「春の日」



悲しむべきを悲しみて猶、悲しまず。

苦しむべきを苦しみて猶、苦しまず。

怨むべきを怨みて猶、怨まず。

喜ぶべきを喜びて猶、喜ばず。

 

道を求めて、道を求めず。

色を求めて、色を失い。

鳥のさえずりを聞きながら、それが聞こえず。

花を見ながら、それが見えず。

人を求めて、それを遠ざけ、

 

ここに在りながら、ここにはおらず、

死を思いて生き、生を思いて死に辿り、

どこにも在らずして、全ての場に立ち、

失うをして得、得ながら失い、

思いながら思わず、語りながら語らない。

 

桜花の一ひらとて、わが手中に落ちながら、

次の瞬きには風がそれを運び去る。

 

全て自分の物にして、自分の物は何一つ無い。

                            Old passion
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「遠い日の姿」

その電話がかかってきたのは仕事をしている最中だったが、既に話し声から始まって緊張している様子が伺え、して電話の内容はと言えば祭りの寄付金を出して頂けないかと言うものだった。

「おー、そう言えば春祭りの季節だったな・・・」
「しかし、市内の祭りにこんな山奥にまで金を集めないと苦しいのか、幾ら出せば良い・・・」

そう尋ねる私に電話の声は「幾らでも結構ですのでお願いします」と言う返事だったが、昔なら市内の事業主の寄付は1万円、周辺の山村は五千円だった事から、「では五千円で良いか」と聞くと、電話の向こうでも頭を下げているかも知れないくらいの感謝ぶりで、「2.3日内にお伺いしますので、宜しくお願いします」との事だった。

そして3日後、玄関には叩けば割れるのではないかと思えるほど緊張した表情の若者が2人立っていて、彼らを座敷に通して菓子を出し、お茶を入れたが、どうも益々緊張する一方で、特に恰幅の良い方の男性に至っては具合が悪くなるのではないかと思える程だったので、仕方なく私から話を盛り上げねばならない事になって行った。

「まあ、膝を崩して茶でも飲んでくれ」
「はあ!有り難うございます」
「宮司にあの男はすぐ怒るから気を付けろと言われたか・・・」
「いえ、そんな事は・・・」
「どうだ、見ると聞くとでは大違いだろう」
「大男で鬼瓦みたいな顔ならもう少し楽だったんだが、現実は見ての通りだ」
「予想通りでなくて申し訳ない無いな・・・」

そう言って頭をかく私に少し安心したのか、2人とも茶椀を手にし始めた。

「早速だがまず金の話からしようか」

私はそう言って近くに置いてあった財布を取ったが、中には用意してあった五千円札が見当たらず、よく考えてみると午前中ヤフオクの代引き荷物の支払いに使ってしまった事を思い出し、仕方ないので1万円札を出した。

「おつりを出します」

痩せた方の男性がそう言ってバッグに手を伸ばしたが、私はそれを止めた。

「神社の賽銭箱に1000円入れて、500円のつり銭は取れない」
「祭りの寄付を集めるとは、神に代わって奉納金を集める事だからな・・・」
「つり銭は無いんだよ・・・」
「えっ、じゃ1万円頂いても良いのですか」
「うん、あんた等は運が良かった、これも神の采配と言うものやも知れん」

これを聞いて畳に額がくっつくほど頭を下げる2人に更に私は続ける。

「さっきも言った通り、神社の寄付金を集めると言うのは、神に代わって金を集める事だから、本当は本人が宮に出向いて奉納すべきものを集めに回ってやってると思った方が良い、それくらいのものではないか」

「そんなに緊張せずとも、2人とも神の名代だから、もっと強気で行かんと金は集まらんぞ」
「賽銭や奉納金は少し惜しいくらい出して初めてご利益(ごりやく)があるものだ」
「少し多めに出させるのは本人の為だからな・・・」
「では、これは領収書です」
「おー、神様から領収書か・・・、しかしこれが世の慣わしなら、拒めばあんたらが迷惑を被るか・・・」

私はそう呟いて領収書を受け取ると、手を付けなかった菓子を半紙に包み、玄関でそれを彼らに渡し、何度も頭を下げながら車に乗っった彼らの、その車が遠く見えなくなるまで見送った。

遠い昔、私も彼らと同じ時が有った。
相手は国会議員でも選挙で顔を出すときは緊張すると言っていた初老の市議だったが、どんな恐い人なのだろうと思っていたら、「おお、若い者か、まあ上がれ」と言って私たちを座敷に上げてくれ、先ほど私がした話をしてくれたのだった。

あなたから教えて頂いた事は、確かに若い者に伝えましたよ。

これで私は責任を果たしましたよ・・・。




「プロ仕様」



春よ、来い - 松任谷由実・・・・・

父親の診察が2回、妻の診察が2回、私は一ヶ月に都合4回、それぞれ方角が逆の病院に行く事になっているが、この内父親が診察を受ける病院でちょっと不思議と言うか、変わった人物を目にしていた。

くだんのそれは年齢なら60歳を少し超えたくらいだろうか、白髪交じりの長髪でいつも黄色いキャンノンの、多分30年位前のスタッフジャンパーだろうと思うが、それを着て特段診察を受ける様子も無く、カメラをぶら下げて病院内を歩いていた。

カメラはイオスmarkⅡだろうか、レンズも28~70mmF2・8、つまりキャノン赤帯レンズで、キャノンの普及用レンズの帯色は金だが、プロ仕様のレンズは赤になっていて、プロ仕様の方がレンズのF値は明るく、為に価格も普及用レンズの5倍から10倍近く高額になり、くだんの男性はこれにキャノンプロストラップを付けていた。

カメラメーカーは一般のカメラストラップとは別に、職業カメラマンにはプロ仕様のストラップを配っていて、キャノンの一般ストラップはブルーだが、プロ仕様はエンジ色で、ニコンの場合はこれが一般用は黄色で、プロ仕様がブルーだったかと記憶している。

つまりこの男性は頭から足元までプロですよ・・・と言っているような出で立ちだったのだが、そもそもプロのカメラマン、それも本当に忙しい人は目立つプロストラップなどは避けるのが普通で、海外などではそのストラップだけで狙われるケースも有る代物を、堂々と肩から下げて病院内をうろついている光景は、私に取ってとても不思議な光景だった。

また月に2回しかこの病院に来ないのだが、その度にこの男性は同じ装束で大きなレンズのカメラをぶら下げて歩いていたので、もしかしたら彼は毎日病院に来ているのかも知れなかった。
ただプロのカメラマンは絶対こうした事はしない。

みんな何某か具合が悪いから来ている病院は、治療の為の施設だから、その中で写真撮影をする為には目的を申告して時間を決め、患者に迷惑がかからないように撮影時間も必要最低限に切り詰める配慮が必要で、特にこうした撮影に拠って利益が得られる写真の場合は尚の事デリケートになる。

それに毎日カメラのファインダーを覗いていたら、正直な事を言えばカメラなど見たくもないのがプロカメラマンと言うもので、用もないのに大げさな機材を持って病院をうろつくなど有り得ない。
頭から足元までプロ仕様は、逆に言えば酷いアマチュアであると言いながら歩いているようなものだ。

昔、一時期報道カメラマンの荷物持ちのアルバイトをした事が有ったが、その時私が使っていたカメラはニコンF3とニコンFM2だった。

このカメラは万一電池が切れても250分の1秒だけはシャッターが切れるカメラだった。
また泥だらけになっても、少しくらい雨が降ってきてもそれで壊れる事は無く、これに50mmF1・4のレンズと、135mmF2.8のレンズがくくりつけの状態で使っていた。

貧しい地域では高額な大きなレンズを使っていると恐がられるし、もしかしたら何か武器を向けられたと勘違いされて逆に射殺される可能性もある。
単焦点の明るいレンズは小さく壊れにくく、画像の褶曲も少なく、水や泥が付いても洋服の袖で拭けば何とか写真は撮れる。

原色や赤系のストラップなどそれだけで命の危険があり、フィルムなども黄色いパッケージのまま持ち歩くと、落とした場合目だってしまう。
必ず事前にパッケージから出して黒いプラスティックの円筒形パッケージの状態にして持ち歩くのが普通で、カメラも基本的には洋服のポケットに収まる程度に留めないと、場所に拠っては襲われる危険性が有ったものだった。

ストラップはそれを使える余裕のある場合は良いが、瞬間を捉える時は邪魔になる。
ストラップの紐がレンズの前に来てしまう事が有って、これを跳ね除ける時間分だけ瞬間には遅れる。
ポケットからカメラを取り出しながら、被写体までの距離を目測で計り、ピントリングを回しながら、ファインダーを覗く頃には既にピントが合って、露出計の動きを待っているくらいでなければ間に合わない。

そしてこれだけの事をやっていても、私はプロではなかった・・・。
アルバイトの小僧だった訳で、金になる写真など1枚も撮れたことは無かったし、お前はこの仕事には向いていないと言われ続けていたが、こうして振り返ってみるなら、その通りだったとも思う。

ニコンのF3は海外で荷物共々強盗に取られてしまったが、ポケットにいれてあったFM2は今も手元に置いてある。
尤もシャッター幕の何枚かが曲がっていて、シャッターを切れば異音もするが、このカメラを見ていて思う事は懐かしい昔の事ではなく、不思議な事になぜあの時強盗たちは私のポケットまで探らなかったのかと言う疑問である。

命が有った事も然ることながら、ポケットを探らないなど強盗としては2流の仕儀である。
バッグを開いたときカメラが入っていて、見れば汚い格好の小僧である。
もしかしたら、彼らは見逃してくれたのかな、「小僧、いつか良い写真撮れよ」と言ってくれたのかも知れないと、すっかり甘くなった今の私は思っていたりするのである。

この前、例のカメラマン男性は、病院で折ってきた猫柳をカウンターに置いて受付嬢2名を入れて写真を撮っていたのを目撃したが、明らかに迷惑そうな彼女らの表情と、カメラを構えている角度からして写っている光景はおおよその察しが付く。

しかも近くには眼科も有るのにフラッシュ撮影だったから、彼はここが日本であることを幸運に思うべきだろう。
海外だったら警備員が呼ばれて取り押さえられている可能性がある。

診察や治療を受ける事もなく、大きなレンズのカメラを病院に持ち込み、そこでフラッシュ撮影など基本的には犯罪行為に近い。
大目に見ても「変質者」である。

念願叶ってプロ仕様のカメラとレンズ、それにグッズを手に入れて嬉しい。
これを持っていれば女の子の関心も引けるのではないか、と考える男性の気持ちも分からないではないが、60歳前後の男としては極めて幼い。

彼の描く夢と社会は反比例の関係に有り、彼がはしゃげばはしゃぐ程社会は彼を警戒する。
その事が解っていない所が、悲しいところだが、人の夢とは大なり小なり彼を笑えない部分を持っている。

私が一生懸命だとか、頑張っている、或いは情熱とか言う言葉を警戒するのは、人の思いとは常に勘違いだからである。



「姐さん撮影モード」

これから桜の季節を迎えるが、この桜を綺麗に写真で撮るコツは「青空」との対比であり、尚且つ本来褒められた考え方ではないが、例えば桜の枝が茂るその奥に綺麗なお姉さんが歩いて来て、桜もお姉さんも写したいと言う欲張りな状況が有ったとする。

(この場合女性のケースではイケてるメンズと言う事になるが)基本的に手前のものと奥に有るものはカメラからの距離が違うため、両方綺麗にピントが合焦する事は有り得ない。

被写界深度と言って、レンズの絞り「f」を絞ると手前から奥まで焦点が合う距離を伸ばす事も可能だが、これだとピントは一応合っているが、どこかでは切れ味が悪い感じになり、そもそも絞りを大きく絞ると露光時間を長くするか、或いはフィルム感度を上げるかと言う他調整の犠牲がでる。
つまり「瞬間」は捉えることが難しくなる。

そこで桜も良いが奥を歩いているお姉さんは尚良い、と言う場合、デジタルオートフォーカスカメラで桜はまあまあ、奥のお姉さんにビシッとピントを合わせるには、まず多点測距のカメラなら、それを解除して測距点を少なくし、その測距点にお姉さんが入るように撮影すると、お姉さんは綺麗に写り、桜はまあまあになる。

多点測距では無いカメラの場合、ズームが付いているレンズなら、望遠にして画面一杯にお姉さんを引き寄せ、そこでオートフォーカスでピントを合わせ、シャッターボタンを半分だけ押した状態にして、ズームを元の画角、桜も入る状態まで広角側に戻すと、ピントは奥のお姉さんに合ったまま、手前の桜は適度にぼやけた状態で写る。

隣にいる恋人や女房殿には桜を撮影しているように見えて、綺麗なお姉さんの撮影、成功である。

この手法はマニュアルフォーカスフィルムカメラでは良く多用された方法だったが、望遠でピントを合わせ、ズームを戻して合わせたピントは初めから広角側で合わせたピントよりは僅かに綺麗にピントが合う。

しかし、絞りが固定される場合と、固定されない場合では写真の明るさに差が出るため、明るさを奥のものに合わせる場合は「絞り固定」、全体の明るさを尊重する場合は、「絞りオート」にして置くと良く、被写体が白に近いものはプラス補正、暗いものはマイナス補正すると、デジタルオートフォーカスでも綺麗な写真を撮ることが出来る。

またここではお姉さんだったから問題は無かったが、これが妙齢のおばさん、もとい!、姐さんだった場合はどうなるか・・・。
基本的に姐さんは明るい太陽の光の下で撮影してはならない。

特に夏の日差しの真上からの光は、本人的には気持良いかも知れないが、妙齢の姐さんに取っては致命的な事になる。
シワが全部写ってしまうので、本人が自覚している以上に老けた感じになって写り、撮影者には何の責任も無いのに、「あんたの腕が悪いから、こんな写り方になった」と言う事にされてしまうのである。

であるから、こうした妙齢の姐さんの撮影は基本的に「曇り」の日を使うのが常識で、少し本格的にやるなら「レフ板」(これは120cm×70cmのダンボール板にアルミホイルを貼り付けても良い)で、太陽光を起こして光を下から姐さんに浴びせて撮る。

だがもしこれが海で、努力の甲斐有って三段腹が引っ込み、本人自身満々で「撮って、撮って」となった時どうするか、そのまま撮影すれば後の悲惨な状況は目に見えている。

ここは緊急にフラッシュを使おう。
フラッシュは画面をのっぺりした感じにしてしまうので、姐さんのシワには有効だが、ここでの注意はフラッシュのガイドナンバーと絞りの関係で、例えばガイドナンバー13のフラッシュ光はフィルム感度100の場合、撮影時にレンズの絞り値2・8なら4mまで届くが、これが絞り値5・6なら2mまでしか届かない。

フラッシュ光の届く範囲はフラッシュガイドナンバー÷絞り(f)で計算し、夏の太陽光は結構凄いので、これよりは更に3割近づいて撮影しないと綺麗にシワは消えない。

更に非常事態、カメラにフラッシュが内蔵されていない時、余り好きではないが「白飛び」を使おう・・・。
姐さんには太陽に顔を向けるように空を仰いで頂き、これを露出オーバー、それも補正などと言う生易しいものではなく、絞りなら1段、2段、シャッター速度なら適正が1000分の1秒なら、250分の1秒くらいで撮影し、ここではカメラの警告は無視して撮影する。

仕上がった写真はまるで狐の嫁入り状態だが、シワが吹っ飛び、見た目には10歳以上も若く見える事になる。
現実はともかく、姐さんの機嫌を損ねるのはとてもまずい・・・。

「いやー・・・露出オーバーで失敗しました」と言いながら白飛びで10歳以上も若く見える写真と、現実には忠実で有っても、本人自覚より10歳老けて見える写真では、悪戯に現実を頑張る事には「危険」が伴う。

カメラにはシャッター速度優先モード、絞り優先モードなどのモード撮影機能があるが、人生には「姐さん撮影モード」も在ると思った方が良いだろう。

ちなみに写真で女性の年齢が顕著に出るのは首と手と足首であり、足首などはストッキングやソックスなどでごまかす事は出来るが、手や首はごまかせないので、ここにはレフ板で光を足してやると自然な感じで年齢の補正が可能になる。

手などは出来るだけ手の内側を写せば年齢は出にくいが、手で一番表情が出るのは手の甲の部分であり、場合に拠っては顔以上に表情が出る時がある。

最後に呪いの人形の撮影に付いて。
人間の顔の表情が光に拠って違ってくるのと同様、人形も光に拠って表情が違ってくる。

例えばひな祭りは終ったが、お雛様を朝の横からの光を使い、アップで舐めるように撮影すると、どこかで片方の目が小さく写り、悲しげな表情を見せるケースが有り、この写真をプリントアウトして、それをもう一回マクロ撮影すると、更に不安定な存在感の写真になる。

人形は実は常に顔の表情が違うのが普通であり、これは経年劣化や水蒸気含有量などでそもそもが微妙に変化する為であり、これに光が当たる条件が加わると、実は同じ表情の時は一度も無いのである。

怒ったように見える、笑っているように見える、泣いているように見える・・・。
人間同様、人形もまたいつも同じで在り続ける事はできず、この世に存在するあらゆるものは、良く見れば物質も含めて昨日も今日も、明日も同じでは無いのであり、無常は普通なのである。

長く写真をやっている人には釈迦に説法になったかも知れないが、
Mさん、少しは役に立ったかな・・・。


「仮想性の傾き」



Just Before The Sunrise歌詞つき・・・・

一般的に小切手の場合、それに拠って何らかの代金の支払いを受け、指定銀行などで換金しようとして換金できなかった場合、つまり支払い義務を持つ者の口座に支払いを充当するだけの現金が預金されていない、或いは自動融資契約が為されていない場合、小切手は銀行などの金融機関へ持ち込んだ本人に返却される。

この意味に措いては小切手決済では約束手形などで発生する決済関係の流出、簡単に言えば「不渡り」にはならない。
取引と支払いを巡る関係が公にならない為、悪質な経営者だと預金が無いにも拘わらず小切手を支払いに発給し、支払いの時間を延長する手法を使う場合もあり、これは「線引き小切手」、小切手の決済日が指定された小切手の場合も同じである。

だが、例えば小切手に記載された金融機関と同じ金融機関に自身が口座を持っていて、その口座に小切手の額面を入金してもらうよう金融機関に依頼したとしたら、つまり金融機関に小切手の取立てが依頼されたとしたらどうなるか、この場合に小切手が決済されないと、約束手形の「不渡り」と同じ事態が発生する。

小切手で「不渡り」が発生し、小切手の発給と、発給者が予想もしない債権者の取引関係や人間関係に拠って、こうした取引が2回発生すると銀行取引停止となり、小切手の支払いを受けた者が、その小切手を第三者の金融機関に債務弁済として供した場合も、その相手が金融機関で有れば同様の結果となる。

我々は小切手と聞くと現金かそれに準じた支払いのように思うかも知れないが、実は小切手でも前出のように「不渡り手形」としての仮想を持ち、反対に手形でもその決済が毎回確実に行われているなら、小切手に近い仮想を持つ。

言うなれば私たちが見ている現実とは、仮想の傾きなのであって、この傾きを決定しているものが市場と言う実際の取引であり、今実際に多くがそうなっていると言う事が、仮想を現実として見せていて、この事を確かに「現実」と言うのである。

だが、これが小切手を支払う者もそれを受ける者も同じだったらどうなるか・・・・。
外からその取引の実態は全く見えず、そもそも小切手の発給者と受給者が同じであれば、その経済は基本的にプラスマイナス0であり、これに関わったものが有る分だけ損失になる。

市場と言う現実の判断を持たない小切手は、現実側に傾いた仮想にならず、憶測と言う極めて不安定な判断材料で現実と仮想が瞬時に入れ替わる流動性の現実に支配される。

日本経済は現在こうした状況に有って、しかも国内総生産の2倍超もの借金が有る訳だから、ここが発給する小切手が第三者、ここでは政府、日本銀行とその下部組織で有る普通銀行を小切手の発給者と見做すなら、その小切手が内部で回っている間は仮想の傾きが無い。

信用も無いが裏切るとも限らない状態となるが、ひとたび外、市場や民間に流出すると瞬時に信用の失墜が始まる。

政府の債務を日本銀行が買い取り、日本銀行が異次元緩和で出した金は300兆円、この金は民間銀行が買い取って日本銀行の当座預金口座に眠っているが、もし仮に世界経済が好況に傾いたなら海外の金利は上昇し、民間銀行はこの凍結されている預金を海外運用せざるを得ない。

これを見過ごせば円安は限界を超え、インフレ率はコントロールできないレベルにまで上昇し、抑制するには日本銀行は民間銀行が預けている当座預金の金利を上げなければならないが、金利を上げれば1年間で100兆円を超える規模の財源が必要になり、日本銀行は一挙に不良債権銀行に陥る。

この状態を何とかできるのは政府の政策、法案だが、その肝心の政府が日本銀行に債権を買い取ってもらっている現実は、損失に対する財源の確保が無い状態を招いている。

世界経済の回復は日本経済に取ってデメリット、もっと言えば世界経済の好況は日本を破綻に追い込む事になり、ではその反対に世界経済の低迷が良いのかと言えば先にも述べたように、支払いも、それを受け取る側も自分では利益は出ようが無い。

どうしても外から利益を持ってこないと、消耗品や人件費の分だけが確実にマイナスになって行く為、海外から利益を得ない限りこれを埋めることも出来ない。
つまりここでは海外の金利上昇、好況感がないと日本はそもそもの利益を確保できないのだが、これは相互矛盾であり、世界経済が復活しても、このまま低迷が続いても日本経済は浮かび上がれない、損失の道をまっしぐらの状態な訳である。

加えて経済大国第3位と言う傾いた仮想は、万一日本経済が破綻した場合、救済できる国家、組織が無いと言う仮想も現実に傾かせている。

アメリカも中国もIMFも日本が破綻した場合の経済的政策は持っていない。
既にこの規模の破綻を救う国家も組織も初めから世界には存在していないのであり、ではどうなるかと言えば、太平洋戦争終結直後の日本経済、政府政策以外に解決の方法は残されていない。

国民の預金、資産を一旦全部ご破算にし、裸いっかん、一から出直しになるが、戦前と違い残っている者は労働力としては心細い高齢者ばかりと言う事になる。

1950年の「シャウプ勧告」、連合国側の日本税制調査使節団の勧告は、終戦直前の日本の税制を調査し、その是正勧告を行ったものだが、ここでは国税54%、地方税37%にも及び、その殆どが「間接税」であり、尚且つ国民の収益が余りにも低すぎる事から、複雑化した税制でも税収は少ない状況だったと言われている。

今日本はこうした終戦直前の税制状況の73・2%くらいの状況まで税制が間接税化、複雑化し、税に拠って行われた財政投融資の費用対効果は0であればまだ良い方で、その殆どがマイナスになっている。

株価経済の仕組みは流動性の現実であり、昨日100億円の利益は、今日には200億円の損失と言う具合の激しい流動仮想である。
これに一喜一憂している間に現実の市場、国民生活はどんどん経済破綻と言う仮想に傾き始めている。

長くて10年、早ければ5年以内に日本経済は間違いなく破綻し、この時期を決めるのは日本政府でもなければ日本銀行でもない。
長期低金利から抜け出せない世界情勢である。




「滅」



The Rose Andre Rieu・・・・・・

私は少年の頃の勘違いから「四面楚歌」を良い言葉だと思っているところが有り、確かに敵に囲まれた、そこから故郷の歌が聞こえて来た時には、祖国の人まで寝返ってしまったのかと言う絶望感もあるだろうが、反面、その悲しいまでの情景で歌が聞こえてくる、祖国の人は何を思って歌っているだろうと思えば、「よっしゃ、最後の一戦、祖国の者たちよ、私の姿を心に焼きとめて置くが良い、そしていつか祖国を取り戻してくれよ・・・」と言う覚悟も生まれるような気がするからである。

同様にもう一つどうしても好きな言葉があり、それは「滅」と言う字だ。
自分が死んだ日には「死んだ」とは言って欲しくなくて、「滅んだ」と言って欲しいと思っている。

「滅」と言う字は結構賑やかな字であり、火を取り囲んで大勢の人が色んな道具を使って消そうとしている姿が現れ、それに一番大きな影響を与えるであろう「水」が置かれている。
だが、火そのものは存在し、その火を中心にした話なのである。

火が在って、それを消す為に周囲が集まった、火に拠って周囲が存在できる字であり、この事は何を意味するかと言えば、「無」ではないと言う事なのだろうと言う気がする。
どこかでは「今は消えているが・・・・」と言うニュアンスが有り、遠い先には薄く弱いが間違いのない再生復活が潜んでいるように思われる。

「滅」の「火」は自身からそれを消失しようとしているのではなく、周囲から大勢の者が沢山の道具を持ってきてやっと消えた状態になった、消えた状態にしたと言う事であり、ここにはそれだけ大きな「力」だった事が伺え、尚且つ基本的には「他力」に拠ってそうなった、周囲の環境でそうなったと言う事である。

私は「滅」と言う字の遠い日の復活を思って好きなのではなく、「死」は人間が動けなくなった状態であり、「滅」ともなれば骨まで灰になって折からの強風でそれが砂塵と共に吹き飛ばされ、跡形もなく消えてしまうような潔さがあり、そこが何ともたまらない・・・。

だがこうして考えてみると、「死」は状態であるから、少なくとも動けなくなった形は残っているが、「滅」の状態は「消えてなくなった状態」であり、「死」より更に先に一歩進んだ状態、しかも消えてなくなった状態になるが、ではここからどうして薄く弱くにでも遠い日の復活が潜むのか・・・。

それは「火」に要因が在る。
「火」はそれを使う者に取っては眼前の現実の一つだが、一方「火」を使わないで生きて行ける人間は少ない。
個人が所有する「火」の本質は「その他多くの火」の中の一つであり、これを消したところで、いずれ他の所から同じものが必ず起こって来る。

「滅」のいつか遠い日の復活とはこう言うことではなかろうかと思う。

世の中に同じものが多く存在し、それの一つの管理を間違えば、大勢で消さねばならなくなるが、その本質、種は尽きる事のないものを、その時その場では消してコントロールしたと言う意味だろうと、私は解釈している。

それゆえ「滅」と言う字には、周囲を敵に囲まれた「非秩序」であり、たった一人でもいつか隙が有ったら見てろよ・・・と言うような、或いは「俺が滅んでも世に同じ者は沢山存在する。いつか必ずそうした者達が、滅ぼしたお前らを滅ぼす日が必ずくるからな・・・」と悪態をついているように見えるのである。

「火」と言う字が小さくなっても周囲を睨み付けている気がするのである。

一般的な解釈では「滅」を「入滅」から逆算して「涅槃」と言う部分に初源を求めるものが多いが、涅槃と「滅」は違う。
涅槃は一が全体と同じになった状態であり、この意味では「滅」に近いが、涅槃には「いつかの復活」、どこかで個に集約するニュアンスがない。

近い概念だった「涅槃」をどこかの時代の仏教が「滅」としたのだろうが、滅の一にして全体の概念は、あまねく存在し、いつでもどこでも同じものが出て来れる事を暗示していて、本質は複数の個の集約の関係を表し、それは未来永劫安定したものではなく、明日には同じ運命が自身を待ち受けている事をも意味する。

「火」と周囲を取り囲む「個の集約」の関係は、たまさか今は「火」が囲まれているが、その関係はいつ逆転するかは分からない、その状況を現している。
自身は消えてなくなるが、その同等のものは決して潰えない、そう言う意味だろうと思う。

消えて無くなっても猶、決して尽きる事が無く、絶対諦めなかった。
「滅」と言う字を見るとき、私は何故かどこかで「力」を感じるのである。
たった一つである事を誇りに思え、消えて無くなる事に誇りを持て、上から押さえつけられ小さくなってしまった「火」がそう言っているように見えるのである。

さて今夜はこれで終っても良かったが、いつもの記事からすると少し文字数が少ないので、仏教関連の話で「永代供養」の話もしておこうか・・・。

一体どこの時代のどんな馬鹿者がこんな事を考えたのか解らないが、この世の中で永代に渡って供養されるもの等存在しない。
人の屍はいつか風雨に晒され、その下から草が生えてくるを正しい姿とする。

金を払って僧侶や寺に頼んだとしても、その寺や僧侶が永遠ではなく、今金を受け取った僧侶や管理会社の担当が滅んでしまば、受け取った金の効力は次の代にまでは及ばない。
自身すら滅んで居なくなるのに、それを他人に頼んで永代に供養してもらえると考える方がどうかしている。

そんな自身に都合の良い話がどこに存在しようか。
滅んで無くなって以後、永代の供養に資する人間など、この世に唯の一人も存在しない。

また、そも、仏陀は永代供養などと言う馬鹿な事を推奨しただろうか、仏教の古典経典にはどこにもそんな事は書かれていない。
むしろそのような愚かな事はするなと書かれていたはずである。
頼む方も頼まれる方も自身が永遠に生きて責任を負えない事を知りつつ、それを頼み、引き受けるなど、既に人としての、いや生き物としての領分を超えている。

死者への供養の影には自身の怯えと弱さが潜んでいる。
死して猶自身の存在が在った事を人に覚えておいて欲しいと思ってはならないし、残された者もそれにすがって生きてはならない。

万世にたった一つの命は、生まれてくる時も一人なら、死んでいく時もまた一人・・・。
個の集約は片っ端から滅び、その上に新たな個の集約が止め処もなく生まれ、生まれ、生まれてくる。
過度な装飾を施すは、禍となる。

厳しすぎるかな・・・(笑)





プロフィール

old passion

Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

[このサイトは以下の分科通信欄の機能を包括しています]
「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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