「合理性の逆転」



MYSTERIOUS LOVE (ひと・そして・愛) / 久石譲・・・・・・

人間の忌避行動には概ね三種類が在って、その一つは権力に拠る法の規制、所謂罰則に対する恐れから発生する忌避、それとは別に宗教的規制に拠る禁忌、そしてどちらかと言えば宗教的禁忌に近いが「自然忌避」と言う行動制約が存在している。

過去、律令国家時、平安期まではこれらは統一された概念だったが、時代が近代に近付くに連れ忌避行動は分離し、これは即ち経済の発展と共に大きな概念が少しずつ便宜上分離され、都合良く解釈されて行った、または政治上、統治上の便宜から分離が始まったものと言える。

1年に18回有る「土用」の季、これは土が盛りを迎えるとされる事から、この期間に大地に杭を打ってはならないと言う慣習は今も続くが、これに法的根拠はないものの建設業界では今も多くの事業所がこれに従い、こうした慣習に対して公的な土木事務所なども一定の配慮をする。

この意味では「土用」と言う思想宗教的忌避は「法」を超えた不文律と言え、尚且つ現在も政治や法と一体となった概念を持っている事が解るが、日本国内法の民法の規定でも末尾には「その他はその地域の慣習を尊重する」と書かれていて、法は元々宗教的思想と政治的、統治上の都合の融合形態をして権威を保っていた事が伺える。

が、これも「土用」などの形態を残す忌避は年々歳々少なくなり、経済と言う半ば餓鬼にも等しい侵食は、簡単に忌避を無視する風潮を生じせしめ、この経済を最重点課題とする現代の政治は、古来から続く宗教的忌避を非合理として行くが、宗教的思想の本来は合理性、超現実主義を根底としているものである。

例えば「竹を切るのは冬」とされるなどは、どこかで宗教的慣習のように思うかも知れないが、夏の若竹を切って茄子の添え棒に使っていると、翌年に枯れて簡単に折れ易くなり使えず、更に油成分が抜け無い為、上に何を塗っても剥離する事になる。

また過去日本の各地には「禁地」と言うものが在り、墳墓や過去の遺構など宗教的対象ではなくとも、そこに家を建てる事を嫌った土地と言うものが存在する。

何度家を建てようとしても棟上までに大風が吹いて壊れたり、或いは火事で焼失したりと、合理的理由が無いにも拘らず実際に家を建てられない「場」が存在し、こうした場合は人為的な失敗が加わるとしても同じで、商業地としては一等地の角地に在りながら、何故か倒産や一家離散が相次ぐ土地も多く存在する。

更には過去江戸時代くらいまでは村の集合墓地だった土地、火葬場跡なども不文律非表示忌避地だったが、これも現状が山林だと簡単に開発が為され、ゴルフ場が出来たり土地造成が行われ宅地開発が為されていく。

その一番端的な例が江戸時代まで刑場や晒し首に使われていた「場」などであり、開発が行われてもどこかでうら寂しい雰囲気が残り、地方でこうした開発をしたところは、30年の歳月の内には大きく衰退している現実をどう見るかと言う事がある。

現代社会の「合理性」とはやせ我慢や見栄に近い概念であり、どこかでは宗教やいにしえの慣習に対する闘いの様な部分が存在するが、宗教的思想や慣習と言うものの本質は「超現実」なのであり、その当時の合理的解釈も非合理も含めて、現実に何が起こったかと言う点を出発点としている。

人が死んだ後、その人の事をどう思うかは千差万別である。
生前ひどい目に遭わせていた人は、その自身の行いゆえに死者の姿を恐れるかも知れない。
逆に慕っていた人はその存在が永遠で有って欲しい事を願うだろう。

だから幽霊が見える人と見えない人が現れ、こうした人たちの為に、それが幻想で有れ見えてしまう、或いはいつまでも思いを断ち切れない、そんな人の現実の為に葬儀と言う一線を考え出したのが宗教である。

その儀式そのものは確かに非合理的かも知れない。
しかし直面する人の思いは限りなく現実のものである事から、その現実の前に非合理も合理性も存在せず、これ以上が無いのである。

我々が一般的に考える「合理性」とは、我々が一般的に考える「非合理性」よりも非現実に陥り易く、この世の現実は全てが合理的解釈で成り立っている訳ではない。
いや天候や人間の行動からしても、始めから「非合理」「理不尽」なものと言えるかも知れない。

禁地、禁季には法的規制も客観的合理性も無いが、それが如何なる理由で有っても成立しない現実を見た過去の人々、その地域の人々にとっては、あらゆる合理性の上に存在している事実と考える必要が有るだろう。

宗教や迷信と言ったものを科学的解釈すれば、全てが非合理的、非理論的になるが、そこには何も存在しなかった訳ではなく、何かが存在して発生してきたものであり、それをどう解釈してきたかと言う地域独特の超合理性、超理論が息づいている。

禁地・禁季の概念が年々失われていく背景は、現代社会の持つ合理的、客観的思想に拠るものの影響が大きいが、「法」の究極は「法」が無くてもそれが守られる事に有るとするなら、薄い合理性に追いやられた非合理に沈む現実が意識されない社会と、それを形として維持してきた地方の人口衰退と貧困は、この国の更なる現実乖離、「異常」や「想定外」を頻発させる事になるだろう。

狭い日本だから過去に人が死ななかった土地は一箇所も無いだろう。
だが何故その地域の人は禁地や禁季を概念したのか、これから地方や開発と言うテーマを考える人は是非こうした事も顧みて頂ければと思う・・・。







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「化学合成生態系」

古くは生物の種、質、量の80%は水深200mから上の浅海、陸地、空間に存在すると考えられていたが、地球上で一番高い山はエベレストの8848m、一方海の一番深い地点はマリアナ海溝チャレンジャー海淵の10920mである事から、地球表面の起伏はこの高さと深さの合計、ほぼ20kmしかないと言う事になり、陸地の平均高度は840m、しかも海洋と陸地の表面積対比は70対30である。

平均840mの陸地を削って海を埋め立てると、地球は水深3000mの海の惑星になる事に鑑みるなら、生物の種や質、量の80%が水深200mから上の場に存在すると考える事が如何に傲慢な事かが理解できる。

また生物は一般的に、太陽光に拠る光合成を行う生物を第一次捕獲生物とする食物連鎖生態系を成立させているが、これを光合成生態系と言い、人類もこの光合成生態系の一部である。

しかし1980年以降、太陽光が届かない2000m以上の深海で、この光合成以外のエネルギーによって第一次捕食生物が成立し、ここに生態系が発生している現象が世界の海で発見されるようになり、例えばメタンや硫化水素などから、化学反応によってエネルギーを得るバクテリアを第一次とする生態系の存在が認知されるようになり、こうした生態系を「化学合成生態系」と呼ぶ。

大まかには3種の化学合成生物群が存在するが、水深2500m、2700mと言う海嶺などのプレート拡大軸に沿った地点では、地底からの金属イオン含有熱水噴射口が存在し、この付近は300度を超える熱水が地底から噴出しているが、ここでメタンを主とする化学合成生物群が発見されていて、これらの生物群を熱水噴射孔生物群と言い、最終捕食者は二枚貝や巻貝、イソギンチャクなどである。

一方こうした状況の反対側、つまりプレートの沈み込み部分には有機物の堆積層が存在し、これらが分解していく中でメタンや硫化水素が発生する部分が出てくる。

この中でメタンや硫化水素をエネルギー源とする第一次捕食生物の発生、連鎖が形成される状態を「冷水湧出帯生物群」と呼び、これも化学合成生態系の一つだが、日本海溝では水深7300mの地点で「ハナシガイ」の存在が認められていて、現在知られている範囲では、これが世界で最も深い海に成立している化学合成生物群である。

そして一番興味深い「化学合成生物群」なのが「鯨骨生物群集」であり、深海に沈んだ鯨の骨の周囲に形成される食物連鎖である。

鯨の骨の中に含まれる脂肪酸が、深海と言う分解酵素不足の状態で発生させたメタンをエネルギー源とする、バクテリアの発生によって成立した生物群であり、世界中でサンタカタリナ海盆の水深1740mの地点、日本の鳥島海山の頂上付近、水深4000mの地点の2箇所しか今のところ確認事例が無い。

さてさて中々厄介な問題である。
彼等は何故存在しているのだろうか・・・。
熱水の噴射口など数万年、長くても数百万年の内には変化が生じる。
冷水の噴射口も同じであり、鯨の骨など数万年しか持たない。

尚且つ化学合成生態系はメタンや硫化水素などの共通点は有るものの、環境に対する普遍性が無い。

地上であればアラスカでも赤道付近でも人間は生きることが出来るが、化学合成生態系はその環境ごとの独立性が有り、メタンをエネルギー源にしていても、冷水域の生態系は300度の高温域に生息する能力を有せず、これはその逆も同じで、鯨の骨の生態系などは完全に独立生態系である。

ではもし鯨の骨がメタンを出さなくなったら彼等はどうするのだろうか。
広い深海を生態系そのものがエネルギー源も無く彷徨い、次の鯨の骨に行き着く確率は皆無ではないだろうか・・・。

熱水の噴射口が移動してしまい、環境が変わってしまった生態系が、どうして次に噴射口となる環境まで移動できるのだろうか。
化学合成生態系はこのように未知なる重要な意味を持っているのである。

そして彼等がこの地球に存在している事が生態系の環境に対する従来概念の否定、もっと言えば生物の進化速度の既存概念の破壊、有機化合物から生物進化過程の、既存理論の崩壊を表している可能性が出てくるのである。

鯨の骨がそうゴロゴロ海底に転がっているはずも無く、一番近いところでも数キロメートルは離れていたとして、食物連鎖の大系がエネルギー放出の限界を感じ取って、そっくり移動することなど有り得るのだろうか・・・。

だとしたら我々が数億年はかかると考えている進化の過程は、環境によって意外に短い可能性が考えられ、事に鯨骨の生態系を考えるなら、有機化合物から生物進化の過程が数百年、数千年で終了し、バクテリアから貝類までの進化も数千年で終了するとした方が、まだ説明がし易い。

それにこうした極端に差の有る環境を考えるなら、原子に中間子が有るように、有機化合物と初期原始生命の間にも「中間生化合物」が存在し、基本は同じでも環境に応じてどんな形にでもなって行く半生物、半化合物がどこにでも存在している可能性、つまりは物質や我々の細胞にはもっと別の役割も存在してる可能性がでてくるのではないだろうか・・・。

数学でも一番超越的な部分が1と0である。
実は生物の本質は我々が考えるより恐ろしく簡単な原理に従っているのかも知れない。
そしてそれが簡単で有るが故に無限に続く世界が広がっているのかも知れない・・・。




「税制と災害」

毎日熱心にコメントを入れ続けてくれたEastさん、中々時間ができずにお答えするのが遅れてしまいましたが、長くなるので本日記事にしてお答え致します。

まず私は神ではないので、先の事は解らない。
前の記事の末文は具体的に広島の豪雨を予見したものではなく、天気図を見ていて漠然とそう感じただけに過ぎない。
決して特殊な能力が有る訳ではなく、この程度の予測なら誰でも出来る。

日本の気象予測と災害の関係は年々悪化している。

衛星観測によってあらゆる気象情報が得られ、観測機材も格段に発展し、防災土木技術も世界トップレベルにまで進化しながら、日本の災害は年々大きくなっている気がするのは何故か、それは気象予測の精度と災害を防ぐと言う事が比例関係にならないと言うことかも知れない。

日本の今年の気象傾向は「寒気」がキーワードになっている。
例年だと夏に近付くに連れ太平洋高気圧が勢力を増して日本を覆うが、この太平洋高気圧が今年は弱く、シベリアの寒気も小さくちぎれた状態になり易く、それが日本上空に入るために気象が激化、局所化している。

イメージとして地球温暖化の影響で北極海の氷が崩落し、海に流出している現象を思い浮かべると解り易いかも知れないが、日本の入ってくる寒気はこの崩落して海に流出している北極海の氷にフラクタル性(相似性)を持ち、豪雨が狭い地域で集中し点在する姿は、民主化によって権力の構図が崩れ、権力が分散した結果発生する暴動、混乱、解り易く言えばウクライナ情勢やイラクを始めとする中東情勢などとのフラクタル性が有る。

我々は人間と気象のシステムを全く別次元のものと考えるが、人間が構成する社会も基本的には気象を始めとする地球物理学理論と構造を同じくしている為、政治的な傾向と気象傾向や熱力学、株価の変動や人間の思想は大体同じような傾向を示しながらエントロピー(非可塑性変化)に向かう。

日本の気象観測技術はアメリカに次ぐ世界トップレベルに有り、これを基に最新鋭のコンピューターシステムで気象予測が為されているが、このシステムでは端末の僅かな情報によって予測そのものが大きく変化する、所謂ローレンツアトラクタ傾向が発生し、それによって気象予測は数時間単位で猫の目のようにくるくる激変していく。

勿論こうしたアトラクタに対応する為に、予測を漠然化するシステムが加えられているものの、日本の気象予測は観測精度が高い分、先に行って混沌を迎え易い傾向に有り、その結果気象図が6時間もすればひっくり返っていくような予報になってしまう。
加えて寒気と太平洋の温暖な湿度風がもたらす気象傾向は、統制が取れていない分解した軍隊と同じ動きをする。

制御が効いていないために暴動となり、その動きは首謀者の恣意によって決まるような、僅かな要因によって左右される傾向が現れ、尚且つ制御は力の均一性だが暴動は力の不均衡であり、この不均衡が集中豪雨なのである。
このような状態でどうして先の気象を予測するか、個人々々がどうやって先の天気を予測するかと言えば、その解決方法は「非理論性」「更なる漠然化」であり、つまりディテールを見ると言う事である。

南米ナスカの地上絵は、地上に立って狭い範囲を見ていてもそれが何かを認識できないが、大空から見れば鳥や人の形で有ることが認識できるように、寒冷前線が途中で途切れていても、そこには仮想の前線を繋ぎ、北の高気圧の端が膨らんでいれば、それがちぎれて来るかも知れない、そんな漠然とした不確定要素を加えて精度を出すのである。

また災害は経済の衰退に比例して大きくなっていく。
固定資産税や都市計画税などの税制対策は既存の平地に存在する土地高騰を招き、それ故に一般庶民は価格の安価な、新たに開発される山間隣接造成開発地域に土地を求め、本来機能が充実していた街中が空洞化と言う現象を起こしている。

増税や新設税制で財源を確保しなければ国家や行政が成り立って行かない財政、このどうにもならない貧困の悪循環が人々を安全な土地から危険な地勢へと追いやって、その結果が大きな悲惨な災害を生み、それを復旧し整備しなおす為に更なる借金をくり返しながら、被災者の生活や経済を奪っている現実を見なければならない。

税制で国民をがんじがらめにして衰退させ、それを救う為と称して更に増税繰り返し、ひたすら貧困の道を突き進む日本の災害は、気象観測の充実に反比例して年々大きなものとなって行くだろう。

広島県安佐と言う地には過去、私が大切に思っていた人が住んでいたところだった。
40人もの人が亡くなり、未だに40人以上の人が行方不明と言う現実の厳しさに、言葉も出て来ない。

土砂に埋まった経験の有る人は少ないかも知れないが、真っ暗になって呼吸をしようにも口に水や泥が入ってきて呼吸が出来ず、しかも苦しさでもがく事も出来ずに死んで行く、その苦しさと怖さ、どうにもならない焦りと絶望を、増税を推進する政府関係者や高級料亭でおもてなしを受けている大臣様達にも、時には味わって貰いたいものだ。

災害は天の采配に拠る。
しかしそれを大きくするか小さくするかは人間の責任となり、国が貧しければ災害は大きくなり、国が豊かならばその災害は小さい。

災害はその意識の高まりや行政、国家の規制では防げない。
固定資産税の一律低減改革、都市計画税の撤廃に拠る災害損失低下効果は、既存のどの防災政策にも勝る効果を発揮すると、私は考えている。


「希望」

山が在って、それを超えたら何かが見えるような気がした。
確かに少しだけ何かが見えたかも知れない。
が、それは一瞬にして消え去った。

そしてその先には更に高い山がそびえ、
もっと大きな何かが在るような気がして歩き続けるが、
行けども行けども在ったものが消え去り、
超えてきたはずの山は、なだらかな丘にすら及ばないものだった。

求める先には何も無ければ、得たものも何も無い。
我がものと思ったものは人のもので、
我が希望と思ったものは人の希望だった。
永遠と信じたものは夕日に浮かび、
力と信じたものは弱さだった。

残した禍根は過ぎ去って尚消えず、
やがて大きく膨らみ眼前に立ち塞がり、
光輝いたものはいつしか愁思となった。

愛も無ければ憎しみも、恨みも無い。
希望も絶望も、光も闇も無かった。
何も無かった・・・・。

存在(ある)は唯眼前のこの景色・・・・。

その景色すらも次の瞬間失われるやも知れない。
嬉しいかな、有り難きかな・・・・。

                                Oid passion





2・「絶望の果てに」

日本が戦争を止める機会は幾度も有った。
しかしそこで止められなかったのもまた日本だからである。 
徳川幕府の政策によって、250年と言う期間封建制度に支配され、その仕組みが国民生活の細部にまで及んでいた。

基本的に明治政府は幕府を排除したものの、細部にまで及んだ国民が持つ封建制度期の仕組みはそのまま利用し、更に外圧から進められた民主主義は逆流を起こし、例えば自治体の概念はその地域の自治を指しているのではなく、上からの支持を伝播し実行する組織の意味合いが強い。

この事から昭和初期、多くの知識人たちによって支持されていたマルクス主義は、政府の激しい弾圧に逆らってまで国民をひきつける力を持たず、日々の生活と安全の為に妥協が始まり、この頃共産主義者の思想転換が始まっていく。

日本の古い支配体制が持つ権力が余りにも強大で、一般国民の生活感覚と現状革命の思想や実現の乖離幅が大きく、現状改革はどう考えても無理だと言う絶望感が蔓延していくのである。

また徐々に勢いを増していく軍国主義、天皇絶対主義を利用した日本の全体主義は余りにも非合理的、非文化性の要素が強く、ここにナチスのように一部でも知識人を取り込める整合性が無かった。
それゆえ多くの知識人は政治そのものから逃避し、自分の生活だけを守る事を考え、その思想は温存しながらも言動は封印された。

ここに日本は軍国主義以外の一切の思想を失ったのである。

更にこうして知識人たちが影に隠れてしまった現状はネオ知識人、以前より1ランク下の知識人、文化人達を生じせしめ、町や村の有力者や中小企業主、商店主、富農、在郷軍人、小学校教諭、地方官吏などが1ランク下の知識人となって、政府主導型思想を一般に普及させていく。

その背景は景気の悪さと貧しさであり、彼等は実態の経済活動では賄っていけない売り上げや生活を、政府や軍から来る便宜や権益で補填して行ったのであり、貧しい生活の中から抜け出すにはこれ以外に方法が無く、こうした状態こそ成功者、或いは人が目指す道となって行った。

昭和7年施行の農村再生運動、9年の選挙粛清運動、軍部指導の防空演習や防護団、自警団結成などの下部組織には「燐保制度」(りんぽせいど)が動いていた。

冒頭にも述べたように明治政府は町、村の下の部落や町会の自治を認めてはいなかった。

それをこうした時期に復活させたり法律で認めたり、権益を与えていったのは、政府が町や村よりもっと小さい単位を利用して国民全体の組織化をもくろんだ為で有り、自主活動として政府や軍の思想伝播と言う形が採られるには、本当の知識人よりも1ランク愚かな知識人を使う事が考えられたのである。

そしてこうして組織化された国民はその非条理、理不尽を小さな組織からはじまって口にする事を封印され、ひたすら戦争に突進して行った。

その意味で回避されるべき戦争を増長して行った最大の原因は、国民や語るべき知識人達の絶望感と、愚かな二流の成り上がり知識人の扇動、貧困や絶望から来る自己保全主義が為す全体主義の許容だった。

皆して自分の生活だけは何とか守ろうと考えた挙句が、全国民の10%の死者、傷病者を生み、全国民の10%の家を失わせ、日本から34・5%の財産を消失させ、自由と希望を奪って敗戦と言う結果しかもたらす事が出来なかったのである。

今この国を見ていて思う事は、こうして第二次世界大戦に突入して行った時代背景と我々が酷似している事である。
みんなが政治に絶望し、自身の生活を守る事だけを考え権力におもねいて、誰も何も行動しようとはしない。

第二次世界大戦期に発生した町内会や部落、燐保制度は現在も地方を動かす大きな力となって残存し、経済が破綻した地方では相変わらず二流、三流の知識人や文化人が跋扈して民衆を牽引し、それが唯一成功者となる現状はこの国の行く末に限り無い憂いをもたらす。

当時の軍や政府、天皇に責任を考えるのも間違ってはいないかもしれない。
だがその国家の最終的な責任は国民、我々一人一人に在って、言葉を発しない事もまた大きな責任を負うものである事を、政治に対する絶望が招くものは破滅で有る事を、今一度心に刻んで頂きたいと希望するものである。

太平洋戦争終結から、はや75年の歳月を得ながら、そこから何も学ぼうとせず、同じ事を繰り返すかの如くのこの国を鑑みるに、国の未来を信じて散って行った御霊達に対し、唯ひたすら申し訳なく思うのである。










1・「敗戦」



~沖縄戦~  さとうきび畑・・・・・

五摂関家は鎌倉期に成立したものだが、「九条」「二条」「一条」「鷹司」「近衛」の藤原氏の嫡流で公家の頂点に立った家柄を示し、この流れの中に「近衛文麿」(このえふみまろ)は存在した。

彼は元総理として昭和20年(1945)年2月14日、天皇に意見書を奏上する。

「モハヤ敗戦ハ必至ト心得候、シカシ乍米英ノ世論ハイマダ国體ノ変革を要求シテオラズ、万一敗戦ト言う事態ニ至ッテモ国體ノ護持ニ必配ノ憂イ無キモノト候ラエバ、モットモ憂ウベキハ共産主義ノ蜂起ニテ、(中略)軍内一部ノ革新運動、国民ノ疲弊、米英敵意ノ反動ニヨル左翼分子ノ暗躍ヲ鑑ミルニ、之ヲ阻止セシムルニハ今ヲオイテ米英ニ對シ降伏ノ機会ト為スニ他はアラズト心得候、言上奉リ候」

実際の書簡は文才もある近衛文麿の事だからもう少し滑らかだが、近衛は天皇に戦争に負けても天皇家は大丈夫だから、それよりむしろ日本で発生する共産主義の蔓延を阻止するために、アメリカとイギリスに降伏しませんか、と言っているのである。

随分のんびりとしたものだが、或いは敗戦の理由が天皇に向かう事を回避する為に気を遣ったものかも知れない。

だが、この同じ年の同月、スターリン、ルーズベルト、チャーチルはソビエト連邦の「ヤルタ」で会談し、国際連合の創設と、当時は日本領がだった南樺太と千島列島のソビエト領有権を認め、他の権益と共にドイツが降伏したら、3ヵ月後にソビエトが日本に対して連合国側として参戦する事が決められたのである。

そして1945年5月、ドイツは連合国によって包囲され、8月には無条件降伏したが、ここに至る経緯の中でソビエトは第二次世界大戦の勝因がソビエトに有る事を誇示しようと画策、対日本参実行をギリギリまで引き伸ばした事から、日本政府は妙な勘違いをする。

即ちソビエトと言う社会主義の台頭は欧米との間に対立関係を生じせしめていたが、日本政府はこの対立を利用してソビエトを通じて「講和」を考えていた。

しかし1945年1月にはルソン島がアメリカ軍によって奪回され、40万と言う日本軍兵士がルソンの山中を彷徨い、飢えと傷病でその大多数が死亡し、同年2月には硫黄島が陥落、4月には沖縄も陥落し、沖縄の地上軍9万人、沖縄県民15万人が戦死した現実から、もはや1945年1月の段階で連合国の勝利は織り込み済みだったと言う事である。

後は戦勝国の利益分配に付いて水面下の争いが発生していたと言う事で、自国の価値を高めようとして日本参戦を引き伸ばすソビエトに対し、もはや連合国側の勝利が決定的となった1945年6月、今度はアメリカがソビエトの影響力を排除して行く方向へと政策を転換する。

第二次世界大戦の勝利はアメリカによってもたらされた事を示す為に、1945年8月6日、たった2個しかできていなかった原爆の1つを広島に落とし、このたった1この爆弾で20万人の広島市民が殺されてしまったのである。

3日後の1945年8月9日、ソビエトはヤルタ会談の協定を実行し、併せて7月25日ベルリン郊外のポツダムで開かれたイギリス、アメリカ、中国の3カ国協定、「ポツダム宣言」にも参加し、これによって中国駐留日本軍は総崩れとなり、このソビエト参戦の影響力を排除しようとしたアメリカは、同日に長崎に原爆を投下、10万人の日本の一般市民が殺傷された。

だがここにいたっても日本政府と軍は、国體の護持といえば聞こえは良いが、どう有っても償い切れない責任の前に彷徨い、長崎に原爆が落とされてから5日も経った8月14日にポツダム宣言受諾を決定するのであり、実際に東京上空をB29が飛ばなくなったのは8月15日の夜からである。

太平洋戦争が日本国民に押し付けた犠牲は計り知れない。
終戦当時徴兵されていた者は720万人、満州事変までの戦死者は17万2000人、それ以降昭和20年(1945年)までの戦死者が233万人、派兵されていた戦地で行方不明となった兵隊6万3000人、何とか日本に帰って来れた傷病兵30万9000人、実に日本の5世帯に1人が戦死、傷病した。

更に日本の一般国民が受けた空襲や爆撃での死者80万2000人、この内30万人の人が8月6日と8月9日のたった2日で殺されているのであり、この事を私は未だに自身の内でどう納得して良いかが解らない。

戦争で失った国富は643億円、実に昭和10年の国富の34・5%に相当し、現在で換算するなら872兆9640億円が物だけで失われた事になり、空襲などで失われた家屋298万戸、被災者総数900万人以上である。

食べるものも着るものも無く、毎夜のように低いB29の音が聞こえ、あちこちで火柱が上がる。
男は父も息子も戦争に取られ、女子供までが工場労働で徴集される。
年老いたもの、病の者は疎開先で自身が生きている事を、申し訳ないとまで思うに至っていた。





「衰退による人口適正化」


少子高齢化社会、この中でも少子化の原因はあまた論ぜられるところだが、その根本は「経済」と「自由」である。

「Gary S Becker」(ゲーリー・ベッカー)が主催するグループが提唱した「時間の経済学」の中では、女性が子供を持つ事で失う時間、所得、生きがいなどの精神的な逸失を、子供を持たない場合と比較したモデルが出てくるが、このモデルを用いれば経済が発展して所得が増える事は考えられても、子供から得られる精神的な喜びの価値は普遍である事から、経済が発展すればするほど子供を持つことの意義は低下していく事になる。

また子供を持つ事で得られる精神的安定の一番大きなものは、自身の老後を鑑みた時のケースが多くなるが、これも社会が豊かになり社会福祉が充実すると、自身の老後を想定した子供の価値観が低下する。

この事から子供を持つ事で得られる充足感と、自身の幸福感や充実感のバランスは経済によって左右される側面を持ち、豊かになれば子供に対する食事や教育などの質が高まるのであり、子供の数は減少する事になる。

そして近年発展してきたジェンダーの考え方だが、社会的には既に男女の格差は無くなり、どちらかと言えば思想的、一般論としての社会ではむしろ女性の地位が男性を越えている部分も存在するが、一度家庭に入り子供を持つと、相変わらずの不平等が蔓延する。


女性は仕事をして帰ってきた上に、家事や育児をしなければならない環境が依然多く残っているのであり、夫婦間で育児を放棄する確率は男性の方が女性よりも圧倒的に多く、その違いは男性が出産を経験し得ない事に由来する。

更に将来のリスク管理の観点から、男女が結婚して子供が生まれる場合、その両親は子供を持つ事で得られる恩恵とリスクに対し、予め予定や計算が完成されているかのように錯誤されるが、子供を持って育てる事を経験してはいない訳であり、子供と言う家族が増える事はそれだけ将来が不確実化していく事になる。

先の分からない状態が増えるのであり、この状態で経済的な不透明感が発生していると、結婚、出産、育児はリスクになって行く事から控えられる、或いは消極的になるのが普通である。

経済の基本は産業で有り、現在では産業形態が第6次、第7次まで区分されているが、基本的に第4次産業以降は、第3次産業の枝葉産業であるものの、産業形態が高次化する都度、少子化は進行していく事になる。

第1次産業、農業などが主力産業だった国際社会では多産多死の過程が発生していて、この場合は子供の死亡率が高い為多くの子供を産むのであり、これが工業に主力が移って行くと子供の出生率はそれまでの3分の2になり、更に決定的になったのは20世紀後半の工業からの離脱である。

第1次産業や第2次産業から国民の多くが第3次産業以上の高次産業に従事する事になり、多産多死から小産小死の時代に移行したのであり、ここで子供に対する価値観は激変して行った。

第1次産業下の社会では子供は重要な後継者だったが、第2時産業や第3次産業では子供の教育や食事などの質を高める傾向が発生し、子供は王様のように過保護な状態で育てられる事になった。

結果としてこうして育てられた子供が成人した時、社会性よりも自己実現に価値観が移行し、結婚は出来るだけ後回し、でも恋愛は自由と言う具合で、晩婚、離婚、同棲、非婚に対する抵抗が無くなって行った。

これはヨーロッパのモデルだが、日本も同じ道を辿って今日に至っている。

つまり少子化社会とは経済の発展に伴って発生して来る、ある種人類の宿命のような部分が有り、一度発展してしまうと経済的に豊かになっても、貧しくなっても、どちらでも結婚願望が低下し子供を持つ夫婦が減少してくるのである。

そしてジェンダーと言う意識の発展から結婚の選択権は、子供を産むと言う点で女性に移行した社会が発生し、ここで貧富の差が激しい経済状況が出てくると、男女共に結婚の希望は存在してもその実行が先送りになる傾向が発生し、外資系会社や公務員、一流企業に勤務する男性の数は少なく、その他一般の男性は所得が低く一家を構えられない為、結婚相手の市場として男性が沢山いても、実際に結婚できる相手がいない状態になっている。

こうした状態が危機的なところまで進んでいるのが「地方」なのだが、危機感から行政主導のお見合いパーティーなどを開き、首都圏から女性を誘致しようと言う試みを繰り返し、政府に対して少子高齢化対策としてこうした取り組みを認めて欲しい、補助金が欲しいと訴えているものの、政府はそ知らぬ顔である。

もっともな事であり、政府のこうした有り様は賢明と言える。
地方主催のお見合いパーティーに参加する女性の意識は「ねえ、ねえ、格安の国内旅行みたいなもんだヨ」
「ちょっとの間、むさ苦しい男の相手するだけで、食べるだけ食べて、温泉入ってこれるんだよ」
「行ってみようよ、お徳だよ・・・」なのである。

首都圏に住む女性の意識は高次産業に伴って進んでいる価値観なのだが、これを誘致しようとする地方の意識は、表面上首都圏を模していても第3次産業の「おもてなし」「人情」「義理」のとても遅れた世界だったりする。

現代の消費者は安いからと言って、高級品の代用品を買う事は無くなっているのである。

高次産業化に伴って変化していった結婚に対する希薄な意識、価値観を元に戻すのは難しく、一度発展した経済の高次元化による少子化は、以後経済が発展しても後退しても改善されない。
日本はひたすら痛みを少なくして我慢し、やがて来る人口減少、衰退による人口動態の適正化時期を待つしかない。

多分、2052年前後には日本が底を打って、次なる発展に向かう事になるだろう・・・。






「アトラクタ異分子」



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水辺に生える植物と同じ葉の形状を持つ植物が、その水辺に近い陸地に生息する場合、基本的な形状を変えずに陸地に適合し、最終的には水辺で3種、陸地で2種くらいの同系の植物に分化して行く発展方法はフラクタル(自己相似性)の観点からも、アトラクター(時間的不規法則発展)の中に在る事が解るが、アメーバーのように初めから決まった形を持たない生物の運動は「カオスアトラクター」(混沌の法則性)に拠る。

アメーバーの進行方向の決定過程はランダム方向から、特定の栄養値が存在すればそこへ少しずつ移動容積を増やして進行する形態となっているが、ここには地形的な要素も部分的には含まれ、では最初のランダムな動きのその先端はどうなるかと言えば、それまでの形状に対して全て「異」となっている。

自然界が持つ崩壊や混沌にまで存在する一定の法則、それが変化していく過程は時間的発展の中でフラクタル性を持った法則の中の変化か、或いはクラスター構造そのものが破壊される変化か、若しくはクラスター構造が小さな「異」によって変化するのかが区別できない。

おそらくこの結果が解るのは宇宙が消滅した時と言う事になるのだろう。

つまり我々が考える秩序とその崩壊の関係は、宇宙が消滅するまでは同じ方向に在ると言う事で、フラクタル性は集合の意味を持つが、その反面僅かな変化を許容しているとも言え、それまで存在した秩序の中に少しずつ混じって来る変化は、遠からず現状の変化に繋がるが、その変化が今度は次の秩序を構成し、また次の変化によって変化して行く有り様は、植物の分化やアメーバーの動きと同じ概念を持つのか、或いは根本の原理が崩壊してしまうのか、それとも小さな「異」と言う現実によって宇宙の秩序が変化するのかが決定されていない。

この事から統計学の分野で必ず発生する特殊性の崩壊、その初期に出現する統計学上の「例外」は、時間経過と共に少しずつ例外を増やし、やがては基本となっていた統計上の特性をランダム近似値にしてしまう傾向の本質は、予め変化が平均値で有る事を示しているようにも見える。

台風11号の進路方向はこの季節にしては一般的な進路方向とは言えないものの、それでもほぼフラクタル(相似性)の中に有るが、珍しいのは台風13号の進路で有る。
こうした動きの台風が全く無いとは言い切れないものの、この季節としてはとても珍しく、原因は太平洋高気圧の弱体と、寒気に有る。

少し以前に関東地方に大雨や雹が降った激しい気候でも、シベリアから降りてきた寒気が太平洋高気圧の縁を回り、一度太平洋まで出てから戻ってきた為に発生したものだが、極めて珍しい現象である。

気象庁は当初今年の夏の気候をエルニーニョ現象によって冷夏と予測したが、その後6月7月と高温状態が続き、終には秋にエルニーニョ現象と言う苦しい発表をしている。
しかし、現実は8月に入って気温が下がった地点が増加し、この事からエルニーニョ現象と夏の高温化をもたらす「ラニーニャ現象」のどちらもが出現した形と考えられなくも無い。

台風11号、台風13号も通常で有れば太平洋を大きく覆ってくる太平洋高気圧の勢力が弱く、後ろで切れているような形になっている為に発生する進路なのであり、この点で言うならエルニーニョ現象に近いが、7月はラニーニャ現象のようだった。

つまりはエルニーニョとラニーニャの両現象が混乱してきていると言う事か、或いはもう既に南米ペルー沖の海水温と、これまでの気象統計学上の関係が崩壊してきている可能性を考える時期が来ているのかも知れない。

特に台風13号のようなミッドウェー海域から日本に近付く台風の出現は明確に「異」、これまでの秩序の崩壊の初期段階に現れる「誤差」、特殊性の出現であり、エルニーニョと言う現象が持つこれまでの統計学上の傾向に変化が出てきたか無効になった、それともエルニーニョやラニーニャ自体が、これまでたまたま統計学上に重なっていただけで本来に戻ったのか、または発展的な変化なのかの区別が付かない。

しかし何れにせよ毎年では無いにしても、こうした現象が現れてくると言う事は、フラクタル性によって同じ様な傾向や変化がこれから少しずつ増えてくると言う事であり、片方でそれぞれの地域で協賛者を募り、リアルタイムで10分単位の気象が予測できるシステムが構築されながら、中長期予測と言う分野が混沌に向かう事は、如何にも混沌の時代らしい有り様と言える。

気象情報の時間的細分化に付いて、その情報が細分化されるに従って公的、国家的重要性から乖離していく。
戦争時以外では今日や明日、更には今日の13時の天気と言った具合で、その情報提供が細かくなるほど、それを必要とする需要の先は個人に近付き、内容も重要性が薄くなる。

今日の13時の天気情報が必要な者はイベント主催者や参加者、会社の打ち合わせやデートを予定している者などの需要だが、3ヶ月後の気象予測はその国家の食料政策やエネルギー政策を左右し、場合によって世界戦略の重要課題である。

その重要課題である中長期気象予測が、地球温暖化によって寒暖が激化し、統計学上も混沌に近付きつつ有る今日、一刻も早く地球物理学、物理学、生物学などと連携し次なるカオスアトラクターを探さないと、ある日突然食料やエネルギー事情で国家が倒壊と言う事態を迎える可能性がある。

時間や分単位の気象予測は、どこかでスマートフォンの使われ方と似ている。
細かい事に対応してしていて本質が失われているような気がする。

晴天の日だから良い事が有る訳ではなく、恋人達の仲が良くなるとは限らない。
嵐の夜ゆえに出会う人もいる・・・・。











「拡大の制御と制御の拡大」

脳の制御機能を調べる方法として、一定の課題を持ったゲームでこれを計る方法が有る。

お菓子が出てきたらその画像をタッチし、狼が出てきたら手を動かさないと言った簡単な形式のものだが、この制御機能測定では殆どの子供がエラーを出す。

この事から人間の持つ制御機能の一部、または大部分が経験によって形成される事が類推され、例えば近年の若者は「キレ易い」と言われるが、この原因は自分を制御、抑制する経験の不足によって、制御に関するニューロン、シナプスの不完全成立現象が発生し、制御不能に陥るからかも知れない。

制御には他動的制御と自己制御が有るが、他動的制御とは子供に対して親などが干渉して制御する事であり、自己制御は経験数値である。

従って生まれて間もない時期は他動的制御が主流になるが、この他動的制御に自己の経験が加わる事で自己制御に発展する場合と、親などが加えた制御を敢えて冒し、そこから他動的制御の正当性を理解した場合にも自己制御が発生する。

そしてこれらは反復して繰り返される事によって、関連するシナプスやニューロンの数を増やし、多くの視覚と記憶に連結して社会的モラル、若しくは社会性と言うものを自己形成し、そこから制御の限界点が発生してくる事になる。

つまり制御は訓練によって形成されている部分が存在し、この中で親があれもこれも規制してしまうと、経験数値が減少し、結果として制御機能は低下するが、全く制御を加えないと基礎になる部分が形成されない可能性が出てくる。

簡単に言うなら親や周囲の環境が持つ社会的モラル、社会性が子供の社会的モラルや社会適合能力の基盤となって、それが実際の社会的接点の多数によって成熟した状態が必要となるが、親や環境と言う基盤が不完全だと、子供は不完全なまま脳の社会適合能力を完成させる。

その意味では親が所属する社会、広義の社会秩序が重要なのであり、これが不安定だと、やはり子供の制御能力は不完全になる。

例えば「嘘を付いてはいけない」と言う課題が有ったとして、このことが整合性を持つ社会であり、称賛される社会で有れば、子供は「嘘を付いてはいけない」と言う「嘘」に対する制御を獲得できるが、現代のように総理大臣からはじまって嘘が平気でまかり通り、金の為なら何でも許容する社会だと、子供は例え親や周囲の環境が正義を説いても、社会接点で壁にぶち当たる事になる。

そしてこうした事が反復されると、制御の概念そのものが拡大し意味を失うか、或いは制御能力の欠損を引き起こす事になり、前者が「引きこもり」であり、後者が「キレ易い」と言う状態と言える。

また制御は行き過ぎると「抑制」となり、抑制が行き過ぎると行動否定が発生してくる。
「あれも駄目だろう、これも駄目に違いない」と、何も行動しないうちに判断してしまう神経伝達回路を広げてしまうのである。
この傾向は親が有る程度の地位に在る場合に多くなる。

制御と拡大の本質は同じである。
自己行動否定回路の拡大は「制御」の「拡大」であり、拡大の制御が行き過ぎると制御が拡大される訳であり、この両方の拡大に関っているものが「その他」の全く関係の無い視覚や記憶なのである。

人の理解とは全てが合理的と言う訳では無く、殆どの部分が非合理的なところから発生してくる。
制御の崩壊時、感情はそれまで記憶しているあらゆる事柄に付いて、その感情のフィルターを付けた状態にする。

それまで青や黄色、黒、白もあったのに、一瞬にしてそれを真っ赤にしてしまい、この反対の状態の時には全てを青にする。
怒っている時は全てが怒りになり、穏やかな時は過去の忌まわしい出来事すら満ち足りたものとする。

更に我々が記憶と思っているものは、どこかに片付けられていたものが出てくる訳ではなく、その都度構築されているものであり、この意味では人間の記憶とはその瞬間に作られているものなのであり、怒りの感情の時は先に怒りの感情が有って、過去の関連する記憶が集められる。

簡単に言えば我々は怒りたくて怒っていて、穏やかな気持ちになりたいから穏やかな気持ちになっている。
何々のせいだ、奴があんな事を言うからだ、と言うような環境原因で自分が怒ったり笑ったりしているように思うかも知れないが、それは違う。
感情の種はその発動の以前に存在している。

インターネットが身近に在る環境はそう素晴らしいとは言えない。
特に子供が長い期間をかけて醸成しなければならない「制御」の部分では、インターネットの環境はその対極となる存在と言える。

眼前に社会の接点が無い状態は、脳の拡大が露出した状態であり、いわば制御が無い状態なのである。
予め制御を失っている者は「他動的制御」を無尽蔵に撒き散らし、制御が行き過ぎた者はこの「他動的制御」を必要以上に恐れ奴隷化し、それが瞬時にひっくり返る場合もある。

つまり実体が無いだけに自分の脳がそこに露出している事に気付かず、しかも子供の時からこうして制御が崩壊している状態を繰り返すと、やがては制御、「我慢」や「人を思いやる気持ち」が薄くなり、女を見れば襲い、金が欲しければ脅して取り、むしゃくしゃして人を殺す、そんな社会が出来上がる訳である。

社会と個人は車の両輪である。
社会が混乱すれば個人の心は乱れ、個人の心の乱れは社会の混乱である。





「狭義の平等」

平等と言うものは、その反対の状態に在る者によって意識される。

今現在恩恵の中に在る者はこれを意識しない為、現実的解決を図ろうとするが、恩恵の少ない者が唱えるものは手続きや精神論となる。

そして政治や経済では突出が無いとその目標は達せられない事から、恩恵とは常にこれを受ける者が少なく、その恩恵を支出する者が多くならないと成立せず、支出額の少ない者ほど平等意識が高くなる。
つまり税で言うなら納税額の多い者は不平等を感じないが、納税額が少ないか、或いは納税を免除されている者の中で不平等感が発生する事になる。

この事から平等が意識される社会とは基本的に貧しい社会と言え、平等を権威の担保とする社会は公費負担が唯の負担でしかなく、そこに発展的発想は生まれない。
常に過去の処理と手続きに追われているに過ぎず、これまでは公費負担の少ない者より公費負担の大きな者の発言力が大きい状態が続いてきたが、ネット社会ではこれが逆転し、公費負担の少ない者の意見が席巻するようになった。

こうして発生する平等意識は一般庶民のそれぞれの事情が大義に露出した状態になり、それぞれの個人が持つ価値観が「共感」で左右され、その事をして大局的社会道徳やモラル、権威の質が侵食を受けた状態になり、民衆が持つ価値観に対して説明や手続きの公正さ、正統性の担保に対する正当性と言った、本来の目的以外の「説明と言う社会サービス」が重要性を持ってくる。

平等意識を持つ民衆に対し、公正さを示さねばならなくなるのであり、こうした手続きが煩雑になり、本来の目的が遅延してくる状態の社会を「平等至上主義」と言い、ここでの平等はその社会の一番不平等な状態をして基準が為される事から、本当に些細な事や、本題とは全く関係の無い人間性や思想、プライベートにまで民意の干渉が現れ、やがてこうした傾向が社会的モラルや道徳観を形成するに至る。

これが「手続き説明社会」と言うものである。

理化学研究所のSTAP細胞問題は、本来問題ではない。
科学の最先端では失敗や間違い等不安定な事が起こるのは普通の事であり、これを無駄だとしたら科学等成立しない。
民主党政権で蓮舫議員が「仕分け」を行った結果、日本の科学は大きく後退してしまった事を見ても明白なように、納税を担保にあらゆる事に対して説明や弁明を求めていたら、失敗や理解されない発想こそがその根源である科学の発展など在り得ない事になる。

今日本の民衆が理化学研究所に対して抱いている感情は、明らかに過干渉、越権行為なのである。

STAP細胞は、例え1%の可能性でも存在する可能性が有るなら決して破棄されてはならない「可能性」であり、その発見のおかげで、未来に措いてどれだけ人類に大きな恩恵をもたらすか計り知れず、その先には人類に生命とは何かを問う大きな課題を提起し、人類が次なる知性を得る事が出来るか否かが問われる重大な意味を持っている。

確かに国民の税金が使われている事も事実だが、そこで理化学研究所に説明責任を求める民衆のその個人々々の納税額は、果たして説明に責任まで付加できるものかどうかは謙虚に考える必要が有る。

震災復興ではもっと多額の使途不明金が発生していて何も問題にならず、東京電力でも国家予算の何%と言う単位の税金が使われながら、彼等は国民に対して納得できる説明をしているだろうか。
更に言うなら代議士や地方議員の活動費用は正確に公開されているだろうか、国家公務員の個人的支出が問題になるだろうか、支給された年金の支出内訳を我々が個人に求めることが出来るだろうか・・・・。

民衆が言う「説明責任」にはこうした部分の区切りが無く、しかも自分の事は省みられず、唯自分の事情の憂さ晴らしの為に騒いでいる部分が全く存在していないと言い切れるだろうか。

人が死ぬ形で最も辛いのが餓死と強要された自殺であり、その次が自殺、そして殺害される事、病死や事故死の順で有ろうかと思われる。
理化学研究所再生発生科学総合研究センター、笹井芳樹副センター長を自殺に追い込んだその遠い所に、私は民衆の持つこうした狭義の平等感の影を感じざるを得ない。

彼を死に追いやった一端は、国民が持つ狭義の平等感、言い換えれば「僻みに近いもの」が、税金が支出されていると言う事を通して鋭角化され、個人事情の集積によって責任にまで拡大した擬似正義意識、国民が持つ本来は何も無いところに組み合わせ上発生した擬似権利意識に有ると言えるのではないか・・・・。

科学が持つ可能性と言うものは、必ずしも今日明日すぐに役に立つと言うものばかりではない。

場合によって何十年、何百年のスケールが必要なものも多く、これらを研究にするに当たってその研究費用を株式市場や個人支出によってまかなう事は困難であり、資本主義に独占された場合の危機を考えるなら、その研究費用が公費で負担される事には正当性が有る。

しかしだからと言って、国民の税金が支出されているからと言って、研究者が今日明日に結果を出せないからと責められたり、資材の1個、弁当の一つを買った事まで説明する責任は無く、研究成果が途中で有るからそれは失敗と世論が判断してしまっては科学など成立しようが無い。

いわんやプライベートなことや、その手法に付いて、納税を盾に説明責任を主張する大衆の有り様は甚だ過ぎた権利意識と言うものであり、笹井副センター長はこうした社会の有り様と、日本の科学界に蔓延するマニュアル、手続き主義によって押し潰されてしまったのではないだろうか。

惜しい、余りにも惜しい・・・。
STAP細胞に付いて世界で一番多くの知識を持ち、その意味を理解し、STAP細胞が疑惑にされてしまってからは、小母方晴子博士の心情も最も理解していただろう笹井副センター長の死は、世界の損失、世界の未来に対しての嘆きである。

小母方博士はこれで一番最後に帰って行ける家、何か困ったことが有ったら泣いてすがる事の出来る、唯一の理解者を失ったかも知れない。
その死を悼んで思い切り泣いたとしても誰も責めはしない、命の限り泣くがいい・・・。

だが涙が枯れたら、またSTAP細胞の再現実験を続けて欲しい。
笹井副センター長もSTAP細胞は必ず有ると言っていた、私もそれを信じている。
そして先にはこの宇宙の秩序が、自身が破壊される事を待っている。

笹井副センター長の思いを胸に抱き、宇宙の秩序に挑め・・・。
それがあなたに与えられた、あなたにしか出来ない事なのだから・・・・。




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Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

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「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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