2016/07/25
「服従と反動」
宇多田ヒカル - 誰かの願いが叶うころ・・・・・
「personality」(パーソナリティ)、一般的には人格と言う概念が充当されるが、語源はギリシャ悲劇の「仮面」に由来し、ラテン語では「persona」(ペルソナ)と記された。
後年「役者」から「役割」、そして現代のような人間の特徴や行動的パターンなどを指すようになったものの、これの正確な概念は「形」である。
人間は同じ状況、同じ現実が出現しても、その反応には統一性が無い。
悲しい映画を観ても皆が涙するとは限らず、或る者は無表情、また或る者は笑うかも知れない。
だがその一方で、同じ個人が示す状況や現実に対する反応には一定の統一性が存在し、気楽な人はどの場面でも気楽に物事を考えるし、深刻な人はどこまで行っても深刻に物事を考える。
パーソナリティとは、このように個人が持つ行動的特徴が社会に措いてどのような役割を果たすかを、総合的に概念しようとするものだが、同様の言葉に「character」(性格)と言う表現が存在するものの、性格の概念は知能が除外され、善悪などの社会道徳的判断を指すものであり、この範囲を出てしまうものを正確に評価できない。
社会道徳的判断に拠ってマイナス、つまりは悪と見做されたものが、現実には存在しない完全客観性の概念に触れると、マイナスにならない場合も存在する為で、パーソナリティはこうした概念を包括する。
人格の形成は生物学的遺伝要因と、社会環境に拠るバイオプログラムに拠って形成されるが、動物などが持つ本能を基盤とする行動様式はリスクが高く、競争が激化するパターンを持つ為、人間は遺伝情報とバイオプログラムに拠ってパーソナリティを獲得し、一定の行動様式を身に着ける事に拠って、本能単体のリスクを回避し、自然界に適応する形を作ったのではないかと考えられている。
またこのパーソナリティ、人格の発展過程では「modeling」(モデリング)と言う過程が存在し、例えば言語を覚えるなどは、親や環境を模倣する事で自身の能力とする形が有り、モデリングには観察学習、反応促進効果、制止・脱制止効果などのパターンが有り、モデルを観察する事で無駄な動きや失敗を少なくしたり、或いは憧れたり尊敬する人と同じような意見、行動をするようになる、これも人格形成には欠かせない要因なのである。
更にこうしたパーソナリティの分岐形式には二通りの方向が有り、その一つは「compliance」(コンプライアンス)、もう一つは「reactance」(リアクタンス)と呼ばれるが、コンプライアンスは現代でこそ法的な意味で使われているが、この語源は「承諾」とか「従順」と言う意味で、1970年代まではどちらかと言えば医学用語だった。
つまりここでは医師や看護士と言った、患者にとっては絶対的な存在に対する「服従」の意味が在ったのであり、これに対して例えば同じ労働でも、強制されてやらなければならない労働と、自らが計画を立ててやる労働では、どうしても強制された労働には力が入らず、自分が進んでやる労働には力が入る。
或いは結婚を夢見たカップルが周囲の反対を受けた時、どこかではいやが上にも燃え上がってしまう場合が有るが、これらは自由と言う概念に拠る「反動」であり、自身の行動上の自由が阻害されたと感じるからである。
リアクタンスとはこのように、行動のみならず感情や思想、考え方など自身が絶対的な選択権を持っていると信じている事柄に対し、自由が脅かされたと感じたときに発生する回復の為のリアクションであり、脅威を受けている自由を取り戻そうとする場合、リアクタンスへの傾斜角度は大きくなる。
一方こうした自由に対する脅威の中にコンプライアンス(服従)や妥協が存在するが、この場合でもリアクタンスは大きく傾斜しながら、どこかでは自由を捨てて妥協したり、服従を容認しようと言う角度へも傾斜が始まる。
この意味に措いてコンプライアンスとリアクタンスは同じものと言う事が出来るかも知れない。
人間の服従がなぜ発生するのか、このメカニズムは詳しくは解っていないが、コンプライアンスのメカニズムにはリアクタンスが大きく働いていることは確かなようで、もう一つ考えられる要因は社会である可能性が高い。
おそらく個人の単位から始まるのだろうが、社会に絶望感や閉塞感、虚脱感が蔓延すると、これに拠って影響を受けた環境の中に個人が存在する事になり、ここでは予めコンプライアンスが優位に立っている事から、リアクタンスはマイナス方向に傾斜し易くなる。
つまり予めすべて妥協の方向にしか動かないのであり、この傾向は俗に言う不景気の時にはコンプライアンスに個人が傾き、好景気の時にはリアクタンスに個人が傾く傾向を見ても理解できるかのかも知れない。
そしてコンプライアンスとリアクタンスは同じものだから、こうしてコンプライアンス(服従)が蔓延すると、どこかではリアクタンスが暴走を始める部分が否定できない。
社会的には水を打ったように平板な状態に在りながら、インターネット端末での個人の発言は年々過激さを増してきているように感じる。
コンプライアンスもリアクタンスも人間に取っては必要不可欠なものだが、これがどちらかに傾くと、一緒にもう一つも傾き、そして奈落の底に落ちていく、或いは二つとも淀んで腐って行くような、今の社会がそんな状態に有るような気がする。
もしかしたらコンプライアンスもリアクタンスも、その発生源は「不安」、つまり「未来」の概念に起因しているのかも知れない・・・・。