智・第七節「沈黙を備える」

会議の席で腕を組み、ひたすら沈黙を通す重役、目は軽く閉じられ本当のところは寝ているのかも知れないが、最後に自身の意見だけを言い、表情は初めから終わりまで変わらない・・・・。

また或る日の宴席、末座で何を言われても微笑んで会釈を返すのみ、一言も語らず酒も呑んでいなければ料理に手が付けられてもいない。
良い頃合に帰り支度を始め料理は持ち帰り、最後に深々と礼を言い、席を正して立ち去る者がいたら、我々は彼や彼女をどう思うだろうか。

実はこの二つの事例が基本的な「智」の形であり、智とは社会の中で醸成された知である事から、基本的に言葉や表情、感情を持っているように見えない為、「智」が現実に備わっていようがいまいが、形として自分が出ない沈黙、しかも社会一般的な「礼」だけを為し、これが極めて教条的平均である事を好む。

智は言葉に出来るものではなく、どんな形かも決まっていない、つまり状態としては「解らない」「何も見えない」事なのであり、智の実践と言えば一般的には自分の問題と思うかも知れないが、その半分は相手がどう思うか、と言う部分でもあり、対外的な実践行動もまた「智」である。

しかも智の状態とは「解らない」「見えない」事に有る為、これを為せば人はそこに智を観る事になる。
冒頭の重役は会議でみなの発言を詳細もらさず聞いているかも知れない、が、若しかしたら寝ているかも知れない。
更に宴席で微笑んでいるだけの者など、そもそも何で宴会に来ているかすら解らない。

この「解らない」から「恐れ」が始まるのであり、智の形とは弁舌爽やかに豊富な知識を語る事ではなく、極端に卑下した自分を見せる事でもない。
「自分」を一切出さずに「社会」をやる事であり、これに拠って対外的には「解らない」状態になり、そこから「恐れ」が発生し、「恐れ」と「畏れ」の差とは禍福が或る程度見えるものが「恐れ」、禍福どちらになるか解らないものが「畏れ」である。

智は一般的に自身が研鑽を積む事のように思うかも知れないが、その実は自身を一切外に出す事をせず、「他」を自分が決めてしまわず、親しくも無く対立もしていない状態を持つ事であり、自分を律する為に多くの知識と経験を必要とするのであって、ただ単に多くの経験や知識を蓄えても「智」にはならない。

そして智とは社会の平均で有る事から、本来は社会的に目立たないはずだが、「智」を実践すると目立つのは何故か・・・。
人間が如何に社会通りに生きられず、自分の感情を抑制できない生き物であるかが、人間社会に拠って示されているのであり、それゆえ一番平均で真っ当な「智」が希少なのである。

また社会の始まりとは「調整」の事で有り、「知」は調整の近くに有って、調整を行えば行うほど新たなる調整の必要性が生じてくる。
この意味では老子の説は的を得たものであり、こうして動いている状態は知が社会的に咀嚼(そしゃく)されていない為、「智」に一番遠いところに在る。

知は智の一番近くに在りながら、一番遠く、調整の実践的行動が「政治」である事から、政治の世界、経済の最先端、時代の中心となっているところには「智」は存在しにくい。
「智」の貞観は中心から離れ、遠くから感情を持たずにそれを見定める姿に在り、その入り口は「沈黙」であり、この沈黙は「礼」に拠って「恐れ」から「畏れ」に昇華する。

言葉や形は究極的には「沈黙」と「形無きもの」の為とも言えるのかも知れない・・・・。


智・第六節「無意識の智」

大きな不安を抱えている時、帰って来る事が難しいであろう大切な人を待つ時、穏やかな日の青い空はそこはかとない悲しみをもたらす時が有る。

そして全力で事にあたり全てを失い、精魂尽き果てた時、その事が成就されても、されなくても、穏やかな日の青い空は今度は抑制の出来ない涙をもたらすが、この時の涙が悲しいのか嬉しいのかを知る事は出来ない。

老子は智慧と知恵を区別する事無く、知恵は「大偽」(大きな偽り)をもたらすと説いたが、子は自然に存在する調和こそが全てと言う考えから、これに逆行する人間の約束、為す事は全ていつかの誤りになると考えたのかも知れないが、これは現代社会でも存在する文明に対する疑問、長じれば文明否定と考える事が出来る。

一方ギリシャ哲学では、アリストテレスなどが知恵と智慧を区別し、智慧を「ソフィア」と表現しているが、これなどは大乗仏教に措ける智慧に近い概念であり、知恵と智慧を決定的に区別した大乗仏教では、智慧もまた悟りの境地とまでしているものの、小乗仏教では一つ々々の概念が同等に解析される為、智慧と知恵の区別は曖昧になっている。

事を是とするか否とするかはともかく、老子や小乗仏教の様に知恵と智慧を区別しない考え方、例え在ったとしても同義の場合の考え方は並列完成形の智慧と言う事になるが、片やアリストテレスや大乗仏教のような統一場理論的な智慧はフロイトの無意識の意識にも通じるものであり、この意味ではキリスト教の概念もアリストテレスや大乗仏教と同じ傾向を持ち、これに相対するイスラム教の概念は老子や小乗仏教の概念に近い。

ただ、アリストテレス、大乗仏教、キリスト教、フロイトの言う智慧の概念は基本的に「無」であり、特にフロイトの言う無意識の意識、意識下の意識は事象の逆算性仮定であり、仏教の悟り、キリスト教の「神」が名前を変えただけのもののような感が有る。

大乗仏教でも「智」は無意識に出てくるものとされているが、人間の記憶媒体は全てが脳に措かれているとは限らない。
今この瞬間、自身の脳に何が在るのか説明できる人間はいるだろうか、多分と言うより、それが出来る人間は絶対いないはずである。

人間の記憶は全て現実の事象をキーワードとしていて、この意味では人間の記憶や感情は眼前の事象と共同で「今」を創り上げている。
乱暴な言い方をするなら、その瞬間ごとにあらゆるものを引っ張ってきて張り合わせ、その連続が「自分」なのであり、ここでは完全に自分のもの等一つも無く、しかし全てが自分なのである。

無意識の「智」、意識下の意識は自然の事象や現実と結果を、感情と繋ぎ合わせようとした人間の知恵なのかも知れないが、冒頭の青空を見て流れる涙の理由は「無意識」ではなく、意識が在り過ぎて感情を超えてしまうもので有る事を考えるなら、感情は事象ごとに多くの「他」を引っ張り、必ずしも純粋な物ではない。

濁った水が閾値(しきいち)を超えて出てきたものと言え、その濁った成分は現実の今には直接的関係を持たないが、濁っていることに拠って今を計っている。
必ずしも無関係や切り離されたものでは無く、無意識ではないのである。

人間の体は爪の先から髪の毛一本に至るまで記憶と現実そのものであり、脳や心だけが人間を為しているのではない。
体や習慣、社会の空気なども含めて自分自身なのであり、ここで脳や心とこれらを切り離す「無意識」は、小賢しい(こざかしい)事のように思う・・・。




智・第五節「時、人、事象」

私が若い頃懇意にさせて頂いた老技術者が話してくれた事の中で、今以てその通りだったなと思う話の一つに、「夜に大切な事は考えない」と言うものが在る。

夜の闇と言うものは「力」では有るが、その一方力が集中し易く、為に考える事は先鋭化、極端になり、楽観と悲観では悲観の方に傾き易い。
自殺を考える者は夜を通して「死」を考え巡り、やがて太陽が昇り始めようとする頃、その夜を通して考え抜いた事が、陽の光に拠って溶けてしまう事に追われるようにして死を急ぐ。

死は夜のうちに決まっていたが、それが陽の光に拠ってまた一日伸びてしまう、新たな一日が絶望の始まりとなる事を恐れ死を急ぐ、為に多くの自殺は陽の昇ってくる前後の時間帯が多くなる。

また方角で言うなら「北」に向くと考え方が先鋭化し悲観に傾き易く、恨みがあるなら、その恨みは深くなり易く、南に向かえばこれが緩和され、寒暖で比較するなら寒い所は縮小型の考え方になり、暖かい地域は拡散型の考え方になる。

この様に人間が対峙する事象には両方の極が存在し、純粋化と多在化の傾向を持つが、これらは相互に対比する傾向であり、例えば夜に考えた事は昼に考えた事が否定する傾向にあり、昼に楽観された事は夜には命がけの事になる時が有るかも知れない。
それゆえこうした人間の考え方をどちらか一方の極に傾かせない為に必要となるのが「時間」であり、昼と夜を通過した時点、北と南に向いて、寒暖を潜り抜けた考え方と言うものが、実は社会の平均値に近くなる。

しかし現実には人間の社会には平均値は存在せず、純粋型と多在型と言う大別を青と赤の点に換算するなら、暖かい地域は多くの赤い点が密集し、寒い地域には多くの青い点が密集、北の方角は青く見え、南の方角は赤く見える。
その赤と青の点の密集は夜には全体に青の膜が多い、昼には全体に赤の膜の下に在る、そんな状態と言えるかも知れない。

そして時間経過はこうした青と赤の点を混ぜ合わせた「紫」の色を指すのかも知れず、それは予想は出来るが見る事は出来ず、何かと言う明確な判断が出来ないもの、「知」で言うなら当然になって忘れられた「知」、遥か遠くに存在する「知」、これが「智」と呼べるもののような気がする。

現実に行動するのは極めて難しいが、他者の失敗が詫びられる時は、それを自身が許し易い時と場を選び、夜に受けた怒りは朝日が昇るまで考える事を持ち越し、寒ければ暖を取って話し、南の戸を開け放って人と話をする。
南に窓がなければ、明るい日の光の下で人と話す・・・。

人間の行動は一度対立が始まると、更に対立を深めようとしてしまう傾向を持ち、常に対立を探しているものであり、これはどのような善男善女と言えど避けられない。
それゆえ一番大きな自然の事象を使ってこれを回避していく事もまた「智」の恩恵と言える。

「智」は自然の「事象」、「時」、そして「人」である。






智・第四節「知らないを知る」

今は余り使われなくなった、と言うより男女性差別、子供の人権等で言えなくなったのかも知れないが、昔の諺(ことわざ)で「女と袋は小さくても気を付けろ」と言う話が存在していた。

袋は小さくても意外と物が多く入る、それと同様に幼い女の子、少女だと侮ってはいけない、女は生まれた直後から女であり、気が付かないと思って油断していると、自身では見えない男の本性が見られているかも知れない、と言う意味だが、多くの人間は「自分は解っている」と思っているにも拘わらず、相手に至っては「どうしてこうも解らない奴が多いのだろう」となるのは何故か・・・。

それは本当は自分が解っていないのではないか、諺でも在る様に、自身が経験も年齢も上だから当然若い者、女の子よりは色んな事を知っていて、そこで後進を指導するような物言いになりがちだが、実は相手の若者や女の子の方が、それまでの環境に拠って自分より多くのことに気付いているかも知れない。

このような場合、年長者や上司の立場の者が良かれと思って為す行動、または良かれと思って語る言葉は相手に迷いや不安を与える事になる。

自身が目下と認識する人間に対する言葉は、それが善意の場合はどうしても本来の自身の現実よりは大きな話になり、そしてどこかで目をかけてやっていると言うような、心情的貸借感を持ってしまい、これに気付かれている事を知らないと、善意の言葉は限りなく「恐ろしく」聞こえてしまう事が分からなくなる。

若い年代に気を遣って話しかけても自身が期待したリアクションが無く、無表情でどうしたら良いか解らないと言うケースの大半は、自分の方が知らない事に気付いていないと言う場合が多い。

「智」や「知」、或いは「認識」と言うものの本質は「破綻」や「崩壊」に在って、如何に自分が壊れたか、その規模や回数に拠って自己が広がって行ったり、現実に対する許容性を増やして行く。
為に、年齢や経験を積んでいても破綻や崩壊を経験した事のない者の考え方は恐ろしく狭くなり、この恐ろしく狭い者が破綻や崩壊を知っている者に対して上から目線の話をすると、リアクションは極めて難しい事になる。

どう返事をして良いかが解らなくなるのであり、バブル崩壊を現実の生活面で体験した子供たちは、実はバブルを崩壊させた親よりも大きな崩壊や破綻を経験している為、親世代より遥かに大きな現実に対する許容性を持っている。
しかしバブル経済を実際に体現した親の思想は、「景気回復」、つまりはバブルや好況を基準にしている。

実は親の世代が子供の思想で、子供の世代がより実測的社会や現実を把握している逆転思想社会なので有り、相手が知らないと言う事を知るのは比較的簡単だが、相手が知っている事を知らない自分を悟る事は大変難しく、これを知らない者が為す事は常に現実社会の進捗を妨げ、世を儚くする。

「智」の基本は「畏れ」であり、これは生まれた直後から始まる自身以外の「他」に対する畏敬、自身より先に「他」を思う事に拠って自身を遂げる事を思わねばならない事を示している。

古来より「人を好きになるより、まず人から好かれる努力をしなさい」と言われるが、これは妥協する事を指しているのではなく、道理や理論より先に人の世では人の心を動かさないと何も始まらない為であり、たった一人の人間の心を動かせない者は決して多くの人の心を動かす事は出来ないが、逆にたった一人でも人間の心を動かせたなら、多くの人の心もきっと動かす事ができる。

共和制ローマの終身独裁官「Caesar」(カエサルまたはシーザー)も「自分が話をしたければ、まず相手の話を聞け」と言っているが、これは「人を好きになるより、好かれる努力をする」に全くの同義であり、自身より先に人とは、自身が相手の知っている事を知らない事に付いて、まず知る努力をする事から始めなければならないのではないか・・・。

智の最も深いところには「知らないと言う事を知る」、そんな言葉が潜んでいるように思う。



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Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

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「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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