2017/06/30
「第八節・自分のもの」
「言葉は言霊(ことたま)とも言い・・・」と言う解説を時々見かけるが、言霊とは霊力が宿る言葉を言い、言葉の一部であり例えば聖書の「詩篇」、仏教の経典等がそれに該当するが、言霊と言う音(おん)から言葉と言う音(おん)が発生した訳ではない。
「言」の古い字体は「辛」(シン)と「口(コウ・くち)」であり、これは発音上の「充て字」(あてじ)と言われているが、発音上からすると「辛」(シン・つらい)よりもむしろ「幸」(コウ・しあわせ)が「ゴン・ゲン」に近くなるが、「辛」(シン)が充てられたのは何故か。
言語には文字で現す「表記言語」と発音で現す「表音言語」が有り、発生は表音言語がおそらく始まりで、表記言語は文明と共に成立してきたと思われるが、「申」(しん)や「奏上」の奏などの発音を考えるなら。「シン」と言う音が大切だったのかも知れない。
或いは元々言葉とはつらく、口にからいものだったのかも知れないが、「幸」と「辛」は棒線一本の違いで意味は逆転し、しかも「幸」の形は古代の板状拘束具だった事に鑑みるなら、古代の人が描く言葉のイメージは現代の我々がペラペラと使っている言葉ほど軽いものではなかったのかもしれない。
我々が使っている言葉は、結果として何らかの縛りであり、それは時間や期限だったり物や人、形や色など、あらゆるふわふわ漠然と漂っているものを引き寄せ、固定する役割を持っている。
従ってこうして固定した状態を保護、守護する必要性が出てくるのであり、これを客観的に表現するなら「責任」と言うものが生じてくる。
「愛している」と言ったら、次からそれを何らかの形で示していかねばならず、「あなたは素晴らしい人だ」と言えば直後から裏切るような行為はできない。
「○○をします」と言えば、やらねばならず、山や川が綺麗だと言えば、次に醜いだの汚いだのとは言いにくい。
「おめでとうございます」と言った時は、自身が面白くない状況でも、暗い顔も出来ない。
恨んでいると言えば、その恨みを継続しなければならない。
一度人を攻撃した言葉を使うと、そこへ同じような者が集まり、奴も良いところが有ると思っていても、回りに固定されて気持ちを偽らねばならなず、これは人を褒めた時も同じ。
考えてみれば言葉とは結構大変なものなのであり、こうして考えてみるなら「良い天気ですね」「そうですね」と言う会話こそが一番幸せな会話と言えるのかも知れない。
更にこうした観点から考えると、人間の記憶は責任の薄い言葉、すぐに責任が終了する言葉から先に忘れ易く、良かった事や嬉しかった事なども相当大きな事は憶えていても、小さな事は忘れて行く。
だが、悲しい事や辛かった事は比較的長く憶えているものの、実はこの記憶も曖昧で、キーワードが出てくると悲しみや苦しみの感情が一緒に出てくるからそれは増幅されるが、結構内容は曖昧になり、次第に記憶は平板化し、やがてそれ以降に色んな記憶が積み重なると、遠くにある幸福を感じる記憶との誤差を失う。
悲しみも苦しみも最後は遠い幸福感に繋がっていくが、人もまた同じで、敵で有った者もいつかはこうして遠い幸福に思える時が出てくるなら、例えそれが死の一瞬手前だったとしても、今までの悪い関係こそが夢幻と言えるかも知れない。
敵は遠い未来の可能性、今の苦境や悲しみもまた遠い未来の可能性・・・・。
未来を見つめるなら敵も味方も苦しみも悲しみも同じ事、全て手放すことは出来ない自分のもの・・・・・。