「放射線」



Adiemus-Beyond the Century・・・・・

放射線被爆に拠る人体の影響に付いては、過去、一定の線量以下で有れば被爆しても安全だとする考え方が長く迷信的に信じられてきたが、こうした考え方を一定の数値を超えなければ影響が出ない「しきい値仮説」と言い、この一方で安全とされる微細線量でも影響は免れないとする考え方を「しきい値なし直接仮説」(LNT仮説)「linear non threshold hypoyhesis」と言う。

放射線微量被爆の危険度は実測数値では現す事ができず、ここでは単位被爆当たりの危険度が高線量被爆の場合と同様の比例数値であろうとする仮設もまた否定できず、一般的に放射線被爆では高線量被爆は確定的に人体に悪い影響を及ぼすが、微量放射線量被爆に措ける影響とは良い影響と、悪い影響を総称する「影響」が有り、微量放射線被爆に拠る細胞の活性化やX線治療技術など良い影響の事を「放射線ホルミシス」(radiation hormesis)と言い、「バイスタンダー効果」や「ゲノム不安定」などは微細線量被爆の悪影響側の側面である。

細胞一つ々々を分別して放射線を照射すると、直接放射線を照射された細胞に隣接する細胞も同様の影響を受ける事が解っているが、これを「バイスタンダー効果」と言い、この現象を想定するなら、単位面積当たりの放射能被爆線量は微量被爆の方が大きく影響を受ける事になり、遺伝情報の書き換えまでは及ばないまでも、これを正確に伝える部分が影響を受け、結果として遺伝情報が不安定化する現象、これを「ゲノム不安定」と呼ぶが、この効果でも微細放射線被爆の方が影響は大きいとされている。

また「放射線」とは分子をイオン化できるエネルギーを持つ電離放射線の事を言い、生命体が悪影響を被る事は原理的に確実なのだが、電気が流れる場所には必ず発生する電磁波なども広義では「放射線」である。

我々は放射能と言えば過剰までに警戒するが、これと同等か親戚のような「電磁波」の事は考えない。

しかし、照明器具で頭から放射線を浴び、パソコンやタブレットが放出する電磁波で顔を洗っているようなものであり、後生大事に放射線発生源の携帯電話やスマートフォンを眺め、耳に当てている訳である。

近年電磁波と癌の関係を疑う学説も発表され始めているが、癌についてはその昔はこの病気そのものが知られていなかった為、癌による死亡例が少なかったと言う考え方の一方、電気や電化製品の普及に連動して癌の発症が増加しているとする考え方も出始めている。

地球に措ける「しきい値」は「純粋構成閾値」(じゅんすいこうせい・しきいち)が少なく、多くは「多在性閾値」(たざいせい・しきいち)であり、ここでは水の影響を受けるに、その水が純粋な水で有る事を問わない。

つまり水が泥水であっても、中に砂利や砂が入っていても、一定の量になるとその量を構成する一番大きな成分の影響が発生する形式になっている。

もし放射線被爆に措ける影響がこうした地球で見られるしきい値(閾値)の中に在る場合、そのしきい値の中にLNTが存在し、LNTの中にしきい値が存在するかも知れず、この場合放射線被爆の影響は純粋に1つの性質の放射線だけを想定する事が出来ない。

あらゆる性質の放射線が複合的に加算されて一定の量に達した時、その総量の中で一番大きな量を占める放射線の影響を受ける。

つまり有害放射線量が計算上人体に影響が無くても、他の電磁波などの放射線を含んで一定の数値に達すると、その有害放射線の影響が出てしまう事を考えなければならない。

便利さや経済重視の考え方が蔓延する今の世界だが、そう言う思想に拠って放射線と言う見えない現実が省みられない事は、もし線量被爆の影響が地球で一般的な「多在性しきい値」だった場合、ある日突然、大変な事になる可能性も生じせしめている。

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「足音が近づいている」

暫く休もうと思っていたが、どうも日本に対する北朝鮮からのミサイル攻撃の可能性が少し上昇している気がするので、これに警鐘を鳴らしておく。

日本は極東地域の中で孤立し、アメリカ合衆国と同盟関係に有る。
この為合衆国と対立が深まっている北朝鮮が、打開策として日本海側の比較的人口密度が少ない過疎地域に向け、ミサイル攻撃を仕掛ける可能性が軍事作戦上排除できない。

北朝鮮の直接的な敵国は韓国だが、この韓国は慰安婦問題に拠って半ば日本と準敵国条項の状態であり、更には朴大統領の逮捕など、現状では北朝鮮がこれを攻撃して得られるメリットは小さい。
戦闘に拠って北朝鮮そのものも大きな深手を追うが、アメリカに脅威を与え、攻撃しても周囲の中国や韓国からも非難が出にくい情勢に鑑みるなら、日本の人的被害が少ない地域へのミサイル攻撃を考える事は有り得る。

それで無くても日本海の漁船が航行している海へ平気でミサイル発射実験をしている実績に鑑みるなら、威嚇としてのミサイル攻撃は、北朝鮮に取ってそう大きな抵抗ではない。

秋田県、新潟県、能登半島、鳥取、島根県境、福岡県西部県境は今この時点からミサイル攻撃に対処しておく必要があり、北朝鮮のミサイル照準の誤差傾向は方角よりも角度、つまり距離に対する照準精度が低い。
この事から安定しない距離照準精度は、威嚇して非難を少なく抑えるには人口密度の少ない地域を狙うと有効だが、その事が照準精度の悪さに拠って仇となる可能性がある。

つまり人口密度が低い地域を狙って、実際に着弾する時は人口密度が高い地域と言う可能性が排除出来ない。

また合衆国のトランプ大統領の排他的移民政策、難民受け入れを巡ってナーバスになっているヨーロッパ諸国の情勢を考えるなら、合衆国を敵に回す事で得られるであろう、味方となる地域や国家も少なくない現実を考えると、この時期は北朝鮮のチャンスとも言える。

軍事作戦ではモラルや人道、常識などと言うぬるい事を考えていたのでは手遅れになる。
その状況が揃ったら、どんなに有り得ないと思う事でも警戒しておかないと先制攻撃で壊滅的な打撃を被る事になる。

敵の概念は様々有るが、敵だから攻撃されると言う簡単な考え方では軍事上の勝利は厳しく、その効果が最も大きく、しかも反撃の可能性が少ない相手への攻撃は、本質的な敵への攻撃に優先され、日本の現実はこれを攻撃しても世界で一番非難が少なく、しかも先進国の攻撃と言う点では最も威嚇効果が大きい。

この現実は常に忘れてはならない。

北朝鮮には現在40から60の36時間以内にミサイル搭載可能な、濃縮ウラン型核兵器が存在する。
しかし北朝鮮のミサイルはともかく、この発射台の施設に関しては驚くほど前近代的な思想しかなく、この為に射程距離の長いミサイルほど制御は運任せになっている。

北朝鮮のミサイルは近距離でも照準誤差が大きく、命中精度は50%前後であり、これが中距離では30%、遠距離ミサイルに至っては4%以下の制御になっていて、これらを総合するなら、どこに飛んでくるかは「神のみぞ知る」状態と言える。
場合に拠っては海に向けたものが日本領土に着弾と言う事態すら有り得る。

日本には少しずつ「戦争」や「攻撃」の足音が近づきつつある。


「旅をする」

そろそろ田起こしの用意を始めようかと納屋を掃除していたら、なにやら外でどこかで聞いたことの有る鳥の鳴き声、思わず窓を開けてみると、そこへ勢い良く黒い刃の切っ先のような者が入ってきた。

「おお、今年も来たか・・・」
「家を憶えていてくれたのだな・・・」

私はそう呟いて上を見上げたが、そこには一つがいの燕が嬉しそうにさえずっていた。
どうやら今年もまた始まったようだ・・・。
何より体が不自由になってしまった父親がきっと喜んでくれるだろう。

81歳になる父親はいつも燕が来る家は栄えると言っていたが、多分これは逆だろう。
家に人がいるから燕がやってきているのであって、彼らは繁栄を約束するものではない。
繁栄している、何とか人のいる家であればそれはどこでも良いのであって、私の家に繁栄をもたらす為にやってきている訳ではない。

また鳥は本来帰る為の「巣」を持たない。
「巣」はあくまでも卵を孵して(かえして)幼鳥を育てる時期だけのもので、それ以外の時は天を屋根に木枝を枕にしている事は雀から始まって吉祥の鳳凰まで同じでは無かったかと思う。

彼らが飛んでいる空間「場」やとまっている「場」は、彼らが強引にそれを作り出したのではなく、最初に「場」が存在し、それに従って彼らの存在する「場」が出来ているはずであり、これは人間もまた然り。
しかし人間はいつも「場」は自分が作っている、或いは自分の為に用意されたと思いたがる。

社会が悪い、人心が失われている、道徳や秩序が、愛が無い・・・。
それらは他人のせいか・・・いや、違う。

この世界を見ているのは、聞いているのは、感じているのは自分自身なれば、それが無いと思うのは、自分がそれを失っているからであり、諦めているからである。

この目の前に広がる世界は全て自分自身のもの、自分自身の世界であり、そこで諦めれば、その諦めたものが自分の中から失われる。
この世界が自分のものなら、他人はどうであれ自身がそれを守り実践する事で世界は開けて行く。

他者を責めるのは容易いが、他者がどう考えるかは他者の問題であり、それは自身には関係が無い。
自分の世界は自分で作っていかねば、全て諦めと不平だらけの世界になってしまう。

帰る家が無いのは鳥も人間も同じ事であり、最終的に「死」が存在する以上誰も永遠に一つの「場」に留まる事は出来ない。
我々は生きる事を「旅」しているのであり、生きる事を「戦っている」

それゆえこの事を忘れると自分の都合で世の中や社会を考えてしまうようになる。
物を買ったり売ったりする経済は、基本的に欲しい人がいて物が作られるのであり、その欲しい人、欲しいと人に思わせるのが社会や文明と言うものである。

これを自分中心に考えてしまうと「消費低迷」と言う本末転倒な考え方が常識化し、自然の持つ原理、最初から存在している「場」を無視して強引な「場」を作るが、これらは次の瞬間から移り変わる現実に追い付いて行かなくなる。

私は生きる事を「旅」している。
生きる事を戦かっている。

これまでもそうだったが、今も、これから先もずっと、緑の草原にたった一人、不安より少しだけ大きな希望を胸に抱いて風に吹かれている。

「さて、これからどこに行こうか・・・・」
「何が待っているだろうか・・・」


農作業も始まって来るので、暫くお休みします。
皆さんお体に気を付けて、お過ごし下さい。
では・・・。


プロフィール

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Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

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「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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