社会・第六節「仮想の三角形」



Steve - Canon Rock・・・・・

「ピタゴラスの定理」の中で整数比率が成立するものは、文明の早い段階でこれが知られていたが、人間の視覚認識も遠近を「三角形」で認識していて、ために絵画や写真の構図の原則は「三角形」になるが、直角三角形を回転させて、そこを斜めに切り取ると「パラボラ形」になり、この外周は恒星を回る惑星の軌道と関係が深く・・・(危ない、話がどんどん逸れて行くか)

生物数の種類別区分を捕食関係で現すと、ほぼ「三角形」になり、これを「生物ピラミッド」と言うが、高さの2倍の底辺の三角形構造と推定されているものの、人間の権力や資本力、調整能力などの総合を区分すると、これもほぼ三角形になるが、現代のそれは底辺が高さの6倍ほど、自然界ピラミッドが極端に押しつぶされた形と推定される。

古代に措ける人間のピラミッドは戦争や災害などに拠って調整され、結果として自然界ピラミッドを維持していたが、この三角形の構造に上から圧力をかけ続けてきたのが「平等」と「自由」だった。

平等はピラミッドの否定であり、この理想とするは生物が横一線に1つずつ並ぶ形となるが、これでは捕食が成立しない。

生物生存の基本である「弱肉強食」が成立しなくなるが、人間社会もまた同様で、全員が横一線では人類の一人一人が同じ面積で自給自足となるか、或いは全員が狩猟で暮らす社会となり、これでも環境やその個人の能力に拠って農作物の収穫量、狩猟する獲物の数に大小が出現し、その規模が小さければ小さいほど格差は大きくなっていく。

つまり生物的に平等な社会は極端な「格差社会」となるのであり、人間社会の平等思想とは生物学的平等に相反する「平等」と言え、為に人間界で使われる平等は調整機能の一種であり、全く同じ力の個人の利益が対立した時、これを調整できるのはそれら2つの個人の力以上の力を擁する者でしか為し得ない。

「平等」の為に「権力」「格差」が発生するのである。

この、それら2つの個人の力以上の者の初期は腕力(暴力)であり、次は「富の集積」となるが、現代社会はこうした暴力や富の集積から全員で「力」を選出し、その者に「力」の代理を委任する形を採用している。
これが代理権限民主主義だが、そもそもこうした代理人を選出する過程で、予め環境や能力に偏りが在ることから、本質的には「暴力」「連続権限」「資本力」が「力」になっている構造は変わらない。

権力者の下に公務員やそれに順ずる機能が存在し、これらは資本で動き、底辺の民衆から資本原資を集めるが、この構図だと底辺の数が多くなれば多くなる程集まる資本原資は大きくなる。
「国家は人」とはこう言う意味でもあるのだが、こうして発展していくと底辺が長くて高さが短い三角形が出現し、数の多い底辺は皆が不幸を望む事など有り得ない。

しかし、現実は底辺の数が増加するに従って、底辺の個人々々は貧しくなり、これに対して見かけ上の「権利」を与えるのが「自由」や「平等」の思想であり、ここでは現実の三角形の上に見かけ上、底辺の極めて狭い三角形、若しくは横一線の構造体を重ねて見せてしまう形が取られていく。

生物捕食関係図の三角形がまるで正方形、直線一本になっているかのような錯誤を民衆に与え、この事が社会思想と現実の乖離に繋がり、増加した底辺、仮想の底辺の狭い三角形を錯誤した、実際は長い底辺は上位者が集められる資本原資を減少させ、これが逆に底辺に流出して行くようになる。

為に資本原資は自身を保護する為に民衆との関係を薄くして保護を計り、この事が民衆が受ける恩恵を減少させ、民衆側に在る中小企業の設備投資が抑制されたり、倒産の増加、過疎の進行、小規模小売店の廃業等に繋がっている。

つまり経済は貧しくなり過ぎた民衆と維持できなくなった仮想の三角形から逃げて、少しでもチャンスのある株式相場で飽和している状態になっているのであり、この最大の原因は底辺が広がった三角形の構造にあるのだが、改善策は一旦の破滅、若しくは巨大災害に拠る壊滅しかないかも知れず、ある意味巨大災害と言う最大の理不尽は、最も人間に対して平等な解決となるのかも知れない・・・・。

注、ただしこうした考え方は理趣経と同じで、使い方を誤ると社会に大きな害悪を及ぼす。
くれぐれもカルト教関係者と、自身が傲慢かつ卑怯である事を知らない者が参照してはならない。(自分が一番参照してはならないかも知れない・・・笑)






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社会・第五節「支配」



もういちど教えてほしい HD再編集版 ユリアーナシャノー ガメラ3邪神覚醒・・・・・


母親の手を引かれ道を歩く子供は、それが道で有る事を言語と経験で体得し、その先にスーパーが在って、そこで大好きなお菓子が売られている事を認識して行くが、この認識の多くは言語に拠らなくても、母親と一緒にいるだけで得られる。
母親が生まれて直後に亡くなったとしても父親が、父親がいなかったら保護施設が、やはり子供を育くむ過程で子供は体験から社会を認識していく。
しかしこれが全くの自然に一人だけだったら、子供は生きていく事が出来ず、「完全な自由」とはある種こう言う事でもある。

一方もしカルト宗教の中で出生したとしたら、近親婚で生まれた子供は監禁され、全く社会と絶縁された状態になるが、殺されない限り生きている事は出来るものの、監禁された状態で親が死亡すれば、子供も一緒に死んでしまう。
これと同じ状況は貧しい一般家庭でも簡単に発生し、一番の原因は親の社会接点の低さが影響している。

我々は自由だと思っているかも知れないが、実は「支配」が無ければ生きて行くことは出来ない。
子供は出生した直後、親かそれに代替する何かが無ければ生存が出来ず、親は子供を育てる義務を社会と本能から課せられている。
この状態は意識しされない「被支配」と、意識されない「支配」であり、同様に社会生活が営めなければ親も生存して行くことが出来ない事に鑑みれば、我々は意識されずに支配を被り、社会は全体として個人を支配している事になる。

人間が生まれてから全く知識が無く、他に人がいない状態では、例えば周囲に存在する木の実や植物が安全か、毒性かを知るだけで一生を終えるだろうし、その際1回でも間違えればそれで一生は終ってしまう。
社会とはこうして生存そのものに関わる事項を集積し、効率的に集中的に子孫全体に付与し、それが終ったら社会を維持する一員として存在させる、生存と子孫を連携するシステムなのであり、それゆえ生存に関わる基礎知識と、社会生活に措ける知識が一定基準に達すると、被支配者は「独立」を意識するのである。

これが子供の親離れであり、社会生活に不満があると、その社会に疑問を抱けば、社会からの独立、「自由」を求める事になるが、これらは社会と言うシステムが、その個人を養育している時は「恩恵」、それが終ってしまうと「義務」に転じてしまう為で、実は社会システムは一貫している。

しかし個人は社会と言う支配が、自身に与えてくれている時は被支配の意識が無く、義務に転じてくると「支配」だと気付くのであり、考えてみれば実に自分勝手な考え方と言えるが、一方「育ててやったんだから、後はしっかり働いて社会のために尽くせ」と言う事では生きていくのが辛い。
これを救うのが「密度の不均衡」であり、簡単に言えば「貧富の差」と言う事になるが、より多くの努力をした者はより多くのものを得る仕組みは、物質相対密度に均一が存在しない事からしても、ある種の物理法則とも言え、これに本能が乗り、その本能の一つの形が「資本主義」な訳で、社会はこうした貧富の差や弱者と言うテーマを常に持ち続けてきた。

と言う事は、社会はいつか必ずこうしたテーマを組み込んで行くと言う事であり、長い時間を要しても皆がこれを考え続ければ、やがて社会はそれをシステム化する。
厳しい物理法則から人類を擁護してきた社会と言うシステムは、いつか必ずそれを取得するだろう。
しかし問題は人類の側に有る。

「支配」は恩恵と義務だが、この恩恵だけを得て義務を怠れば、社会は出費だけが増加し、やがて子孫の為に用意する恩恵を減少させる。
元々社会システムは「種の生存」の為のシステムである事から、この部分から基礎が失われれば社会システムは壊れ、種の生存が難しくなる。
社会のこうした一面だけを捉えてはいけないが、「支配」は「恩恵」と「義務」で出来ている事を憶えておくと良いだろう・・・。

社会・第四節「天井」



エヴァンゲリオン 最終回 おめでとう BGM・・・・・

「societas humana」、明治期に「社会」と訳されたこのラテン語を語源とする言葉は、「社会」と言う意味からすれば「asociation humana」の方が近い概念と言える。

「会派」「派閥」などのトップダウン集団の意味合いが強くなり、この概念の基本は「人間」だが、「社会思想」や「目的」と言ったものを指し、欧米の思想でも「資本」「国民」「国家」と言う対等関係の図式で示される。

こうした少し絞られた全体思想の「絞り」を開放して表現されたのが「sosietas humana」と言う事になるが、ここでは絞られた全体思想に漠然として存在する「defense」(防衛概念」は「少しの絞り」が開放された時点で消滅しなければならない事になるが、この「defense」が「絞り」が取れても残った状態になった為に発生したのが、「権利」の思想と言う事になる。

民主主義では民衆が最上位だから、これの上位は原則存在しないはずだが、どこかで支配を仮定した開放の概念が抜け切らずに「権利」と言う概念を持ってしまい、この権利には必ず「責任」が付きまとう。
ここから逆算する為、欧米の権利思想、社会は常に仮想の上位を恐れ、この恐れが現実の脅威となってしまうのである。

片や東洋思想の社会に該当する「世の中」や「世」の概念は「人間に限定されていなかった」
人間の背景となっている景色や環境、場合に拠っては美しい空の色、薄ぼんやりした夕方の在り様までも背景に包括していた為、予めの諦観(あきらめ)が存在する。

毎年繁茂する葛の蔓(くずのつる)に文句を言っても詮無き事であり、雨を呪っても雨は降り止まぬ。
東洋の思想はこうした自然の在り様と権力者の在り様を同じものとして見ていた為、欧米の支配者には天井が存在したが、東洋の支配者の上には天井が無かったのである。

東洋思想にはこうした経緯から「権利」に対する考え方が薄く、これは裏を返せば個人の「責任」意識も薄くなると言う事で、その分支配者に対して許容性が高い。

むしろ支配体制に漠然と依存している部分が有り、有能で善良な指導者の出現を望みながら、近代の欧米の権利思想で発生してくる支配者「政治家」がその希望を満たせずに交代していく日本の政治などは、まさにこうした背景に鑑みるなら、必然の結果とも言うべきものかも知れない。

一方欧米の「社会」は人間に限定されている分、対等関係の思想が根底に潜んでいて、これはきつく言えば(武力を用いれば)何とかなるかも知れない範囲であり、この為に自身が攻撃を考えれば考えるほど、相手の攻撃をどうするか考えなければならない事になる。

ここに「defense」(防衛)と言う概念が発生し、防衛の中に突き出た攻撃と、攻撃の中に突き出た防衛は同じ事で、この突き出た部分を武力ではなく文書化して上品にしたものが「権利」であり、従って権利には「力」の担保が必要になり、これの薄くて上品なものが「責任」と言う事になる。

こうした背景から欧米の「社会」の概念は「asociation」(アソシエーション)の「ア」の解除、弱い限定を解除したものを指すが、基本は「資本」=「国民」=「国家」なのであり、この「資本」は攻撃と防御を基本とする為、「金」や「利」はどこかで非人間的なものとなってしまう。

それに比して東洋の社会は自然や運命までも弱く包括している為、予め攻撃が用意されなかった。
民衆は現実に力が無ければ、それもまた天の采配として現実を受け入れて行った。
まるで人通りの有る道を他人にぶつからないよう、フラフラと歩く姿のようなものが東洋の「世の中」、今で言うところの「社会」かも知れない。

人間だけが社会なら「利」は兵士に同じ、空も海も社会なら「利」は恩恵となる。.
それゆえ欧米の資本は攻撃や侵食なのだが、東洋の「利」は「得」であり、「得」は「徳」なのである。





社会・第三節「インパクトの統一」

社会の「社」は「やしろ」「宮」の事だが、この字の古い形態には右に「杢」の文字が使われているものがある。

この為、「社」の概念は建物を含めてその場に見合った木が植えられた状態を包括し、この事の意味は「本体」のみならず「周辺」も含めたものと言う事になる。

また「会」は基本的には「器」の「蓋」だが、「三合」と「増加」「増」の合字であり、この意味ではぴたっと合う者が2名以上集まって、それが増えていく事を指しているが、「社」は本体だけではなく、周辺の木を含める事に鑑みるなら、「社」はやがて朽ち果てる方向へと向かい、木は成長する。

ぴたっと合った状態はやがて中心の「社」は朽ち果て、周辺の木は生長すると言う、あらかじめの変化を見事に表現している、或いは「社」に見合った木を植えてそれを育てる意味も有るかも知れないが、いずれにせよ「社会」と言うものの本質を鋭く突く文字であり、こうした傾向はおそらく偶然なのだが、その生活様式が自然から離れず、また現実を無視しない在り様なら、頻繁に発生する事のように思われる。

ただ、「三合」の「三」、「森」もそうだが、これらは多く存在する事を意味するが、同じようなものが決して交わったり、角度の関係を築かない事も現していて、集まってもその単体は平行関係でしかない事も現している。
何か一つの目標で集まった者たちが、やがてその他の部分までも共通点を見出すが個人は独立している為、決してぴたっとなっている訳ではなく、見かけ上ぴたっとなっている、或いはぴたっとしなければならないと言う事なのかも知れない。

そもそも「自由」と言う概念を考えるなら、「maximilan Weber」(マキシミラン・ウエーバー)が言うように、個人と集団は必ず対立する。

「公の利益」はその時の「個人の損失」であり、個人が利益のみを主張するなら「公の利益」は予め存在できない。
が、社会が無ければ人間は生きられない。
いきなり砂漠の真ん中、アマゾンの奥地に放り出されたら、その個体の生存確率は急速に低下する。

哺乳類の個体発生初期インパクトは卵子と精子の接触反応だが、膨大な数の精子の中で卵子に接触できるのは1つしかなく、この意味では精子は互いが競合関係に有るが、最も優勢な精子の選択と言う側面では、その精子全体で共同しているとも言え、この形は「社会」に対する個人の関係式に近似している。

ただし、人間の社会は1回のインパクトで決定されておらず、例えば植物などは春が来たら一斉に花が咲き、秋には実を着けて枯れて行ったり、鳥類の産卵期、哺乳類の中には発情期と言うある種の統一インパクト系が存在するが、人間のそれは時期によるインパクトの統一性が無く、人の寿命も揃っていない。

70年経ったらみんな死んで、その時の子供はみんなが40歳前後で・・・と言う事がないのはどうしてかと言うと、社会と言うものの環境に対する脆弱性から発展したものと考えられるが、人間は植物ほど環境適合能力は高くない。
それゆえ例えば生まれてくる時期が統一されていると全滅の可能性が出てくる。

これを時間経過でランダム化し、全滅を防ごうとするのが社会の自然適合であり、社会が強くなればなる程人間の適合能力は社会に依存し、ダイレクトな自然環境には脆弱になっていくが、それを補う為に社会はより強固な形を進めていく。
ちょうどパソコンのセキュリティーと、開発されるウィルスの関係に同じかも知れない。

そして面白い事に、こうしてランダムインパクトの社会がどんどん進んでいくと、やがてランダムは秩序に向かってしまう。
つまり安定した社会が継続されると、一定の地域であらゆる物事のの時期が揃ってきてしまう傾向が発生し、その事がその地域でのあらゆる崩壊や終わりの時期を揃えてしまう方向を持つ可能性、簡単に言えば滅亡の可能性を生じせしめる。

荒唐無稽な話のように思われるかも知れないが、このような角度から「戦争」「経済の盛衰」「消滅集落」を観てみると、意外な事が見えてくるかも知れない・・・。





社会・第二節「容器」

金属が太陽光に晒されると熱くなるが、人間も太陽光に晒されると熱くなる。

また人間の場合は喧々諤々の議論をしていても熱くなると言うが、これらの差異は何かと言うと、与えられた事象に拠る変化と、人間の場合は脳内の電気信号による情報処理過程の変化、これを感情と呼ぶならそれでも良いが、全ては事象に対する今まで以外の変化を指している。

また人間は自分が生まれた事を自覚することは出来ない。
全ての人間、生物は現実に生まれて来たにも関わらず、自身の誕生を体験した記憶の有る者は一人もいないのであり、これは「死」も同じである。
が、一定の年齢に達した全ての人間は「誕生」も「死」も知っている。

つまり人間は「他」に拠って自分を知る事になるのであり、個体生命が自己を確定するのは自分と同じ個体の「他」の存在が不可欠であり、基本的にはこれが「社会」の始まりになる。
その意味では冒頭の金属と人間の関係でも、それに拠って変化が発生するなら、同じ個体同士ほどではないにしても、そこに「関係式」が発生し、社会とはこうした事象と自分の関わりを広義にする。

尤もこうした考え方は私の考え方だが、古典から現代にまで及ぶ人類学、社会学と言うものは人間に的を絞っている為、見えていないものが多いような気がする。

例えば植物を観ると、同じ個体の群生状態が多くなるが、これなどは成長の速度が同じなら、成長し切った時の大きさも差異は少なく、同じ環境内での生存競争は他の背丈の高い、或いは成長速度の速い植物との競合よりは全体の数が多く生存する可能性を持つ。

人間世界での戦争の先に在る最大効率法「平和」と近い現実があり、場合によっては人間が認知できないコミュニケーションが存在するなら、これは「社会」と言うべきものなのであり、例えコミュニケーションが無くても人間社会の前段階の社会と言う側面を持ち、こうした群生や集団を社会の初期段階とするなら、物質から始まって全ての生物がそれぞれの社会の中に存在する事になる。

我々が「社会」と言われて概念するものは何か、「人」「経済」「政治」「法」その他色々あるが、これは社会だろうか・・・。

「人」以外は単に手法や手続き、契約に過ぎず、物質や生物の存在の直後から発生してくる最大効率法への道に鑑みるなら、社会とは存在が始まると同時に進みはじめる「器」のようなものかも知れない。

この「器」は生物と言う絶え間なく生まれて死に行く流れの者に拠って常に変化し、特定の形を持たない、まるでアメーバーのようなものかも知れないが、どうも人類の発祥以前、場合に拠ってはこの宇宙が誕生した直後から回転を始めた運動のような気がするのである。

つまり「社会」は人類学や社会学と言う分野の話ではなく、物理学、幾何学上の力学法則に近いようなものかも知れない、私の目にはそんなもののように観えるのである。




第三章・社会・第一節「第二の宿命」



鬼束ちひろ - Infection・・・・・

真言密教では常用経典になっている「理趣教」(りしゅきょう)は、一般的には760年頃から10年の歳月をかけて「不空」(ふくう)が翻訳したものだが、この経典は分枝も存在し、またどの部分を用いるかで違った解釈が成立する経典でもある。

空海は「理趣教」の管理には厳しかったが、その背景には「理趣教」は「鏡」だったからでは無いかと考えられている。
同経典の中には男女の交わりから得られる快楽もまた、仏の境地とする考え方が記されているが、この経典の唐時代の解釈の中には「因果に措ける果の因への関わり」と言う難解な文言が残されているものが有る。

この解釈の根源は「調和」であり、「理趣教」のみならず全ての経典は一つであり、そのどれか一つだけを用いると、何かが解からなくなる事を意味していたが、後年日本の後醍醐帝が色欲を関係式とした政権を樹立した時期が在る事に鑑みるなら、「果の因への関わり」は実に重い意味がある。

中国古典思想の「五常」「仁」「義」「礼」「智」「信」の成立背景を考えて行くと、意外と言うか尤もと言うべきか、この「理趣教」の「果の因への関わり」と言う事の意味が見えてくる。

ラテン語の「自由」の意味は「現在と未来に措ける束縛から解放された状態」であり、西洋史観に措ける「平和」は「戦争の無い状態」、東洋哲学の古典では「幸」の文字にある様に、「木製拘束具がかけらていない状態」を指し、これは何を意味しているかと言えば、「自分を自分の為に使える」を理想としながら、それが実に困難だと言う事を示している。

つまりは「戦争」や「自然災害」等が頻発し、その中で生き抜くことの難しさ、運命の過酷さ、殺戮の上に重ねられる殺戮、そして大地は疲弊し民は失われる。

この絶望の果てに「五常」の「徳」が生まれて来たとも言えるのであり、その当初は民衆にこうした意識は無く、始まりは「王」や「主」に仕える家臣、家来達によって求められたものの可能性が高い。

人の妬みや恨みから生じる讒言によって、或いは王の気まぐれに拠って現在の立場からいつ処刑台に上らされるか解からない。
これを生き抜く術として、更には兵も兵糧も民衆からの収奪でしか得られない王政や君主制は、民衆が塵屑(ごみくず)にして自身らを支えていく根拠で有る事を自覚して行く。

「徳」は戦争の効率性を突き詰めた先に在り、殺戮が及ぼす結果の先に民衆を「天意」とする形が生まれた可能性が高く、この「悪」が在ってこその「善」であり、その事の結果は初めから見えているものでは無く、後に形として現れる。

「理趣教」の「果の因への関わり」とは戦争と言う最も大きな悪が在って、最も深い「善」が生まれる事を示しているように思われるが、一方で「戦争を肯定してはならない事を暗に知れ」「忌み嫌いながら平としてそれを見よ」と言う難しい事を言っているのである。

快楽がもたらすものは「悪」とは限らず、姦淫と愛は同じものにして道を相反し、自我を温存しながら快楽に及ぶを人間は出来ない。
快楽を求め続ければそれを姦淫と言い、一つの快楽に全てを賭ければそれを愛と呼ぶかも知れない。
唯心を知る事は出来ず、全てはそれ以後をどうしたかと言う形でしか、過去を肯定も否定も仕様が無く、これは今も未来も同じ。

弱肉強食は事の善悪の初めに生物の宿命であり、この意味では戦争は絶対避けられず、生物は複数化したときから意識が在ろうと無かろうと社会を形成しはじめ、この社会は弱肉強食を最も効率良く、均一性を以って行う方向へと向かい、その過程で社会から生物は感情や心を形成する。

従って生物の一番下から感情、若しくは形としてのそれが存在し、動物は勿論、人間の感情もそれは神が与えたものではなく、その社会が与えたものであり、故に予めから「矛盾」なのである。

快楽の境地は「無」であり、ならばここに愛などの入る余地は無い。
が、その「愛」が無ければ最大の快楽、境地は見えない。

弱肉強食の最大効率法が平和なのであり、戦いを避けられない生物は戦いながら、それを平板な目で見つめながら猶、生物として、人として、心を持つ者として存在し得ない最大効率法「平和」を求め続けなければならない。

これは第一の宿命ゆえに現れる「第二の宿命」なのである。

(ちなみにこの話は簡単に理解できたと思う者は理解しておらず、良く解からないと思った者の方が多くを理解しているかも知れない・・・)





義・第十節「付随義」(ふずいぎ)



IMPOSSIBLE REMIX - Pirates of the Caribbean Medley・・・・・

「人」と言う字は元々種を撒く人間の姿をその起源にしていると言われているが、この字は途中で腰を折って両手を地面につけた状態、「刀」と殆ど同じ形を経て今日に至っている。

「屍」はこの逆の状態、尻もちを付いて、両手を後ろで地面に付けた形を起源にし、しかも当事者に息が有るか否かを問う事をしていない。
「屍」は「死」と同義ではなく状態、「形」を現しているだけだった。

そして「大」は人の正面を現しているのだが、この状態の人間と言うのは存在し得るのだろうか。
少なくとも古代の一般庶民にはこうした状態は無かっただろう。

それゆえ「大」は為政者や統治者、或いはそれらに拠って認められた者の姿を指していたように思われるが、その為政者にしても外に現す姿こそ「大」だったが、自身の内に在っては「召」の字が示すように、地獄の入り口となる台の上で蠢いているようなものだったに違いない。

人の正面の姿と言う事を思うとき、幾千本の矢の前に両手を広げ、目を見開いた者の姿を私は思わざるを得ない。
死を覚悟した人間の姿しか浮かんでこないのであり、そもそも人は夜が来て朝が来るように、唯存在するだけで光と闇がそこを通り過ぎ、善と悪が手を繫いで上を覆う。

そのような中に在って、一点の曇りも無く正面を見据える時が有るとすれば、私なら命を諦めた、「もはやこれまで」の状態以外に考えられず、それゆえ「義」の究極は「死」であると思わざるを得ないのだが、一方こうした考え方が一般化すると、例えば封建社会では「付随義」(ふずいぎ・造語)が蔓延する事になる。

犬より人間の命が軽い「生類憐れみ」、皿一枚で命を落として亡霊となった「皿屋敷」の話はその最たるものだが、現代社会はこれを笑えない。

子供の教育を第一義にしなければならないPTAでは、会長の顔を立てるためにイベントが企画され、総理大臣は国の為に命を賭けねばならないが、自己保身に政治生命を賭け、死して猶親を思う気持ちは金で買った絢爛豪華な仏壇に手を合わせさせ、デートの時間に遅れれば簡単に恋人関係は憎しみに変わり、犬や猫が死んでも盛大な葬式が行われ、人間の葬儀は家族葬へと向かっている。

思うに我々の周囲に存在する「義」で「付随義」以外の「義」などあるのだろうか・・・。
おそらく古代の人々も「義」と言うものに対してはその存在の危うさを肌で感じるものがあったに違いない。

それゆえ「義」には「ゆらぎ」が有り、「形としてはこちらを選ぶのが正しいが、どちらを選択してもお前が命を賭けるなら、それはどちらも間違いではないぞ」と言うような在り様になったのではないか・・・。

純粋な「義」は存在しないだろう。
古代の人々も現代の我々が見ている「義」も、もしかしたらそれが美しく見えるだけかも知れず、それでも人は「義」を求め続けるのは、この世に「義」が無いからであり、「義」は人の世の幻かも知れない。

「義」だけに留まらず「五常」の他の「仁」「礼」「智」「信」もきっと形でイメージするなら「台風」のようなものかも知れない。
中心は在るのだが、そこには何も無く周囲を激しい勢いで雷雲が渦巻く、そんな姿のような気がするが、でもこの何も無い中心が無ければ周囲の激しい雷雲も存在できない、そんなもののような気がする・・・。






義・第九節「距離」



糸/中島みゆき(ピアノソロ中級)【楽譜公開中】 Miyuki Nakajima - Ito・・・・・

一番解かり易い事で言えば「陸上競技」の「走り高跳び」が良いか・・・。

高さが80cmくらいなら誰でも跳べ、1mしか跳べない人が1m30cmを跳べるようになるのには、基礎的な訓練を数日繰り返せば跳べるようになる。

しかしこれがオリンピックレベルの2m30cm前後ともなれば、それまでの競技生命の全てを賭け猶、風邪の向きや前日食べた食事の量までもが、その他あらゆる事柄が組み合わさらないと、「運」と言う偶然が加わらないと1cm、2cmの高さを超えていく事が出来ない。

ここでは80cmから1m30cmの距離は50cmの差異が有っても狭く、2m30cm前後の1cmは限りなく遠い。
もっと解かり易い例で言うなら、給料日翌日の1万円と給料日前日の1万円では、給料日前日の1万円はとても大きな価値になり、給料日翌日の1万円は軽いのにも似たりか・・・。

「義」もまた突き詰められた状態では、僅かな障りでもそれを超える事が出来ず、関係で言うなら親と子、子の子、親子より自身と孫の関係の方が濃度を薄くし、課長と一般社員、社長と部長の責任の重さは同じでは無い。

「義」は距離が突き詰められた短い状態ではその幅を無限に近く広げ、距離が広いところの状態ではその幅はとても狭く、これは五常(ごじょう)の「仁」「義」「礼」「智」「信」全て同じ事が言える。

それゆえ自身から遠い「義」は広い幅の中が空っぽであり、自身に近い「義」は狭い距離に多くのものが詰まってくる事になるが、遠い「義」は近い「義」を知ることが出来ず、結果としてこの遠い「義」は対立と言う混乱を引き起こす事になる。

人間の事情は全て同じように見えて、個々の事例では一つも同じものが存在しない。
しかし遠い「義」、見ているだけの「義」はこうした個々の人間だけにしか解からない心情や事情を知ることが無く、一般的な形でこれを判断し、インターネットの情報は大部分が「他人事」にも関わらず、意見は個人の事情を根底とする。

この事から本来は幅が広くて距離が短かった部分に、幅の短い、しかし距離は無限に近い長さを持ったものが混じってきて、現実との相反現象を引き起こす事になる。
見た訳でもないのにまるで見たような気になり、人の意見にも関わらず自分が同じ意見ならそれを自分の意見と錯誤し、これを断ずるは「義」の距離、秩序を蔑ろにする。

その結果本来幅の有った部分の「義」の両端、「感情」と「形」のどちらかに極端に集中した「義」の概念が発生し、この事がそれまでの「形」を壊し、壊れた形は「感情」も壊して、対立と言う相互理解が初めから拒否された状態を生じせしめる。

ここに「義」は机上の極論となって現実が蔑ろになり、これを果たす方法を失う。
すなわちこの世には「理想の義」が蔓延しながら、現実には何の役にも立たない「義」の概念が発生してくる事になるのである。

「自身の事情を他者が絶対理解できないように、他者の事情に自身を重ねても永遠に道は見えない」





義・第八節「形の成立」

婚姻に拠って一組の男女が結ばれた時、新郎は新婦の両親を新たなる父母とし、新婦は新郎の父母を新たに父母として、この両家の父母は基本的に対等関係に在り、新郎新婦は両方の親に共同して同じ孝養を尽くさねばならない。

しかし現実には自分を生じせしめた親に情は傾き、社会は同じ仕組み、同じような心情を共有する事から、両家の親の対等性を周知していながら、それに心情的対等性が存在しにくい事もまた、社会は周知している。

「義」はこのように「心情」を元に形成された社会的な「形」であり、ここでは形の中に100%の「心情」は求められていない。
大切なのは「形」で有り、この形は社会認識に拠って変遷し、しかもこうした形は自身が選択できるものではなく、周囲の環境、つまりは運命とか宿命と言う危うく、しかし絶対的なものなどに拠って成立する。

そもそも生まれて来る時、自身の親を選択して生まれてきた子供が有ってはならず、好きな異性の親は本来なら関係が無かったはずだが、好意を寄せる異性の親である事から、この異性に対する親愛の情の形として、相手の親を敬う形を必要とするのであり、これらは一見人の為のように見えながら、その本質には「自分」が存在する。

「義」はこうした意味では「信」と「務」の間に在る事になるが、その対応が早ければ、深ければ「信」に繋がり、遅く浅い事になれば、「務」に変じて、最終的には「責務」になり、この責務は自律認識責務と言う事になる。

社会的に、そう言う責任が有る事を自覚している事が求められる訳である。

そして自身を生じせしめた親と、好意を寄せる異性の親に対等の情を求められない事を社会は認識しながら、個々の段階ではこの対等性が情を背景にしてまでも期待される。
自身が新婦だったとして、相手の親が気に食わなくても社会はそこに自身の親と対等な関係を善しとしていて、しかも「情」が存在しにくい事を認識しながら、背景にそれが在るものと「形」に拠って看做す訳である。

社会とは自身の事は「情」に基づき、他者の事は一般的社会条理に基づく判断をする者の集積と言えるが、「義」はこの中で社会が求める形の、文字通り形而上の自律選択の弱い強要、は矛盾するか・・・、「弱要」(じゃくよう・造語)と言う側面を持つ。

それゆえ、こうした社会合意や認識には厳密な普遍性が無く、例えば今の子供は親を敬わないとぼやくなら、その原因を作ったのは自身の親に対する在り様が子に反映されたものと言え、責任を問うなら自身の在り様そのものに要因が在ったと言える。

婚姻に拠る相手の異性の親への義は、婚姻の消滅に拠って消滅する。
ただし、婚姻の消滅事由は一辺倒ではない。
配偶者の死別、離婚、財務保全上の離婚、失踪などあらゆる事情が存在し、この中では死別などでは婚姻が消滅しても相手の親への義は継続される事が多いが、浮気による離婚などの場合は、その後相手の親に対する「義」も消滅する場合が多い。

また子供がいる場合は、別れた夫婦は他人でも、生まれてきた子供は夫婦の親にしてみれば血縁の孫である。
いっそう様に何かの関係が壊れたから消滅すると言う生き方では、先へ行って子の情を求めることも虚しい。

人間は綺麗な事だけでは生きられない。
現実が感情を生み、感情が形を為し、形が感情を為し、感情の一般化から形が生まれて来る。

現実の事象に忠実なら、人の生きるは醜さの連続かも知れず、あらゆる場面で「義」を貫徹することはとても難しい。
それゆえ悩め、現実に対して深く、深く苦悩した方が良い。

なぜなら、その苦悩こそが「義」の「死」に相対する「生」だからである。



義・第七節「非等価」

我々が金では買えないと思っているもの、友情や愛、幸福などの概念が、では金とは全く異質なものかと言えばそれは違う。
実は金と全く同じ「等価交換」を基本にしている。

人間の社会は金で物を売り買いしているが、「気持ち」や「心」でも売り買いをしていて、例えば結婚するに婚約指輪をくれた、優しくしてくれた、彼の気持ちが嬉しくて・・・と言う事などがあげられて来るが、では指輪をくれなくて、優しくなくて、自分に対する気持ちが全く無くても彼を結婚相手に選ぶかと言えば、それは難しい。

幼い頃から色々助けてくれた、自身が苦しい時は声をかけてくれた、「あいつは唯一無二の友だ」も、幼い頃からさほどの付き合いも無ければ、こう言う事は思わない。

またこうした事を言うと問題になるかも知れないが、地震等で被災した時、あの県のあの町の人たちが駆けつけてくれた。
今その助けてくれた町の人たちが被災している、何としても助けたい・・・。
では以前に助けて貰っていなかったら、以前冷たい反応だったら、こう言う事を思うか否か・・・。

確かに気持ちや心を金では売り買いできないが、充分心や気持ちの取引をしているのではないか。

いやこうして考えるなら、人間の言う「気持ち」や「心」とは、その関係から発生する心情のやり取りで成立していると言っても過言では無いかも知れず、これが金が取引されていない為に美しく思えるかも知れないが、良く考えてみれば意識せずに金以上に醜く卑しいもので動いていないか・・・。

しかも相手がしてくれた事に対し、自身がこれくらいだろうと言う「等価概念」で、気持ちや心を描いてはいないだろうか。
その等価概念は客観的なものではなく、自身が描く独善等価ではないか・・・。

後の四十七章くらいで「非等価」を徹底的に解説することになるが、実は人間の世界で等価交換は有り得ない。
パン一枚でも体格や飢えの状態、状況に拠って得られる影響は全く違う。
同じように気持ちや心も、それを与えた者と受け取った者とでは全く異なった価値観になり、この差は「期待感」と「効果」に拠って発生する。

人間の社会で等価換算できるものは「生」と「死」のみであり、眼前に今まさに橋の欄干から飛び込もうとしている女性の姿が在ったなら、この時は全く見返りなど考えもせずに止めようとするだろう。

これは何故か、少なくとも「命」の「死」に付いては人間皆が平等に所有しているからである。
だがこの「生」と「死」以外ではどんなに崇高な気持ちでも期待や「見返り」が簡単に入り込み、その事すら気が付かない。

「徳」の中の「仁」「義」「礼」「智」「信」の何れも「与えたものに見返りを求めるな」としているが、一方でこうした心や気持ちのやり取りこそが人間の関係そのものと言え、見返りを求めないと言う事は、それを否定するな、そもそも与えたと思うから貰う事を思ってしまうのであり、全て貰ったと思えと言う事かも知れない。

「人の役に立つ事が出来た」「その機会を得ることができた」のであり、「徳」や「義」はここで人間的な見返りの心を否定していない。
必ずしも「神」の如き高い精神性を言っているのではなく、人間の弱さを知って尚、その中で出来る「我慢」をしなさいよ・・・と言っているのである。

人に何かを与えた上に、その見返りと言うものに自分で自分を縛り付けて苦しんでは、大損と言うものではないか・・・・(笑)

「期待すれば得られず、期待せねば得られる」



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