「翼の折れた自律分散システム」



Michel Sardou - Vladimir Ilitch・・・・・

インターネットシステム中の情報で、自然発生的に出てくる増殖、集中は個人の情報検索がキーワードに従って集中し、その原初は僅かな突起だったものに次々検索が引っかかって成立する。

その原初の突起をnode(ノード)と言い、これは全体の中でどこでも発生する可能性を持ちながら、集中が始まるとそこが先頭になって全体を主導して行く形態を持ち、こうしたより多くの突起を持つサイトは、やがてその増殖によって全体の検索傾向をコントロール出来るようになって行く。

解り易い例で説明するなら、昭和初期それぞれの地域で営業していた雑貨店や八百屋などの専門店が、やがてあらゆる商品を一つの建物のの中に置いて販売する巨大小売店、デパートの出現によって淘汰された形態と同じだが、より多くのキーワードを持つ、或いはキーワードを提供する存在の出現によって小さなノードは淘汰され、やがては巨大なノードの独占的市場になった時、その巨大なノードは常に社会的正義や公序良俗に照らし合わせて自身を律する事ができるか否かと言う問題が出てくる。

つまり自社利益の前に原則自由意思で為される個人の検索と言う行為を、検索会社が操作する事が可能となっていくのである。

ちょうど古典的な資本支配の形と同じだが、巨大資本の小売店が時期を設定して大幅な安売りをし、最終的にその地域の競合零細他店舗を全て廃業に追い込み、そこから自由に独占的利益を出す支配構造、物品の場合はネット社会によって「場」の制約が無くなった為にこうした操作は余り効力を発揮しなくなったが、情報そのものが支配を受けた場合はどうするかと言う問題が発生してくる。

身近なところで言うならアメリカに本社を持つ大手ネット販売会社アマゾン「Amazon」の経営手法では、日本に措ける宅配業者の配送料金を自社で設定し、その価格に従わない宅配業者は排除すると言う形式が取られているし、アマゾンのレコメンデーションA9は現在世界最先端の機能を有し、基本的に一度アマゾンの顧客になった個人の情報は家族構成や宗教哲学、思考形態、更には交友関係や職場関係までデータとして取り込まれ、アマゾンを検索すると、そうした形態に合致する商品情報がトップに出てくるようになっている。

僅か通信販売会社のアマゾンですらこうしたダークな方式が採用されているが、似たような事はヤフーや楽天でも行われている。
だが未だアマゾンが世界シェアを独占する事は無いにしても、現在の段階でほぼ独占的に市場を支配をしている情報企業が2つ存在する。

その1つは「Google」(グーグル)で有り、もう1つは「Windows」の「Microsoft」(マイクロソフト)で、いずれもアメリカの企業である。

この2社が世界の情報検索を2分しているが、例えば2010年にヤフーの検索エンジンがGoogleの提供を受けることが決まった時、日本に措ける検索の市場支配率はヤフーが47%、Googleが50%ほどだった事から、Googleが日本で占める情報検索シェアの97%を独占する事になった。

つまり日本ではマイクロソフトが締め出しを食らったのであり、マイクロソフトの言を借りるなら日本はGoogleの意図する情報しか手に入れることができなくなった訳で有り、これは言い過ぎているかも知れないが、事実「Google八分」と言うアンダーも存在し、ここではGoogleに抗する者はGoogleの検索から排除されることも有り得るのである。

検索は本来個人がその必要性に応じて自由に集まった結果そこに情報が集中し、更にはその検索エンジンの支配を受けると言うことになってしまったのであり、このシステムは「自律分散システム」である。

渡り鳥が海を渡るとき、その先頭に立つリーダーは決まっていない。

たまたま先頭に立った鳥がリーダーになるのであり、この意味では全ての鳥がリーダーの可能性を持ちながら、そこでの発生因子は自然発生であり、また継続して最初の鳥がリーダーを続けるかと言えばそうでもない。

鳥はそれぞれが個で有りながら、全体を把握した個の動きをしているのである。

Googleの検索には著作権に対する概念が甘い事、プライバシー保護規定が知る権利を超えていないなどの問題、それに得られた情報が提携先にどのように利用されているかが不透明であり、やがて市場独占比率が更に高まると、そこに発生するものは個人に対する脅威である。

Googleの言いなりにならないと何も探せない、どんな広告も出せないと言うような影の不文律が発生する可能性を我々は注意して措かねばならないだろう。

そして日本が分かっていながら大型小売店に依存し、地域の小規模零細な商店街を廃墟にしてしまったように、情報検索の分野でも分かっていながら自分ひとりくらいなら大丈夫だと思う人間が大多数を占め、最終的にはGoogleの独占を許す展開になっていくだろう。

もしかしたら或る日、全ての情報検索が有料になる日が訪れないとも限らないのだが・・・・。

この脅威に対する解決方法は簡単である。

鳥と同じように全体を意識しながら自分が検索エンジンを振り分けて使えば良いのだが、金が金の有る所に集まるように、人間がより便利なもの、時間がかからないものから離れたり、それをコントロールして利用する事はとても難しい。

残念ながら解決策は解っていながら、それを実行できずに終わるだろう。

鳥の自律分散システムは皆が何とか海を渡る為のシステムである。
ここで自分一人ぐらいは大丈夫と思った瞬間から全ての鳥は海に落ちる。

結果として人も鳥も同じなのだが、人間の文明は「権利思想」によって既に「個」と全体が乖離している事から、自律分散システムを理解できても「個」が全体の利益の為に権利や利益を放棄できない。

ここに自律分散ステムは片翼を折られた状態になり、すなわち「個」が全体を考える責任を放棄すると、自立分散システムは唯の分散、混乱になってしまうのである。

個人が検索をする事は自由である。
だがその自由によって集中を起こすと、自分等が自由意思で選択した結果の集中によって自由が制限を受ける。

これを回避する方法は、個人が全体に対する個人々々の責任を果たす以外に道は無い・・・・。






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「溶融する国連」



Adieu Monsieur le Professeur・・・・・

権力は集中と分散を繰り返すが、この原因の一つに権力を担保する「権威の公平性」が有り、権威は暴力によっても成立するが、あらゆる統治手続きを暴力で為し続けることは、平和を維持する事と同じように不可能な事である。

そこには見かけ上でも正義や、皆が公平であると言う「正統性」が必要なのであり、この正統性の最も顕著な形が「公平性」となる。

だがこの「公平性」は常に比較対照のもので有る事から、あらゆる事象に公平性を求めると特殊が一般化し、ここに底辺から権力の分散が始まり、この段階でそれまでその地域が持っていた権力の秩序は崩壊する。

経済崩壊を起こしたギリシャ政府の政策は、一般的な職業までも公務員化し保障したことが原因の一端となっている事を見ても明白なように、公務員が持つ調整機能、言い方を返れば権限が分散されると、何かの手続きには小さな権力の束が必要になってくると言う事であり、始めからそれが束になっていれば手続きは簡略だが、これが分散していると大変な手続きになってしまう。

ここに1000個のトマトを販売しようとして、その販売許認可を得ようとすると、そのトマトを販売して得られる何倍もの時間や労力が必要となり、結果として経済は成立しなくなり、公平や平等の思想は必ず最後にこうした結果を発生させる。

国際連合(以下国連)には10の計画・機関が設けられ、その補助機関として20余りの機関が存在し、この中にはIMF(国際通貨機関)ILO(国際労働機関)、WHO(世界保健機構)などと言った予算額そのもが国連本体を凌ぐ規模を持ったものが有り、全ての分野で国連機関や国連計画とこの補助機関が重複し、実務上国連本体の機関や計画は機能していない。

また昨今の国際紛争に措ける調停事案に関しても国連事務局は全くその機能を発揮しておらず、この傾向は「潘基文」(パン・ギブン)が事務総長に就任して以来顕著になっているが、2010年度の国連予算40億ドル、PKO予算81億ドルのうち滞納額は本予算が4億ドル、PKO予算の滞納額は軽く20億ドルを超え、滞納が最も著しいのはアメリカである。

アメリカは拠出上限負担率である22%の国連予算負担義務が課せられているが、既に20年も前から国連が無駄な経費を使っている事を理由に負担金の拠出を制限していて、次に大きな負担義務が課せられている日本の10%と、そう大きな違いが無い金額しか拠出していない。

中国やフランス、イギリスなどは日本の半分の拠出金額であり、ロシアや事務総長を輩出している韓国などは上位10位にすら入っていない。

世界的な傾向として国連の重要性は薄れてきているのであり、紛争解決予算ではPKOの予算額が国連本体予算の倍額になっている事を見ても解るように、先の補助機関が本体機関を凌駕する機関になっている事と相まって、今や国連はその権力が各専門機関や補助機関に分散してしまっているのである。

PKOの予算拠出割合は常任理事国とその関係国の拠出割合が高く、この意味では全世界的意思決定予算ではない。

簡単に言えば「お友達集合予算」なのであり、アメリカと関係の深い日本はこうした場面でも多額の予算を拠出しながら、国際的発言力は無い状態なのである。

つまり国連の現状は必要な時に当事国が集まって物事を決め、予算もそれぞれに集め、名前だけ国連を使っている状態と言え、ここで国家的、政治的に独立した権限を持つ国連事務総長が国際紛争解決に奔走することなく、竹島を巡っては出身国である韓国の正統性を発言するなど、もはやそこに権威が存在していない。

今の国連は抜け殻なのであり、その中で日本などはユネスコが乱発している世界遺産登録などに一喜一憂している現実は、金を出しながら本体のキャラメルは人に取られ、おまけのシールを貰って喜んでいるようなものである。

ユネスコの活動には大きな懸念が存在する。

このまま各国の申請を国家間的平等を主体に、或いは人道を主体に許可し続けると、あらゆる場所が世界遺産になって開発や商業的活動が制限され、全ての地域が観光地化し、結果的にその遺産対象の、特に文化的な側面、基礎経済を破壊する可能性が大きい。

世界が後世に残さなければならない遺産など基本的には存在しない。
その時代を一生懸命生き抜く人こそが一番大切な財産であり、山や海は人の意思の外に在るものだ。

我々が後世に伝えなければならない事は、どんな事が有っても命を諦めず、争わず、みんなで仲良く暮らして行く、これだけだ。

こうした事すら叶わない社会や世界に在って世界遺産の指定など何の価値も無く、国連は列強国の傀儡にすら及ばなくなり、その僅かなお情けに群がる貧国の狭間で日本は金だけをむしり取られている。

国連の敵国条項は事実上失効しているが、しかし敵国条項から日本の名前は削除されていない。

まるで戦後保障のような形で、毎年アメリカに次ぐ予算負担を拠出し続けてきた日本は、これからの少子高齢化に鑑み、少なくとも敵国条項の削除を予算拠出の交渉として使っても良いのではないか。

国連に対する私の思いは、2009年9月23日にリビアの「ムアンマル・アル・カッザフィー」が行った国連総会の演説に同じである。

国連憲章など後ろへ放り投げるに資するものでしかない・・・。



「f/1で呼吸を吐く」



花咲く旅路♪:原由子_midi・instrumental_歌詞・・・・・・
肺の容積の85%を占め、成人一人当たりの総表面積が100平方メートルにも達する「肺胞」の機能は、静止している状態ではない事から、常に微弱な収縮と拡大を繰り返しているが、平均値は存在し、従ってこの平均値を最も安定した状態とするなら、周囲器官、気圧などにより平均値まで収縮へ向かう方が、拡大に向かう時よりエネルギーの消費が小さい。

この事から人間の呼吸は吸っている時の方が吐いている時より多くのエネルギーを要する為、息を吸っている状態の時に微弱な振動を起こし、呼吸を止めた場合も同等のエネルギーが必要になる為、結果として細密な作業をしている時の人間の呼吸は、ゆっくり弱く呼吸を吐いている状態になっているが、これは太極拳の要貞にも同じである。

つまり昔から細密な作業時には「息を殺して」とか「息を止めて」と言う事が言われていたが、これはまだ余裕が有る状態の事を言い、更にここ一番の集中が求められた時の人間の呼吸は「f分の1のゆらぎ」で有り、これは水が流れる音、英語のアルファベット中に存在する特定の文字出現確率に同じものと言う事が出来る。

生物の運動は基本的に回転運動の組み合わせで有る事から、これがどんなに複雑になろうと回転運動の基本原則から逃れられず、人間の場合の手の動きでも初めと終わりには力が入り、これによって例えば物を置く最初の瞬間とそれを離す瞬簡に、僅かだが置こうとした物をずらしてしまう事になる。

書の場合筆が紙に入る瞬間と、筆が紙を離れる瞬間に「迷い」が出るのはこの為で有り、これは紙と言う平面で有ればこそ「迷い」だが、その本質は「深さ」、「段差」である。

この状態で初めの段差を全く消滅せしむるには「流れ」、簡単に言うなら一本の必要する長さの線の1・5倍の長さから回転を合わせ線を引き、回転運動の最後は呼吸と組み合わせると緩和効果が出る。

つまり力が抜けた状態を利用して、筆が受ける振動を消す事が出来るのであり、この時に平均値まで吐く呼吸をしていればこれが可能となるものの、息を止めていれば筋肉の細かな微動が発生し、それは大まかには目に見えなくともシルエットに影響を及ぼす。

しかも人間は意識して呼吸を止める事は出来ても、意識して呼吸を吐くことは難しく、ここで無理に呼吸を吐くと、その事に気を取られて「震え」を生じせしめる事から、吐く呼吸は無意識に近い状態で為される事を要とし、あらゆる無駄を排したプラスマイナス0の状態が求められるのである。

従って全体の調和の中で体がその状態を作ってくれる環境と言うものが必要になる。

元々人間の体は神経伝達によって維持されていて、例えば好意を持つ異性に出会った時には、そうしなければと思わずとも心臓の鼓動が高鳴り、呼吸数が増えるのと同じように、その人間に危機的な状況が発生すると、それに体が連動してバックアップしてくれる仕組みなっている。

即ちその心が有れば体がそれを用意してくれるのであり、自分の最後にして最大の味方は自分の体なのだが、これに必要なことは「集中」で有り、極めた高い集中はあらゆる意味での分散に同じで、最もリラックスした状態のものと言う事が出来る。

頭から湯気を出してカチャカチャ音を出して仕事をしている姿は、一見一生懸命仕事をしているように見えるかも知れないが、本当に仕事を捗らせるなら余分な力を使わず音を立てる事も無く、一切の無駄を省いた動きとなる事が必要であり、この場合はまるで眠ったように静かに、しかも無表情で仕事が為されて行くものだ。

人間の口は意識や習慣が無いと微妙に開く構造になっていて、為に何かに夢中になっている時は少しだけ口が開き、ついでにまさにこの瞬間こそ呼吸を弱く吐いている。

それゆえ気が付かない間によだれを落としていたりするのだが、これがf分の1のゆらぎ呼吸の瞬間なのである。

多くを語る者の言葉は虚しいのと同じ様に、無駄な動きの多い仕事はその本質から遠く、忙しそうにしている人間の為している事とは「実」や「形」から遠いところを動いているものだ・・・。




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「アンチモラル・ショートストーリー」



R3hab - Samurai (Go Hard) [Official Video]・・・・・

「姐さん、よーけ人が来とりますなー」
「叉市、久しぶりで腕がなるやないけ」
「こないぎょうさん人が集まっとるのは久しぶりやで」

「それにしても自眠党にも女の議員やら大臣もおるのに誰も騒がんし、セクハラを受けた女も一緒になって議会の幕引きに賛成とは、よーけ解らん連中でんな」

「おのれは本当にアホやのー、みんな人間の前に党、女の前に党ちゅう事やないけ」
「セクハラ、セクハラちゅーて騒ぎながら、あいつ等は遠の昔に女を棄てとるちゅー事や」
「なるほど、そう言うことでっか・・・」
「せや、それに比べたらうちはどうや、今日のぶるーのスーツは清純そのものやろ」

「姐さんは今日も綺麗でんがな」
「叉市、お前は言葉が軽い」
「どや、そない言うなら今夜わての相手でもしてもらおうか」
「いや、それはちょっと・・・・」

「せやろ、女を褒める時はそんなら今夜一緒に寝てもらおうかゆーたら、分かりました言うくらいの覚悟しとらんと褒めたらあかん」
「せやからお前の言葉は迫力がないんや」
「へっ、すんまへん・・・」

或る地方議会で発生した議会内での女性議員に対するセクハラ野次問題、ネット社会はこれに過敏に反応し早速犯人追求ネット署名運動も始まったが、こうした世間のセクハラ盛り上がりに対し、当の議会はセクハラを受けた女性議員の会派も同調して、最大会派であり政権与党でもある自眠党の議案に賛成。

セクハラ発言は自眠党議員団の中から聞こえてきていたにも拘らず、野次を飛ばした自眠党議員一人が自首した時点で問題はこれで終わり、と言うような議案が出され可決成立した。

これに対して納得行かないのがネットで集まった人たちだった。
早速市民集会が開らかれ、そこには100名を超える人が集まり、セクハラ野次を言った議員を絶対許してはならない、徹底的に追求しなければならないと気勢を上げていた。

そしてどこからかこの話を聞きつけた女性問題と騒乱のプロである「斜民党」副党首の「福嶋水穂」と幹事長の「叉市政治」もまた集会に顔を出していたのである。

「姐さん、あれは民腫党の「連方」やないですか」
「なんやて、あの鳥ガラがまた性懲りも無くこんな所まで顔出しとるんかい」
「世も末やで・・・」
「まっええわ、それよりあの如何にも玄米しか食いませんゆーとるような、痩せた女がこの会の代表らしいが、その隣の金髪ブタは誰や・・・」

「何でもクリエーターにしてジャーナリスト、ネット情報通信のプロらしいでっせ」
「今回のネット署名もあの男が仕組んだらしいですねや」
「いけ好かんやっちゃのー、あの太り方は市民運動には向いとらん」

「第一セクハラ問題に男が顔を出してどないするつもりや」
「セクハラゆーたら痩せた女が言うから迫力があるんのとちゃうか」
「ブタはセクハラをはたらく方と決まっとる」

「姐さん、それをゆーたら別の問題が起こりまっせ」
「わては痩せた男が好きやねん」
「そう言えば民腫党の鳩川はんも痩せておりましたわな・・・」
「叉市、あの頃はほんまにあんじょうよう行っとたな」
「今夜はカラオケでも行こうか・・・」
「らぶイズおーばーを熱唱したるねん」
「・・・・・・」

「と言う事でして、今回これだけの人に集まって頂いた、この情熱をそれぞれが持ち帰り活動を更に発展して行こうではないですか」

「今日は斜民党の福嶋水穂副党首にもおいで頂いております」
「福嶋先生どうぞ・・・・・」

そのタイプではないジャーナリスト男性の案内で、思わず遠い日の感傷から我に返った福嶋副党首、僅かに滲んだ涙を指で拭うとマイクの前に立ち、聴衆達の前で胸を張った。

「今回のセクハラ発言は決して許してはなりません」
「女性の地位はまだまだ低く、社会的に虐げられています」
「この問題を更に大きく発展させ、社会に浸透させる活動を続けて行きましょう」
「女性の地位向上、原発反対、沖縄を返せ、こんな女性蔑視の日本にオリンピック開催の資格は有りません」
「最後まで闘って、闘って、闘い抜きましょう!」

ぶるーのスーツの袖が破れるのではないかと思えるほど高く掲げられた右手に、聴衆も皆拳を振り上げて熱狂し、更にここに至ってセクハラはどこかへ飛んでしまい、犯人追求、野次を飛ばした議員の辞職に主題が移ってしまっている事に誰も気が付かない。

だがこうして女性のセクハラ問題に男が入っているのと同じように、自眠党の女性代議士や女性大臣までセクハラ問題には歯切れが悪く、どちらかと言えば問題を大きくしたくないと言う側に回っている現実は、血と肉が闘っているようなもので、結果としていつかは立ち消えになる。

しかしこうして集まった組織は惜しい・・・。
次はどんな話題でこの集団を引きとめ、そして拡大していけば良いだろうか・・・。
肉感的な福嶋副党首とそれ以外は痩せた女達を眺めながら、その太った男は次の話題作りに思いを馳せていた・・・。

この記事は以前に2回ほど書いた「関西弁水穂ちゃんシリーズ」の3作目で、登場人物は全て架空、完全にフィクションですので、くれぐれもこの点ご了承ください。




「お瑕疵祭り」



映画 「レオン」(Leon)・・・・・

英語などのグローバル言語が日本語や他の独自言語を侵食する過程で、侵食したローカル言語の影響を受け、また一般化して肥大したグローバルの中で価値が絞り込めなくなり、ローカル言語の非常にローカルな慣習や言葉にグローバル言語が大きな影響を受ける傾向が出てくる。

ちょうど宴席であらゆる事が話題になった後話題が無くなり、会話が非常に劣化した方向に向かうのと同じだが、このような状態を「価値反転性の競合」と言い、これが更に進行すると、例えば誰かが箸を落とした、唯それだけの失敗でも見つけて話題にするようになって行く、これを「切迫コミュニケーション症候群」と言い、今や世界中の情報通信は話題の為に情報を探す、「反転情報社会」となっている。

これは一見情報やコミュニケーションが発達しているように見えるが、その実情報が飽和し価値観を失った「情報デフレーション」と言うべきもので、不足しているものは実際に会って会話したり、或いは眼前に生身の人間の存在する基礎コミュニケーションで、本質はコミュニケーションの衰退、形骸化と言うものである。

2014年6月18日、東京都議会で発生した女性議員に対するセクハラ事件で、セクハラ発言を浴びた本人も賛成しての事件幕引き議決と言う結果を不思議がる国民も多いが、これはひとえに都議は眼前に人間の存在するコミュニケーションであり、SNSなどのインターネット上の意見は眼前に人間が存在していないコミュニケーションだからである。

両方のコミュニケーションは事件を巡って同じ場に立っているものの、同じものでは無いのである。

人間の脳は基本的に時間的、空間的な制約が無く、為に有限も無限も正確には理解できず、ここで発生してくるものは「他」が存在すると「収縮」、「他」が存在しないと「拡大」と言う傾向で、多くの者は実際の社会生活の中で「正義」「道義」「人間性」が蔑ろになっている事を我慢しながら暮らさなければならないが、これが個人だけの考えだけなら幾らでも道義や理性、人間性を考える事が出来き、次第に拡大していく。

「女の分際で・・・」「フン、能無し男が・・・」と思っってしまった瞬間からセクハラは存在するが、これが実際言葉になっていなければ相手は認識する事が出来ず、セクハラは成立しない。
そしてこうした思いを外に出させないものが、社会であったり対面する人間と言うもので、この意味では議会で女性蔑視発言をした男性都議は、自民党と言う安定集団の中で社会的緊張感を喪失していたと言える。

しかしセクハラ発言を実際に浴びた女性都議までもが、この問題の幕引き議決に賛成した事をネット社会の住人は不思議に思うだろうし、納得が行かないのは道理である。
何故ならそれは議会と言う人間関係の中にいないからであり、それぞれの個人感情だからである。

元々東京都議で発生したことゆえ、東京都民以外は全て部外者なのだが、これが今を煌くセクハラや女性蔑視と言うキーワード、つまりはグローバルキーワードに引っかかった事から拡大し、そこへ実際の人間に顔を合わせる責任の無い個人の事情や感情がより劣化した話題を求めて集まった事が原因で、ここで過激な議論を展開する者の本質は現在の自分の環境に対する不満である。

またSNSなどでしかコミュニケーションを持たない者は、そこで置き去りにされる事を恐れ、ブログを書いている者は何某かの記事を書かねばコミュニケーションが保てない事から、ネット社会に圧される様に記事を書き、賛同を得られて自身の居場所を確認する事になる。

飽和した情報の中でよりローカルでセンセーショナルな話題を探し、それに乗って自己アピールをしているが、大上段に構えた言葉の本質は軽い。
セクハラでもそれを被った当事者ならそれも理解できるが、全くの部外者が社会的道義を盾にこれを許せないと言うのは不自然である。

人は法や慣習、モラルを全て遵守して暮らしてはいない。
社会が理不尽な事も政治家が何の役にも立たない事も知っている。
にも拘らず社会的道義に照らして許せないと言う発言の基本は「自分の不満」を建前に乗せているだけである。

脳の思考形態は制約が無い為に一度加速すると暴走になるが、現実の人間社会の行動派その社会の一番劣化した部分を最高速度とする。
為に暴走した思考と現実のコミュニケーションには乖離が発生してしまう。

今回の東京都議の話題だけではなく、現在世界を駆け巡っている情報の基本は「イベント」である。
即ち大量の情報が動いてこその広告収入であり、利益である。

そこにインターネット接続会社が情報を煽り、自身の所に情報を集めて行こうとする意図の元であらゆる情報が提供され、それを元に一般大衆が騒ぐ、文字通り「祭り」なのである。

それも劣化したローカルな情報こそに真実味を錯誤した、人の失敗や瑕疵をイベント化した「お瑕疵祭り」の状態と言える。
祭りが終わったらさっさと次の情報に走り、前の情報は3日と経たずに消えて行く。
ジェンダーだ、セクハラだ、日本の女性の地位はどうなっていると言った広義、大義はどうなったのだろうか・・・。

3日と経たずして過ぎ去っていくようなものに、絶対許せないと言うような大義が存在し得ようか。
皆セクハラなどどうでも良くて、自分の事しか考えていないと言えるのではないだろうか・・・。






「液体が流れる」



MYSTERIOUS LOVE (ひと・そして・愛) / 久石譲・・・・・

「臣」と言う文字の象形式は人間が伏目がちに下を向いた、その目の形を現している。

君主の前でかしこまっている状態を指し、「臣」と「臣下」は同じ形を自己に近いところから見るか、それとも「他」に近い概念から見るかの差、或いは周囲の人間の数による区別で、その形自体は同じものである。

「臥」(ふせる)と言う字は会意文字で「臣」と「人」が組み合わされたものだが、人間が下を向いて目を伏せた状態、この場合はうつ伏せに寝る事を指し、この行為の古くは最も大きな服従を意味するが、同時に敵に襲われた時にも同じ動きをする。

最も深い儀礼の形である「五体投地」(ごたいとうち)は文字的に投げると有るが、形としては臥せるに同じで、最も深い服従と最も大きな脅威に対する形は同じものだと言う事であり、君主に対する臣下の礼は「敵ではない事を示す」のが最も正しい有り様、疑いを持たれないと言う点に有ったと言う事で、この裏を返せば君主の周囲は敵ばかりだったと言う事になる。

そしてこの「臣」に「臥」「目」「見」を加えると「覽」(覧)になるが、これは物を下に置いて見る状態を言い、更に「監」に至っては水鏡を見る事を指していて、皿に水を張ってそれを鏡として自分を見る状態を指すが、後にこうした水鏡は青銅を研磨した鏡に変化していった為、「監」の隣に「金」を付けて鑑(かがみ)となり、従って鑑の本質は自分を見ると言う事、或いは何かを映し出す事を指している。

如何だろうか、一つ人間が下を見る動作でも漢字はここまでのニュアンスの違いを現しているのである。

「臣」と言う字は状態に起源が有る事から、これは自身よりも「他」から見た姿なのであり、これが「覧」になると当事者の事になり、監に至っては見渡す事を指すため、土木工事などで上から下の作業員を見渡している形を指している。

つまり本来は恐れ、或いは畏れから目を上げられない状態だった「臣」は、組み合わされるといつしか人を見下ろす形を現すように変化し、やがては「鑑」に見られるような内的、心的自己の表現となっているのだが、相変わらず目は下を向いた状態なのである。

また話はずれるが「丙」は「火」の意味を表すが、その起源は「尻」を左右に開いた状態を指し、これに「儿」を加えると「免」となる事を考えるなら、本質的にはこれから性交に及ぶか若しくは排泄、それで無ければ赤子の泣き声を意味していた可能性が有る。

「免」の「儿」は液体が流れる様を表していて、「免」は「丙」と人がしゃがんで液体が流れている状態を指している。
人がしゃがんで尻を大きく開き、そこから液体が流れる様は「分娩」である。

古代中国の出産分娩はしゃがんだ状態で為され、この状態が「免」である事から、「免」と言う字の起源はおそらく「娩」であり、これが狭い状態を通る事を意味するようになったと考えられ、「儿」のかわりに左右の人間の手が添えられると「奐」になり、これは大きく股を開いた状態に手が沿えられる、つまりは母親の胎内から赤子が取り出される様を現している。

後年「奐」に更に手が加えられ「換」となるも、この「換」はそれまで母体としては全てで有った胎内の大切なものを取り出す事を意味していて、「換」はそれによって取り出されたものも、元から有るものもそれまでの姿に戻るか、或いは何かが改善される事を意味しているかと言えばそうでもない。

「換」は事態が改善する事までを意味していないのは、当時の出産に危険性が付きまとっていたからであり、場合によっては子供が死に、時には母親が命を失い、或いは両方とも命を失う事もあった。

それゆえ、「換」は必ずしもそれによって事態が好転する事を意味していないのであり、我々が今日「交換」と言う文字を使うとき、それによってそれまでの事態が改善するのが当然と思うのは間違いである。

事態が悪化するのも好転するのも「換」で有り、ここに現代のような希望的観測の無い厳しい現実を現した漢字の起源に私は感動する。

「免」はこのように出産にかかわる言葉だったのだが、狭い産道を通って生まれて来る子供の有り様は、とても狭い場所を通る意味に使われ、勉強の「勉」等は狭い門を通る時、弾みや力を入れて通らねば通れなかった事から、「免」に「力」が加わっている訳である。

最後に「儿」と「川」の違いに付いて、「流」と言う漢字が有るが、この起源は逆さまの「子」と「川」を起源としていて、生まれて来る赤子は頭から生まれて来るのが通常で、この逆は逆子になる。

それゆえ「子」を逆さまに書いた時は正常分娩の子供の姿を現し、そこに「川」が加わると、出産に伴って母親の胎内から液体が流れ出る事を現している。

では「免」の「儿」も同じ母親の胎内から液体が流れている様を現しているが、「流」が「川」なのは何故か、両者は同じものを違う形で表しているが、この差は立体と平面の差で有ろうかと思われる。
即ちしゃがんで出産する場合の液体の姿は「儿」だが、寝た状態で出産する場合の形は「川」である。

つまり時代によって出産の形が違ってきている事を意味しているのではないと推測され、具体的に言うなら、その地域の主導権に変化が有った、それまでの習慣を持つ集団が端に追いやられ、新たな集団が主導権を持った持った可能性が考えられるのである。

「流」の本来の文字には「三水辺」が無かった。
赤子と川は出産の有り様だが、それが大きく概念される水の形を出産の事象になぞらえ、流れると言う文字になったのであり、「儿」や「川」は人の状態である。

液体が何かを示したのが「水」を加えた「流」であり、後年こうした区分が曖昧になり、古い意味を現す「儿」や「川」と同じ状態を現す文字となった。

漢字の起源は象形文字である。
それゆえその初めは状態を現すものだったが、その状態とは人間にとって都合の良いものも悪いものも存在し、それらが区分されない事で、或いは「換」のように先の結果を求めずに表現されていた。

だがこうした漢字の良い部分だけを使い、都合の悪い、或いは悲惨な事を避けて漢字を使うと、それは正確な自然の事象や人心、人の世の現実を現せなくなる。

漢字が持つ正負両方の有り様は、それが事実を形にした象形に端を持つゆえ、常に状態であり特定の意味を限定しない事から、言葉にならない感情、個人個人によって少しずつ異なる現実に対する意味を包括するに至った。

つまり何も無いから全ての意味を現すことが出来たのである・・・。









「楚王のリスク管理」

中国古典「説苑」の「楚、壮王」のくだりに、少し面白いエピソードが乗っている。

ここでは位の高い女給に対し、セクハラをはたらいた男と、それを処する壮王の話が出てくる。

宴会の席で蝋燭が切れてしまい、室内は一瞬にして暗闇となった。
これ幸いと、給仕をしていた美しい女性の着物のを裾を引っ張った壮王の家臣、しかしこの女給は王の親族で位が高く、家臣の無礼に激怒し、そのセクハラをはたらいた家臣の冠の緒を引きちぎる。

そして壮王にこう言うのである。
「壮王、今しがたこの暗闇に乗じて、私に狼藉をはたらいた者がおります」
「私はその者の冠の緒をちぎりました」
「どうぞ、今すぐ灯りをともし、その者にきつくお叱りを与えてください」

これに対して壮王は女給に「そもそも宴会を開いたのは私であり、また蝋燭の不備も私の責任である、謹んで私がお詫びする」と言い、女給に詫びた上で、宴席に出席していた者全員に冠の緒を引きちぎるよう申し渡し、その上で蝋燭に火を灯させるのである。

それから数年後、なぜか戦の度に命も省みず戦う、勇敢な家臣がいる事を知った荘王は彼に尋ねる。
「どうしてそこまでして、私と楚の為に戦ってくれるのか」
その家臣はこう、語る。
「いつぞやの宴席では、私が給仕に狼藉をはたらき、それを荘王に救われました」
「くだんのおりの御恩は生涯忘れません」

後年、この家臣は壮王の為に命がけで戦う、楚で最も勇敢な家臣となった。

楚の壮王は名君として誉れ高い人物だった。
そしてこうした話が残っているところを見ると、2000年以上も前からセクハラは存在し、その対処は非常に重要だったと言う事である。

そしてここからが重要なのだが、正義と言えば振りかざして糾す、と言う 使い方が一般的だが、正義の使い方は実はこれだけではない。己の利の為に使う用法も習得しておかねば、正義の半分を捨てているに等しい。

正義と言うのは振りかざして糾すと、その糾された者は何かを失う事から、団体やグループ全体を1つと考えるなら、総量的にはマイナスになる。
出来れば総量的マイナスを減らして、荘王の場合なら女給と家臣の内、どちらが自分の利になるかに鑑みるなら、家臣である。

それゆえ家臣を擁護し、団結心を与え、ついでに恩も売り、また女給も王が直々お詫びするのだから、これはこれで納得せざるを得ない。
つまり正義を使って誰も傷つかずに、荘王は自身を最大限売り込んだ結果になる。

正義と言うものは振りかざし、糾しても相手は傷つき、場合によっては恨みを買う事もある。
それを糾したからと言って、結果は必ずしも正義と言う、 大袈裟な名前程の効果を生まないのである。

糾すべき対象者が正義を最も理解する瞬間は、実はその糾されるべき正義から守られた時であり、正義の名の下に人を糾し、その人の道を壊し、或いは稀有な友となったかも知れない、若しくは自分の為に働いてくれるかも知れない者を封殺するなら、正義はマイナス面に使われた事になる。

正義と言う立派な言葉を、このように使うは如何ともし難く惜しい。
誰も傷つかず、人の道を塞がず、正義を理解し、そして己に利するなら、これ以上正義と言う名に相応しい用法は存在しない。

この考え方は、両側投資の概念と思想を同じくするものであり、現代社会が漠然としか理解していないだろう「民主主義」の出発点でもあるのだが、それはまた後の記事で解説しよう。

毎日、ネットの世界で誰かが正義、道義の名の下に叩かれている現代社会に鑑みるなら、それはまるで1万円札を破り捨て、足でさんざん踏みつけているのと同じにしか、私には見えない・・・。





「反転逃避美意識」

名称は伏せられるが実在する地域で実際に有った話として・・・。

商工会議所が会議所会員の事業者に対して独自の景気判断アンケートを行った結果、そこでは事業者から行政の恣意性に対して厳しい意見が多数寄せられ、代議士や市長との癒着によって事業者間格差が広がり、市民生活も困窮し、自由にものが言えない暗い社会になっていると言う回答ばかりだった。

これに対してアンケートを実施した商工会議所会頭は、「市民、事業者からの率直な意見だから」と、アンケート結果をそのまま公表したが、反発したのは行政と代議士系列の市議、市長、それに議会だった。
アンケートでは行政と代議士等の批判と共に、議会の無能ぶりに対する意見も多かったのである。

議会は早速このアンケートに対して議会を侮辱しているとして商工会議所にアンケートの撤回を要求、市民、事業者の忌憚の無い意見に対して議会侮辱を持ち出すトンチンカンぶりだったが、連動して市行政側も予算の厳しい商工会議所に拠出している補助金を全面停止し、更には通年だと会頭の任期は2回続けるのが慣例となっていたにも拘らず、当時の会頭の任期1回目が終わった時点で対立候補を立てられ、アンケートを実施した会頭は更迭されてしまった。

その後新生商工会議所は以前のアンケートは特定の恣意性が有り、市民の意見を反映していないとして新しいアンケート結果を公表したが、そこには「現状に満足」「行政は良く努力している」「発展が期待される」など以前とは全く逆のアンケート結果が、正規の商工会議所アンケートとして公表されるのである。

だが、商工会議所が実際に2度目のアンケートを行った形跡はなかった・・・。

この話は10年ほど前の事だが、おそらく地方と言わず中央と言わず、商工会議所や経済団体の行うアンケート結果は似たようなものだろう。

日本に措ける政治の歴史、権力の歴史は名目上でも民衆と言う「天意」を反映した時代が極めて少ない。
律令国家成立期には存在し得た「天意」による為政は、対外的な脅威によって意識されたもので、この点で民衆や国家、「天意」が次に意識されたのは明治政府成立期になる。

つまりここ2000年の日本に措ける政治の中で民衆が意識された政治の時期は2回しかないので有り、それは対外的脅威によってもたらされたものと言え、確かに日本は長い歴史上多くの対外的平和を維持したが、その要因は極東の島国と言う地理的偏狭が所以である。

日本の政治は対外的脅威が少なかった分、国内意識が高く、言い換えれば日本の政治は派閥闘争、親族闘争、権益闘争に主体が置かれ、「その先のビジョンを持つ」政治は極めて少なかったと言う事である。

「今のこの悪しき流れを変える」事は目指されても、この国をこれからどうするかと言う事が考えられた政治はおそらく明治政府の、それも初期だけだっただろう。

結果として新しい政治とは新しい為政者の勢力拡大、その関係者の権力的引き上げに伴う経済的利益に群がる者には有利になっても、決して民衆が益となる事は無かった訳で、例え新しい為政者が現れても政治はその為政者が拡大していく為に費やされ、その僅かなおこぼれが民衆の益にしかならなかった。

冒頭の商工会議所ではないが、日本の世論調査、アンケート結果は歴史上現在が最悪の状態と言える。

僅か3000名の意見を国内世論として発表し、安倍政権を支える為に、「アベノミクス」と言うガキの遊びのようなものを支える為にあらゆる政策が動き、これをひたすら真実を隠蔽しながら世論動向で後方支援するマスコミの有り様は、日本の情報信用を著しく貶め、我々は政府発表もマスコミ発表も全く信じられない状態に陥っている。

つまりあらゆる情報が意図的な誘導情報となっているのであり、こうした情報の中でも最も多くの信頼が必要とされる一般大衆の意識調査すら意図的に操作される現状は、既に世論調査が形而上の意味すらも持っていないと言う事である。

元々民意と言うものは現実と理想の相反した関係の選択であり、この点では統計学上の拠り所となる「中心極限定理」が初めから揺らいでいるだけではなく、例えば固定電話で回答を求めるなら、まず固定電話が有る事、昼間家にいる人と言う条件が出てくる為、これでは労働人口や若年層、傷病が有る人の回答が欠損する。

またインターネットを用いた場合、やはり若年層は既にスマートフォンへ移行している為、官公庁の職員、家でインターネットをしている高齢者や主婦などからしか回答は得られず、スマートフォンを用いた場合はインターネット利用人口、非スマートフォン利用者の意見が欠落する。

更に郵送による用紙回答方法では時間がかかりすぎて現状の世論を反映しにくくなる事、忙しい人は非回答になり、結果として調査回答が得られるのは時間や金銭に余裕が有る人の割合が傑出し、全ての調査方式で忙しい労働人口層、若年層、生活弱者とネット等を利用できない状況の人など、本来その意見が最も反映されなければならない人々の意識動向が欠落しやすい。

つまりどんな方式を用いようともサンプル人口が全体の分布と一致しないのである。
加えてこの情報速度の速い社会は大体1ヶ月もすれば以前の情報は忘れられるか、判断が逆転する傾向を持つ。
政治家の不適切な発言一つで国民意識はひっくり返る状況なのである。
昨日の意見と今日の意見は必ずしも一致するとは限らない。

それゆえこれまでも世論調査やアンケート結果と言うものは形而上のもの、言い換えればそれを扱う者の信用性や権威によって見せかけの担保が為されてきたに過ぎないが、現代ではこうした見せかけすら省略した形の、予め調査結果を利用する事が目的とされた調査やアンケートとなりつつある。

景気判断や国内人口の景気意識動向では、恩恵を被っただろう相手に対して意識調査をし、その結果を共有できる人に対して意見を求め、当初の政策の正統性を主張する手法が政府によって蔓延し、マスコミがこれを支えている。

文字通り金が無ければ立ち行かない、だからこれが優先されるのは仕方が無く、ここで厳密な意見を吐く者は全体に禍する者と言う考え方が通ってくるのだが、これは1990年から続く長い不景気とその後の気象災害、震災などがもたらした「反転逃避美意識」、非常時だから汚い事は見ないようにしてとにかく美しく、楽しいところを見ようよ」「良いところを発信しようよ」と言う国民全体の現実逃避思想に支えられたものだ。

映画館内では静かに鑑賞するのが基本的なルールだが、映画「アナと雪の女王」では皆で歌曲が合唱され、合唱を拒むと不思議そうな顔をされる。

東北の震災で使われた安易な「きずな」と言う言葉、オリンピック招致時の「おもてなし」、そして冒頭の商工会議所のアンケートなどと安倍政権にはどこかで共通する、美しい女の面を被った化け物のような気持ち悪さがつきまとう・・・。









「分裂統合症候群」



Yuna Ito - Endless Story・・・・

Aと言う人と話している時、Bと言う人と話している時、更にはAとBに自分を加えた3人で話している時の自分は必ずしも一致したものではない。
Aには話せてもBには話せない事も有り、AとBが同時に目の前にいる場合、自身の態度は3者の集合重複部分で成立している。

解り易い状況を例に取るならAが男でBが女、自身が男女どちらかだとすると、自身の態度や思考傾向は全ての状況に対して統一性を有しない。

人間の状況に対する判断や対応は即時性のものであり、この点では状況に応じて分裂したものなのだが、問題はこの分裂に時間経過区分や整合性を持たせる為に自身がどのように整理しているか、記憶しているかと言う部分である。

精神障害の分裂症状は、現在では統合失調症と表現される事が多くなったが、この症状は脳の機能障害や遺伝によってそれぞれの時系列に措ける行動の整理統合、時間経過区分を記憶分類できない状況を言う。

だが、元々人間の状況に対する判断は初めから分裂であり、障害となるかそうではないかの分岐点はひとえに「自己認識」による。

それゆえ状況に対する結果は同じでも、自身の行動を認識しているか否かと言う事によって社会生活に適合できるか、或いは適合できないかの判断が為されるが、障害の有る者が発生させる問題は、せいぜいが「結果として嘘になる」行動による迷惑に留まるが、逆に認識される分裂、その分裂に麻痺を起こした社会的健常者の引き起こすものは、悲惨な事件を発生せしむる事になる。

「非認識」がもたらすものは自身の言動に対する「非整合性」であり、この場合は社会的整合性を欠く事から、以前の言葉が現在に措いて担保出来ない、つまりは結果として嘘となってしまう事が多くなるが、逆に状況に応じて分裂した判断をし乍、自身の内に整合性を付ける程度を大きくしてしまうと、現実から乖離したまま社会的整合性を保った状態が発生する。

冒頭のAとBの例を挙げるなら、AとBが恋人同士で自身をAの親友Cとするなら、最近女のBはCとも付き合っていて、この事に対してその当初はCも罪悪感を持つが、その状況が長くなると罪悪感が麻痺し、やがてはそこに自己正統性の感覚が発生してくる事になる。

その上でBとCの関係が益々深くなった場合、Bに取ってAの愛は、その感覚が深くなればなるほど恐怖、若しくはCと共通した邪魔な感覚となり、最後はBとCによってAが排除される道を辿るが、これは家族親子でも同じである。

人間が社会的モラルや道義を失う原因の最大の要因は、第一次欲求、食欲や性欲によるものであり、これは基本的に「生きる」事に端を発している。

意識しようとしまいと、人間は言葉でどう言おうとも自己存在を否定できず、この中では自身で犯す自身のモラルや道義に対し、自己解決や整合性が付けられない場合、その責任を対象者や状況に転嫁し、こうした状態を続けていると「転嫁」そのものを省略して何も感じなくなる。

状況や自身の非整合性に対して整合性を持たせる思考回路は、自己存続と言う生物の脳が持つ基本条件に始まっている。

従ってこうした「麻痺」する感覚は生物学上必要な機能でもある。

忘れる事、慣れる事はある種のバイオプログラムでも有るが、問題はこれが第一次欲求や自己存続に連結している事であり、この点を鑑みるなら人間のやる事には実は「際限がない」
つまり「何でもやってしまう」のである。

2014年5月30日、神奈川県厚木市のアパートで「斉藤理玖」君(5歳)が衰弱死した遺体で発見され、これは父親の扶養義務放棄によるものだった。
母親は父親の度重なる暴力から逃げるように家を出てしまい、父親も新しい女性と交際が始まった影で起こった悲惨な事件である。

人間がやっていることは基本的には未来計画も含めて現状対処である。

重大性は「頻度」によって左右され、第一次欲求、今の時代で表現するなら生活と言う経済、そして男女交際と言うもので別枠が出来てくると、前の枠は少しずつ遠ざけられ、それでも前の枠に生きている子供に取ってはそれが全てである。

どれだけ忘れられても放棄されても親にすがるしか生きることが出来ない。
これをして究極の愛と言うものなのだが、その愛は逃げる者にとっては最大の恐怖になって行く。
やがて衰弱した子供をもし病院に連れて行けば自分が扶養を怠った事が発覚する。

父親は今と言う自己保身の中で子供の扶養を分離して考えるようになり、はそこから逃げ、ここに至って問題の解決は自身の命によってしか償われない事となった時、生きようとするメカニズムは前に持っていた枠を夢のようにしてしまい、現実解決を怠ったまま今の暮らしがそれを分離、麻痺させてその日その日を送らせる事になる。

そしてこの父親は世間からどのように責められようとも言い訳など出来まい。
だがそれを責めている世間一般大衆にしても、程度の差は有ってもどこかでは分裂を抱えながら、その事は今は考えるのは止そうとしている現実を抱えながら暮らしている。

この父親の非道は我々の内にもまた存在し、責めている本人がいつかそのような事態に陥る可能性を常に内包しているものである事を認識して措いて欲しいと思うのである。

私がこの30年ほどで最も嫌な言葉だと思ったもののひとつに「自分へのご褒美」と言う言葉がある。

それまでの自己が持つ道徳やモラルの崩壊はある種の解放、拡大でも有るが、その拡大した自己の中に薄くても以前の枠を持っていないと、それを思い出すことが無いと唯の欲望の正当化にしかならない。

ふやけた、脳天気な「自分へのご褒美」と言う言葉は、どこかで今回の厚木市の幼児の育児放棄事件に繋がっていたような気がするのである。
自分へのご褒美とは、「怠惰」「甘え」「分裂」の正当化と言うものにしか見えない・・・・。

そして自分の持つ道義を守って生きようとすれば、愛を大切に思うなら、いつか自分の命を自分で絶たねばならない時が訪れるかも知れない。
それゆえ生物は常に生きるか死ぬかなのであり、この事をして生きていると言う事なのだろうと思うのである。

幼き魂の無念を思い、心から天の祝福の有らん事を希望する。




「未来の為に言葉を使う」

もう30年も前の事になるだろうか、わたしは日本と韓国の青年が交流する為の企画会議に出席したが、その動機はこれから日本はアジア各地の国と協力して行かねばと思う高邁なものだったにも拘らず、実際には交流会で韓国の同年代の女性と太平洋戦争を巡って誹謗中傷の応酬となり、最後は「何ならもう一度占領してやろうか」と暴言を吐き、係員からつまみ出されてしまった。

本当は会議に参加するまでは韓国の若者と親善を深めようと思っていたのに、結局のところ私は韓国に付いて何も知らず、その女性の態度が気に入らなかったに過ぎないが、それが最後には韓国と言う国家そのものを嫌悪する言葉となってしまったのである。

だがよくよく考えてみればナショナリズムや思想と言うものはこうしたものかも知れない。

先般長崎で横浜の中学生が原爆被害者の語り部を務める人に対して暴言を吐いた事が大きなニュースとなっていたが、我々はこれを報道だけを見て判断してはならない事を思う。

戦後70年近くなり、戦争の悲惨さを知る者が少なくなり、豊かで文化的な環境の中から生まれてくる者が多くなった今日、中学生が具体的な原爆被害の全容を知る由もなく、唯騒いでいたら「聞く気が無いなら出て行け」と言われ、それに対して反発したような気がする。

前出の自分の例ではないが、中学生の暴言は被爆者云々の話ではなく、単にそれを説明している人が気に食わなかった、その結果が被爆者に対する暴言へと発展してしまったように思う。

先の東北の震災でもそうだが「語り部」と言う存在については、発生した惨事の是非以前に私は違和感を覚え、それが結果として悲惨な経験を否定しかねない考えに繋がる場合も有るような気がする。

観光地を訪れると、どこからともなくボランティアが現れ、事細かにその施設や地域の歴史などを説明してくれるのは有り難いが、例えば金沢などは金沢弁の高齢ボランティアがそれを行っている事から、聞いているとどこかではとても傲慢で、「お前、500年前に生きていたのか」と思わず突っ込みを入れたくなる時が出てくる。

住んでいる地域を愛すると言う気持ちは国民皆が持つ気持ちだが、それはその地域ごとによって隔絶されたものだ。
従って自分の地域を愛する気持ちは、他の地域に対しては対立に近いものになり、これは「状況」に付いても同じことが言える。

どんなに悲惨な出来事が有っても、それは自分に累が及ばない限り人事であり、基本的にここに同情や賛同を求める心には卑しさが付きまとう。

同情や賛同は自分が求めるものではなく、「他」が判断する事で有り、この段階で皆と一体になった空気に同調しない者を排除しては、一番伝えなければいけない相手、もし理解したなら深く賛同するであろう者を門前払いしたと同じではないだろうか・・・。

人の言葉とは客観的事実、物証をも引き込んだ「主観」である。
どう思うかはそれぞれの判断に委ねられ、こうした自由な精神が有るからこそ、そこから本当の理解や賛同が生まれ、反発も大切な人の感情である。

ユダヤの格言には「全員が賛同する事柄は実行してはならない」と有る。
私も100人の人がいて100人とも同じ考えだったら、その会議や集会を警戒する。
皆が賛成と言う事は「無関心」か、その場しのぎで真剣な議論ではないと言う事、或いは特別な力が働いていると言う事である。

長崎の語り部の人が態度の悪い中学生にまず反発を覚え、それで注意したら今度は中学生が反発した。
被爆者に対する云々など遠い世界で始まった感情の対立が、そのお互いの立場から被爆者全体に対する冒涜になってしまった。
そう言う事だったに過ぎないと思う。

そしてこの中学生は全体に反した事になり、非難を浴びて無理やり頭を下げる事になるが、ここで生まれるものは本当の意味での被爆者に対する嫌悪である。

確かに中学生と言う立場では遥かに年長である人に敬意を示さねばならず、この点では彼も反省に資するものは有るが、同時に絶対的価値観で解説を行った語り部の人の、その価値観を共有できない者に対する扱い方、反発に対して更に反発してしまう心の浅さを私は感じてしまう。

実際戦争を経験した事も無い若い年代の者に、それを理解しろと言うのは見た事も無い世界を理解しろと言うに等しく、これは理解など有り得ず、理解したと思う者は勘違いである。
言葉はそこまで完全に人に事実を伝えることは出来ない。

だから私は「語り部」と言う制度が好きではないが、それをして後世に自分の意思を伝えようと思う者は、勘違いでも良いまず関心を持ってもらう事、そして一番最初にまず自分が否定されないような節度、人格を心に刻んでおかねばならないのかも知れず、その根源には自身を否定する相手に対する理解が必要となるのではないかと思う。

自身が否定された相手でも、時を得て行けばその否定した相手が自分の愚かさや狭さに気付く時も出てくる。
今だけを見て感情で言葉を使えば、やがて将来に措いて自分の意思を最も理解しようとしていた人間を排除する事になるかも知れない。

人間の判断は客観性や合理性、事実によって為されるのではない、感情による受容か否定しかなく、これは曖昧なところを彷徨っているものだが、それを確定させてしまうのが人の言葉で有り、事実や真実の前に人が有る。

私は今は恩師と思う人に初めて会った時、大きく反発し悪態を付いた。
だが、それから以後も何かと自分の事を気にかけてくれたその年長の人の気持ちが今になって理解できるようになった。
そしてあれほど反発したのに、今はかけがえの無い恩師と思い、師の志を引き継ぐ者と自負している。

だが、あの時「聞きたくなければ出て行け」と言われていたなら、くだんの人は我が恩師とはなり得なかっただろう・・・。
勿論、今の私も私たり得なかったに違いない・・・。








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Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

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「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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