智・第三節「見えない知識」

旧約聖書の記述の中には「物を書きすぎるな」と言う戒めが2回出てくる。

基本的に神のご教示を記したものが聖書だが、このご教示を書き記し後進に残す際、書く事に溺れると神の御教示を拡大してしまったり、或いは調子に乗って書ける事をして、それが神の御意思と錯誤する危険性を戒めたものと言えるが、「書かねばならない事を書く」と言う事は、人間には不可能で有る。

知識は食と同じで味覚の極点は一番最初の一口に在って、その後の味覚はこの極点を追い求める形にしかならず、人体がその時必要とする栄養を摂取する事を本来の目的とするなら、食べている時に必要とされる栄養量の総体を知る事は出来ない。

また生物の基本は「明日は無い」事が前提なので、眼前に存在する食物が少なければその量を限界とし、食物が多い場合は摂取できる最大限を目指して食物摂取を行う。

そして人間のように「明日は無い」と言う条項が社会に拠って一定の緩和状態になり、これが継続されると「明日は有る」事になるため、やがて食物摂取は他の理由を優先して摂取量の後退が始まる。

食の本来の目的である生体維持ではなく、付帯事項の味覚、或いは社会的なスタイルが優先され、ここに食物の多い状態は食物摂取量の減少を招いて、付帯事項が本来の目的を超えた目的となる。
同様の事は生殖活動にも発生し、生殖活動時の快楽は本来生殖を補佐するものだが、社会が安定すると生殖は負担となり、快楽が優先され、快楽は生殖活動から独立する。

知識もまたその本来は生体維持や危機管理、社会の維持に必要なものなのだが、食と同じように危機管理の面から過剰に取り込んで行くと、やがては安定の中に不安を見るようになり、現実から乖離して行く。

更に社会に情報や知識が蔓延状態になると、知識がどこに在るのかと言う問題、知識を自身の中に取り入れる努力が失われ、ここから自身で思考すると言う創造性が消失して行く。
知識はただ知っているだけなら図書館に在るのもウキペディアに在るのも、人の頭の中に在るのも、自分の頭の中に在るのも同じ事で、在るだけでは意味を成さない。

トマトは畑に在るのも、八百屋さんに置いて在るのも、それが買われて目の前に在るのも同じ事であり、例えそれが金を出して買われたとしても、実際に食べるまでは自分の物ではない、置いている場所が変わっただけの事に過ぎず、知識もただ知っているだけなら、それは自分の物ではないのである。

智はこうした意味から言えば咀嚼(そしゃく)されて栄養となった食物と言え、これらが時間経過と共に社会に蓄積された状態を指すのかも知れない。
自身が知らない事をも含んだ人類共通の知識、それも現実に対処する為に普段は隠れた状態になっているものが多い知識を差すのかも知れない。

位相幾何学や非線型方程式などは、私たちが知らなくても実際の生活には何の必要もないが、例えば巨大彗星が地球にぶつかるかも知れないとした時、この彗星の軌道やエネルギーの変化モデルを作るには必要になる。
そしてこれは地球上の誰かが知っていて、それが継続して伝わっていれば、やがて地球に危機が訪れた時、初めて効力を現す。

この様に普段は特に必要もなく、でも絶対必要な知識、我々が知らないところで、それもいつ効力が発揮できるかも知れない知識、同様の事は物理的なことだけでは無く、人間社会には多く存在する。

例えば昨日あなたがしていた仕事などは地球全体の中で知っている人はごく僅か、塵のように小さなものかも知れないが、でもそれに拠って誰かが利益を得たり、或いは助けられたり、必要な物を手に入れたり出来た訳で有る。

多くの人は知らなくても、それに拠って人間や社会が支えられたなら、これも広義では「智」と呼ぶ事が出来るのではないか・・・。
あなたの姿を見て、自分もあんな人で在りたいと思う人が1人でもいたなら、「智」はあなたを通して効力を発揮したと、そう言えるのではないか・・・。







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智・第二節「影を作らない光」

鎌倉幕府成立期の僧「親鸞」(しんらん)の言葉と伝えられる「歎異抄」(たんにしょう)の中に「智慧の光輪際もなし・・・」と言う文言が出てくるが、この表現を用いるなら「智」は仏界に予め存在する絶対的な光を指す。

ただし仏教の光は一般的に欧米の宗教、明治以降の新興宗教よりは少し暗い光のニュアンスを持ち、特に日本で定着した仏教に措ける「智」の光は灯明、蝋燭(ろうそく)のように若干の不安定さと後ろに在る光の意味が強く、キリスト教やイスラム教で概念される絶対的な強い光とは一線を画するかも知れない。

何一つ間違いのない絶対的な光は、人の姿を照らした時そこに明と影を作るが、仏教で言う智慧(ちえ)の光輪は「影」を作らない光、影の弱い光、つまりは弱い光である事が感じられるからで、親鸞は自身の著書を全く残していない為彼の意図は不明だが、「智慧の光輪際もなし」とはその範囲、限界が無い事を指していると共に、智慧の光が既に差した中に措いても、際を作らない光と言う事が出来るのかも知れない。

光輪と言う概念は大変面白い概念で、光は1点から指すと必ず影を作るが、これが全方向から光が差している時は影が出来ない。

光輪はまさに全方向からの光であり、この意味に措いてはキリスト教の光も仏教の光も元は同じだった可能性が高いが、キリスト教では一神教、若しくは四神教くらいの少数支配神の概念を発展させた為、階層性複数仏の概念を発展させた仏教よりは光点が少なくなって行った。

この為にキリスト教の光点は数が1つ、若しくはその他3点くらいしかない集中的なものとなって行ったが、その原初は完全無欠の強力な光ではなかった事は、キリスト教で描かれる空には必ず雲が存在する事を見れば感じることが出来るかも知れない。

こうした経緯からキリスト教の光は1点付近から差す強い光となり、この前に人が立つと必ず影が出来るようになって行った。
つまり善と悪の明確化が進んで行ったのだが、仏教に措ける光は「灯明」、若しくは「光明」であり、これはその必要が有る時に照らされる光であり、燦然と輝く強力な光では無い。

むしろ事に必要な最小限の光と言う事が出来、こうした最小限の光、弱い光が照らす光景には人の影は出来ないか、或いは出来ても薄く、智慧の光はその他多くの強力な光の後ろに弱々しく、しかし絶対尽きない光として存在しているのかも知れない。

そして智慧の光とは影を作らない光、事の善悪を作らない光とも言え、それは光輪と言う全方向から照らされる光の中には影が出来ない、言い換えれば、「全てを知るなら善悪は存在しない」事を指しているようにも感じられる。

だが現実の我々の生活の中で善悪が出来るのは何故か・・・・。
弱い智慧の光を覆うまやかしの強力な光の中を彷徨い、光ったものを求め影になる事を恐れ、常に智慧の光明に照らされながら、それを後ろに追いやって、強い光で出来た影にも薄い智慧の光が在る事を知りながら、それに目を覆い見ない。

人が集まって智慧の光に覆いを作り、光明は人に拠って完全な影になってしまう。

際(きわ)も無い知恵の光を唯一遮っている者は「人」なのであり、この事は皆が自身のこれまでを省みる中で、自分で知るべきだろう。
「あの時こうしておけば良かった」、「あの時こう言っておくべきだった」、「何であんな事をしてしまったのだろう」、「皆がそう言うから賛成したが本当は違うと思っていた」
これらはみな光明が砕け散った後の欠片と言える。

人間は自分が思う通り、信じる通りには生きられない。
その心底と行動を一致させるのは至難の業だが、こうした中で心の奥底に追いやられた自分、薄く弱く、しかも遠く後ろに追いやられながら絶対消える事の無い光・・・・、若しかしたらこれが自身の智慧の光明なのかも知れない・・・。







第五章「智」・第一節「知」

一日の仕事を終え自宅マンションへと帰路を急ぎ、慌てて乗ったエレベーター、しかしそこは如何にも怪しげな女が乗っていて、更に自分が見ている前で消えてしまった・・・。
「ゆ、幽霊だ・・・・」と走り出したあなただが、家族の元に辿り着いてまず最初にする事は、矢のようにさっき体験した幽霊の目撃談である。

また偶然に知ってしまったママ友の秘密、人に話してはならないと思いながらも、誰かに話さずにはおれず、一度話し始めると尾ひれやら自分の主観やらを交えて熱く語ってしまう自分がいる。

さてこれらの話は「智」とどんな関係が有るのかと言えば、実は「智」の始まりはこの冒頭二話のような状態を始まりとするものなのである。

五常の「仁」「義」「礼」「智」「信」の「智」、この智の端は善悪に対する判断であり、この段階ではまだ「徳」には遠く、「智」と「知」は同じ意味に解されるが「智」と「知」は全く別のものであり、しかしながら「知」は「智」の始まりに在る。

「知」は「智」を総体とするなら極めて愚かな状態であり、一種のパニック状態とも言えるが、自身が経験したり何某かを理解した時それを話さずにはおれず、相手の状態を構わず矢継ぎ早に話している状態を指し、それゆえ「矢」と「口」なのである。

まだ善悪の分別以前の材料、欠片の状態であり、この段階では社会や人に対して有用に働くか害悪になるかは解からず、善悪を分別する為の一つの可能性にしか過ぎない。
従ってこの段階を振りかざす者が行う事は、先に行って善を為すか悪となるかは見えない。

唯、こうした善悪取り混ぜた「材料」や「石ころ」が積み上げられて善悪の分別が成立し、その善悪の分別でも「智」の一番端である事に鑑みるなら、我々が概念する「知識」などと言うものは、如何に愚かなものである事かを認識しなければならず、「知」が集まって環境と調和し、この調和が「徳」の状態で有るとするなら、「知」の段階は半分の警戒を要する状態であるとも言える。

「知」は人と社会で言うなら「個人」であり、「智」は社会を指す。
ゆえに「知」そのものは善悪共々存在し、これらが集まって為す人の世の善悪は、これを至上とするに資することが出来ない。
人は善と悪を極める事は出来ず、「善」は命を以って贖う事を限界とし、この「善」とは「美しい口」、「揃った口」と言う事になる。

世の多くの人が情報を共有し、それを「是」とする事を「善」と言い、個人の限界である命を以って贖ったとしても、それすらも先に行って善となるか、悪となるかは解からない。
善には「大儀の善」と「個の善」が存在し、この「個の善」の端が「知」であり、「個の善」が集まって「大儀の善」が成立し、しかしここでもまだ「智」の端に過ぎない。

我々が普段かざしている正義や善は吉凶表裏のものであり、自身が気付く事より気づかない事の方が多いことを考えるなら、たまさか行えた親切などに気分を良くしてはならないが、しかし一方こうした愚かで気付いていない「気分の良さ」が集まって性善説の「徳」が概念されて行くのかも知れない。

孫子は「善の善なるもの」と言う表現を用いたが、善の善なるものは有り得ない。
苦楽、喜怒、恨みや憎しみを包括しての「善」であり、安寧、平和、幸福、静寂が在っての悪である。
本質は善と悪に在るのではなく、人の感情、社会と言う雑多なものにこそ本質が宿っているのではないか、そう思う・・・。





禮・第十七節「形を為すもの」

剣豪「宮本武蔵」が記した「五輪書」(ごりんのしょ)の中に、相対する敵の次の動きを読むには、「目の焦点を漠然化させ、そのシルエットを見る」と言うような事が書かれているが、これは言い得て妙なる響きがある。

見える景色の中で、相手がどんな形を為しているかを見るは、丁度「光」が画面上で一番明るい色である「白」なら、暗い部分を捉えて画像を構成しなければならない画業の視点に同じであり、東山魁夷(ひがしやま・かい・画家)の世界、あまたの世界の画家達の世界も、まさしく同じものである。

人間の形は物質的には自身が持つ容積だが、この容積は周囲環境が許容した容積でもある。

定められた期限内、この空間はあなたが独占しても良いとされた空間なのであり、視覚的に言うなら小さな箱の中に小瓶を入れ、その周辺にビーズが流し込まれて一杯になっている状態での小瓶のようなものであり、この中から小瓶を抜けばいつでも周囲のビーズ、「他」や「物質」に拠って空間は埋め尽くされる。

物理的に既にこう言う状態である人間の、その感情や精神、思想的空間になると、これは更に不安定になっていて、殆どの人間は「形」を持っていない。
家庭の事情を抱え、会社での事情、仕事や人間関係の事情を抱えている人間の「形」は、その事情に拠って成立している。

それゆえ人の形を観る時は周囲を測ると良いのだが、一般的に人間はこの形を測られる事が不利になると考える為、社会的には自身の事情が露出する事を防ごうとする。

しかし環境と言う事情に拠って弱くなっている部分を防ごうとした時は、そこが周辺より強硬なものとなり、その他の部分は仮線状態のようにシルエットは怪しくなる。
ここから相対する人間の弱さや何に向かって動こうとしているのかが見えてくるのであり、この場合は宮本武蔵のように、その相手を凝視するのではなく、周辺に拠って形のゆらぎを測ると、次にどう動くのかが見えて来る。

我々は「俺が」「自分が」「わたしが」とやっているが、その自分は全て「他」に拠って成立していて、自分と言う者はその時々の環境の代表と言う側面が在る。

友人を招いて一杯やっている時の気分の良さは、奥で文句も言わず付け合せを作って、それを笑顔で運んで来る妻によって成り立っているのであり、この妻の寛容さは子供が学校で100点を取ったからかも知れず、その子供の100点は熱心な教師のおかげであり、更に教師の熱心さは幼い頃の貧しさだったかも知れない。

この様にたった一場面、友人と酒を酌み交わす瞬間にしても、辿って行けば世界全体が用意してくれた「席」と言う事が出来るのであり、感謝する時は、その相対する人間だけではなく、彼や彼女の形を為している「もの」を思って感謝する。

これが「天有」に対する感謝であり、ここで示される「礼」こそが「天」に対する「礼」、つまりは「禮」に同じものと、私は考えている。




禮・第十六節「天有」

これは実際にあった話がアメリカで映画化されたものを脚色したものたが、もし自身存亡の危機を救ってくれた恩師が亡くなり、その娘さんが大病で余命3ヶ月、そこへお見舞いに行ったおり、恩師からの生前の厚情に鑑みて「私に出来る事があったら何でも言ってください」と言ったら、彼女は「このまま男女の交わりも経験せずに死んでいくのは不本意だ、一度だけで良いから自身にそれを経験させて欲しい」と懇願され、悩んだ末これに応じたとする。

しかし一方他には結婚を約束した彼女がいて、恩師の娘さんとホテルに入っていくのを知られた時、彼女に対して「心」は通じるだろうか・・・。
自分が如何ほどに愛していたとしても、不倫ではなかったとしても、その心は通じるだろうか、それが通じると信じているのは自分だけであり、自分に心が有ると思っていても、その心は彼女には通じない場合が出てくるのではないだろうか。

また、郷里から珍しい菓子が送られてきて、それを社内の同部社員全員に配ったとする時、それに拠って「なんて良い人なのだろう」と思った女性職員が現れた場合、自身にはそんなつもりは無くても、彼女はそこに「心」を見る事になる。

更に自分の誕生日に綺麗なバラの花が贈られたが、一方は好意を持っている男性で、もう一方は自分が嫌いな男性からだった場合、好意を寄せている男性のバラは「まあ、素敵」になり、嫌いな男性からのバラは「フン、わざとらしい」と言う事になり、その色すらも卑しく見えるかも知れない。

「心」とは自分の心も、相手に見る「心」も自分の「心」であり、その心はそれまでと今が自身に与えてくれた環境に拠って成り立っている。

特に誠意など無くても慣習に拠って毎年お中元やお歳暮、簡素な近況報告が届いているだけでも、それでも「誠実」で義理堅い人だと言う事になる場合も有れば、長年の友人だったとしても、自分の子供が危機に見舞われ、それに対処していたら友人の子供の結婚式に挨拶を頼まれながら、反故にしなければならない事になって、それで友人から心を疑われる時もある。

「心」とは、たまさか今までそれが信じられる状況だったと言うことに過ぎないのだが、だからと言って軽い事を考えてはならない。

これまでの話の中に出てきた恩師、恩師の娘、彼女、田舎からの菓子、バラ、好意の彼氏、嫌いな彼氏はみな夢幻ではない、全て現実の事象であり、これを区別している者は誰か、全て自分であり、自分で相手を縛り、その縛りに拠って自分が縛られているのである。

仏教の有名な逸話に我が子を失った母親の話が出てくるが、この話の末尾には仏陀の教えとして、「その我が子、我が子と言う子供はたまさかあなたと言う女の胎動を通っただけではないか」「あなたはその子でなければならない、それしか望めないとして子供を産んだか・・・」と言う諭しが出てくる。

事象と心、自身の関係とは全くこれに同じであり、我々が心と呼ぶものは何か、それはたまさか今まで「心」と信じて来れた環境と状況、言い換えればそれを信じさせてくれた周囲、社会だったと言う事であり、恩師の娘は夢幻か、彼女や彼氏、田舎の菓子やバラは夢幻か・・・。

現実に発生する事象、現実に目の前に在るものを、片方は心が有るとし、一方を心がないとするは傲慢なり。

心が目の前の現実に優劣を与え色を付け、それをして一方を正しく一方を排除するは、存在に対する尊厳を冒すものであり、環境や状況が揃って来れたと言う事は、事象がそれを与えてくれた、つまり天がそれを与えてくれたと言う事であり、自身の心をして我が子と他者の子を分けてはならない。

心無き者からのバラも、心有る者からのバラも現実の事象であり、恩師の娘と言う義も彼女と言う存在も事象であり、これに優劣など初めから在ろうはずもない。
しかし、人間が生きていれば究極の2者は両方を選べない。

それゆえ棄てていかねばならぬ方、その事象に対しても、天がそれを与えてくれた事を感謝してこそ初めて、「天有」と言うものを知る事になる。

その目の前に広がる現実、楽しき事も悲しき事も、苦しき事も、憎しみも怨みも、尊敬も、愛も全て有り難くおし頂き、味わい尽くせとは、こう言う事を言っているのである。



禮・第十五節「無返」(むへん)

暴力は火に似ている。
制御できれば有用に働き、制御できなければ害悪や災害になり、人は自身に関係がない、見ているだけなら火も暴力も好きである。

これは人間の本能「競争」の部分から始まるもので、こうした部分を無くすると生物は存続そのものが否定されて行く為、根底ではこれに歓喜を感じる部分が脳幹の上部、新脳の末尾に残っているものと考えられている。

そして暴力は基礎となる力でも有る為、社会や人間のあらゆる部分に存在し、「五常」「仁」「義」「礼」「智」「信」の中にも当然存在する。
これらを盾に暴走すればいつでも暴力となり得る。

私は腕力が無く、言葉でも人に勝てないと思っている人でも、その弱さを制御して使っているのであり、たとえ弱さでもそれが暴走すれば暴力となるのであり、この意味では暴力は制御できない「力」を指すのである。

「礼」は社会的な約束に乗った一つの意思表示であり、承認儀式である事から、礼に対して礼が返されれば完結礼、「有り難うございます」などの言葉で終了するが、一方礼に対して礼で返って来ない時、これを一般的には「無礼」と表現し、たいていの場合は怒りの感情が出てくる事になる。

しかし、「礼」の本質は意思表示であり、承認儀式である事から、これを認めない、拒否する事の自由を制限するは究極的観点からは求められない。
「仁」に拠って「仁」が返される事を期待するは「仁」の心にはならないのと同じように、「礼」に拠って「礼」を期待するのは「礼」の本質を全うするものではないのである。

挨拶をしたが無視された、宴席で酒の酌が自分だけ飛ばされたなど、礼に対する無礼、適切な表現をするなら「無返」と言う事になるが、この無返や、礼に対してこれを荒らされた場合、礼に対して暴力が返ってきた時、これに怒るは予め自身を上位に措いて、自身の意思表示や存在は認められて当然だと言考えていた愚かさ、傲慢と卑しさが漂う。

無返や暴返に対して怒っていたのでは、礼を認めない愚かな者の、その愚かさに自身も堕ちるのであり、暴力は制御の利かない力、そして礼は制御された力で有る事を考えるなら、それは同じものである事を思わねばならず、また「礼」は示される形であるから、暴力に対して暴力では自身も礼の無い状態と見做される。

無返や暴返に対する正しい在り様は、やはり「礼」なのであり、この姿勢に拠って社会は礼を貫徹した者を高く評価する。
礼を超える無返や暴返は一つしかない。

それは命に拘わるものを指し、自身の命を超える礼は「義」であり、この義の無いもので命に拘わる事柄に関しては礼を以って応えてはならない。

自身を本当に殺そうと考える者は暗闇で息を潜め機会を伺い、或いは自身のすぐ傍で付き従いながら機会を狙っているものであり、正面から威嚇してやってくる者等たかが知れている。
それゆえ「礼」で頭を下げるときでも相手から目を離さず、相手の足元の動きを見逃してはならないのであり、尚且つこれに憎しみや恐れを持ってはならない。

暴力も礼も本質は同じものであり、それが制御されているか否かと言うことに過ぎない。
無返に対しても礼を失わない事は自身が社会に対して示す形であり、狭義を捨て大儀の礼を重んじる事に拠って自己評価を高めようとする卑しい心で在っても、この卑しさを最後まで貫徹するなら、その礼は相手の事を慮って為す無返に対する「礼」も同じである。

売名行為もそれをそれと人に気付かせず一生続けられるなら、仁愛や慈悲の心が為すものと同じ、或いは仁愛や慈悲で為す事より困難な事になるかも知れない。

暴力、炎は制御できなければ地獄、制御されたものはまた神仏の恩恵であり、しかしどちらも同じものかも知れない。





禮・第十四節「情報の統合作用」

次章、「智」の章で詳しく解説する事にもなるが、大学の衰退は少子化が最も大きな原因であるものの、もう一つ重要な本質に拘わる崩壊が始まっている為、「虚」と「実」の両面から価値が低下している。

インターネットが普及する以前、情報とそれを知っている事は価値だった。
膨大な量の知識を持つ事はそれだけで利益を生む事が出来たが、インターネットの普及は「情報の存在位置」に拘わる価値観を大きく変化させ、情報が人間の脳に存在している以上の速度で、外部保存された情報から得られるシステムになった。

「非線型方程式」を学ぼうとするなら、昭和の時代なら大学で学ぶしか方法が無かったが、今では中学生がインターネットで即時にその「解」を学ぶ事が出来る。
しかも人間の脳のように記憶の不安定性が無く、誰が閲覧してもその情報には変化が無い。

ここに人間の脳機能の中で情報の記憶と言う部分が、外部データ保存形式に移行したと言え、しかも現在ではこの外部保存データの方が「情報の統合作用」まで行うようになってきている。
検索エンジンなどはまさにこの「情報の統合作用」であり、個人々々の情報が集積すると、そこから傾向や漠然とした進行方向が見えてくる。

これは実質初期の「創造」なのだが、情報を外部データ保存し始めた人間は、ついにこうした「創造」の部分も放棄し始めていながら、例えば漢字などは現実に紙で書くことが無くなると、知っていながら書くことは出来なくなる状態を発生させ、紙で鉛筆を持って書いているなら鉛筆は削らねばならず、書いている途中で虫が紙の上に留まった時の感情などは得られなくなる。

人間の視覚は必要な情報のみを選択してみている訳ではなく、周辺の一見不必要と思われる情報を含んでそれが記憶される。情報の記憶、判断は比較、対比、同調、有と無の対比、反転対比と同調など全く本質の情報とは関係ないものを統合し、そこから傾向や進行方向、つまり新しい何かを漠然と理解するシステムを持つ。

この事から情報が外部データとして保存される事で記憶から解放されると、創造と中間作業に拠って得られる段階的遠関係性情報を失ない、これに拠って得られる感情を減少させる。
外部データの安定性と相まって、人間の判断はどんどん画一化、個人の利益と公の利益のどちらかに偏った二極性に傾いていく。

情報は必要な情報のみでは構成されても現実には使えない。

失敗例が有って成功が有るのと同じように、不必要なもの、或いは私のように何も知らなくて愚かな者の考え方も含める事で、その情報から新しい何かが始まるのであり、愚かな者の愚かな意見が間違っているとは限らず、賢い者の意見が正しいとも決まっていないのが「動いている情報」「現実」と言うものなのである。

物を書くときには辞書を用意し、机には季節の花なども飾られていて、原稿用紙を破かない、しかし減りも少ない程度のHBの鉛筆、その先は死ぬほど尖っている訳では無い程度に削られ、少なくなった蝉の鳴き声を聞きながら文章を書くのと、締め切った部屋でカシャカシャとキーボードを叩いているのでは、表現できる情景は違って行くのである。

愚かな者から賢い者まで、金持ちから貧しい者まで、権力の中枢に在る者から社会的弱者まで、そのそれぞれが「現実」と言う観点では全く肯定され得べき何者でもなく、それぞれの状況に在る者は、上を目指すも下を求めるも良いが、取り合えず今の状況に自身を持って、自分の考えを持つ事、これこそが「礼」の基本であり、二極化して二者択一の世界では多くの中間、つまり多くの民衆は不本意ながら流されていくだけに終る・・・。





禮・第十三節「礼の免責」

1993年までの世界、厳密に言えば1989年だが、この時代までの国際社会には「弔問外交」と言うものが存在した。

社会主義国家郡と資本主義国家郡が対立していた世界情勢の中で、国家元首が死亡した時には主義思想を超えて、或いは一方の主義思想郡の中で、弔問を利用した外交が行われ、それに拠って一時的に対立国相互の関係修復が図られたケースがある。

対立と言う関係は当事者相互の関係だが、これが一度始まると周囲に認識され、安易な融和はそれ以前の言動を自己否定してしまう為、自身と第三者に拠って関係の固定強化が進んでしまう。
だが人の死と言う、最も基礎的な社会思想は「葬儀」と言う「礼」をして、こうした関係性の上位に立つ事が認識されいる事から、「対立」と言う関係性すらも一時的に解除する効用を持つ。

同様のケースは個人が営む社会生活に措いても存在し、例えば長く意見が対立していた伯父と親の葬儀で一緒になり、誤解が解消されると言う事も存在し、この意味では「礼」は人間の関係性を拡大する意味を持っているが、「礼」は「時間」と「経済」に深く関係し、これを覆す緊急性、災害や人の死などの非常事態も、経済や時間と同じように「礼」の要件である。

つまり「礼」は時間を多く所有している者の中では厳しくなり、時間が無い者のその状況が認識されれば、社会的自然免責、金銭代理免責が存在すると言う事で、例を挙げるなら若年の者は社会に出て日が浅く、時間が無い事は社会全体が認識している為多少の無礼は容認されるが、年齢と共に礼を欠くと非難されるケースが増え、葬儀でも本人は出席できないが、代わりに香典の30万円も送って置けば、その家の経済状況にも拠るが、或いは本人が出席するより「礼」の効用は大きいかも知れない。

このように「礼」には常に社会的免責が存在し「時間が無い」と言う経済的発展が著しい時期には金銭に拠る許容も存在できるが、この状態は「礼」が持つ人間の関係性の拡大を半減させ、結果として関係の減少は経済の衰退を招いていく事になる。

更にこうして経済が衰退して行くと、やがて経済的理由による「礼」の自然免責が社会に醸成され、「礼」は急速にしぼんでいくが、もう一つ、時間と言う「礼」の要件を崩壊させるものは「自由」や「平等」と言った民主主義の概念であり、これに拠って否定される階層性思想(封建的序列)は、政府と民衆と言った具合に、二極化した社会を醸成させ、ここに年代的序列思想を壊していく。

社会は最低ラインの「礼」をして平等化する為、高齢者の社会的思想が若年化し、ここに「礼」は最も多くの免責を許容したものとなり、高齢者の幼稚化、思春期反抗型思想を増加させ、高齢者側から「礼」を壊して行く傾向を発生させる。

高齢者の暴走、家族葬の発生は民主主義の発展と必ずしも無関係ではなかったのであり、こうして縮小していく「礼」は更に人間の関係性を縮小させ、個人は孤独化に向かい、ここに個人と支配者、つまり政府と民衆と言うバラバラの個人の二極化に陥る訳であり、当然考え方は「二極統一思想」、個人の利益と社会利益の2つしかない考え方になっていくが「統一」は思想上の概念で有り現実は相反している。

この相反部分を統一しようすると、個人の事情が社会へ露出し、政治は衆愚化する。

社会は傲慢な個人の利益を正当化する傾向と、これに少しでも手続き上の不備が有ると攻撃されるような極端な事になり、隣家で人が死んでいても意にも介さないが、災害で多くの人が死んだと「聞けば」涙を流して寄付を出し、一軒隣の部屋では子供が毎日殴られていても知らん顔で、動物が虐待されていると聞くと憤る。

これが社会の「二極化統一思想」と言うものであり、人間の感情は悲しみや喜びでもそれが単体で構成されてはいない。
「感情はしきい値」であり、感情と言う容器を飛び出て溢れる思いは、その一つの感情のみで溢れるのではなく、あらゆる感情が水増しされて容器から溢れるのである。

礼は金で代用する事も出来るが、それは豆腐の角どころか半分欠けた状態であり、更に金がなくなったら「礼」も実行できないのではない。
貧しくても「礼」を果たす事は可能なのであり、この失われた時代であればこそ、「その楽に心が無ければ・・・」の「心」を持った「礼」の実践が容易なのである。

そしてそれは社会正義や道徳、美しさと言った大袈裟なものではなく、まず隣にいる人間から始まるのである。




禮・第十二節「豆腐の角」

「五常」、「仁」「義」「礼」「智」「信」の中で「智」以外は部分欠損の概念が許容されるが、通常「仁」や「信」は欠けた状態で認められる事は難しく、現実的には「仁」と「信」は有るか無いかの、どちらかの状態でしか存在しにくい。

しかし「義」と「礼」は比較的「欠く」と言う表現が使い易く、勿論失う事も有るのだが、一部欠損状態の概念が社会的には共有されている事を示していて、尚且つそれは欠け易いと言う事も認識されている。
視覚的表現を使うなら「義」と「礼」は角(かど)が有り欠け易い、豆腐のようなものだと言う事である。

またこうして角が存在すると言う事は形としてはっきりしていて、他の「五常」よりは社会が共有する概念が具体的であるとも言えるが、この事は階層性の「徳」である事を示していて、封建性を拠り所としているとも言える訳である。

我々は政治学、社会学、歴史民俗学と言う具合に、同じ命題を重複して名称を違えて表現しているが、同様に封建制度も官僚機構も名称は違うが質を違えないものであり、この両者の差は「何を担保」にしているかと言う事に過ぎない。

報酬を担保にするか、姻戚関係を担保にするか、これに「義」と言う思想を加えるかと言う違いであり、例えば報酬型封建制度、官僚機構でも初期は大衆から能力を集積するが、やがてその中で関係性を深める事により地位が向上する為、上司の娘と婚姻に拠る関係を結んだり、或いは私的友好関係、上司の地位向上の為に働き、これに拠って自身の地位向上を図るようになる。

また貴族性、姻戚関係はこの逆の流れで本来の形を壊していく。
結局「関係性」と「報酬」、言い換えれば「権力」と「金」の為でしか動けないのだが、これに権力の欠片である「義」を加えてスムーズにしたのが日本型の封建制度であり、この封建制度は官僚機構と姻戚型封建制度を包括している。

簡略に言うなら「義」と「礼」は封建制、「組織」に必要なものであると言う事で、一般的には組織と言う言葉は新しい言葉だが、その実、封建型機構の一部、或いは言い換えに過ぎないかも知れない。
社会のあらゆる場面で具体性を持って、どの歴史の中でも存在してきた、これからも存在するであろう「階層性思想」と言える。

一方これに比して「仁」や「信」また「愛」などはどうなるかと言うと、これらはマクロとミクロ思想であり、原始的普遍思想と言える。
つまり「個人」と「社会全体」に二極化して存在し、それらは利益的には相反しながら統一命題であると言う事であり、「自由」も多分同じである。

「二極化統一思想」は禅の宇宙と人との関係、物理学の原子理論に同じものだが、事象を正確に見るなら、地球上で最も多く存在する現実で、王制や専制君主主義、独裁、民主主義、資本主義、弱肉強食など多くのシステムが該当する。

いや民主主義と独裁は違うと言う方もおいでるかと思うが、民主主義では代表を民衆が選択するが、政府と民衆と言う具合に立場に措いて相反する二極が発生し、独裁は民衆が選べなかったと言うだけで二極化は同じであり、これに貴族が加わって調整を図るか、或いは幕府や官僚機構が調整実務を果たすかの違いであり、独裁でも民主主義は可能であり、民主主義でも常に独裁は起き易い。

重要なのは「人の質」なのであり、君主も封建制も官僚機構もこの点では全て同じだが、かつて完璧な人間が出現した事が無いように、これらの完璧ではない人間の中から出てくるシステムの中で、未来永劫完全と言うものは出現する事は出来ない。

私たちは民主主義を新しいものと思っているかも知れないが、これは最も古いシステムに、これまた古くから神を意識した中で存在する「天意」と言うものを限定文書化し、法的に整備した程度の事なのである。

豆腐の角は欠け易く、これを欠けないようにするのは至難で、しかし角が欠けても豆腐が豆腐で無くなる訳ではない。

これが「礼」である。




禮・第十一節「理不尽」

「禮」の始まりはその文字が示す通り、「人の力では如何ともし難いもの」に対するもので有っただろう。

だがやがてこうした人の力では如何ともし難い領域に、支配者が入り込んで行った瞬間から「禮」は人間の社会に入り込み、予めの階層や力関係で抗し難い者に対しても同じ形、若しくは簡略形が取られるようになり、この場合「禮」は「礼」となって行ったものと考えられるが、文字は「礼」の方が古く、しかし概念としては「禮」の方が古いと考えられる。

我々は自身存在の唯一の証である生誕と「死」を自身では定められない。
同じように天が示す気候や自然の変動に対しても、自身がこれを定めたり変更する事が出来ない。
しかし人間の持つ社会が大きくなって行くに従って、こうした「人が如何ともし難い」事に対しても、当代に形成された社会に比例した概念で判断して行こうとする傾向が在る。

私が嫌いな概念で「ガイア理論」と言うものが1960年ぐらいに発生したが、これは地球を一つの生命と考え、そこに感情までも概念しようとしたものだったが、46億年と言う歳月を経たもの、しかもその恩恵の中で存在している者が考えるには余りにも傲慢な考え方だったが、こうした流れの中に「自然を愛する」、或いは「地球に優しい」などの「上から目線」な考え方が有る。

こうした考え方は一見優しそうに見えるが、人間の社会、自身が現在存在している環境こそを最上位と考えるもので、本来地球が持つエネルギーの総量と人間が持つそれは、比較には遠く及ばないばかりか、その許しの中で生きる人間には、こうした言葉を使う資格など初めから無い。

我々が生まれ生まれて、死んで死んで行く事に意味は無く、その存在も意味が無い。
この地球に起こる全ての事象は事象のみであり、そこには意思も感情も無い。
この意味の無い処に意味と感情を持たせたのが社会で有り、事象の持つ「無」と社会は常に矛盾し、そこに感情を見れば必ず裏切られる。

人間は生まれて自身一人と地球のみでも、その存在が始まった時から差別を始め、社会が与える感情とはこうした理不尽や差別を、どう自身と整合性を持たせるかと言う事でもあり、理不尽は社会ゆえに存在し、しかもそれは社会が発展拡大するに従い比例して増殖して行くが、本当は理不尽など初めから存在していない。

生物は原始的な本能のみの方が生きる事に対して大きな力を持つ。
その意味では人間の感情は「弱さ」に繋がるが、この「弱さ」の積み重ねこそが、いつかの力となるのかも知れない。

我々は自身等が持つ社会で全てを判断してはならず、解らない事を無理して解ってしまってはならず、理不尽は所詮自身の都合でしかない。
自身の力でどうにもならない事に対しては、禍福の如何を問わず有り難く思わねばならない。

そしてこうした圧倒的な力の差、社会が及ばない事象に対するものと、社会の中で発生する人に拠る力の差は、質こそ違えど抗する事が出来なければやはり有り難く思うしかない。
その上でいつか力を蓄えて自身の力でそれを切り開いて行く事を考えよ。

「礼」に拠って頭を下げる時は、相手から決して目を離してはならない。
その礼に油断が有れば相手から頭を叩かれるかも知れず、それをかわせばもっと酷い制裁が有るかも知れない。
頭を叩かれる事を警戒しながら、しかし叩かれても良い覚悟をしながら頭を下げるのが、正しい「礼」であり、この在り様は自然や天に対する「禮」も同じである。

また叩かれる事なく、穏やかで親切にされた時は自身を恐れよ。
それに拠って自身に都合の良い感情を持たずに措く事は至難で、その感情がいつか理不尽を招く。

相手に対して「礼」を尽くしている瞬間でも、だからと言って安全と幸福が保証されている訳ではない事は「礼」も「禮」も同じであり、この事を含めて有り難く思うべきかも知れない。





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