究極」である。

どんなものも形有るものは必ず崩壊し、命有るものは必ず死ぬ。

だとしたらその物の本当の形とは何か、生きているとは何かを考えるなら、それは廃墟と滅亡に究極を求めざるを得ないところに辿り着くが、ではその形が廃墟に化す前の形は偽りか、生きている事が偽りかと言えば違う。これも「究極」と言うものだ。

つまり形有るものも、形なき姿も、生きている事も死んでいる事も同じ一つの事なのであり、これを分けて考えてしまったところに人間の苦悩が有り、形に対する固定観念が存在してしまっている。

丸盆の裏の周囲にひと鉋(かんな)の浅い傾斜を付ける「畳ずれ」の概念の原初は「自然減滅」であり、簡略に言えば、使っている間に自然に減滅して行く部分を最初に持ってきていると言う事である。

どんな平板なものも、それを長く使っていると周辺部分から擦り減って来て、最後は自然減少した傾斜が付いてくる。

そして物の形に永遠を求めるなら、この擦り減って傾斜が付いた形こそ最も安定した形と言え、物理的に頭で考えた平面の概念より自然がやがてもたらすだろう、その形の未来の形を今に現したと言う事になる。

人間は何かに付け合理的な説明を必要としたがるゆえ、「畳ずれ」でも持つとき指が入り易いように、或いは畳の上をずらすとき引っかからないように、と言うような解釈をして安心するが、これもまた一面の理で有り乍、それは自然減滅が持つ原理の中の一つ、集合で言うなら自然減滅と言う大きな輪の中に、人間が考える合理的解釈の小さな輪が入っていると言う状態かも知れない。

基本的に畳の上で盆をずらして人に茶や菓子を勧める事が現実に存在するかと言えば、これは微妙である。

もし自分がそうやって人から物を勧められた時良い気分がするだろうか・・・。

ずらしの動作の本質は簡略形であり、本来は持たねばならぬところを、その距離の短さゆえに大袈裟にならないようにとの考えから出るもの、或いは「余韻」である。

従って「畳ずらし」とは簡略形の為の究極形と言う一種の矛盾を生じせしめる。

本当の所は形の完成度が先に存在し、そこに後から説明を設けたと考えるのが妥当、若しくは「行き過ぎた考え」と言うものかも知れない。

また自然の摂理として平面の真ん中より周辺部分が外圧を受け易い事は物理的にも、領土的にも同じ原理だが、こうした事は物に付いても言える事で、周辺部分が減滅した状態は「進んだ状態」、「より安定した状態」となる為、本来人間の思考経路が正常な場合、正確な直角は「禍々しい」と言う感覚が付きまとう。

しかし昨今の世界的な造形を鑑みるに、こうした配慮の無い、余裕の無い造形が多過ぎる。

周辺部分が減滅したように自然な傾斜を持つ形が未来に措ける形を今に再現したものであるなら、正確な直角は「未熟」、今しか見えていない浅さと、その精神の余裕の無さや「注目を浴びたい」「何とかして金に繋がって欲しい」と物に訴えさせているようなものである。

丸盆など1000年の昔から存在しているものの形が未来を見ていて、現代の形が今だけしか見えていない。

なるほど丸盆が1000年経っても残っていて、今作られている物の形が数年も持たずに消えていくのは当然の成り行きと言うものかも知れない・・・。

ちなみに角の定義で、どれだけ突き詰めても角の数値が0になる事は有り得ない。

従って角もまた面の一種なのであり、この面に無数の角度を付け、見た目になだらかな丸い角を作る方法は円周率の計算式と同じものになり、キャンバスに一本だけ線を引くとしたら、その線がどこに引かれたら完全になるかと言う命題も、未だ人類はみつけられずにいる・・・。












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Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

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「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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