「レトロプログラム」

「BSE](狂牛病)の発端は、人類の食人習慣から発生したウィルスがヤギへの感染能力を獲得し、そこから牛への感染機能を得たものと言う説が有り、発見当初は人体への感染は無いと考えられていたが、人体感染能力は限りなく疑われるところであり、しかも元々霊長類が持つウィルスだった可能性が有る。

我々の食の安全を脅かす驚異的なウィルスの発端は、人が人を食べる習慣から始まっているかも知れないのだが、今日でこそ人が人を殺す事を禁忌としているものの、その禁忌の正統性の歴史は人類全体の流れの中では普遍性的なものではない。

身近な例を取るなら150年程前の日本を考えても良い。
晒し首は日常茶飯事で、飢饉では道に死体が無造作に転がっている状態だった。

世界各地で人類が殺人に関して一定の理論を構築したのは何故か皆同時期になっているが6000年ほど前の事であり、4000年前にはそれが少し後退し、2000年前には正統性の数や幅が広がって、そこから徐々に殺人に関する禁忌意識の整備が進んで来る。

しかし現実に殺人の数が減少して来たのかどうかは判断が難しく、社会が醸成する宗教や思想は元々死生観を拠り所とするものだが、こうした殺人に対する禁忌の正統性が戦争を引き起こしている事もまた事実であり、戦争が無くなった時代が人類史に刻まれた時などこれまでに一度も無かった事を考えるなら、人は殺人をしたいが為に戦争や抗争を起こすのか、それとも戦争や抗争が有るから殺人が有るのかは、両手を打って拍手した時の音は右手の音か、否左手の音かと言う議論と同じである可能性が否定できない。

人間の性意識は生物学的には母親の胎内で決定されるが、これは半分の状態で、残りの4分の1は4歳までに、そしてもう4年かけて最後の4分の1が加えられ、やっと男女の概念、自分の性の意識が形作られ、これらに作用しているものは視覚とそれを通して得られる「言語」であり、言うならば半生体プログラムなのである。

だが「人間としての意識」と言うものは母親の胎内で基礎が形成されない。
それゆえ「人間としての意識」は社会や環境によって形作られる環境プログラムなのであり、この中で殺人に関する禁忌の歴史は比較的浅く、未だに男女の性意識のように生体プログラム化されていない。

どちらかと言うと社会のルールと言う側面が強いのである。
人類は何故人を殺してはならないのかと尋ねられた時、社会を外してそれに答えることが出来ない。
悪い事だからだめなんだとしか言いようが無く、では何故だめなんだと言われると答えられない。
牛やブタは殺されて食べられてもいるのに、人間と牛は何が違うのかと言う子供の問いに大人は答えられない。

でも皆が人を殺してはいけないと思っている、この部分が社会のルールから半ば生体プログラム化している部分なのだが、これを担保しているものが明確に社会である事が、性意識のように生体プログラムになり切っていない事を示している。

生体プログラムでは明確な理由が存在している場合、まだ完成されていない状態なのである。

そしてこうした生体プログラムは不完全では有るものの性意識同様、生まれてから4歳までの環境と、その後の4年間の視覚環境、言語環境によって形作られ、この期間に何かが欠損した場合と何かが過剰だった場合に変調が発生し易いと言われている。

レトロプログラムの発生が疑われるのである。
殺人に関する禁忌意識が通常よりは希薄な意識の人間が出現する事になるが、これでも濃度が存在し、その濃度の濃い者が犯す殺人は理由が存在しないのであり、男女比率はほぼ同じである。

またこれらの禁忌意識変調は必ずしも異常ではなく、性的な完成年代にピークを迎え、この年代で問題を起こさない者は変調が抑制される。
男なら精子が作られる頃、女なら排卵が始まる頃にピークが有り、統計でも常習性の無い無意識の万引きはこの年代が多く、特に女の場合は生理期間の無意識行動が多い。

殺人の禁忌意識は社会的なものである。
従って社会やそれが醸し出す宗教観を外したフラットな状態では、殺人はただの行為でしかない。
そこに理由は存在していないのであり、破壊は生物の持つ半分の本能である。

2014年7月27日発覚した、長崎、佐世保の高校一年生の女子生徒による同級生の殺害と死体損壊(切断)事件では、その動機の解明が重要になるが、この殺人にはおそらく動機が存在していないだろう。

精神鑑定で精神科医が質問した言葉に「そうかも知れない」と答えた、それが動機になって終わるだろうが、こんなことは意味の無い事である。
女子生徒は何千万人かに1人、何億人かに1人は必ず生まれて来るその1人だったと思う以外に無い。

犯罪の全てが理由が有って発生するわけではない。
後に「何であんな事をしたのだろう」と本人が思う犯罪も多いのだが、この佐世保の女子高校生の場合は、それすらも超えたところに原因が有る。

そしてこうした事件を完全に防ぐ事は不可能かも知れないが、生まれてから10年間の子供の環境、視覚を通した言語の環境を安定させる事でしか、我々は解決方法を見出す事はできないだろう。

視覚を通した言語の環境とは、テレビゲームやネットゲームではない。

母親の体温が伝わり、父親の子供を見つめる目の動きが有り、そこから感触や言葉を通して見ているものの整合性が理解し得る環境、それこそがこうした何千万、何億に1人のレトロプログラム濃度から子供を守る道かも知れない・・・。











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「その先を問わず・・・」



【Jubeat saucer x Reflec Beat colette】ZZ / D.J.Amuro (dj TAKA) Full Version・・・・・
「食」と言う漢字は倉庫に集められた良い穀物の「集」、穀物の良い香りの「香」の合字で、意味は代表的なものだけでも20以上存在し、一つの「観」を形成し得る広い範囲を持つ漢字だが、一般的に我々が認識している「食べる事」以外にも祭る事や祭られる事、騙される事、経済の事、耕す事に失っていく様、「お」や「す」、「け」のような形容詞的修飾、侵略や侵略される様、欠損していく過程、「職」の一部と「召」の一部、「寘」「受」「向」の連続性前過程を包括している。

この為我々が通常「食品」と言う言葉から受ける印象として食べ物などを思うかも知れないが、後に失って行く事の連続性が有り未来には失われる事、失われる品をも意味している事になり、「食わせる」とか「食わす」と言う事は、後に失われるものを与えたり差し向ける事、虚に近いものを与える事を意味し、簡単に言えば「偽ること」「嘘をつく事」も初めから含まれた意味を持っている。

つまり「食」は事が虚に転ずる一歩手前の状態を指していて、「食」が持つ「侵性」とは毎日ゆっくりと、しかし確実に穀物が減っていく倉庫を現していて、これが一滴づつ滴り(したたり)落ちる水が広がっていく様と対比関係に有って、そこから減っていく様と侵して行く様が当事者を離れた「無」、「天」から見れば同義と解釈されたのである。

従って「食」は失っていく事と、広がっていく事の相反を同時に概念しているのであり、集められた香りの良い良質な穀物は失われる為に集められ、尚且つ歴代中国王朝で良質かつ、薫り高い穀物で倉庫が満たされた時は僅かしかなかった。

また「食」が持つ動的意味は「相手を選ばず、全く意思を持たず、ひたすら前に存在するものを侵す」であり、これは生きる為には如何なる是非も問わず、ひたすら食べなければならない生物の本質や資本主義の原理に同じで有り、この対比線上には完全で有るか否かと言う議論の緩い否定が存在する。

「食」は僅かずつで有ろうとも前進、拡大以外に無く、後退が無いものなのであり、これはその先が如何なるもので有ろうとも否定、前進を止めることが出来ないもの、もっと言うならそうした意思を持てない無機質性の有り様と言え、自身で有りながら自身がコントロールできないものと言う概念なのである。

実に言い得て妙と言う事が出来るが、人間も心と体は表裏一体で有りながら、生きようと意識せずとも体は既に生きる方向に常に動き、死にたくないと思っていても体が死ねば終わりになる。
死で有ろう生であろうと、それがわが身で有りながらわが心では決められず、過去には戻れないのである。

そしてここに貨食(かしょく)と言う言葉が有るが、これは宝物を指すと同時に広義では経済を指していて、食の持つ動的意味や虚の一歩手前と言う在り様を鑑みるなら、実に良く経済の本質を捉えていて尚、人も他の生物も同じで有る事を示している。

その上で再度「食」の持つ先を問わない前進から見える「その先」を考えるなら、善も悪も無い、何も無いと言う事を現しているようにも思える。
結果は同じだと言う事である。

先般中国に在るアメリカの食肉加工工場で非常に不衛生な肉が加工され、それが大手のファーストフード店で販売されていた事実が発覚し、世界的な衝撃となったが、実際にはこうした不衛生な環境は昨日や今日突然現れたのではなく、その遥か以前から始まっていて、不衛生な加工肉も随分と以前から販売されていた事になる。

しかしそれで誰かが死んだか否かと言う事になると、死亡率は加工肉を食べた群れの人達も、食べなかった群れの人達も同じランダム数値だったはずである。
人間の概念する安全性と言うのは殆どがその印象である。

実は自然死、交通事故や災害、戦争や政情不安など全ての死亡案件を加えると、その国家全体の死亡率はそれほど激しく上下してはいない事が解る。
例え戦争が有っても、50年の単位での死亡率では平均化してしまうのである。

災害での死亡が減少すれば自殺が増えたり、そうかと思えば災害死亡が増加すれば交通死亡事故が減少したりと、その国家の死亡率や健康障害の確率は何か一つの要因で増えても、他の要因で減少したりして大きな変化が無く、特に食の非安全性で失われる健康障害増加率は他の事由によるものと比較して突出していない。

むしろ全く影響が無いと言っても良いくらいのものかも知れない。

農薬は危険だと言うが、現在長寿を全うされている方々は戦後間もない頃、今の中国より更に劣化した危険農薬食品を口にして命を繋ぎ、今日に至っている。
それに比して、少なくとも戦後間もない頃よりは農薬に関してデリケートな時代に生まれた若年世代の平均寿命は、現在より低下する恐れが指摘されている。

また食に関しても経済的にも豊かな先進国では、その食に対するデリケートさから硬い食べ物が減り、これによって咀嚼力が低下した為に性的感覚が減衰し、出生率が低下して人口減少を引き起こしているが、後進国で発生している飢餓による出生後死亡率を差し引いた出生率は先進国より高い水準にある。

この意味に措いてその国家の未来に対する希望とは先進国が良くて、後進国が希望が無いとは言い切れず、むしろ社会が高齢者で満たされていない、若年世代で満たされている後進国に利が有るとも言えるのである。

「食」が持つ全ての歴史上の概念を理解することは難しいかも知れない。
それほど多くの事を経て「食」の概念が作られているが、基本的には「余り多くを考えるな、先が有ったらそこへ躊躇なく進め」と言うことなのかも知れない。

「食」は、それを消費する者も、作る者も自分の命の為にやっている事である。
だからどちらにしても最後は限度を持たない。

本来金を払えば良い、国家が規制すれば何とかなると言うような、贖い方の出来るものでは無いのかも知れない・・・。






「よぉ」

他の発音も同じ事だが、例えば「ヨ」と言う単発音は厳密には存在しない。
上に隠れた「イ」が付く「ィヨ」、下に隠れた「ウ」が存在する「ヨゥ」、「ヨォ」「ヨー」「ヨッ」「ンヨ」などの発音のバランスシートの中心に有るのが「ヨ」であり、発音的には「イオ」と「ヨ」は近似値である。

そして「イオ」や「オ」等は基本的に魚を指しているのだが、「イオ」等の発音は「ヨ」の展開図発音と言え、「ヨ」と「オ」の発音では「オ」が「ヨ」の終息発音となり、「オ」の弾み発音が「イ」となって「ヨ」を形成する。

この意味では実際の発音で、「イオ」と発音する方が楽か「イヨ」と発音する方が楽かと言えば、「イヨ」と発音する方が遥かに安易で有り、魚を指す「ウオ」の発音の以前に「イオ」や「オ」が在り、これと同時平行で「ヨォ」や「ヨゥ」が存在していた。

「ウオ」の発音は「ヨォ」などの発音よりは新しい発音で、元々は地方言語だった発音がグローバル化したものである。

この為、現在でも「イトヨ」と呼ばれる魚などに見られる、最後尾の「ヨ」などの形で、魚を「ヨ」と発音する形が残されているが、これは糸状の魚と言う意味で、漠然と魚を指す場合は「ヨゥ」や「ヨォ」と発音する言語が昭和45年前後まで日本各地に残っていた。

またこの「ヨォ」などの概念は基本的には川魚か、それに近い場所の魚を指しているが、この経緯は日本古来の魚の食習慣に起因する。
律令国家、平安期共に日本で消費される魚はフナやコイ、アユ、ウグイ、ハヤ、ジャコ(雑魚)などが一般的で、海の魚は大変貴重なものだった。

その為、魚を意味する「ヨォ」とは、その多くを川魚で概念していたのであり、貴族文化的文書記録にも、一部では「ヨォ」に近い言語が残されているが、「ヨォ」は発音言語で有った事から、庶民の口頭言語として発展したものと見る事が出来、「ヨォ」を文書化する場合、「イオ」や「オ」の方が表現として容易だったと言う事になる。

「ヨォ」が範囲する魚の概念は状況認知言語であり、「鳥」と言う言語が話の前後によって鶏となったり野鳥となったりするのと同じで、この範囲が鳥よりは少し狭い「状況を指す言葉」である。
更に「ヨォ」と言う発音が指す魚は体長20cm以下の川の小魚、しかもそれが若干群れた状態を指している場合が有る。

それゆえ「ヨォ」を最も狭く概念するなら、川で小魚の「ジャコ」と言う魚が群れている状態を指し、一般的に魚の群れの移動は全体が同じ方向に移動する形態だが、「ヨォ」が指す群れの形状は円心状のランダムである。

つまり餌を与えている、そこへ小魚が集まってきている状態を包括していると言う事で、名詞がかなり漠然とした動詞を含んでいる点は大変珍しいが、中世までの日本の言語はこうしたものが多かった。
言語や漢字、平かなが汎用性を持ち、それが整理編纂される度に、微妙なニュアンスを失ってきたのである。

幼き頃の夏の日、食べ物も傷み易く、ご飯などが変色して食べられなくなった時、祖母が「ヨォにやってこい」と言って、僅かなご飯が盛られた皿を私に渡したものだった。

私はその皿のご飯を持って、近くの川に架かる橋の真ん中に立ち、そこからご飯を下の川に落とすのだが、大体時間的にも夕方が多く、魚達もそうした事を習慣で覚えていたのだろう、橋の上に人影が立つとみんな集まってきて、落とされたご飯に集まっていた。

そしてこうした場所では釣はしなかったものだった。
誰が言うとも無く、施しをしながらそれを釣り上げる事が戒められ、小魚を余りご飯で育む豊かさがそこには存在していた。
言葉ではなく形で、姿でしか理解し得ない事が、世の中には沢山存在したものだった。

今ではこの村でも「ヨォ」と言う言葉を使う者はいなくなったが、私は時々ご飯が傷むと、子供の頃のように皿にご飯を盛って、同じように近くの橋の上からこれを落とす。
そうするとやはり昔と同じように小魚たちが集まってきて、いつしか私が橋を通ると小魚たちが集まってくるのである。

つい最近もそうして余りご飯を橋の上から落としていた時だった。

たまたま夕方のパトロールで巡回していたパトカーが私の後ろに停まり、中から警官が「生ゴミを捨てたらあかんよ~」と言うので、降りてきて下を見ろと言うと、集まった小魚達に彼は納得したように頷いたが、「人目に付かないようにやってください」とだけ言って去って行った。

「ヨォ」が「不法投棄」か・・・・。
日本がこれまでに失ったものは、結構大きかったかも知れない・・・・。

「ヨォ」と言う言葉を使うのは、もしかしたら私が日本で最後になるのかも知れない。

だが、この「ヨォ」と言う発音は「イオ」を通して、諸説ある「伊予の国」の語源になっているかも知れない事を最後に書き留めて措こうか・・・・。




「相反修飾言語」

桜の花が散る様に「はらはらと・・・」と言う表現が有るが、私達は現実にこの「はらはら」と言う音を聞いた事は無い。

「凛として立つ」の「凛」は音韻から始まる文字だが、人が立って「リン」の音が聞こえる事も無い。
「ひたひたと迫る足音・・・」も、人が歩いてひたひたと言う音がする事など有り得ない。
だが我々は「はらはらと・・・」と言う言葉の中に皆が同じように桜の散る様を思い浮かべ、凛として立つ人の姿を知っているし、ひたひたと迫る足音がどう言う状況かも解る。

このような表現を「擬音表現」、「虚音表現」と言い、視覚的にこうした形を持つものを「虚描表現」、或いは「虚構表現」と言う。

恐縮と言う文字にしても、人間が恐れて瞬間的に身長が低くなったり体重が減る事は有り得ない。
でもその姿は日本人が皆イメージできる。
蒼天(そうてん)の「蒼」とはどう言う色かを示せる者はいないが、その空の色は皆が理解できる。

芥川龍之介が松尾芭蕉の俳句を評した中で、このような実際には有り得ない音や情景を通して、他者にその場の感覚を伝えようとした技法を称賛しているが、厳密な事を言えば人間が使っている文字や言語の「固有名詞」以外は、程度の差は有っても全てが「虚」であり、その固有名詞も社会的約束である。

人間社会に措ける個人の行動はほぼ同じである事から、例えば桜と言えば、それぞれが思い浮かべる桜の木は違えども、基本的には桜と言う木を認識でき、同じようにその花びらが散る様を見ていて「はらはらと・・・」と言う情景も容易に理解する事が出来るが、「はらはらと・・・」と言う言葉が一番最初に使われた時、それを理解できた者は少ない事になる。

今日我々が平易に使っている言葉は、ある種我々の先祖が育み伝えてきた社会的には無意識に発展定着した表現と言え、その言葉も他の表現から影響を受け、そこから発生してきているものなのである。

我々が見ているもの、聞いているものとは社会が構成しているものとも言う事が出来、文字や言語は我々が持つ視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚などの「五感の幅」なのであり、「虚」を通してそれぞれの人間が見たもの、聞いたもの、触ったものや味などの「実」を示している事になる。

「虚」によって「実」を理解しているのである。
それゆえ文字や言語の表現が多く存在する社会は感覚的に豊かな社会と言う事が出来るが、一方文字や言語が多様化すると統一的表現言語が少なくなり、ここに表現の約束としての言語や文字が失われ、言語や文字の方向からも意思疎通が希薄になる社会傾向が現れ、年代や思想ごとに、経済的環境ごとに分離した社会が発生してくる。

日本の現在の言語形態は標準的な日本語、方言、英語、ラテン語属の名詞、科学専門用語、経済専門用語、メールなどの文書言語、携帯やスマホなどで使われる絵文字などあらゆる方向に発展し、それが入り乱れて既存言語の意味が変調し始めている。

「メチャ美味しい」などの言語はメチャクチャと美味しいが合わさったものだが、「滅茶苦茶」と「美味しい」は本来反対方向に有る言語で、例えば私が20代の頃に「メチャ美味しい」などと言ったなら、「馬鹿かお前は・・・」と言われたはずであるが、現在では70代の方でも普通にこうした表現をする。

私は若い者ならともかく、結構な年齢の者が「メチャ美味しい」などと言っている場合、その人間がどこかで軽く見えるし、信用できない。

意思疎通の初めに拒絶が出てくる事になり、漢字で書けば良いものをそれらしく英語で言って見たり、唯の受付案内をフランス語の「concierge」(コンシェルジュ)と言ってみたりと言う具合で、日本の言語は殆ど錯乱状態である。

ちなみに「concierge」とはアパートの管理人の事であるが、同じように「ソムリエ」などもその語源は「sommier」、つまりは日本で言うところの大八車であり、これが野菜にまでソムリエを名乗っている者も存在する現状は「stulte」(愚か者)の状態である。

そしてこのように言語が混乱してくると、社会が育む言語、「動詞」や「形容詞」が「名詞」に近付き、或いは名詞と合体した動詞や形容詞が発生するが、言語の名詞化は「単純化」を示し、冒頭の桜の花びらが「はらはらと・・・」と言う表現のように、涙を流す時にも同じ表現が有る様な表現の重複性を失う。

言語の意味が幅を失っていく結果、それに重さを加えようとして最上級の表現の上に相反形容詞や相反動詞をくっつけて表現するようになる。
これが「メチャ美味しい」などの「相反修飾言語」なのであり、これによって訪れるものは嵐のように激しい言語で有りながら、何も伝わらないと言う現象を引き起こすのである。

言語は修飾や装飾が多くなると、一見丁寧なように見えて軽くなったり不信を与えたりする。
「良い物」と「素晴らしい物」では本来「良い物」の方が「過」が無くて落ち着きが出るが、それは歴史上「良い」が最上級だった時期が長い為で、「素晴らしい」と言う表現の方が歴史が浅いからである。

日本の今の言語はこの「素晴らしい」の上に「メチャ」を持ってきているのであり、「メチャ美味しい」と言われても、湯気が立ち、ほのかな香りが漂い、温かくて、しいてはそこから遠い過去に手を引いてくれた祖父母や両親、自分の有り様などを想起させてくれる味を感じる事はできない。

人間の五感は現在、未来、過去を連動したものであり、我々はものを食べていながら景色を見て音を聞き、景色を見ていて感触を感じ、音を聞きながら風景を見て香りを感じている。
言語や文字は「虚」にして眼前に広がる現実を現し、そこに意味を多く含むものほど、より深く現実を知ることが出来る。

ただ悪戯に名詞をすげ替え、装飾の上に装飾を重ねた言語や文字では、何も伝える事は出来ない。



「法か血か・・・」


一般的に最高裁判所に措ける上告事案では被告代理人の意見陳述や口頭弁論が為される場合、判決は前下級裁判所の判決が逆転されることが多い。

最高裁へ辿り着くまでの下級裁判所での審理や口頭弁論の過程で、あらゆる証拠や事情、事実が殆ど出尽くしているからであり、最高裁以上の裁判所が存在しない事から、ここでの判決が最終判決となる為、上告は棄却、却下されるか、前下級裁判所判決の逆転しか無く、前下級裁判所の判決を支持する場合は意見陳述等を求めない。

しかし前下級裁判所判決の逆転判決が出る場合、いきなり前の判決がひっくり返る訳だから、被告原告双方の心情と社会的影響に対して一定の配慮が為され、最高裁が意見陳述や口頭弁論の機会を設けるので有り、この事から最高裁が口頭弁論の機会を設けた場合、それは暗に前下級裁判所判決が逆転する事を意味している。

また裁判所は上級審に行くに従って社会的概念が大きくなって行き、最高裁が持つ法の概念は「憲法判断」や「国家の利益」にまで及ぶ。
この為民法の基礎事案である婚姻や家族関係の裁判、調停に対しては「心情」よりもむしろ「法の整合性」「社会的公平性」が重視される。

これは何を意味しているかと言えば、家族や男女の事など心情に関る事は下級裁判所範囲に留めて置かないと、原則で一刀両断にしかなりませんよと言う事なのであり、2014年7月17日、北海道、四国、関西で父子関係の取り消しを巡って争われていた3件の上告事案に対し、最高裁は民法772条「婚姻関係に措ける子の推定」を判決の拠り所とした。

親子の法的関係はDNA鑑定と言う生物学的事実より、婚姻関係と言う制度によって成立するとしたのである。

その要因の一点は「法」の改正は「立法府」でしか為し得ない事であり、社会環境の変化に「法」が対応できなくなった場合、或いは一般社会の意識変化に「法」が追いついていなくても、裁判所が「法」の規定に特別枠を増やすと、そもそも本体の「法」が蔑ろになる為であり、この意味では集団的自衛権解釈のような解釈の違いによる「法」規定の変更を最高裁が認めなかった事は正しい。

今回の北海道と四国、関西に措ける父子関係を巡る訴訟は、DNA鑑定などによって発生した事実と、制度上の法的家族関係のどちらを裁判所が認めるかと言う争点が有ったが、元々民法772条の規定を見ても解るように、父親と子の関係は「推定」なのである。

母親はよほど特殊な例以外自分が出産するので、ここでは親子の関係は確定している。
しかし父親は自身が出産しない事から、生まれた子供との関係は婚姻関係に拠る推定でしかなく、婚姻が父親と子の関係を担保し、戸籍によってそれが社会的に確定した事を意味する。

民法第772条では事実を確定としておらず、推定を確定するとしている訳であり、今回の3つの裁判では婚姻関係中に妻が別の男性と関係を持ち、そこで生まれた子供が後にDNA鑑定によって生物学的には婚姻関係の夫の子供ではない事が判明し、そこから父子関係の末梢に関して訴訟が発生しているが、最高裁は権利は法によって発生するものであり、生物学的事実から発生する権利がこれを超えないと判断した訳である。

そして概ねこの判決に対する社会的論評は、何か釈然としないと言う印象かも知れない。また一部の評論家は「子の幸福」と言う観点からも現実に反して法や制度を重んじた場合、子供の将来が危ぶまれると言う論線を張っている者も多いが、ここでは何か基本的なことが忘れられている。

婚姻は相互理解と契約であり、ここで婚姻関係に有る夫以外の男性と関係を持ち、更には夫以外の男性のとの間に子を設ける事は、本来契約違反、犯罪である。

だが実際に生まれた子供と言う事実が有る限り、これを犯罪として処罰してしまう事は出生した子の基本的人権を侵す事から処罰規定がなく、民事上の賠償責任や婚姻関係の解消と言う形で解決が計られるようになっている。

加えて日本の現在の性意識の崩壊に対し、最高裁が婚姻の制度より事実が重いと判断した場合、婚姻関係に在りながら妻が別の男性との間に子をもうけても、それが認められる事になる。
ここに婚姻と言う制度の形骸化が発生するのであり、婚姻制度が混乱すると親子や家族の関係は不安定化し、それがしいては子の生存権を侵すケースを多発させる危険性が有る。

また夫がDNA鑑定で自分の子供ではない事を理由に婚姻関係を解消し、更には子供との親子関係も解消できるとしたら、DNA鑑定上の男性が子を養育できる場合は良いが、それが経済的理由で出来ない時は元妻はともかく、現実的に困窮するのは子である。

この事を鑑みるなら安易に現実を容認していくと、社会的な認証であり互いの信頼を法が担保している「婚姻」関係の意味が失われる。
婚姻と言う制度は性的関係を社会が認める制度であり、そこに存在しているものは社会意識が性的モラルを失っていく事に対する一つの枠、或いは調整なのである。

そもそも婚姻関係に措ける妻の不貞によって生じた出生が、子供と言う事実によって容認されるなら婚姻は意味を為さない。
またDNA鑑定を根拠に父親が扶養義務を免れるとするなら、いずれ偽造鑑定書が出現してくる事は明白で、社会全体がDNA鑑定をし始めた時、そこに現れるものは「不信」でしかない。

一見時代遅れで融通の利かない印象の有る今回の最高裁の判決は、家族や親子の関係は信頼と理解によって成り立つもので有る事を示したと言え、あらゆる事が発生してくる事実によって「仕方ない」、「今回は特別」だと言って基本的な事を蔑ろにしてきた日本の、その風潮に一本の線を引くものと言える。

眼前に繰り広げられる現実は人の心情に勝る。
しかしその現実を唯容認していては、やがて人の心は拡大し暴走する。
婚姻は国家が認める人間の関係であり、義務と責任が発生する。

婚姻と言う関係を安易に考えていた者は今回の最高裁の判決に鑑み、今一度その制度が持つ重さを再認識して頂きたい・・・。




「収束限界曲線」

ウィルスの本質はプログラムで有り、一軒の家を細胞に例えるなら、それが建てられる為の建築資材が整理されて縛られ、積み上げられた状態がウィルスである。
そして生物には3%と7%と言うキーワードが存在し、3%は「変異」、7%は「可能性」である。

生物が起こす突然変異の確率は3%から3・2%で、これは現在の段階では欠落か過剰なのだが、突然に発生する自然環境の変化に対して1方向の残存確率を持っている可能性が高い。

つまり3%の突然変異はそれぞれに方向を持ちながら、それが合わさって同種他者の全てが死滅しても未来にそれを環境に適合させた形で残存、再生する機能を持っていると考えられ、同じような事だが例えば巨大地震が発生する時、鳥類はその殆どが事前に反応して逃げるが、全てが逃げる訳ではない。

その選択がどう言う形で為されているかは不明だが、巨大地震が発生する場合でもツバメなどは平年飛来数の7%前後は後に震災被災地となる地域で巣をかける。

これは「確率分散システム」に似ているが、安全な場所と言ってもその場が100%安全な訳ではなく、必ず何某かのリスクを持ち、通常自然界の生物の安全限界確率は93%と言う事なのかも知れない。

だから93%安全でも、残りの7%のリスクがその93%の安全確率の場に発生した場合、全部がそこにいれば群れは絶滅するが、敢えてたった7%しか安全確率がない場所にも、その確率に見合う数の個体を残存させる事で、壊滅を防いでいるのかも知れない。

いずれにせよ1つの生物種族を壊滅させるのはそう容易なことではないのであり、これは強力な感染力を持つウィルスでも同じである。
必ず3%と7%のどちらかの確率に引っかかり、その種族全体に感染したとしても、全ての個体を発症させることは出来ない。

尚且つウィルスが個体に感染していく過程で、そこから変化が発生し、やがてその変化は加速度を持つようになり、感染がピークに達した時その初期の強力な感染力を失うか、或いは発症ダメージの希釈が始まってくる。

これを「収束限界曲線」と言い、強力なウィルスは急速に縮小して行く。

つまり自動車にセンサー式自動ブレーキを付けました、車線認識センサーによる自動ハンドル装置も有ります、ナビゲーションシステムを使って目的地を入力するだけで、後は寝ていても目的地に着きますとなれば、車を買って維持する経費を考えるならバスやタクシーで全て移動するも同じで、何かがどこかで一周してしまうのである。

もっと言うなら自動運転システムで事故を起こした場合、その責任はメーカーに有るか自分に有るかと言う事になった時、メーカーは既にそうした法的問題を避ける文言を販売時に付帯していて、結局それを頼った個人に責任が帰結するなら、自動運転システムはどこかの時点で社会システム上の限界点を持つに至るのと同じであり、これはインターネットシステムでも同じである。

そしてインターネットのそれは、どうも近未来に「収束限界曲線」に達する可能性が有る。
もうそろそろデータ管理にアナログ形式やマニュアル操作形式を加えて行かなければならない時期に来ているような気がする。

今回発生したベネッセの情報流出事件と同じような事件は1993年ぐらいから既に発生していた。
代表的な例では日本生命での保険加入者は、その後全く関係のない会社からダイレクトメールが送られてきていたはずである。

被害者が気付かない間に情報は売られていたか、関係供与されていたものと考えられ、こうした事は現在もあらゆる場所で表に出ないだけで発生している事は間違いない。

基本的に法整備が遅れているのが原因だが、ベネッセの情報が流出するのはある意味避けられないし、これは他の企業も同じである。
事業がインターネット専門の事業ならそれも可能だが、通信学習システムを販売している会社がデータベースのセキュリティを手がけるのは不可能で、外部の専門会社に委託しなければならない。

そして委託された会社は更にその下請けに委託し、下請けは人材派遣会社を使っている可能性もある。

極端なところでは、サポートセンターへ電話したら、中国語か日本語か良く分からないオペレーターが電話に出て更に混乱する事だって有る訳で、その時点で我々の情報はその中国の下請け会社に漏れている可能性も有る。

情報を全て管理するのは不可能である。
世界的には、アメリカ国防総省のコンピューターシステムにまで入り込む人間が毎年発生し、セキュリティシステムは長くても5年を待たずして新陳代謝され、その度に数百億円と言う投資を行って新しいセキュリティシステム構築しなければならない。

情報通信が発達し過ぎてその情報通信による弊害の方が増加してきているのであり、本質的には我々の情報はこれまでも、今も、これから先も丸裸なのだ。
それゆえここに以前使っていた「非利便性」を加える事で、全く別次元のセキュリティを考える時期に来ているのである。

情報の分散管理と、文書管理に戻すセキュリティ概念が出てきても良い時期だと思うが、セキュリティや管理に毎年何十億と言う金をかけるなら、1都道府県に1人の会社直結社員を置き、その者に全て文書記録でデータを保管させればデータ管理が区分管理され万一情報が流出しても、その区域だけに留まる。

一都道府県に一人、大都市には5人の人材を置いても、一人当たりの年俸を500万円とすれば、100人いても5億円である。

数十億、数百億の投資を行うよりは遥かに安く、文書管理なら100年ほどの管理期間が出来、更には危ういネットシステムと隔絶した情報管理が可能になる。

インターネット上の概念でP2P,或いはP4Pの概念は双方向による最短距離、最短時間の物流にも適応できるが、分散した情報管理形態に取り入れることも出来るように思う。
インターネットの通信概念をアナログ利用する訳で有る。

更に現行の法体制では違法性はないものの、ベネッセから流出した情報を名簿会社から購入してDMを送った「ジャストシステム」の非倫理性は、ベネッセのそれを上回る印象が有る。
仮にも教育システムの販売を手がけている会社が、適法か違法かすら明白ではない名簿会社から情報を買うなど、その時点で教育システム販売会社としての姿勢は疑われる。

情報が利益を生む社会では、情報に関する法も金銭システムと同じ形態にする必要性が有る。

即ち我々は毎年所得税を支払う時、その金銭の出所を記載しなければならないが、適法性の有る情報にはその出所の記載、或いはタグを必要とすれば、少なくとも国内での企業情報流出は激減するだろう。

情報を通貨と同じように扱う概念が発生し、社会的に責任ある企業は情報の倫理性を考慮しないと、社会的には認められなくなって行くに違いない。

インターネット社会は後暫くで「収束限界曲線」に差し掛かかろうとしている・・・・。
やがて情報管理コストが人件費を追い越し、ネット社会の利便性、速度が人の信頼に及ばなくなる日が必ずやってくる。



「おはぐろ美人局」



山本潤子竹田の子守唄.flv・・・・・・

「美人局」(つつもたせ)と言う文字を初めて見たのは、小学生の頃に読んでいた昭和史の中での記述だったが、当時の私には(びじんきょく)としか読めなかったものの、その文字から艶かしく、怪しい雰囲気に少しドキドキしたものだった。

ちょうど北朝鮮の「よろこび組」みたいなものを想像していたのだが、後年その意味を知って、幼き頃の印象もあながち間違っていなかった事を思い、今は感慨深い。

モンゴル民族が中国支配を強める時期、力によって他人の妻でも自分のものに出来る事が一般的だった、また妻は兄弟の仲では共通だった慣習を持つモンゴル民族が、中国で女が金銭的詐欺に使われる、夫婦してそれに加担する文化的背景に接し、これを犯罪と定義するようになった。

元々中国では女に騙されて金をぼったくられるくらいは、そう大きな犯罪の意識が無かったのだが、これを統制したのはモンゴル民族の意識だった。
従って「美人局」の語源は夫婦が共謀して妻が男を誘い、そこでのこのこ服を脱いだ男を夫が「俺の女房に何してくれるねん」と脅し、金を巻き上げる犯罪の名称だった。

だが、「つつもたせ」と言う言葉の語源は「ぼったくり」、中身の無いものを掴ませる事、或いはそのお膳立てを意味していて、古くは市で露天商が行う「籤引き」(くじびき)や懸賞付きの品物、法外な料金を請求する飲食店や酒店、イカサマ賭博などもみな「つつもたせ」と言い、「美人局」は後年の当て字である。

簡単に言うなら「いっぱい食わせる」事を全て「つつもたせ」と言うのである。

2014年7月9日、厚生労働省は全国の生活保護受給者が同年4月の段階で、前月より11292人減少した事を発表し、これは4月と言う進学や就職の盛んな時期と言う事が要因としながらも、景気回復効果も考えられるとした。

しかし生活保護受給者の受給資格は年々厳しくなり、その背景には地方自治体の財務状況の圧迫に有る事から、昨年に比べて今年の受給資格審査は一段と厳しくなっていて、「困ったらいつでも来てくださいよ」と言いながら、現実には受給申請者の、その困った度合いがどんどん引き上げられているのである。

つまり生活保護受給者の減少は、確かに4月と言う特殊性は考えられるものの、その他の要因は窓口となっている地方自治体のせき止めによって実現されている可能性が高い。

日本銀行は現在年間60兆円前後の規模で金融機関に資金を流しているが、これによって今年3月までの民間企業の預金残高は232兆円と約4%上昇したが、借り入れ金の伸び率は1%である。
上昇分の4%の内、3%が止まっているのである。

また同じように全国の金融機関を見てみると、こちらも今年3月時点で昨年同期より31兆円も預金残高を増やしているが、貸し出しは11兆円しか増えていない。
年間20兆円もの金が銀行で止まっている。
金が企業や銀行に留保されていてその下へ流れて行っていないのである。

更に政府が株式投資を促進させようと宣伝に余念のない「NISA」(小額投資非課税措置)、これは通常なら20%が課税される株式、信託投資などの売却配当益が年間100万円まで非課税となり、合計で500万円までが利用できる制度だが、この口座開設に殺到したものは60歳以上の年代層である。

実に65%が60歳以上の年代で占められ、本来若年世代の資産形成を考えて創られた制度でありながら、30代では6・5%、20代に至っては応募者全体の僅か2%しか利用していない現実は、ある種既に資産形成を終えた高齢者の資本移動、それも持っている者が更に有利になっただけに終わった形である。

ここでも制度や資金が既存によってせき止められ、本来その制度を使って有利ならなければならない世代が全く恩恵を受けず、しかし消費税は上がり物価は上昇し、公費、準公費負担は増加する一方と、若年世代や低額所得者の負担が、より金を持っている者へと吸い込まれているようなものなのである。

こうした事の社会的背景の基本は「不信」である。
簡単に言えば企業の設備投資や先行投資が進んでいないのであり、その原因は「アベノミクス」と言うふやけた経済政策の行き詰まりを予見した動きが有ると言う事になる。

日銀の量的緩和政策は解るとしても、必ずセットで行うとした行財政改革に至っては素案すら出て来ない。
唯紙幣を印刷し続ければその先どうなるかは馬鹿でも解る。

にも拘らず妙な時期に集団的自衛権の容認に情熱を燃やす安部総理に対して、国民はもとより、うまい事を言って減税と言う恩恵を受けた企業ですら、その言葉とは裏腹に安倍総理の方針に疑問を感じていると言う事である。

そして「国民の皆さん景気は良くなりましたよ、どんどん物を買ってください」「安心して投資してください」と言っているのだから、これは「ぼったくり詐欺」である。
景気回復と言う美女を餌に、国民と言う男から増税と既存勢力の安泰をむさぼり、法人税は減税された、公務員や国会議員に課せられていた震災関連減給措置も解除された。

だが国民には従来の負担に加え消費税増税、震災復興税の課税、物価上昇が課せられ、貧しい者が豊かな者を支えると言うのは、少しひどいのではないのか・・・・。

美人局の基本は自分の妻か、関係している女を使ったぼったくりの事を指し、それ以外の女を使う場合は「売春」である。
この事から既婚女性の「おはぐろ」が一般的だった江戸時代は、美人局詐欺は少なかった。

「おはぐろ」は人の妻、それに手を出すとヤバイ事は明白だったのである。

調子に乗って喋り過ぎた安部美人局、その口元から垣間見える「おはぐろ」に皆警戒感を持ち始めている。
しかも今の日本は万事が万事、どこかで何もかもが美人局的な傾向に有る。




「夏」

少し前まで今年は気温が低いなと思っていたが、気が付けば今日は台風の影響か既に気温は35度、存在する事自体が嫌になるような暑さだ。

父が脳梗塞で倒れ、母が死んでもう3年、いや、今年はもう4年目になるのか・・・。
7月になって、父が肝臓癌で大学病院へ入院してもう1週間、おかしなものだと思う。

朝4時13分頃に目が醒め、一番最初に納屋にいるツバメ達の為に窓を開け、それから父親の食事を作っていたのだが、その父が入院して家にいないと、田んぼの水を見に行っても1時間くらいの時間ができ、そこでこうして記事が書ける。

でもやはり私が記事を書いている時は、こうしたもので、私自身かそれで無ければ家族の調子が良く無い時なのだろうと思う。
だから必至に自分を救いたいが為に記事を書いているのかも知れない。

水田の畦の草刈りもやっと2度目が終わったが、それを追いかけるように最初に刈った田の畦の草が生えてくる。
時々雑草の中にいるカエルを草刈り機で切ってしまい、「すまない」と言いながら刈る草も、これから夏に向けて少しずつ湿度を失い、カエルも雑草にしがみ付いている事は少なくなる。

次に草を刈る時にはもうカエルに謝る事はなくなるだろう・・・。

雑草と同じように春に植えたナスやキュウリ、トマトにインゲン豆、ピーマンが毎日遠慮なく実を付ける。
種を蒔いて苗を作ったとき、それを多く植えなければこうした事にもならないのだろうが、種から芽を出した苗を私は棄てられず、結局全部植えて夏に収穫が間に合わない。

大量の野菜を何とかしようと思うと、毎日焼きナスとキュウリの酢の物、野菜炒めになってしまい、いつしか肉などが食べたくなくなってしまう。
どこかで年々体力が落ちていくのはこうした事なのだろうと、或いは自身が生物としてのピークを過ぎて来ているのだろうと思う。

Tシャツの首周りの部分にクリップで留めた小さな懐中時計が11時33分になった。
今度は妻の昼食を作る為に一端家に帰ればならない。
ジリジリと照りつける太陽の下、草刈り機を持って家の近くの橋を渡っていると、川の水面がまるで何かの生き物のように揺らめいて煌きを返し、私はそれに眩しそうに目を細める。

そして、その少し先にはつい最近捨てられ、隣の家に居ついているらしい、白とヨモギ模様の猫が土手に寝そべっている。

「お前は幸せなのか、私は幸せなのか・・・・」
そう問いかける私に猫は少しだけ優しそうな顔になった・・・。
いや、唯太陽が眩しかっただけかも知れない・・・・。






「えー、そんな・・・」

日本で初めてMRI(核磁気共鳴映像)が導入されたのは1983年の事だが、この原理は原子核が回転する事によって発生するランダム方向の磁性にラジオ波を当て、それが帰ってくる速度によって生体組織の画像を撮影するもので、正確には「nuclear magnetic resonance」、NMRである。

しかし「核」と言う表現が、放射線を使っていないにも拘らず誤解を受け易いと言う事から、日本ではMRIと表記されるようになったが、今夜はこのMRIにまつわる少し不思議な話で涼を得て頂ければと思う・・・。

2000年頃、某国立大学病院の内科医師で準教授だった「鈴木芳雄」医師(仮名・当時43歳)は、患者として訪れた「山形清子」さん(仮名・当時69歳)を診察、血液検査の中で一つだけ癌を疑う数値が有った事から、9月13日に医局の「大田祐樹」医師(仮名・当時31歳)に肝臓のMRI検査を指示する。

そして得られた画像を見た鈴木準教授は「やはりな・・・」と呟いたが、その画像には2cm前後のエコーが7箇所に渡って点在し、間違いなく肝臓癌である事を示していた。
鈴木準教授は翌日、大田医師に山形さんの血液検査をもう一度行う事、また部位の特定の面から超音波診断と、CT検査も併せて行う事を指示する。

9月20日、再度病院を訪れた山形さんはCT検査と超音波診断、血液検査を受けるが、その結果を見た鈴木準教授は我が目を疑う、血液検査、CT検査、超音波診断のどれを見ても有ったはずの癌部位が見当たらなかったのである。

間違いなくステージ2、ステージ3の進行癌だったはずだが、それがどこにも見当たらず通常の健康な肝臓のデータしか出て来なかった。
入院の手続きが取られていた山形さんはその後、組織細胞検査、再度のMRI検査を受けるものの、全く異常は発見されずに1週間後に退院した。

この事態に大学病院は早々にMRI機材の点検を業者に依頼するが、特に機材の不都合は見当たらず、その後このMRIは正常に作動し、いつしか山形さんの事は忘れられて行った。

だが、この翌年の8月後半、「山田隆」さん(仮名・72歳)が大学病院を訪れ、定期健診を受診したおり、たまたま診察を行った鈴木準教授は、やはり血液検査のデータから肝臓機能の低下を疑い、9月に入ってからでも再度MRI検査を受けるように山田さんに話し、それから10日ほどして山田さんはもう一度大学病院を訪れる。

この時山田さんを担当したのは、医局の「片桐祐子」医師(仮名・当時33歳)だったが、MRI検査の画像から殆ど末期癌の状態で有る事を鈴木準教授に報告し、鈴木準教授もこれを確認し、山田さんとその家族にはすぐにも入院して検査、手術が必要と告げられた。

そして9月24日、入院した山田さんはまず血液検査と超音波診断、CT検査を受ける。
だが、検査データを受け取った片桐医師は思わず「そんな・・・」と呟いてしまう。
何とステージ4にも匹敵するMRIのエコーは完全に消えていたのである。

片桐医師はこの事を鈴木準教授に報告、データを受け取った鈴木準教授も驚くと思っていたら、意外にも鈴木準教授は「そうか、ご苦労さんだったね」と言い、組織細胞検査と血液検査、MRIの再検査を片桐医師に指示した。

結局山田さんのその後の検査からは癌の兆候は完全に消滅していて、山田さんは10月2日に退院した。

鈴木準教授は片桐医師からMRIのエコーが消えていた報告を受けたとき、真っ先に去年の同じ頃に起こった山形さんの事例を思い出していた。
更には何となく同じ事になるような、そんな気がどこかでしていて、片桐医師に指示を出した後、大学病院の過去のMRI検査記録を調べはじめていた。

山田さんのMRIの画像撮影日が9月13日だったのだ・・・。
やがて鈴木準教授は或る事に気が付く。
9月13日、午前11時から行ったMRI検査には必ず肝臓腫瘍のデータが出て、その後これが消滅する事を・・・・。

少なくとも9月13日が日曜日ではない平日の時は、ここ数年、毎年同じ日の同じ時間の検査が同じエコーを映し出している事に気が付いたのである。

肝臓は人体臓器の中で唯一再生機能を持つ臓器だ。
だから自然回復の可能性は勿論有り得る。
事実末期肝臓癌患者の肝臓腫瘍が1ヶ月ほどで無くなった事例や、時にはほんの2、3日で癌が消滅した事例も有る。

だからMRIの肝臓癌の映像が後には無くなる事だって有り得る。
しかし、数年間連続して9月13日の午前11時に撮影されたデータの肝臓癌患者が、全て自然回復する事は有り得ない。

鈴木準教授はそれから後、9月13日にはMRI検査を実施しないように心がけたと話していた・・・。

MRIは核の磁気共鳴だから、磁気の影響やラジオ波の影響を受ける事は考えられる。
が、9月13日の特定の時間だけ同じエコーを映し出すような磁場や電波を発生させる事は、現実的に無理かも知れない。

また技師が故意に同じものが写るようにしていると言う可能性も極めて困難だ。
だとしたら、一体この原因は何だったのだろうか。

人間はあらゆる事象の中で不自然な事が起こった場合、自分に最も都合の良い解釈を選択する。
MRIは存在しないものを映し出していたのだろうか、それともこのMRIで検査を受けると、その瞬間から肝臓癌が治癒して行くのだろうか・・・・。
一体誰が何の為に・・・・。

我々が病気になったり、それが治癒していく過程は一見物理的、西洋医学的な原理に基づいているように見えるが、その実中には想像も付かないような理由で病気になったり、それが完治している場合も有るのかも知れない・・・・。




「民衆の声と無言の天皇」



加古隆 「パリは燃えているか」 太平洋戦争・・・・・

太平洋戦争で日本の敗戦が決まった時、アメリカがその復興と統治に関して専門委員会を設立し、そこで採択された仕組みが現在も日本の政策の根幹を為しているものが有り、その代表的なものが税制委員会と法制度審議委員会が提案した制度だった。

しかし太平洋戦争中、間接税でがんじがらめになっていた税制を、基本所得税主体とした税制改革は、戦後の日本政府の消費税設定から音を立てて崩れ、現在は太平洋戦争中に匹敵するほど訳の分からない間接税が横行する国に逆戻りしている。

また日本の新憲法制定に関して、民主主義を標榜するアメリカとしては、議会制民主主義の導入は必須条件だったが、こうした民主的な政治機構が日本で定着するか否かと言う点では疑問を持っていた。

日本人が完全な民主主義を手にするのは、難しいだろうと判断されていたのである。

そこで新憲法の権威の在り方に付いて、アメリカの法制度審議委員会は、基本的に日本でこれから選挙によって発生してくる議会制民主主義機構の政府を、完全に信用する事は出来ないとし、権威の最高位には措かない為に新憲法の九十八条の規定を設けた。

即ち憲法に違反する詔勅、政策の無効規定を置き、最高権威を日本国憲法に置く形で日本政府の劣性を図ったのである。

一方アメリカが最も悩んだのが「天皇」だった。

それまでの日本に措ける天皇の権威は絶対的で有った事から、この権威をどうするかと言う問題が有ったが、おそらく日本に措ける天皇の権威は敗戦後も継続するだろう事は明白で、ここに天皇と憲法の融和を図る形式が考えられた。

権威に措ける三分化案がそれで、憲法、天皇、政府がそれぞれに権威を持ち、本質的には立憲君主制を良く理解する昭和天皇は、輔弼事項である政府の政策には関与しない伝統を既に持っていた為、天皇が憲法を尊重すれば、これが万一政府が誤った方向へ行こうとした場合の牽制になると判断したのである。

それゆえ日本国憲法に規定される天皇が誕生したが、こうした政府と言う1つは実体を持つ権威と、天皇と言う漠然とした権威、そして新たな価値感、平和と言うそれぞれの権威は融和する事で機能を果たすが、アメリカ法制度委員会が危惧したとおり、戦後の日本政府は劣化の一途を辿り、また民衆も憲法と天皇、政府の融和どころか分裂を引き起こしていった。

即ち左翼系は憲法擁護、右翼系は尊王と言う形になって行ったのだが、政府も天皇も日本国憲法の中に存在する。
この中では右も左も無いのだが、現実には今も日本では天皇の権威が最高位に有り、これはその信頼度の問題である。

つまり日本人が最終的に政府と天皇の言葉のどちらを信じるか、或いは天皇と憲法が相反した場合どうなるかを考えれば解る。
政府と天皇では天皇の言葉に重きがあるだろう。
だが憲法と天皇では議論は2分され、天皇は絶対に憲法を踏みにじらない。
それゆえ天皇の権威が一番大きいので有る。

この意味では天皇と憲法は融和されているのだが、政府機構はアメリカが信用できないと考えたそのものになって行った。

アメリカとヨーロッパの旧列強国の本質は、日本とドイツが力を持てば、いつかまた大きな戦争を起こすかも知れないと言う、潜在的な不安を持っている。
この不安が形になって現れているものが、今の日本の防衛なのである。

国連が規定している国家の概念など浅いものだ。
せいぜいが領土と国民と政府ぐらいしか規定されていないが、海外で日本の国旗が踏みつけられたらどう思うだろうか・・・。

国歌が歌えないようになったらどう思うか・・・。
これが国と言うものであり、民族と言うものである。
この形のない部分を天皇が持っている。

そして文書と言う半分の形と、天皇と同じような形の無い部分の半分を持つ日本国憲法、更に形そのものである政府・・・。
今、その形を持つものがこれまでの融和を変えようとしていて、我々は形ではこれを止めることが出来ない。

何故なら日本国憲法第九十八条には具体的方策や罰則規定が無いからだが、これは何を意味しているかと言うと、そこは日本人が考えて動けと言う事なのであり、アメリカやヨーロッパの概念で言うなら「デモ」などの民衆の動き、司法判断を想定したものと考えられているが、もう一つが形のない力、つまり「民衆の声」と「無言の天皇」なのかも知れない。

そして忘れるな、日の丸が踏み躙られた時、自身の心の内から溢れ出す、その気持ちこそが国家であり、その気持ちこそが国を国であらしめている事を・・・。




プロフィール

old passion

Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

[このサイトは以下の分科通信欄の機能を包括しています]
「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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