「朝日」



AI- Story English Version・・・・

前日10年ぶりに訪ねてきた友人と話し込んでいた為も有っただろうか、比較的熟睡していた私は突然足の先に一瞬の違和感をおぼえたが、その感触には記憶が有り、次の瞬間には足でその違和感を蹴る様にしてから起き上がった。

そして蛍光灯を灯け確かめたが、布団の陰に隠れて行ったものの正体は体長20cmは有ろうかと言う赤いムカデだった。
「やはりな・・・・」と呟いた私は妻を起こさないように静かに殺虫剤を持ってきて布団の陰に噴きかけ、それに慌てて出てきたムカデに更に殺虫剤を噴きかけた。

私は多分ムカデがその足を1本、私に触れさせた瞬間気付いたはずだが、もし疲れていなければ絶対触れる前、歩いて近付いている音で目を醒ましたはずだった。

ムカデの感触はちょうどエビの殻や蟹の甲羅の感触に同じで、結構硬いものが肌に当たった感じがして、そのまま動かなければ噛まれる事は少ないが、下手に動けば連続して噛まれ、その痛みはまさに激痛である。

山を背にして建てられている私の家では昔から毎年2、3回、雨が近くなるとムカデが入ってくる。
1年にたった2.3回の事なのだが、それがいつなのか解らない為、私は幼い頃からムカデが畳の上を這う音に意識を集中しながら寝ている状態だった。

私の眠りの浅さはこうした所に端を発しているのだろうが、一方こうした状態から聴覚が鍛えられ、僅かな音の違いや離れた所の僅かな音、幾つもの音の中から1つの音源を特定できるようになり、この事が今のあらゆる物作りの感覚に影響を及ぼしているだろう事は事実で、その意味ではムカデは忌避すべきもので有りながら、私を育んでくれたものでもあるかも知れない。

時計は午前3時38分、少し早いが今日はこの時間からを一日とするか・・・。
私はムカデの死骸を外に棄て、布団をたたんで納屋に向かった。
まだ真っ暗で最後に巣に残っているツバメのヒナ達も眠っている様子だったが、窓を開け、いつでも親ツバメが外に出て行ける状態にし、そして何気なく下を見ると、そこには何か黒い長いものが見え、近付いて確かめるとどうやら蛇のようだった。

「今日は千客萬来だな・・・」
おそらくツバメのヒナを狙って昨日忍び込んだのだろうが、体を半分壁と棚の中に入れ、尻尾が出ている状態の蛇の尻尾を掴んで引っ張り出そうとする私に抵抗する蛇は、更にがっちりと体を固定して中々引っ張り出せない。

蛇は体全体が後ろ側に楔(くさび)が引っかかる構造をしていて、従って前進は出来るが後退は出来ず、その代わり体全体で抵抗すればちぎれても引っ張り出す事は出来なくなる。
これ以上引っ張っていると蛇が怪我をしそうなので、手を離すとあっと言う間にその尻尾は棚と壁の間に消えて行った。

おかしなものだな・・・・。
自分が生まれた頃とは違い、既に後ろの山にはコンクリートの擁壁が設けられ、家の周囲も殆どがコンクリートで固められ、更に周囲にはしょっちゅう殺虫剤を散布しているのだが、蛇もムカデもやはり1年に数回はお会いしてしまう。

しかもムカデに限って言えば昔より大きくなっているような気がする。
家の周辺工事や殺虫剤の効果はきっと有るのだろうが、それ以上に私の家の衰退によって彼等の勢力が増しているのだろう。
「力無き者は去れ・・・・」と言うこの世の現実が、少しずつ私の周囲にも形となって現れて来ているに違いない。

「やれやれ・・・」と言う感じで仕事場に上がった私は膨大な仕事を前に座り、煙草に火を付けコーヒーを一口飲む。

そこへ猫が上がってきて私の隣に座り、同じように膨大な仕事を眺めたかと思うと、次に私の方へ顔を向けるが、その顔はまるで「これ、本当に仕上げることが出来るのか」と言っているようでもある。

「まっ、何とかするさ・・・」
私はそう呟いて猫の頭を撫で、窓を開けて風を入れる。

「お前みたいな者が仕事をするな、人の迷惑だ」
昔駆け出しの頃、そう言って私を怒った職人は、それでも解らない事を聞きに行けば時間を割いて色々教えてくれ、昼には蕎麦を取って食べさせてくれた。
晩年には訪ねるといつも「仕事はあるのか」と気遣ってくれたものだった。

遠い、余りにも遠い・・・。
彼等の領域には余りにも大きくて遠くて、とても手が届きそうも無い。

そう言えば何を血迷ったか私の所に弟子入りし既に15年、いまはこの事業所の代表になっている彼女が、いつもパンフレットを届けてくれる年齢の近い「エホバの証人」の女性達が、布教活動の転任によってこの地を去っていくと言うので、自分で作ったスプーンを土産に渡すと言って昨日包装をしていたが、渡す事が出来ただろうか・・・。

代表は神に対する信仰心は無いと言っていたが、それでも布教活動をしている彼女達のように生きられたらそれは素晴らしい。
自分はそれが出来ないけど、彼女達とは友人だった。
だから、土産に自分が作ったものを渡したいと言っていた。

もう、私が教える事は何も無くなった・・・。
二度と会えることは無い友に、先に何の計算も無く贈り物が出来る、その価値を知る領域までに達していれば、後は日々私を超えていくだろう、いや、既に超えているかも知れない・・・。

昨日訪れた友人も私とは15歳も年が違うが、何故か彼が駆け出しの頃から親しく、今では某国営放送のデスクを務めていると言う事だった。

「私は何をしていたのだろうな・・・・」
そう言ってまた猫の頭を撫でると、猫は少しだけ優しい顔をして「ニャーン」と答えるが、多分「そう気を落とすな」とでも言っているのかも知れない。

「おっ、朝日が昇ってきた」
「過去も未来も無い、今が全てだ」
「この眼前の現実を何とかしないと、そも過去も未来も意味を為さんぞ・・・」
「思う者は遠く、思わない者は近い」
「さあ、行くぞ・・・・」




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「影の日本」



岩崎宏美 ♪(´ε` ) 【青春の影】 君の心へ続く 長い一本道は~・・・・

日本が第二次世界大戦に参戦して行った背景を、軍部の台頭とする見識は決して間違ってはいないが、事の本質はもっと基本的な部分に有る。

日露戦争の勝利で世界列強の1国として認められた日本、特にこれによって認識が深まったのは軍隊の存在だったが、この時点の日本軍は創設されてから日が浅く、結果として政府、内閣と軍部は重複していた形態を持っていた。

政治と軍隊が一体化していながら、政治に重点が有ったのである。

そしてここから列強国を維持する要件として「力」、軍の影響力を重く見た日本政府は軍を増強して行く。

その過程で組織として政府や内閣と分離して行った日本軍は、過去政治的な融合状態に有った経緯から、その融合状態を維持したように錯誤しながら組織的には政治から分離した状態になり、結果として政治的にアマチュアになって行きながら、このアマチュアリズムが政治のプロフェッショナルである政府を超えて「何でも出来る」と思ってしまう状態を生じせしめた。

やがて政府が作った軍隊が政府や議会、その上に存在した天皇までも「輔弼」と言う形で越権し始めて行ったのである。
だがこうした傾向、軍が何でも出来ると言う意識は常に右肩上がりで強まったかと言えばそうでもない。
明治時代「硯友社」の小説家として活躍した「広津柳浪」の子供で、やはり小説家、評論家として活躍した「広津和郎」(ひろつ・かずお・1891年~1968年)が「日本の歴史」第12巻の後書きで、大正時代には日本軍の中でも限界を考える者が多く存在していた事を書き記している。

ここに来て欧米との関係から軍は誰のものか、何の為に存在するかと言う事が軍内部でも考えられ始めて来た事を意味し、同じく広津和郎の筆を借りるなら、彼が予備召集で軍に入隊した時、大正5年の事だが、彼の上官である大尉は壕(ごう・地面に深い溝を掘ったもの)を掘る訓練をしていた広津等新米兵にその理由を訪ねているが、広津等は学校で学んだ通り、それは「砲を敵の攻撃から守る為です」と答え、このような一辺倒の回答に上官である大尉は以下のように諭したと書いている。

「良いか、砲は機械だ」
「そんなものはまた作ろうと思えばどれだけでも作れる」
「しかし貴様等の命は一度失えば返ってこない」
「この壕は貴様等の命を守る為に掘るんだ」

広津は上官のこの言葉に自分が恥ずかしくなったと書いている。

明治期の日本軍の軍人はとても謙虚で、民衆の前でも決して威張ってはいなかった。
大正5年の若い下士官でもこうした意識の者は多かった。
しかしこれを変えて行ったものは何か、その答えが広津と上官の問答の中に隠されている。

広津は学校で壕を掘るのは「砲を守る為」と教えられているのに対し、日本軍の下級将校は「貴様等の命を守る為」と言っているのであり、ここに日本軍の崇高な意識を変えて行ったものの正体が「教育」に有った事が如実に現れている。

すなわち「軍」と言うある種崇高な意識が求められる中に、一般社会の俗的物質至上主義が学校教育と言う形で進入し、最終的にはそうした教育が一巡した昭和の時代に入って、学校教育の思想が広津等の上官達が持っていた意識を下からねじ曲げて行ったのである。

日本軍が思想的に独立したもので有ったなら、或いは明治以降の教育の方向が違っていたなら、日本が第二次世界大戦に参戦する事態は避けられないにしても、もう少し違った形になっていた可能性はある。

そして大正期には一時的に軍至上思想が衰退していたにも拘らず、それを戦争に向けて推し進めて行った日本の教育とは、その背景を考えるなら、「内務省」と言う存在は決して責任を免れ得べきものではない。

GHQに拠って解体されるまで戦前日本を影で操っていた「内務省」と言う組織は、大久保利通に拠って創設されたものだが、現在の各省庁を人事や予算で縛る事の出来る官僚機構の中央組織と言う事が出来る。

大久保は海外を視察したおり、政権と言うものが発足した直後の政策に措いて、イギリスやフランスなどの完成された政治機構より、ロシアやドイツと言った混乱期を治める方式の組織の必要性を考え、それでどちらかと言えば非常事態に措ける機構であるロシアやドイツを模倣した「内務省」を創設したが、非常時に措ける内務省的活動は基本的に「国家監視」である。

しかも警察、教育、建設、各県の知事の任命に至るまで組織的に統括する国内政務の最高機関と言う事ができる。

これら内務省的組織は、最終的には各農村の個人の単位まで監視する機構、例えば特別高等警察などを構成するが、こうした組織が握っていた教育と言うものは、政府を劣化した一般大衆が支える形となり、この教育方針が政府攻撃を抑制する為に欧米からの攻撃被害意識を蔓延させる結果となり、最後はこうした教育による誤った国民意識を増長させるしか国民の不満を抑えられなくなる。

日本を戦争に導いて行ったものの一因は軍隊ではなく、内務省と言う影の日本だったのである。
それゆえGHQは占領政策で内務省の解体を計り、戦後内務省と言う組織は無くなったものの、政府内部にはこの復活を画策する議案が戦後70年の間に、ほぼ10年に一度の割合で出されては不成立していると言う現実がある。

また戦後、自治省、文部科学省、建設省、警察機構と言う形で分離しているものの、それまで各都道府県主体だった警察機構は既に中央集権組織に変更され、国家公安員会の独立性も希薄な状態で、自治省は学校運営に各行政区の予算を通して発言力を持っていたが、これらは総務省と言う形で建設、警察機構を除いて統合されている。

つまり戦前の内務省に少しずつ近付きつつ有ると言う事であり、2008年自民党の国家戦略会議などはまさに「内務省」復活を提言している現実をどう評価すべきか・・・。

現在分離している各省庁を政府が支配できる体制である内務省、教育を通してこの国を歪め、国民を戦争に引き込んだ内務省の復活を堂々と提言しながら、戦後70年日本は世界平和に貢献し、これからも世界平和の為に・・・と言う言葉は二枚舌にしか聞こえない。

内務省の復活は安保問題以上に重大な問題なのだが、実は静かなところで何度も復活が試みられている。
我々は安保問題などと言うメジャーな問題に気を取られて片方で静かに進む戦争への足音を忘れてはならない。

今の日本は「貴様等の命の為に壕を掘れ」よりも「砲を守る為に壕を掘れ」に傾き始めている・・・。





「0と空白」

10進法の起源は人間の指の数に由来するとされ、それゆえ世界各国に古くから知られていたが、基本的にこれは言語に相当し、例えば日本語の平仮名を一つの単位として位置が上がっていく記述法を用いるなら50進法(この書き方は本当は間違っていて、正確には五十進法と書かねばならない)となり、現在でもフランスなどで残る20進法は、こうした言語の文字をセットにした記述法である。

ただし「0」の概念は世界的にはそれぞれ解釈が異なり、現在使われている「0」の概念はインドの概念だが、これが古代中国では「空」と言う表現が為されていて、日本でもつい最近まで使われていた「五十有余年」などの表現はこうした中国の「空」の概念を継承したものと言える。

すなわち中国春秋時代くらいまでに見られる数字の表現には、例えば53を五十有三と書き現し、この古い表記の仕方が「空」であったり一文字空けで、これらを統一する為に「○」が用いられるようになり、これに「零」と言う漢字が当てられたが、「零」と言う漢字の意味は雫(しずく)に近い。

零とは何かが僅かに残っているか、或いはこれから何かが始まる予感を想起させる漢字で、正確に言えば「0」の概念とは異なるが、反面その国家や国民が「0」をどう意識していたか、「0」に対してどのような思想を持っていたかが現れているとも言える。

本質的「0」の概念である「空」や無表記は遡れば中国「殷」の時代にまで及び、従ってこうした時代既に中国でも「0」の概念が必要とされていた事を物語っているが、人間の手の指は5本が左右に有り、この意味では人間の基本的な位取り記述法は「2・5進法」と言え、日本のソロバンなどはこうした状態に忠実な換算形式と考えられ、はじく部分が一玉分空けられている事をして「0」の概念と言えるのかも知れない。

唯、人間の指は5本と5本で実際に視覚的な10の数が概念されているのに対し、10進法で使われる数の種類は9つしかなく、この事を考えるなら10本の指の最後の1本は次の位に対する区切り、または準備に使われるようなところがある。

「零」と言う漢字が「無」ではない事の意味がこうした中から見えてくるような気がする・・・。

一方こうした10進法が自然の事象、例えば地球の回転や季節にどのように関っていくかを見てみると、例えば時間を計る時計は60進法だが、この中には10分と言う単位が有り、12時間と言う単位が存在する複合的な位置取り記述法になっている。

60と言う数字は2・3・4・5の最小公倍数であり、本質的には「円」や「周期」の概念から発展し易い。

古代バビロニアの60進法を見てみても、そこには既に内部10進法が形として成立していた事を考えるなら、彼等の時代既に自然の周期と人間の特性が融合をはかっていた事がうかがえるのである。

ちなみに時間の概念で、我々はどうしても過去から未来へ向かって時間が流れているように考え易いが、現実には時間はどの方向へ流れているかは解っていない。
過去から未来へ向かって流れている確率と未来から過去へ向かって流れている確率はそれぞれに3分の1であり、残りの3分の1は静止している確率である。

この時間の概念を自然の現象や周期に組み合わせる時、人類発生の早い段階から周期換算、円換算の概念が存在していた可能性は高く、円や周期は10進法では換算がしにくい。
そこで60進法の中に10進法が組み合わされて行ったのではないかと考えられている。

またこうした中で1週間を7日とする、この7の単位は位置取り記述法ではなく、分割方法と言え、これも古代バビロニアに始まりが有るが、365日を7で割ると52.142週となり、例えば1週間を6日とするならほぼ60週と言う事を考えるなら、敢えて7日とする必要はないように見える。

だがこれを月齢の29・5日に換算するなら12・3となり、ここで時間や季節とも関係が深い12と言う数字が出てくる。

1週間を7日とする形式が広まったのはバビロニアに捕囚されたユダヤ教徒達が解放された後、彼等の中でも7日を1週間とする形式が取り入れられ、これがキリスト教にも継承された為だが、古代バビロニアの1日の始まりは夜から始まる事を考えるなら、或いはこうした背景から7日と言う単位が発生したのかも知れない。

現在我々は朝日が昇る時を1日と考えているが、これはキリスト教の概念であり、バビロニアのみならず、古い時代には多くの地点で夜を1日の始まりとする概念が存在していた。

更に60進法を現す古代バビロニアの楔型文字は、10種類の文字が1セットになっているが、これらに5種類の付帯記述をして全体では59種の文字が形成されている。
つまりここでは10の単位を半位置取り記述法としながらも、1から10まで記述する形式が有る事で、10の単位は位置取り記述法(進法)ではない事が理解されている。

それゆえ59までの文字が在りながら、次の始まりである60の文字は表記されない訳である。

位置取り記述法(進法)は満了型、限界型の換算方式であり、次の段階にはその数の一番最初の数と「0」が割り当てられる。
その始まりと「0」、「無」や「零」が次の単位と言う考え方はとても興味深く、更に言うならこれは予めの数が概念されていて発生する方式と言う事ができる。

つまりは分数の概念が根底に潜み、予めの数と言う点では、その流れが確定されたものを計るものだと言え、無限に連続する数字の列を1単位とする数を位置取り記述法で追いかけるなら、その数字列の最後は必ず空白になり、ここでは「0」と「空白」「無」の概念は必ずしも同じではないような気がする・・・。

この暑さで少し頭が腐食してきたかも知れない・・・。
さて、草刈りに出かけるか・・・。




「母と子へ・・・」



新世紀エヴァンゲリオン 『残酷な天使のテーゼ 英語 Ver.』 full 歌詞付き・・・・・







追い詰められた鼠のように暗く儚い目をして、

苦く(にがく)歪んでいるだろう顔・・・。

君はそんな私を見て笑ってくれるか・・・。

そこまでの笑顔を私にくれるか・・・。



両手は裏切りと血でまみれ、

絶望と既に死んだ心しかない者に

そんなにも嬉しそうに手を差し出してくれるか・・・。



君の笑顔は余りにも眩し過ぎて、

余りにも罪から遠すぎて、

私の汚い手では抱く事が出来ない。

だから君はそのままお母さんの手に抱かれているが良い・・・。



君がいつか大人になった時、

私は既にこの世にいるかどうかも分からない。

私の事を憶えてもいないだろう・・・。

だが過去が今だった時、

君の笑顔を畏れ、有り難く思った者がいた、

そう、そんな時が存在した・・・。



ようこそ、この世界へ・・・。

君の誕生を祝福する・・・。







                                                                                                                         Old passion




「認証性決済」



少年時代・・・・・・

何か物を買った時、その代金の支払いは原則同時交換だが、取り引きの形態が安定し尚且つ相互に信用が発生すると、代金の決済に時間的幅が設定される状況が生まれて来る。

これは物を買った者、それを販売した者相互が決済の効率化を求め、その効率化に措ける時間的利益が一致するからであり、この場合の「信用」は個人だけではなく、その個人が所属する団体、会社などにも及ぶ。

2005年に「三菱UFJ」の子会社となったものの、1960年代、既に割賦販売の形態を開始していた日本信用販売株式会社、「日本信販」を創業者の「山田光成」から引き継いだ「山田洋二」は、「30歳、妻と子供がいるサラリーマンは金を貸せる信用がある」としたのは、こうした団体や会社から更に状況的信用と言うものを想起したからに他ならない。

だがこうした発想の本質は日本の歴史を鑑みるに極めて伝統的な思想であり、例えば江戸時代、どこかの大工の棟梁のところで働く事になり、そこから仕事用の法被(はっぴ)が支給されれば、その法被に染め付けてある家紋で米や酒などを「付け」で買う事が出来た。

大工の棟梁と言う組織が持つ信用で個人の信用が担保された訳だが、ここでの支払いは盆暮れと言う事が暗黙の了承事項となっていて、従ってお盆と大晦日は集金する者、それを支払う者が金の決済に措ける共通認識を持つのであり、この形態を認証性通知、認証性決済と言う。

信用が付与されると同時に、漠然としたもので有っても決済の形態が決まってくる仕組みで有って、結婚などもこうした認証性通知の一部を担保する。

1989年頃までの日本では男性が結婚すると、それだけで銀行の融資限度額が200万円引き上げられ、同額が女性にも適用された。
結婚と言う社会的信用が個人を200万円分担保したのだが、この場合に措ける結婚の概念は法的なものより慣習が優先される。

つまりは婚姻届が出されていても、それを社会が認識していない場合は適応されない形態で、融資する銀行が婚姻を証明する書類を求めたりはしない。
地域に噂話として伝わってるだけでも事は足り、融資担当者がその婚姻を知っているだけでも良かった。

この信用は婚姻と言う法的な信用ではなく、その婚姻を地域社会や親族が認めている、これを担保としている訳であり、こうした形態は物品交換を第一の決済とするなら、第二に通貨の決済が在り、第三の暫定決済として「信用」と言うものが成立していたと考えても良いくらいのものだった。

同様に認証性決済の一つの完成形態と呼ばれるものが、越中富山の「売薬」制度である。
年に2回ほど薬箱の薬の入れ替えと、その代金を集金する制度は販売と決済が時間経過を設けて同時決済される仕組みで、この形態は大変効率が良く、尚且つ集金業務案内の必要が無い。

その地域や村に、ふらっと売薬業者が現れれば事は狭い地域ですぐに噂になって伝達され、皆が金を用意して待っている状況を生むのであり、一般的に文書化された案内状などは大した関心が示されないが、誰かがヒソヒソと話している噂話が広がる速度は驚異的なスピードがある。

現代社会に措けるインターネット上の「口コミ」もこうしたものが原型なのだが、如何せん意図的な宣伝含みの噂話、いわゆる「やらせ」が多くては噂話としての迫力に欠ける。
噂話が信用に繋がるには「狭い地域」と言う限定された条件が必要なのであり、近隣住民のコミュニケーションの深さが無ければ全体としての信用は得られない。

そしてこの限定された狭い地域の信用とは、そこで暮らす個人が地域の慣習や道義を尊重する事で形成され、同じような形態が全国各地で存在して全体に措ける小さな社会の信用性が担保され、個人の信用が担保される。

だが一方こうした形態は、地域の慣習が法的整合性の事実上の上位に存在する形態である事から、地域慣習に従わなければ地域そのものからはじき出される事になり、これが「村八分」(むらはちぶ)と言う地域が個人に対して行う決定的な差別に繋がるケースが出てくる。

先頃栃木県の小さな行政区で発生した事件、ここではいじめを受けていた生徒の母親がそれを申告した為に、いじめを行っている子供の親からLINE上で差別を受け、相次いで2名の母親が自殺したと言われているが、同地域では未だに住民が口を閉ざして自主的緘口令(かんこうれい)に徹しているようだ。

これなどはまさに地域コミュニケーションの負の部分と言えるが、既にバブル経済の崩壊と共に地域が持つ信用が個人に分散されてしまっている今日、地域が個人に付与できる恩恵は皆無となっている。

逆にその地域を守ろうとする所から、個人が地域に対して行わなければならない負担が増加し、狭い地域は守ろうとする考え方発生した時点で完全崩壊していると言う事になる。

もはや「信用」と言う観点では、地域も中央政府も個人もあらゆるものが担保を失い、ネット社会では善良な者より詐欺が横行し、認証性決済など過去の哀愁となってしまった今日、正義など語るに虚しいが、それでも私達一人一人が自身の信じる正義を実践し、やがてそれが信用に繋がり、この信用が大きく広がって行かないと経済の再建は難しい。

「信用」は経済の基本中の基本なのである。




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Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

[このサイトは以下の分科通信欄の機能を包括しています]
「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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