「破綻への期待」



Believe・・・・・

市場経済に措ける「様子を見る」と言う表現は、概ね悪い方向が確定して行く、或いは悪い材料が決定的になる事を想定していて、良い方向に在る場合は基本的に「様子を見る」必要は無いのである。

アメリカ合衆国連邦準備制度「FRB」の第15代議長「Janet Yellen」(ジャネット・イエレン)は当初今期10月に予想されていた合衆国の超低金利政策の終了時期に付いて、もうしばらく現政策を継続する方針を示したが、この低金利政策の継続はアメリカ経済の建て直しが予想以上に遅れていると言うよりは「不安定要因」に対処したものと言う事が出来る。

第14代FRB議長「Ben S Bernanke」(ベン・バーナンキ)に拠って推進されたアメリカの金融緩和政策は大別すると資産買取、つまりは通貨量の発行ベースを増やす政策、そしてもう一つは超低金利政策の2つに拠って構成されていたが、こうした状態は自由競争が原則の合衆国経済に取って、現実に追われて理想や原則が侵食を受けたようないびつさを持っていた。

金を借りた方が儲かるなど自由競争経済には有ってはならない事だった。

資本が巨大資本と政府に集中し易い経済的な方向は早期に解消しなければならないものだったのだが、当初2013年の年末にもその終了スケジュールが発表され、その翌年2014年2月に議長が交代し、ジャネット・イエレン議長が金融緩和政策終了を決定するものと見られていた。

しかし確かに2013年年末から通貨発行量は縮小に向かったものの、それが終了したのは2014年の末の事だった。

合衆国の2つの金融緩和政策の内、量的緩和政策はスケジュールに基づき終了したが、一方の超低金利政策に付いては2014年5月、就任間もないジャネット・イエレン議長が議会で「柔軟に対応する」と言う表現をし、世界市場が今期10月には合衆国の金利は上昇に転じるものと予測していたが、これも外れてしまった。

この背景にはギリシャのデフォルト「債務不履行」やヨーロッパ経済の長期低迷などの要因も一つだが、そんな事は既に織り込み済みだったにも関わらず超低金利政策が延長され、加えて2013年末の段階で前FRB議長のベン・バーナンキは、合衆国の景気が回復しても必要に応じて量的緩和政策も行って行くとしているのは何故か。

実は合衆国政府は2009年の段階でフォルクスワーゲンの排出規制に関する不正が存在する可能性を把握していた。

これを決定的に発見したのは日本のフォルクスワーゲンの正規代理店であり、ここで発生してくる不具合は硫黄の蓄積だった事から、2013年の段階で明確に排出ガス規制数値の不正が疑われたのである。

ただ、ヨーロッパ経済の長期低迷を考えるなら、これを1国で牽引しているドイツ経済の基幹企業フォルクスワーゲンの追求は慎重に行わなければならない。

合衆国の雇用統計が好転に転じた時点で、フォルクスワーゲン車の排出規制不正が発覚してくる背景はここに有り、雇用統計だけが経済指標ではないとしたFRB議長の見解は、既に未来に起こる経済的不安をも織り込んだものだったのである。

また中国主導のアジア版IMF、通貨基金設立の構想はそう長い計画に基づいたものではなかった。
それゆえ合衆国がこうした情報を得る時期とフォルクスワーゲンの不正発表の時期が偶然被って来る事になるが、ここでFRBが下していく判断とは実にシビアなものだった。

ギリシャのデフォルトに加え、ヨーロッパ経済の低迷はフォルクスワーゲン社の不正に拠って決定的なものになるが、元々親戚とは言え商売敵のヨーロッパ経済など、これ以上破綻しようが現状維持だろうがそう大きな違いは無い。

しかしその貧しさが中国経済に期待し、合衆国主導の現在の経済システムが不安定化する事は避けたい為、合衆国はこの中国主導のアジア通貨基金の不参加を各国に要請するのである。

もはや行く先が見えないヨーロッパ経済は合衆国が懸念していた通り、破れた風船に絆創膏を貼って膨らましている中国経済に向かい、そして貧乏貴族と丼勘定の粗暴者が一緒になればどうなるか、結果は見えている。

合衆国連邦準備制度が見ている様子とは中国経済の破綻なのであり、それに伴って発生するヨーロッパ経済の更なる低迷安定状態、これらが引き起す現状秩序の混乱と経済的混乱は中国共産党が存在する限り避けられない。

拠って、合衆国もFRBも基本的には中国が経済的に破綻する時期を見ていると言う事なのであり、こうした傾向には2012年頃からヨーロッパ経済も合衆国経済も影の期待感を持っていた。

中国経済は魅力だが、相手が中国共産党ではどうにもならない。

そんな背景が在ったのだが、背に腹は代えられないヨーロッパは一発勝負の負け戦に突入して行った。
合衆国は状況からミニマックス法を選択して行く事になる。

ゲーム推論の一つだが、チェスや将棋では自分の失敗を最小限に抑え、相手の失敗をを最大限になるようにすれば勝負に勝てる。
しかしこの為には先を読まねばならず、この先を読むと言う事は情報なのであり、これらが究極的になれば僅かな1つのミスが勝敗を左右する。

動く事がミスにもなれば動かない事でもミスになって行く。

更に一手進めばその先は変化し、その度に最終局面まで手を読むとするなら、やがてこれらはパターン化し省略が可能になってくる。
これがα排除法とβ排除法であり、α排除は関心の薄いものの上限の複合、β排除は関心の高いものの上限複合を示し、日本は合衆国に取ってα排除に分類される。

つまりは安定した情報である事から、特に注意を払う必要のない情報と言う事になるが、中国に接近しつつあるヨーロッパ経済は悪い方向でのβ排除になりつつ有る。
ヨーロッパ経済は中国経済の影響と運命共同体になって行こうとしているのである。

ちなみにこのミニマックス法の対極にはマクシミン法と言うものが在る。
最小の効果を最大に生かす事を言うが、これは一つの判断や決断を意味し、例えば「様子を見る」と言うような動かない事ばかりを意味している訳ではない。

マクシミン法で言うところの最小の効果とは、失敗を最小限に食い止める事にも通じるものであり、β排除の中に在る日本が出来る事はマクシミン法と言う事になるが、元々ミニマックス法など全く考えた事もない日本政府には「偶然法」を期待するしか無いのかも知れない・・・・。




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「満面の笑顔の稲」



明日への扉 - I WiSH(川嶋あい)
去年の秋くらいからだろうか、少しずつ父親の言葉が少なくなってきていた。
特に朝、食事の支度をしている時など、私が全て作り終えるまで台所へは来ず、私が作り終えて台所から出て行くのを待って入ってきている様子だった。

「嗚呼・・・、手をとらせてしまうな・・・」
いつしか父は私の顔を見る度に、そんな事を言うようになってしまった。
また1ヶ月の内半分は寝込んでいる妻も「ありがとう、ありがとう」と言う言葉が多くなって来ていた。

それまでも忙しかったが昨年の秋以降仕事が更に忙しくなり、今年に入って取引がもう1ヶ箇所増えた時から私は完全に時間が無くなった状態だった。
夏には徹夜で仕事を仕上げ、翌日には農作業と言う状態が頻発し、家族のみならず近所の人の目からも「あれ(私)は大丈夫か?」と思われてしまうようになっていた。

またこうした状態から耕作している田もどこかで美しさを失い、倒伏や稗の生えている田も見えるようになっていた。
如何なる理由が有ろうとも荒れた者が作るものは、その荒み(すさみ)がどこかに出てしまう。

美しさとはある種の最短距離、水が流れるように、雨滴の角度のように、或いは風が為す木の葉の渦巻きのように、全く道を違えずにこの世の理に適ったものかも知れない。
だとしたらそこに美しさの欠けたものは、どこかでこの天の理から外れている事を思わずにはいられない。

更には病人を遠慮させてしまう私の忙しさとは何か、私の忙しさは私を痛めているのではなく病気の家族を痛めているとしたら、その忙しさに何を見ることができようか。

私は実は今年の初めから3・6haの水田耕作面積を6分の1に減らす為の準備をしてきていた。
美しさを失ってくる田と家族の状況に鑑み、しかも預かっている田を荒らさない方向で私以外の耕作者を探していたのだが、昨日やっと2名の耕作者との話が成立した。

1名は私より10歳年上、更にもう1名は70歳だが、2人とも大型の機械を導入していて人手もある事から、少なくともこれで私が作るよりは美しい田になるだろう。

2人には耕作し易い私が所有している田も譲って、彼らが残した端々の田を自分が作ると言う話に怪訝そうな顔をしたが、「この水の少ない地域であんたと米を作っていたら、いつか絶対あんたとは仲良く出来なくなるし、あんたも私とは仲良くは出来なくなる」と説明したら、黙って頷いていた。

この田畑は天や先祖からの預かりものゆえ、自分より美しくそれを作る事が出来る者が在れば劣る者は譲るのが天の理、最短距離である。
ここに自身の意地や感情を混じえる者はどこかで天に弓引く者のような気がしていた。

後もう少しで稲刈りが終わる。
この面積を耕作し稲を刈るのは今年が最後になるが、私はこれらの田のおかげで家族を養い自分もまた養う事ができた。

幼い頃から農業は大嫌いだったが、この田畑と父母、それにこの地に関わってきた村の者達こそが今日の私を私で有らしめているに違いない。

私は今最後の苦しみを楽しんでいる。

長雨でぬかるんだ田で泥だらけになって全面積の半分ほどは鎌で稲を刈らねばならぬ、この事をいとおしみながら、楽しみながら、有り難く思いながら稲を刈っている。
来年からこの田を作る人は私より高齢の人だが、今この瞬間を思うなら高齢で有ろうが無かろうが、そこへ行かねばならない。

遠い未来はまず明日を何とかしなければ在り様が無い。

いつか彼らが田を作れなくなった時、もしかしたら私が強大な力を蓄えて戻ってくるかも知れない、或いは私が先に病死するかも知れない。
それは分からないが、どちらにしても未来は今を何とかした者でなければ夢見る事が出来ない、そんな気がする。

来年から大幅に耕作面積の減る私は、今度はきっと美しい田を作る事が出来るかも知れない。
一度で良いから、まるで晴天が満面の笑顔になったような、そんな稲を作ってみたいものだ・・・。







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Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

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「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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