第二章・4「アジア」

緑子が見ていた「深い悲しみ」とは決して何か大きなものと言う訳ではなく、むしろそれは深さの問題だった。

徐黄王の中には幼い頃の貧しい農村の暮らしが有り、その中には穏やかな景色を見る部分も有るのだが、次の瞬間その景色がまるで紙が破れ落ちるように切り替わって、下から痩せこけて横たわる彼の両親らしい男女の姿が現れ、やがて彼らの皮膚が少しずつただれて剥けて行く姿が映し出される。

そして近くを流れる川も始めは魚が泳いでいる綺麗な川なのだが、こちらも一瞬にして魚が川面に浮き上がり、深く禍々しい緑色になってしまって、両親の為に水を汲みに来た徐黄王はそこに立ちつくすのである。

悲しい出来事だった。
鄧小平が行った経済的部分開放は、まず工業から始まり、徐の村にも畑が整地され、多くの家電製品工場が建てられた。

生活と逆らえない共産党の方針の為、僅かばかりの金を貰って土地利用権を失った徐の両親は近くに立った工場で働く事になり、暫くは平穏な日々が続いたが、やがて工場で部品洗浄の仕事をしていた両親はトルエンの副作用から髪や歯が抜け、終には関節障害から歩く事も出来ずに寝たきりになってしまった。

同様にそれまで魚釣りをしていた川は毒々しい緑色になり、腐臭が立ち込めるようになった。

徐の両親はこうして体を犠牲にして彼を北京大学に入れたが、徐が大学を卒業して故郷に戻って見ると、両親は政府が出している保証金で暮らしていて、しかも寝たきりの彼らは少しでも動く度にその皮膚を失って行き、徐の村人達はこうして皆廃人同様になったのであり、やがて開放政策が投資部門にまで及んでくる頃になると、こうした現実が海外に知れ渡るのはまずいと言う事で村は金網に囲まれ、適切な医療も施されないまま放置され、その中で徐の両親も死んで行った。

親子でも金網の中には入れず、最終的には村全体に火が放たれ、僅かに呼吸が有った者まで死者と一緒に焼かれてしまった。
金網の周囲には徐と同じように、幾人もの人たちが手を合わせ天を恨んで泣いていた。
人民解放軍の兵士に銃口を向けられ、金網から少し離れたところで地面にひれ伏して泣いている。
徐黄王と言う人の全てはここから始まっていた。

緒長沖縄県知事が徐の事を恐ろしいほどのプラス思考と評していたが、それは違う。
徐黄王は戻るところ、帰れるところが無かった、それゆえ前に進む以外に無かったのである。
「わたし、徐黄王といいます」

「きょわ、先生に教えて欲しいから来たあります」

たどたどしい日本語で話しかける徐に一番戸惑ったのは久世山宗弘だった。
緑子は既に孫嶺威を通じて徐黄王の事も知っていたから、どこかで孫も徐も懐かしい人達に会っている気がしたものだが、久世山宗弘は初対面、しかも相手は中国人と言う事もあって、少し緊張していたようだった。

「この老いぼれの話で何か役に立つ事が有りますか・・・」
「先生、大東亜共栄圏は何ありますか」
「大東亜共和圏?」
「そう、有ります、中国では日本人の言い訳くらいしか習う事できないあるます」
「徐さんと申されたか、言葉に気を使う必要は有りません」
「普段の一番話し易い日本語で話してください、それで私が気分を害することはありません」

久世山は気持ちとして敬語を使おうと努力している徐の姿に、どこかで緊張が解けたのかも知れない、暫くすると何時もの穏やかな顔に戻っていた。

「大東亜共栄圏を中国の方から尋ねられるとは思いませんでした」
「それと、世界最終戦は一体何ありますか」
「中国では石原莞爾と言う名前、東条と同じくらい嫌われている有ります」
「そうでしょうね・・・・」
「満州事変、石原のせい有ります」
「そう思われても仕方が無い・・・」

「先生、日本軍は本当にアジア解放目指してた有るか・・・」
「いや、それは違うと思います」
「でも、ここにいる孫先生は久世山先生と石原には我々が習った日本軍のと違うの事が有ると言ってるある」
「日本軍は一つじゃなかった有るか」

徐は出された玄米茶に手を付ける間も無く久世山を質問攻めにしていた。

「大東亜共栄圏は基本的に欧米が支那と朝鮮を植民地化していく中で、これを阻止してアジアを守ろうと言うのが始まりでしたが、その多くは詭弁でした」
「しかし石原中将はやはりアジアを一つとして見ていたかも知れません」
「それゆえその中心がどこに在るかを問うてはいなかった」
「日本ではなくて中国でも良かったと言う事ですか」
「そうです、だから満州国を作ってそれを手本にしてアジアが一つになり、欧米と戦うと言う形を考えていたと思います」
「でも、結果は日本の侵略あった」
「そうです、だから東条と対立する事になりました」

「世界最終戦とは、あの当時であれば欧米とアジア、その代表として日本が戦う事を指していましたが、太平洋戦争後、石原中将はこれが繰り返され、一番最後の戦いで人類は滅びると言う考えをされていました」
「それは核戦争ありますか」
「そうです」
「ですから、核と言うものが出来た時点で世界は常に次の戦争が最終戦争になるかも知れないと言う事になり、それゆえに何としても阻止しなければならないと言う事だったと思います」

「もし、今中国が滅びたら日本人、喜びますか・・・」
「これはまた、凄い質問だが、先にも言ったように、世界と言う仕組みの中で存在するアジアと言う地域、この中でどこかの国が困った状態になって他のアジア諸国が発展する事は有り得ない」
「アジアと言う枠組みの中で不幸な国が出来れば、アジア全体が暗雲に覆われる」

「じゃ、中国が滅んだら日本は助けてくれる有るか」
「難しい質問ですが、中国が滅べば日本も韓国も今のままではいられない」
「しかし現実に助けられるかと言えば、反日、反韓、反中と言う今の状態では各国とも動けないでしょう」

「アメリカが何とかしてくれる有るか」
「ロシアがある以上それは難しいかも知れない」
「徐さん、さっきからあなたの話を聞いていると今にも中国が滅びそうな事を言うが、中国はそんなに危なくなっているのか」

「これは誰にも言ってはいけない有るが、中国の暴動、世界に配信されている数の10倍以上、辺境地域では人民解放軍が一時民衆に投降した地域も出てきてるある」

「共産党、この事実をひた隠す為に反日を煽っているある」
「何と、その暴動は先に秩序が有るのですか・・・」
「えっ、暴動に秩序無い、だから暴動違うか?」



第二章・3「接触」

容易には信じ難い話だった。

一番最初は緑子が言う「深い悲しみ」、これを緑子が感じ、その先には「徐黄王」が在る事が解ったが、緑子の意識と徐の意識は交わらない。
だが、その隣にいた「孫嶺威」の意識は徐の近くまで来ていた緑子の意識を察知し、これと交信するようになる。
孫もまた世界でも数が少ない特殊な能力を有する者だった。

それゆえ孫と行動を共にする徐はあらゆる意味で成功を収めていたが、孫は唯「徐」といた訳ではない。
徐黄王という人物の中に世界的なスケールと、人の持つ苦しみや悲しみの情、その深さを見るゆえ行動を共にしていたのである。

孫嶺威は緑子と意識で話をする中で、彼女の年代では知り得ない過去の意識を感じるようになるが、その意識の出所が「久世山宗弘」で有る事を理解するに、そう大きな時間を要しなかった。
緑子は3歳の時から久世山宗弘と暮らし、その意識のすぐ隣で成長していた。

それゆえ緑子と意識を通じる中で孫嶺威は幾たびと無く「大東亜共栄圏」、「世界最終戦」「衝突」と言うキーワードを拾っていて、その話を徐黄王に話して聞かせたところ、徐はおそらく崩壊していくであろう中国のこれからに付いて、久世山と言う日本の老人が何かヒントを持っているのではないか、そう直感したのだった。

緑子と孫はおそらく同じ能力ゆえにどこにいてもお互いがいつかは認識する時が来ていたいただろう。
それは偶然にして確実な事実だった。
そしてこうしてみて見ると、何故息子や孫が先に死に、高齢な久世山自身が生き残ったのか、或いは緑子の目が見えなかった事は何かの意味があったのではないか、そう思わざるを得ない事になる。

しかし、これらは偶然であり、その方向に緑子も久世山も孫嶺威も、徐黄王も存在したと言う事だった。

中国社会は2重構造である。
共産党関係者やそれと懇意な者達が形成する表の経済と、それ以外の者が形成する裏の経済が有り、共産党関係者は全人口の3%未満であるから、この3%未満の経済が表の経済で、残りの経済は全て何某かの「裏」になっているが、この「裏」経済が表の経済を支えていて、表の経済の繁栄が外から見る中国経済の繁栄なのである。

原理は簡単である。
銀行から融資を受けようとする時、まず共産党関係者以外は殆ど融資条件に達していない為融資は行われないが、共産党関係者の推薦が有れば融資条件を通過できる。
更にこうした共産党関係者の推薦状を売って商売にしている者がいて、直接共産党関係者がこうした組織を運営している場合も多い。

一般の起業家が1000万円の融資を受けようとしても、まず銀行は金を貸してくれない。
そこですぐ近くにある銀行推薦のコンサルタント会社へ行けばすぐに融資手続きが完了、融資が実行されるが、その場合政府の定める金利は年10%~15%だが、この金利が一挙に50%や100%になる。

また銀行から正規の融資を受けた共産党員の親族が経営する闇金融会社でも融資は受けられるが、こちらも利子は法外で延滞は命に拘る事になり、こうした経済が表の正規の金融市場を支えている訳である。

更に経済の本質とは拡大と不均衡である事から、どれだけ大きな国土と人口を擁していても、その人口が平均に所得を上昇させようとする場合、その一国が全く外と無関係では収益の増大は有り得ない為、必ず外から収奪部分がないと経済の上昇は発生しない。

だが長く低迷する欧州経済、日本経済は既に博打の状態、しかももう負けは見えている時、世界的な景気の悪さは工業用物資の消費も低迷させ、結果として第三国後発後進国の経済も低迷する。
つまり中国経済は外からの資金の流れが薄くなり、この事が経済の裏資金の流れを悪くし、裏の資金は金利が高い分経営を脆弱にする事から、僅かな景気の低迷でもこれらは連鎖的に崩壊する。

裏融資額は表の融資額よりはるかに少ないが、その金利収益総額は軽く表の融資額を超え、裏の経済が壊れてごっそり抜け落ちると、表の経済は基盤を失ってこれもごっそり地盤沈下を起こす。

一般の中国人民が融資を受ける場合、最低でも2者、場合によっては5者が間に入っていて1件の融資から金利を得ている訳だから、こうした金利を払いながら経営を続ける場合、国内が常にバブル並みの発展をしていないと成立しない。
僅かな景気の落ち込みでも裏経済は簡単に崩壊し、例えば1件の裏融資が崩壊してもそれに拘った数名が一挙に崩壊するのである。

従って中国経済の発展は共産党関係者以外には恩恵が無く、むしろ海外の景気が悪くなっている場合、一般人民はむしりと取られる方向へと向かう訳であり、こうした裏経済の鉄則では失敗は「死」である事から、裏経済の崩壊は「明日が無い」人間を多発させ、これらが起こすものは既に命がけの「暴動」となり、何故皆が暴動に走るかと言えば、少なくとも暴動を起こして混乱が激化すれば場合によっては命が助かるかも知れない、それしか方法が無くなるからである。

中国人民統計院は毎年7%の経済成長率を達成していると発表していたが、その現実は2年前から6%台に落ち込んでいた。
諸外国からすれば7%が6%でも結構凄いと思うかもしれないが、中国経済の底辺は非常に高い金利で動いている事から、7%の経済成長率は裏経済維持の最低ラインであり、これを下回ると裏経済は崩壊を始める事になる。

徐黄王は自身が経済の最先端にいる事から、数年後の中国経済崩壊、それに伴って各地で暴動が発生し、共産党はこれを抑えきれなくなってしまう事が見えていた。
ソビエトと言う社会主義が崩壊してから30年、今度は形骸化してしまったとは言え、共産主義が自重に耐え切れなくなって崩壊を向かえている事を肌で感じていたのである。





第二章・2「意味」

命からがら復員した久世山はその後各地を転々とするが、やがて母親の親戚を頼って一家は山形に移り住み、その頃から同じ庄内で西山農場を開き、共同生活を経営していた石原莞爾(いしはら・かんじ)元中将の所へも顔を出すようになる。

かろうじて戦犯を逃れた日本軍の異端児石原莞爾は庄内に西山農場を開くも、元来病弱な事もあって病院へ入退院を繰り返し、また戦争法廷での証言に出席したりと、そのすべてを庄内で過ごせた訳ではないが時間のある限り農場で過ごし、近所の農家や彼を慕ってやってくる者たちと平和な日々を過ごしていた。

一般的に石原莞爾と言うと、いつも怒っている印象が有るが、それは彼が気に食わない者に対して見せていた態度で、庄内では近所の農家からイモや大根の作り方を教わり、石原はそんな彼らをそれぞれの野菜の先生と呼んで迎えていた。

また久世山のような若者に対しても決して横柄な態度ではなく「さん付け」で呼び、自身が戦争中に考えていた「世界最終戦論」の修正論などを語って聞かせていた。
久世山等は石原を大将とか、先生、或いは将軍などと呼んでいたが、実は石原はこうした呼ばれ方を嫌っていて、それで久世山等はいつしか石原の名前を呼ばないように話す術を身に付けて行ったくらいだった。

「人間は最後は必ず対立を起こす」
「そしてそれぞれの対立は力を蓄え大きくなり、やがてその一番大きな者同志が衝突し、その衝突が終われば平和な時代がやってくるが、そこからまた対立の種は発生し、また同じ事が起こり、この点で言えば戦争技術や兵器の規模が大きくなれば最後は人類は滅亡する」

「今、欧米列強と我々が描いたアジアの対立の雌雄は決したが、この次は共産主義と資本主義の対立、そしてその先にも対立は発生する」
「我々生き残った者はこの事を良く弁え、次の対立を何とか人が死なないように、平和の内に収める努力をしなければならない」

暖かい日差しの中、飄々とした表情で語る石原の姿を眺めながら、久世山は何度も頷いていた。

1949年8月15日、奇しくもこの日は終戦記念日だったが、石原莞爾は癌の為にその60年の波乱の一生を終えた。
享年60歳、多くの兄弟が早くに亡くなっている石原家ではこれでも長命な方だった。

石原が亡くなった翌年、久世山は先に日本に帰ってから当時は菓子の卸し業をしていた叔父夫婦の仕事を手伝いながら、やはり彼等の紹介で当時19歳だった「伊藤房子」と結婚、2年後に長男をもうけるが、産後の経過が悪く、久世山房子はその後子供が生めない体になってしまう。

やがて成績が優秀だった久世山の長男「春彦」は外務省へ入省し、ここで事務職をしていた規子と結婚するが、春彦夫婦もやはり子供は長男1人だけしか授からず、この長男が長じて父親と同じ外務省に入省、やがて教員をしていた「松原清美」と結婚し、長男「宗春」と「緑子」が生まれたが、この久世山にとってはひ孫に当たる子供達が生まれる頃には、長男夫婦は既に死亡していた。

1989年、イラクに駐在員として派遣されていた久世山春彦夫婦は何者かによって車で移動中に迫撃砲の攻撃を受け死亡、翌年の1990年には湾岸戦争が勃発していた。
そして1998年、久世山の孫である宗一郎と清美夫婦は駐在員としてケニアに赴任していたが、アメリカ大使館のレセプションに出席していて自爆テロに遭い、一緒に連れて行っていた彼等の長男「宗春」共々爆死していた。
「宗春」は5歳だった。

ただ、当時3歳で目が見えなかった「緑子」は日本大使館で、現地の乳母と共に残っていた為生き残る。
久世山宗弘と房子夫婦はこうした経緯から「緑子」を引き取り育てるが、8年前、緑子が11歳の時に房子が他界し、その時緑子が希望した事もあって、沖縄に移り住んだのだった。

緑子は不思議な子だった。
医者は目が完全に見えないことから障害者の1級を申請したが、緑子はまるで目が見えるかのように何にもぶつからず歩き、身の回りの事も、房子が倒れた時はその介護までしていたのである。

更には時折、一人で誰かと喋っている時が有り、その相手が自分が知っている者もいたし全く知らない者もいたが、彼女は壁に向かって喋っている事から、学校では少し頭が可笑しいのではないかと言われた時期もあった。

だがその記憶力は抜群で、先生などが質問した時、緑子はその先生が希望する通りの答えを返していたのである。
高校も大学も特別に口頭試験で入学したが、試験管が口頭で問題を伝え、それを緑子が口頭で回答する形式の試験で数学まで全て満点だった。

その緑子が「深い悲しみが近付いてくる」と言い出したのは1年半前の事だったが、やがて彼女はどうやら「孫」と言う中国人の意識と会話しているようで、その半年後に「徐黄王」と「孫雷文」、いや孫は本当の名前を「孫嶺威」と言う、彼等が久世山の元を訪ねてきたのだった。






第二章・1「大東亜戦争」

1942年元々地位は低いが華族出身の久世山は、志願して一等兵として支那派遣軍に配属され、休暇になると既に「奉天」で事業を展開していた叔父夫婦の元を良く訪れていた。

叔父夫婦には子供がなく、身の回りの世話をする「張」と言う中国人夫婦が家に出入りしていたが、彼らには5歳になる子供がいて、久世山はまるで自分の子供のようにこの中国人夫婦の子供を可愛がっていた。
叔父夫婦の家を訪ねる度に、当時中国人では手に入らないような玩具を買って来ては子供に与え、その喜ぶ顔を見て自身も嬉しそうな顔をしていたものだった。

そんな或る日、久世山はどうやら関東軍の情勢が余り良くなく、やがて奉天も危険になるかも知れない事から、叔父に早めに日本に引き上げる事を進言しに来ていた時だった。
表で子供が泣く声がしたかと思うと、ついで両親らしい男女が「スミマセン・スミマセン」と片言で必至に謝っている声が聞こえてきた。

慌てて表へ出た久世山、そこには少し前に中国人夫婦の子供に買い与えた玩具を手にした憲兵が、土下座する両親に向かって怒鳴りつけている光景が広がっていた。

「チャンコロの分際でこんな玩具を持っているなど、どこから盗んできた」
「お前等にこんな物が買える訳など無い、正直に白状しないと連行して取り調べる事になるぞ」

下級憲兵らしき風貌だったが、土下座する両親の背中を踏み、父親のわき腹を蹴り付け、父親は苦しそうに横たわった。

「私は支那派遣軍の久世山宗弘であります」
「その玩具は自分が買い与えたもので、この両親に咎は有りません」
「どうぞ、許してやってください」

久世山は敬礼して憲兵にそう言うと、倒れている張氏を抱き起こした。

「貴様、畏れ多くも天皇陛下のご恩を賜りながら支那人をかばうつもりか」
「いえ、そうでは有りません」
「この玩具は確かに自分が買い与えたもので、彼らは泥棒ではないと申し上げているのであります」
「どうか、許してやってください」

「きさま・・・・、お国の為に働かねばならぬ軍人がチャンコロにぜいたく品など買い与えおって・・・」

憲兵は久世山の胸倉を掴みそうな勢いだったが、それを止めたのは隣に立っていた上官らしき憲兵だった。

「まあ、今日のところは貴様の顔に免じて許してやる」
「だが、覚えておけ、支那人に身分不相応なものを買って与えるのは非国民のする事だ」
「そんな金が有ったらお国の為に使え、解ったか!」

上級憲兵は玩具を地面に叩きつけると、久世山を睨みつけて引き返していった。
張夫人は夫を抱き起こすと、何も言わず玩具を拾い上げ、それを久世山に差し出した。

「済まない、私が余計な事をした為に貴兄らをこんな目に遭わせてしまった」
「どうか、許して欲しい」

久世山は唇をかみ締めながら中国人夫婦に頭を下げた。

「大東亜共栄圏」は列強支配からのアジアの自決権の回復ではなかったか・・・。
支那も日本も朝鮮もみんなその意味では同志ではないか・・・。
何故こんな事になった。
支那が日本人と同じものを持って何が悪い、それが普通であり、我々はその為に戦っているのではなかったか・・・。
久世山は帰りの汽車の中、自問自答していた。

そして終戦、関東軍は殆どがソビエト軍に捕らえられシベリア抑留になったが、支那派遣軍はその多くの兵力を温存していて、どちらかと言えば憲兵に目を付けられていた久世山は南方戦線への派遣も免れていた。
だが、それでも民間人に身をやつし、まず叔父夫婦を探そうと奉天に向かった久世山は、既に叔父の家が略奪にあっていて、しかも叔父夫婦の消息も知れなかった事から、そこを引き返していたが、そんな久世山を後ろから追って来る者がいた。

何とそれは叔父夫婦の家にいた中国人夫婦で、彼らは久世山に追いつくと竹の子の皮で包んだものを差し出していた。
久世山はそれを受け取ると、中を開いたが、そこには粟が大量に混じったおにぎりが2個並んでいた。

「招」(子供の名前)はどうしました。
「シニマシタ・・・」
「そうですか・・・・」
「クゼヤマサン、シナナイデクダサイ」
「有り難う、有り難う・・・・」

久世山は枯れてしまったと思っていた涙が溢れてくるのが解った。

久世山は一度開いたおにぎりの包みをもう一度閉じると、それを張夫人の手に持たせた。

「日本も支那もこれから頑張って多くの子供を産み、そして国を再興しなければなりません」
「これはあなた方が食べて、そしてまた良い子を産んでください」

久世山は尚もおにぎりを手渡そうとする婦人の手を押し戻し、かすかに笑った。

「お元気で・・・・」





第一章・11「運命」

「吉田先生、どうしてあなたが・・・・」

と言おうとした緒長がふと緑子をみると、何と緑子の右目側のサングラスの下からも一筋の涙が流れていた。

「吉田先生、私にはあなたの心が見える」
「とても広くて美しい心がはっきり見える」
「緑子君、君には人の心が見えるのか」
「私は自分の事は解らない、でも徐おじ様と同じような厳しい荒野に立つ一本の大きな木のような、何か同じものを感じる」
「それが、何故か嬉しい・・・」

「吉田先生、私には何が何だかさっぱり解らない」
「私にも解るように教えて頂けませんか」
「そうだ、そうでしたね、知事はこうした事は専門外だから難しいかも知れませんが運命論です」

やっと冷静さを取り戻した吉田は涙を拭いながら語り始める。

「人類が発展段階に有るとき、そこには何か人類の特別な能力や発達が有って発展していくのでは無く、環境と状況に最大限の対処をして行く事で先が切り開かれていく」
「つまり眼前の現実こそが人類に発展をもたらしていくかも知れないのです」

「西欧では運命、東洋では天意と呼ばれるものの解釈ですが、選択によって得られた結果はどれも運命になる」
「そして例えば10万年と言う歳月を考えるなら今地球に存在する国境など虚しいものに過ぎないが、もしかしたら今の選択によって先の大きな命題が変わっていくかも知れない」

「久世山さんは人間の結果について、その最終的な部分は余り良くない結果で有る事を知っておいでる」
「だからこそ、今動き始めた状況、それが自然か人為的かに拘らず、多くの現実に叶うものなら、それに忠実で有ることの大切さ、その結果として先に有る良くないものが少しでも変わっていくかも知れない」
「その可能性を話しておられるんだ」

「可能性・・・・」
「知事さん、1年前に突然ここに徐と言う中国人がやってきて、自分は自分の国を救いたいと言った」
「徐さんが、中国をですか・・・」
「彼は中国の崩壊が近い事を知っている、いやそう信じている」
「中国の崩壊を前提とするなら沖縄の独立は日本と沖縄だけの問題ではなくなってしまう」

「元々日本も沖縄もアジアの一つの地域に過ぎない」
「大切なのはその地域が独立しているか否かと言う形ではなく、地域が安定して暮らせてアジア全体の中で何が出来るかと言う事かも知れない」
「その意味でアジア全体にとって役に立つなら、その地域が誇りを持って暮らせるなら、独立、非独立など大した意味も無い事になる」

「独立が必要なら独立し、そうでなければやめれば良い」
「ただ、中国が崩壊するとしたら、沖縄の独立はもしかしたらアジアの希望、アジア全体を救う事になるかも知れないと言うことなのではなかろうか・・・・」

「なるほど、そう言う事だったのですね・・・」
「やっと少しずつ解ってきました」
「徐さんは中国と言う自分の祖国が崩壊する厳しい現実を見つめた」
「そしてそれを認めたからこそ、如何にして崩壊の痛みを和らげ、周辺諸国に迷惑をかけずに済むか、崩壊の後どうするかを考えたに違いない」

「その結果、沖縄に力を貸して欲しいと、そう言う事なのだろうと思う」
「またもし中国が崩壊した場合、日本は北朝鮮からの核攻撃を受ける可能性がでてくる」
「その場合、沖縄が独立している事は2つの可能性を開く事になる」
「一つは独立によってもし日本本土に核攻撃が有っても、沖縄は残れる可能性が少しだけ高まる事」

「もう一つは独立に拠って韓国との関係は今の日韓関係程はひどくならず、北朝鮮への奇襲解放作戦が可能になる事」
「その結果、もし万一日本が完全に核攻撃で滅んでも、今度は沖縄が日本を再興していく道が残る・・・」
「多くの人は日本本土から散々追い詰められて仕方なく独立すると考えるかも知れないが、その実追い詰めて来ている者たちを、我々が守って行く事になるかも知れない」

「ただし、この事を今は公には出来ない」
「これが公になれば徐さんの命が危なくなる」
「はあ・・・、しかし何と言って良いのか・・・」
「とても信じられない話ですが・・・・」

「じゃが、徐と言う人を通してこうして我々がお会いしている、この現実は何かな・・・」
「沖縄の独立はするもしないも、さっきの吉田先生の話ではないが、どちらも後には運命だった事になる」
「日本と沖縄ぐらいこの地球から消えても何等影響は無く、世界は動いていく・・・」
「100年もすれば伝説になり、1万年もすればそれが存在した事すら誰も知らない事になる」

「だから、今を生きる我々が頑張らない限り、これまで続いてきた線は未来に繋がっては行かず、ここで状況と言う可能性に逆らうなら未来へ続く線が危うくなるのかも知れん・・・」
「知事さん、一度中国へ渡って徐さんとお会いしてはどうかな・・・」
「はあ・・・・」

緒長知事は正直もう混乱し、どう言って良いのか分からなくなっていたが、この後中国へ徐を訪ねる事で、沖縄の独立は緒長の意思とは関係なく決定的に動き始める事になる。




第一章・10「流れ」

「人間の一番基礎的なコミュニケーションは対立かも知れない」
「だから暴力、これは言葉も心も含めてですが、暴力がもっとも相互に理解できるコミュニケーションと言えるのかも知れないですね」

「人類学者とも思えない発言ですね」
「ははは・・・、そうなんですが、例えば男女でも互いが性的目的対象外の場合は、まず対立で、よしんば性的な対象者だとしてもそうした関係が成立して行った後はやはり対立が始まる」

「それで今般の離婚率の高さですか」
「いや、そうじゃなくて我々は相手が大人しいから平和だと思っているかも知れないが、細かく言えば警戒も対立だし、その対立の結果主と従が決まる事もまた相対するものの中で発生するから、平和は一時的なものでしかなく、いずれは対立になり、それを通すか諦めるかの時がやってくると言うことなのかも知れない」

「先生の話は時々油断するととんでもないところに行ってしまう」
「でも、それを含めて面白い・・・」
「あっ、どうやら着きました」

「あの入口で待っているのがそうじゃないですか?」
「ああ、久世山君だ」

徐黄王の話が気になって盲目の女性、久世山緑子にどうしても一度会いたくなった緒長知事は、諮問委員会で何時も顔を合わせている吉田賢一琉球大学比較人類学教授に頼んで、彼の学部に所属している緑子と会う機会を設定して貰ったのだが、流石に男2人が若い女の住んでいる家へ夜に訪ねる訳にも行かず、こうして日曜日の早朝、浦添まで足をのばしたのだった。

吉田は車を駐車場に止めると先に立って緑子のところへ向かい、その後ろを緒長知事が続いた。

「お待ちしておりました」
「久世山君、忙しいのに済まんな」
「いえ、色んな意味で私もひいお爺様もこの日を待っていました」
「それは、どう言う意味かな、私達が来ることは解っていたと言う事なのか」
「そうです、でもこんなところで立ち話では何ですから、どうぞ中にお入りください」

緑子はそう言うと先に立って歩き始めたが、目が見えないはずの彼女は今朝は杖さへ持たずに、吉田と緒長を3階の自分の部屋まで案内して行った。

こじんまりしてはいたが、整理が行き届いていてどこかできりっとした良い部屋だった。
開け放たれた窓からは遠くに海が見え、真ん中に置かれた座卓には緑子の曽祖父が座椅子に座っていた。

「久世山さん、吉田です、その節はお世話になりました」
「そしてこちらは緒長さん、沖縄県知事です」
「今日は久世山さんに是非お話を伺いたくて来ました」

吉田は緒長を久世山宗弘(くぜやま・むねひろ)に紹介し、一通り緒長も挨拶を済ませると、そこへ台所から緑子がお茶と砂糖菓子を運んできた。

「玄米茶ですが、どうぞ」
「我々の事は気を遣わんでくれ」

吉田が申し訳なさそうに緑子に頭を下げ、緒長もそれに倣って頭を下げた。

「緑子君、早速だがさっきの話はどう言う事かな・・・」
「あなたは、今日私がここを訪ねて来る事が解っていたんですか」

吉田に続き、緒長も言葉を重ねる。

「今日だとまでは解っていませんでしたが、必ずお会いする事になると思っていました」
「それはどうして・・・」
「徐黄王と言う方をご存知ですね」
「ああ、やはりあなたが那覇の北の女性だったのか・・・」
「もっと早くに解るべきだった・・・」
「知事さん、大丈夫ですよ、まだ遅くなくて、今がその時だったと言う事ですよ」
「そして知事さんが悩んでおいでの答え、一つの考え方は、ひいお爺様の方からお聞きください」

緑子はそう言うと、久世山宗弘の前にも茶と菓子を置き、久世山は緑子に軽く頷くとゆっくりと口を開いた。

「知事さんが悩んでおられる事と言うのはこの沖縄の事じゃな・・・」
「そうです」
「結果から言おう、沖縄は独立する時が来ているのかも知れん」
「しかし、あれは単なるデマの領域を出るものではなく、とても現実的とは思えないのですが・・・・」
「本当にそうかな・・・」
「この世界には何十億と言う人が住んでいて、それぞれがこれまでとこれからと言う線を持っている」
「その多くの線は唯見ているとばらばらだが、良く見ると流れが有ったり、集まっているところが有る」
「線?ですか・・・」

「そうじゃ、だから日本と沖縄だけを見ていると独立などは有り得ん話じゃが、世界と言う器ではそこに流れが有るとしたら、この流れに逆らう方が難しくなる」
「今、世界はどう言う方向に向いているかな・・・」
「世界の流れですか・・・」
「この世界は日本だけで出来ている訳ではないが、そこに住んでいるとどうしても自分を中心に考え、大き流れ、現実と言った方がよいかな、そんなものを見ようとしない」
「そしてどうなるかと言うとこの間の戦争(太平洋戦争の事)のような事になる」

「日本を見ていると、どうもあの時のような嫌な事を思い出す」
「沖縄は日本に付いてきて先の戦争ではどうだったかな」
「いまだとて日本に付いていて日本と同じ道を歩んでいたら、もし日本が間違いを犯して行く時誰がそれを止めるのかな、日本人がそれを自分達の手で止めることが出来るのかな・・・」

「日本からの独立は日本を裏切ることではなく、もしかしたら将来日本を助ける事が出来るとしたら、世界の為に沖縄が独立を考えるなら、それは単なる民族的我がままやナショナリズムとは違った意義が有るのではないかな・・・」
「沖縄が日本を助ける・・・・」

「そうじゃ、独立は民族の自決の問題じゃが、その自決の意義が単なる我がままなら独立は滅ぶだろう、じゃが世界に目を向けたものなら、きっとその独立は必要なものだった事になる」
「久世山さん・・・・」

思わず嗚咽を漏らしたのは話を聞いていた吉田だった。
彼の目からは大粒の涙が留めなく流れ落ちていた。




第一章・9「渦」

日本に駐留する在日アメリカ軍の司令官は第5空軍司令官が代々兼務するが、階級は中将であり、現在の司令官はサム、アンジェレラ空軍中将がその任に有る。

「全くマズい時にマズい事をしやがって」
「女ぐらい金で買えと言ってるだろう」

沖縄で発生した暴行と婦女子誘拐事件に対し、思わず愚痴の一つもこぼれるが、沖縄の民衆の心情は理解できなくても、そこはそれ同じ軍人で有る海兵隊員たちの心情は理解できる在日米軍上層部は、引渡しを受けたジェファーソンを早速本国に送り返し、合衆国本土勤務にした上で、日本政府には軍法会議の結果禁錮4年の厳しい実刑となり、現在も基地内で拘留中と発表、ついでに二度とこうした事件を起こさないように再発防止の努力をすると会見した。

異例の速さでの幕引きだが、こうした早い対応と共に日本政府には一刻も早い辺野古基地移転の推進が要請された。
日本政府はこうした背景から辺野古基地建設を急がねばならなかったが、先に発生したジェファーソンの暴行事件は沖縄の市民感情に微妙な影を落としていた。

少し前までは経済的に締め付けられた沖縄県民の心情は、知事が辞職して辺野古基地建設容認に戻す意見が反対派より少しだけ多い状態だったが、ジェファーソン事件以来、基地移転反対の声が大きくなり、それに伴って知事の辞職は民意の弾圧だと言う声が大きくなって行くのだった。

また先に出てきた香港発の沖縄独立論だが、政府が沖縄の対応に手間取るほど、どこかでまことしやかに語られるようになり、ジェファーソン事件以来、ネット上ではもはや沖縄に残された選択は独立以外になく、沖縄米軍基地を沖縄が貸している事にして、実際に防衛上の恩恵を受ける日本がこの費用を沖縄に支払い、これを財源として経済基盤を作り、沖縄の独立は可能で有ると言う経済学者の見解まで発生してくる程だった。

また中国の反日組織、韓国の反日組織も、日本が沖縄の同志達の独立を阻止しているのは重大な人権侵害で有ると連日騒ぎ立て、基本的に日本にはくさびを打って置きたい中国政府、韓国政府もこうしたネット上の動きには寛容だったが、この原因はもう一つ有って、それは奇しくもアメリカが沖縄基地の整備を急いでいる理由と同じだった。

201○年、沖縄県知事選挙の前の年のことだが、アメリカ中央情報局(CIA)は複数のエージェントの報告から中国に措ける「デフォルト」(債務不履行)の連鎖危機が近い事を把握していた。

つまり中国経済の崩壊が早ければ今年の暮れ、遅くても来年早々に発生する可能性が出てきていたので有る。
こうした実情は当の中国共産党はもっと切実な問題として捉えていて、その為に民族独立運動を肯定すれば自国の独立運動弾圧の正当性が弱くなる事を承知で、反日に民衆の視点を向けさせるべく、沖縄独立論に対しては言論規制を行っていなかったので有る。

中国経済の崩壊はイコール中国の国家的崩壊を意味し、この場合アジアを中心に安全保障は不透明化する。
その為、不測の事態に備え、沖縄基地の整備は出来るだけ急いで置きたいのがアメリカ国防総省の考え方だった。
またアメリカはこの他にも大統領再選選挙が近付いていて、人気の無いオバマ現大統領は選挙で再選されず、次期大統領は元合衆国大統領ビル・クレイトンの妻、やり手のマリア・クレイトンが有望視されていた。

もしかしたら合衆国政府人事が大幅に変更となる可能性があり、この面でも早い間に整備できるものは整備したいと言う事情が有った。
それゆえこうした大事な時期に日本がガタガタになっている事は、アメリカに取っては深く憂慮すべき状態だったが、日本のガタガタぶりのおかげで中国共産党は風前の灯火が何とか消えずに済んでいる側面を持っていた。

だが中国の連鎖デフォルトの情報は、簡単にペラペラ喋ってしまう日本政府には教える訳には行かず、アメリカ国務省では中国の連鎖デフォルトの情報は実際にデフォルトが始まってから日本に伝えることが取り決められていた。

そして国際情勢は更にマズい方向へと流れていく。
4月にはギリシャ、スペイン、ポルトガル、他殆どのヨーロッパ共同体加盟国「EU」の景気悪化が進行し、ついに共同体通貨ユーロが暴落に向かっていき、ここで世界の資金は債務が国内に留まっている円へと逃げ込み始めたのである。

円は日本銀行の連日の為替介入も虚しく買われ続け、やがて大幅な金融緩和にも拘らず円は上昇に向かい、ついに国債を円で買い取る終了点のタイミングが見出せなくなってしまった。
すなわち金融緩和を打ち切れば国債が暴落し、これで利益を得ていた日本の銀行は壊滅状態に陥る可能性が出てきたのである。

しかしこうした中でも中国のデフォルトの可能性を知らない日本政府は暢気なものだった。
相変わらず辺野古基地の建設は続けながら、高まりつつある沖縄の基地移転反対の気運は無視し、このままでは知事の首だけでは済まなくなるぞと言わんばかりの勢いだった。

知事が諮問している委員会でも「政府はこれ以上沖縄にどうしろ言うんだ」
「もはや本当に独立しかないのではないか」と言った意見が出始め、政府と沖縄県民の間に立っている緒長知事は全く行き場を失っていたが、そんな中で日増しに強くなって行くのが大学で会った「久世山緑子」の姿だった。

浦添は那覇の北ではないのか・・・。
いや正確には北東だが、本島沿いに考えるなら北と言えなくもない。
それに吉田教授の話では目が見えないと言う事でも有る。
徐黄王が言っていた那覇の北の女性と言うのはもしかしたら彼女の事では・・・・。
いや、あんな女の子に何ができると言うんだ・・・。

緒長知事はそんな自問自答を繰り返しながらも、心の中で久世山緑子が占める位置が大きくなって行く事に逆らえなかった。




第一章・8「限界」

例えば1千万円の預金が有り、毎月40万円の手取り収入が有る場合、働いている限り今この瞬間でも1千万円と40万円分の災害が発生しても何とかできる。

だがこの反対に1千万円の借金が有って、もうどこからも借りられない状態の上に仕事がなかったら、玄関へ近付いてくる町内会のお祭り費用負担金300円の集金人の足音に対し、居留守を使って逃げるしかなく、しかも根本的な解決方法にはならない。
300円を巡って毎日逃げ続けなければならない。

借金と言うのは基本的にこうした恐ろしさを持っていて、余裕が無いどころか小さな事でも命がけになって行くのであり、日本政府の実情は既に1千万円の借金のパターンを超えたまずい状況になっている事から、僅かな事でも必至で対応しなければならない状態になっていて、自分が何時も虐められているような意識を持ち、僅かでも自分に瑕疵が無く他人に瑕疵が有ると思うと、その相手を今度は虐める、苛め抜く事になる。

一方限界を迎えていくと言う点ではアメリカ海兵隊も同じで、辺野古移転に反対の知事が誕生し、日本政府がこれを締め付けている状況に配慮したアメリカ国防総省は、沖縄独立のデマはさほど気にも留めていなかったが、それでも海兵隊員たちの夜間の基地施設外飲酒を禁止し、夜間外出も出来るだけ控えるように隊員たちに通達していた事から、海兵隊員たちの不満も徐々に限界に達しつつあった。

「全くよー、ジャップの奴等一体何様のつもりなんだ」
「合衆国は自由の国なんだぞ」
「俺はアーカンソーからわざわざ日本を守る為にやってきてやってるんだぞ」
「酒の一杯もおごるのが礼儀ってもんじゃないか」

「ジェファーソン、もう飲みすぎだ」
「いいや俺はもう頭にきた」
「2歳になる子供を置いてこんな遠くまで日本人の為にやってきているんだ、酒ぐらい飲まないとやってられない」
「それによー、女はいないのか」
「全くこの基地じゃ男みたいな女ばっかりで、それもみんな上官と出来てやがる」
「たまには女と酒が飲みてーじゃないか」
「ジェファーソン、問題を起こすと処分をくらうぞ」

同僚のジョン・エバンズは必至でトーマス・ジェファーソンをなだめるが、ジェファーソンはそんな忠告など聞く耳をもたず、激高して行く。

「構うもんか、どうせ俺なんか出世する訳でもねー、面白可笑しく徴兵期間を過ごせりゃそれで良いんだ」

テーブルに両腕を投げ出し、眠るような格好をし始めたジェファーソン、それを見ていたエバンズは「処置なし」と言った風で、やがてエントランスを出て行ったが、それから5分も経たない内に目を醒ましたジェファーソン、何を考えたか「子供に送る日本の土産を買いに行きたいと言ってチェックを抜け、車で那覇市内に入り、そこから歩いてどこか酒の飲めそうな盛り場を探し始めた。

アメリカ軍のチェック体制は結構厳しいものだったが、まだ午後7時10分と言う事もあり、ジェファーソンは大して疑われる事もなく那覇市内をぶら付いていたが、そこへ向うから日本人の若いカップル、多分本土からの旅行者だと思うが、旅の開放感から2人でイチャつきながら歩いてくる。

「くそっ面白くもねー」
「誰のおかげでそうしてられると思ってやがる!」
ジェファーソンは大声で怒鳴りつけた。
その声を聞きつけたくだんのカップル、少し離れたところで黒人の大男が英語で叫んでいた事から、身をすくめながらも睨みつけるジェファーソンに、多分愛想笑いのつもりだったのだろう、引きつったような笑いで答えたつもりだった。

「野郎、バカにしやがって」
「おい、お前等のおかげで俺は面白くない目に遭っているんだぞ、酒の一杯も注げ!」

激高したジェファーソンは怒鳴りつけるが、おそらく早口の英語が聞き取れないカップルは、相変わらず引きつった笑いを浮かべていた。

「どいつもこいつもジャップはみんな同じ顔をしやがる」
「なめやがって・・・」

てっきりカップルにバカにされていると思い込んだジェファーソンは、カップルの男の方の胸倉を掴んで建物の壁に押し付けた。

「おい、何とか言ったらどうだ」
「バカにするんじゃないぞ」

ジェファーソンにしてみれば軽い威嚇だったかも知れないが、相手の日本人の男にしてみれば身長190cm、体重100kgの黒人の大男に胸倉を捉まれている訳で有る。
もはや命に拘る危機に遭遇している危機感から大声で助けを呼び、やっとジェファーソンの手から逃れると女を置いて逃げて行ってしまった。

「何だ、腰抜け野郎が・・・」
拍子抜けしたジェファーソンは呟くと、残された女の手を掴んだ。

「別にヤラなければいいんだろう」
「おい、お前、俺の酒の相手をしろ」
そう言って近くのキャバレーに女を引きずるようにして連れて行った。

ジェファーソンにすればそう大した問題ではなかったはずだった。
しかし後日これは日本人に対するアメリカ軍人の暴行事件、婦女子奪取誘拐事件となり、日本の警察に逮捕されたジェファーソンは、地位協定によってアメリカ軍に引き渡された。






第一章・7「噂話」

「長く日本政府と対立が深まっていた緒長沖縄県知事、ついに沖縄の独立を検討か!」

と言う見出しの中国系インターネット掲示板の噂は瞬く間に世界を席巻し、これに対してまことしやかな解説が各サイトに張り出されたのは201○年3月19日の事だった。

しかしこの噂に一番驚いていたのは当の緒長知事で、どこからどうしてこんな話が出てきたのか皆目検討も付かなかったが、沖縄独立論は特に珍しい話でもなく、これまでも基地を巡って政府と対立が深まると囁かれる話だったが、それはあくまでも現実的なものではなく、むしろ沖縄の郷愁を根拠にしたような理想論で、それが他国から出てくるような話ではなかった。

独立や革命と言うものは、その渦中に「自決権」に関する理想が存在しなければ成立しない。
しかし一方自決権に完全な形は無く、どのような強大な国家で有ろうと全てが自分の思うままと言う訳には行かない。
問題は程度と言う事になるが、この程度の多くは「金」であり、つまりは生活が維持されて、言論の自由が保障されるなら革命や独立の意義は薄れる。

言い換えれば革命や独立の本質は「地域」に在るのではなく、「現状の打破」なのである。

沖縄が琉球時代を通して王国として成立した時期は僅かでしかないが、それも状況が許せばと言う形の成立でしかなかったのは、地域的な面積と人口が周囲の権力に対抗できるまで拡大できない大きさだった事、周囲の大きな権力の支配は一時的には強まっても、それが権力からすると辺境になってしまう為に強い支配が長くは続かなかった為であり、結果として沖縄と言う地域は独立国家として成立するには、常に後一歩及ばない状況だったと言う事だ。

そしてこの状況は今も変わっていないが、日本と言う国家でありながら、どこかでは差別を感じさせる扱いの中で、アメリカの絶対的な有り様も目にし、それらが経済の実情をかろうじて満たしている事の根拠になっている為、最後は口を閉ざすしかない。

だがこうした有り様も日本国の政府が対話のチャンネルを維持すればこそであり、ここで意見の対立が発生し、それが選挙で政府の意思と民意が相反したとき、本来「調整」で有る政治が対話を拒否し、反対意見を門前払いした時点で独立や革命の根拠は成立する。

つまり沖縄は辺野古移転に反対する緒長知事が成立した時、これを単に感情的に嫌って政府が門前払いにした時点で沖縄を一番深くまで追い詰めたのであり、事実上の最後通告を受けた沖縄の決断は従うか徹底抗戦しかなく、ここに沖縄は有史以来初めて独立の好機と環境を迎えたので有る。

唯こうして革命や独立の環境は整っても、現実に革命や独立が成立するかと言えば、現状打破の機運の点で沖縄はこれまで常にボーダーラインの下にあり、ここで独立論が海外から出てきた場合、一番高い可能性は「謀略」と言う事になる。

「緒長さん、私はあなたの背中を押したあるか・・・・」
「それとも、あなたを苦しめたあるか・・・・」
「上海、浦東新区の高層ビルオフィスの窓から空港方面を眺めながら、徐黄王は呟いた。

一方こちらは浦添に有る浦添市営住宅の3階、曽祖父の食事を作っていた久世山緑子(くぜやま、みどりこ)のネギを刻んでいた包丁が一瞬止まる・・。

「徐おじ様、いよいよあなたの戦いが始まったのですね・・・」
緑子は小さな可愛らしい口をキッと結ぶと、遥か遠くの空を見上げるように顔を少し上に向けた。
そこに沖縄3月の爽やかな風が一陣吹き込み、緑子の長い髪が舞い上がった。

姑息な手段を普段から用いている者は、「偶然」や「非意識」に弱い。
香港から出て来た沖縄独立論は単に外部観察的な予測、しかも他国の事だから面白可笑しく修飾した話に、少しだけ徐が金をかけただけのものだったが、これによって一番ダメージを受けたのは日本政府だった。

「冗談でも程が有る」
「もしかしたら影で沖縄県知事の緒長が流しているんじゃないか」
「日米同盟に罅(ひび)を入れたい北朝鮮の謀略か・・・」

ほんの些細な噂話に過剰に反応していたのは、普段からこうした姑息な手を使っていた日本政府の総理官邸だった。
多くの諸外国、アメリカや中国ですらも無視した沖縄の独立論にひたすら捉われ、冷静さを失い始めてきた阿部総理とその周辺は、どうやらこの噂話は政府との対応に窮した緒長沖縄県知事が意図的に流したものとの推測で落ち着いて行ったのだった。

一方全く寝耳に水の緒長沖縄県知事は、始めは冗談だと思っていた沖縄独立論が、世界各国のインターネット通信で情勢分析され、日本政府やアメリカ国防総省との関係論にまで発展していくのを見て、結果的にネットから世界の人々の頭脳で考えられた情報を得る現実に遭遇する。

2月に設立した基地問題解決諮問委員会では出てこなかったような方法論がインターネットで語られるのを見て、なるほどと思う部分が出てくるのだった。
そこへ、こうした世界的な野次馬議論の盛り上がりを恐れた日本政府から更に厳しい条件が届く事になる。

「知事は独立論を扇動し、日本の防衛安全保障に重大なダメージを与えた」
「ゆえ、潔くその身を処し、事態収拾に向けて尽力を希望する」

つまり、「こうした混乱はお前がやったものだろう」、「日本の防衛秩序を政治の道具に使うなど言語道断である」「今すぐ辞職して日本政府の方針に従え」と言う事で有る。
またこうした背景から政府官邸は緒長知事の動向に対し、国家公安員委員会思想担当、第2課に監視するよう命令し、既に公安2課の職員が多数沖縄に移動し始めていた。

緒長知事はもう頭を下げるだけでは済まず、今や辞職してお詫びをしなければ日本政府の許しが得られない状況に追い込まれた。





第一章・6「浦添の老人」




「不思議な子でしょう・・・」

去って行く女の子の後姿をずっと目で追っている緒長にどこかで自慢げに吉田が話しかける。

「彼女は本当に目が見えないのですか・・・」

「医学的には彼女の目は全く機能していません」

「しかし、彼女は向かって歩いてくる他の生徒とぶつからずに、まるで杖を引きずるようなスピードで歩いている」



「多分、彼女は目でなくて、何か他の方法でものを見ているんだと思います」

「他の方法?」

「そう、簡単に言えば感じていると言う事なのかも知れない」

「しかも、、目で見るより遥かに多くのものを見ているかも知れない」

「そんな事が有り得るんですか」

「私にも解りませんが、医学検査では彼女の目は死んでるんです」



「彼女はここの学生なのですか」

「そうです、しかもうちの学部では成績はトップです」

「あの杖は本当に必要なんですか・・・」

「以前それで行政と行き違いが有りましてね・・・」

「そうでしょうね」

「行政は医学検査を受けさせ、それで目の機能が死んでいることが解ったんですが、彼女は目が見えると言って聞かない」



「また、彼女の視覚と言うか感覚は、一定以上の速度で自分の範囲に入ってくるものには間に合わない」

「そこで事故が発生する恐れが有るからと言う事で、あの杖は彼女が希望して持っているものではなく、むしろ行政が何か有ったら大変だと言う事で持つようにしてもらっていると言う事らしいです」



「なるほど」

「まあでも、そうした障害の申請のおかげで年金が支給され、給付型の奨学金制度も使えるから、痛し痒しと言う部分も有るでしょうね」

「彼女は家族はいるんですか」

「彼女に関心が湧いてきましたか」

「いや、そう言う訳ではないんですが」

「隠さなくても大丈夫ですよ、彼女はそこが不思議なところなんです」

「出会う人がみんな彼女に何らかの形で引き寄せられていくんです」



「先生もその一人みたいですね」

「まあ、そうかも知れません」

「あっ、いや、先生には綺麗な奥さんと可愛い子供がいたんではなかったですか、不倫はいけませんよ」

「そう言う意味ではありませんよ」

吉田は気恥ずかしそうに頭をかいた。



「彼女は92歳になる曽祖父と2人暮らしで浦添に住んでいるんですが、以前に若い頃日本軍に所属していたと言う事で、彼女のこのおじいさんにお話を伺った事が有るんですよ」

「そう言う事でしたか」

「彼女も凄いが、このおじいさんも凄い人でね、知事も一度お会いした方が良いかも知れませんよ」



「そんな凄い人なんですか」

「10年ほど前に浦添に越してきたらしいのですが、石原莞爾の西山農場にも通っていたらしいんです」

「西山農場?」

「ご存じなかったですか」

「不勉強ですみません」

「戦犯を逃れた石原が庄内で開いていた農園ですが、最終戦争論などの話を聞いていると、彼女のおじいさんはちょっと我々の理解を超えたところが有りました」



「おっ、いかん、もう次の講義が始まります」

「あっ、そうだった私も予算員会を忘れていた」

「知事、今度時間を取ってゆっくりお話しましょう」

「そうですね、後からスケジュールを見て連絡しますので、またお願いします」



意外にも講義室前で長話になってしまった2人は、それぞれ時計を見て、それに追われるように廊下を小走りに去って行った。



小心者、嘘つきと言うのは自分がどう思われているかを気にするものだが、それは自身の有り様が全て誤魔化しだからであり、この点で言うなら阿部新造総理のやり方がまさにそれだった。



日米同盟を考えるならアメリカの言う事には逆らえないが、なら普天間基地の辺野古移転は素直に「済みません、これは超法規的措置です」と言えば良い。

しかし一方でこれを認めると日本国憲法の上に日米安全保障条約が来てしまい矛盾が露呈する為、今更日本国憲法の矛盾など子供でも知っている事を、自分は破っていないと言う形を作り、選挙で辺野古移転は反対だと言う民意が出たにも拘らず、これを誤魔化して自己を正当化する。



そして現実にも辺野古移設に向けた工事を差し止める事が出来ない為に、例え嘘でも民意によって担保されたように見せかけねばならなかった。

如何にも心の弱い、覚悟の無い有り様だが、こうした者ほどやり方がえげつなくなるのは、余りにも弱すぎて堕ちる限度が解らなくなるからだ。



戦争で敵兵の死体をひどく損壊するのは新兵と小心者であり、彼らは敵が死んでも死体をで乱射しているのは、自身が弱いから恐ろしくて仕方が無く、既に限度を失っているからだ。

阿部総理は恐ろしく気が弱く、それゆえにやり方は徹底的になるが、政治は結果さへ良ければそれを至上とし、辺野古移転反対の沖縄の民意を「仲間外れ」にする阿部政権の作戦は効を奏しはじめていた。



沖縄県庁ではまず予算の関係から焦りが出始め、緒長知事誕生後全く門前払いを食らっている現状を打破しようとする動きが出てくるが、これに次いで妥協案が出はじめ、やがて一部では有るが知事の方針転換を求める声が出てきて、今更致し方も無い話になる知事選挙結果の反省論まで噴出してくる有様だった。



緒長知事の四面楚歌は更に深まり、もはや知事の次の一手は辺野古移転推進を引っさげて、政府に頭を下げる以外になくなって来ていた。



そしてこの頃、首相官邸では須賀官房長官が阿部総理と会談をしていて、その中で緒長知事が辺野古移転推進の意思表示をしたら、「官邸は知事の決断を重く受け止め、以後は出来るだけ沖縄県民に配慮しつつ、辺野古移転を進めさせてもらう」と言う寛容な態度を見せる事が確認されていた。



「移転反対の知事が推進を請願に来るのだから、これ以上強力な賛成は他に無いと言う事になるね」

「これも総理の強い意志が有ればこそです」

「もう時間の問題と言うものです」

「流石は須賀さんだね、先の総選挙もそうだけど何でも思った通りになるんだね・・・・」



どちらからとも無く薄笑いが浮かんでくる総理と官房長官だったが、この数日後、辺野古移転推進に向けた方針転換を迷い苦悩する緒長知事と、阿部総理の双方が震撼する噂が香港の日本攻撃サイトから流れてくる事になる。








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old passion

Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

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「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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