The Rose Andre Rieu・・・・・・
私は少年の頃の勘違いから「四面楚歌」を良い言葉だと思っているところが有り、確かに敵に囲まれた、そこから故郷の歌が聞こえて来た時には、祖国の人まで寝返ってしまったのかと言う絶望感もあるだろうが、反面、その悲しいまでの情景で歌が聞こえてくる、祖国の人は何を思って歌っているだろうと思えば、「よっしゃ、最後の一戦、祖国の者たちよ、私の姿を心に焼きとめて置くが良い、そしていつか祖国を取り戻してくれよ・・・」と言う覚悟も生まれるような気がするからである。
同様にもう一つどうしても好きな言葉があり、それは「滅」と言う字だ。
自分が死んだ日には「死んだ」とは言って欲しくなくて、「滅んだ」と言って欲しいと思っている。
「滅」と言う字は結構賑やかな字であり、火を取り囲んで大勢の人が色んな道具を使って消そうとしている姿が現れ、それに一番大きな影響を与えるであろう「水」が置かれている。
だが、火そのものは存在し、その火を中心にした話なのである。
火が在って、それを消す為に周囲が集まった、火に拠って周囲が存在できる字であり、この事は何を意味するかと言えば、「無」ではないと言う事なのだろうと言う気がする。
どこかでは「今は消えているが・・・・」と言うニュアンスが有り、遠い先には薄く弱いが間違いのない再生復活が潜んでいるように思われる。
「滅」の「火」は自身からそれを消失しようとしているのではなく、周囲から大勢の者が沢山の道具を持ってきてやっと消えた状態になった、消えた状態にしたと言う事であり、ここにはそれだけ大きな「力」だった事が伺え、尚且つ基本的には「他力」に拠ってそうなった、周囲の環境でそうなったと言う事である。
私は「滅」と言う字の遠い日の復活を思って好きなのではなく、「死」は人間が動けなくなった状態であり、「滅」ともなれば骨まで灰になって折からの強風でそれが砂塵と共に吹き飛ばされ、跡形もなく消えてしまうような潔さがあり、そこが何ともたまらない・・・。
だがこうして考えてみると、「死」は状態であるから、少なくとも動けなくなった形は残っているが、「滅」の状態は「消えてなくなった状態」であり、「死」より更に先に一歩進んだ状態、しかも消えてなくなった状態になるが、ではここからどうして薄く弱くにでも遠い日の復活が潜むのか・・・。
それは「火」に要因が在る。
「火」はそれを使う者に取っては眼前の現実の一つだが、一方「火」を使わないで生きて行ける人間は少ない。
個人が所有する「火」の本質は「その他多くの火」の中の一つであり、これを消したところで、いずれ他の所から同じものが必ず起こって来る。
「滅」のいつか遠い日の復活とはこう言うことではなかろうかと思う。
世の中に同じものが多く存在し、それの一つの管理を間違えば、大勢で消さねばならなくなるが、その本質、種は尽きる事のないものを、その時その場では消してコントロールしたと言う意味だろうと、私は解釈している。
それゆえ「滅」と言う字には、周囲を敵に囲まれた「非秩序」であり、たった一人でもいつか隙が有ったら見てろよ・・・と言うような、或いは「俺が滅んでも世に同じ者は沢山存在する。いつか必ずそうした者達が、滅ぼしたお前らを滅ぼす日が必ずくるからな・・・」と悪態をついているように見えるのである。
「火」と言う字が小さくなっても周囲を睨み付けている気がするのである。
一般的な解釈では「滅」を「入滅」から逆算して「涅槃」と言う部分に初源を求めるものが多いが、涅槃と「滅」は違う。
涅槃は一が全体と同じになった状態であり、この意味では「滅」に近いが、涅槃には「いつかの復活」、どこかで個に集約するニュアンスがない。
近い概念だった「涅槃」をどこかの時代の仏教が「滅」としたのだろうが、滅の一にして全体の概念は、あまねく存在し、いつでもどこでも同じものが出て来れる事を暗示していて、本質は複数の個の集約の関係を表し、それは未来永劫安定したものではなく、明日には同じ運命が自身を待ち受けている事をも意味する。
「火」と周囲を取り囲む「個の集約」の関係は、たまさか今は「火」が囲まれているが、その関係はいつ逆転するかは分からない、その状況を現している。
自身は消えてなくなるが、その同等のものは決して潰えない、そう言う意味だろうと思う。
消えて無くなっても猶、決して尽きる事が無く、絶対諦めなかった。
「滅」と言う字を見るとき、私は何故かどこかで「力」を感じるのである。
たった一つである事を誇りに思え、消えて無くなる事に誇りを持て、上から押さえつけられ小さくなってしまった「火」がそう言っているように見えるのである。
さて今夜はこれで終っても良かったが、いつもの記事からすると少し文字数が少ないので、仏教関連の話で「永代供養」の話もしておこうか・・・。
一体どこの時代のどんな馬鹿者がこんな事を考えたのか解らないが、この世の中で永代に渡って供養されるもの等存在しない。
人の屍はいつか風雨に晒され、その下から草が生えてくるを正しい姿とする。
金を払って僧侶や寺に頼んだとしても、その寺や僧侶が永遠ではなく、今金を受け取った僧侶や管理会社の担当が滅んでしまば、受け取った金の効力は次の代にまでは及ばない。
自身すら滅んで居なくなるのに、それを他人に頼んで永代に供養してもらえると考える方がどうかしている。
そんな自身に都合の良い話がどこに存在しようか。
滅んで無くなって以後、永代の供養に資する人間など、この世に唯の一人も存在しない。
また、そも、仏陀は永代供養などと言う馬鹿な事を推奨しただろうか、仏教の古典経典にはどこにもそんな事は書かれていない。
むしろそのような愚かな事はするなと書かれていたはずである。
頼む方も頼まれる方も自身が永遠に生きて責任を負えない事を知りつつ、それを頼み、引き受けるなど、既に人としての、いや生き物としての領分を超えている。
死者への供養の影には自身の怯えと弱さが潜んでいる。
死して猶自身の存在が在った事を人に覚えておいて欲しいと思ってはならないし、残された者もそれにすがって生きてはならない。
万世にたった一つの命は、生まれてくる時も一人なら、死んでいく時もまた一人・・・。
個の集約は片っ端から滅び、その上に新たな個の集約が止め処もなく生まれ、生まれ、生まれてくる。
過度な装飾を施すは、禍となる。
厳しすぎるかな・・・(笑)