2017/08/31
禮・第五節「形の高次元化」
「考えて物を言え」と言う人がいるが、言語を話している時の脳は視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚などに連動したパターンを検索しながら、そのキーワードから言語を組み立てつつ拡張子と「揺らぎ」を伸ばしながら次のキーワードを探して組み立てる作業を行っている為、実は「考える」と言う作業はしていない。「考える」と言う作業は言語をリアルタイムとするなら、少し前の過去が今現在に組み立てられたものであり、正確に言えば記憶である。
しかもその大部分は「感情」となっていて、例えばこうした状態を微弱電気信号測定器で調べると、活発に動いている箇所は周囲と違った密度になるが、この電気信号の活性化と「考える」と言う作業は一致している訳ではない。
自分の脳が今何を考えているかなど知りようが無いのであり、こう考えていると言う言語に拠って確定的になって見えるかも知れないが、実はそう考えていると言う記憶でしかない。
言葉は一つの社会共有のフレームで有りながら、人間はその言葉だけで相対する人間を判断していない。
目の前に存在するなら、その表情や仕草、電話なら声の感じや間合いなどに拠って、或いはこれまでの関係性から来る慣習に拠って言語の確定を行っている。
またこの意味からすると、発音上の言語は言語だが、文字で記された物は基本的に「視覚」であり、これは同等ではない。
我々は普段物凄く色んな事を考え、悩んだり喜んだりしているが、これらは皆社会的規範に相対して喜怒哀楽のどちら側に傾いているかに拠って発生して来る。
その多くは環境に対するパターン反応、条件反射に拠って占められている為、脳は全能力の10%から20%前後を使うだけで済んでいるのであり、社会を相対的に考えるなら、脳の機能を省力化する為に発生してきたものとも言えるのである。
つまり我々は生まれた直後から社会と言う、あらゆるパターンの「形」で意思の疎通を行い、泣き、笑い、苦しみ、喜び、悲しんでいる訳で、言語のフレームが一番基本にして一番信用性や確定性が無い。
言葉を守る者は尊いのであり、脳に組み込まれた感情と言うプログラムは高度では有るが条件反射で有り、ここでは特定の意識が無くても自動的に状況反射が行われる。
また人間はこうした事実を理論ではなく、どこかで共通して漠然と認識している。
言葉も一つの「形」だが、この形だけでは誰もが担保するものを必要とし、それは予め脳に本能としてプログラムされたものと、もう一つは社会が決めたルールに拠って構成され、「禮」とはその多くが本能のプログラムと言う「形」を更にもう一段階「形」にしようとするを始まりとする。
嬉しいとき、その嬉しい気持ちは表情や言葉が無ければ他者は理解できない。
我々は嬉しい気持ちと笑っている事を同じテーブルで考えるが、嬉しい気持ちは予め組み込まれた脳のプログラムであり、これを外に情報として出すのが「笑う」と言う表情で、嬉しい気持ちが初期形、笑うと言う行為が二次形、更に昨今ともなれば「営業スマイル」なども存在してくる事から、重なり合った状況に拠る「形」も出現してくる事になり、これは三次形と呼べるだろう。
そして言語を本来の意味と違えて使ったり、感情表現を既存表情と違えて使う、つまり心に嘘を付きながら言葉や表情を使っていく事を繰り返すと、社会は更なる高次元の「形」をしてしか感情や言語を担保出来なくなり、「誠意」「真心」「優しさ」は際限のない「形」の欲求、言い換えれば暴走と傲慢に満ちてくる事になる・・・。