2016/12/20
「人は関心がない」
The Exorcist Theme (Tubular Bells)・・・・
「手紙」(Letter)と「電報」(Teregram)の決定的な差は、それが郵送など公共機関、若しくはそれに準ずる意識が存在する機関に拠る文書の配送であるか、電気信号で届く文書であるかと言う点に有るが、もう一つ、利害関係の差異が存在した。
手紙はその大半が書いた側の都合が存在するものの、それを受け取る側には必ずしも都合が存在しない場合も含まれるが、電報には受け取る側に必ず何某かの利害が存在する。
電報には「告知」と言う、それを発信した者と受け取る側の相互に、何某かの統一した利害関係が存在している。
この点に措いて手紙と電報には予め大きな違いが有ったのだが、これを過去形にした理由は、「メール」(mail)と言うコンピューターに拠る通信機能に拠って、手紙と電報と言う「白」と「黒」のコントラストが原理主義化して両端に追いやられ、中間に存在した「グレー」、つまりメールや携帯電話などの通信が大部分を占めるようになったからである。
元々手紙は、例えば公共機関などの配送に拠らない、例えば友人に頼む事もできた通信であり、場合によっては書いても出せない、出さないと言う事態も存在する「自身の都合」が文書化したものであり、その反対に電報は必ず伝えなければならない、或いは受け取る側が待っている場合すら有り得る即時性が必要とされる重要書簡だった。
そして手紙(Letter)とメール(mail)は必ずしも同義ではなく、手紙は紙や木、布などに書かれた文書だが、メールはこれを配送する手段に概念が傾いた意味を持っていた。
公共機関の郵便事業者が配送する「郵便物」がメール本来の意味である。
つまりここでは手紙と言う物質に対し、メールは行為、形容詞や動詞に近い概念が存在したのだが、これらがパーソナルコンピューターやスマートフォンの普及に拠って曖昧になり、また電信と言う概念では電報の概念もここに流出し、手紙や電報は集約された局地的な通信手段に追いやられて行った訳である。
そして、こうした流れの中で更に重要な部分が融合を始めていて、それは事の重大性が曖昧になってくる事、手紙と言う自身の事情が電報より早い即時性に乗って他者に伝わる、いわゆる精査されない自己の流出が日常化してきた事である。
電報などの即時性の高い文書は、それ自体が重大な事項を暗示するが、これが「今どうしてる・・・」と言うような、どうでも良い会話の為に使われる事に慣れてしまった人類は、ここで自身の都合や事情が相手には必ずしも共通した関心事項ではない事までも忘れさせる。
その上で手紙などが持つ、「返事」と言う本来は相手の道義や都合が優先される「形」だけは厳しく求める情緒の不安定さは、もはや病気の領域と言える。
日本の古い時代の手紙、例えば女性などが書く手紙は「消息」と呼ばれた事に鑑みるなら、それはある種電報よりも重いものが存在しただろうし、それに対する返書など初めから求めるべくもなく、しかし強い思いである。
「今何してる~」や「今夜の飯は~」など、全くどうでも良い話が電報より早い速度で伝えなければならない言葉だろうか・・・。
報告と称して細かく会社に連絡させながら、上司は全く解決策を指示出来ない。
会社の都合のみが優先され、現場はクライアントと会社の板ばさみなり、契約が取れなければ自分の責任にされる。
これが必要とされる報告だろうか・・・。
軽い言葉が即時性を持って駆け巡る社会は、その軽薄さゆえに特殊や重いものを求め、これが儀礼的評価と言う形の連鎖を生じせしめ、この儀礼的評価を儀礼的評価と認識できない者たちの応酬によって成り立つ通信、フェイスブックには平気で自分の近況を掲載し、今朝の朝食を恥ずかしくもなく掲載するブログ、それらが自己満足と傲慢である事を認識しているならまだしも、他者が心から喜んでいる通信だと言う意識だったら、気の毒な話である。
幸福な者は幸福に対して責任を持たねばならず、たまたま不幸な状況に在る者は、その不幸に対して責任を持たねばならない。
自身の幸福は、基本的には他者の弱い不幸であり、自身の不幸は他者に取っては「利」、若しくは心理的負担である。
両者とも「惻隠」や「遠慮」と言うものが重要だが、これらの言葉は現代ネットワーク社会には相反する。
三島由紀夫だったと思うが、彼は何かの文章で「他人は自身の事になど何の関心もない」、「そこから文章を書かないと人には伝わらない」と書いてたように記憶しているが、手紙の本質が自身の都合ではなく、まず相手に読んで貰う事に在るとするなら、この手紙の機能が変遷したメールもまた然り。
私事になるが、私は手紙を書くと言う場合、昔だったら3尺(90cm)の長さに、縦が7寸(21cm)の紙で、筆に墨で縦書きだったが、近年はこれを貰った人がどう思うかと言う事を考えるなら、そこには「どうだ凄いだろう・・・」と自慢しているようなものかも知れないと思うようになった。
それでA4の紙にワードで書いた手紙が多くなって来ているが、今ではこれすらもそれらしい文章を書けば嫌味かも知れないと思い、メールと言う手段が増えてきている。
自身の文章の上手さはどんどん誇りたいが、他者のそれには関心がないと言う社会の在り様に鑑みるなら、たまさか自身が文章に関係した事をやっていたゆえ、これを遠慮する必要が有るような気がするのである。
またこれも私事になるが、私は若い頃から女に手紙を書かない、形になって残る物を贈らないことにしていた。
男女の仲は永遠ではなく、いつか必ず壊れる事を前提として、常にいつでも逃げられる言葉でしか自身の意思を伝えてこなかった。
こう言う自身の在り様ゆえ、女に振られ続け、未だに人の言葉が信じられない、自業自得な訳である(笑)。
1年間、記事を読んで頂き、本当に有り難うございました。
皆様、良い年末、年始をお迎えくださいますよう、希望致しております。
有り難うございました。