2・「ふと思った・・・」



FINAL FANTASY 9 メインテーマ・・・・・・

日本の現状は形式からすると太平洋戦争前と良く似ている。

初めは少しの戦闘で勝利した段階で講和を目指す事が思われながら、途中で諸般の事情が加わり、どこで終わりにするか、どこまでを目的とするかが曖昧になった結果、泥沼化し敗戦の憂き目を見たのであり、政策の変更はしないとする政府与党、自民党は政策を変得ないと言いながら、その解釈や適用をコロコロ変え、現実的には基本政策を蔑ろにした行き当たりばったりの政策になっている。

本当の所、世界最高水準に有る日本の赤字財政は消費税30%、政府規模75%の削減、地方行政組織の80%削減が実行された上で、それでも再建までに30年はかかろうかと言うもので、これに高齢者の増加分が追加された措置が為されなければ財政の再建は難しい。

この意味では消費税2%の増加が云々よりも、厳しい増税と財政削減を同時平行で行わなければ、中規模の震災が必ず1年に1度は発生し火山噴火も多発、台風被害に襲われ各地で集中豪雨が頻発する状況では、僅かな災害でも国家が破綻するリスクは大きくなるばかりである。

日本政府は国民が財政再建の為に負担すべきであろう消費税増税を優先して実行し、そして今般日本銀行の信頼を失わせ、国民に媚を売って自分達の人気取りに使ったが、その自らが為すべき責任は逃れてばかりであり、2つ車輪は同時に動いてこそ有用なのであり、片方だけ動かしてもう一方が止まっていたら車体はひっくり返る。

国民と日本銀行は弁当を開いていたら、その一番メインの焼肉を政府によってつまみ食いされたのであり、人の弁当も自分の弁当も全て自分のものと言う、今の金融緩和政策は、国民の我慢と世界各国の信頼に対する予測に拠って成り立っているもので、これはひとえに過去の日本の金融政策が少なくとも法的、道義的にも担保を裏切らなかったからに他ならない。

野党各党が力を失い、国民に選択の余地の無い時期に総選挙を行い、これをして国民の信任を得たと言う形を作ったとしても、基本的に不条理、矛盾を抱えた政策は、やがてそれを終了する時期を失い、破滅が政策の終了時期と言う事態を招く。

一方11月20日、既に自民党から報道期間に対する報道要望書が出されていたようだが、この事実が一週間近くも報道され無かった事は、報道機関がこうした自民党の要望を承諾した事を意味し、与党である自民党の要望は基本的に報道に対する政府圧力の形を持つ。

何が何でもいい加減な経済政策を隠蔽したい政府と、その権力を恐れ事実の報道を放棄した報道機関の有り様は、さながら太平洋戦争時の経済界、大本営と各報道機関の関係に同じである。
あれだけ大変な時代を経験しながら、今度は経済で同じ事が行われようとする、この現実の前に、我々は唯厭世(世をはかなむ)に浸っていて良いものではない。

日本国民の本当の敵は、それぞれの民衆の心の内に潜む混乱に対する恐れ、諦めの気持ちである。
例え先に大きな混乱を引き起こそうとも不条理を糾し、自らの道を切り開かなくては、それが地獄で有ったとしても未来など無い。

この国は遠からず何らかの形でもう一度崩壊する。
そしてこの国を救ってくれるものもまたその崩壊かも知れない。
だが、私はどんな事が有っても、絶対最後まで諦めない。
自身の思うやり方で必ず生き抜いてみせる。

脳梗塞で左手が少しだけ使える程度になってしまった父親が、スプーンで刺身を食べる姿を眺めながら、自らは貧乏癖が抜けず、昨日父親が残した冷たいふろふき大根でご飯をかき込みながら、ふと、そう思った・・・・。






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1・「財政ファイナンス」

個人事業主でも会計規則や税務規則に沿った経営記載、収支の記録を持ち、不明瞭な資金の流れが無ければ、その経営は大手企業の経営水準と全く同じものとなるが、この経営に関する資金の流れが事業主の個人的事情に流用され、尚且つ資金の調達先が事業主のポケットマネーと言う状況に陥ると、その事業の周落は確実なものとなる。

2014年10月31日、日本銀行「黒田東彦」総裁は第二段の大幅な金融緩和策を発表したが、この政策は金融緩和政策ではなく、「財政ファイナンス」であり、冒頭の例で言うなら国家に拠る市場と言う会社の「私物化」に相当する。

発生する借金をする側も、金を貸し出している側も、ついでに紙幣を印刷している者も全て同じグループの内で有る場合、そこでの市場は成立しない。

このグループによって市場はどうにでも成るからであり、例えば特定の親族グループが開いている賭博場で自分が賭けをしたとして、資金もサイコロの目もその親族グループによってどうにでも成る場合、博打を打つ者は必ず損失を被る。

市場原理の最も崇高な部分、権威と言っても良いが、それは機会の均等性、チャンスの公平性であり、これが全て政府、日銀の思うままと言う状態は市場経済が死滅している事を意味している。
簡単に言えば、政府による公式インサイダー取引と同じなのである。

10月31日の突然の金融緩和拡大発表も、実はこれと前後して年金資金の市場投資が始まっていたからであり、国民の年金資金投資が実行された直後に株価が上がれば、年金財源の拡大はともかく、年金制度上の不安感は一時的に緩和する。

これと4月に上げられた消費税の、2015年10月の追加増税決定の弾みとして実行されたものだ。

しかしこうした金融政策は株価の一時的な上昇をもたらし、市場に消費税に対する楽観論が発生する効果を招き、発表された7月から9月期のGDPがマイナス成長だった事もあり、一挙に追加増税の先送り論が発生、元々担保の無い紙幣の増刷は「財政の政府に拠る私物化」、「財政ファイナンス」そのもので有る為、消費税増税が先送りされた時点でこの金融政策は担保、信頼を失ってしまった。

消費税増税が安倍総理の決済に拠って先送りとなった時点で、日本銀行は市場を裏切った形となったが、後日自民党幹部、財政通を標榜する代議士達から、消費税増税を先送りしても財政再建に対する影響は小さいと言う発言が為され、これだとそもそも消費税増税だけでは財政再建が不可能だと自らが広言しているに等しくなる。

つまり日本銀行の大幅金融緩和は全く政府の恣意的な状況によって為されていると看做され、担保の無い金融緩和は一方、それを終了する時期を曖昧にし、そもそもが自国の国債をその国家の中央銀行が買い取ると言う詐欺的な財政運営は「非常事態」の措置で有ることから、長く続けられるものではなく、現実にも長くは続かない。

財政の特例措置はその終了時期を明確にする、或いは目的が達成されたら終了する事がもう一つの担保、信頼になるが、これがどちらも不明瞭と成った現在、日本の金融市場の信頼は日本政府のやりたい放題と言う状態となっている。

日本銀行はもはや為す術が無い状態に陥り、かと言って金融緩和政策を止めれば今までの苦労は水の泡になり、国債は暴落、かつて無いまでに国債を購入し、本来の貸付よりも国債の利回りで経営が成り立っている日本の大手、地方銀行は壊滅的な打撃、日銀と共に連鎖倒産する恐れが出てくる。

だが金融緩和政策をいつまでも続けていると、今度は通貨価値が信頼が失い、ハイパーインフレーションを招く事になる。

事実この100年の国際社会の経済政策を見ても、金融緩和と言う状態は市場の公平性が有る程度確保された状態、若しくは市場の独立性が担保された状態を言い、これが政府に拠って「財政ファイナンス」化した時から国家経済の破綻が始まっている。

                                          2・「ふと、思った・・・」に続く





「偽りの救世主」



バッハ「G線上のアリア」 Bach "Air on G String"・・・・・・

元々政変と天変地異の関係は、例えば元号、昭和とか平成とか言う名称だが、これが変更される機会となるのが天変地異だった歴史が存在している。

つまり悪い事が有ったら「仕切り直し」の意味を持っていたのだが、逆に天変地異によって遷都せざるを得なくなるような状況も存在し、或いは政権内部の権力闘争によって敵を徹底的に追い詰めた者は、後年発生する天変地異に自身の所業の恐ろしさを重ね、更にこれは太平記などでもそうだが、少し前に発生した天変地異を後の政変に重ねるなどした。

こうした傾向は世界各地の歴史に見られるが、一方天変地異は平均で4、5年に1度は発生していて、人間は決して安定した状況では過ごせず、政変や権力闘争も3年から5年の間に1度は必ず激化するものと観る事が出来る。

しかし政変と天変地異が重なり易い事もまた一方の現実であり、江戸から明治の変遷期、関東大震災付近や太平洋戦争末期など、この150年ほどでも政変と震災の一致するケースは枚挙に暇(いとま)が無い。

関東大震災の前後では1923年8月24日、時の内閣総理大臣「加藤友三朗」が癌の為死去し、内閣総理大臣が不在のところに9月1日、関東大震災が発生する。
外務大臣の「内田康哉」が臨時総理を兼務していたが、この緊急事態に急遽9月2日、「山本権兵衛」(やまもと・ごんのひょうえ)内閣が組閣される。

だが、平成に入って大変興味深い所なのが「安倍晋三」内閣であり、実はこの内閣は震災内閣といっても良い程強震と縁が深い。
第一次安倍内閣が成立したのは2006年9月の事だったが、この翌年の2007年3月25日には能登半島地震が発生し、同年7月16日、ちょうど第21回参議院通常選挙の選挙運動期間中に中越沖地震が発生する。

その後自民党は参議院選挙で大敗し、大臣の辞任問題や慰安婦発言、自衛隊の活動方針などの問題で自力処理不能に陥った安倍総理は、虚ろな目をして病気を理由に内閣総理大臣を辞任する。

そして特効薬で復活した第二次安倍政権が成立するのは2012年12月26日の事だが、2014年11月22日、ちょうど衆議院を解散した翌日、長野県北部が震度6弱の強い地震に被災するのである。

この地震の規模と安倍総理の器と言うか、粒の小ささに奇妙な共通点を感じてしまう。
政変に応じた天変地異、天変地異に応じた政変と言うか、そうした事を思ってしまう。

安政期の東海地震、南海地震、江戸地震の規模はまさに日本の鎖国制度が大きく変化していく時に発生し、関東大震災は戦争へとシフトしていく日本の始まりだった。
太平洋戦争を挟む1944年南海地震、1945年三河大地震、1946年南海地震と、戦争と言う激動に比例するように大きな地震が発生していた。

また自民党と社会党と言う、水と油が連立内閣を作った村山内閣が成立したのは1994年6月、その翌年の1月17日に阪神淡路大震災が発生し、万年野党の民主党が政権を奪取し、自重で動きが取れなくなった政治的混乱の極み、2011年3月11日には東日本大震災が発生している。

今回安倍総理が衆議院を解散した直後、翌日の11月22日に長野県北部が強震に襲われた事は偶然の一致だろうが、前回の参議院普通選挙期間中の中越沖地震発生を考えると、何か奇妙な感覚を憶えるのは事実だ。

この総選挙では、他に方法が無い事を理由に金融緩和政策と増税を続ける安倍政権は、おそらく選挙準備が間に合わない野党各党に対し、そう大きくは負けないだろう。
半ば開いた口が塞がらない民衆は完全に総選挙に対する関心を失っていて、ここで投票率が下がり、組織票を持つ自民党と公明党が大勝できなくても、負けなかったくらいのことにはなる公算が強い。

そして現状の経済政策を続けると、貧富の差は拡大し、民衆は不景気の上に増税と生活費の増大に喘ぎながら体力を失い、やがて気が付いた時には政府は打つ手が無くなくなっている事になるだろう。
「第二次安倍政権はいずれ虚ろな目をした辞職」を迎える事になるだろう。

もしかしたら関東地震や東海地震と安倍政権の崩壊、日本経済の破綻が重なるかも知れない。
日本人は来年からの4年間、毎年のように大震災以上の生活困窮死亡者を出し、国民の希望は全て奪われるだろう。

自然の天変地異以上の被害を国民は被るだろう。

聖書に記された「偽りの預言者」「偽りの救世主」とは、何かそれらしい風体の者を指していたのではなく、「愚か者」を指していたかも知れない。
その愚か者を選んでしまう、選ばざるを得ないところに人間の「業」、或いは同じように避けられないとしたら、自然の天変地異も何も変わらないもののように見えてくる。

日本はおそらく一つの避けられない終焉を迎えるだろう。
安倍内閣の解散総選挙と自民党、公明党の衆議院選挙の勝利は「国民の絶望」にしかならない。

貧しさからの脱却は消費を抑えて貯蓄する事だが、金融緩和はこうした蓄えをも政府が吸い上げる政策であり、消費する事が美徳なのではない。
景気が悪くてもしっかりとした蓄えを持ち、その蓄えが保全される所に安定や幸福感が存在する。

景気が良くても、金に追われてハツカネズミのように車輪を回している事を幸福とは呼ばない。
むしろそれは「不幸」と言うものだろう。

日本、日本人はこれから先、必ず政変と天変地異に見舞われ、それはこれまでの我々の価値観や意識が大きく変わる時が近付いている事を示しているように思える・・・。





「状況の尊重」



恋はみずいろ ポール・モーリア L'amour est bleu Paul Mauriat・・・・・・

書は體を現し、體は心を映す。

現在ではパソコンのワードが主流になってしまったが、文字と言うのは文字そのものが最も大きな意味を持つ一方、それが書かれた状況と言うものも書体の端々に現れ、それは心情のみならず書いている人間の環境をも現し、この事からも心と体は一つのものと観ることが出来る。

巻紙で書をしたためる時、最後の方に行くに従って巻きが細くなり、この事を「紙が痩せる」と言うが、使って行って減らずに逆に太ったりするのは人間とゴミだけで、大概のものは時間経過と共に少なくなるか、摩滅していく事から、巻紙も痩せてくると文字が書き辛くなってくる。

筆で書をしたためる時、机の上で書かれた文字と、机を使わずに書いた文字は同じ人でも違いが有り、これはその机の高さによっても違いが生じる。

だから書かれた文字によってその人が家で自分の机で書いているのか、或いはどこか旅に出ていて、普段使っている机では無いところで書いているのかが見えてくるのであり、これが机を使わず片膝を立て、そこに左手を固定し、巻き紙を少しづつ回しながら文字を書いている場合は、明確に違いが出てくる。

また電気の無い時代、文字は蝋燭との位置関係からも違いが生じ、蝋燭を左にかざすと文字は少し荒れ、右にかざした文字は狂いが少ない。
これは文字の書き始め、筆を入れる時の迷いの方が、筆を離す時の迷いよりも大きく影響するからである。

一本の蝋燭をかざし、片膝を立て、そこに文字を書く状況と言うものが、如何なる状況かを思えば、その書を受け取った者が感じる危機感、或いは書いた人の状況というものが、時に文字の内容以上に物事を伝える事になる。

だが一方、何時も机を使わずに片膝を使って文字を書いている人は、それが常となっている為、相手に自分の状況が覚られ難く、これをして言うなら、何時も机で書いている人の文字は緊急時には荒れる事になり、机が使えない状況の文字は緊急時も平常時も同じ文字になる。

つまり何時も自分の体以外の道具を多用してる人の文字は美しいが弱く、何時も自分の体だけに近い状況の人の文字は強い。

また一般的に片膝を立て、左手で巻紙を送りながら、書をしたためるのは大変難しいように思うかも知れないが、実はこれが巻紙の中心が常に見えていて文字が傾斜していく事が無く、目に対して平行な位置で文字が書ける為、意外に書き易い。

ただ立てている膝が安定していないと文字は簡単に乱れ、膝が綺麗に固定されると言う事は、体に不調が少なく、精神が乱れていない状況をして初めて成立する話でも有る。

これと同じ状況はみかん箱でも出てきて、昭和40年代くらいまで、通常袋売りの「みかん」が少なく、大概は箱売りされていたものだったが、この箱が木の箱だった。

まだまだ貧しい暮らしだった地方の田舎では子供に机を与えられる親は少なく、兄弟姉妹が師走に買ったみかん箱を机代わりに勉強している状況が有ったが、みかん箱をひっくり返した裏は平面ではなく凹凸だらけで、ここで鉛筆に力を入れて文字を書こうものなら容易にノートに穴が開く事になる。

みかん箱を机代わりにしていた子供達は、ノートの紙の反発力を利用しながら文字を書くことを体で憶えて行ったのであり、まさに道具の無い状況が人を、その強さを育てていたと言える。

そしてこうして文字を書く事でも「状況の尊重」と言う事が出てくる。
家が豊かで文机で書をしたためることが出来る人は、その状況を使わないと「他」に対して傲慢な事になり、ましてや相手が机が使えない事に配慮し自分も机を使わないなどは、相手の状況を哀れんでいる事になり、この哀れみの情が一番人を傷つける。

だから何時も片膝で文字を書くことが習慣ならば良いが、文机が有り高価な筆が使える者は、その机で高価な筆を使って美しい文字を書かねばならず、これは富める者の使命でもある。
机を使わず、わざと先の乱れた筆を使うことは虚飾となるのであり、これを恐れるなら普段から在野に有って自身を鍛える事が必要になる。

ちなみに巻紙が痩せて筆の幅に足りなくなってきた時は、膝先と手の平に乗った紙の反発力をして筆を使うのであり、最後尾は文字が書けない。
この事から昔の書簡は最後の余白が出るのであり、この余白が少ない者は文章、文字は上手いが優雅さに欠け、余白の大きな書簡は時間や暮らしに余裕が有る事になる。

差し迫って左にしか蝋燭がかざせなかった文字、余白が全く無い書はその人の状況が困窮しているか、或いは緊急時を現していて、これを読む者はその書の内容を読まずして相手の状況を知る事になる。

「状況の尊重」とは無駄な事をしない、自分の状況を偽らない事を言い、この事をして天意を乱さない事になるのかも知れないと私は思っている。
また、緊急時にこそ何事も無かったかのように普通である事が、最も大きな力で有るとも信じているかも知れない。

文字は誤ったら線を引き、そして正しい文字を加えれば良い。

紙を棄てなかった事、そして自らの誤りを自らの手によって正した事は褒められるべきことで、私はこうした書簡にこそ、その人の「状況に対する尊重」、誠実を感じる・・・・。





「大ばか者」

珍しい男が訪ねてきた・・・。
もうかれこれ20年以上前に一度会ったきりだったが、かつては商売上敵の立場だった男で、この時は某航空会社飛行機の機内通販の権利を巡って熾烈な競争をし、しかも私が敗退した相手だった。

彼は当時から政治家でも有ったのだが、政治家と聞くと何が何でも叩き潰したくなる私の性には理由が有った。
20代前半の頃だったろうか、衆議院選挙のおり、区長から支援しなければならない候補者が来るので、沿道で迎えてやってくれないかと言われ、両手が不自由な親友を連れて出かけたときの事だった。

並んで迎える私達住人の列に、順番に笑顔で握手をしながら近付いてきた、その元スポーツ界上がりの候補者は、私と親友の前まで来て、そして上から見下ろすようにしたかと思うと、私達を飛ばして隣にいる住人からまた握手を始めたのだった。

確かに仕事中、着替えないで首の破れたトレーナーを着ている貧相な男と、誰が見ても両手が動かない事が解る障害を持った冴えない男など、相手にしなくても彼は充分選挙に勝てた事だったろう、でも私はこの時から政治家が嫌いになった。

私は生まれが貧しく、心が狭いこともあって、金になる事は憶えていなくても、こうした金にならない事は絶対忘れない。
どうしても勝てなかったら1秒でも長く生きて、葬式で棺桶に砂を投げつけてやる、と思ってしまうところが有り、今でも政治家と聞くとどこかで対立しか考えていなかったりする。

「珍しいな、久しぶりだがどうした・・・」
彼は私より10歳以上も年上だが、私はかつての敵の立場で彼を部屋に通した。
「まだあの時の事を怒っているのか・・・」
「ああ、自分の夢を叩き潰されたからな・・・」

茶を入れながら、目を合わせない私に彼は頭を掻きながら「仕方が無いな・・・」と言うような顔した。
「あの時は俺より先に、あんたがイギリスのブランド会社から既に裏切られていた」
「そうかも知れん・・・・、だが今日はわざわざ昔話をしにここへ来たのか、本題は何だ」
何か言いにくそうにしている彼に茶を勧めた私は訪ねた。

「実は政治から足を洗おうと思って・・・・」
「政治家に飽きたか・・・」
「ああ、ほとほと嫌になった、今度支援者を集めて引退する話しをしようと思う」
「で、それと私に何の関係が有る・・・」
「あんたに頼みがある」
「何だ」

こう言う無愛想な会話が続いていたが、要するに彼は色んな理想を描いて政治の世界に入ったものの、その現実は利権と金、それに嘘の塊で、その中でいつかと言う思いもなくなって来たと言う事だった。

「事業にも成功し、政治家としてもある程度の地位を築いていて、それ以上は贅沢と言うものではないか・・・」
「面白くない・・・」
「この世に面白いこと等有ったのか・・・」
「あんたと張り合っていた時の事が忘れられない、だから政治を辞めて今度はあんたと組みたいんだが、どうだ」

「それは・・・、信じることが出来ない」
「金なら出す」
「1億積まれても、その後で2億もって行かれれば同じ事だ」
「なら、どうしたら俺と組んでくれる」

「担保を付けてもらおう」
「担保?」
「そうだ、あんたが絶対裏切れない人物をもう一人付けてもらおう、話はそれからだ」
「あんた、昔とちっとも変わらないな・・・」

彼はそう言うと、次はもう一人保証人を連れてくると言って席を立ったが、せっかく遠くから来て何の益も無く帰るのは不本意かも知れないと思った私は、コンビニ袋に今年大豊作だったサトイモを入るだけ詰めて、彼に渡した。

「お互いもう結構な歳なのだから、妙な夢は見ない方が良い・・・」
クラウンの窓越しにそう言う私に、「あんた若い頃、いつか世界を相手にって言ってたよな」
「俺はフランクフルトに拠点を持って、世界中につてができた、あんたが加わってくれれば小さくても世界に挑戦できるような気がするんだ」

「馬鹿な、私にそんな力など無い・・・」
「奥さんはどう言っている、政治から引退する事をどう思っている」
「あれは、初めから政治なんか大嫌いだった、選挙の時は何時もこれを最後にしてくれと言われ続けてきた」
「そうか、じゃこれから奥さんに尽くしてもバチは当たらんのではないか・・・」

「俺はもう長くない」
「精々動けるのはもう10年有るか無いかだ、最後にもう一度夢が見たい」
「本当の大ばか者だな・・・・」

暗闇の中、走り去っていく車のテールランプが山の陰に消え、厚い雲に覆われた暗天を仰ぐと、心なしか若い頃には何時も動いていた、しかしもう長い間止まっていた何かが、グラグラと揺れたような思いがした・・・。

さてさて、先は分からないが、もしかしたら私自身もこれが最後の大ばか者をやらなければならないかも知れない、いや、心のどこかでは既にもう大ばか者になっているかも知れない。

どうしてこうも穏やかに生きるのが下手なのだろう・・・。











2・「レーゾン・デ・タ」



He's a Pirate (Disney's Pirates of the Caribbean Theme) Violin - Taylor Davis・・・・・

消費税10%の追加増税の判断基準となっていた7月から9月期の実質GDP(国内総生産)は、既に8月の段階からマイナスが予想されていたが、蓋を開けてみればマイナス0・4で、12ヶ月に換算すると実質1・6%の、予想を遥かに超えるマイナス成長だった。

安倍政権が心血を注いだ経済政策「アベノミクス」は「インフレ税」の記事にも出て来たとおり、インフレーションに拠る物価上昇や、公費負担増に実質の国民所得が追い付かず、結果として国民の購買力を押し下げてしまったと言う事である。

インフレーションの本質が政府に利益が集まるところに有る以上、これ以上の利益を国民に付与しなければ購買力が低下することは目に見えている。
この部分を紙幣増刷のインフレーションと言う「理論」に頼った政策が破綻するのは初めから解っていたことだが、問題はこれから以後の安倍政権の政策である。

今の状態で国債の買取と言う金融緩和を続けて行けば、やがて財政再建と言う経済の基本的原則が担保されず、円は信用を失う。しかし7月から9月期のGDPの落ち込みを見る限りでは、消費税10%の追加増税は更なる景気の落ち込みを確実なものとしてしまう。

そしてここで700億円も使って国会を解散し総選挙に持ち込んだとしても、一体国民は安倍政権の何を信任すれば良いのだろうか。
アベノミクスは失敗だった事を信任して、では安倍政権、自民党が新しい経済対策の概要を発表せずに総選挙で勝利した場合、安倍政権の政策方向が全く見えていない。

唯ドボドボと円をばら撒いていたのでは、いずれ日本国債の金利は上昇し、あらゆる手を使って国民の貯蓄を収奪した上に、インフレーションで最後の一滴まで国民の資産を搾り取ったのだから、これ以上円を増刷して行くと、円は間違いなく暴落するか、市場に通貨は溢れても需要が追い付かず、通貨のデフレーションを起こすかも知れない。

また高々2%くらいの消費税を上げたところで、初めから財政再建など困難だったのだが、これも実行出来なければ対外的な信用面でのダメージは計り知れない。
つまりこのまま失敗したアベノミクスを信任する場合、国民は必ずやってくる円の暴落と国債の暴落、生活必需品の物価は高騰し、それ以外は物が売れない状態、スタグレーション状態に追い込まれ、公費負担は更に加速していく事から、壊滅的な下降経済に追い込まれていく。

4月の消費税増税以後、8月になっても消費の最前線である外食産業の売り上げが回復していなかった。

これらは一見各外食産業の事情だと考えられていたが、実体は消費そのものの落ち込みで有る事を解っていながら、民間の経済研究所、シンクタンクなどは軒並み年2%台のGDP上昇を謳っていた。

これでは経済の専門家、経済専門の研究機関など詐欺師と同じようなものである。
今すぐ経済の専門家や研究機関と言う看板を下ろし、頭を丸めて国民に謝罪すべきところだと思う。

インフレーションでコントロールできる経済の範囲は広いが、薄い範囲に留めておかないと毒薬になる。
これを切羽詰ったところで気付け代わりに使った場合、その後の対処が無いと気絶した人が目を醒ました瞬間死んでしまう事になる。

例えば国家予算などは一度増額されると、未来永劫国民は増加分を負担しなければならなくなり、国家公務員が一人増えれば、その一人分の給与支出は国家が存続する限り減少しないが、片方で国民の人口動態が高齢化すると、国民一人当たりの生産額は減少し、その上に負担額は実質増額となる。

この意味から国家公務員、地方公務員、国会議員、地方議会議員など、国民の税金で給与が為されている者の増加、歳費の増加は遠い未来までに及ぶ国民の拘束された支出となり、しかも経済が落ち込めば、その負担割合の体感温度は2倍にも3倍にも感じる事になる。

一方一人でも公務員や国会議員が減少すれば、その分が未来永劫に渡って国民の可処分所得に組み入れられる。
つまりは公務員や議員が減少すればするほど国民は未来に渡って利益を得る事になり、経済の原則は利益を得る事ともう一つ、支出を抑える事である。

100万円稼いでいても、毎月105万円使っていたのでは借金地獄になるが、月に10万円しか稼げなくても5万円しか使わなければ、毎月5万円の貯蓄をする事が出来る。

日本の場合、最低でも人口減少率に見合った国家公務員、地方公務員、国会議員と地方議会議員の削減率が必要であり、最も確実なのは労働力人口に比例した人数とする場合で、アベノミクスと言う経済政策が実質4月から6ヶ月に渡って国内総生産を押し下げた結果を鑑みるなら、次に取れる政策はこれ以外に無い。

だが仮に今回実質GDPのマイナス成長の結果から、消費税を追加増税しない事だけを争点に解散総選挙が行われ、消費税を上げない事で国民の信を問うとした場合、日本経済はこうした消費税2%くらいの事で初めから改善など無かったのだから、安倍政権は全く意味の無いところで国民の信を問い、金融緩和を続けるなら、間違いなく日本経済の先行きは不安定化する。

日本国民はこれから冬を迎え、一層寒さが身にしみる事になるだろう。
今のうちに少しでも備えるしかない・・・。

ルネサンス期のイタリアで存在した考え方がフランス語で残された、こんな言葉がある。
「raison D`Etat」(レーゾン・デ・タ)、訳すなら「国家的な理性」とでも言おうか・・・。
都市国家の存在を至上として、国家の存続、強化を図るための法律、行動基準の事だが、
ここで語られた高邁な理念の現実は、結局国家を運営する特権者の利益至上にしかなっていなかった。

国家の利益、国益とはいつの時代も特権者の利益となり、国民主権が謳われながら、国民は理想とは相反する国家の利益と衝突せざるを得ないのである・・・・。




1・「インフレ税」



Promentory (Last of the Mohicans Theme) on Violin - Taylor Davis・・・・・・

1万円当たりの預金からの利子、解りにくければ1円でも良いが、とにかく通貨を金融機関に預けた時の利子を「名目利子率」と言い、ここで物価が上昇した場合、1万円の預金から発生する利子で買える範囲、「購買力」は名目利子率から物価上昇率を差し引いたものに減少し、この差し引かれた利率を「実質利子率」と言う。

1万円の利子が100円だとして、これで買えた駄菓子が値上がりした場合、それまで3個買えたものが2個しか買えなかったとするなら、この状態をそれ以前の状態と比較してインフレーションと呼び、しかしこのインフレーションの概念はどこかの時代の一定時期を基準としない為、拡大麻痺する概念でもある。

つまりはインフレーションが長く続けば、それが「以前の状態」と言う事になり、これによって利する者も損失を被る者も、同じ比率で以前の基準麻痺を起こしていくが、これはデフレーションも同じで、少しずつ上昇、或いは下落する場合は、社会も個人も慣れが出てきて、実際のダメージを過小評価するようになる。

全ての財物、物品が同じ比率で価格上昇を起こした時、そこで唯一価格上昇を起こさないものが「通貨」であり、インフレーションでは通貨の価値が減少し冒頭の話の通り、名目利子率から物価上昇率を差し引いたものが利子率となる為、実質の利子率は下がる事になる。

簡単に言えば金を貸している者は物価上昇率分の利子損失になり、金を借りている者は物価上昇率分の利子が軽減される効果を持つ。
この為に常に金融機関から借り入れを行っている企業などは、潜在的にインフレーションの状態を希求するのである。

また現在のように政府が通貨発行量を増やして政府支出に使っている場合、名目利子率から差し引かれる物価上昇率が時間経過と共に上昇し、実質利子率、実際に物が買える範囲が狭まる事から、民衆の購買力は物価上昇率と同じ比率の減少となる。

これはどう言う効用を持つかと言えば、政府が発行を増やした通貨の分だけ軽くなる通貨価値は、インフレーションによって民衆の所得が吸い上げられ、それを政府が使っていると言う形になっているのである。

それゆえ政府や企業はインフレーションこそが経済再生のような言い方をするが、インフレーションは実質増税であり、これに加えて日本の税制が持つ累進性では、インフレーションと共に名目賃金が上昇した場合、それに見合った税制改正を行わないと、税率が所得上昇率を上回り、基本税でも実質増税になる。

更に通貨を除く全ての財物、物品が均等に価値が上昇する事は現実には有り得ない。

一般中小企業勤労者の名目賃金が物価や社会負担の増加率に及ばない場合、または年金支給など予め上昇率の無い所得の場合はインフレーションのマイナス面しか被る部分が無く、このマイナス分が政府や企業に恩恵として渡る、いわゆる所得配分の格差拡大と、社会不安を引き起こしていくのであり、現状の日本経済は少数の大企業と政府対、多くの中小企業と年金受給者の利益対立となっている。

一方デフレーションでは物価が下がって通貨の価値が上昇する為、例えば金利が0円で有っても、物価が1%減少すれば1万円当たりの預金から発生する利子率の実質は1%の上昇となり、名目金利が0と言う事は、自宅に現金を置いていても金利が付いていく事になる。

この為デフレーション経済では金を貸している者が利する事になり、金を借りている者は物価下落率分の利子加算が発生した効用を持ち、金を借りている企業としては金利負担の上昇から返済が困難な状況が発生して来る。

この状態が「不良債権化」と言う事だったのであり、上昇していた賃金を下げなければ雇用者数は減少し、失業率が増大する現象を引き起こしていた訳である。

日本政府が行う金融緩和は今の所インフレーションのマイナス面しか現れていない。

この原因は前出の名目賃金上昇率が公費負担を含めた国民の実質支出増加率に追い付いていない事、日本企業の多くを占める中小企業が、インフレーションに拠る物価上昇で発生した民衆の購買力低下率の影響を全て被ってしまっている事、そして高齢化社会により実質支給額減少は検討されても増加が望めない、年金受給者と言う消費者の増加に拠るものである。

この事態の解決策は古くから存在する基本的な政策しかない。
つまりは税制の改正、名目賃金上昇率を税制が追い越さない程度の減税が必要なのであり、この他にも出来るだけ公費負担を増加させない努力が必要な事は、2000年も前から同じである。

適切な減税を行い、民衆の負担を軽くして政府支出を抑制する必要が有るが、日本政府はインフレーションの持つ功罪の罪の部分しか今の所使っていない。
為にインフレーションとデフレーションが混在、或いは迷った状態で社会を覆い、先が見えないのである。


ちなみにデフレーションでは、金利が下がっていても自動的に物価下落率の実質金利が発生する事から、通貨や全体利益の配分が民衆側の裁量幅に傾く、為に政府や日銀の経済コントロールが難しくなるが、インフレーションでは紙幣の発行から始まって全体利益が大企業と政府の側に傾いていく。

この事からインフレーションでは経済の裁量権が政府に集まり、デフレーションではこの裁量権が分散して民衆の側に有ると考えても良いのかも知れない。






「戦勝国祝賀行事」

1937年に始まった日中戦争、日本では別名「支那事変」とも表記されるが、この時「中華民国」共産党の「毛沢東」(もうたくとう)はこう言う事を言っている。
「日本軍との戦いは10%に留めておけ、妥協と忍耐が必要だが、一番の課題は共産党の勢力拡大である」

中華民国共産党は日本軍と蒋介石(しょうかいせき)率いる国民軍を戦わせ、その間に共産党の勢力拡大をもくろんでいた訳であり、部分的には日本軍と共闘していた。
それゆえ、南京が日本軍によって陥落させられ占拠されたとき、小躍りして祝杯を上げたのである。

一方第二次世界大戦に措ける連合国の概念は、イギリス、フランス、アメリカの三国と、仕方なく参加を要請せざるを得なかったソビエト連邦の4カ国で有り、これに中華民国の蒋介石がかろうじて抗日戦争で闘っていた為、仮想的な連合国側の概念が存在していたが、基本的には当時の朝鮮半島、中華民国も戦勝国ではなく、戦勝国によって占領が解放された、救済国だった。

更に言えば日本と闘っていた蒋介石の「中華民国」は確かに連合国と共に日本に対して共闘した事から、これは日本がポツダム宣言を受諾した時点で戦勝国としての権利を持つが、この権利を持つ中華民国政府を影で裏切りながら、第二世界大戦が終結すると共にクーデターを成立させた中国共産党は、正確に言えば「戦勝国」である中華民国を台湾に追いやり、国を乗っ取った戦勝国権利国家の敵である。

この事を考えるなら、現在の中国共産党政府国家「中華人民共和国」は第二次世界大戦終結時、戦勝国を裏切っていた、文字通り売国奴と言う事になる。
つまり日本に対する戦勝国では無いので有って、彼らが現国家の祝典と出来るのは「中華人民共和国」が成立した1949年10月1日であり、しかもこれは革命記念日と言う名称が正しい。

中国共産党は第二次世界大戦勃発の初期から日本と通じ、中国人民を裏切って来た存在であり、この国家が第二次世界大戦の戦勝国、或いは抗日国家として国を挙げて祝う資格は無い。

同じように何も術が無く日本に占領された朝鮮半島は、日本と戦争にもならなかった。
連合国の勝利によって開放されたものの、未だに南北が分離されている現実を鑑みるなら、彼らが第二次世界大戦終結をして戦勝国家として祝杯を上げる事は、まさしく虎の威を借りたものでしかない事を現している。

韓国の第二次世界大戦、朝鮮戦争はまだ終わっていない。
彼らが本当に解放される、或いは国家を挙げて祝える時が有るなら、それは南北朝鮮の統合、そして朝鮮半島の独立しかない。

しかし未だその夢は叶えられず、歪んだナショナリズムは抗日と言う形で現れているが、これはコンプレックスの裏返しでしかなく、民族的に中途半端な状態で、1970年にやっと最貧国から抜け出した国家が第二世界大戦の戦勝国、または抗日国家として胸を張るのは「虚勢」が過ぎている。

中国は来年第二次世界大戦終結70年の大々的な抗日記念祝賀行事を予定し、これに韓国にも抗日と言う観点から参加を要請しているが、第二次世界大戦中の朝鮮は抗日と言うよりも、むしろ厳しい現実に屈する事しか出来なかった事実を反省し、朝鮮半島統一の努力を行うのが先かも知れない。

また中国共産党は、基本的に第二次世界大戦時、その国家と民族を裏切った重大な国家反逆組織である。
このような立場も忘れ、その矛盾を戦争が終わったら抗日と言う形にすりかえ戦勝国として祝うなど、明確に歴史事実を歪曲し、中国人民を欺いている。

中国共産党は第二次世界大戦中、日本軍と共闘し、蒋介石軍を疲弊させ、国家を乗っ取った中国人民の敵であり、イギリス、フランス、アメリカに取っても間接的な敵だった組織である。
第二次世界大戦戦勝国では無く、第二世界大戦に措ける戦勝国の敵が生き残ったと言うのが現実の姿である。

中国人民が第二次世界大戦戦勝を祝うなら、中国共産党を追放した時にそれは成立する。
また抗日記念日には中国共産党を排斥して初めて歴史的抗日と言える。

日本は確かに連合国に戦争で負けたが、敗戦時の連合国とはアメリカ、イギリス、フランス、ソビエト連邦、蒋介石の中華民国であり、この内ソビエト連邦は崩壊し、ロシアとなり、蒋介石の中華民国は中国共産党に乗っ取られた。

朝鮮半島に至っては国家が混乱をきたし、南北に分断される事態になり、言わば日本は確かに連合国に負けたが、それは当時の連合国に負けたのであって、その後国際連合に参加した国家全てに対して戦争に負けた訳ではない。

中国共産党は抗日よりもむしろ日本軍と共闘していた。
この意味では中国共産党は人民から糾弾される事は有っても第二次世界大戦戦勝を祝う側では無く、抗日と言う観点でも人民から厳しい追及を受けなければならない立場にある。

第二次世界大戦戦勝国、アメリカ、イギリス、フランス、少し問題は有るがロシアは戦勝国の責任としてこうした原則を全うする義務がある。

すなわち自身の国家で戦勝を祝い、他国を招く事には正当性が有るが、少なくとも人民を裏切っていた中国共産党が開催する抗日、戦勝祝いに参加する事は、戦争の意義と自国が犠牲にした国民の命に対する虚無化に繋がる事を認識して欲しいものだと考える。

中国人民が共産党を打倒し、民主主義を手に入れたら、私も敗戦国の人民として中国の戦勝、抗日記念日を祝おう。
南北の朝鮮半島が統一されたあかつきには、朝鮮が長い年月をかけて第二次世界大戦を戦い抜いた事を私も祝おう。

だが戦争時には人の後ろに隠れ、アメリカが勝ったら自分の手柄のように考えている国家の抗日、戦勝国の裏切り者が開催する戦勝祝い、抗日記念日など何の意味も大義も無い・・・・。





「雲の総量」



オペラ座の怪人(The Phantom of the Opera)・・・・・

地球の気候を為すそのエネルギーは太陽光に拠って維持されているが、ではこれが全て太陽に依存する受動的なものかと言うと、少し違う。

地球は入ってくる太陽光を反射していて、この反射率を「惑星アルベド」と言い、地球の場合はこの数値が30%と言われているが、こうした地球に措ける反射率の構成要因の一番大きなものは「雲」である。

つまり太陽と雲は惑星アルベド30%を双方で支え合っている関係に有り、どちらかのバランスが崩れると地球の気候は大きく変化する事になるが、例えば1年間を通して発生する全地球の雲の総量は、少なくともここ30年は変化が無い。

地球の雲の総発生量は、凡そ現在の気候になってから以降、一定で有ったことが推測されていて、この雲の総発生量が一定で有る事から、地球の太陽光反射率も一定に保たれているのだが、では何故地球に措ける雲の発生総量が常に変化しないのか、その厳密な理由については解っていない。

現在地球の気候を考える上で二酸化炭素の量が問題視されているが、例えば全地球の二酸化炭素量が現在の2倍になったとして、この温室効果を相殺する地球の反射率上昇は惑星アルベド2%の増加である。

地球の太陽光反射率が2%上昇しただけで、倍増した二酸化炭素量の効果は消失する。
この事から地球の気候が維持されている最も大きな力は「雲」と言う事になるのである。

また二酸化炭素は炭素原子だけを見るなら循環していて、二酸化炭素、メタン、有機物の形で地球表層に存在しているが、この内有機物は植物や海洋生物体を構成していて、これが死後海底に沈んだり、或いは有機質泥岩などになった場合、二酸化炭素は地球に固定された形になる。

更に植物は光合成によって二酸化炭素を取り入れる事から、ここでも二酸化炭素は固定されるが、この固定は植物の死滅と共に解放される為、厳密には流動性の二酸化炭素となり、地球に措ける二酸化炭素の総量は基本的に一定であったと見られている。

そして発生当初の地球では酸素濃度がとても低かったが、約27億年前、初めて光合成を行うバクテリアが発生した時から、徐々に酸素濃度は高まり現在の状況に有るが、二酸化炭素量は確かに短期的には一定で有るものの、例えば過去40万年と言う単位で見るなら、190ppmvから280oomvと言う大きな幅で変化していた事が解っている。

つまり我々人類のみが二酸化炭素の増減の理由ではないので有り、自然界だけでも食物連鎖の非バランス現象が発生した場合、二酸化炭素量は大きく変化すると言う事である。

もっともこうした過去40万年と言う単位の中では氷河期と間氷期が存在し、こうした寒冷化と二酸化炭素の増減、生物の変遷、それに惑星アルべドがどう拘って来たかは解析できていないが、決して無関係では無かった事が伺える。

しかし、やはり地球の太陽周回軌道の変化、地軸傾斜率の変化に拠る変動、「ミランコビッチ・サイクル」こそが決定的気候変動原因と考えられ、この場合は雲の総量の0・296%増加から寒冷化が始まり、やがて氷河面積が広がって地球の太陽光反射率が高まり、寒冷化するものと考えられている。

ここで大切なのは寒冷化の初期が雲の総量の微増と言う点である。

ミランコビッチ・サイクルの初期には、最初に僅かな反対側への動きが有って、そこから寒冷化の方向に向かう可能性を考える必要が有るのかも知れず、その場合のサイクル反動期間は数年と言う単位ではなく、場合によっては数日の単位で変動へと向かう可能性が出てくるのである。

そしてこうして始まった寒冷化は、温室効果ガスである二酸化炭素を容易に地上に固定し、生物を死滅させる事から、大気中の二酸化炭素量が減少し、ここでも寒冷化に向かう事になる。

結果から言うなら、地球の気候変動は人間の二酸化炭素排出量の増減に関係なく発生するのであり、二酸化炭素量の増大は、確かに温室効果から地球の温暖化をもたらすが、この事をして氷河期が訪れない、氷河期を免れると言う事にはならない。

むしろ全く関係なくやってきて、しかもその場合は一瞬にして温室効果ガスの効果を消失させるものと予測されている。

我々は気象と言う一つの結果の中で地球の温暖化と寒冷化を見ているが、この両者は同一線上のものではなく、決して交わらない離れた2本の線であり、過去には確かに造山活動で地殻内部から噴出するメタンガスなどで影響を受けた気象変動が存在したが、現在の地球表層大気に蓄積される二酸化炭素による温暖化と、寒冷化は全く違ったシステムで、寒冷化は温暖化の影響外にある。

二酸化炭素の発生原因は地球の生物に拠るが、太陽周回軌道や地軸の傾斜率は地球そのものの事情である。
ここでは地球表層近くで温暖化となりながら、どこかで寒冷化も激化している、温暖化と寒冷化の同時進行の可能性も考えられ、この攻防の結果は既に決定している。

生物の事情と地球そのものの事情では比較にならない。
ミランコビッチ・サイクルは定常比較線でやって来ない。
必ず周期や波の形でやってきて、ここでは温暖化の中に寒冷化が時々混じってくる現象を繰り返しながら、やがてある日沖縄に雪が舞う事になるかも知れない。

地球温暖化は人間や生物の事情だが、寒冷化は地球の営みであり、それはフラクタル(自己相似性)に在りながら、決して容積、表面積、形が完全一致する事の無い「雲」の総量変化、言い換えれば水の液体、氷、水蒸気と言う3つの状態変化の中で、自由移動可能な状態の水、「雲」の増加から始まる・・・・。





「シンクロニシティ」

「Carl Gustav Jung」(カール・ユング)の仮説に、従来から存在する法則原理から発生する因果律以外の、非不規則性、非物理的因果律に拠る「事象の集合」、いわゆる偶然の一致に関して、人間が持つ無意識の意識集合がコミュニケーションを通して実現化するとした箇所が有るが、偶然の解釈はそれが非規則性、非物理的原理で有るなら、ここに第二の規則性や第二因果律を応用する事の意味を私は見出せない。

この意味に措いて哲学の世界では、偶然は偶然に非ず、全て必然であるとしているとしているが、逆にこうした事を言いそうな物理学の世界は不確定性理論によってラプラス運命論が否定され、未来は決定されていないと言う立場を取っている。

しかし近年、反物質などの発見により、確定性未来の可能性も出てきている為、一概には言えないが、多くの者が偶然の中に必然を観る中で、私は必然の中に不規則性が観えるような気がしている。
確定性未来も過去も現在も、全て同時発生していると仮説して措こうか・・・。

3分の1の確率は実際には有り得ない。

何かを3回行って、その内1回が必ず想定通りの結果を生む事象は存在せず、3の倍数で1を乗じて行けば、例えば9回物事を行って確かに3回は同じ結果が出るが、その3回は偏っている事から、数字の連続の中での確率は揺らいでいて、なおかつ数字の値が大きくなればなるほど数値自体が存在の不安を発生させてくる。

人類は未だに数の際限を見い出していない。

この事から数に関しては容積が解っていない為、全ての確率は長さを区切った確率となるのであり、その確率は現在自分がその確率の時に在ると言うのが正しいのかも知れず、前出の3分の1の確率の中には他の全ての確率も存在し、他の全ての確率の中にも3分の1は平均値として存在する。

また9回の内3回起こる事は、最初の3回で全て起こるかも知れず、或いは一番最後の3回に集中するかも知れない。
この事は何かの必然性を示しているのではなく、きっちり3回に1回現れるとしたら、そこに規則性、必然性が在るのであり、むしろこうして偏りが在る為に偶然性が証明されていると考えるべきなのだろう。

つまり我々はこうした際限の無い、あらゆる確率が混沌とした中で暮らしていて、生物の行動確率は全て二者択一になっている。

動くか止まるか、行くか行かないか、やるかやらないかの組み合わせなのであり、この点で言えば生物の基準確率は全て2の倍数分の1であり、この2の倍数分の1が混沌とした確率にシンクロする確率は、最大で4分の1、2の倍数と言う事を考えるなら、シンクロしない確率の方がシンクロする確率より低いのかも知れない。

偶然の一致、「シンクロニシティ」は人間が意識できるか否かと言うものを含めると、我々の周囲で非シンクロニシティ以上に発生していて、この中でも自然に存在する混沌の偏りとシンクロした場合、それは信じられないような偶然の一致になるのかも知れない。

そしてこうした偶然の本質は単なる事象の集合でしかないが、トランプゲームでスペードのエースが出た時、片方はそれで大金を掴み、一方はそれで破産すると言った具合で、個人の事情、環境に拠る人間の二者択一の組み合わせによって、幸運と不運のシンクロニシティに分かれていく。

偶然の一致により大金を得たり、或いは自身の恋愛が成就する場合と、偶然の一致により大金を失い、思いを寄せる人と別れなければならない場合が、人間の二者択一の組み合わせの中で発生してくる。

こうした程度、濃度の差は有れ、人間は常に偶然の一致、シンクロニシティの中に在って、それでも幸運なシンクロニシティに在る者は良いが、不運なシンクロニシティに在る者はどうするか・・・。

シンクロニシティは宇宙が持つ確率の混沌、偏りと、人間の2の倍数分の1の確率の同調で有ることから、少なくとも今の反対を行えば悪いシンクロニシティは半減する事になり、一度半減の回転、偏りが始まると、先に行って大きく変化してくる事になる。

間合いの悪い人間と言う者が存在するが、これは軽度の不運シンクロニシティと考えるべきで、何時も自分が出かけると電話がかかってきていたり人が訪ねて来る場合、その反対に自分が訪問すると必ず相手が留守の時が多いなどの場合は、大体同じ傾向や時間、思考回路で行動が為されている事が多く、これを変えてやれば変化が出てくる。

何時も午前中に出かけていた人なら、これからは出来るだけ外出は午後にするとか、何時も行動が遅い人はこれからできるだけすぐに行動する、その反対で即決で物事を決めて失敗している人は一晩考えるようにするだけでも先が変化してくる。

これまでの悪い流れが少しずつ改善されてくる可能性が出てくるのである。

またシンクロニシティの基本は変えることが出来ないが、人間はこれを注意によって緩和することも出来る。
人間の脳は目覚めてから一定の時間以内は冷静な判断をし易く、逆に就寝前の思考回路は鈍い。

この事から早朝の行動を増やして夜間の行動を減らす事でも、悪いシンクロニシティを遠ざけることが可能であり、仕事をする場合は仕事をしている人の所へ行かねば成立せず、遊ぶ場合は遊んでいる人の所へ行かねば成立しない。

遊んでいる人の所で仕事の話などしても無意味なのである。

更にシンクロニシティは確率の問題なので、人間の場合、あらゆる確率は人間相互の関係の中に在り、この意味ではより多くの人間との接触こそがシンクロニシティの拡大に繋がり、このシンクロニシティの中でも幸運のシンクロニシティを多く得る為には目的以外のシンクロニシティを避ける事が必要になる。

夜遊びをしていれば、それ相応にリスクが発生し、そうしたリスクが多い者が集まる場には悪いシンクロニシティが発生し易い。

自身の心の闇、憂さを晴らそうと出かけた時は、その場に集まる者が皆同じ動機で集まっている可能性が有り、ここでは暴走した自我がそれぞれに出易く、そこから不運なシンクロニシティが始まる確率が出る。

何か面白い事を探して、或いは時間が有るからでかけたであろう祭りにはそうした人が集まっている。
時間が無い中、無理して帰省した時は、高速道路を走っている車の運転手の全てが自分と同じだと思った方が良い。

出来れば必要の無い人間との接触、自我が暴走しそうな場へ行く事は避けた方が良いが、全てのシンクロニシティは人間に取って幸運と不幸の双方向性を持っている。
勤勉である事、人を慈しむ心を忘れない事、誠実である事が、幸運のシンクロニシティへの入口かも知れない。

ちなみに「怠惰」はシンクロニシティに限らず、あらゆる人間にとっての不幸の始まりと言うべきもので・・・・・




プロフィール

old passion

Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

[このサイトは以下の分科通信欄の機能を包括しています]
「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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