2017/10/12
智・第七節「沈黙を備える」
会議の席で腕を組み、ひたすら沈黙を通す重役、目は軽く閉じられ本当のところは寝ているのかも知れないが、最後に自身の意見だけを言い、表情は初めから終わりまで変わらない・・・・。また或る日の宴席、末座で何を言われても微笑んで会釈を返すのみ、一言も語らず酒も呑んでいなければ料理に手が付けられてもいない。
良い頃合に帰り支度を始め料理は持ち帰り、最後に深々と礼を言い、席を正して立ち去る者がいたら、我々は彼や彼女をどう思うだろうか。
実はこの二つの事例が基本的な「智」の形であり、智とは社会の中で醸成された知である事から、基本的に言葉や表情、感情を持っているように見えない為、「智」が現実に備わっていようがいまいが、形として自分が出ない沈黙、しかも社会一般的な「礼」だけを為し、これが極めて教条的平均である事を好む。
智は言葉に出来るものではなく、どんな形かも決まっていない、つまり状態としては「解らない」「何も見えない」事なのであり、智の実践と言えば一般的には自分の問題と思うかも知れないが、その半分は相手がどう思うか、と言う部分でもあり、対外的な実践行動もまた「智」である。
しかも智の状態とは「解らない」「見えない」事に有る為、これを為せば人はそこに智を観る事になる。
冒頭の重役は会議でみなの発言を詳細もらさず聞いているかも知れない、が、若しかしたら寝ているかも知れない。
更に宴席で微笑んでいるだけの者など、そもそも何で宴会に来ているかすら解らない。
この「解らない」から「恐れ」が始まるのであり、智の形とは弁舌爽やかに豊富な知識を語る事ではなく、極端に卑下した自分を見せる事でもない。
「自分」を一切出さずに「社会」をやる事であり、これに拠って対外的には「解らない」状態になり、そこから「恐れ」が発生し、「恐れ」と「畏れ」の差とは禍福が或る程度見えるものが「恐れ」、禍福どちらになるか解らないものが「畏れ」である。
智は一般的に自身が研鑽を積む事のように思うかも知れないが、その実は自身を一切外に出す事をせず、「他」を自分が決めてしまわず、親しくも無く対立もしていない状態を持つ事であり、自分を律する為に多くの知識と経験を必要とするのであって、ただ単に多くの経験や知識を蓄えても「智」にはならない。
そして智とは社会の平均で有る事から、本来は社会的に目立たないはずだが、「智」を実践すると目立つのは何故か・・・。
人間が如何に社会通りに生きられず、自分の感情を抑制できない生き物であるかが、人間社会に拠って示されているのであり、それゆえ一番平均で真っ当な「智」が希少なのである。
また社会の始まりとは「調整」の事で有り、「知」は調整の近くに有って、調整を行えば行うほど新たなる調整の必要性が生じてくる。
この意味では老子の説は的を得たものであり、こうして動いている状態は知が社会的に咀嚼(そしゃく)されていない為、「智」に一番遠いところに在る。
知は智の一番近くに在りながら、一番遠く、調整の実践的行動が「政治」である事から、政治の世界、経済の最先端、時代の中心となっているところには「智」は存在しにくい。
「智」の貞観は中心から離れ、遠くから感情を持たずにそれを見定める姿に在り、その入り口は「沈黙」であり、この沈黙は「礼」に拠って「恐れ」から「畏れ」に昇華する。
言葉や形は究極的には「沈黙」と「形無きもの」の為とも言えるのかも知れない・・・・。