「田植え花」



Dido - Thank You・・・・・

「暦」(こよみ)の概念は大まかには4つ有る。

一つはその発音の如く一日々々を読む事を意味するが、二つ目には天体の運行から今を測る事、三つ目は何事も周期が有る事から、一つの事象が発生した時に措ける「他の事象」との関係、そして四つ目には「凶事」「好事」の占いであり、これらを総合すると暦とは過去の周期から今を知り、未来を測る事を意味している。

しかし暦に措ける天体の運行は絶対的なものだが、実際に発生する災害や天候の不順などは必ずしもこれに連動しない。
古代、メソポタミアなどではこうした天道と一致しない不順に関し、不順を基盤をした他の事象の発生を集め、ここに変則的な周期予測を求めた事が知られている。

つまり歪んだものには歪んだなりの規則性を求めて行ったのであり、この事は現代社会、特に現代農業の概念には重要な指針となるべきもののような気がする。

山陰、北陸、東北や北海道の一部では「田植え花」と言うものが存在し、この花が咲くとそろそろ田植えをしても大丈夫だと言う伝承が残っている花が有る。

「たにうつぎ」と言う桜とつつじが混じったような形の濃いピンク色の花だが、これは基本的に「霜」を警戒しての事であり、「たにうつぎ」が咲く頃になればもう霜の心配は無くなると言う意味だった。

同様に白い花をつける「うつぎ」の花も同じ時期に花を付ける事から、「卯の花(うつぎ)が咲いた、そろそろ田植えを始めるか・・・」と言う話が出てくるのだが、こうした植物の花が開花するする時期は、大まかには天道の知らしめる時期の範囲に在りながら、広域では必ずしも統一される現実が無い。

山陰と東北では「たにうつぎ」が咲く時期は異なり、例え同じ都道府県内であっても、標高差に拠っては開花時期が同じにはならない。
だが、農協や農林総合事務所などは何月何日から田植えをして、施肥は某月某日からと言う指導をしている為、日本の農業はどこか非常にせっかちな状態になっている。

田植え花の咲く頃に・・・と言うのはメソポタミアの歪んだものには歪んだなりの規則性であり、大まかな理想は天道だが、この天道は平均値であり、平均値は全てが誤差であるものの中間、つまり現実には一度も一致する事象がないものである。

「たにうつぎ」は最も眼前の事象を反映したものであり、こうした確かな事象を無視して理想である人間の統計を用いるは、まるで天候すら人間が支配できるかの如く在り様で、この傾向は多分1980年代のバブル崩壊以降激しさを増したように思うが、挙句の果ては災害はコントロールできる、必ず防ぐ事が出来る、放射能はもうコントロールできていると言うような風潮である。

そして言葉はどんどん軽くなり、「沈む陽は私が戻してみせる」の様相がまかり通る昨今、今一度自然が織り成す極めて現実的な事象を落ち着いて眺めて見ては如何だろうか・・・。

ネットやテレビ、マスメディアの情報は「平均値」の情報である。
一方、「たにうつぎ」は平均値を構成する歪みの一つ、今知ら示す確かな未来の情報である。
農事に拘わらずこの事を忘れてはならないだろう。

ちなみに「たにうつぎ」は基本的に縁起の良い花ではないとされている。
遠くから見ると濃いピンクの色は「火」に見えることから「火事花」とも呼ばれ、家に持ち込む事を禁忌としている花であり、木の中が空洞ではないが、柔らかい繊維で出来ている為に「虚」ともされていて、虚は「ふくべ」(瓢箪)に同じである。

中が空洞、若しくは芯の弱いものは、その中に「魔」がさすとされる事から、身の回りには措かない方が良く、こうして時期や場所に拠って使い分けられる花は、その時期や場所を間違えると「ふくべに遭う」(禍に遭う)事になり、同様の事例では「盆花」なども、お盆に飾られるを本旨として、それ以外に飾っていると良い感じにはならないかも知れない。

その時その場で必要なものこそが天道であり、必要のない時に必要ではない場に存在するは禍をもたらす。
この意味では言葉で天道を嵩に着て、時期と場を弁えない物事は、後日必ず禍となる。

今はもう亡き村の古老は、「藤の花が咲いたら田植え・・・・」と教えてくれた。
当時私は人よりひどく田植えが遅れていた為、慰めてくれたものと思っていたが、「藤の花が咲いたら田植え・・・・」
まさにその通りだった。

山肌のあちこちが綺麗な紫色に輝いた中での田植えは、まるで最大限の天の祝福を受けているようなものだ・・・。





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「ポピュリズム」



酒と泪と男と女 民族楽団 リチャリー・・・・・・

「明日の10万円より今日の1万円」は経済の鉄則だが、この単位は例えば1970年までは「明日の千円より今日の百円」だった。

この40年でこれだけ通貨の意識がインフレーションしたのだが、それはさておき原始経済は未来の概念が薄かった為、原則明日の約束は限定された関係の中でしか成立しなかった。

資本主義の根底は「本能」に連動したものであるから、その本質は直近の現実にあるが、では未来の概念が全く無いかと言えばそうでもない。

哺乳類や鳥類では確保した餌を保管する種もあれば、蜂や蟻なども未来に措いて必要になる食料、エネルギー交換物質を蓄える習性がある事に鑑みるなら、本能は回帰性、循環生態、社会を持つ生物の中では「未来」を包括しているものと見做される。

資本主義の形は人類が社会を形成する遥か以前から成立していた現実では有ったのだが、これが飛躍的に発展するのは15世紀から16世紀にかけて発生したヨーロッパの宗教改革であり、ここで資本主義はその原理主義化、原始形態から脱却した。

宗教が原理主義化した為、それまでより人間と神の関係に措いて、相対的な人間の価値が神に対して低下した結果、より人間的な資本主義が容認されて行ったのであり、実に絶妙な考え方だが、こうして肯定された資本主義は拡大の過程で以前より「未来」の概念を深くする。

今まで精々長くても直近に付帯した未来だったものが、数年単位、数十年単位にまで拡大したのであり、これ以降概念される未来はどんどん長くなって行く事になるが、一方、未来の概念は現在を基準にしてしか計ることはできず、未来に対する信用は現在の状況で決定する。

冒頭の明日の10万円より今日の1万円は、その意味では経済に措ける未来は常に現在よりリスクを負っていると言う事になるが、反面このリスクこそが「利益」に繋がると言う現実を発生させ、この部分が思想に繋がって行く傾向を持ち、思想が有るから人間の社会は発展する。

日本人が神社仏閣で賽銭を投げ御神籤を買って、それを信じている者がどれだけ存在するだろうか。
殆ど信じていないにも拘らず毎年新しい年には初詣に行き、縁起物の破魔矢などを買ってくる訳だが、宗教の概念は対価思想であり、古来で有れば現実が厳しければ宗教の描く遠い未来、つまりはこの世以外での復活を願い、それを信じたからこそ古代から中世、近代に今も現存する大伽藍や国宝の仏像が建立されたのである。

現在の社会がこうした1000年を概念する建物を残せないのは、文明が発展する段階で現実から未来へと概念が拡大し、その未来が絶望しか描けないなら思想に未来を求めた結果が、1000年後の今も観光地としてそこに住む人々の暮らしの礎となる建物を残したのであり、この意味で古代よりは遥かに経済的発展を遂げた現代社会が、1000年前と同等のものを作る事が出来ないと言う事は、人心は既に宗教が描く未来ですら信じられなくなってしまっていると言う事である。

つまりはもはや直近の現実しか信じられなくなってしまった、基礎本能に回帰し始めていると言う事であり、これは未来が信じられなくなってしまっている結果なのだが、どうしてこう言う事になるかと言えば、今が信じられないからである。

過去に為された約束が平気で反故にされ、昨日の言葉は今日にはどうでも良い事になってしまえば、人は未来を信じられなくなる。

明日まで待てば10万円になると言う、その明日まで待ったら確かに10万円になる社会は未来に金を集める事が出来るが、明日まで待っても金は貰えず、更には1万円も貰え無かったら、こうした事が多くなっている社会では明日まで待つ人間はいなくなる。

その結果が今しか信じられない、今日くれるものなら1万円が値切られて100円でも良いから欲しいと思ってしまう社会を生み、どんどん基礎本能に近くなって行き、言葉は粗野で原理主義化し、情報も権威もより大きなものがもてはやされる。
明日結果を出してくれる者は信じられず、今結果の出ている者のところに人心は集まり、未来は加速をつけながら失われていく。

それはまた個人の欲望も増長し、未来など信じられないにも拘わらず、自分の未来に対しては希望的観測を繰り返して感覚が麻痺し、ここからクレジットやローンで信じられない未来を今に先食いする傾向が増え、これがまた未来を縛る為に、今を逃げる事を繰り返し、絶望の度合いを深めていく。

この原因は世界的に政治が民衆との約束を蔑ろにし続けてきた為であり、民衆もまた安易に政治に依存し続けてきた結果でもある。

5月14日、LINE上級執行役員である「田端信太郎」氏は「憲法って紙切れですよね」「憲法がアンパンを恵んでくれたりするんですか」と発言した事が問題になっているが、私も若い頃同じ事を言った記憶があり、今でもそう思っている。

この現実の部分はとても大切な事だ。
だが惜しむらくは、彼には未来の思想が無い。

その現実を前に自分はどうするのかと言う考え方が無い。
その人に同情する気持ちが無ければ、飢えている人にパンを恵む事もなくなる。
もっと言えばパンを与えながらその人が自活して行ける未来を描いてやることも出来ない。
憲法とはパンを恵む事ではなく、そのパンを恵もうとする心を養うものだ。

従って憲法は確かに紙くずであり、何の拘束力も無ければ対価も無い。
皆が迷い困ったとき、この国のこの社会はこうした方向で動いていく事を理想としていますと言うものであり、罰則が規程されている民法や商法と同じではなく、罰則と対称に有る恩賞も同じ事だ。

それは多くの人が守って、多くの人が信じることに拠ってのみ価値を持つものであり、昨今のように国民の意思を無視して権力と言葉で言い逃れて出てくる「共謀罪」などの在り様を見れば、政治がこうした事をしているのだ。
憲法は確かに政治から始まって紙くず同然に扱われているのであり、一民間企業の役員であれば猶の事そう思っても致し方ないだろう。

こうした直近の現実しか見ないで発言したり行動する事を「ポピュリズム」(populism)と言い、政治的には民衆自由の拡大と経済の拡大を阻害する結果となる為、「ノーラン・チャート」などはポピュリズムの事を全体主義、権威主義と同じものだと定義している。

明日の10万円など信じられない、今日くれるなら、今くれるなら100円でも良いと言う事では、未来の先細りは必定。
明日になれば10万円か・・・、それで何をしようかと考えられる、その事が発展拡大と言う資本主義なのであり、憲法もまた然り・・・。

今くれるなら100円でも良いと言う「ポピュリズム」では、経済も民衆の自由も暗い方向へとしか動いて行かない。
基本的にはLINEの上級役員もアメリカのトランプ大統領も同じ事を言っているのだが、彼らを始め世界中が今このポピュリズムを唱え、未来を失った人心はこうした方向に動き易くなっている。

神社にお参りしたが良い事は無かった、もう神様など信じないと言うのでは寂しい。
神が与えてくれなかったら、自分が働いて力と倹約で未来を築いていく事を考えても良いのではないかな・・・。

さて、そろそろ病院へ薬を取りに行く時間だ。
帰ってきたら仕事を仕上げて、明日からは遅れている農作業を進めねば・・・。

資本主義と自由の拡大の実現は中々大変だ・・・・(笑)

ちなみにアップした楽曲は、最近聴いた中では一番嬉しくなってくる楽曲だったが、多分すぐに消されてしまう可能性が高いので、消された後はyoutubeなどで聴いてください。

では・・・。






「権力担保の質的変遷」



el humahuaque単o.avi・・・・・

過去4000年の世界史観に鑑みるなら、権力を権力足らしめるその初動には「暴力」がこれを担保し、やがて初動と言う混乱期を脱するに従って権力は少しずつ分散を始め、その分散された権力がそれぞれ相互関係を安定させる為、「公正」や「非干渉」或いは誰の為かと言う「方向性」に正当性を求めて行くようになる。

この段階に至って権力を担保するものとしての「暴力」は、もはや権力を担保するどころから権力から一番遠いところへ追いやられる事になるが、日本のように少なくとも先進国と呼ばれた国家に措ける権力の担保に付いては、70年も平和な時代が続くと「公正」「自由」「民意」と言ったものが必然のような錯誤を起こし易い。

しかし権力を担保する正当性の本質は「畏れ」と「恐れ」であり、この意味に措いてはどの時代の如何なる国家も「民意」や「天意」「神のご意思」と一緒に「暴力」とそれに付随する「武力」「恫喝」「策謀」「濫用」に拠る権力の正当性も存在し続けてきた。

暴力に拠る権力の担保は「秩序」に相対したものであり、僅かでも、一瞬でも秩序が歪められるとすぐにそれが現れ、秩序を+-0の線とするなら、この線より僅か一目盛り上下しても、上下に関係なく既存秩序に対称性を描き、ここに弱くても非常を生じせしめ、この非常に対応するのが「暴力」となる。

もっとも暴力と言っても対称性に対応する暴力は軽微なものから始まり、それは言語や態度と言う形になるが、暴力とは武力だけではなく、秩序や法、社会的合意、言い換えれば「道徳」と言った社会全体が容認する方式に拠らない、即断、独断、力の行使を言い、暴力と秩序は共存、相互依存の関係を持ち、従って暴力は秩序に拠って修正されるが、秩序もまた軽微なものから始まって暴力に拠って常に変動している。

2017年5月9日、アメリカ合衆国トランプ大統領は(FBI)アメリカ連邦捜査局のトップであるコミー長官を突然解任したが、捜査と言う本来は国家の為、国民の為の秩序の中の暴力が政治的、個人の利益に服してしまう事は、その目的である秩序の担保を失う。

それゆえ多くの民主主義を標榜する法的先進国では、捜査権者のトップを選任するにあたり、政治的独立を担保させる為にその長が存在する機関の推薦を受け、これを容認する形で政治家自身の権力に自発的制限を加えて公平性や正当性を担保する形が多く見られるものの、基本は政治的圧力から逃れられない。

ただ、こうした形は建前とは言え、羊の皮を被っているとは言え、一定の秩序に対する尊厳とも言えるもので、これを無視して「同じ事なんだよ」と言ってしまうと、日本で言うなら神棚を壊して金儲けを目指すに同じと言う事になり、確かに神棚など壊したところで何かが起こるはずも無く、運がよければ金も儲かるかも知れない。

だがこれでは正直に、社会の事を考えて生きている既存秩序の人にまで、非常時の即効的秩序である「暴力」の社会に巻き込んでしまい、今まで信じてきた多くの人の秩序が崩壊し、混乱は拡大、更に暴力の支配が大きくなり、混乱は加速的に拡大する。

トランプ大統領のFBI長官の解任理由はいまひとつ明快ではなく、どちらかと言えばロシア経由で大統領選を操作した疑いを捜査されるを妨害する意図が見え隠れるする。
この事は本当に自身が潔白ならしっかり捜査して貰う事で自身の権威も高まるはずだが、それを為せないとなると国民的には「疑惑」の方が大きくなり、権力で押しつぶせば秩序の維持者たる大統領が「暴力」を行使すると言う矛盾を生じせしめる。

この様に秩序に対する権力の濫用は暴力に拠って矛盾を発生させ、それを抑えるために更に大きな「暴力」を働かざるを得ない状況になって行くのであり、同じ事は日本政府にも言える。

日本の官僚機構を壊した者は「小池百合子」現東京都知事であり、「田中真紀子」元衆議院議員である。
日本の官僚機構はそのトップである事務次官の選任にあたり、人事権は慣例的に組織側にあったが、これには何も法的根拠は無い。

上位者である大臣や政務次官など国会議員が選任する事も勿論可能だった。

しかし、各省庁をスムースに運営する、また専門職としての実績を考えるなら、ここで大臣は自身の権力を自立的に抑制した形で、自身が暴力を働いたように見せない謙譲の精神が働いていたが、日本銀行総裁の選定でもこれと同様に事が言え、推薦を受けて国会が承認する形である。

しかしこうした成文法ではない慣習に拠るブレーキを壊したのは外務大臣の時の田中真紀子外務大臣であり、防衛大臣の時の小池百合子防衛大臣である。
同氏達は悉く官僚制度を排除し、当時の外務省、防衛省は混乱を極めた。

つまり自身が持つ権力を権力たらしめようとした結果が不毛の争いを生み、経済的、信用面からも損失を被ったのであり、権力者が悪戯に権力を確かめるようでは既に権力者たる資格は無かったのだが、これ以降従来働いていた権力者の暴走に対するブレーキは更に甘くなって行った。

形骸上、有識者を集めた諮問会議などが設けられるものの、その集められた有識者は全て権力者の意図と同じ者しか集まっていないと言う状態は。国会のみならず地方議会や行政機構にも蔓延して行ったのであり、官僚機構に対する権力者の暴走が表面化してからは、こうした恣意的な在り様に悪びれる事すらなくなった権力の驕りが有る。

日本国憲法は実際に運用するには1033から1060ほどの矛盾が存在し、この原因は時代に適合できなくなっている事がまず1つ、GHQが日本国憲法制定時に日本の政治家を信じていなかった事、日本国民を信じていなかった事が3つ目、明らかに内閣より信任や権威を持つ天皇制の立場をあいまいに規定し、しかも民主的に選ばれてくる政治家も信用できず、その上にこうした政治家の暴走を縛る方法も成文法に規定できなかった事に拠る。

更にアメリカの自国利益が優先された軍事同盟、アメリカの政策が日本国憲法より優先されるを慣習化した事に起因する。
日本国憲法の改正は必定なのだが、自由民主党が出している改正案では「調整」の用しか果たすことはできず、これでは未来に措いて混乱を増やす事にしかならないだろう。

またこうした議論や結果を担保するものはひとえに国民のコンセンサスであり、コンセンサスの基礎は「時間」である。
この時間を無視して賛同者のみを集めた諮問機関の提言に基づき憲法改正を進めると、権力の濫用、「暴力」となり、この暴力に相対して秩序は壊れ、壊れた秩序を覆う為に更に大きな暴力の中を歩いて行く事になる。

慣習や慣習法はこうした意味では権力の暴走を調整する役割を持つが、慣習、慣習法は多数決に拠って決せられない部分を担保する道でもある。
悪戯に国民投票を急ぎ、制度でねじ伏せて行われる憲法改正は暴力に拠って担保された憲法になってしまい、そも憲法の理念すらこの時点で失われる。

多数決は一つの権力だが、権力ゆえの謙譲の精神が必要であり、これを考えない国民投票や選挙の結果がイギリスのEU離脱であり、トランプ政権の誕生に見る権力が暴力を担保とする無法状態である。
秩序が時代の変遷に自然適合するには対称性を有する暴力を必要する。
しかしこうした暴力が日常化すると秩序は加速的に崩壊し、混乱へ向かう。

今、世界も日本も権力の担保が暴力に向かいつつ有り、これに鑑みるなら世界も日本も確実に混乱へ向かって進んでいると考えるべきで、混乱は弱者、一般民衆、経済、政治、国家の順に出現してくる。

2年以内に混乱は経済へと及ぶ、民衆は備えよ・・・。




「のおて」



Can You Feel The Love Tonight by sori1004jy・・・・・・

畷(なわて)は、一般的には田んぼの比較的広い畦道、細長い道を指すが、たとえば鎌倉時代までの文献では、道以外にも長い土手や川原、長く開けた土地を指していた事が伺え、広義では「風」が深く関与してくる背景が見えてくる。

畷は盆地や日常の道路に使われる事は少なく、むしろこうした日常と山などの非日常の中間の使用度、或いは開けた場ではあるが余り使われない場を指し、「あずき袋」ではない、必ず両側が何かに連続しているか、山や崖などで塞がれていない土地、しかも道の両側も山などで視界が遮られていない場を言い、この条件からすると平地か緩やかな丘にある場と言う事になる。

また基本的に畷と畦は同義だが、畦は農作業以外に通らないが、畷はそれ以外にも誰かが通るか、或いは殆ど人が通らない場を指していて、畦よりは幅が広く若干の荒涼感や寂しさを醸し出し、この事が遠くで「風」を思い起こさせるのである。

この意味から古来より「畷」は都や城下の町には少なく、「路」と畷の区別は使用頻度の差と、整備されているか否かの差、若干の荒涼感から来る「風」の通りの否かを含んでいたように考えられる。

「畷」(なわて)はその通りに発音される事が少ない言葉でも有った。
「畷」が実際に存在するのは都や城下町から少し距離のある場、その多くは田舎に存在する為で、地方では(なわて)と言う正確な発音はされず、「のおて」、「のーて」と発音される事が多く、畦や道路との区別も曖昧だった。

地方で「○○のおて」と呼ばれる場は、道路も田んぼも川原までも含んだ土地を指す場合が多く、ここでのキーワードは「風」である。
強風が吹きぬける土地を「のおて」と呼ぶケースが多く見られ、実際に「なわて」と「のおて」を発音上から比較してみると、「な」と「の」は微妙な違いでしかない。

日本語の平仮名発音では「あ」行を例にとるなら、「あ」と「い」では大きな発音上の違いが違いが有るが、「あ」行最後の「お」と「あ」の発音は比較的近く、平仮名発音は全般に同じ傾向にある。

この為、「な」行では「な」の発音は「なぁ」と発音しなければ「な」にならず、「の」は「のぉ」と発音しなければ「の」にならないが、「な」と「の」の発音はとても近く、問題は「の」である。

地方では「野辺の送り」の事を古くは「のお」と呼ぶケースが存在し、これは江戸時代まで葬儀の中心行事だったが、「のお」は葬儀に参列するなら動詞的役割を持ち、その在り様を指すなら形容詞的な意味を持つが、その一方で葬儀の列が歩いている様も形容し、この意味では葬儀の列が続く「路」も含んでいるのである。

この「のお」に「て」と言う場を概念する言葉を加えると「のおて」「のーて」となるのだが、この意味では「なわて」と言う発音は「のおて」より新しく、「のおて」を限定して縛ったか、或いは「のおて」が都風の上品かつ曖昧さを排除した発音に変化した可能性も考えられるのである。

日本の古い時代、風が通る少し寂しげな道も葬儀の列が通る道も、旅人が歩く道も、もっと言えば葬儀すらも同義だったものが、大陸の漢字文化から平仮名を編み出し、そこから言語的に総称的言語が細かく分類され、整理されてきた背景の中で「のお」と「なわて」は分離されたのかも知れない。

ただこうして今では意味も全く異なる「なわて」「のお」「のおて」だが、不思議なもので「なわて」には「風」のニュアンスが残り、「のおて」には葬儀の列の匂いも残されている事を記しておこう・・・。

ちなみに「野辺送り」は江戸時代後期まで「夜」に行われたが、これは結婚式も同じで、日本の神道の儀式が大きく影響している。
日本の古くは夜を「力」としたのだが、「野辺送り」が夜に行われた背景には、「火」の力を明確に見ることが出来、これに拠って生と死の隔たりを明確に認識する為とする説も、昭和30年代の資料には残っている。

さて、祭りも終わり、そろそろ自分のところも田植えの準備だべさ・・・・(笑)





プロフィール

old passion

Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

[このサイトは以下の分科通信欄の機能を包括しています]
「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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