2017/01/31
「対立による総量的遺失利益」
【アニメトランス】アンインストール【YURIE】・・・・
比較的寒冷な地域の10m四方の土地に、3人が春蒔きのほうれん草を植えるとする。
この時2人が2月後半に植えたいと考え、1人が寒さには強いほうれん草とは言え、霜の被害を考えるなら3月中旬が良いと主張し、意見が食い違ったが、2対1の多数決で2月下旬にほうれん草の種を蒔くことに決まった場合、「多数決だから従え」と言う事であれば、3月の種蒔きを主張していた人は面白くなくなる。
当然作業にも力は入らず、何かに付けて2人には不満を言いたくなり、そこでもし強霜が来て生育に影響でも出ようものなら、「そらみた事か・・・」と言う形にしかならない。
だが、この時もし2月植えを主張する2人が、3月植えを主張する人と話し合いをして、では3月の初めで妥協するから、それでどうかと言う提案をしていたとしたら、「よし分かった、じゃ3月の初旬で行こう」と言う事で折り合いが付いていればどうなるか・・・。
1人が力の入らない作業していた分の非効率は生産性に転じ、尚且ついっその事、協力して3段階に種蒔きの時期をずらして生産すれば、安定した長期の出荷が可能になると言う発展的な話にまでなるかも知れない。
万一霜が来ても、すぐに3人が協力して耕しなおして復活させる事もできる。
この時本来対立していなければ得られた協力や、効率の良い生産性が存在する場合、意見の食い違いによって対立したケースでは失われた非生産性、作業に力が入らないなどの非効率が発生する事になる。
対立の無い状態と対立が生じた状態を比較するなら、対立は必ず総量的な遺失利益を生じせしめる事になる。
この原理は資本主義の「拡大」と表裏一体の関係にあり、例えば強力な資本を持つ1社が市場を独占したとき、利益の独占は当然理解できるかも知れないが、同時にリスクの独占と言う側面が忘れられる。
市場に3社で物品を提供している場合、少なくとも3つの違った方向からのチェックが入る。
これは競合と言うものだが、これに拠って1社でチェックするよりは厳しいチェックが入り、その分品質は向上し、長い目で見ればその品質の向上は需要を喚起する。
しかし1社でこれを行っている場合は、そのチェックはどうしても甘くなり、やがて品質の下落を起こし、相対需要は減少に転じ、万一決定的な不備が発生した場合、1社の独占では需要も供給も全て水泡に帰してしまう可能性が出てくる。
この事から競争、競合の無い生産は極めて脆弱な生産になるのであり、では競合に拠って対立が深まればどうなるかと言えば、冒頭の総量的遺失の増大に繋がるのであり、ここで大切な事は独占に向かう方向と、競合、競争にはバランスが必要になると言う事である。
人間社会で全員の意見が一致する事は有り得ないし、有ってはならない。
またいつの場合でも話し合いで妥協できるとも限らない。
しかし競合をなくして1つになれば滅び、競合が激しくなって対立すれば総量的遺失が増大し疲弊する。
つまり完全滅亡を避けようと思うなら対立は必要条件なのだが、これを深くしてはならないと言う事なのかも知れない。
現代民主主義の物理的意思決定は「多数決」である。
しかし「多数決」で全てが解決する訳では無い。
多数決の前には「こう思います」と言う意思表示が必要になり、「これに対してあなたはどう思いますか」と言う問いかけが必要になり、多数決の後でも少数意見となってしまった人たちをどう救済して行くかを考えないと、対立に拠る総量的遺失が増大し、結果としてその国家は疲弊する。
同時に多数決と専横を取り違え、少数意見を排除してしまう、或いはナショナリズムから排他的な行動を取ってしまうとどうなるか、それは1社の独占と同じであり、最終的に待っているものは「いつかの滅亡」である。
日本もアメリカもその政府は、どうもこうした「対立による総量的遺失利益」と言うものが考えられていないように見受けられる。
僅差で敗者側になった人たちの事をどうするのか、彼らを抹殺するつもりかどうかと言う事である。
もし抹殺してしまえないのなら、彼らの生活や生命の維持に対し、多数決の勝者はリスクの責任を負っている。
それとも抹殺するなら、冒頭の10m四方の土地を1人欠けた状態で耕さねばならず、やがて残った1人ともいつか対立すれば自分1人で土地を耕さねばならない。
多数決の専横はこのいつか1人で土地を耕さねばならなくなる道に同じなのである。
総量的遺失利益が0と言う事は有り得ない。しかし一つの国家の中で対立から相手を押さえ込めば、そこには総量的遺失利益の増大が待っている。
この矛盾した形の比率は、実は多数決に措ける少数意見の数、或いはその意見に対する尊重の割合に比例する。
どうやら合衆国の新大統領がただの愚か者である事が判明した今日、これまで合衆国が守ってきた総量的遺失利益の抑制法、つまりは秩序を、今度は世界各国で合衆国に取り戻させてやらねばならないのではないか・・・。
今の合衆国を見ていると、かつて太平洋戦争で敵国であった日本を、「昨日の敵は今日の友」と語った偉大な国家の在り様を見るべくも無く、誇りを失ってしまった野犬のような哀れさが感じられる。
その哀れさに「様子を見るだけ」の日本政府は既に哀れさすら通り越している。
この混乱のさなかに憲法改正に心血を注いでいる日本政府は、もはや北条高時の様相と言うべきだろう。
多様性は力であり、多くの異なる意見はリスク回避の女神である・・・・。
ちなみにこの「総量的遺失利益」と言う言葉は信頼できる情報筋からの話で・・・。
かつて政治評論家の三宅久之氏(故人)に誰だったか忘れたがインタビューアーが「信頼できる情報筋とは何ですかと尋ねた時があり、三宅氏はニコニコ笑いながら、自分を指差していた。そう言う事である(笑)