2017/09/29
智・第三節「見えない知識」
旧約聖書の記述の中には「物を書きすぎるな」と言う戒めが2回出てくる。基本的に神のご教示を記したものが聖書だが、このご教示を書き記し後進に残す際、書く事に溺れると神の御教示を拡大してしまったり、或いは調子に乗って書ける事をして、それが神の御意思と錯誤する危険性を戒めたものと言えるが、「書かねばならない事を書く」と言う事は、人間には不可能で有る。
知識は食と同じで味覚の極点は一番最初の一口に在って、その後の味覚はこの極点を追い求める形にしかならず、人体がその時必要とする栄養を摂取する事を本来の目的とするなら、食べている時に必要とされる栄養量の総体を知る事は出来ない。
また生物の基本は「明日は無い」事が前提なので、眼前に存在する食物が少なければその量を限界とし、食物が多い場合は摂取できる最大限を目指して食物摂取を行う。
そして人間のように「明日は無い」と言う条項が社会に拠って一定の緩和状態になり、これが継続されると「明日は有る」事になるため、やがて食物摂取は他の理由を優先して摂取量の後退が始まる。
食の本来の目的である生体維持ではなく、付帯事項の味覚、或いは社会的なスタイルが優先され、ここに食物の多い状態は食物摂取量の減少を招いて、付帯事項が本来の目的を超えた目的となる。
同様の事は生殖活動にも発生し、生殖活動時の快楽は本来生殖を補佐するものだが、社会が安定すると生殖は負担となり、快楽が優先され、快楽は生殖活動から独立する。
知識もまたその本来は生体維持や危機管理、社会の維持に必要なものなのだが、食と同じように危機管理の面から過剰に取り込んで行くと、やがては安定の中に不安を見るようになり、現実から乖離して行く。
更に社会に情報や知識が蔓延状態になると、知識がどこに在るのかと言う問題、知識を自身の中に取り入れる努力が失われ、ここから自身で思考すると言う創造性が消失して行く。
知識はただ知っているだけなら図書館に在るのもウキペディアに在るのも、人の頭の中に在るのも、自分の頭の中に在るのも同じ事で、在るだけでは意味を成さない。
トマトは畑に在るのも、八百屋さんに置いて在るのも、それが買われて目の前に在るのも同じ事であり、例えそれが金を出して買われたとしても、実際に食べるまでは自分の物ではない、置いている場所が変わっただけの事に過ぎず、知識もただ知っているだけなら、それは自分の物ではないのである。
智はこうした意味から言えば咀嚼(そしゃく)されて栄養となった食物と言え、これらが時間経過と共に社会に蓄積された状態を指すのかも知れない。
自身が知らない事をも含んだ人類共通の知識、それも現実に対処する為に普段は隠れた状態になっているものが多い知識を差すのかも知れない。
位相幾何学や非線型方程式などは、私たちが知らなくても実際の生活には何の必要もないが、例えば巨大彗星が地球にぶつかるかも知れないとした時、この彗星の軌道やエネルギーの変化モデルを作るには必要になる。
そしてこれは地球上の誰かが知っていて、それが継続して伝わっていれば、やがて地球に危機が訪れた時、初めて効力を現す。
この様に普段は特に必要もなく、でも絶対必要な知識、我々が知らないところで、それもいつ効力が発揮できるかも知れない知識、同様の事は物理的なことだけでは無く、人間社会には多く存在する。
例えば昨日あなたがしていた仕事などは地球全体の中で知っている人はごく僅か、塵のように小さなものかも知れないが、でもそれに拠って誰かが利益を得たり、或いは助けられたり、必要な物を手に入れたり出来た訳で有る。
多くの人は知らなくても、それに拠って人間や社会が支えられたなら、これも広義では「智」と呼ぶ事が出来るのではないか・・・。
あなたの姿を見て、自分もあんな人で在りたいと思う人が1人でもいたなら、「智」はあなたを通して効力を発揮したと、そう言えるのではないか・・・。