禮・第五節「形の高次元化」

「考えて物を言え」と言う人がいるが、言語を話している時の脳は視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚などに連動したパターンを検索しながら、そのキーワードから言語を組み立てつつ拡張子と「揺らぎ」を伸ばしながら次のキーワードを探して組み立てる作業を行っている為、実は「考える」と言う作業はしていない。

「考える」と言う作業は言語をリアルタイムとするなら、少し前の過去が今現在に組み立てられたものであり、正確に言えば記憶である。
しかもその大部分は「感情」となっていて、例えばこうした状態を微弱電気信号測定器で調べると、活発に動いている箇所は周囲と違った密度になるが、この電気信号の活性化と「考える」と言う作業は一致している訳ではない。

自分の脳が今何を考えているかなど知りようが無いのであり、こう考えていると言う言語に拠って確定的になって見えるかも知れないが、実はそう考えていると言う記憶でしかない。
言葉は一つの社会共有のフレームで有りながら、人間はその言葉だけで相対する人間を判断していない。

目の前に存在するなら、その表情や仕草、電話なら声の感じや間合いなどに拠って、或いはこれまでの関係性から来る慣習に拠って言語の確定を行っている。
またこの意味からすると、発音上の言語は言語だが、文字で記された物は基本的に「視覚」であり、これは同等ではない。

我々は普段物凄く色んな事を考え、悩んだり喜んだりしているが、これらは皆社会的規範に相対して喜怒哀楽のどちら側に傾いているかに拠って発生して来る。
その多くは環境に対するパターン反応、条件反射に拠って占められている為、脳は全能力の10%から20%前後を使うだけで済んでいるのであり、社会を相対的に考えるなら、脳の機能を省力化する為に発生してきたものとも言えるのである。

つまり我々は生まれた直後から社会と言う、あらゆるパターンの「形」で意思の疎通を行い、泣き、笑い、苦しみ、喜び、悲しんでいる訳で、言語のフレームが一番基本にして一番信用性や確定性が無い。
言葉を守る者は尊いのであり、脳に組み込まれた感情と言うプログラムは高度では有るが条件反射で有り、ここでは特定の意識が無くても自動的に状況反射が行われる。

また人間はこうした事実を理論ではなく、どこかで共通して漠然と認識している。

言葉も一つの「形」だが、この形だけでは誰もが担保するものを必要とし、それは予め脳に本能としてプログラムされたものと、もう一つは社会が決めたルールに拠って構成され、「禮」とはその多くが本能のプログラムと言う「形」を更にもう一段階「形」にしようとするを始まりとする。

嬉しいとき、その嬉しい気持ちは表情や言葉が無ければ他者は理解できない。

我々は嬉しい気持ちと笑っている事を同じテーブルで考えるが、嬉しい気持ちは予め組み込まれた脳のプログラムであり、これを外に情報として出すのが「笑う」と言う表情で、嬉しい気持ちが初期形、笑うと言う行為が二次形、更に昨今ともなれば「営業スマイル」なども存在してくる事から、重なり合った状況に拠る「形」も出現してくる事になり、これは三次形と呼べるだろう。

そして言語を本来の意味と違えて使ったり、感情表現を既存表情と違えて使う、つまり心に嘘を付きながら言葉や表情を使っていく事を繰り返すと、社会は更なる高次元の「形」をしてしか感情や言語を担保出来なくなり、「誠意」「真心」「優しさ」は際限のない「形」の欲求、言い換えれば暴走と傲慢に満ちてくる事になる・・・。






スポンサーサイト



「臨時記事」「地震予知は困難」は重複発表

8月25日11時28分配信、産経新聞の報道、中央防災会議作業部会が大筋で了承したとされる地震予知に関する報告書案に付いて一言、意見具申しておく。

同作業部会は「精度の高い地震予知は困難」との報告書案をまとめたようだが、伊豆東海群発地震に対する社会的な関心が高まった1993年、当時の日本政府は「地震火山予知連絡会」に伊豆東海地震の予測回答を迫り、これに対して1995年「地震火山予知連絡会」は「現代の科学では地震予知は不可能」と回答した。

これに拠って1995年に一度「地震予知は困難」と言う公の報告が為されている。

以後「予知は困難」との基礎見識から発生した地震を早く知る、P波測定に拠る地震早期通報システムの充実が図られたはずであり、「地震火山予知連絡会」はこれ以後影を潜めるが、変わって 表に立った「中央防災会議」「地質調査委員会」「火山噴火予知連絡会」のいずれも1995年の「地震火山予知連絡会」の見解を否定していない。

つまり現在の段階でも既に「地震予知は困難」である事は発表継続されているのであり、再度「地震予知は困難」との報告書を出す時は、一度「地震予知は可能」と言う発表か、検討していると言う事実が必要だが、そうした発表も検討も「地震火山予知連絡会」「地質調査委員会」「中央防災会議」のいずれの機関も発表した事実が無い。

また「地震火山予知連絡会」も「地質調査委員会」も「中央防災会議」もいずれも政府系の機関でありながら、一度出された見解が別の機関から重複して発表されると言う事実は、これらの機関が混乱している事を示すもので、著しく信頼を欠く行為と言え、「govemment」に必要な条約や公式発表の継続に関する信頼性を失う行為である。

「数十年前の前の約束は忘れます」と言う事では韓国の大統領と同じで、「govemment」として機能しているのかが疑われ、またこうした発表を唯右から左にコピーして新聞報道とする新聞の姿勢も「報道機関のプライド」が疑われる。

上層部の古参やデスクの中には一人くらいこうした過去の事実を覚えていて、記事に書き足すくらいの事が無ければ、金を貰って取材と文章で食っている資格は無い。

中央防災会議が報告書を提出する時は、1995年に「地震火山予知連絡会」が地震予知は困難とした意見を踏襲し、再確認した・・・、と言う報告書案にすると良いだろう・・・。

当時、国民から政府から「どうなんだ」と追求された地震火山予知連絡会の教授達は、言い難かっただろうが、「出来ないものは出来ない」と言ったのであり、この科学者としての真摯な姿勢には敬意を示す必要が有るだろう・・・。

禮・第四節「非形為」



日本沈没 主題歌 明日の愛 五木ひろし・・・・・

「楽如」では良く出てくる例えの「饅頭」(まんじゅう)だが、私ともう一人の人が他の人、ブログ友達でも良いが、彼の家に招かれたとしよう・・・。

で、お茶が出され、茶菓子の大島饅頭が出てきたが、私の皿には饅頭が2個、そしてもう一人の皿には饅頭が3個乗っていた場合、了見の狭い私は口には出さず表情も変えないかも知れないが、内心は烈火の如くになっているだろう。

実はこれが「権威」の原始形であり、需要と供給であり、「格差」なのである。
これらは一次欲求に対する二次欲求のように考える人もいるかも知れないが、現実は一次欲求から何十本も出ている線の一本なのであり、ここで格差を感じさせるもの、それに怒りが醸成されるのは「社会」が持つプログラムなのである。

来客が私一人なら、出された饅頭は2個でも3個でも、そこに格差は生じないが、2人いて一人が2個で片方が3個だと、ここに格差が生じ、この格差は微妙な違いであっても片方は認められ、片方は少し認められていないと認識され、この認められたと言う周辺に「権威」が始まり、食欲と言う一次欲求は生命を維持する基本の上に、格差に拠る欲求を生じせしめ、この原因は生存範囲「テリトリー」に繋がっている。

人間の欲求は大まかには三段階になっていて、基本欲求、食欲や性欲が満たされると、次には物を集め、物が満たされると形の無いものを求めて行く、形の無いものを創って行くと言っても良いだろう。

それゆえ初期段階の社会は食うか食われるかの「力」に拠って社会共通の価値観、「フレーム」が作られるが、これが終ると物品のやり取りや、古代なら家畜や奴隷のやり取りで格差を生じせしめて権威や需要が作られ、この最終的な形が、社会が形成した共通価値観、統一された感情のフレームが形成する「非形為」となり、前記事に出てきた殷時代の「賞」(しょう)は物品フレームから非形為フレームの中間状態に相当する。

だが惜しむらくは初期の力に拠るフレーム形成が完全ではなかった事から権力は集中出来ずに分散し、力に拠る再編成が始まってしまい、最終的には「周王朝」が一氏族専制の形で権力の集中を形成する。

そしてここでは一時的に「非形為」の社会共通フレームを形成するが、一氏族も年代を追うごとにその血縁は希釈され、やがて精神面での饅頭2個と3個に同じような格差が生じ、一氏族血縁の希釈に比例した崩壊が始まる。

孔子が理想とした「礼」の概念は、こうした周王朝の一番安定した時期に作られたものだが、「非形為」のフレームが形成され安定する期間はとても短く、この要因は人間が持つ「劣勢依存」であり、価値観は常に数の少ないもの、劣勢に在るものへと向かい、最後は抜け殻とゴミのようになってしまい、これを再度秩序形成するには「力」に拠る2者択一、従うか反抗するかと言う権威の有り様に戻ってしまう。

その始まりには「需要と供給」が有り、これに社会と言うフレームが僅かでも接触すると、そこから格差と権威が発生し、やがて格差と権威は社会共通の「非形為」、形の無い価値観を形成し、従って需要も初期の「基本生存」から「物品格差需要」、「精神的格差需要」へと移行していき、これに連動するよう社会も共同支配から氏族専制、独裁専制や王政、帝政へと変化して行き、これを繰り返す。

殷(商)時代には「賞讀」(しょうとく)と言う制度が存在していた事が知られていて、これは「刀を称える」事を意味していたが、当時は貴重な青銅や鉄の消費を抑えるため、兵士として徴用された農民に渡された武器は、金属使用部分の少ない「矛」(ほこ)だった。

この中で金属使用が100%の「刀」はとても大きな価値観が有り、それゆえ権威となり得たものと思われていて、この刀の代物や約束、代表受け取りなどのやり取り、若しくは品評会のような事が部族間で行われ、後には刀ではないもののやり取りも行われるようになり、これらの事を「賞」と言ったものと思われるが、「代賞」に付いては現在のような概念ではなかった可能性が高い。

通貨や手形の概念が少し垣間見えるが、この殷「商」が周王朝に倒されて民族が分散し、時の人はこれらの殷人を「商人」と呼んだ訳で、この商の人達の使っていた概念、「賞」の概念が後に「商い」の概念になって行ったとも考えられているが、「賞讀」の概念に少しだけ「徳」の概念の始まりが見えてくるような、そんな気がするのは私だけだろうか・・・。






禮・第三節「統治」

「孔子」や「孫子」を読み解くとき、私たちはそれが著者独自のものと暗に仮定し、彼等の在った環境や心情までも想定して理解しようと考えるが、「孔子」も「孫子」もオリジナルの部分は少なく、それは流れの集大成と言う現実があり、基盤は周王朝の「礼」と「易」である。

彼等が活躍した当時の中国は春秋戦国時代であり、群雄割拠した氏族に拠る抗争が春秋の言葉通り、300年以上も続く時代だった。
この中で少なくとも「孔子」は秩序の再編を「周時代の封建制度」に求め、「孫子」は結果として「周易」にたどり着いたと言える。

「礼」は規律であり、これを担保するものの初期はおそらく「武力」だろうが、武力の次に出てきたものは「賞」で有った可能性が高く、「賞」は「商」の事である。
「夏王朝」「殷王朝」「周王朝」と進んでくる内に「権威」の質が統治規模に応じて、或いは混乱が平定された時期の長さに拠って変質してきたものと思われ、社会が成熟するに従って「精神性」が醸成されていったものと考えられる。

周王朝の封建制度は姻戚氏族に拠る主君の関係だが、この以前の「殷」では血縁ではない複数氏族、50以上とも言われているが、これらの共同統治にして競合に拠る交代制の君主国家で、ここで使われたものが「賞」と言う制度だった。
この「賞」は「商」に意義を同じくし、解り易く言えば「チンギス・ハーン」の時代のモンゴルのような統治機構だった可能性が高い。

ただしモンゴル帝国のような武力で主君が決定される仕組みではなく、複数の部族が協議して統治責任者を決める形だったが、この時使われたものが「賞」、つまり経済規模の力で主君が決まる仕組みを初期に持っていたものの、この形が壊れる事になったのは一族の独占が頻発した為であり、結果として「周王朝」の氏族独占王朝が発生してくるのである。

だが「周王朝」でも一氏族独占では有っても、共同統治の部分は残る結果となり、ここでは規律を担保する部分を「社会的感情」「関係」に求めていった。
これが「礼」であり、「礼」は「礼」に拠って権威が担保されたが、殷王朝の共同統治機構がその初期は上手く働いても、長くは続かなかったように、やがて諸侯は独立を求めて行く。

一度壊れ始めた「礼」が崩壊するのは簡単だった。
悪事は最初の1回目こそ大きな抵抗を感じるが、それが複数回に及んでくると、やがてその壊れた事が普通になって行き、春秋戦国時代へと突入して行く事になる。

そして民衆の統治と言う観点から考えると、統治の形は単純暴力社会から部族社会、この部族社会の時に武力の替わりに「金」、経済が使われ、やがて「社会的心情」を担保とする形に移行して行くが、面白い事に、この変遷のそれぞれの過程は現在の地球上に全て残っている。

孔子は混乱した社会の中で周王室の「礼」を復興しようとしたが、彼の思想はどこかで非現実的でもある。

「大きな自由」の為に「どこまで個人の自由」が許されるかと言う命題を考えるなら、「個人の自由」は極小まで自己統制する形になり、また余りにも厳格に「先祖」、つまり過去に傾倒すると、過去の為に現在が費やされ、こうした結果が当時の社会に受け入れられなかった背景と言える。

孔子の「礼」は世の中が平和になった時には有用に働き、混乱の最中には目標や希望となる。
しかし、今が混乱なら、その時は助からず、今を乗り越えねば未来も無い。
周王室は滅んだのであり、その滅んだ事には理由が存在する事を、人の心の大部分は「欲望」だと言う事を、初期の孔丘は見ていなかったのかも知れない。

どうやらこの章は長くなりそうだ・・・(笑)




禮・第二節「楽」



Madonna - Hung Up (Official Music Video)・・・・・

禮」第一節で禮の右側と「豊」(ほう・ゆたか)は別字とされていた事を奇異に感じた方もおいでだろう。

一般的な辞書では「禮」の右と「豊」は同じと記されているものも多いのだが、これは「豊」の旧字体に関連していて、「豊」の旧字体である「豐」(ほう)は、元々(れい)と発音された「豊」と言う文字と同義では無いからである。

「豊」は(れい)と発音され、この意味するところは祭祀で供物を盛る「たかつき」の事であり、「豐」(ほう)は「たかつき」に供物が溢れている様子を表している。
固有名詞と形容詞の差異が有り、為に「禮」に使われた時と「豊」単体では区別する必要が有った。

昭和30年代までの辞書の中には「禮」の右は「豊」に有らずとされながら、「豊」を調べると、「禮」の右に同じと記されているものも存在するが、これは監修の間違いではないのである。

「豊」(れい)の旧字体は「豐」(ほう)だが、「豊」の象形文字は存在しながら「豐」の象形は存在せず、「豊」の分派文字であり、「禮」の源字は「豊」の象形文字である。
この事から同じ象形文字時代には「礼」や「禮」の「示」を現す「几」(つくえ)の象形も並立する為、禮と礼が同義となった具体的な年代は解らないが、その以前は「礼」と「禮」の起源である「豊」(れい)は違ったものを指していた可能性がある。

つまり「禮」と「礼」は同じ意味ではなかった可能性があり、「礼」の象形である「几」(つくえ)は衝立(ついたて)の意味と共に「厳格である」「正しい」と言う意味が有り、片や禮の右下、「豆」と言う字はこれ単体でも「たかつき」の意味を持ち、どちらかと言えば「礼」の方が我々が現在描いている「禮」の概念に近いのである。

一方、「礼」と並んで出てくる文字に「楽」と言う文字が有り、これは伝説の皇帝である「舜」(しゅん)の事が記された文献に既に登場しているのだが、孔子は周時代の「禮」の復活を試みるも、これの初期はイタリアのルネサンスのような懐古主義、復古思想だったにも拘わらず、並立している「楽」に付いては音楽と詩の重要性に付いてしか述べていない。

古くは「礼楽」と記された「楽」は「礼」と並立する重要性を持っていたにも拘わらず、この研究と解説をした思想家は皆無と言って良い。

「楽」は一般的には木の台に置かれた楽器を示しているが、木に繭玉(まゆだま)が沢山ぶら下がっている様子を示しているとも言われていて、古い文献には「礼と楽が・・・」に続く故事がいくつか残されているものの、「楽」に付いては楽器の関連しか記されていない。

しかし「楽」には「覚」「薬」「効」の包括した意味が有り、この中の「効」には「望み」「願い」「愛する」と言う意味が出てくる。
更には「豊作」を指す言葉に「楽」と言う文字が出てくる場合も存在し、「禮」の源字、象形は「豊」と同じである事に鑑みるなら、「禮」は「楽」と関連性に措いて、「礼」より深い関連性を持っていた事を想像させる。

礼を重んじ徳を積み、それで世界が自分のものなったとしても、その先に何が有ろうか・・・。
老子が説いた偶然と必然の一致、「大道」との調和にしても、それで宇宙心理と一体になったからと言って、それで何をするのだろうか・・・。

人は生まれてからひたすら死に向かって歩き続ける。
この「絶対破滅」でしかない人間に何の楽しみが有ると言うのか・・・。
そうだった、「楽しみ」か・・・・。

「楽」とは若しかしたら「意味」のことだったのかも知れない・・・。





第四章・「禮」第一節「二天」

「禮」(れい)は一般的に「礼」の旧字体とされているが、文字的な歴史を言うなら「礼」の方が古くから存在し、文字発生初期の意味はおそらく「机」(つくえ)だったと思われるが、神前に供え物をする時に使われた机を指していて、それが後に「禮」となったものと考えられている。

「禮」のへん、「示」は天の持つ吉と凶の二つを現し、この下に「日」「月」「星」を配したものとされているが、この「示」自体が象形文字の「几」(つくえ)では無いかとされていて、「禮」の右、つくりの部分と「豊」(ほう・ゆたか)は別字である。

「示」は別に地の神を意味を持ち、「禮」は「れい」と言う神事に使われた発音の上に乗せられた文字であり、「れい」と発音される行為や形が存在して、これに意味を成す文字が割り振られたものと言え、それゆえ「礼」の方が早くから使われ、途中で意味が加えられて「禮」と言う文字が発生したものと考えられている。

従って「禮」とは祭壇に供物が並べられた「形」を現し、その意味するところは「神が指し示す形」、或いは「神に敬意を払う為に示さねばならない形」を現しているが、これを一辺倒の「形」と思っては「禮」の理解は遠い。

白い画用紙の上に1つの黒い碁石を置くとしたら、その一番合理的にして理想的な位置はどこだろうか・・・。
またこれが5個になったら、どう措けば無駄なく理想的になるだろうか・・・。
と、言う事なのであり、その配置はどれも正解にして誤り、何らかの形、例えば5個の碁石を星の形に配すれば、それは星を指してしまい、本来の神の意味を失う。

既存の形を全く違えながら、尚且つ美しく合理的な配置の概念が必要になるのであり、その出発点が自然には在り得ない形、すなわち左右対称で二天を現し、「方」(ほう)「正方形にして「完全」を現す事を考えた。
「円」ではなかった理由は円周上と中心点が出てしまう為であり、これでは関係を示すには良いが「形」にはならない。

これが人間が神に捧げることの出来る最大の「形」だったのであり、それゆえこの形は人に拠って時代に拠って微妙な変化が出てくるものの、二天と言う神の「恩恵」と「凶」の概念は常に引き継がれて行った。

この二天の概念が後に陰陽五行の陰と陽の思想にも繋がっていくのだが、これらのどれもが「一体」である事を説いているのは、古くから吉凶は人の都合である事が理解されていた事実を示しているのではないかと思われ、日本でこれを最も解り易く説いている例では、伊達政宗公の師匠でも有った「虎哉宗乙」(こさい・そういつ)かも知れない。

両手で拍手を打った時、その音は右手から出たか左手から出たか・・・・。
実はどちらでも無く、右手も左手も存在するのであり、この他では日光東照宮の逆さ柱も、神聖が持つ二天の内、凶を避けようとしたものだが、これは少し覚悟が足りない。

元々神性は吉凶の内どちらかを外す事は出来ない。
すなわち左手か右手のどちらかを外しては拍手の音は出ない。
天の持つ「魔」を避けた時点でその神性は失われている。

禮は形である。
それも神を目の前にした「形」であり、ここでは人として最大限の「形」を示さねばならないが、形の究極は形を持たない。
千変万化にして不動、屈辱から栄光の全ての中に存在する人の持つ最大限の心・・・・。
「禮」の究極とはこうした事なのかも知れない。

故に後世「孔子」は周王朝の「禮」を模した考え方を示したが、その思想には少し窮屈、教条主義的な部分が有り、為に初期の「孔子」は明よりも暗に向かう傾向が在った。

ストリップ小屋を風俗の店としてしまっては、ストリップの文化芸術的な部分は伝わらない、とでも言っておこうか・・・。





社会・第十四節「格差」

今はこう言う言い方をしてはいけないのかも知れないが、昭和の時代には日本海側を「裏日本」、太平洋側を「表日本」とする表記の仕方が存在し、この区分は海域に拠る表記区分でありながら、漠然と冬季の継続積雪量区分の概念を持っていた。

そして例えばコップに半分の水が入っていたとするなら、表日本では「まだ半分水が残っている」といると考える傾向が有り、これが裏日本では「もう半分しか残っていない」と考える傾向に在って、膨張経済(バブル経済)時代でも冬季に継続して一定の積雪量が有る地域では、積雪が少ない地域より考え方が悲観的になる傾向が有った。

人間の感情や考え方の基礎的な部分は誕生した地域、または生育された地域の環境や気候条件に拠って大きな影響を受け、勿論時代と言う背景によっても影響を受けるが、こうして地域ごとに微妙に違ってくる考え方、感情の違いに拠る「多様性」が気象変化や災害、経済の波に対し、その時々に応じてローカルがグローバル化しながら自然に対応する能力を持っていた。

気候が寒冷化した時は寒冷地の考え方が中央に影響し、気候が暖かければ暖かい地域の考え方がグローバル化して対応する。

経済が良い時は攻めの考え方が多い地域の思想が反映され、経済が沈降する時は元々経済的に厳しい地域の考え方が中央に反映されて行く、これが一つの「時代」と言う概念だったのだが、情報通信の発達は、こうした「多様性」を「統一的」にしてしまった。

即時にして世界のあらゆる情報を取得できるようになった人間の社会は、一番豊かで快適な地域の思想や考え方を目標としてしまい、厳しい環境に住む人々の考え方の中にギャップを生じせしめるようになり、これが若年層の都市部流出を加速させ、一方で年金制度は高齢者の「独立」と言う現象を発生させた。

つまり子供の世話にならずに余生を楽しく暮らす道が開けた結果、それまでの「家制度」や「家族制度」が壊れ、先祖に対する価値観を低下させたのであり、この事が年代による考え方の多様性を希釈し、先の地域や環境に拠る考え方の多様性の消失と相まってに個人化、並列化した「統一思想」形態を発生させ、為に気象や災害、経済に拠る変化に相対する能力を低下させた。

問題が発生する度に思慮のない軽率な解決方法しか出てこないのは、ひとえに「多様性」の消失に拠るものであり、ここで制度的に地方分権など唱えても、全く解決にはならない。

何故、過去こうした厳しい環境でその地域の人が暮らし続けて来たか、それを考えると良い。
何故日本から企業や年金受給者が海外に流出するのかを考えれば問題は簡単に解決する。
それは「格差」であり、経済が沈降した時は税制を軽減し、通貨レートを操作する方法が採用されるは、2000年も前から決まっている方法だ。

日本の場合は「米」(こめ)が現在の金と同じ役割をし、しかもこれが変動性と言う極めて高度な「準本位制」が存在し、これに拠って都市部の豊かとは違う価値観の固定価値観が地方に形成されていた。
それゆえ江戸などの都市とは生活の質を異ならせながら、ほぼ等価の価値観が形成されていた。

今で言うなら、日本は高度な先進国だが、物価が高い。
しかし東南アジアで暮らせば同じ「円」で日本の数倍の豊かさを手に入れられるのと同じで、地域間で税率0から始まる税制と、地域通貨レートの格差を自然変化にすれば、地域によっては同じ「円」で暮らしは数倍異なった豊かさになる、或いは物価地域スライド制でも結果は同じだが、地域によって「格差」を設定する事で、格差を経済で解消した格差是正が可能になる。

簡単に言えば地域が「独立」する事を意味していて。
予め民主主義が先頭に有って人を牽引するのではEU「ヨーロッパ共同体」のような事になる。
図式は日本と同じで、東京が全て引っ張って後はお荷物状態になり、EUもドイツが1国で引っ張って、後の国家は全てお荷物と言う暗い経済になる。

基本的に民主主義は「個」の集積を理想とする為、その単位は小さく独立したものが集積する事を前提とし、現状の世界経済は全てこれに逆行している。
全体主義経済であり、これでは地域やそれぞれの国家の特色は出ず、多様性が失われるから危機が訪れると脆く、常に危機と隣り合わせの状態になる。

社会が格差を失う事は、更に格差を増長させ、格差だらけになれば格差の平均化によって格差は是正される。
地球に全く同じ気候の、全く同じ環境の「場」は存在せず、同じ「場」に複数の人間が存在する事も出来ない・・・・。




社会・第十三節「基準点に相対する感情」



Michel Polnareff holidays・・・・・

人間の脳は赤いものを気にすると赤いものを集め始め、青いものを集め始めると青いものばかりを集めてしまい、これを逃れるには更に大きな緑に出遭うか、或いは眠りに拠るリセット、つまり別の衝撃か忘却を必要とし、これらは何れもその以前の情報状況から一度離脱する事をして、他人称認識を得ると言う事でもある。

暑苦しくて眠れない夜、眠ろうと焦れば焦るほど眠れなくなり、一度怒り始めると感情は自動的に多くの怒りを集めて増幅しようとし、これは良い方向に関しても同じ傾向にあるが、喜怒哀楽は等価感情ではない。
哀楽の方が喜怒より若干密度が粗く、この意味では喜怒のどちらかに偏った感情は、いずれにしても非常事態と言う事になる。

また人間の正義感とか美徳背徳と言うものは、社会的に大まかな部分は共有認識だが、それをどう感じるかは現在の自分の状況の反対側に傾いている。

例えば不倫をしている者は、その不倫がまずい事で有る事を、それ以前より大きく認識し、逆に不倫など出来る状況では無い者は極端にこれを糾弾する事になるが、これらはいずれにしても同じ事である。

人間が社会的正義や道徳を根拠に他を糾弾する背景には、その糾弾している事柄に対する願望があり、この願望が強ければ強いほど糾弾は激しくなり、その反対側、糾弾される事の中に在る者は、その時間経過や深度と共に自身の内に社会的正義が大きくなって、やがて現状を崩壊させるか、或いは現状に合わせて環境を変化させようとして周囲に混乱をもたらし、これは「不正」などと言うものに対しても同じである。

それゆえ社会的に糾弾の声が厳しくなった事柄は、その事柄が既に社会的に蔓延した状態である事を指していて、ここで唱えられる正義は「基準点に相対する感情」、つまりは不倫ならその不倫を憎んでいるのではなく、自分がその状況に無くて、自分は秩序を守っているのに他者が守らないと言う不公平感からくる「比較差異」を根底にしている。

同じように社会的不正も、自分のところに来る賄賂には否定的な者は少なく、極端にそれを嫌う者は、それに対する弱さを知っているからこそ極端に嫌うのであり、これは一般的な「善」の部分にも同じような事が存在する。

皆が悲しんでいるのにお前だけ悲しまないのは心が無い、元気で明るくしている事が正しくて元気が無い状態は悪い状態だ、と言うような感覚はやはり「基準点に相対する感情」であり、本来元気で有るかそうでないかは人の自由であり、不倫していようが賄賂を受け取っていようが、それが自身でない以上全く関係の無い事であり、そこで何かを思う必要など無いのだが、これを思わせてしまうのが社会である。

そして「基準点に相対する感情」は個人々々の事情を集めて増幅し、やがては一色に近付いて行く事になり、ここで発生するものが「私刑」(リンチ)や革命と言う事になり、これは社会が持つ最悪の負なのだが、一方でこうした動きがそれ以前の社会を是正する機会ともなって行く。

ただ、一つ言える事は、傷ついた雀に手を差し伸べるその手が雀を捉えて食べようとする手であっても、保護して傷を治してやろうとする手であっても、雀は同じ様に拒絶する。

この在り様は人に対する最も本質を理解した在り様と言えるだろう。





社会・第十二節「無秩序の通過」



Christina Aguilera - Por Siempre T炭・・・・・

自動車を運転していて無理な追い越しをかけたとしようか、楽勝で対向車をかわして前を走っていた車の前に余裕で出る事が出来た。

「へへん、どんなものだ俺様の運転テクニックを思い知ったか・・・」と、ヤンキーのように底の浅いパターンの人間は思ってしまうかも知れないが、実は対向車が危険を回避する為にブレーキを踏み、前を走っている車もスピードを緩めている。

社会に措ける「暴力」とは全くこの図式であり、基本的には戦争もこれと何ら変わらない。

皆が自身の欲望や傲慢を主張すれば全員が危険に晒され、自動車の運転で言えば追い越しをかけた車の対向車と前を走っている車が、それぞれ道路交通法の自己の正当性を主張するなら、3台の車は全員が接触して大事故になる。

ここでは誰かが危機を回避する為に一時的に自己の権利や正当性を譲歩し、それに拠って危機が回避されているのだが、同じ事は会社や一般生活にも必ず存在し、この意味では自己意見の無理な主張は「暴走」なのであり、これが通った場合、それは自身の実力ではなく、誰かが危機回避の為に譲歩しているから成立している。

またこうした秩序に対する無秩序の通過は、一見悪に負けているかのように思うかも知れないが、正義や権利の為に危機を選択するは、場合に拠っては全員の破滅に繋がるとしたら、程度にも拠るが社会秩序は一定のクッション、命に関わるか否かと言う部分での緩衝性を持っていて、しかしこの緩衝性は同じ人間が常に使い続ける事は出来ない。

無謀な運転を繰り返していると、やがてはいつか大事故を起こす、或いは追い越した車が暴力団幹部の車だった場合は、更に大きな無秩序に拠って統制を受け、無謀な者の周囲には無謀なものが近寄り易く、結果として無謀な事を繰り返している者は、常に危機に囲まれる事になる。

我々が何かを為した時、言葉では皆様のおかげで・・・、と言いながら本当はそう思ってはいない事が多く、俺様の実力だと思っている部分も必ず存在する。
だが、何かを為す事が出来たその背景は「環境」であり、それが出来たと言う事はある種の正当な流れと言うもので、この意味では運命と偶然は同時のものと言う事が出来る。

この社会で何かを為している、為す事が出来ている基本的な原則は、無理な追越をかけている車に同じかも知れない。
それゆえに望みの大半は叶う事が無く、面白くない事の方が多いのかも知れず、こうした個人の秩序に対する無秩序と、その譲歩の複雑な絡み合いが社会と言うものなのかも知れない。

個人々々の価値観が多様性を失うと衝突や対立が増えるのは、或いはこうした背景を持っているのかも知れない。
更には人間と物質や自然との関係でも、時には気付かない間に譲歩と主張と言う関係が存在しているかも知れず、余りに大きい為に人間が気付かないだけかも知れない。

この宇宙はハッブルの法則に拠って広がり続けていると言われているが、その実物質である星は銀河と言う集合を形成し、僅か水から始まって結合、集合する力、ファンデルワールス力を持ち、これは水、氷、水蒸気、沸騰と言った状態に対する変化をもっている。

我々は社会を人類的、人間のものと思っているが、その実こうして物質の段階から集合の性質が在る事に鑑みるなら、社会とは何か大きな法則や流れの一部とも考えられるのであり、秩序に措ける譲歩と主張は、若しかしたら物質と人間、自然や時間軸と人間の間でも成立しているかも知れない。

この世界で発生するあらゆる現象、戦争と平和、善悪などを含めて、あらゆる社会的なものも、実は人間がやっているように見えて、運命的には水の流れに同じ、当然の法則に拠って動いているだけかも知れない・・・。

運命と偶然は同時にして、予め決まっていながら先は決まっていない・・・。







終戦記念日寄稿文「戦争は語れない」

昭和20年、それ以前は試験的な意味合いも強かった「特別攻撃隊」、いわゆる「特攻隊」の編成は正式な攻撃形態から、選択の余地のない最後の攻撃方法となりつつあったが、こうした特攻隊の隊員達が出撃するに当たり、慰問の為に料理を作って差し入れる該当地区の「婦人会」に対する食材の提供も少なくなり、昭和20年4月頃には地元の農家の善意に拠ってそれが賄われるようになり、為に料理もどちらかと言うと煮物、それも味の薄い野菜の煮物が多くなっていた。

証言者本人が故人となっている為、氏名の公表に対する可否を問うことが出来ないゆえ、ここでは氏名の公表を控えるが、昭和20年1月、当時婦人会会長をしていた女性は、他の料理だけでは余りにも量が足りない為、大根を輪切りにして茹で、それに少ない味噌を添えて量を確保して営舎に料理を届けた。

すると翌日、おそらく出身が同じだったのだろう、2名の少年隊員が婦人会長の家を訪ねてきて、「私たちの家は畑が少なく、大根はめったに食べられませんでした」「おかげで、腹いっぱい大根を食べる事が出来ました、有り難うございました」と言って敬礼したのである。

この話をする度、婦人は途中で両手を握りしめ、静かに体を前に倒して震えるように絞られた声で泣いていた。

また南方戦線から上官のおかげで生還した男性は、戦地に赴いている間に唯一人の身内である幼い妹を失い、彼もまたこうした話をする度に途中で前出の婦人と同じように、両手を握り締めて体を前に倒して絞るように泣いていた。

私は戦後生まれゆえ、彼らの体験した苦しみや悲しみは、おそらく理解できていない。
しかし、彼らがそうして泣く姿から、戦争が如何に悲惨で恐ろしく、過酷なのかを見る事が出来たように思う。

昭和20年8月14日、天皇は既にポツダム宣言の受諾を決意、しかしこれに反発する陸軍内部の動きを警戒した「迫水久常」は、閣議の前に天皇のご意思に拠る「御前会議」を開く事で、クーデターを阻止しようとした。

国體(こくたい)の護持を主張するも、その国體である天皇がポツダム宣言の受諾を聖断する事で、陸軍、海軍内部の戦争継続派を阻止しようと考えたのだが、この作戦は見事に効を奏し、終戦詔書の後半部分、耐え難きを耐え・・・の天皇のお言葉が発せられるのである。

そしてこのお言葉を聞きながら、内閣の閣僚、陸海軍の首脳は嗚咽するのだが、この場面に出てくる涙と、冒頭の婦人や、帰還した男性の泣く姿は同じように見えて何かが決定的に違うように私は思っていた。
どう表現して良いか解らないが、御前会議の涙には民衆や一兵卒の姿が見えず、婦人会長や帰還兵の老人の涙には直接する「人」の姿が在ったからかも知れない。

時は過ぎ、平成も終ろうとする今日、数々の戦争体験が語られ、それをして戦争の悲惨さを伝えようとする動きも増えてきたように思うが、こうして集まって皆で涙を流す場面に遭遇する度、私はどこかで御前会議の涙と同じような違和感を憶える。

サイパンで足が腐って蛆虫がたかり、「頼む殺してくれ・・・」と懇願した戦友が、空襲で子供をかばって死んで行った母親が望んだ事は、賛同する者に囲まれて皆で涙を流し、平和や戦争反対を唱える事だったのだろうか。

田畑も少ない家の長男は、そのままでは家族全員が暮らしていけないと思った時、自身が国家に命を捧げるなら残りの家族が暮らして行けるとしたら、迷わず兵士になる事を志願しただろう。
私も同じ状況なら同じ事を考える。

彼らが望んだものとは平和や戦争反対と言う大仰なものではなく、「生きる事」だったのではないだろうか。
残された者達が暮らして行ける、その事だけだったのではなかったのか・・・。
「おめおめと生き長らえてしまった・・・」と言う言葉は言葉ではない、姿だ。

「後を頼む・・・」、そう言って死んで行った者たちが思っていた「後」とは、悲惨な戦争の体験を語って皆で泣く事だったのだろうか、否、そうではあるまい。
焦土と化した国土を復興し、皆が暮らして行ける事を望んだのではないか。
そしてそれは確かに果たされたが、平和や戦争の有無は「結果」のものである。
一人々々の集積が結果であり、ここで言葉で伝えられる事などたかが知れている。

私がこうした戦争の体験を取材したのは昭和も終わりの頃だったが、しかも本当は戦争体験ではなく、怪奇現象を取材していた過程で、「戦争」が横たわっていたのであり、一般的に彼らは多くを語ろうとしなかった。

しかしこの語ろうとしない中に、私は戦争の恐ろしさや平和と言うものの有り難さを感じたものだった。
本当に大切なものは絶対言葉では伝えられない。
「形」でしかそれを示す事は出来ず、ならば戦火に散って行った者たちの願いを伝えるなら、自身の生きる在り様をしてしか、それを為し得ないのではないか。

争う事を嫌い、身を正し、生きている事を在り難く思う、その姿でしか「何か」は伝えられないのではないか・・・。
そしてこうした先人の姿を追うこと、これらが集積した上で「平和」や「非戦」と言う結果が現れるのではないか・・・。

「平和」を唱えて敵を作り争う、「これに涙を流さない者は非国民だ」、「同調しない者は心がない」「九条改正は平和の敵」などの言葉を戦争で散って行った者達が望むと思うか、そんなちっぽけな事で死んで行ったのか・・・。

戦争を体験された高齢者の方々には酷な事を言うが、その過酷な体験ゆえに、生きたくても生きる事が出来なかった者達を知るが故に、やらねばならない事があるのではないか・・・・。
そしてそれは言葉で体験を語る事ではなく、「姿」を示す事なのではないか・・・。

8月15日は太平洋戦争終戦記念日である。
生きようとして死んで行くしかなかった者達の事を思い、謹んで哀悼の意を表すると共に、今日の在り様を感謝し、本文を捧げる。



プロフィール

old passion

Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

[このサイトは以下の分科通信欄の機能を包括しています]
「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

最新トラックバック

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR

月別アーカイブ