「緊急情報」


震度1、若しくはそれ以下の微震が連続する場合、発生している微震の震源地付近は60時間以内に震度5弱以上の地震の震源となる可能性が高い。

神奈川県西部地域では昨日6月29日12時を起点として、本日6月30日未明から微震と小規模地震が連続している。

近くに存在する火山の噴火、及びこの前兆が海域に存在するプレート間ひずみによる可能性も否定できない為、東海地方と関東南部を含めた広い範囲で、中規模以上の地震が発生する危険性が高まってきたものと思われます。

倒れ易いものはしっかり固定し、避難経路の確認、家族間で万一の時の集合場所を確認しておく、またプレートひずみの場合津波の発生も考えられ、津波が発生した場合の避難経路の確認もしておくと良いかも知れません。

こうした微震が連続して大きな地震が発生する場合、2種のパターンが存在し、一つは微震が連続したまま、大きな地震が発生する場合と、もう一つは一旦微震が収まってから発生する場合が有り、統計上明確になっていないものの、一旦微震が止まってから発生する地震の方が大きくなる傾向に有ります。

海の近く、砂浜に魚やエビなどが打ち上げられていないか、或いはカニなどが沢山移動していたり、海上で深海性魚類「タラなど」が浮いていたり、または沢山の魚が集まっているなどの情報が有る場合は、更に大きな地震発生の確率が高まります。

また身近な動物では犬や猫はP波を捉えるので、地震が発生する少し前に異常行動を起こします。
犬の場合は遠吠えを始めたり、落ち着きなく動き始め、猫は家や建物から出ようとします。
この場合、早ければ直後、遅くても21秒後に震動が始まります。

携帯の不調、FM電波に雑音が入る場合なども大きな地震が近付いている時に多く見られる現象です。

一般的に大きな地震は晴れた日、最低でも雨が降っていない状況、風が止まってから発生する傾向に有ります。
そして今雨が降っていて大きな地震が来る場合、その雨や嵐は一時的に止まり、静かな環境になってから地震が発生する場合が有りますので、晴れる要素のない地域で突然に雨が止んだ場合は、最大限の警戒をしてください。
この場合は2分以内に地震が発生します。

尚この情報は気象庁門前払い、行政機関嘲笑の情報であり、前兆現象と実際の地震発生確率の関係は3対1ですが、箱根を中心にして関東南部、東海東部地域にお住まいの方は、充分な警戒を始める事をお勧めするものです。






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「水で火を燃やす」



Gabriela Gunčíková - Love Hurts - Nazareth・・・・・・

財政の概念は本来政府の経済活動を意味するが、民間経済活動への非干渉、或いは公共と言う見かけ上の公平性に鑑みるなら、政府単独の経済活動は自由経済の概念に相反する。
この為一般的に財政とは政府の活動に必要な財源の調達を意味し、この範囲では財政の概念は「租税」と「公債」が中心になる。

しかし1930年代の世界不況下、ケインズのマクロ経済学が出てくると、公共投資の役割が重視され、財政は支出論が主流を占めるようになる。

特に「Fiscal policy」(フィスカル・ポリシー・財政政策)が注目を集めるようになるが、「Fiscal policy」の考え方では景気が悪い時は公共投資を増やし減税を行い、景気が良くなったら公共投資を減らし増税してバランスを保つ事によって、財政も民間経済も一定の均衡状態を目指したものである。

だがこれには「ハーベイ・ロードの前提」、「政策当局が有能であり、常に適時政策判断が実行される状況」が必要不可欠になるが、現実にはそのような有能な政策当局も政府も有り得ない。
従って景気の良い時に財政を引き締め、不況時に放出した公共投資と言う先行財政を回収できず、常に財政は赤字になっていく。

この図式から現在でも世界経済は抜け出る事ができないばかりか、更に深くはまり込んで停滞(スタグレーション)を引き起こしている。

またそもそも「均衡」と言う考え方では、水を頻繁に片方のバケツからもう一方のバケツに移し変えている中で、よほど丁寧にやっても自然減滅が発生し、これが雑な者の手に拠るなら、その減滅率はきわめて高いものとなる。

そして政策当局や政府には初めから丁寧な概念が無く、常に雑な在り様で水が移し変えられる。
当然初期に存在していた水の量はバケツに移し変えられた回数に比例して減滅する。
政策を行えば行うほど財政は赤字になって行くのである。

資本主義経済の中では経済の全てが民間の活動に拠らねばならないが、民間経済の中では必ず内在的な欠陥が生じ、この事により利益を被る者より不利益を被る者の方が圧倒的に多い現実は、政府などに一定の調整等を期待するようになって行く。

それゆえ財政の概念の中には「資源配分」「所得再配分」「経済安定」の3つの機能が存在し、「資源配分」とは民間に拠って供給されない公共財の供給、すなわち司法、外交、防衛などがそれに該当するが、政府の規模が拡大すると、住宅や保健、教育などの半民間供給財にまで影響力を及ぼし、この影響力が強まった分だけ、バケツの水は早く減っていく。

また所得の再配分では市場機能から得られた所得配分が、「公正」の基準に鑑み著しく偏っている場合、これを調整する政策だが、高所得者の所得に対する累進性、資産に対する相続税制などにより集められた財政を、生活保護費用などの公的扶養を通して低所得者へ再配分する仕組みとなっている。

しかし携わる者の手が増えれば増えるほど公務員給与の形で、名目外財政の遺失率を増加させる。

「経済安定」は冒頭に述べた「Fiscal policy」の事である。
だが、公共投資の増大は必要とされる資金の額、総量が一定のものなら、民間の資金が公共資金によって侵食される作用を持ち、一般的にこの現象を「crowding out effect」(クラウディング・アウト効果)と言う。

政府が大量の国債を発行して金融市場から資金を調達すると、金融市場が逼迫して金利が上昇、民間の資金調達が阻害される現象を引き起こす。
その結果国債を大量に発行して公共投資を増やしても逆に民間投資が減少し、全体の有効需要は増加しない。

相殺されるのだが、政府が動いた分、民間が混乱した分、初期の財政を遺失する。

安部政権の経済政策、俗に言う「アベノミクス」はこの点に措いて公共投資によって逼迫する民間資金を紙幣総量増加によって補おうとするもののように見えるが、これは水をかけて火を燃やそうとしている、或いは料理に塩を入れながら同量の砂糖を入れるに同じで、民間資本が最終的にはどんな味の料理にしたいのかがまったく見えなくなる。

方向性や未来のビジョンを失うのである。

同時にこうした白と黒を平行して行うような政策はグレーになるのではなく、白と黒を際立たせる効果を生み、恩恵を受ける者とそうでは無い者の格差が広がり、元々民間の資金投資が低調だった上に国債が大量発行され、資金逼迫の無い財政投入と言う無責任な状態から、資金は過剰になりながら民間の設備投資は進まない現象を発生させる。

そこで余った資金は全て流動性財物、株や金融に流れ、ここでは市場が活況を呈するが、実際の民業、中小企業や第一次産業はより強く海外の影響を受け、縮小していく。
それに株などの資産は流動性資産であり、これが上がったところで決済すれば利益が発生するが、下がったところで決済すれば不利益を被る事になる。

最終的に固定資産の変動幅は大きくなりながら価値を失う方向へと向かい、決済に即時性が薄い固定資産の取引は長期的には下落傾向になる。
固定資産は枝葉、地方から順に資産ではなくなり、逐次ゴミに向かうのである。

ちなみに景気対策で発表された公共事業の内、その年度内に実際の需要となる額を「真水」と呼ぶが、発表された公共事業がその年度内に全て財政支出となるケースは稀で、実際の財政支出は長期化する。

財政支出はそれが本当に必要な時よりずれて執行されて行く。

東北の震災復興費も額こそ発表されたものの、現在の段階でもそれが全て支出されてはおらず、その内に他の名目の財政支出が逼迫し、いつしか忘れられる。
財政支出の内「真水」となるのは多くても50%、通常は40%以下と言うのが現実かも知れない。

そして後の残りは全て「泥水」、或いは「逃げ水」と言うことになろうか・・・・。




「二冊の本」



Černý anděl - Gabriela Gunčíková (pilotní singl k CD Celkem jiná)・・・・・・

東京工業大学の教授なども歴任した「関英男」(せき・ひでお・1905年~2001年)工学博士がその複数の著書、または談話中で引用していた2冊の変わった本が有る。

今夜はこの2冊の本を巡るエピソードに付いての話にしようか・・・。

イギリスのヴィクトリア朝を代表する小説家、おそらく世界で始めて推理小説を書いたのではないかと思うが、「Charles John Haffam Dickens」(チャールズ・ディッケンズ・1812年~1870年)が最晩年の作、「エドウィン・ドルードの謎」の執筆を始めて間もなく、1870年6月に脳卒中により58歳の生涯を終えてしまう。

「エドウィン・ドルードの謎」はこうして半分ほどを残して未完成作品になってしまうのだが、ディッケンズの死から4年後、1874年に突然この「エドウィン・ドルードの謎」は完結編が出版され、しかもディッケンズの自筆署名付きだったのである。

彼が持つ独特の陰鬱な表現、晩年に見せたその意欲的な部分、時に強引なストーリー展開もそのまま表現されていた為、多くの一般読者はこれをディッケンズの自筆と錯誤した。
しかし熱心なディッケンズのファンの中には彼が死後どうやって続きを書いたのか、その真相を追求する者も現れ、ここから意外な事実が浮かび上がってくる。

実はディッケンズの未完成部分を完成させたのはアメリカ、バーモント州ブラッドルボローの工員、T・P・ジェームスと言う若者で、1872年暮れから1873年7月までかかってディッケンズの未完成部分を執筆し、しかも署名までしていたのである。

彼はまったくの無学で文才は無く、ではどうして未完成部分が執筆できたのかと言うと、「自分でも解らない、知らない間に書いていた・・・・」と言う事だった。

また同じく「宇宙戦争」などで有名なイギリスのSF小説家、「H・G・ウェルズ」が1933年に出した「The shape of Things Come」中では、フィリップ・レーブン博士が2106年を現在とした、過去の歴史を述べているのだが、この中には第二次世界大戦の勃発や原子爆弾の開発に成功する事、それが日本の2つの都市に落とされ、都市は永久死滅都市となり、生き残った者もそれから後子孫が残せない状態になる事を述べているのである。

またこうして悲惨な最期を迎える第二次世界大戦だが、この後は日本が世界のけん引役になって世界国家が建設され、2106年に至っていることになっている。

1933年、もしかしたら実際に執筆が始まったのは1932年かも知れないが、だとしたらH・G・ウェルズは12年後の世界情勢をかなり明白に予測していた事になる。
勿論最先端の科学として核融合反応の事は知り得たかも知れない。
世界が戦争に向かってひた走っていた事は肌で感じられたかも知れない。

しかし日本政府が国際連盟脱退の詔書を発布するのは1933年3月27日の事であり、ルーズベルトがニューディール政策を実行していくのもこの時期なのである。
確かにいやな雰囲気が漂うものの、この時点で日本が世界を相手に戦争など、現実的には考えられていなかった。

いわんや原子爆弾など、当時の為政者や科学者の中でも認知されているケースは稀だった。

フィリップ・レーブン博士は滞在先のジュネーブで朝方夢を見る。
その夢の中で2106年版の歴史書が机の上に置いてあった。
そこから幾つかの過去の歴史、1933年以降の世界史の記録を垣間見た博士は、目が覚めると共に覚えていた歴史書の内容を書き留める、そう言うストーリーなのだが、妙にリアリティーが有る。

2106年まで後91年、H・G・ウェルズがフィリップ博士を通して言いたかった事が本当なら、日本は新しい世界秩序を作る為に大きな貢献をする国家となるが、ウェルズの未来を我々は現実にできるだろうか・・・。

関英男博士は宗教と科学、超心理学と科学の統一理論に関して研究していたエレクトロニクス、情報工学の当時の最高権威だった。
晩年は変わった言動も多かったが、私は関博士の著書によって物理学に血と肉を見つける事ができた。

本文は関博士の1973年の著書中に引用されていたものを私が加筆したものであり、博士に心から感謝と敬意を表するものである。





「平等の破壊」

500万円を持っている人が6人、200万円を持っている人が2人、10万円しか無い人が1人、1万円札一枚しか持っていない人が1人の、合計10人が会派を作ろうとした時、会費の設定額で500万の人は5万円でも構わないと主張し、200万の人は2万円でも良いと言うが、これでも10万円しか持っていない人の資産消失額は会費だけで20%を超え、1万円しか持っていない人はそれにすら達する事ができない。

この場合会費が5万円なら、現実的には10万円と1万円の人は会派に参加できないが、絶対参加しなければならない会派、すなわち国家の場合、予め会費を設ける時は1万円の人を基準に会費を設けなければならなくなる。

つまり1万円の人が払える会費と言う事になるが、そこで決まった金額が1000だったとしたら、10人が1000円を出しても合計で1万円にしかならず、これではみんなで吉野家へ行って終わりになる。

それで考えられたのが所有金額の消失割合に拠る均等性で、全員が資産の中から同じ割合で金額を拠出すようにすればどうだと言うことになって行くが、基本的にこの考え方は個人の努力すらも予め皆同じで有ると言うところから出発していて、努力して500万円持っている人も、ギャンブルばかりで何の努力もしていない人も、その部分はさて置き、と言う話である。

このように我々が日々概念する平等と言うものの正体は、集合で言うなら幾つもの円が交じり合う僅かな重複箇所を探すところから始まり、つまりは皆が平等で有る条件を探す事なのであり、その概念は常に方向性や限定された条件を持っている。

努力を平等のテーマに掲げるなら、努力して500万円を持った人の負担は重くなり、ギャンブルばかりで遊んでいて1万円しかない人は優遇されている事になるが、現実の資産と会派の設定が絶対的なものなら、この範囲では資産割拠出は平等となる。

そしてこの平等を破壊するのはいたって簡単な事で、事情に応じた例外を作ればいとも容易く崩壊し混乱に向かう。

会派結成の会費で言えば、資産割拠出1%なら500万円の人が5万円、1万円の人は100円で有るなら、その差は500倍であり、ここで宴席に5万円の人には鯛のおかしらが付き、100円の人にはアジの干物だった場合、アジの干物の人はその一瞬から不平等を感じる事になる。

またそうではなくても例えば100円しか拠出しない人が年長で、5万円拠出した人が若い場合、座る席順だけでも不平等と感じる事になるかも知れない。

だがここでの平等の本質は、皆が決まった割合で資産からお金を出すと言う事のみであり、その他に措ける平等は予め保障されてはいなかった。
これを拡大解釈したり、感情を交えると集合して重なり合った円の重複部分は一瞬にして吹っ飛んでしまう。

5万円拠出した人は自分は5万円も出しているのだから、少しは恩恵が有るのは当たり前だと考え、100円しか出していない人が下座に座っているのは、拠出金額の格差かと考えた時、これに対して特例を設けた瞬間から各個人の事情や感情、人間関係が噴出し、円の重なりはなくなってしまうのである。

つまり平等の概念は目的の為に存在する一つの手続きと言え、例外を設けない事に拠って担保され、ここに個人が例外を作らない努力が有って継続されるものなのであり、一方権利は他の目的の為の平等を包括したものである。

現存の会派とは別の会派の平等をも含んだものが権利の意識であり、そこに感情や他の不満を乗積させると、権利の暴走が始まり、重なり合っていた円の重複部分をその権利の主張が破壊して行く。

僻(ひがみ)や感情のしこり、或いは傲慢や虚栄、名誉欲に権力欲、平等の敵は不平等ではなく、こうしたところに存在し、人はまたこうした事から中々逃れられない。
ゆえ、平等と言うものは幻想なのである。

同じように政治の世界に措ける政策も、それを担保するものは例外を如何に少なくするかと言う部分に拠って決定される。

民主党政権時代、あっちの事情にもこっちの事情にも振り回された結果、最後は全ての政策が虚しくなってしまった事は記憶に新しいが、日本国憲法もその解釈を拡大させたり、または例外を設けて行くと、最後は憲法自体が意味を成さなくなる。

日本が批准している国際法に措ける自衛権(right of self-defense)の概念は暫定措置である。

国家主権が外国から不正な動機によって攻撃を受けた場合、国家はこれを排除する権利を持つが、この条約の趣旨は国内法の正当防衛、緊急避難権に相当し、国連憲章第51条は国連安全保障理事会が紛争や戦争に対し、平和と安全の維持に必要な措置を取るまでの期間に付いて個別の自衛権行使を認めている。

この意味では国際法に措ける自衛権と日本国憲法の趣旨は親和性を持つが、同盟国が攻撃を受けた場合、これに対して戦線を布告する「集団的自衛権」の行使に付いては国際法上も認められた権利でありながら、厳密には日本国憲法との親和性は薄かった。

いわゆるグレーゾーンだった訳だが、ここは1992年、日本国憲法から切り離され、PKO派遣によっても日本国憲法は例外を作り、今回は集団的自衛権行使に及び、既に日本国憲法は完全にその平和概念を遺失する事になる。

国連安全保障会議そのものが、既に常任理事国の例外を常としている現在、そこに意義は存在しておらず、ここでの決定など然したる意味も無いが、こうした状況ゆえ、日本だけでも原則を全うする意思が欲しかった。

だがここまで例外が出てくるともはや日本国憲法は紙屑である。

ただ、自衛隊派遣を同盟国のアメリカはどう思っているかと言えば「足手まとい」かも知れない。

日本の防衛枠が拡大される事は喜ばしいが、沖縄基地問題の解決がはかばかしく無い、その代わりに自衛隊派遣法を口にされても、「感謝する」とは言いながら、沖縄基地を何とかする方が先決だろう・・・・と言うのがアメリカの正直な気持ちかと思う。

国内も上手く治められない者が海外への派兵など、ちょっとクスッと笑ってしまう感じである。

日本国内の反米軍感情に火が付かねば良いが、何て余計な事をしてくれる・・・と思ってやしないだろうか。

500万円を持っている人の集まりに、1万円しか持っていない人がどうしても参加しなければならない時、できる事はそこでの最低条件をクリアするのが限界で有り、大きな事を言った時は500万円の借金を背負う場合も出てくるかも知れない。



「みんじゃ&おつぎ」



【卒業ソング】いきものがかり「YELL」 / Instrumental、歌詞入り【MIDI】・・・・・

過去、台所や台所の周辺を意味する地方言語は、少なくとも14くらいは存在したものと考えられているが、昭和末期まで残っていた言葉に「みんじゃ」と「おつぎ」と言う言葉があり、このうち「みんじゃ」は現在でも東北地方の一部で残っているものの、「おつぎ」は既に言語としては平成に入って消滅したものと考えられる。

「みんじゃ」の語源は「水屋」に求め易いが、「水屋」とは食器や食品関係の家具を入れる棚、或いはおしいれ状の小型施設を差し、地方言語の用語解説でも「みんじゃ」の語源は「水屋」と推測されている。

しかし台所を差す「台」と言う表現は古くから成立していた言葉であり、水屋は同じ言語で別の意味をも複数現している為、「みんじゃ」と言う言語は古くから存在していた発音上の表現が「水屋」に当てはめらた可能性も存在する。

「みんじゃ」は東北地方から北陸付近で使われていた言語だが、「じゃ」と言う発音は不特定でありながら対象が指定される発音で、例えば「○○さん」とか「○○達」、「○○である」と言うような使い方をされる。
勿論「○○屋」と言うような使い方をされる場合も有るが、「屋」が変換された場合の意味は主にその家族や生業、出身などを差し、これは対象者自身が使う言語となる。

「○○である」や「○○者」と同義なのである。

この事から「みんじゃ」のもう一つの語源として、「水の複数形」の可能性も記録して置きたいと思う。
水道が出来る以前は自然水や地下水によって台所の水が賄われていた。
そして縄文時代には存在した円形の竪穴式住居では暖を取る場と煮炊きをする場が同じで、家の中心に存在していたが、やがて大陸から渡ってきた文明は四角い住居をもたらし、ここから暖を取る「囲炉裏」と「台所」は分離して行く。

それまで外に在った台所の水が家の中に入ってくるのであり、この事から「水の場」或いは「水の者」と言う単純形容が発生し、後に水の施設、水を売る商売や「水屋」と呼ばれる棚が出てくる以前から存在していた可能性が否定できない。
「水屋」と言う言語はかなり上品な言語なのである。

「屋」は中途半端な形容である。
例えば江戸時代を例に取るなら、大名や殿様なら立派な台所施設を持ったり、天皇家なら別棟の施設を持つだろうが、一般庶民は家の片隅にその設備が在り、この場合どちらも「屋」の概念はかなり補足的な感じになる。

茶道などの世界、または士農工商の制度の中で士農工以外の規模が出てくるのであり、この場合やはり「屋」はどうしても商家の印象が強い。
安土桃山時代の会合衆が「○○屋」を名乗り、茶道がこれに深く関係し、ここから「屋」は「家」や「城」「殿」の中間に位置する建物と概念されるようになった。

これよりは実際に水が家の中に入ってくる歴史の方が古いのである。

また「おつぎ」に関してはその語源は全く不明なのだが、「おつぎ」の概念は基本的には「みんじゃ」と区別された台所施設だった。
水の在る場所を「みんじゃ」とするなら、これを調理する場や、食事を頂く場を「おつぎ」と発音したケースが多いのであり、ここではどこかで水とは遮断された概念が有る。

その発音上から「次ぎ」のイメージが有り、武家や商家では水を扱う場と、それを盛り付けたり使用人が食事を取る場を区別したその名残とも考えられるが、一方味噌汁などの汁物を「おつけ」と発音する地域が存在し、またこの他にも「おつぎ」には女性や下働きの女性を指す場合も存在していた。

「おつぎ」の発音は強弱が均等だが、少しだけ「ぎ」の発音に強さが有り、この事から主題は「ぎ」に有るものと考えられる。
「みんじゃ」と「おつぎ」と言う隣接した同じ空間を、常時そこに何が有るか、何がいるかによって仕切った表現の片方が「おつぎ」だったのかも知れない。

もう一つ、食事中の方にはお詫びするしかないが、トイレの古い表現で「厠」(かわや)と言う言葉が有るが、日本各地でこれを「どおけ」と発音していた地域が点在していた。

これなどは昔、肥料に使うために大きな桶を埋め、そこに二本の板を渡してトイレにしていた、その桶を差していると考えても良いが、片方には「役に立たないもの」「愚かなもの」、少しニュアンスは違うが「たわけ」「ばか者」と言う意味も含んでいて、関西地方では「ばか者」の事を「だら」と発音する場合が有る。

そして北陸や甲信越の一部では糞尿を「だら」と発音していた地域が存在していた。

糞尿を溜める「どうけ」の表現が「たわけ」「だら」などと何となく繋がっている感じなので有り、この「だら」は全くのばか者ながら溜められ、場合によっては漁師町の人が肥料とする為に、金を出してまで買いに来る事すら有ったのである。
ちなみに同じ「だら」だが、愚か者を指す場合は「だ」「ら」それぞれどちらかの発音が強くなり、糞尿を指す場合は「だ」も「ら」もほぼ均等な強弱の発音と言う、発音上の区別が存在していた。

空間は物理的なことのみで仕切られるのでは無く、そこに存在するものによっても仕切りを作る事が出来、それは相互に約束が認知され守られる事で成立する。
我々人間は物理的な壁以外に色んな壁を作って生活しているが、言葉や約束が平気で反故にされる現代に在っては、自分を守る壁は容易に作れても、皆が共通して約束を守る事で出来る空間の維持は難しい。

「おつぎ」などと言う言語が消滅するのは当然の事だったかも知れない。

更に単体なら全く役に立たないもの、どちらかと言えば忌み嫌われるもので有っても、集めれば貴重な資源になったり、利益を生むものが有る。
全てに合理性を求めると、基準以下は全て無駄な事になってしまうが、この基準そのものが非合理的なもので有る事を我々は省みない・・・。

さて、「だら」な話しやったかも知れん。
そろそろ田んぼの水を見にでかけようか・・・。



「優先性・優位性モジュール」



Modern Talking - You're My Heart, You're My Soul (Remix)(G辿n辿ration Music.&Let's GoMusic)・・・・

例えば同じ大きさの赤い丸と、白の四角形がランダムに点在する画面中で、赤い四角形が一つだけ入った場合、この赤い四角形を見つける為に要する時間は、ランダムに入っている赤い丸と白い四角形の数によって決まってくる。

ランダムに入っている図形の数が多くなればなるほど、赤い四角形を見つけるまでに時間がかかるのである。

だが同様の図形に一つだけ白い三角形が入ったとしようか、この場合はランダムに入っている図形の数がどれだけ増えても、三角形を見つける為に要する時間の変化は無い。

この事から脳の視覚情報処理システムは丸と四角と言う図形の認識、或いは赤や白と言う色の認識よりも、これらとは異なる角度の認識にまず優先性を持っている、角度の認識により大きなパターン記憶を持っていると考えられる。

二種の図形の中で、これらの図形とは異なる斜線が一辺出てきただけで「これは違う」と認識する。

しかしまったく同じ図形、丸にしようか・・・
同じ大きさの白い丸と赤い丸が幾つも点在し、それらの内、赤い丸が上に向かって移動し、白い丸は下に向かって移動しているとすると、この中に一つだけ下に向かって動く赤い丸を入れた場合、この一つだけ下に向かって移動する赤い丸を見つけるまでの時間は、ランダムに入っている規則的な動きの図形の数に比例しない。

規則的な動きをする図形の数に関係なく同じなのであり、だがしかし、三角形を見つける時間よりは多くの時間がかかって一定なのであり、この事から人間の視覚情報処理形態には少なくとも「あわて者」と、「落ち着いた者」が状況に応じて出てくる傾向が解るが、ではこの「あわて者」と「落ち着いた者」に順位が存在するのかと言えば、そうではない。

状況を視覚が記憶に取り込んだ瞬間、その情報が「あわて者」で良いか、「落ち着いた者」かを判断するには、瞬間ごとに記憶情報の海が全て動かねば判断できず、人間の脳は常時それほど活性化してはいない。

ここにはパターン化された情報処理形式が存在し、大概の事はこのパターン化された情報処理群が動き、「あわて者」で良い場合と、「落ち着いた者」が必要となるかの判断になるが、これは順位性ではない。

まず最初に「あわて者」のパターンが動き、次に「落ち着いた者」が動く、次には別のパターンが動き、更に次のパターンと言う具合で、その情報の質が判断された時点で、パターン化テストが終了する形式を我々は考え易いが、実は違う。

これらは並列同時処理により、優先性と、優位性が組み合わさっている。

速度で判断されるものと、重さで判断される仕組みが同時に動き、この中にも数え切れないパターン化(モジュール)が存在し、しかもこれらは独立的な要素を持っていて、出先機関的なモジュールを局在させている。

ちょうど日本が在り、各国に大使館が有るのと同じような仕組みと考えて良い。

錯覚に例を求めるなら、「主観的輪郭」の代表である点描などで、外側の輪郭に近い部分の点を荒くまばらにしても、人間はここに輪郭を想定して造形を捉えるが、一方そこに実際の線がない事も認識している。

葛飾北斎のように鶏の絵を何十枚と模写していると、最後には白紙の上に鶏の絵が見えるようになってくるが、これはモジュールを多用する事によって、そのモジュールが太くなったと言う事を意味するが、しかし遠いところではそこに線がない事もまた解っている。

これが並列同時情報処理の在り様で、矛盾した事象でも同時に処理され、そのどちらも肯定されている現象を生むが、時間系列の遠近と、重要性の遠近によって矛盾する現象でも、モジュール中に過去に存在したものならば、全て矛盾とは理解しないのであり、これは各モジュールが独立性を持っている事の証かも知れない。

こうした意味で我々が考える矛盾や整合性、合理性は視覚の持つ範囲よりもかなり狭い思想的なものである事が解るが、もう一つ言うなら、運動に措けるモジュールと認識では位置や運動、テクスチャーが検知された時、それが全体のどの位置に存在しているか、動く物体がその後どうなるかが予測され、テクスチャーでは構造や材質の予測が為される。

草野球で打者が打ったホームランが隣接する住宅の窓に向かっているとき、視覚は次の瞬間本当は遠くて聞こえないはずの窓が割れる音、「ガシャーン」と言う音を用意するのであり、その結果が少し首をすくめる動作に繋がっていく。

脳の聴覚部位に駐在している視覚の大使館の仕業であり、視覚はまた運動神経部位にも大使館を置いていて、この動きになるのである。

ただこの場合「主観的輪郭」とは異なり、その音が実は聞こえ無いはずの音で有ることの認識はかなり遠くなり、実際に聞こえるはずの無い音のウェートが大きくなるのは、「重要性」の問題である。

何かが破損する、或いはそれが発生する恐れが有る時は、危険回避のモジュールが働き、これに拠って「実際は聞こえていない」と言う事実は遠ざけられる。

そして基本的に人間の生体モジュールは感情を持たない。
交通事故に遭遇したとき、生体維持のモジュールは脳を活性化させ、まるでスローモーションのように事象を見せるが、この瞬間に恐怖心や悲しみなどの感情は無い。

危機に際して感情が邪魔で有ることから、一時的に遮蔽されるのである。

しかし一方幽霊などを見た時の人間は恐怖心を抱くが、恐怖の正体は交通事故の例でも解るように、必ずしも危機の連動に根拠は求められない。
つまり「恐怖」は本質的生体の危機では無い、前段階の社会的モジュールだと言う事である。

人類が長い歴史の中で持った死生観の絶対性、こうした社会的なものもまた脳がモジュールとして記憶の連続に加えている可能性が示唆されるものであり、この意味では恐怖も然ることながら、我々が持つ喜怒哀楽の感情、「心」なども極めて社会的なものと言え、最大の危機に瀕した時の脳と最もリラックスした時の脳の動きは近似値である。

つまり、最大の危機と最もリラックスしている状態は大体同じだと言う事である。

人間の意識の仕組みはランダムに色んな情報が取り込まれ、流れ、それを膨大な数のモジュールがそれぞれに認識し評価し、感情が加えられ記憶される形になっている。

一人の人間の中に膨大な数のそれぞれの立場の自分がいて、事象をそれぞれに観て部分的には繋がっている、そう言うものと考えられている。








「韓非子の山」

高い山に登って眼下を眺めると大変心地良く、また下に広がる景色に、人の世の暮らしの何とささやかな事かと思う。
が、実は人の世は平地にいても高い山にいても同じであり、それを小さく感じさせているものは「山」なのである。

このように我々人間は今自分が在る場所、存在している時間に拠って、何等変わる事無く営まれている社会を、全く異なる感覚でそれぞれに捉えていて、自身の本質を忘れ易い。
いや、そもそも自身の本質はこうして環境と時に拠って変化していると考えた方が良いのかも知れない。

しかし一方で山の頂に在るからと言って、自身の体積がその大きさになったのでもなければ、寿命が延びた訳でもない。
山の下にいる時と何等変わらないのだが、山がこれを忘れさせ、そして人は山の力を自身の力と錯誤し易い。

銀行で支店長を務めた男性などが定年退職した途端、その自身の華やかで多くの行員を動かしていた力が、実は銀行と言う組織の山だった事を知るケースは多いが、人間はこうして程度の差は有れ環境や時の下駄を履いて世の中を見ている。

更にはこうした自身の在り様、下駄を履いた環境が急激に変化しない場合、この環境に慣れて依存して行く事になる。

権力の座に在る者はその権力を自身の力と考え易いが、それは自分の力ではなく自分がはいている下駄、登っている山の力で有り、この事を忘れた者が為す事は山の力が持つ余裕で他を考え易い為、傲慢になるか甘くなるかのどちらかの非現実に傾く。

山の上に立つ爽快感は山がもたらしているものであり、眼科に広がる人間の心までもが小さくなった訳でもなければ、皆が山の爽快感から来る簡略さで生きてもいない。
また自分の身長が伸びる訳でもなければ、腕力が強くなった訳でもない。
状況は何も変わってはいない、その事を忘れず気を付けろ、と言うことだ。

「韓非」(かんび)は秦の始皇帝時代の思想家、政治戦略家だが、「韓」の王子で有りながら、敵対する秦の始皇帝が彼の著した「韓非子」に感銘を受け、始皇帝の招請を受けて秦に入り、当時の秦の重臣だった李斯(りし)の謀略に拠って毒殺された。

そしてここからは私の考えになるが、韓非子の山の反対側、「谷」もまた山と同じ程気を付けなればならないように思う。

病に有る者、貧困に在る者、老いた者、或いは昨夜飲み過ぎて今朝の体調が優れない者でも良いが、その調子の悪さに甘えて本来為せる事までも為さず、それが為せない理由に逃げてはいないだろうか・・・。

また一定の年齢になると、集まれば自身の体調の悪さを話し始め、やがては体調の悪さ自慢になるが、これもまた価値反転性の競合であり、不幸さ不運さ加減を話し、ここに自身の現状を肯定する理由とする場合も有るが、これらは本来ならもう少し頑張れる範囲を予め諦め、為せる事を為していないかも知れない。

犯罪の温床は実は「怠惰」であり、本来日常少しずつ積み上げなければならない努力を、明日に伸ばして行った結果迎える破綻の一つと言う側面を持つ。
病を理由に、老いを理由に、貧困を理由にもう一歩踏み出せる所を諦めるは、山に在って尊大に膨らんだ自我に同じである。

人間は良くも悪くも環境に甘え易い。
山に在っては山に寄りかかり、谷に在っては谷に甘える。
山に在る者は下駄を履いて考え、谷に在る者は自身の足を切り落として物事を見ている。

しかし両者の前に横たわるものは唯その時の環境と言うものでしかない。
本質の自分は本来何も失っていなければ、何も足されてはいない。

今山に在る者、調子の良い者も、谷に在って調子の悪い者もその環境に溺れず、環境に甘えず日々の小さな努力と謙虚さを忘れてはならない。
低い所から人を見ればそれはとてつもなく大きく見え、高い所から人を眺めるならそれはゴミ粒のようにしか見えず、だがこれは人の現実の姿に非ず。

全て自身と同じ身の丈の人間で有る事を、
自分は大きくも無ければ小さくもなっていない現実を怠ってはならない・・・。





「それは始まっている」



dj TAKA - ΕΛΠΙΣ (Full ver.)・・・・・

因果律に措ける因と果は基本的にはひとつの流れで有り、これに境界を観る事は難しい。

人間は結果を一つの独立した形として認識する場合が多いが、結果に至るまでに既に結果の60%から70%が完成されていて、結果はある種のセレモニーと言う事が出来るかも知れない。

軍事戦略で、もし完全な作戦が出来たとするなら、その作戦が出来上がった時点で既に結果は決定していて、各作戦はそれぞれが小さなイベント、そして敵地占領など目的が達成したと言う結果は、結果と言う式典にしか過ぎない。

ちょうど透明な水に赤いインクを落として行くと、最後は真っ赤な水になるが、その赤さは急激に現れるのではなく、少しずつ濃度を増して最後は真っ赤になる。
だが真っ赤になる事は赤いインクを落とし始めた時点で、既に結果に繋がる流れなのであり、赤いインクを落としながら青い水になる事は有り得ない。

この事からこうした現象を逆算的に見ていくと、赤い結果に繋がる現象が現れ始めた時から、青い水になっていく方向へとは向かわないのであり、それから以後も赤い水に向かう兆候が多く出てくる場合は、まず間違いなく赤い水になると言う事になる。

つまり赤い水の兆候は真っ赤な水に至る道程なのであり、この意味に措いては結果となる真っ赤な水は瞬間ではなく、その結果に流れる方向性の完成と言う事になり、結果を連続する近似値の集積とするなら、赤い水に至る道程全てが結果の破片と言う事が出来る。

従って赤い水の兆候は、結果の断片が既に出始めている事を意味し、連続する近似値の不均衡から赤くなる速度に変化が有るとしても、必ず最後は赤い水になる。

何の話かもう解った方もおいでかと思うが、そうギリシャのデフォルトの話で有る。
元々友人同士で金が無い時、お互いが金を都合してやり繰りしていた、その状態を町内会全体に適応したらどうなるか、結果は初めから見えていた。

同じ町内会でも資産家もいれば生活費にすら困窮している家庭も有り、ギャンブルが好きな者も居れば堅実な者も居る。
これらが統一したルールを作って、金のやり繰りを始めたらどうなるか、考えてみれば一目瞭然だろう。

ギリシャの債務不履行はヨーロッパ経済共同体が発足した時点で、もう結果は見えていた。

そして例え今の危機をしのいでも、それは連続する近似値の不均衡にしか過ぎず、最後のデフォルトは必ず訪れる。
ただ時間の問題にしか過ぎず、現実にも既に国有資産の売却が始まり、債務超過から国内で支払われる金が底をついている。

これはデフォルトが発生しているのとほぼ同じ結果をもたらしていて、尚且つ融資されるべき資金はギリシャの財務状況改善を担保としていて、この担保になる財務改善計画の逆方向の政治性を持つ政権がギリシャ国政を担っている。

ギリシャ国民の生活はもはや国内政治では担保されず、ヨーロッパ諸国が握っていると同じことで有る。
既にギリシャの現状は、債務不履行を起こした国家が被るべき現実と同じものを発生させ始めていて、ここではデフォルトは最後の形でしかない。

デフォルトは債権国に対する形で有り、ギリシャ国内では例えデフォルトに至っていてもいなくても、既にその兆候が始まり、現実にはデフォルトを起こした場合の30%程度の困窮が発生してきている。
赤い水になる最後の結果へと確実に向かっているのである。

それゆえ例えヨーロッパ共同体とギリシャが歩み寄って、今月末に返済期限の来るギリシャの債務に融資が行われたとしても、ギリシャ国内的にはデフォルトの30%ほどの苦しみが延長され、その先はデフォルトと言う苦しい状況が回避されない。

経営危機と破綻の兆候は違う。
ギリシャのそれは間違いなく破綻であり、こうして最後は破綻を迎えるなら、早い間に破綻させて再生を目指すのが経済の鉄則と言うものだ。

借金に対してちびちびと金を貸して長引かせても、その当事者の苦しみが長引くだけであり、この場合の破綻は破綻者と債権者相互に取っての解放に繋がる。
また小さな問題を避けようとするなら、その先には更に大きな問題が待ち受け、問題は放置すると先へ行けば行くほど解決が困難になる。

絶望と不安を今日も明日も続けるよりは、私なら厳しくても破綻を望むだろう。

そして日本のGDPに措ける国の債務比率はこのギリシャよりも遥かに大きく、政府はこれをのらりくらりと逃げながら財務状況の改善を全く行っていない。

バブル経済崩壊以降、我々一般大衆の暮らし向きは一向に良くならず、その苦しみが続いているのは眼前に広がる厳しい現実から逃げているからであり、この責任は日本の為政者のみならず、国民も免れるものでは無い。

現実から逃げた者は、結果として必ずその逃げた事に対する代償を求められる・・・。









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「傘を差す」



AIR SUPPLY - WITHOUT YOU (Lyrics)・・・・・

ストレスは外的要因、心的要因のどちらでも発生するが、人科生物ではストレスが無い状態の時、自身が理由も無くストレス要因を作る、比較を行いストレスを探すと言う行動を起こす場合が有る。

この事から適度なストレスは必要性が有って発生しているものと考えられ、現代生物学、精神医学の世界では良いストレスと悪いストレスが在るとしているが、これらは本質的に善悪の判断と同じ事であり、どこまでが良いストレスか、どこから悪いストレスかの認識は個人に拠って異なる為、本来分離して考える事の妥当性は無い。

恋愛中の男女が言葉の行き違いで苦悩するのも、金策で苦悩するのも生体の反応は同じだからで、ただこうした現実をストレスとするかしないかと言うところがキーワードになる。
例えば運命の等価性を信じる人では、良い事が有った場合でも次には悪い事が起こるのではないかと心配し、そもそも運命もその等価性も信じない人は素直にこれを喜ぶ。

一方こうしたストレスの必要性に付いてだが、ここからは世界的な学説ではなく、私の推測になるが、「居眠りを防ぐ」為ではないかと考えられる。
平板な道が延々続く道を車で運転していると、天気が良ければだんだん眠くなってしまい、しまいには目的地に向かうと言う気力さえも失われてしまう。

しかしこれが曲がりくねった道で時々障害物などが有れば、まず眠ってしまう事は無くなる。
つまり人類や生物に取ってストレスが必要になる原因は、生きる事に付いて居眠りしない為の防御機能では無いかと考えられるのである。

遠い目標を目指すのはとても困難なものだが、それが階段のように小さく小分けされていれば気力を失いにくい。
この階段の役割を負っているものがストレスではないか、そう思うのである。

またこれはノルウェーの動物学者「Thorleif Schjelderup Ebbe」(トルライフ・シェルデラップ・エッべ)が発表した「Peking order」(ペッキング・オーダー)と言う説だが、ストレス解消の方式に関する劣化転換が動物界にも存在し、この意味では人間社会で悪と見做されている「いじめ行動」は動物の一つの本能かも知れない。

ニワトリのツツキ行動に関して、ニワトリの群れにはグループ順位が有り、Aと言う最高順位グループ、次席のBグループ、最下位のCグループが存在し、これはメスの獲得順位で有ると共にエサの獲得順位でも有り、ツツキ行動の順位にもなっている。

Aグループの鳥はBグループのニワトリをツツき、Bグループのニワトリは最下位のCグループをツツくが、最下位のCグループはツツく相手がいない、それで地面をツツくのであり、エサもないのに地面をツツいているニワトリはこのCグループなのである。

だがこれは生物界に措ける一般的な在り様であり、幼児同士の世界でも、大人の世界でも世界観が狭窄すると同様の傾向が出てくる。
広義ではいじめの連鎖の最下位に在る子供は地面、つまりは社会に訴えを起こさねばならなくなるのも、この範囲かも知れない。

従って怪我や殺人など実損害の発生しない、軽微ないじめの連鎖行動は生物界自然行動の範囲なのかも知れないが、人類はこうした部分の不都合を全て悪とし、撲滅しようとしてきた。

この点では人間社会は自然の中で傘を差して、自身らの文明社会を守ろうとしてきたのだが、人間社会の考え方と実際の自然の厳しさには隔たりが有り、文明の歴史が長く継続されると既存に絶対性が発生し、現実の厳しさは忘れられる。

為に今度は差している傘の中で矛盾が発生してくる事になる。
傘の差し過ぎ現象が現れてくるのである。

ニワトリの群れで言うなら次席順位のニワトリが最上位のニワトリに対して、その最上位ゆえにいじめを発生させ、それが順位決定さえ確定すれば後は問わないと言う許容性を失わせ、報復を恐れて苛烈な攻撃になる。

またこうして発生してくる苛烈ないじめの蓄積は絶望感を発生させ、それによって自殺するか、相手を殺すかと言うところまで追い込まれた状態が発生し、こうした傾向が蔓延すると、目立つ者は全ていじめの対象になり、一方人間を問わず他の生物でも自身が支配権を持つ場合は、そこに生物としての最低限の責任が存在するが、傘の存在はこうした責任の部分を幼児期に戻す役割を果たし、結果として自分が支配した対象者の命の重さが理解できなくなる事になる。

幼児期の子供は残虐性を持っているが、これは生物の幼少期の共通本能であり、成長してそれぞれの社会や世界観が出来上がると、全ての動物はその社会に従った生き方をするが、人間は幼少期から傘の概念、親が独善的な傘の概念を持っていると、幼少期の本能が成長してからの本能に乗りにくくなり、結果として目下の者を残虐に殺す少年少女が発生してくる事になる。

そして一番重要な問題は、学校と言う教育現場が児童生徒には細部にわたって校則を設け、それを厳しく守らせながら、こうした際限のないいじめや幼児性本能を引きずった非行型のいじめ、暴力に対して何ら抑制手段を持っていないと言う点である。

暴力こそが力で有ると学校が認めているようなものであり、では児童生徒らが守っている校則は何かと言う部分との整合性を失っているのであり、その矛盾した学校と言う社会がいじめを増長させている側面を持つ。

人の希望とはその反対側の事実が存在するからこそ発生するもので有り、ここで眼前の事実をしっかり見ていない希望は、おそらく将来の更なる大きな絶望になる。

教育が難しいのは親の代の誤りが、その子供の時代に問題となって現れるからである。





「調和の限界」

水の入ったバケツにサラダボールを浮かべ、それを手で押してやると、サラダボールを押した力に比例してバケツの内側の水位は上昇する。
サラダボールがそれまで水が占有していた場所を新たに占有し始めた結果、力学的にその量で有れば人間の力に及ばなかった水が押しやられ、そして水は全体の水位を上昇させてサラダボール分の他の空間を確保せざるを得ない事になったのである。

このように宇宙空間はともかく、地球上では必ず何らかの原子や分子、それらで構成された分子ユニット、つまり物質や生物が隙間無く存在し、自身存在の証はその空間を占有している事によって成り立っている。

簡単に言うと空いた席は無いので有って、何かが欠ければ必ず他の何かがその欠けた空間を占有する仕組みなのである。

そして物質や原子のこうした有り様は人間の精神構造、感覚、社会と個人の関係に措いてもまったく同じ構造を示していて、しかも精神構造や感覚などと言った空間的制限の無い世界ではこれが複雑に絡み合い、物質世界の占有より激しい占有争いとなっている。

以前、ケインズの経済論は人間の劣化を考えていないと言う話を、アイスクリームを差し入れる社長の例で記事にした記憶が有るが、社員の事を考える優しい社長が善意で毎日アイスクリームを差し入れると、やがてその事が標準化し、いつか風邪で寝込んだ社長がアイスクリームを差し入れることができない日が訪れた時、社員は元々は善意だった事を知っていたものの、それを忘れて「今日はアイスクリームが来ない、おかしいじゃないか」と言い出すようになる。

つまり社長の善意はやがて社員たちの権利に近い状態にまでへこまされ、社員たちはアイスクリームを差し入れてもらう権利にまで自身を拡大して行くのだが、当然この反対も存在する。

会社の為、公共の福祉の為、世の中の為と言う善意は、それを被る対象が漠然化している為、初めから結果は見えない。
しかしその善意を施す個人の労力は現実の自分が被る労力提供であり、公共の福祉や公共に対する善意とは、政治が執行された政策に対する自身との調和の一端である。

例えば看護士を例に取るなら、勤務時間は決まっているはずで、当然昼食時間や昼の休憩なども規定されているだろう。
しかしその休憩時間に救急患者が搬送された時、看護士の眼前には人の命と言う自身の権利とは比すべくもない現実が現れる。

人として、看護の精神として自身の権利よりも患者の事を考える看護士は、その善良さゆえにやがて休憩時間も昼食時間も無い勤務体系が標準化し、急患でもないケースでも「彼女はどうした」と言う事になっていく。

これが元々看護士の足りない病院なら、看護士の善意、看護士が持つ社会システムとの調和の精神ゆえ、本来社会や制度がこれを整備しなければならない部分までも看護士がこれを負担し、しかも恩恵を被る対象が漠然化している為、看護士の善意は社会システムの中に埋没して標準化する。

文句が出ない間は、現行の運用が容認されて行くのであり、これが個人の善意に侵食する社会の甘え、怠惰と言うものであり、小さくは2人以上の集まりから大きくは国家まで、それが作り出す制度や慣習の在り様は全て同じ構造となっている。

個人の人間性や善意は公共の怠惰を呼ぶのであり、公共の怠惰とは政治や行政の怠惰の事である。

鳥取県立鳥取養護学校の非常勤看護士6名が2015年5月22日の授業終了後、揃って辞表を提出した出来事は記憶に新しいが、これが調整、政治とその執行である政策と、個人が調整に対して示せる調和の限界点の一つの形であり、こうした事が一つでも発生してくると言う事は、その行政区自体がもう限界になっていると言う事である。

元々看護士等が持つ人命救済、疾患者擁護の精神はもっとも強い善意、もっとも強い調和の精神を持っているが、これが「もうだめです」と悲鳴を上げたと言う事は、その行政区が最後の砦も失ったと同義であり、養護を受ける側はそこに権利を意識し、だが実は看護士の数は足りず、現存の看護士の社会的責任感、仕事に関する責任感によってこれがカバーされていた。

つまり本来は行政が対処しなければならない看護士不足を、現存の看護士たちが道義的精神でカバーし、これで何とかなっている間は行政は黙っている。
なぜなら政治や行政は調整だからで、何か声が上がらない限り動かないのである。

この意味では行政は初めから怠惰にしか方向性を持っていないのであり、ここに看護士たちの責任感や人間性は吸い込まれ形をなくし、一方養護措置が遅れれば生徒の親たちから「何をやっている」と責められる訳である。

ここに調整に対する調和の精神は瓦解するのであり、形は違えど社会に生きる我々は同じような命題の狭間で葛藤している。

善の善なるものは形を持たず、光を持たない。

普通の事が普通に動いていくだけだからだが、その普通が普通に動いていく影には称賛される事もなく、時には人から悪く思われたとしても、我慢して笑っている者がいるからこそ普通が普通に動くのである。

この社会は政治や経済だけで動いているのではない、一人一人の小さな善意が社会を普通に動かしているのであり、経済もまた大企業と政治だけで何とかなっているのではなく、何も言わず働き、苦しい中から税金を払っているサラリーマンやパート主婦達がいて、彼らが生活する事で経済が成り立っている。

これをして調和の極みと言わずして、他の何が極みと成り得ようか・・・。
日本は今急激に調整や調和の方向を高齢化社会に向かわせている。
そしてこの中では形無き多くの善意が動いて普通が何とか維持されている。

善意を施した者はそれを忘れないが、施されたものはそれをすぐに忘れ、善意の継続はやがて対象者に権利意識を発生させる。
そして善意が権利意識に変換され始めた瞬間こそが調和の限界点であり、既存社会システムが崩壊し、新たなる調整を必要としていると言う事かも知れない。

我々が権利と考えているものの要素は決して単体ではない。

知る由も無い人の善意もまた、そうした要素の一つかも知れない事を思い、自身の権利の前では謙虚である事が求められている。








プロフィール

old passion

Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

[このサイトは以下の分科通信欄の機能を包括しています]
「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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