「第八節・自分のもの」


「言葉は言霊(ことたま)とも言い・・・」と言う解説を時々見かけるが、言霊とは霊力が宿る言葉を言い、言葉の一部であり例えば聖書の「詩篇」、仏教の経典等がそれに該当するが、言霊と言う音(おん)から言葉と言う音(おん)が発生した訳ではない。

「言」の古い字体は「辛」(シン)と「口(コウ・くち)」であり、これは発音上の「充て字」(あてじ)と言われているが、発音上からすると「辛」(シン・つらい)よりもむしろ「幸」(コウ・しあわせ)が「ゴン・ゲン」に近くなるが、「辛」(シン)が充てられたのは何故か。

言語には文字で現す「表記言語」と発音で現す「表音言語」が有り、発生は表音言語がおそらく始まりで、表記言語は文明と共に成立してきたと思われるが、「申」(しん)や「奏上」の奏などの発音を考えるなら。「シン」と言う音が大切だったのかも知れない。

或いは元々言葉とはつらく、口にからいものだったのかも知れないが、「幸」と「辛」は棒線一本の違いで意味は逆転し、しかも「幸」の形は古代の板状拘束具だった事に鑑みるなら、古代の人が描く言葉のイメージは現代の我々がペラペラと使っている言葉ほど軽いものではなかったのかもしれない。

我々が使っている言葉は、結果として何らかの縛りであり、それは時間や期限だったり物や人、形や色など、あらゆるふわふわ漠然と漂っているものを引き寄せ、固定する役割を持っている。

従ってこうして固定した状態を保護、守護する必要性が出てくるのであり、これを客観的に表現するなら「責任」と言うものが生じてくる。
「愛している」と言ったら、次からそれを何らかの形で示していかねばならず、「あなたは素晴らしい人だ」と言えば直後から裏切るような行為はできない。

「○○をします」と言えば、やらねばならず、山や川が綺麗だと言えば、次に醜いだの汚いだのとは言いにくい。
「おめでとうございます」と言った時は、自身が面白くない状況でも、暗い顔も出来ない。

恨んでいると言えば、その恨みを継続しなければならない。
一度人を攻撃した言葉を使うと、そこへ同じような者が集まり、奴も良いところが有ると思っていても、回りに固定されて気持ちを偽らねばならなず、これは人を褒めた時も同じ。

考えてみれば言葉とは結構大変なものなのであり、こうして考えてみるなら「良い天気ですね」「そうですね」と言う会話こそが一番幸せな会話と言えるのかも知れない。

更にこうした観点から考えると、人間の記憶は責任の薄い言葉、すぐに責任が終了する言葉から先に忘れ易く、良かった事や嬉しかった事なども相当大きな事は憶えていても、小さな事は忘れて行く。

だが、悲しい事や辛かった事は比較的長く憶えているものの、実はこの記憶も曖昧で、キーワードが出てくると悲しみや苦しみの感情が一緒に出てくるからそれは増幅されるが、結構内容は曖昧になり、次第に記憶は平板化し、やがてそれ以降に色んな記憶が積み重なると、遠くにある幸福を感じる記憶との誤差を失う。

悲しみも苦しみも最後は遠い幸福感に繋がっていくが、人もまた同じで、敵で有った者もいつかはこうして遠い幸福に思える時が出てくるなら、例えそれが死の一瞬手前だったとしても、今までの悪い関係こそが夢幻と言えるかも知れない。

敵は遠い未来の可能性、今の苦境や悲しみもまた遠い未来の可能性・・・・。
未来を見つめるなら敵も味方も苦しみも悲しみも同じ事、全て手放すことは出来ない自分のもの・・・・・。


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「第七節・フレーム」

「茶漬けでもどないですか・・・・」

夕方、そろそろ食事時を迎えた頃、京都でこの言葉が出てきたら「帰れ」と言う意味だと言われるが、大体「茶漬け」は宴席の一番最後の方に出てくるものであることから、「茶漬け」そのものが「終了」の意味を持ち、更に他家の食事時だから、迷惑になるから察して帰りなさいよ、と言う事だ。

で、ここで帰らなければどうなるかと言うと、茶漬けは出てくる事になるが、以後その人の訪問は決して歓迎されない。

人間は生活の中で幾つものフレームを持っていて、相対する人間とのコミュニケーション、言語の伝達は一時的にこのフレームを共有する事で認知されるが、京都の茶漬けでも、これが京都以外の人間、例えば北陸の田舎から出てきた者を相手にする時は、「帰れ」と言う意味合いではなく、本当に茶漬けを食べて行っては如何か・・・と言う事になる。

これはどうしてかと言うと、予め自身が持つ京都と言うフレームは限定的なものである事が認識されていて、間違いなくその限定の外に在る者に対しては、より大きなフレーム、日本の言語が持つ意味通りのフレームが選択されて行くからだが、人間社会の生活はこうして瞬間と相手に拠って幾つも切り替わりながらコミュニケーションが取られている。

またこうしたフレームは三層構造になっていて、言語と知識に拠る認識、視覚認識、経験認識と言う段階が有り、夕方の食事時が忙しい事は一般的に広く認識されているが、これは知識と言語表記段階の認識で、実際にその場面を見た事が有る段階を視覚認識、そして実際に食事を作っている母親は経験認識の段階に有り、こうした認識の初期段階ほどフレームは広いが数が少なく、経験認識まで行くとフレームは狭くなるが数は圧倒的に増加する。

「食事時は忙しい」事くらい言語や知識でみんな知っている。

しかし実際にこうした経験が無い、例えば独身の者が認識する「食事時は忙しい」と、結婚して子供の2人もいる家庭の主婦の忙しさの認識は全く違い、作れらた食事を食べるだけの亭主は、見ていて忙しい事は認識していても、その忙しさが身体的、精神的ににどれほど厳しいかは解らない。

独身の者同士の「食事時は忙しい」と男性同士の「忙しい」、それに主婦同士の「忙しい」は同じ言語で認識は全く違うものなのであり、現実から離れた知識や言語理解のフレームは広い代わりに多くの事が見えておらず、実際に食事を作る主婦のフレームは多くのフレームが束になって整理されている状態になっている。

実際夕飯の支度などは本当に大変である。
天麩羅を揚げながら、味噌汁を作り、ねぎを刻んでレタスを盛り付け、そこに電話の1本などかかって来ようものならパニックだが、子供が帰ってきて亭主が帰ってくる、更に独身の姪などが立ち寄ろうものなら絶望的忙しさになる。

ここでは食事を待っている子供や亭主は大変そうだなと思いながらも、実際の大変さは理解できておらず、訪ねてきた姪も理解できていない。
唯一全体を理解しているのは実際に食事を作っている主婦だけであり、主婦はこの場面で相手が自分の忙しさを理解していない事までも認識して対応している。

若い姪ではこうした忙しさは解らないだろう、勿論子供も亭主も理解していない事を認識しているからこそ、「もうすぐ食事が出来るわよ」と言いながら、「良く来たわね」と姪を迎え入れ、町内会の行事案内の電話に「有り難うございます」と対応しているのである。

これが相手が認識していない事を認識できていないと、全てが「バカヤロー」になってしまうのであり、知識や言語の理解に依存し過ぎると、結果として「バカヤロー対応」が増えるのであり、現代社会がすぐに対立の関係しか築けない諸因は、こうした点に有ると言える。

実際に動いている者、体を動かしている者は大きなフレームから小さなフレームまで束にして持っていて使い分けているが、知識や言語の大きなフレーム1枚をひけらかして生きている者は、自身が何も解っていない事すら解らない。

陰で額に汗して働いている者を畏れよ・・・。



「第六節・敵も味方も」

言葉は力の一つゆえ、使い方を誤れば暴力になる代わりに、良く使えば人を救い、それに拠っていつかは自身が救われると言うような連鎖的発展型の力でも有る。

連鎖的発展型の力とは、解かり易く言えばジャガイモのようなもので、一つを地面に埋めておけば、数ヵ月後には幾つものジャガイモになって収穫できるような「力」を言い、人に対する言葉の投資と言っても過言ではない。

近年のセールストークはまるで機関銃の如く早口、高音で相手の言葉に拠る逃げ道を完全に塞ぎ、攻め上げて物を売ろうするものも多いが、それで無くても一般社会生活、会社や学校でも相手の失敗を徹底的に叩き、言葉で勝った事をして相手が納得したと思っている者も多い。

しかし現実には納得したのは言葉で勝った者のみで有り、言葉でやり込められた者は絶対納得などしていない。
この安心や喜びは「ぬか喜び」で、いつか自身が失敗したとき、或いは状況が悪くなった時、言葉以外の方法で数倍になって攻められる事になる。

言葉で勝っても実質の勝利は得られず、言葉は負けた方が勝っているものだ。
その時それだけ広く全体を見る事ができたと言う事であり、これが見えない者は人の心など見えず、この延長線上には例えどんな失敗が有っても言葉で完全に追い詰めてはならない、必ず相手の逃げ道を作っておく事の重要性が存在している。

失敗はその本人が一番良く解かっている。
その上にガミガミ言われて攻められたら逃げ道が無い。
どこかで1本の逃げ道を用意しておく事は、孫子兵法の以前に人も自身をも救う道であり、相手を言葉で攻め上げるは愚策以下、未来の禍根に繋がる。

更にこうした事に鑑みるなら、ユダヤ為替の伝統的な投資方法である、「戦争当事者には両方の投資」と言う考え方はとても実践的な方法であり、ある種の民主主義の出発点と言う姿も見えてくる。

もし組織の中で多数決で劣勢の勢力や個人が出てきたら、全く関係なくても劣勢の者にも最後に声をかけておくことだ。
或いは集団の中で一人が攻められている時は、自身に火の粉が降りかからない程度に擁護しておくと、万一多数決で決まった方針が失敗だったとき、他の者は援助が得られなくても自分は援助を得られるかも知れない。

集団の中で意見が採用されないケースでは、若さや時代に対する速さが含まれる。
それゆえその時点では理解されないが、少し先の未来では当然の事になっている可能性がある。
「君の考え方も一理ある、めげずにがんばりなさい」の一言ぐらい何の金もかからず、しかし未来に得られる利は大きいかも知れない。

集団や他者の対立を緩和しておくことは、その集団や組織の危機回避と、未来の可能性を考えても有益な事であり、こうした事がユダヤ教、キリスト教の古くから考え方として出て来易い原理だった事に鑑みるなら、実に民主主義の大原則の基礎は資本主義にあったと言えるのかも知れない。恐ろしいくらいの現実主義だった事が伺える。

「戦争」で両方の勢力に投資する概念は、多数決に措ける少数意見の扱い方、議会制民主主義の根幹とレールを同じくするものと言え、これに鑑みるなら、資本主義の戦争当事国双方投資は未来の利益であり、尚且つ民主主義の劣勢、社会的弱者に対する在り様に同じ。

そしてこの未来の利益、遠い利益は「徳」に通じ、ここから「いじめ問題」がこれから先の国際情勢を指し示しているものがあるのだが、これは別の章で解説する。

「戦争当事者には優劣に関わらず両者に投資する」


「第五節・実利」

人を怒らすのはとても容易い。
4人の人間がいて、お茶を出すに3人には茶碗に7分、1人には4分の量の茶にすると、4分の茶の人間は表情に出さずとも良い気持ちはしておらず、これが菓子の数でも1つ少なければ尚の事、嵐のように気持ちは揺れ動く。

それゆえこうした間違いは絶対犯してはならないのだが、よくよく考えてみれば茶の量が少ないくらいの事はさほどの事ではなく、菓子にしても3つ出されたら3つとも食べもしないくせに、人より数が少なければ腹が立つ訳である。

また軍に措ける規律崩壊要因の一つに、軍規適応の不平等があるが、これなども懲罰に不満が出るのではなく、公平に扱われたか否かと言う「直接」ではなく「間接」、或いは二次的結果に拠るもので、人の怒りの大部分は直接的被害や実質不利益よりも、こうした心的不平等に拠って発生するものが多い。

そして同じように言葉でも不平等は発生し、2人の人がいて、片方に挨拶をして片方に挨拶をしなければ、挨拶をされなかった人の心証はとても悪くなり、この時点でもし自分を含めて3者が共同で何かを為そうとするなら、それは成立しなくなる。

言葉の場合は同じ言葉でも声の大きさだけでも差別が出易く、人の平等とは一般的な誇りの最低ラインを保障する事であり、平等の発生は誇りと言う選悦的(せんえつてき・OP造語)なものを背景に発生している為、怒りの殆どは「馬鹿にしやがって・・・」「なめやがって・・・・」「ふん、何よ!」と言う事になるのである。

会社で一人の社員が5分や10分遅刻したとしても損失など出ない。
結果の出ない会議で時間を費やしている方がよっぽどの損失だが、同じ社員に拠って遅刻が繰り返されると、ここに比較上の優劣が発生し、これを組織は容認できない。

一人の人間が社会生活を営む時、一人で社会と言う複数を相手にする為、その中では誰に対しても同じ対応が可能かと言えば、必ず取りこぼしが発生し、こうした対応の取りこぼしは蓄積して行く事になる。
個人は社会生活を円滑にしようと思いながら、友と一緒に潜在的な敵も作っていく。

一方、故意、失策ではなくても例えば子や孫の自慢などは「親ばか」と言って容認されたような感覚が有るが、同じ状況が誰にでも発生する事から、これこそ忖度(そんたく・人の意を察して行動する)に拠って容認されているだけで、必ずしも奨励されている訳ではない。

他者に言えず不妊治療をしながら、それでも子を為せない妻に取っては、他者の子の自慢話は土足で家に上がりこんで殴りつけられたに等しいダメージが発生し、しかも誰が不妊治療をしているのかは解からない社会であり、例えそれが自身の親族と話しているのであっても、電車で隣に座っている女がその妻である可能性は常に有り得る。

自慢話などしたところで何の利益にもならず、唯自身が悦に浸るだけの事であり、単なる欲望の解放にしか過ぎない。
茶の量や菓子が一つ少ない、或いは全く出されなかったとしてもそれは相手の意思や瑕疵であり、唯の事象の一つにしか過ぎない。

それに拠って以後暫くの間怒りや不快感を彷徨い、刻々と変化する現実をおざなりにする事こそが実質の不利益を生み、言っても言わなくても何の利益も出ない自慢話をし、見えない敵を作るくらいなら黙っている方が良い。

茶の量が少なくても、菓子が一つ少なくても感謝して頂き、決して共有する事のない自身の幸福や悲しみは胸に押し留め、同様の事に他者が遭遇している時は自身の菓子を一つ差し出し、他者に取っては優越感を味わえる自身の恥や失敗を語っても、自身の調子の良い部分は語らない。

これを「徳」と言い、連続する事を徳を積むと言うのだが、実践の難しさは人の歴史が示す通りで、こうした事を倫理的観念で実践継続できるものではない。
徳は心のように思うかも知れないが、実は自身の心を無くする事に始まりが有り、徳を積むは「利」を積むに等しい。

自身の心情や欲望を押し通して有象無象の見えない敵を作る事を防ぎ、損をしない事でも未来に利を集める事に等しい。
これを何か綺麗な心と思っている者の徳はどこかで限界や醜さを生む。
一番卑しい金の勘定、実損実利こそが実は一番の「徳」の近道でも有る。

「自身の心は実損、他者の心は実利、徳は利なり」



「第四節・噂」

「言葉を言葉で贖う(あがなう)者は、その初めの言葉の沼に落ちる」
「噂」(うわさ)は「口」に「尊い」と書くが、この事から謙虚な物言いをするなら尊く思う事は間違いではないが、基本的に「尊」は「樽」(たる)に「升」(ます)の事であり、「酒」の「秩序」を意味する。

つまり祝いの酒を頂く順序であったり、或いは量、神に捧げるものと言う意味合いのもので、この順序や神と人間の関係に措いて貴賎のコントラストが出る事を意味し、これに口が加わる「噂」は、「口」がその集まりの秩序を緩和する意味を持っている。

噂の基本的意味は多くの人が集まって秩序の無い話をしていると言う事であり、秩序の無い話とは「どうでも良い話」と言う事で、樽の広い口と同義だが、これが重要視されるようになったのは古くは中国春秋戦国時代からで、軍略として開花するのは秦国が中国を統一する頃からである。

冒頭の言葉を解説するなら、噂を言葉で打ち消しても意味が無いと言う事であり、言葉に対して贖えるものは「行動」しかないと言う事である。

元々「噂」は酒の上の席で日頃の不満をぶちまけている程度の事で、これに対して一生懸命打消しの言葉を続けていると、その続けている間、一番最初に出てきた「噂」が消えない。
黙っていれば消えて行くものを自身の釈明に拠って、噂が発生した時期に戻してしまう効果しかないと言う意味である。

人は本当は他人の事など関心がない。
それゆえ「人の噂も七十五日」なのであり、現代のような情報の速度が速い時代であれば、捨て置いても十日もすれば上に情報が積もって見えなくなる。

広い樽の口に蓋をしようとは考えるなと言う事である。

「噂」と「嘘」は近い言葉だが、この違いは関わる者の数の差であり、嘘が顔料なら噂はこれを溶かす水のようなものであり、噂は嘘以外の本当の事も溶かして広める、人の乗り物のようなものである。
端末に行くに従ってそれぞれの個人の錯誤が加わり、情報の質は著しく低下する。

噂とはその程度の事でしかないのだが、気をつけなければならない事は、真実ですら多くの人を介して広がるものはこの程度でしかないと言う事であり、極論を言うなら人の情報は全て「噂」に同じだと言う事でもある。
噂の防御はとても難しい。
ひとえに日頃から人の恨みを買わない事、目立たない事が望まれるが、この事は「徳」に等しく、徳は「得」、つまり分散した漠然性の「利」と言う事でもあり、「仁」は噂をはじき返す日頃の行動であり、それは事の虚と真実には関係がない。

自身にとっては重要な虚と真実も、他者に取ってはどちらでも良い、他者の世界観で判断されると言う事であり、自身が人心を使う時はこれを忘れなければ、虚と真実は織り交ぜて使えると言う事である。
しかし、いずれにしても「噂」などと言うあざとい物には出来るだけ関わらない方が良く、「樽の口」であるから、基本は暇な者や心の歪みの中に巣食い易いものなのだが、人の本性もまたここを避けられないものでもある。

言葉を担保するものが「行動」である以上、言葉を言葉で贖う事は出来ない。
行動を正して自身の先を進める以外に道は無く、この事に拠って噂は噂を流した者の信用へ返り刃(かえりやいば)となって突き刺さる。

噂を多用する者は形而上の賛同者が多いように見えて、実は根本的に誰からも信用されていない。
この事を逆に考えるなら、自身が人の噂をする事の醜さ、愚かさは説明の必要もあるまい・・・。

人間が生きていれば、一つの間違いも犯さず、あらゆる欲望に全て打ち勝てるとは限らない。
「火の無い所に煙は立たず」もまた然りであり、多くの場合噂は全く根拠が無いとは言い切れないものかも知れないが、そんな時大切な事は虚か真実かではない。

自身が虚(きょ)に見えるか真実に見えるかと言う事である・・・。




「第三節・光と闇」

私達の世界には気候のパターンとしての四季が在るが、それとは別に与えられた状況的な四季が人それぞれに存在する。

今が春の者もいれば、夏の者、秋を迎えた者、真冬の状態の者も存在するが、これと同じように人には光の状態と闇の状態が存在し、状態の良さを言うなら光の中が良いが、力を求めるなら闇にそれが在る。

今、順風満帆、何の不足もない状態はまことに望ましいが、実はこの時人間は何もしていない。
反対に今が闇で、この闇の中に光を見ようとする者はあがき、苦しみ絶望しながら、しかし自身の体と心の全てを使って、闇に対峙する。
ある意味、自身が親から貰ってきた来たもの全てを使っている状態と言える。

それゆえ人の求めるところは安息と平穏の光の世界だが、生き物としての本来の機能を使い切っている状態に鑑みるなら、今が闇、絶望の最中に在る者は自身最大の力を擁していると言え、朝が来て夜が訪れるのと同じように、大地に立つ者は太陽の運行と言う大いなる存在に拠って必ず、昼の状態と夜の状態を迎える事になり、これを自身が決める事は出来ない。

我々はもしかしたら言葉を捜す旅をしているのかも知れない。
自分の言葉と言うものは存在しない。
自分が使っている言葉はどこから来たかに鑑みるなら、それは他者、目の前に広がる景色、現実、置かれた状況であり、社会である。

そして状態には昼の状態と夜の状態が有り、これは金持ちも貧しき者も、非力な者も、権力者も、それぞれの状況に応じてどちらか一方で留まる言う事が無い。
言い換えれば皆が自分を救う言葉を探しながら暮らしているとも言え、この中で夜に在る者は必死で光を求めるが故に、あらゆる場面で光を探し、それはまるで夜空に星を見るに似ている。

この世の中には多くの言葉と意味が存在し、その小さなものは光の中では見えないものも数多く存在するが、丁度明るい昼であっても星は存在しているが、太陽の光に拠ってそれらが覆い隠されてしまう事に同じように、明るい光の中では小さな光は存在しながらそれが見ることは出来ない。

しかし夜の闇を知る者は光の中に小さな光が覆い隠されている事を知り、見えない小さな光を明るい昼に探そうとするが、簡単に言えば幸福な世界にそれを観ようとするが、幸福な状態が本当に良いのかどうかは死んでも結果は出ない。

自分に何が良くて何が悪いかと言う事の区分は無いのである。
闇に光を探す多くの者は光を見つけられない。
見つけたとしても、星は綺麗だが決して手が届かないのと同じように、その光だけでは自身を救えない。
が、小さな星の光は希望であり、これに拠って自らを救おうとする者は求め、求めた時から救いの道は始まっている。

多くの危機的状況を脱した者は、誰かの何気ない一言、或いは眼前に広がる景色によって、人の姿に拠って救われたと思うかも知れないが、それは自身が闇の中で光を探した事から始まった自分の世界であり、自分が求めたものを自分が実践したのである。

人に取っては永遠に見える昼と夜の循環は、今が闇の者にも、光の中に在る者にも等しく訪れている。
今が昼の者はその明るい光の中に煌く小さな光がちりばめられている事を思い、今が夜の者は手が届かないからと言って星の光を諦めてはならない。

手が届かなくてもそれは決して夢幻ではない。
自らを救う旅はまた他の者の星の光となり、この惑星もまたそうした星の一つなのだ・・・。






「第二節・沈黙」

やせた土地に1本だけ生えている蓬(よもぎ)の緑はとても目だつ上に、その輪郭まで明瞭に見え、とても貴重な感じがするが、これが一面の蓬の野では逆に土の部分が貴重に見え、1本々々の蓬を認識する事すら難しくなる。

蓬に覆われた土地は、その主体が蓬色なのか、土の色なのかが見えなくなる。

言葉とはこうした在り様に同じで、例えば一定の時間内を言葉で埋め尽くすと、その言葉は本来の意味を伝えられなくなるが、尤も大地の色は土色が本当なのか、蓬色が本当なのかと言えば、その季節、場所に拠って異なり、現実に現れる景色はどれも偽りではなく、しかしそれが絶対ではない。

唯、常ではない在り様が認識できる形としては、土地が蓬で覆いつくされるよりは、土も見え、そこに蓬が生えている事を解かり易くする情景を理想とし、蓬で覆い尽くす事は、物事を解かりにくくしてしまう事になる。

空間では対比するものが在って、そのそれぞれが見え易くなる事に鑑みるなら、言葉と沈黙の関係はまさに沈黙が在っての言葉なのであり、言葉が多く沈黙の少ない者の言葉は人に伝わりにくい。
蓬で覆い尽くされた土地では蓬は見えにくくなるのである。

一方、これは言葉に限らないかも知れないが、人間の行動は「攻」と「守」に大別され、言葉は常にこの関係に陥り易い。
元々言葉を使おうとする者は自身の意見を言う為にこれを使っている事から、初めから「攻」であり、この場合は相手が話していても実は「攻」の為の対策言語を組み立てながら聞いていて、相手の真意など測ろうとする意思は初めから無い。

片や、話を聞いている側は、相手が「攻」であるから「守」に陥り、ここでは自身の考えや自分を守る為に言葉を発していく事になり、形而上賛同しようが、否定しようが、話の内容に関係なく、相手の言葉から逃れようとして言葉を発していく事になり、結果として笑顔で話がまとまりながら、本質は混迷とへと突き進んで行く事になる。

言葉で屈服させるは暴力でねじ伏せるに同じで、自身が沈黙を持つ事はまた相手がこちらの世界へ入ってくる入り口を持つ効用があり、人の判断は本当は話の内容ではなく相対する人間や、自身がかかわる社会との関係をどう認識しているかで決まって行く。
道理の前に人の好悪が在る。

そして言葉で賛同しながら行動は反対かも知れない、言葉で反対しながら行動は共にするかも知れない。

人は言葉で多くの事を伝えられると思うかも知れないが、実は言葉とは人を見えにくくする部分も多いのであり、一般的に言葉の多さは失敗も窮地も増やす事に繋がる。

また言葉には「昼」と「夜」があり、自身が夜の状況を知らなければ見えない言葉があり、こうした言葉によってあらゆる事象の半分を見る事ができるが、これを知らすに生きてこれた者は夜空に輝く星を見るような言葉を知ることが出来ない・・・。
が、この話は長くなるので次回と言う事にさせて頂こう・・・。

人間社会の言葉はその直接的目標に使われる言葉より、人の好悪に拘わる事に多くが費やされ、社会が発展し豊かになって行くに従って、本題や本質から遠ざかって行く。
多くの事が語られながら、何も語られていない。

いや、語らない方がまだ良いような言葉に拠って大地が覆いつくされて行く・・・。
「沈黙を知る者は全ての言葉の半分を知る者となる・・・」





「第一章・言葉」「第一節・理解」

人の話を聞いていて、我々が一番最初にやっている事は自己と他の区別であり、簡単に言えば自分側かそれに敵対する側かと言う判断であり、そのどちら側でもない話は聞いていながら聞いてはいない。

この自分側と敵対側の区別とは興味が有るか否かと言う範囲まで含まれ、言語に措ける客観性は存在しない。

例えば「赤い花が綺麗ですね」と言う言語でも、これを言った者が詩人の大先生だったら、聞いている人はそこに何某か他の意味を見つけ出そうとするが、同じ事を身なりの貧しい若者が言っても、「くだらん事を言っていないで仕事でもしろ」と言う事になる。

同じ言葉でも状況と相手に拠って、同じ意味を為さず、これが本などの文章になっているとしても、人間はそれを言っている者が何者かを探ろうとする。

読売新聞で書かれている内容も、朝日新聞で書かれている記事もほぼ同じであっても、そこに朝日なら信用できるが読売は信用できないと言う予めの篩(ふるい)がかけられ、これは人間同士でも避けられない。

従って人の言葉と言うのは、聞いている自身の言葉とも言え、この事は自身の言葉と相手の関係に措いても同じである。
人の言葉の意味をすべて理解する事はできず、そこに在るものは自分の都合の良い意味と、そう有って欲しいと言う希望なのであり、ここで大切なのは言語ではなく「周囲」や「環境」「背景」と言った言語以外のものが言語の意味を決めると言う現実である。

多くを語ったとしてもそれが通じるか否かは、たった一言も同じで、美辞麗句で喜んでいるように見えて、或いは心の中では「ふん!」かも知れない。
時には「ばか者」と言われて涙を流すほど感謝するかも知れない。

言葉はこうした意味では、その相手の事を知る為のセンサーの役割も持ち、初対面なら少なくとも服装の乱れは整え、安易に笑う者は疑われる。

笑う程度でこちらを良い者と判断する相手なら、その様な人間しか周囲に集まらないが、万一大変な状況の人なら、笑顔は僻みや劣等感の種になると考える者は、少し悲しげな顔を心がけ、こうした大局的なものの見方をする者は、大局的な人間を集める事が出来る。

言語に措ける周囲、環境、背景はこのように重要な意味を持つが、こうした事を弁えるなら自身が人を判断する時、身なりや物腰、環境や立場、知識の有無で相手を見てはならないと言う事でもある。


「楽  如」

「その楽の素晴らしさは仁無くば意味が無く・・・・」

論語の一行だが、元々中庸を説く孔子の中で有っても、自身の在り様は説きながら、それを社会や世界にどう調和させるかに措ける道が見えない。

もしかしたら孔子の頭の中ではそれが調和されていたのかも知れないが、後年孔子の弟子達が編纂した論語には、丁度仏陀の世界が「弟子達の範囲」でしか記されなかった事に同じような未熟さ、窮屈さが在る。

同じ事は世界中の古典書全てに見られる現象であり、これらはまるで枝から落ちた一塊の雪が、崖を転がって大きな雪玉となるに似て、そこに本質や正誤の別を問う事は意味を為さなず、全てが正であり誤と言うものに他ならない。

甚だ不遜かつ、4000年の英知には対抗すべくも無いが、孫子が戦いと言うものを通して、ここに秩序と現実的礼節、和平を見る事を説くも、これすらもやはり雪玉には違いなく、そこに存在するものは多くの人々の希望である事に鑑みるなら、遠く及ばないにしても、自身が出来る事は「どう思うか」に拠って、これが広がる事に拠って世界が変わって行く事を望む以外に、道が見えない。

それゆえ「楽如」(がくじょ)と称して、私の「考えるところ」を記し、これをして自身が蒼天の下に存する事が許された意味と為したいと思う。

この天をも恐れぬ所業は、天を畏れるが所以にて、ご容赦頂きたい・・・。





「消費する」



Mi Mancherai - Josh Groban・・・・・

「consumer」(コンシューマー)と言う言葉は確かに「消費者」と言う概念を包括するが、この中には結婚初夜とか、或いは「完成」などの、完全ではないが何かの到達点、目標到達の概念も含まれており、しかも人間の行動を生産と消費と言う極めて粗野な区分で表現したものだが、一人の人間が消費だけを行い一切の生産を行わない事は有り得ない。

従って、こうした区分そのものが成立するか否かは疑問な部分も存在し、そもそも人間が為す行動、或いは動物でも同じだが食べて生きていく、環境に対して自身を保護したり、生殖に関する社会的慣習や子育てに使われる財を、消えて費やされると表現されているその視点は、統治者やそれを管理する側の表現であり、良く考えてみればとても馬鹿にされた表現でもある。

しかし我々一般大衆は自身もこの少し小馬鹿にされた「消費者」を名乗り、その事に疑問すら抱かないのは、例えば会社員をしているなら、自身が生産者の側面も持っているからであり、この事は働いている者、子供を為してこれを育成している者、高齢者を介護している者など、あらゆる社会生活を営む者が生産者だからでも有る為で、こうした生産側の視点と消費側の視点が、自身の都合で自然に切り替えられて社会生活が営まれているからだ。

それゆえ失業率が低く、安定した経済環境ほど一般大衆の消費と生産に対する概念は生産側に向き易く、結果として消費と言う自身が為す事が無機質、無意味であるかの様な表現をされていても全く気付く事は無くなるが、確かに消費を無限連鎖的に喚起していく概念の経済は無機質、無意味な物と言う事が出来る。

また人の一生は「死」に拠ってあらゆるものが水泡に帰する事に鑑みるなら、我々が行っている事は全て「消費」なのかも知れない。

しかし好きな人が出来て一緒に暮らしたいと思い新居を探す事、やがて子を為してそれを育てる事と、ハンバーグがどんどん消費され、太るからフィットネスクラブに通う事は同じでは無い。
好きな人が出来たり、子供を育てる事には強い能動性が有り、ハンバーグで太ってフィットネスクラブ通いは誘導性の行動である。

これらを一元的に「消費」と考える処から、経済学は現実の人間生活を壊す方向へと動いて来てしまった。
何が消費であり、何が生産なのかの区分が曖昧になってしまった訳であり、消費の中にも生産は存在し、生産の中にも消費は存在する。

これらは本来分離して考えられるべきものではなく、あくまでも統計上の仮想区分である事を認識しなければ、人間のあらゆる生産もまた無限連鎖的な消費にしかならない事になる。

我々が営む社会生活、日々の暮らしは全てが消費と言われればその通り、一方全てが生産と考える事もできるのであり、自身がそれをどう認識するかに拠って、先に見える経済は180度違って見えてくる。

自身が為している事を消費と思うか、或いは生産と思うかに拠って、先が未来になるか過去になるかの分岐点になる。

消費と言う言葉はこの意味からすれば自身の在り様を否定された言葉であり、少なくとも自身が胸を張って「私は消費者だ」と言うべき筋合いの言葉ではない。
むしろ自己否定されたのだから、「無礼な事を言うな」と反証すべき言葉なのである。

ちなみに冒頭楽曲の「Mi mancherai」(ミ・マンケライ)は「あなたに会えなくて寂しかった」「あなたに会いたかった」と言う意味だが、この楽曲の歌詞では「amore mio」が続き、イタリア語のイントネーションではMi mancheraiの後に連続してamore mioが使われる場合、間に小さな「ェ」を意識すると発音はスムーズになり、通常ならこの後にti amoと言う言葉が続くだろう。

「ミ・マンケライ」「アモーレ・ミオ」は多分イタリア人の男なら最初は普通に、そして「アモーレ・ミオ」は少し大きな声にする可能性が高いが、日本の男が使うなら、最初は普通に、「アモーレ・ミオ」を更に小さな声で発音して、薔薇の花の1本も彼女に渡すと格好良いかも知れない。

そしてこの時彼女に手渡す薔薇の花を買う事を、私なら「消費」とは言われたくないと思う。




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