「人は関心がない」



The Exorcist Theme (Tubular Bells)・・・・

「手紙」(Letter)と「電報」(Teregram)の決定的な差は、それが郵送など公共機関、若しくはそれに準ずる意識が存在する機関に拠る文書の配送であるか、電気信号で届く文書であるかと言う点に有るが、もう一つ、利害関係の差異が存在した。

手紙はその大半が書いた側の都合が存在するものの、それを受け取る側には必ずしも都合が存在しない場合も含まれるが、電報には受け取る側に必ず何某かの利害が存在する。

電報には「告知」と言う、それを発信した者と受け取る側の相互に、何某かの統一した利害関係が存在している。

この点に措いて手紙と電報には予め大きな違いが有ったのだが、これを過去形にした理由は、「メール」(mail)と言うコンピューターに拠る通信機能に拠って、手紙と電報と言う「白」と「黒」のコントラストが原理主義化して両端に追いやられ、中間に存在した「グレー」、つまりメールや携帯電話などの通信が大部分を占めるようになったからである。

元々手紙は、例えば公共機関などの配送に拠らない、例えば友人に頼む事もできた通信であり、場合によっては書いても出せない、出さないと言う事態も存在する「自身の都合」が文書化したものであり、その反対に電報は必ず伝えなければならない、或いは受け取る側が待っている場合すら有り得る即時性が必要とされる重要書簡だった。

そして手紙(Letter)とメール(mail)は必ずしも同義ではなく、手紙は紙や木、布などに書かれた文書だが、メールはこれを配送する手段に概念が傾いた意味を持っていた。
公共機関の郵便事業者が配送する「郵便物」がメール本来の意味である。

つまりここでは手紙と言う物質に対し、メールは行為、形容詞や動詞に近い概念が存在したのだが、これらがパーソナルコンピューターやスマートフォンの普及に拠って曖昧になり、また電信と言う概念では電報の概念もここに流出し、手紙や電報は集約された局地的な通信手段に追いやられて行った訳である。

そして、こうした流れの中で更に重要な部分が融合を始めていて、それは事の重大性が曖昧になってくる事、手紙と言う自身の事情が電報より早い即時性に乗って他者に伝わる、いわゆる精査されない自己の流出が日常化してきた事である。

電報などの即時性の高い文書は、それ自体が重大な事項を暗示するが、これが「今どうしてる・・・」と言うような、どうでも良い会話の為に使われる事に慣れてしまった人類は、ここで自身の都合や事情が相手には必ずしも共通した関心事項ではない事までも忘れさせる。

その上で手紙などが持つ、「返事」と言う本来は相手の道義や都合が優先される「形」だけは厳しく求める情緒の不安定さは、もはや病気の領域と言える。

日本の古い時代の手紙、例えば女性などが書く手紙は「消息」と呼ばれた事に鑑みるなら、それはある種電報よりも重いものが存在しただろうし、それに対する返書など初めから求めるべくもなく、しかし強い思いである。

「今何してる~」や「今夜の飯は~」など、全くどうでも良い話が電報より早い速度で伝えなければならない言葉だろうか・・・。
報告と称して細かく会社に連絡させながら、上司は全く解決策を指示出来ない。
会社の都合のみが優先され、現場はクライアントと会社の板ばさみなり、契約が取れなければ自分の責任にされる。
これが必要とされる報告だろうか・・・。

軽い言葉が即時性を持って駆け巡る社会は、その軽薄さゆえに特殊や重いものを求め、これが儀礼的評価と言う形の連鎖を生じせしめ、この儀礼的評価を儀礼的評価と認識できない者たちの応酬によって成り立つ通信、フェイスブックには平気で自分の近況を掲載し、今朝の朝食を恥ずかしくもなく掲載するブログ、それらが自己満足と傲慢である事を認識しているならまだしも、他者が心から喜んでいる通信だと言う意識だったら、気の毒な話である。

幸福な者は幸福に対して責任を持たねばならず、たまたま不幸な状況に在る者は、その不幸に対して責任を持たねばならない。
自身の幸福は、基本的には他者の弱い不幸であり、自身の不幸は他者に取っては「利」、若しくは心理的負担である。
両者とも「惻隠」や「遠慮」と言うものが重要だが、これらの言葉は現代ネットワーク社会には相反する。

三島由紀夫だったと思うが、彼は何かの文章で「他人は自身の事になど何の関心もない」、「そこから文章を書かないと人には伝わらない」と書いてたように記憶しているが、手紙の本質が自身の都合ではなく、まず相手に読んで貰う事に在るとするなら、この手紙の機能が変遷したメールもまた然り。

私事になるが、私は手紙を書くと言う場合、昔だったら3尺(90cm)の長さに、縦が7寸(21cm)の紙で、筆に墨で縦書きだったが、近年はこれを貰った人がどう思うかと言う事を考えるなら、そこには「どうだ凄いだろう・・・」と自慢しているようなものかも知れないと思うようになった。

それでA4の紙にワードで書いた手紙が多くなって来ているが、今ではこれすらもそれらしい文章を書けば嫌味かも知れないと思い、メールと言う手段が増えてきている。

自身の文章の上手さはどんどん誇りたいが、他者のそれには関心がないと言う社会の在り様に鑑みるなら、たまさか自身が文章に関係した事をやっていたゆえ、これを遠慮する必要が有るような気がするのである。

またこれも私事になるが、私は若い頃から女に手紙を書かない、形になって残る物を贈らないことにしていた。
男女の仲は永遠ではなく、いつか必ず壊れる事を前提として、常にいつでも逃げられる言葉でしか自身の意思を伝えてこなかった。

こう言う自身の在り様ゆえ、女に振られ続け、未だに人の言葉が信じられない、自業自得な訳である(笑)。


1年間、記事を読んで頂き、本当に有り難うございました。
皆様、良い年末、年始をお迎えくださいますよう、希望致しております。
有り難うございました。





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「人が信じられないか・・・」



Britney Spears - Till The World Ends

2016年12月3日福岡市博多区で発生したタクシー運転手の操作する自動車の暴走事故に関して、警察は早々に64歳のタクシー運転手を逮捕、送検しているが、この判断には若干の疑問、違和感がある。

タクシー運転手の供述が完全に無視された状態で、自動車のプログラムは絶対誤作動を起こさないと言う前提に拠る逮捕、送検であり、また当初この事故に関する報道に措いて多くの交通事故専門家と称される専門家達は、タクシー運転手と言うプロならブレーキが利かなくても道路わきの建物に衝突させてでも、車を止められるはずだとコメントしていたが、現場は人の通りが多く、それだと通行人に衝突する危険性が大きかった。

既に初めからタクシー運転手の過失、若しくは暴走に傾斜したもの言いだったが、報道に拠る現場映像を見ていても、付近の建物に接触させて車を制動させる事が不可である事は明白で有るにも拘わらず、こうした一連の発言はタクシー運転手の立場を陥れる危険性を持った言動と言え、この行為は専門家と言う資質を大きく損ねるものだ。

タクシー運転手は直線道路の200m先からブレーキが利かなかったと証言し、人通りが多い2つの交差点でも一時停止が出来なかったと証言している。

検察の調書の前段階、起訴するに至る理由に付いて調査する機関である警察は、証言が食い違う2者の証言を公平に扱わねばならず、この中から他の証言や物証でどちらかの証言の信憑性を推定させる必要が有る。
すなわち過失、若しくは事件に関わる当事者、これに準ずる物証を公平に扱わねば警察機構の公平性と言う威信が担保されない。

タクシー運転手の証言とトヨタプリウスの制御基盤と言う2つの相反する証言と可能性が存在する場合、一方的にトヨタプリウスの制御基盤に対して優位を認める事は、人間の証言は信用できないと言う制御基盤の優位確定に繋がる。

元々プリウスのオーナーは高齢者が多いのだが、これはハイブリッド車と言う高級車の為、買える世代が圧倒的に金銭的余裕の有る高齢者に傾いていた為だが、そもそも高齢化社会で、どのメーカーの車も相対的に高齢者のドライバーが多くなり、この中発生する事故では「高齢者」と言う人為的ミスが一般化した傾向が発生していた。

しかし、ほんの数年前までは欧州車の中でもトランスミッションプログラムの不具合が多く発生していた。
ブレーキを踏んで止まった直後、急にエンジンが高回転を始めて前進するケースが存在したのである。
オートマチック車でバックをして直後、すぐにドライブレンジにシフトすると、この傾向が多く発生する、「トランスミッションの暴走」も有り得たのである。

だが、日本のような高齢化社会ではこうした不具合が、高齢者と言う予め不利な予想が出来てしまう状況の中で見過ごされ続けた恐れがある。

人間を形成する細胞は「兆」と言う単位であり、しかもこの細胞は自動補填されながら機能する、信じられないくらい高精度なプログラムに拠って制御されている。
この人体でも暑くなれば眩暈がし、寒くなれば行動が鈍るのである。

次から次、新しい細胞が提供されない金属、非有機物質で作られている部品と、必ず劣化や環境に拠る影響を受けるプログラム基盤の精度が、人体のプログラム制御を超えていると考える方がどうかしている。

私の福岡の友人は面白い事を言っていた。
毎日誤作動が発生するウィンドウズ10を見ていながら、頻繁に発生する災害情報の誤報を見ていながら、どうしてトヨタのシステムは間違いを起こさないと思えるのか、そこが分からん・・・と言っていた。

実に同感であり、我々はAI(人工知能)との共存を未来の事と思っているかも知れないが、それはもう始まっているのであり、人間は機械や電子制御、AIを根底では信じていないくせに、それが人間と言う不安定さの外に在る事をして絶対的に思っているのかも知れない。

しかし人間も機械もAIも、この地球上に在る物質から生成される。
いわば同じ原理のものである事を忘れてはならない。

高齢者と言う多くの要因の中に混じってくる要因、例えば日本で1000万人の自動車を運転する人がいるとして、ここに1年で1件プログラムの不具合が発生しても36億5000万分の1の確率であり、この確率は厚さ2cmの鉄板を偶然に人間の手が通り抜けられる確率とそう大きな違いが無い・・・。

人間にはおそらくこのような確率を見つけ出す事は不可能かも知れない。
それゆえ、こうした確率から人を守るには形而上の「人を信じる」と言う「原則」が大きく横たわって来るのではないか・・・。

ちなみに福岡の友人はもう一つ面白い事を言っていた。
博多駅前の地盤沈下も、今般の自動車暴走事故も、そして少し前に福岡で発生した災害情報の誤報の、そのエラー地点も、いずれも警固断層(けご断層)の上で起こっているのではないかと・・・・。

まさか・・・、とその時は笑って聞いていたが、今朝8時27分頃からだろうか、私の住んでいる地域でも複数回、断続的に微震か空気振動か分からない揺れが続いている。

低く垂れこめた雲、暗天は人の心を不安に陥れる・・・・。




「アカデミズムと現実の衝突」



Henry PURCELL: Round O, ZT684

この世界に「客観」と言うものが存在するならの話になるが、例えば政治の本質である「調整」に鑑みると、対立する2つの意見が存在する場合、このどちらかに傾いている者は調整の機能を果たせない。

対立するどちらか一方に傾いている者は「当事者」か、これに準ずる性質を帯びている事から、調整はこの対立の外に在る者で無ければ客観性を失うからである。
この意味で言えば、政治の究極は政治の外に在る事になるが、これの最も近い形が「天皇」の在り様であり、大概の事象の本質は同様の命題を持つ。

当事者は究極的客観性や合理性の外に在り、逆に言えば客観性や合理性は当事者と言う性質を滅失したものと言う事が出来る。
政治やアカデミズムと言うものは、こうした客観性や合理的判断から、必ず当事者と言う「現実」から乖離した状態を必要とし、為にアカデミズムは現実を希釈するか、積み上げられた情報に拠って判断する事によって、多くの現実を歪める性質も併せ持ち、この客観性に拠って歪められた現実と眼前の現実は対立する。

ここに客観性で在ろうとする事は既に一方の当事者としての側面を生じせしめ、眼前の現実と対立した時から、客観性の外に堕ちるのである。

当地でも12月5日は「田の神信仰」が神事として、長い歴史を持って継承されてきたが、これが近年崩壊しかかっている。

この原因の一番大きなものはアカデミックの侵入であり、人口の減衰と高齢化に拠ってそれまでの神事が衰退して行く状態を守ろうとする考え方、いわゆる「文化保護」の概念から産官学の提携に拠って田舎に入ってくる研究機関や学生と、人と話す機会も少なくなった田舎の高齢者達、その中でも文化を語る高齢者との迎合、これに無尽蔵で節操を失った「都会への発信」と言う盲目的な報道信仰が加わり、これらの「客観性」が現実の場で発生している事、発生していた事実を歪め始めている。

能登地方の「田の神」神事は「あえのこと」と呼ばれ、「あえ」は「饗宴」の事を指すが、この饗宴は参加者の「宴」ではなく、むしろ供応(もてなし)と言う儀式の概念が強く、決して宴会ではないのである。

田の神信仰の古くは祖霊信仰と言われているが、古来死者は山に祀られ、山の神と同一視、或いはそのものと考えられてきた。
能登の田の神は夫婦で、共に稲の葉で目を突かれ盲目とされてきたが、この神が12月5日を境界にして「田の神」から「山の神」に帰る日でも有る。

すなわち田の神は家々の祖霊と言う性質も併せ持っていて、為に「田の神」は集合祭「宴会」ではなく、「神事」なのであり、供応も本来は家々の神事である事から多様性が存在し、古い文献でも地主と小作人の家では様式が異なるのが普通だった。

豪農の家では確かに現在執り行われているような海の幸や山の幸が供されたが、ここに使われる魚だけでも上は鯛から、下は魚が付かない状態まで存在し、むしろ「はちめ」と言う魚が付けられる家は豪農の部類に入るが、多くは藁筵(わらむしろ)を敷いて牡丹餅(ぼたもち)をお供えするのが精一杯だった。

その数の多きをして一般的と言うなら、能登の田の神信仰「あえのこと」神事では、海の幸、山の幸の満載の供応ではなく、筵に牡丹餅(ぼたもち)こそ「あえの事」神事と言うべきものかも知れない。

私が幼い頃、家は祖父が分家の初代だった事から、百姓と炭焼きが生業の貧しい家だった。
それゆえ「あえの事」で供されるものは、上縁が擦り切れて木が見えているお重に盛られた牡丹餅だったが、この村では裕福な家でも殆ど同じだった。

子供心にいつお供えしている牡丹餅が食べられるのか、親に何度も聞いていた記憶があるが、「田の神様が食べてからだから、明日だよ」と言われ、その明日が待ち遠しかったものだ・・・。
またこの日は絶対に兄弟喧嘩してはならず、しかし田の神様の邪魔にならないように静かにしていろとも言われた記憶がある。

「あえのこと祭」開催します。
当日は「あえの事」の料理をみんなで食べて田の神に感謝しましょう・・・。
参加費は一人3000円です・・・。

そう言う案内チラシが家にも配られてきたが、「あえの事」は祭りではなく「神事」であり、しかも集合祭では無い。

その家々に拠って在り様は多様性を持ち、画一した形など無いのが普通であり、この多様性もまた「あえの事」の重要な要素だった。
他に誇るものではなく、豊かな者は豊かなりに、貧しい者は貧しいなりに、それでも出来る限りの事を尽くすのが「あえの事」神事の本質ではなかったかと思う。

今年の秋は雨が多く、私の田もぬかるんでコンバインが入れず、泥の中を鎌で稲を刈っていた日が有った。
そのおり、夕方用事が有って一つ上の先輩のところへ行ったら、彼もまたぬかるんだ大きな田で、家族親戚一同して泥だらけになって稲を刈り、それを畦まで運んでいた。

修羅と言う言葉はこの為に有るような状況だったが、私を見つけた先輩は「おー、見ての通り地獄だ」と言いながらも穏やかな笑顔で、二つ返事で用事を引き受けてくれ、帰りには「俺は人手もあるが、お前は一人だ、無理をせんようにな・・・」と言って送ってくれた。

私や先輩が思う「あえの事」は神事だが、文化を守る為に来ている大学の学生や地域の文化人達は「あえの事」は祭りである。
客観性や合理的解釈が概念する保護と、現実の当事者にはこれだけ大きな開きがあり、しかも彼等には私など「文化を理解しない田舎者」にしか映らないだろう。

これが、アカデミズムと「現実」の衝突、客観性と現実の衝突と言うものであり、しかも年々「現実」と言う「当事者」は減少してきていると言う事である。








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Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

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「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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