「対立による総量的遺失利益」



【アニメトランス】アンインストール【YURIE】・・・・

比較的寒冷な地域の10m四方の土地に、3人が春蒔きのほうれん草を植えるとする。

この時2人が2月後半に植えたいと考え、1人が寒さには強いほうれん草とは言え、霜の被害を考えるなら3月中旬が良いと主張し、意見が食い違ったが、2対1の多数決で2月下旬にほうれん草の種を蒔くことに決まった場合、「多数決だから従え」と言う事であれば、3月の種蒔きを主張していた人は面白くなくなる。

当然作業にも力は入らず、何かに付けて2人には不満を言いたくなり、そこでもし強霜が来て生育に影響でも出ようものなら、「そらみた事か・・・」と言う形にしかならない。

だが、この時もし2月植えを主張する2人が、3月植えを主張する人と話し合いをして、では3月の初めで妥協するから、それでどうかと言う提案をしていたとしたら、「よし分かった、じゃ3月の初旬で行こう」と言う事で折り合いが付いていればどうなるか・・・。

1人が力の入らない作業していた分の非効率は生産性に転じ、尚且ついっその事、協力して3段階に種蒔きの時期をずらして生産すれば、安定した長期の出荷が可能になると言う発展的な話にまでなるかも知れない。
万一霜が来ても、すぐに3人が協力して耕しなおして復活させる事もできる。

この時本来対立していなければ得られた協力や、効率の良い生産性が存在する場合、意見の食い違いによって対立したケースでは失われた非生産性、作業に力が入らないなどの非効率が発生する事になる。
対立の無い状態と対立が生じた状態を比較するなら、対立は必ず総量的な遺失利益を生じせしめる事になる。

この原理は資本主義の「拡大」と表裏一体の関係にあり、例えば強力な資本を持つ1社が市場を独占したとき、利益の独占は当然理解できるかも知れないが、同時にリスクの独占と言う側面が忘れられる。

市場に3社で物品を提供している場合、少なくとも3つの違った方向からのチェックが入る。
これは競合と言うものだが、これに拠って1社でチェックするよりは厳しいチェックが入り、その分品質は向上し、長い目で見ればその品質の向上は需要を喚起する。

しかし1社でこれを行っている場合は、そのチェックはどうしても甘くなり、やがて品質の下落を起こし、相対需要は減少に転じ、万一決定的な不備が発生した場合、1社の独占では需要も供給も全て水泡に帰してしまう可能性が出てくる。

この事から競争、競合の無い生産は極めて脆弱な生産になるのであり、では競合に拠って対立が深まればどうなるかと言えば、冒頭の総量的遺失の増大に繋がるのであり、ここで大切な事は独占に向かう方向と、競合、競争にはバランスが必要になると言う事である。

人間社会で全員の意見が一致する事は有り得ないし、有ってはならない。
またいつの場合でも話し合いで妥協できるとも限らない。
しかし競合をなくして1つになれば滅び、競合が激しくなって対立すれば総量的遺失が増大し疲弊する。

つまり完全滅亡を避けようと思うなら対立は必要条件なのだが、これを深くしてはならないと言う事なのかも知れない。

現代民主主義の物理的意思決定は「多数決」である。
しかし「多数決」で全てが解決する訳では無い。

多数決の前には「こう思います」と言う意思表示が必要になり、「これに対してあなたはどう思いますか」と言う問いかけが必要になり、多数決の後でも少数意見となってしまった人たちをどう救済して行くかを考えないと、対立に拠る総量的遺失が増大し、結果としてその国家は疲弊する。

同時に多数決と専横を取り違え、少数意見を排除してしまう、或いはナショナリズムから排他的な行動を取ってしまうとどうなるか、それは1社の独占と同じであり、最終的に待っているものは「いつかの滅亡」である。

日本もアメリカもその政府は、どうもこうした「対立による総量的遺失利益」と言うものが考えられていないように見受けられる。
僅差で敗者側になった人たちの事をどうするのか、彼らを抹殺するつもりかどうかと言う事である。

もし抹殺してしまえないのなら、彼らの生活や生命の維持に対し、多数決の勝者はリスクの責任を負っている。
それとも抹殺するなら、冒頭の10m四方の土地を1人欠けた状態で耕さねばならず、やがて残った1人ともいつか対立すれば自分1人で土地を耕さねばならない。
多数決の専横はこのいつか1人で土地を耕さねばならなくなる道に同じなのである。

総量的遺失利益が0と言う事は有り得ない。しかし一つの国家の中で対立から相手を押さえ込めば、そこには総量的遺失利益の増大が待っている。
この矛盾した形の比率は、実は多数決に措ける少数意見の数、或いはその意見に対する尊重の割合に比例する。

どうやら合衆国の新大統領がただの愚か者である事が判明した今日、これまで合衆国が守ってきた総量的遺失利益の抑制法、つまりは秩序を、今度は世界各国で合衆国に取り戻させてやらねばならないのではないか・・・。
今の合衆国を見ていると、かつて太平洋戦争で敵国であった日本を、「昨日の敵は今日の友」と語った偉大な国家の在り様を見るべくも無く、誇りを失ってしまった野犬のような哀れさが感じられる。

その哀れさに「様子を見るだけ」の日本政府は既に哀れさすら通り越している。
この混乱のさなかに憲法改正に心血を注いでいる日本政府は、もはや北条高時の様相と言うべきだろう。

多様性は力であり、多くの異なる意見はリスク回避の女神である・・・・。


ちなみにこの「総量的遺失利益」と言う言葉は信頼できる情報筋からの話で・・・。
かつて政治評論家の三宅久之氏(故人)に誰だったか忘れたがインタビューアーが「信頼できる情報筋とは何ですかと尋ねた時があり、三宅氏はニコニコ笑いながら、自分を指差していた。そう言う事である(笑)



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「敵は本能寺」

キリスト教原理主義の一部ではこう言う考え方が存在する。

「裏切りの罪は敵対よりも深い・・・」

裏切りと言うのは途中まで、或いは一部までは味方の動きになるから、それが裏切りである事、いつ裏切るのか、どの部分で裏切っているかの内、一つでも知る事ができていれば、これを逆に使って行く事ができる。

しかし一般的に裏切りは、その本人に取っても一番最後の工程になる為、相手に取って最も致命的な時に発生する事になり、更に裏切られた者がそれを信じていた場合の恨みは極めて深い。

一方敵対している者は、ある種姿が見えている状態である事から確定因子であり、少なくとも味方に混じっている裏切り者よりは安定した状態と言え、この意味では最も気を付けなければならない者は常に味方の内に存在し、その裏切りが予めのものか、やむにやまれぬ事情に拠ってそうなるか、そのどちらにしてもこちらが負う致命傷の程度は変わらない。

この事から少なくとも味方の内に存在する弱き者、愚かな者、事情を抱えている者を警戒する事は、味方の内にある裏切りの半分を征するに通じる。

私は第45代大統領となったドナルド・トランプ氏が大統領選挙期間中頻繁に使っていた言葉が気にかかっていた。
それは「忘れられている人たち」「私はあなた方の声になる」と言う言葉だった。
この文言はスピーチライターとして著名なスティーブン・ミラー氏(31)が考えた言葉と朝日新聞では報じているが、不遇な身の上に在る者へは深く心に訴える反面、とても危険な言葉でも有った。

ちょうど裏切りの半分を征する為に警戒すべき相手を引き込む言葉だった。

黒澤明監督(故人)は映画の中で、優位に有る武士と、劣であり弱であり愚とも見える農民の関係に付いて、農民のその劣や弱、愚が最後には優位の武士を引き込んで行く在り様を描いているが、賢い者、優位に在る者の脅威とは際限が存在する。
しかし劣勢、弱き者、愚かな者と言うのは「溺れる者は藁をもつかむ」の際限のない恐ろしさを持っている。

合衆国に限らずどの国家もそうだが、極端に裕福な者と極端に貧しい者には目が行きやすい。
だが、そうではない中間、黙って我慢している中間層のアメリカ人が、既に限界を迎えていた。
そしてこうした層のアメリカ人の事を、これまでの大統領が知らなかったわけではなかった。

こうした層に対する打つ手が無かったのであり、トランプ大統領はここに手を入れてしまった。
あれだけ合衆国内部から反対運動が起きているにも拘わらず、それでもトランプ大統領の支持者は有権者の40%なのである。
この支持率は歴代大統領の就任直後の支持率としては極めて低いかもしれない。

が、あれだけ問題の多い発言や行動をしていながら支持率が40%も存在する事の方を奇跡的と思わねばならない。
つまり、この40%とは「忘れられている人たち」、もしくは「俺、私は忘れられている」と思っていた人たちなのである。

彼らは皆トランプ大統領の言葉を信じた。
俺たちの声になってくれるなら、多少の問題発言や行動には目を瞑ろう、その代わりきっと俺たち、私たちの声を反映してくれよ・・・と言う期待が支持率40%なのである。

だが、トランプ大統領はどうやら「あなた方の声になる」と言う言葉を、大した考えもなく使っていたようだ・・・。
新大統領の閣僚人事を見てみると、大半が富豪、経済的成功者、そして個人的関係の者で占められている。

豊かな者は貧しい者の気持ちは理解できない。
成功者は経済的弱者の事など理解する事はできない。
その上で、こうした中間層の貧困問題は世界中が抱えている問題でありながら、具体的な解決策の無いものでもある。

トランプ大統領を支持している今の40%の人たちが、もしトランプ大統領が自身らの問題を解決できず、違う方向しか見ていない事が分かった時、それは敵より激しい憎悪と失望感を持つ事になる。

トランプ大統領は言葉だけの効果を狙って一番危険な支持者を集めてしまった上に、彼らが持つ問題に対する解決策は無い。
すなわち、トランプ大統領の最大の敵は、現在彼を支持している40%の支持者、その中でも熱狂的な支持者ほど、大きな敵になって行くのである。

やがて合衆国全てが敵になってしまった大統領はどうするか・・・。
より大きな敵を作りはじめる。
小さな敵同士はその前に大きな敵が現れた時、結束してこれに当たらねば共に運命は尽きる。

この事から問題の対立にはより大きな問題の出現が効果的であり、こうした傾向は第二次世界大戦中の日本がそうだったが、それ以後の合衆国でもベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争など随所で政権の危機回避の為に敵を作って結束を図った。

今新大統領は予め反対運動の多さから、就任以前に保険を掛けている。
基本的に小さな敵の前には大きな敵は、経済手法であり、トランプ大統領は経済大国となった中国をターゲットにすえているが、これは必ずしも中国でなくても良い、アメリカに損害を与える者は全て敵にできる。

この意味ではトランプ大統領は自身の人気が落ちて行くに比例して中国批判を強めるだろうが、日本など周辺諸国はこのような事態に立場を鮮明にしてはならない。

中国に対する敵対は経済的な理由である事に鑑みるなら、戦争も辞さないと言う選択肢と同じ確率で「共生」と言う手法が存在する。
「どうだ俺たちで世界を山分けしないか・・・」と言う事態も冷戦と同じ確率で存在する。
この時自国の立場をどちらかに鮮明にしていると、梯子を外された時、その国は2大国共通の疫病神になってしまう。

独裁者の愚かさと民衆の愚かさは基本的に同じものから生じ、その効果も同じである。
富裕層の心の無さは、貧しき者の節操の無さと同じで、自尊心は僻みと表裏一体のものである・・・。



「ネガティブ語録集」



Bond - Canon (Pachelbel)・・・・・

OLD PASSIONネガティブ語録集

これだけは失いたくないと思うものは一番先に失われ、必要の無いものはいつまでも留まる。

こうなって欲しくないと思う事は簡単にやってきて、こうなりたいと思う事はいつまで待ってもやって来ない。

良い事が重なるは少ないが、悪い事は簡単に重なる。

道を歩けばつまずき、立ち止まれば何かがどこからか飛んできて当たる。

雨を待てば陽の光は去らず、陽の光を望めば雨は去らない。

今日会いたい者には会えず、今日だけは会いたくない者は訪れる。

お世辞は自分を寂しくし、自慢話は人を寂しくさせる。

今日在ったものは明日には失われ、明日に得られるものは禍となる。

人は利が有ると思えば自分を訪ねるが、自分が利を得るには人を訪ねなければならない。

冬に在って春の日差しを乞い、春に在って夏の嵐を恐れ、夏に在ってその盛りが過ぎ行くを憂い、秋に在って冬の来たりを思う者は福の神を殴りつけているに同じ。

急いては事を仕損じるが、急かなければ間に合わない。

花の香りに誘われ顔を寄せれば蜂に刺される。

かぶれる漆の木を恐れず、害の無い蛇を恐れる。

過度の信頼に相対するは、敵対するより多くの労力を消失させる。

座右の銘は「四面楚歌」、玄関の色紙は「破滅」

4000年前のシュメールの石版に「今日在ったものは失われた」「何でこうも・・・・」とひたすら嘆く文言を刻んだ者が存在するが、何となく彼がなぜこうした言葉を石版に刻んだか、それが私には少しだけ理解できるような気がする。

或いは狂い始めているのかも知れない・・・・。
今夜はそんな夜だ・・・。


「国家概念の修正」・2



Jean Baptiste Maunier et Cl辿mence - Concerto pour deux voix・・・・・

当時この記事は日本国内的にはさほど注目を集める事も無く、いやむしろ戯言としてしか扱われなかったかも知れないが、2011年以降の国際社会を見ていると、当時世界が注目していた事柄は、必ずしも一笑に付してしまえる物ではなかった事を痛感する。

国家の要件である国民と領土、それに政府と言う概念の内、少なくとも政府と言う要件は緩和、もしくは廃止されても良い状態に陥っているのが現在の国際情勢ではないだろうか。

EUは崩壊寸前、経済的に困窮したヨーロッパ各国の政府はもはや何の対策もできず、ひたすら防戦一方の在り様、イギリスのEU離脱にロシアもプーチン政権の半帝政状態が復活、完全に国民の信頼を失った日本の政府機構は消極的排除から、アベノミクスが宙吊りになったまま、白痴のような現行政府が継続され、アメリカに至ってはついに国家が理想と現実によって引き裂かれた状態に陥った。

だがヨーロッパ各国、ロシア、日本やアメリカでも国家が崩壊して皆が難民になった地域が出ただろうか、昨日まで自由だった外出が制限され、強制収容所へ送り込まれただろうか、結果として何も変化は無かったのではないだろうか・・・・。
主権や民主主義は制限されただろうか・・・。

主権や民主主義が制限されたとするなら、現行の政府に拠って、それが為されてはいないだろうか。
この意味では中国共産党の例を取るまでも無く、世界的に国家の繁栄を阻害しているものは、その国家の政府と言う現実が現れ始めているのではないかと言う気がする。

世界秩序は国家の要件を国民、領土、政府と定めた事から、これまで政府要件は必須うと考えられてきたが、この事が不本意な選択肢の中から仕方なく選ばれる国家代表を生じせしめ、それによって国家は疲弊する。
むしろ政府は国家国民の足かせになっているのが現実ではないだろうか・・・。

また経済の停滞から、政府干渉による経済政策が主流となった国際社会に措ける議会の在り様も、政府と一体化してしまい、ほとんどその機能は失われ、各国ともその地方議会などでは完全に装飾、それも汚く趣味の悪い装飾にしかなっていない。

これらは以後完全に国民生活から乖離して行く方向に有り、やがては必要が無くなって行くだろう。
やがて政府や議会が無くても民主主義や国民主権、国家が維持されて行く現実は明白になり、そこから世界は新たな秩序、新たなシステムを模索して行く。

この世界に「永久機関」が存在できないように、どんなシステムも完全、永遠で在り続ける事はできない。
それは三権分立、議会制民主主義も同じである。

トランプ次期合衆国大統領の演説の前に、この記事の事を頭の片隅に置いて聞いて頂ければ、多分その事が実感できると思う・・・。






「国家概念の修正」・1

以下の記事は2011年1月8日に、このブログ内で私が執筆したものだが、まずこれを読んで頂きたい。

国連の規定による国家とは、「国民」が存在し、「領土」が確定され、「政府」が存在することをしてその要件を満たすが、この要件は第三国をして「認証」されなければ効果が無く、従って国際社会はこうした要件を満たす地域を、全て国家と看做すかと言えば、そうではない。

政治的、軍事的、領土的、民族的な観点から自国に不利な地域の国家的独立は認めず、自国利害に関係の無い地域、または自国がそれによって有利になる地域のみ、主権国家として承認している。

だがその一方、こうして既に一度「国家」として承認されていながら、国連条項を満たしていない国家、若しくは事実上要件が満たされていない国家も存在するが、ではこのような国家は国家として看做されないのかと言うと、それはまた違う。
こうしたことから国家と言うものは一度それが認証された後であれば、国連条項の「国家」の概念が失われていても、国家として承認し続けられると言う矛盾した側面を持っている。

そして大変興味深いことではあるが、20世紀までの国際社会に措ける「国家要件」の崩壊は「他民族の侵略」、「革命」「戦争」などによって政府が崩壊、領土が侵略されることによるものだが、これが21世紀ともなれば自国内部の経済政策や、政策によって「政府」が存在しない状態となる現象が現れ、それによって事実上、主権国家要件を失う国が現れてきた。

世界は今政治制度的な観点から、2つの国に注目しているが、その一つは「ベルギー」、そしてもう一つは「日本」である。
「ベルギー」は現在「政府」が存在していない。
いわゆる国連が規定する国家要件の1つである政府が無い状態なのだが、この状態は昨年6月に行われた総選挙後、2011年1月7日現在で208日間となっている。

ベルギーは工業的には豊かな北部オランダ語圏と、どちらかと言うと貧しい南部のフランス語圏に別れるが、前者をフラマン系と言い、ベルギー全人口1000万人の内、60%がこの文化圏に属しているが、後者のフランス語圏はワロン系と言い、こちらは全人口の30%を占めている。

少し乱暴な区分ではあるが、簡単に言うならフラマン系とは「ゲルマン民族」であり、ワロン系とは「ラテン民族」の事だと思って頂いても構わないだろう。

そしてこうした国内を2分する言語文化圏を背景に抱えながら、言語が違う文化圏でも、政治的には近い思想を持つ政党が多数ひしめくベルギーの政党は、少数乱立政党状態となり、また経済政策や政策を巡って対立が深まっていることから、最低でも5つから7つの政党が連立しない限り、政権を維持できない状態となっていて、こうした背景から連立交渉は捗らず、「無政府」状態となっているのである。

ベルギーのこうした状態の基本的な原因は南北対立にあるが、経済的に豊かな北部は自分達が支払った税金が、何もしないで補助金として南部救済に使われることに対し、大きな不公平感を持っていて、そこで地方への権限移譲を推進して、地域ごとの独立採算制に近い政治体制を望み、これに対して貧しい南部が反対していると言う大まかな図式がある。

今回の無政府状態も208日を日々更新し続けているが、この以前にも2007年には、194日間の無政府状態が存在しているのは、こうした根深い経済的対立が横たわっていたからに他ならない。

だがここで不思議だと思うことは無いだろうか。
「どうして政府が無いのに国が動いているのか」、素朴な疑問としてこうしたことを思うが、このベルギーの無政府状態は、大変な混乱であると同時に、我々がこれまで信じてきた国際政治が一種の幻想、神話だったこともまた物語っているように私は感じる。

ベルギーでは現在の時点で経済的な混乱や、治安維持に関する混乱が起こっておらず、市民生活は平常どおりなのである。
つまりベルギーでは政府が無くても国民の権利は保護され、経済も動いていて、何らの問題も起こっていないことを考えるなら、「政府」とは一体何なのかと言うことである。

国連の規定である「政府」は現実には政治的な観点であり、結局のところ国家として、また国民としての要件とはならないのではないかと言う疑問が浮上してくる。

元々地方に対する権限委譲が進んでいたベルギーは、その上にEUへ政治的に依存し、またこうした状態が長く続けば、大きな財政赤字を抱えていることから、いずれは国家的な信用不安を迎える恐れもあるが、少なくとも数百日の単位で政府が存在しなくても国家は存在し続け、また経済活動も影響が無い事を鑑みるなら、一体「政府」や「議会」と言ったものは何だったのだろうか。

我々はその教育の中で司法、立法、行政と言う3つの権利が、それぞれ干渉しないように独立している政治体制、国家権利体性を理想として教えられてきたが、この概念は基本的に国民生活に直接の影響を及ぼすものではなく、言わば権利の濫用を防止する一つの方策に過ぎなかったことを、認識する時期に来ているのではないだろうか。

つまりここで言うところの「三権分立」は、管理機構の不正防止以上の効力を持っていない、と言えるのではないだろうか。
いわんや議会、政府が無ければ国民の生活は窮乏し、国家は存続し得ず、民主主義も守れないとしたこれまでの概念は、ではベルギーの現実の前に、「蟻の一穴」どころか大型重機で堤防が破壊されたくらいの衝撃が有るように感じる。

そしてこれはロンドンの研究機関の非公式見解だが、ベルギーの状況と日本の政治状況は実質同じであり、この2国の今後の推移を見ることで、これからの国際社会は、今までの秩序の修正を検討すべきかも知れないとしている。

日本に措ける民主党政権は、事実上「小沢」と「反小沢」の2つに割れ、そして抗争を繰り返し、その期間既に1年以上、日本は事実上の無政府状態だが、ではその国民の殆どが難民状態になっているだろうか。
経済が崩壊しただろうか。

これまでの西洋史観、政治学からすれば、現状のベルギーや日本は既に国家として成立していないはずだが、しかし現実を鑑みるなら、政府や議会が崩壊しても国家は崩壊しないと言うことなのではないのだろうか。
つまり政府が存在して、議会が無ければ国民が生活できない、民主主義が守れないと言うこれまでの定義は幻想、神話となったのではないかと私は思う。

その上で更に言うなら、こうしたベルギーや日本などの国は、これから世界に先んじて、今までの概念を打ち壊した新しい秩序を構築するに、最も近いところにある国なのではないかと言うことである。



「基礎因数」



水曜日のカンパネラ『チュパカブラ』・・・・・

大平原に1本の木が存在する時、生物はそれを避ける、近寄るにしてもその1本の木を指標にする。

同様に2本の木が存在する時、そこに間隔、長さと、「外」を感じる事になり、木が3本になると限定された空間「平面」を理解する。
更にたとえば洞窟や上に木の枝などが存在する時、生物はこれを避けるために「高さ」を理解し、その高さに比して窪んだ場を「比較」する。

これが立体の理解に相当するが、1次元から3次元の理解は、こうした形の理解で全体の93%が理解されているものと考えられる。

つまり3次元の意識は人間が考える意識と同等であるか否かは別として、少なくとも哺乳類では全て初めから理解されているものと考えられ、また数の概念も、猫が子猫の数を意識している事はもとより、鳥類でも卵の数は把握されていて、これが1とか2とか言う数字で理解されていなくても、彼らがその環境で生きていくに必要な範囲で理解されている。

こうした傾向は非有機体でも現象として存在し、モデルケースでは一定の水流の中に1本の棒を入れ、そこに発泡スチロールの屑を流して行くと、この1本の棒に発泡スチロールの屑が集まる群れと、避けていく群れができて、これが2本になるとやはりその間隔の中と外の概念が形として見え、3本では平面の内と外ができてくる。

この事から、我々人類は自身の意識が有るから、直線や平面を理解していると考えているが、それが意識されようとされまいと同じである事に鑑みるなら、理解や感情と言うものも一つの非有機体的運動の深読み、過剰意識と言うものなのかも知れない。
もっと言えば人間は自身の感情や英知と呼ばれる知識を、過大評価し続けてきたのかも知れない。

人類の数の概念は、その指の数に端を発していると言われているが、ではそれより多くの数の理解はどうなったかと言うと、数で読めないにしても「多い」と言う感覚的概念が発生するのであり、この事は他の哺乳類や鳥類も同様の理解である。

そしてそれが1とか10と言う具合に数学的フレームで表現できるか否かで正否が成立する訳ではない。
数としての概念が無くても、それを認識して理解すると言う点に措いては数学的理解のみが正しくて他は全て誤りとは言えないのである。

人間の数の概念は人間社会の一つのフレームであり、この理解を万能、崇高と考える方が狭義の理解であり、数で数えることができないから理解できていないと考える方が危険なのである。

我々人類が築いた都市、その人の集まりのモデルケースは一見、政治や経済と言う人間社会の事情に拠ると考えられているが、ここに水流に刺された1本の棒のような物理的非有機体運動モデルが否定される根拠もまた持たない。
場合に拠っては事象を人間の都合の良いように解釈し、それを理解や英知と読んでいる可能性すら有り得る。

数字の1から3を、私は基礎因数と呼んでいるが、1は全ての数に関与し、2は数全体の関係の中で、おそらく75%に関与できるだろう。
同様に3は数の関係式中、推測でしかないが20%ほどに関与しているものと考えられる。

どうして2が3より多くなるかと言えば、例えば奇数である3の倍数だけでも、11の次の奇数は13、その次は15、11の前は9だから、3で割り切れる奇数は間に2つの奇数を挟む、また3の倍数の内偶数になるものが倍数の交互にやってくる事だけを考えても、2の関与数は圧倒的であり、奇数配列は1と独立数を除けば、3が関与する数列が順位の優位性を持つ。

どこかで聞いたような話になって行く様な気がしないか・・・。
1は指標、そして2は長さの縛り、3は平面の縛り、冒頭の木の話に同じような事なのであり、では人類が10くらいしか数を意識できない時に億や京の単位が存在しなかったかと言えば、物理的には初めから揃っていただろう。

ただ、それが必要なければ存在せず、必要になれば現れてくるのである。

また哺乳類の生殖は魚類の繁殖に比べれば2重構造になっていて、哺乳類の受精後のガードはきわめて慎重なものになっているが、これは環境に適合するのが極めて困難だった為と解釈されている。
しかし、氷河期が終って生物があらゆる可能性を試した時期にはこれよりはるかにガードの堅い生物が発生していて、しかしわずかな期間で滅亡している。

同様に人間が生きて行く為のシステム、本能も生まれてから獲得するバイオプログラムに拠って完成するが、こうした仕組みは発生後完全化する金属合成過程にも同様の傾向が見て取れ、もっと簡単に言えば沸騰したお湯の状態と、人間の感情起伏が私には同じに見えるのである。

人間は多分何京と言う単位後の数字の中に並ぶ連続奇数配列、それ自体が独立数なのだろうが、数全体の中で及ぼせる影響は全くと言って良いほど無く、常に1から3までの数の支配を受ける。
それゆえ独自の存在を確定したいがために事象の解釈を行って行く過程で、基礎因数の存在を軽く見ているかも知れない。

感情があるから優れているのではなく、人を愛せるから立派な存在なのでもない。
知識や英知が有るから何でもできるわけでは無い。

形だけを見れば人間の感情のようなものは金属や水にも存在し、それが動いて行く姿には英知と同じ流れが有り、感情や英知がこの地球で最も崇高なのでは無い。

今AIの進歩によって、いずれ非有機体生命とも共存して行く時代を迎えるだろうが、人間が信じる感情や英知、知性こそが正しく、生命と言う有機体である事を優位と考えているのでは、先に行って対立しかなくなるだろう。

AIの進化は今始まったのではなく、それは気が付かないだけで初めから揃っていた。
そして結果もまた初めから揃っている事だろう・・・。

必要としなければ存在せず、必要とすればそれは現れる・・・。



「新年」



Kalafina 『storia』・・・・・・

いつもそうだが、年末年始と言うのは私にとって鬼門なのだろう・・・、と言うよりもしかしたら自身そのものが鬼門なのかも知れない・・・。

12月に入った頃から嫌な予感はしていたが、どうしても断れない仕事が2件、断ることができない仕事が2件、その上に自分がやらなければ他ではできない技術を使った仕事が入ってきて、これは断ると関わった者全体の信用問題に繋がる為、断れなくなっていた。

加えてたった2人しかいない状態で、代表はかなり以前から約束していた仕事で、12月20頃から既にこちらの仕事には手がつけられない状態だった。

30日につく予定の餅は27日に全て餅米を水に浸し、その日に仕事が入ってくる。
徹夜して31日の未明までに仕上げて、31日の午前中に納品、それから買い物をして掃除に取り掛かり、家族に天麩羅蕎麦を食べさせ、車も洗車して飾り付けを終わったら大晦日の夜10時だった。

気が付けばもう1週間も風呂に入っていない。
大晦日と言うに薄汚れた体で新年を迎えるのも如何と言う気がして風呂に入ったが、洗濯物を放り込んだ洗濯機は水が上まで貯められた状態で止まってしまい、以後どうしても電源が入らなくなった。

仕方なく、捨てようと思いながら置いてあった2槽式の古い洗濯機を確かめたら、こちらは生きていて、しかも蛇口も生きていた。
そこへ洗濯物を放り込みながら、壊れた洗濯機の水を手でくみ出し、やっと洗濯が終ったら11時20分だった。
紅白歌合戦など夢のまた夢で布団に入った。

1月1日は朝から餅つきで、これも本当は年末30日の予定だったが、既に水に浸し過ぎた感のあるもち米を蒸しながら、餅にしながらを繰り返し、2升一塊の餅を合計23臼作り、これが終ったのは1日の夜だった。

翌2日は煮物の材料がないことに気が付き、これを買いに2日から開いている大型小売店へと車を走らせ、油揚げ5枚、厚揚げや蒲鉾、ちくわや豆腐、ニンジンにゴボウなども買い込んで、1万円出して2700円ほどのつり銭が出た。

私はスーパーへ買い物に行く時、1万円以上絶対に持たない。
これはなぜかと言うと、必ず財布を忘れたり、つり銭を忘れたりするからで、方向音痴の原因でもある初めから道を覚える気がないのと同様、初めから忘れないように努力する気がないからである。
この辺に関して私は絶対自分を信じることができない、いや自分だからこそ信じられない。

ひどいときには1万円出して2400円の物を買い、おつりはすっかり忘れて帰った時もあれば、1万円近く買い物をして全部忘れて家に帰ってしまった事もある。
私はこうした事、忘れることには自信を持っている、もっと言えばプライドを持っているといっても良いか・・・(笑)

で、2日はこうして煮物や家族用に料理の蓄えを作って年賀状を書いていたら終ってしまい、3日は朝から餅を切って頼まれていた分を納品し、取引先や知人へ送付していたら夕方になり、ここで少し音楽を聴こうと思ったら、11月頃から調子の悪かったSONYのコンポが完全誤作動状態になり、分解したらレールが磨り減っていて、SONYの部品は調達が難しい。

他のメーカーならパソコンでも秋葉原で部品を調達できるが、SONYは部品が特殊で、しかも自社関連以外には絶対部品を供給しない。
つまりモグリで修理してしまうことができないシステムなのである。

仕方なく諦めて、正月休みになっている中古オーディオの通販ショップで、片方の出力60WのCDアンプを5900円で注文、ついでに洗濯機もネットで予約注文し、これで3日は終ってしまった。

そして4日、正月飾りを外しながら、流石に30日以降、もう4日も仕事をしていない事に気が付き、恐怖にかられて仕事に取り掛かるが、気温が下がり始めて乾燥が遅れ、なかなかはかどらない。
結局夜遅くまでかかりながら、残った結果は憔悴のみと言う状態だった。

5日は仕事をしていたら、注文していたCDアンプが届き、これをスピーカーに繋いで音を鳴らしてみたら右側から音が出ない。
一瞬送り返そうかとも思ったが、送料を考えると勿体無い。
この手の接続不良は大体場所が分かっている事から分解してみると、やはり予想通りの部分がハンダの劣化を起こしていて、それをハンダ付けすると、CDアンプは見事に復活。

しかし、「俺はこんな事をやっている場合か・・・」と落ち込んでいたら、市民運動に力を入れている知人が訪れ、広報用の原稿の依頼を受け、仕事をしながら、寝ながら文章を考え、翌日6日早朝には2時間かけて原稿を仕上げ、USBにも収めて届けに行くついでに買い物もしようと財布を捜したが、どうしても財布は見つからない。

しまった落としたか置き忘れたか、と気づいても時既に遅し・・・。
多分2日に買い物に行ったときに無くしただろうから、記憶をたどるのは無理と諦めた。

しかし、財布の小銭はともかく、免許証を入れていた事を思い出した私は、原稿を知人に渡すとすぐに警察署に行き、再発行の続きを取ろうとしたが、係りの事務官は笑いながら紛失届けを出しておけば、再発行までには時間がかかりますから、2、3日探してみてください、との事だった。

なるほどと思い家に帰って夕飯の支度をしていると、右半身が動かない父親が肋骨が痛くて呼吸ができないと言い出した。
しかし6日、金曜日の既に夕方、かかりつけの総合病院はもう閉まっている。

父親は仕方なく連休明けまで待つと言ったが、その日と言うか、もう7日になった直後の12時頃、痛くて痛くて仕方ないと騒ぎ出し、ここで救急車を呼んだが、病院で検査しても肋骨は折れていない。

また打ち身などの症状もないので、点滴を1本打って家に帰されたものの、父親の痛みは止まらないらしく、7日の昼ごろにはもう一度救急車を呼べと騒ぎ出し、私は為す術もなく無視した状態になった。
やがて父親は体調が悪くて寝ていた妻のところまで杖をついてやってきて騒ぎ始め、ここでショックから一挙に心臓が悪化した妻もパニックになってしまった。

地獄とはまさにこの状況だった。
私は心の中で、もしかしたら自分は前世で相当悪い事をしていたのかも知れんと思ったが、そこへ後ろから猫がやってきて、その姿を見ていたら、「いや、俺は違う。今初めてで、これが最後だ」と、どこかで胸を張った。

病院へ電話して痛み止めを処方して貰った私は、帰ってくるなり父親にそれを飲ませ、今やっと父親は1日ぶりに静かになった。
でも、仕事はまったくはかどっていない・・・。

今年も中々良い正月だった。
おまけに今年は何かが大変になりそうな予感だが、こうした状況から私は「おみくじ」を引けなかった。

万年凶男の私は、どこかでおみくじ程度の事で自分は何も変わらないと思うようになった。
凶だろうが大吉だろうが、私は何も変わらない・・・。
そう今は思えるのである。

ちなみに無くなっていた財布は今朝、大根と油揚げの味噌汁をつくろうとして冷蔵庫を開けたら、2枚の油揚げの間に入っていた。
千円札はしなしなになっていたが、その千円札で父親の薬の代金を支払った。
警察署には紛失届けの取り下げを連絡したが、係官からは「それは良かったですね・・・」と、どこかで笑顔が感じられる言葉が帰ってきていた。

皆さんに取って、今年は良い年で有りますように・・・。
今年もどうぞ宜しく。



「手紙」



Kalafina 『夢の大地』・・・・・

新しい年を迎えるに付き、謹んで之にお慶びを申し上げます。

またこの瞬間も仕事をしている人が必ずいて、その人に拠って私たちはこうして新しい年を祝う事ができてもいるでしょう。
心より感謝申し上げます。

新しい年に、なぜか今は言葉が出てきません。
ただ、この楽曲と映像の技術を或る者に贈り、「君の戦いは戦争であり、自身の全てを投げ打ってでも戦う価値の有るものだ」とだけ伝えたい。

まだ年賀状も書いていなければ、餅も今朝やっとついた状態だが、この世界の片隅で君の戦う後姿を頼もしく思っている。

本年も宜しくお願い申し上げます。


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この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

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「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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