「家は人が住んでなんぼのもの・・・」



Christina Aguilera - Hurt・・・・

理想と現実の狭間で理想を捨てきれなかったと言うか、どうしても人間の情に逆らえなかった私が、勤めていた会社を辞めたのは20代の中ほどの事だったが、そうして悶々としていた時、知人の知人と言う関係の人から、住宅販売会社の展示家屋の案内要員をやらないかと言う話が持ち込まれた。

三連休の期間だけの仕事だったが、それでも山の中でくすぶっているよりはマシだろうと二つ返事だった私は、こうして住宅販売会社のエセ社員をやる事になった。

そして当日、くだんの会社に出向いてみると私以外にもう一人、私と年の近い女性がいて、展示場で客から「夫婦ですか」と聞かれたら否定するなと言われ、2人で展示家屋の中で客の案内をする事になったが、初めは誰も来なくて暇を持て余し、彼女と喋っていたら、彼女もまたこの期間だけのアルバイトと言う事が分かり、一瞬2人のアマチュアで大丈夫なんだろうかと不安になったものだった。

しかし、やがて展示場には多くの客が訪れ、それに必死になって対応していた私達の前に、午後になって現れたその会社の販売主任は私たちを見てこう言ったものだった。

「お~、お前等ちゃんと仕事している顔になったな」

その言葉に思わず隣にいた女性の顔を見ると、今朝まで少し自信なさそうに見えた彼女が、どこかで輝いているように見えた。
多分、私もそうだっただろう。

「でも、なぜ本物の夫婦でもない私たちが夫婦で大丈夫なんでしょうか・・・」

私はニヤニヤ笑っている主任に今朝から引っかかっていた疑問を尋ねた。

「馬鹿だな、本物の夫婦じゃないから良いんじゃないか・・・」
「本物の夫婦だと距離感が近くて、そこを客は嫉妬する、だがお前等は全く知らない者同士で、互いのそれぞれを気遣う、これが客には嫌味にならなくて適度な幸福感に見えんだ」

「それにお前等のそれぞれの事情は聞いて知っている」
「お前等ならきっと何も説明できなくても家は売れると思ってたんだ」
「でも、まあ、本当の理由は面倒だからかな・・・、客に夫婦ではない事を説明させる時間が勿体無いし、いえ違いますと言えば何となく壁ができるだろう」
「それに、お前等イイ感じじゃないか、いっその事結婚してうちの会社で働いたらどうだ、新居は安くしておくぞ」

主任はそう言って相変わらずどこからどこまでが本心で、どこからが営業か分からないニヤニヤ笑いをしていた。
でもこの主任の本当の凄さ、会社で販売成績ナンバー1の実力を知ったのは次の日だった。

実は私たちエセ夫婦は連休2日目の段階で、4組の家族を相談申し込みに持ち込み、その内ボルボに乗った医者の娘と若い夫婦からは申し込みの署名を取り付けていた。

だが、残りの2組は私たちだけでは返事ができず、翌日に主任の対応を待つしかなかったのだが、一組は自動車販売会社の社員家族で、美男美女の夫婦、それに小学生と中学生の子供がいる家族、そしてもう一組は母親と娘で、今にも契約したいと言われたのだが、これは私が保留した。
父親が存在しながら、その姿が見えなかったからである。

連休2日目、昨日の間に連絡しておいた事も有って、主任は私たちと一緒に展示場の案内をしながら、これら4組の家族を待っていた。
この間にもどんどん見込み客は増えて行くが、それに私たちエセ夫婦が対応し、主任はやがてやってきたこれら4組の申し込み希望家族と、詰めの話をしていた。

3連休の期間中私たちアルバイト夫婦が受け付けた申し込みは13件、その内実際に契約前段階にまで至った案件は6組だった。
だが、何故かこの中に自動車販売会社の社員家族が入っていなかった事から、私は最終日が終わった夕方、主任にその事を尋ねた。

善良そうで身なりもしっかりしていて、話も実にそつが無く、綺麗な奥さんと可愛い子供の、本当に幸福そうな家族だったが、この家族の申し込みは主任が断っていた。
その理由が知りたかった。
私としては断るのは資金計画が難しそうな母親と娘の家族の方だと思っていたからである。

「お前があの2組を保留したのは中々するどい」
「しかしあの自動車屋の営業は値引きを持ちかけ、それにこれから車でも付き合いをして欲しいと言ってきた」
「こんな住宅販売の利益など1千万に対して百万くらいしかない、1棟契約して車を買っていたら利益など吹っ飛んでしまう」
「それにあの男は同じ条件で他の住宅会社へも行っているだろうし、多分女房以外に女もいるだろうな・・・」

「夫婦の距離感はお前等とそう変わらない」
「あんなに幸せそうにしていてもですか・・・。
「ああ、見かけが幸せすぎる、お前等が傍から見たら幸せそうに見えるのと同じだ」
「お前等は結婚していないから分からんかも知らんが、本物の夫婦はいつも幸せそうにはできない」
「特にこうした家などと言う大きな買い物では全て笑って終わる事など絶対無いんだ」

「ではあの母親と娘の話はどうして申し込みにしたんですか・・・」
「あの母親と娘は両方とも看護婦だ、だからローンは簡単に組める」
「ただ、問題は親父(おやじ)だ」
「失業中で女房と娘に頭が上がらない、でもそれでも一家の親父だ、ここに話を通さないで契約はできない」
「ホテルの従業員だが仕事を紹介した」
「えー、そんな事までするんですか・・・」

主任の話に私の隣で缶コーヒーを飲んでいた女性が驚いたように声をあげた。

「ああ、俺達は家さへ売れればどうでもいいんだが、それから後その家族が壊れて誰も住まなくなったり、競売にかけられるんではこの小さな町では飯を食っていくことができない」
「家は人が住んで何ぼのもんだからな・・・」

アルバイト最終日の夕方、私たち3人はこうして缶コーヒーを飲んで、それぞれの家に帰った。
それから1週間くらい後、私のところへは東京に本社がある大手商社の部長から誘いがかかり、このとき私は真っ先にくだんの主任に電話で相談した。

「おまえ、こんな田舎で一生終わるつもりか、・・・」が、彼の言葉だった。

今でも時々、このアルバイト最終日の夕方、展示家屋の畳の間で、3人で缶コーヒーを飲んだ時の事を鮮明に思い出す事が有る。
そして「家は人が住んでなんぼのもんだからな・・・」と言う主任の言葉は、どこかでその後の私を決定的に変えたような気がする。

50km以上も離れた町の事だったので、主任とは電話で相談したのが最後になってしまったが、存命なら70歳を超えているだろうか・・・。

「こんな田舎で終わるつもりか・・・」はもしかしたら体裁の良い断りだったかも知れない、そう言う怪しさを兼ね備えた人だったが、同時に「お前はこんなところで終わる男ではないぞ」と言ってくれていると信じさせてくれる人でも有った。

そして私は後者を今も信じている、主任と言う人はそう言う人だと、私が信じているのだ・・・・。
会いたい気もするが、まだどこかで胸を張って彼に会うことができない自分が存在する。

その事がもどかしい・・・・。





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「資本主義の収束」



Pitbull - Feel This Moment ft. Christina Aguilera・・・・


資本主義の概念的確立は、キリスト教カソリックに対するプロテスタントの出現に拠るものと考えられているが、資本主義の概念はプロテスタント概念より簡潔明瞭にして汎用性と広さがある。

この事から資本主義は人間が持つ社会的バイオプログラムの伝統的なもの、「本能」と考え得べき部分があり、経済はもとより人間の思想、政治や社会の秩序と混沌の循環に符号して行く事になるのかも知れない。

資本主義的拡大には生物生存の基本原則である弱肉強食、確定的階層構造が存在し、生物ピラミッドに見られる予め存在する理不尽に同じ原則を持っている。
生物界での生存優劣は固体が発生する以前から既に決定していて、この優劣は人間社会が持つ正当性や思想の適応外にある。

しかし人類はその社会と言う範囲の中に措いて、本来は人間社会の原則を超える「本能」と社会が持つ整合性、思想や道徳、或いは利益に対する整合性などを融合しようとしながら文明を築いて来た。
その為、この本来は大きくてて広いものを、小さくて狭い者が支配したかの様な形は循環性を持って崩壊して行く事になり、この崩壊はそれまでを維持しようとすれば更に壊れ、壊そうと思えば復活する。

人間の生体プログラムは生存に関する事項を第一に置いているが、基本生存能力、食欲や性欲だけでは生存できるとは限らない。
これらが存在しても、例えば人を殺せば死刑になると言う法が存在した場合、ここから発生する同属の殺傷に関する薄い思想、殺傷禁忌の社会背景がプログラムされる事によって生存の可能性を広げる。

同じように社会が飽和状態になると男女の概念が歪み、ここからバイオプログラムに拠って薄く広く出生は全体的本能の制御を受ける。
こうしたバイオプログラムの中でも食欲を基本に持つ資本主義の思想は、基本生体プログラムにコードで繋がれた生後プログラムと言う事ができる。

つまり生きて行く事イコール「金」と言う状況が発生してきた時から、人間社会は本能との間に葛藤を生じせしめたのであり、この歴史は古く、食や生存と「金」がほぼ重なった頃からの生後プログラム故に、もはや食欲などの一次本能と同等の本能になってきているのである。

だが、生物の本能は基本的に制限が無い。
モラルも道徳も思想もそこには入り込むことはできないが、こうしたものと繋がっている生後プログラムである資本主義は、思想や政治、経済構造、モラルにも繋がっていて、この事から資本主義が拡張して暮らしが豊かになると、一次欲求は瞬間的に爆発状態になるが、やがてこれが限界まで達すると収束に向かう。

これは生体維持の為のコントロールなのだが、これに連動していた資本主義は欲求の制御こそが消費の制御である事から、同じように収束しようとし始め、それは社会的な「不景気」と言う形を発生させ、本来は自然な流れなのだが、経済の収縮イコール「悪」と言う人間界の思想は「金」イコール「生存」と言うバイオプログラムに拠って肯定され、なおこの「生存」に拠って煽られる。

ここに「何とかして経済的停滞を打破しなければ・・・」と言う焦りが発生してくる訳だが、これを制御しているものは「もう止めておかないと死ぬぞ」と言う生体制御であり、これを無視して資本主義を拡大させようとすれば、いつか伸びきったゴム紐は耐え切れなくなって収縮する。

この場合の打開策は資本主義を原理主義化した形に戻す、つまり基本本能に近い厳格な資本主義に戻す事が大切なのだが、ここで従来の秩序を維持しようとすれば例外を増やし、「仕方ないじゃないか」と言う事で資本主義を拡大解釈し続け、更に秩序を失い、最後は壊滅的な打撃を被る事になる。

反対に現状を壊そうとすれば困窮が訪れ、ここから人間の考え方は本能に近くなり、資本主義は厳格化する。
現状を維持しようとすれば壊れ、壊そうと思えば原始的な資本主義が復活してくるのである。

更に面白いのは資本主義が行き詰って行った時に発生してくる経済傾向が金融緩和政策であり、この政策の前にはデフレーションが存在する事から、インフレーションこそが資本主義で、これの行き詰まりがデフレーションと言う事もでき、デフレーションの時、マイナス金利や金融緩和政策時の社会は社会主義や共産主義の傾向を持つ。

基本的に社会主義は本能に対する「思想」であり、これは生物世界の原則と離反する。
しかし資本主義の行き詰まりの延命策が共産主義と言う側面を持ち、乱暴な解釈ではあるが、この意味では共産主義は資本主義の一部と言うことも可能なのである。
つまり本能を維持したりリセットする役割が本能と対比関係に在る「思想」と言う側面を持っている訳である。

北挑戦やフィリピンの大統領、アメリカ合衆国のトランプ候補などは、まさにこうした資本主義の厳格化への方向なのであり、東京都の築地市場(いちば)移転問題などで見られる東京都の一連の流れなどは「仕方ないじゃないか」と言う、崩壊を恐れた秩序維持行動による破綻と言える。

ただし、従来の秩序を維持しようとする事、また壊そうとする事は結果的に同義であり、どちらも表裏の関係に在って、その本質は秩序に対する混沌と言う事ができる。

我々人間は多くの事を自身らの知恵、理性によって成就せしめているように思うかも知れないが、その現実はどこか遠くにある粗野な、しかし動かし難い原理や、まるで心など入り込む余地の無い「無」に拠って支配されているのかも知れない。

しかし、そうした事で有っても日々の努力を怠って良いものではなく、生きる為に金が必要だったら働け、働いて金を得て生きられるなら、それもまた神のご意思であると宗教改革後のキリスト教でも示されている訳であり、確かに、これは現代資本主義の出発点だ・・・。

さて、今日は「A-ha」のヒット曲「Take on me」のDanceable versionにchristinaのmelodiousな歌声を乗せて聞きながらお別れにしよう・・・Desejo boa sorte.





「チョコレートを拾う」



will.i.am - Scream & Shout ft. Britney Spears・・・・

「己を求める者はやってきて、己が求めるものへは行く」

チョコレートの粒と画鋲(がびょう)が混じった状態で雨のように降ってくるとして、ここでチョコレートの粒を拾おうとしたら、画鋲の粒にも体が晒される事になり、では傘を差せばどうなるかと言えば、チョコレートの粒も傘にはじかれてしまう。

現在の情報社会に措ける人間と情報の関係は、まさにチョコレートと画鋲の粒が混じった雨の中を歩いているようなものだが、このチョコレートの粒と画鋲の粒の混合比は1対99で、画鋲の方が圧倒的に多い。
つまり我々は必要のない情報の中で、自身が必要する僅かな情報を求めて歩き続けている事になる。

だがどうして必要のない情報が画鋲になるかと言えば、それには潜在的危機が潜んでいるからであり、この潜在的危機は時間の無駄から始まって、他者の事情に巻き込まれる、金銭的不利益を被る、搾取されるの順位で存在し、最終的には命の危機にまで連続している。

「浮遊する情報」と言うのは不特定多数の中からカモを探すに似たりの情報で、例えばインターネットの情報の殆どがこれに相当し、「相討ち情報」、これはコマーシャル情報だが、客と言う、相手に少しだけ利益を提供して自分の利益を得ようとする情報を指し、なぜ「相討ち情報」かと言えば、自身が何がしか相手に対して提供すべきものが存在するからであり、この意味では自分の体の20%を切らせ、相手の40%を得る相討ちに同じだからである。

ただし、こうした相討ち情報も程度が存在し、現在行われているコマーシャル情報の殆どは資本だけで測るなら情報提供者とそれを受け取る個人では圧倒的な差が有り、視覚的に言うなら個人はゴジラの表皮に斬り付けているようなものかも知れない。

それゆえ情報提供者は殆ど自身が傷む事無く、客と言う相手のみが傷む、金銭を支払うと言う事になる訳であり、情報提供者が全く利益を得ず、客と言う個人のみが利益を得るように見える情報は狂気か犯罪、或いは他の所から利益を得ていて、その情報からは利益を得る必要がない「宗教」や「政治」と言う事になる。

また現在の情報は、自身が必要する情報を得ようとすれば、その見返りに自身の情報を提供するケースが多くなり、こうした背景から個人の情報も利益となり易い。
例えば若い女性の情報などは結婚相談所からストーカーまでもが必要とし、端末、ストーカーなどでは、もしかしたらその情報に対して金に糸目を付けないかも知れず、この場合は命まで提供しなければならない事態が潜んでる。

情報の多くが一見安全そうに見えながら画鋲だと言うのはこうした意味であり、この画鋲を避ける為には、できるだけ出歩かない、つまりは他者との接触や関係の深さを極力避ける必要が出てくる。

コミュニケーションが既に個人の有益性を超えて不利益性に転じた社会になっている現実は、コミュニケーションの制限が必要になってきている事であり、以前は人脈などはとても重要な個人の社会や経済に対するツールとなっていたが、現在ではこちらがツールにされてしまう可能性の方が高くなってしまっている。

それゆえ、この情報社会では物や環境、人も整理する必要が出てくる。
自分が求めていないもの、向こうから来る者はほぼ確実に自身が不利益を被り、こちらの利益になるものは向こうからは絶対に来ない。
自身の利益になる事は自分から出て行かなければ得る事はできない。

これを利益を得ようとする相手に当てはめるなら、相手の利益は自身の不利益になり、自身の利益は相手の不利益の原則は同じで、この意味ではこちらへやってくるものは全て程度の差は有っても不利益になる訳だが、相手が消極的に勧める事にはこちらの利があり、積極的に勧めるものは相手に利があると言う事でもある。

100個の中でたった1個しかないチョコレートを求める時、傘を排除しては自身が多くの画鋲に当たらねばならず、ではどうするかと言えば、傘を差しながら落ちているチョコレートを拾いに行かねばならない。

当然地面に落ちている画鋲を踏んで行く事になるが、そのチョコレートが自身の足の傷を超えて必要なものか、或いは傷に劣るものかの判断は個人に拠って異なる。
そして画鋲を踏んでもチョコレートを拾いに行く者は、閉ざされた戸を蹴破ってでも自身を訪れるものであり、ここには利益を超えた何かが存在するものと思わねばならない。

その者には会う必要が有ると言う事だが、近年こうして戸を蹴破ってでも会いたい者、また自分の家の戸を蹴破ってでもやってくる「熱い思い」はめっきり少なくなった。
いや、皆無になった。

元々必要のないものは人間関係を含めて拡大よりも縮小、関係はできるだけ深めない方針の私の時代がやってきたのだが、いざこうした時代になってみると、血相を変えて「これはどうやれば良いんですか」と言って飛び込んでくる奴が懐かしい気もする。

これからの社会は物を持つ事、多くのコミュニケーションがリスクになって行くが、この中でどれだけの事をリスクから反転させて行けるかが自分の力と言う事になるだろう・・・。

人の世に完全な利益も存在しないが、完全な不利益もまた在り様のないものと、私は信じている・・・・。



「財政ファイナンスと国家破綻」



Jessie J - Price Tag ft. B.o.B・・・・・

1914年に勃発した第一次世界大戦、これに拠って実質参戦国家ではなかった日本は、ヨーロッパへ物資を提供する形で輸出が異様な上昇傾向となり、日本経済は戦争と言う一時的な人類の災害に頼った膨張を始める。

しかし1918年、第一次世界大戦が終わり、翌年1919年からは急激に拡大した経済と生産体制が市場原理の需要と供給のバランスから、厭が上にも急激な縮小へと向かわざるを得なくなり、これに拠って最初は主力輸出品目だった絹織物がデフレーションを起こし、この時の輸出額は最盛時の60%までにまで落ち込み、これが日本経済をデフレーションに引きずり込んで行った。

戦争と言う一時的な状況、これはある種の麻薬のようなもので、それが一時的なものである事を知りながらも、人間はこれを使い始めるとそれがずっと続くものとして未来を考えてしまう。
その結果が状況を見誤らせ、坂道を転げ落ちるのである。

第一次世界大戦終結後に始まった日本の生産過剰、デフレーションは一向に改善する傾向が見られず、先も見えなかった1923年、日本は「関東大震災」に被災する。
震災復興の為、海外から大量の物資を購入した日本は海外債務が超過状態になり、これに対応する為に色んな名目で公債を発行し取り繕った結果、今度はインフレーション状態になる。

一方第一次世界大戦で戦争と言う一点集中経済に陥っていたヨーロッパ各国は、大戦中に膨れ上がった金融経済が自然発生的に整理統合され、大戦終結後は「金本位制」に移行して経済を正常化させていたが、震災で公債の発行が倍増していた日本は、急激な企業の整理統合を恐れ、為に国際相場で日本の「円」は下落、これに対して日本は「金貨」を海外へ補填して「円相場」を支えるものの、通貨が安定すると復活してくるものはデフレーションと不景気だった。

また震災の復興と急激な金融経済の整理統合は平行して行えない。

海外が金本位制に移行する中、日本は政策インフレによる物価のつり上げでどうにかしのいでいたが、やがて震災復興の一環として、発生している手形の決済不能状態を救済しようと、震災で決済できなくなった手形を日本銀行が引き取り、これを政府が保証すると言う、「震災復興手形」の制度は震災から2年後の1925年9月までに完了する予定だったが、一向に整理は終わらなかった。

この救済措置は震災を名目にしていたが、実質は慢性的な不景気に襲われていた経済界の救済を目的としていた為で、その結果震災復興手形の多くは震災には全く関係の無い手形だったからであり、これに対して政府は震災復興手形の制度を2年延長し、日本銀行への補償額を1億円上積みする為の審議をしていた。

そのおり、当時の大蔵大臣が現実とは異なる銀行の取り付け騒ぎを口走り、ここから日本は一挙に金融恐慌へと突入する。

緊急勅令を否決された若槻(わかつき)首相は内閣を投げ出し、田中義一(たなかぎいち)が次の総裁に就任し、田中は財務界の重鎮「高橋是清」を引っ張り出してくる。

高橋は緊急勅令を出させて3週間のモラトリアム(債務猶予)を行い、この間に日本銀行から22億円と言う巨額の貸し出しを行って経済を支える一方、先の金融恐慌で経営難に陥っていた銀行の救済策として、日本銀行の融資5億円までを政府保証とした。

高橋は良く名蔵相と言われる・・・。
確かに彼の政策は実に的確で、しかも現状打破と言う点では突出したものだった。
しかしこれは彼が2・26事件以降も生きていればと言う条件が付くものではなかったと私は思う。

高橋が行った救済制度は「財政ファイナンス」、今流行の言葉で言うなら「ヘリコプターマネー」である。
政府が好きなだけ紙幣を印刷して、都合の良いように金を使って、それで国民には税制と言う「正さ」を求める事には大きな矛盾が付きまとい、震災復興手形の終了期間も当初は2年だったが、それが更に2年延長されても日本経済は立ち直らなかった。

そこで最後の手段として国内の膨らんだ金融界を整理統合して緊縮財政に戻し遅ればせながら金本位制と言う正常化を目指すが、これの根拠となるものがアメリカ経済の復活だった。

しかし既にその時アメリカでは世界大恐慌の足音が聞こえていた。
5・15事件、2・26事件を経て日本は全てが軍の影響を受けるに至り、ここに高橋是清以前から決められていた「財政ファイナンス」の終結点は水平線の彼方になってしまったのであり、その結果がどうなったかは太平洋戦争とそれ以降の歴史の通りである。

人間は常に清く正しくは生きられない。
それゆえ時には人を慮る(おもんばかる)が故に嘘を付いたり、一時的に不正な状態に陥る場合の有る事を責めることはできない。

しかし、それには期限が必要で、これをいつまでも先延ばしにしていると、やがてはその不正が正常になり、一度打った麻薬から抜け出せずに破綻するまで行ってしまう。

安部総理と日本銀行の黒田総裁が現在行っているものは、まさにこの戦前の日本政府と同じであり、アメリカの経済回復に左右される状態も全く同じだ。

アメリカの連邦準備制度理事会「FRB」の前議長「ベン・バーナンキ」はアメリカの金融緩和は期間が有る事を条件にしていた。

そして金融緩和の終結は自身が議長の座を退く時と言う話をしていたが、イエレン議長が就任してもう2年目、あの財務の正当性に対して最も厳しい国であるアメリカをしても、未だに金融緩和から抜け出せない事実をどう評価する。

我々はデフレーションやインフレを金融や通貨でコントロールできていると勘違いしているのではないか・・・。

戦前でも第一次世界大戦と言う災いに拠って世界経済は沈み、この影響下に無かった日本は膨れ上がったが、戦争が終われば世界経済は復活して生産が始まり、日本の経済は生産過剰(デフレーション)になり、関東大震災で今度はインフレーションになる。

そして世界経済の躍進が止まった1980年、原油価格が下落してオイルマネーが行き先を求めて日本へやって来る。
日本は空前の好景気となって安い国内生産品を、生産が停滞した世界に売りまくった。
やがて東西冷戦後の混乱が整理されてきた世界経済は生産を回復し始め、日本は生産過剰「デフレーション」に陥った。
こうした流れはどこか一国の金融政策や通貨操作で何とかなったと本当に思えるだろうか・・・。

アベノミクスは物価上昇目的2%が未だに達成できていないばかりか、その期限さへ既に水平線の彼方なのではないか・・・。
国民には税と言う負担、正常さを強いて、自分は好きなだけ紙幣を印刷して責任を逃れ、その曖昧さから片方で金利はマイナスになりながら、証券会社ではおいしい取引になっているのではないか。

「トヨタ」初め大手企業優遇政策に拠って発生して来ることは「絹貿易」偏重と同じような脆弱貿易を生み、また金本位制が良いとは思わないが、財閥資本の拡大を許し、この財閥に配慮したが故に金本位制への移行が遅れ、世界恐慌の波を2重に被ってしまった事と、マイナス金利国債の反動で発生する政策の正常化に拠る地方銀行整理の危険性は同じ事なのではないか・・・。

昭和38年5月20日、第13刷となった「日本の歴史」第12巻、「世界と日本」の中で「豊田武」「和歌森太郎」は第一次世界大戦から太平洋戦争直前までの日本経済の在り様に付いてこのように執筆している。

「以上のような一連の流れは、初めから救われない道に通じるものだった・・・」



「政策比較税制」



「海の声」 フルver. / 浦島太郎(桐谷健太) 【公式】・・・・

過去の全世界的歴史に鑑み、国家が自発衰退、或いは旧来のシステムが崩壊する周期(revolution・革命)の前段階で必ず発生するものの一つに、税制の複雑化と名目の増加に拠る増税があるが、これが更に突き進んで崩壊寸前になると税制そのものが動かせなくなり、制度の運用を動かして税収を上げる方法を適用する動きが出てくる。

この方式だと名目上の税制を動かさずに制度改正と言う形で、実質増税とする事ができるが、例えば現在自民党政調会長の言う「配偶者控除」を見直して「夫婦控除」を新設する案などは、税制の複雑化と微弱な増税を意図したものだが、こうした事務的煩雑税制改革は国民には分かりにくく、増税なのか減税になるのかが理解できなくなる。

まさに財務省や税務のエキスパートが考えたカメレオン税制で、自民党政調会長くらいの頭脳では到底考え付かない方式なのだが、これの実質効果は迂回増税になり、こうした税制の背後に有るのは「少子高齢化対策」と言う事になる。

しかもこの少子高齢化対策は服を着せずに極寒の地へ放り出すような危ういものだ。

自民党会議の中では「夫婦控除」と共に、独身者への増税が検討されているが、現在でも独身の若年層の貧困が叫ばれる中、「夫婦控除」が実施されれば、もしそれ以降経済が落ち込んだ場合、独身の若年層は事実上比較増税状態に落ち込み、これに課税した場合は二重に税制の圧力がかかる事になる。

男女の婚姻は生活の安定と未来に対する希望、未来の設計図が描けることを要貞とする。
この為少子高齢化対策の最も大きな基盤は独身若年層の経済的豊かさの創出にあるが、現行の日本政府の政策はその間逆、高齢者対策に向いている。

この為原行でも不利な独身若年層、労働層は、婚姻していない事が社会的害悪であるかの様な漠然とした差別と圧力を受ける事になり、この点で税制に拠る漠然とした基本的人権の侵害が発生する恐れがあり、税制が少しばかり優遇されたからと言って婚姻は促進されない。

150万円の車を買うなら10万円値引きしますと言われ、でも手元には100万円の現金しかなく、これから先に会社をリストラされる恐れがある場合、150万円の車を買う決断は10万円の値引きに拠って為されない。
この場合の決断の条件は会社をリストラされないと言うある程度の確証がないと、初めから難しい。

またこれを無理して足りない40万円をローンで契約した場合、このローンに拠って生活が追い込まれ、やがて買った車は手放さなければならなくなる公算が強い。

独身男女が税制に拠って婚姻を検討するのは国民生活が平均して豊かな状態には効果が発生するが、既に高齢「富」、若年「貧」の状態に若年層、独身層を追い込むと、若年独身層は更に殻の中に閉じこもって自己防衛するしか手段が無くなり、ここでは夫婦控除や独身者課税に拠って男女の出会いの機会は大幅な制限を受け、結果として少子高齢化が促進される可能性が高くなる。

消費税は上げなかったとしても、他の税制を減税に見せかけて増税して国家財政の健全化は不可能であり、一定の立場の者を追い込む税制に拠ってその立場の者を少なくしようとした場合、周囲の環境の整備、つまりは根本的な経済の建て直しと税制の建て直しがないと、逆に少なくしようと考えた立場の者を深さに追い込み、無理にその立場を修正させても、後にその修正した者は破綻する。

この為国家の方針を促進しようとして、限界まで来ている民衆を税制に拠って導こうとする政策は既存も、これから先の未来も破壊する効果しか生じせしめない。
日本の税制とその制度改革の在り様を見ていると、どうも財政破綻は避けられない様相を呈している。

いつ、如何なる時代でも国家財政の再建方法は1つしかない。
税を少なくして役人を減らし、倹約に努める以外に道は無い。
どこかの立場に在る者を虐げ、或いは見せしめにするような税制では、その国は間違いなく滅びる。



「侵入型重複人称」



【ひぐらし】Dear you-hope-・・・・

我々の日々の行動は全て自分の意思決定に拠って為されているように見えるが、例えば仕事で人と面会しなければならない場合、そこには相手の都合と言うもう一つの意思が働き、友人との約束、恋人との約束もその共通の約束に拠って自身の行動決定要因が成立している。

またブログで文章や写真を掲載するにしても、それが例え自身の記録だったとしても、公開している場合はどこかで予め「他者」を期待している事になり、この他者に対する期待と言う影響は特定の1人称ではないが、不特定多数の反響と言う他者の意思を動機の一部にしている。

このように考えて行くと、我々人間社会に暮らしている者に取っての完全な1人称は成立が難しい。
全てどこかで他者の人称が加えられ、しかもそれを他者の人称と意識すらせず1人称と自覚している「重複人称」が多いのである。

だが、仕事の相手と言う対象がある場合、或いは恋人や友人、また不特定多数で有っても漠然とでも対象が意識できるものは形としての見え方が存在するが、世の中にはこうした形が見えない人称、予め人称が付帯しながら、それを1人称と錯誤させているものも多く、これらの重複人称を「侵入型重複人称」と私は呼んでいる。

原始的なところでは、スーパーやコンビニエンスストアーなどで、清算レジ付近にさりげなく並んでいる商品が有るが、清算する時の僅かな時間で「ついでに1つ・・・」と思わせるものが置いてあり、どうしようかなと思っている間にもレジの清算が終わりに近づくと、思わず最後に追加してしまうケースが多くなる。

これなどは自分の意思で選択したものだが、その選択の一部分を手助けしているものがスーパーやコンビニエンスストアーの主宰者の、1個でも多く売れて欲しいと言う他者人称が予め存在して成立する。

そしてこれが更に巧妙になるとアドバイザーやマヌカン、コンシュルジュと言った、自分の側に立っているような顔をした他者の意思を持つ人称へと進化し、ここでは如何にも自分の為と言う形を取りながら、最大でも自身と相手の利害一致点、悪ければ相手主導の人称に持ち込まれるのであり、これが利害関係に無ければ、他者人称に拠って自分と言う1人称を錯誤している事にまで及ぶ。

コーディネーターのアドバイスなどはコーディネーター自身が生産者ではないから、どれを選択するかは「専門知識」と錯誤され易いが、これも社会と言う漠然とした他者人称の影響が避けられず、またもしかしたらコーディネーターの好みも含まれているかも知れない。

コーディネートされたものは、専門家の意見を聞いて自身が判断したと思うかも知れないが、それは自身の選択ではなく、予めコーディネーターと言う他者人称が重複されているのであり、それが自身には気付かれないようにデコレートされているだけなのである。

更にこれが画像や映像に至ると、コマーシャルならまだしも流行の服を着ているアイドルなどは、この時点でメーカーや服飾デザイナー、衣装担当、ヘアメイクや照明、カメラマンの人称が予め含まれ、観ている者は自分で見ている気になっているが、それらは既に人の人称、しかも複数の膨大な人称になっている訳である。

勿論こうした傾向は例え景色の映像でも、それを第一選択したのはカメラマンや企画者であり、それを観ている自分は他者の人称に共感している、或いは他者の人称に自身を重ね合わせているだけ・・・とも言えるかも知れない。

インターネットの世界は、実はこうした重複人称、しかも侵入型の重複人称に拠って成り立っている。
第一投稿者、企画者は1人だが、これがネット情報に流れた途端多くの人称が加えられ、最終的端末の人称はそれを1人称と錯誤しながら、特定方向の意思を持たない無意識流動に踊らされているだけになる。

自身が視覚的に見て良いなと思ったとしても、それは既に他者がもう自分に見せているものである事に鑑みるなら、この時点で1人称では無く重複人称、しかもその見せている者の意思なのである。

我々が観ているものの多くは「見せられている」のであり、聞いている多くの事は「聞かされている」のかも知れないのである。


「青い水と赤い水」

「皆さん、農繁期でお忙しいところ、また損をしながらも米を作り続けて頂き、本当に何と申し上げて良いやら・・・、この研修会にご出席頂き有り難うございます」
昨年私が参加した農業の「担い手研修会」に措ける県の農業指導員の冒頭の挨拶である。
これに対して集まった農業従事者達は大笑いする者、苦笑いする者と言う具合で、それぞれの表現は異なりながらも、一様に皆笑顔だった。

研修会に集まっている人の平均年齢は67歳、集まっている中では私が一番平均年齢を引き下げていると言う状況で、全く利益の出ない米を作りながら、損失を出しながら米を作っているこれらの人の顔は、現在日本のビジネス界を牽引している人達、大きな利益を出している人達の顔より遥かに穏やかなものだった。

日本の農業政策が集約型営農、つまり大規模法人化農業推進へと舵を取り始めて以降、例えば工作面積5ha以下の農家は、米価格の下落に伴い全く利益を出せないばかりか、自身が働いた人件費すら出ない状況に陥り、高額な農業機械施設を導入して耕作面積を拡大し集約型大規模農業を目指すか、或いは離農、耕作面積を縮小するか否かの選択に迫られた。

そしてここで大規模農業を目指した者は年間数億単位の赤字を補助金で埋める農業に変質し、この中では農林水産大臣賞を受賞した優良農家でも借金は6億と言う事態を招いているが、一方こうした日本政府の方針に乗らず損失を出しながらも以前のまま農業を継続した零細農家も存在し、彼等は一体どうなったかと言うと、冒頭の研修会の様相なのであり、ここでは損失は他の収入や年金に拠って補填され、借金とはなっていないのである。

それゆえこうした研修会より更に大きな研修会に措ける農家の表情は2つに分かれ、若手の大規模法人化農家や無農薬栽培農家などは早足で険しい顔つき、独特のプライドなどが感じられるが、その他の零細農家の表情は行動がゆっくりしていて穏やかなものとなっていて、とても対照的である。

また政府は他種企業の農業参加も推進しているが、こうした農業の集約形態は非効率耕作地をまず排除する。
耕作し易い平地、道路網の整備された大きな面積の耕作地からまず最初に集約され、中山間地の田畑は非採算性耕作地として集約耕作地から外れて行き、これが中山間地の田畑の原野化を促進させている。

ところが一方で山里を守ろうとする方針も同時に出てきている為、こちらは文化的な側面から耕作の奨励を行っているが、既にイノシシの被害が全国的になっている現実は、山里の田畑を耕作する場合、電気柵などの防御設備が無ければ収穫が難しくなって来ている。

山里を守ろう、観光資源として利用していこうと言う目的の為に、電気柵と言う人間もそこに近づくと感電する設備が必要になり、その地域には益々一般の人が入れない状態が発生する。
山里を保全するが故に山里には近寄れない矛盾を生じせしめているのである。

更に人口減少と食生活の変化によって年々米の消費は減少し、米は生活必需品の枠を外れブランド化、高級化して販売する形態が発生したが、これも世界貿易の観点から自由化の方向に向かう中では更なる市場競争の激化は避けられず、そこでブランド化は食の安全性や、その先に在るイノベーションにまで及んできた。

都道府県の米のブランド化の概念は「環境」にまで及んでいる。
つまり米は余り収穫せずに見た目の環境と、他生物の環境つくりの為の水稲栽培になっているのであり、ここで使われる肥料や農薬には点数が付けられるが、この点数が高ければ奨励栽培米や特殊栽培米の規定に外れる。

しかしこの点数制度には全く根拠が無く、例えば石灰窒素肥料などは収穫後の除草目的なら加点されず、肥料として散布した場合は窒素肥料合計の加点となるような、ご都合でどうにでもなる、或いは肥料や農薬メーカーの意向でどうにでもなる点数方式、言わばイメージだけで点数が決まり、それも毎年同じではないのである。

お気付きだろうか・・・。
集約型農業は農業経営の効率化を柱にしているが、その方針は米需要の低下に鑑み収穫は抑制し、景観や環境に主体が措かれている、生産と需要、それに向かって努力する方向ではないのである。

どちらかと言えば、「米は生産してもらって構わないが、余り沢山収穫しないでね、環境に配慮するのが米の価値だから・・・」と言う共産主義より更にやる気の無い「計画抑制生産方式」なのである。

集約型農業も結構な事だが、今現実に山里付近の田畑を守っているのは、高齢化した、しかも自分の年金や他の収入をつぎ込んで、働いた分の人件費すら出ないにも拘わらず、「先祖からの土地だから」「目の前からススキの原になるのを見たくない」と言う、ある種「百姓」の「業」で農業をしている人に拠って成り立っている。

集約型農業で補助金を使って鬼のような顔をして農業を経営し、山里の田畑を荒らしていく政策の、その政府がやらねばならない部分を中山間地の農家は自己負担しながら、しかも穏やかに笑っている訳である。

青い水を完全に赤い水にしようと思うなら青い水は完全に捨てなければならない。
青い水に赤い水を足しからと言って、それはいきなり赤い水にはならない。
交じり合った紫と言う水になってしまうのであり、「策」もまた同じである。

既存の策が役に立たなくなったから、新しい策を導入して改善すると思うのは頭の中だけの話であり、既存の策も半分を下回った割合で効果を持っている事を忘れてはならない。

人の命や生活が一瞬にして破棄できるものならそれも良いだろう・・・。
だが政策は紙一枚で変更できるが、人間の命や生活は連続した中のものであり、この意味では改革や変革と言うものは既存の中から発生するものである事を憶えておくと良いだろう・・・・。


「日月の啓示」



Final Fantasy X 素敵だね・・・・・

昭和20年7月6日、既に東条英機初め、3名の首班指名者(首相)が選出されながらも一向に好転が見られない戦況に鑑み、政府の影には総理の職を辞しても猶、隠然たる影の力をほこる近衛文麿の影響力が有るのではないか、既に大局が決している事は明白な太平洋戦争末期に在って、血気盛んな統制派(東条崇拝者)青年将校達の一部では、近衛文麿の粛清(暗殺)計画が持ち上がっていた。

ここに妙な話だが、昭和19年4月18日、東京原宿で秘密裏に行われた怪しげな「神がかり」、つまり降霊会の話が伝わるのだが、「岡本天明」(1917年~2008年)が主宰者となったこの交霊会で降りてきた神が「天之日月神」(ひづく・ひつく神)と言われている。

元々陸軍内部に在った日本の歴史を正しく理解しようと言う団体の幹部、それに埒が明かない戦況の進展を神の啓示によって切り開こうとした将校の一部が参加していたこの交霊会、そこで降りてきた「天之日月神」はその後、日本の敗戦と国土が焦土と化す事を告げたのであり、この話が参加していた陸軍少将、修史協賛会幹部などから漏れ、もはや近衛文麿の存続こそが一番の国難と考えた青年将校達は事の真意を糾すべく、日本の未来を占って欲しいと岡本天明に詰め寄る。

昭和20年7月22日の事だった。

これに対し岡本天明は「もし仮にあなた方の意に沿わぬ神示が出た場合は如何なさせる」
「あなた方に取っては神示の如何に関わらず、既に事は決しているのではないか」
「神は占う事を禁じている」と言い、将校の代表4名を追い返す。

日本の現代史では陸軍が戦争推進派のような書かれ方をしているが、実は陸軍上級将校の中では昭和19年末の段階で敗戦を意識していた者がかなりの数存在し、その多くは下手な事を言えば命が狙われることから真意を秘匿していた。

この背景の一部に「天之日月神」の神示が存在し、ではなぜ戦争継続派の陸軍上級幹部の一部がこうした神託を信じたかと言うと、一人は降霊会に参加した陸軍少将「小川喜一」の存在があるだろうが、もう一人は大正天皇の侍従も歴任した「法元辰二」陸軍大佐の影響も大きかったものと思われている。

高齢で温厚、しかもどこかで鋭い勘が働く法元辰二への陸軍将校達の信頼は厚かった。

またこの法元と小川少将の影響、それに小川と少なからず行き来が有った海軍の「矢野祐太郎」もまた独特の感性で霊感が強かったと言われているが、この矢野の妻「矢野新」こそが当初それがご神託とも気付かなかった岡本の自動書記の重要性に気付いたのであり、これらの者達に横たわるものは旧大本教である。

旧大本と言う表現は曖昧だが、「天之日月神」のご神託の関係者は元大本教か、どこかで大本教との関連が在るものが多い。
しかし「天之日月神」のご神託では「教」を禁じている事から、大本教とは一線を隔しながら、大本も「天之日月神」を否定せず、「天之日月神」のご神託を信じる者も大本を否定することが無い為、曖昧なのである。

「天之日月神」の神示は昭和19年7月の段階で枢軸国が破綻する事を予言し、またこの段階で既に日本の敗戦や原子爆弾、東京大空襲などが語られたと言われ、東京裁判などの事も予言されたとされるが、これを聞いた青年将校達の動きが昭和20年7月22日の岡本天明とのやり取りなのである。

そしてこの予言が成就したか否かは歴史が証明しているが、岡本天明が昭和19年以降自動書記した神示はその殆どが数字と図形、或いは絵であり、これを解読すると言う形で「天之日月神」の神示は為された。

このことから現状から予測される未来を天明の神示に重ね合わせた可能性、また自身が信じる事をそれに投影した可能性、更には過ぎ去った現実を神示に都合良く重ねて解釈された可能性も否定できないが、岡本天明は太平洋線終戦後も神示を書き記し続け、そこではこんな話も出てくる。

「金で世を治めて、金で潰して、地固めしてミロクの世・・・」
これは昭和24年の神示だが、何となく今の世の感じがするし、この世界の大改革の始まりには太陽がいくつも出現し、その太陽は暗くなり、月は赤くなる・・・・と記されている。

もしかしたら聖書を模倣したものか・・・。

或いは本当に神の啓示か・・・。






「恐ろしい・足りない」



INNA - Amazing (Official Video)・・・・

かなり各地で今も使われている方言で「おぞい」と言う言葉が存在するが、これの一般的な意味は「劣る」「足りない」「みすぼらしい」「弱い」などを複合して概念する「集合概念」だが、北陸地方、東海、長野、岐阜、北海道、出雲、北九州地方の一部で使われいる。

しかしこの「おぞい」は、島根、鳥取付近を境にして、それより西、或いは南では、以北と同じ発音をしながら全く違った意味になる。
例えば出雲の「おぞい」は「怖い」「恐ろしい」と言う意味で、これは明確に「恐ろし」が濁音発音されたものだが、山口県の一部、北九州の狭い地域ででも「おぞい」は「恐ろしい」と同義の地域が有る。

「おぞい」は「おぞ」に主体があって「い」は状態を示すが、日本の古語発音は「恐ろしい」事を「おぞし」と発音している事から、起源はおそらくここから発したものだと思うが、「おぞ」の後に続く「し」や「い」と言う補助発音、形態によって変化区分されてしまった可能性が高い。

「恐ろしい」の「し」を主にするか「い」を主体に考えるかで元の意味が歪んだと考えれられるのだが、一方で「おぞましい」などの「恐ろしい」と言う意味に準ずる言語が古語発音のまま今も使われている事を考えるなら、全く別の概念がたまたま同じ発音になってしまった可能性も否定できない。

古語の発音に関しては、「浅井」と言う地名や苗字が「あさい」と呼ばれるか「あざい」と発音されるかの形式と同じで、「さ行」の発音は「歯」が揃っているか否かで使用頻度は変化してくる。
この為平安京のように鉄漿(おはぐろ)などの形式文化が存在した地域は「さ」に濁音が付き易く、同様に豊かな市街地よりは歯の数が少なくなる山間部農村地帯でも、「さ」は濁音変化し易いと言う事情が有ったかも知れない。

このように同じ発音でも意味が違ってくる言葉の境界線が山陰付近に有る言葉として、もう一つ「いずい」と言う言葉が有るが、山陰や九州博多地方の方は、ここには「いずい」なんて言葉は無いぞと思われるかも知れない。
確かに現在は「いずい」の南限は京都北部までになっているが、では「えずい」と言う発音はどうだろうか、きっと博多でも今も使われてはいないだろうか・・・。

そして博多の「えずい」は冒頭の島根県出雲の「おぞい」と同義、「恐い」事を指してはいないだろうか。

現在東北と北海道、北陸の一部で使われる「いずい」の意味はとても難しい。
気持ち悪い、汚い、いやらしい、性格が悪い、などの形容に観念が加わった複雑な意味を持つが、「いずい」と「えずい」は出所が同じかも知れない。

それは日本の中部地域で「えずい」と「いずい」が同じ意味で使われているからで、この方言はとても珍しい性質を持っている。
意味としては気持ち悪い、性格が悪いなど、同じ概念なのだが、例えば10km離れると「いずい」は使っても「えずい」とは言わず、更にもう10km行けば「いずい」も「えずい」も使わない。

それが使われている地域が半径5km以内だけと言う場合もある。
しかし北海道や東北ではこうした事は無く「いずい」と言う発音で均等に使用されてきた方言なのである。

「おぞい」は出雲では「恐ろしい」だが、博多で恐ろしいと言えば「えずい」になり、四国では「辛い」や「きつい」事を指し、それが北に行くと意味が違ってくる。
「おぞい」は「足りない」になり、「えずい」は気持ち悪い事になり、「えずい」と「いずい」は同じ意味で有りながら、北に行くほど「えずい」が消えてくる訳である。

ついでだからもう一つ、「えどくる」と言う言葉に付いて、この発音は東海と北陸地方の一部、丹波や東北でも一部では使われた言葉だが、現在は東海、美濃地方と北陸の一部で使われている言葉で、基本的には「厚く塗りたくる」事を指している。
簡単に言えば「厚化粧」や「落書き」の事なのだが、これが北陸へ来ると蒸し暑い日に「ああ、えどくる日やね~」と言う使い方になるのである。

台風一過、どうやら「えどくる日」もこれから先は少なくなりそうだ・・・。
稲刈り前の畦草刈りを始めようかな・・・・。




「俺の物は俺の物、人の物も俺の物」



INNA - 10 Minutes (Official Video)・・・・・

剣豪「宮本武蔵」は敵と対戦するに当たり、その一番最初に武器の種類と数を確認する事を勧めているが、この時確認するのは自分の武器は勿論、むしろ対戦相手の武器を頭にいれておく事を説いている。

それがどこに存在しているか、その位置を詳しく覚えて置けば、いざと言う時自分の武器よりも相手の武器の方が近い、と言う事が有る為で、武器はたまたま今は対戦相手の所に在るだけで、考えように拠ってはその場に在る武器は全て自分のものと言う事もできるのである。

この考え方のルーツは「禅」の無常観に在り、更に辿れば中国周時代の易、「周易」に源を見る事ができるが、経済に措ける究極でも同様の事が出てくる。

「金」と言うものは持っているだけでリスクになるもので、強盗に襲われたり、或いは落としたりと言うように、常に遺失と言うリスクを負う。

この為に必要な時に必要な金額が使える事を理想とするが、この一つの形がクレジットカードで有ったり、電子マネーと言う事になり、自身が存在する場に措ける周囲の利便性と言う意味では、宮本武蔵の敵の武器に対する考え方と同じものと言える。

更に現金の場合の究極は、誰か他の者が稼いでくれて、それを他の者が保管していて自分が好きな時に使えるのが最も望ましいが、企業買収や金融の概念はこれに近く、経済と言うものが最も望む環境とは「安定」である。

株価などは周期波の性質を持っているが、例えば株価が上昇して株資産などが上昇した場合、或いは為替相場で円が安くなり自動車などの売れ行きが好調だったとして、こうした利益の上昇には相応の課税が発生し、企業は当年の税を支払うが、円安が長く続く事は有り得ず、やがて円が上昇した時は損益が発生して政府の対策を求める事になる。

しかしここでもし円相場が一定のままだったら、企業の大幅な利益は分散され、一時的に税を多く払って、後に対策を求めて損益を埋めると言う手間が省ける事になり、こうして円相場の動きに拠って税を払ったり対策を求めて損益を埋めるために使われた経費は利益の中から支払われ、この分を遺失する。

そして為替相場や株式相場はその瞬間ごとのものだが、企業は継続して何年、何十年と存続する為、結果として大幅な利益が出た場合の次は損益になる為、この度ごとに金が動くよりは一定の水準のままの方が遺失利益は少なくなる為、経済が求めるものは「安定」にして、現実は波の中なのである。

もっともこうした現実は外交、軍事でも同じ事であり、外交の場合には波乱含みの友好よりは安定した敵対の方が対処は易く、軍事は「金」の原理に同じである。
少し前に相互確証の話で出てきた「核兵器」だが、現在地球には約2000回人類が滅亡できる核兵器が存在していると言われている。

しかもこうした核兵器の考え方は太平洋戦争直後に発生したもので、既に70年も前の古い概念を基盤としている上に、もう人類が2000回も滅亡できる数が出来上がっている。
つまり飽和状態、過剰生産の古い形のものと言う事ができ、技術的にも北朝鮮クラスの後進国でも製造できる、言わばオープンソースなのである。

既にわざわざ作って保管しておくと言う概念すらどうかと思うが、むしろこんな古臭いものを持とうとする事の方が私は不思議に思える。

作るのに国際的な非難を浴び、多額の予算を投じ、いつ使うとも知れないものを毎年保守管理しなければならず、地球で人間が作るものの最後は必ずゴミになる事を考えるなら、その処理がまた実に厄介なものを所有するなど常軌を逸しているとしか思えない。

地球上に人類が2000回も滅亡できる数が有り、それが勿論将来敵になる国にも存在しているなら、これを使わせて貰えば良い。

敵に作って貰って保守管理もして貰い、将来の処理まで責任を持ってもらいながら、それを自分が使う。
核兵器などのハードは、現在ではソフトに拠って制御される。

この制御を乗っ取る方法、技術的な手法を開発する方が核兵器を持って保管管理するより遥かに安全で効率が良い。

核兵器が飽和状態であり、尚且つオープンソースとなっている現実は、既に核の時代は終わっているのであり、これからはこの核の制御とコントロール、迎撃システムなどの開発と言う具合に核を無効化する方向に動いているのであり、既にアメリカ、中国、NATO,ロシアでもこうした効率の良い軍事作戦を視野に入れた開発を始めている。

核の傘を安全だと思う、その考え方は既に70年前の考え方と言え、それでは核兵器を作って保守管理して、いつか事故が起こるかも知れない事を怯え、最後はゴミになっても処理に困るものを抱えながら、都合の良い時は敵に使われてしまうかも知れないものを、すでに手遅れになっているものを追いかけるだけのように思える。

こうして権力や力が分散して「小競り合い」が多くなってきた国際社会の紛争や戦争の形は、既に核兵器が前近代的な兵器となってきている事を示している。
核兵器に対して核兵器では双方滅亡であり、この恐怖が争いを抑止した時代は終わった。

イスラム国や北朝鮮などの小さな権力と言うものは相互確証と言う上品な考え方を乗り越えてしまっている。
もはや核に対して核ではなく、核に対しては核の無効化、ハイレベルの技術を使った制御に拠って対抗する時代になっているのではないか・・・・。

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old passion

Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

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「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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