「柿の実」

ご内儀が足を悪くされ、更に認知症を患われ、介護施設へ入所されのは一昨年の事だったが、子息子女のいない隣家の当主は以後一人暮らしで、野良猫だったグレーと白の一部縞模様の猫を可愛そうに思い飼っていた。

今年2月、その当主からかかって来た電話に隣家を訪ねた私は、かねてから膝を悪くしていた当主が完全に動けなくなっている事を知り、市の福祉事務所に救済を求めた。

それまでも困った事が有ったらいつでも言って欲しいとしていた私の元には、蛍光灯の交換や屋根の修理などの細々した依頼はあっても、「もうだめだ・・・」と言うような言葉は無かったのだが、その時の電話は「もうだめだ・・・」と言う一言だった。

こうして88歳の当主はご内儀と同じ介護施設に入所する事になり、隣家はついに空き家となってしまった。

玄関で不安そうにしながら、しかし警戒している猫に、私は「家に来るか?」と声をかけたのだが、やがて餌が無くなった隣家の猫は私のところで餌を食べるようになり、今では家の猫と2匹で夜は私の布団の上で寝ている。

おかしなもので、それまでいつも喧嘩ばかりしていた家の猫は、初めて家で餌を食べる事になった隣家の猫に、餌を食べるように勧めていたように見えた。

オス同士で決して仲良く出来ないはずのものだが、こうして見ていると猫にも「情」が有るのかも知れない事を思ったものだった。

先日、稲刈りも終わった事から当主の見舞いに施設を訪ねた私に、当主はまず猫はどうしているかを尋ね、元気にしている事を伝えると目を潤ませて頷いていたが、そろそろ柿が色付く頃だが食べてくれと言い、その際「そう言えば木の枝が納屋に届いていたが、あれは切ったか」と聞かれた私は、その話をすっかり忘れていた事に気が付いた。

隣家の柿の木の枝が家の納屋に寄りかかっていて、当主はいつも早く切れと言ってくれていたのだが、それをすっかり忘れていた私は家に帰ると早々、鋸を持って柿の木に上った。

「しまった、当主の言うように早く切っておけば良かった・・・」

夏以前であれば実が成っていないから枝は軽かったのだが、秋ともなれば枝の先に鈴なり状態で実が付いて、それが屋根に乗っている状態になっていた。

仕方なく梯子を持ってきて屋根に上り、そこから枝を切って50以上も実のなった柿の枝を下に落とした私は、屋根の上から何気なく隣家の玄関に目をやると、そこにはいつも昼になると暫くいなくなる隣家の猫が、なんだかしっかりした姿勢で座っていた。

「そうか・・・、今はお前が隣家の当主名代なんだな、お前、律儀な奴だったんだな・・・」
私は暫く屋根の上から猫の様子を見ていた。

枝に付いていた柿の実は勿体無いので全てもぎ取って、暫く置いて熟すのを待つ事にし納屋に運び、枝も細かく切って片付けた帰り際、毎年「好きなだけ取って食べてくれ」と言われながら、忙しさから一度も食べた事がなかった柿の実、その熟していそうな美しい黄色の実を選んでもぎ取り、カリッとかじってみた・・・。

「ああ、こんなに甘かったんだ・・・・」

思わず青い空を見上げた私の中から、嬉しいとも悲しいとも言いようが無い、何か熱いものがこみ上げた・・・・。



スポンサーサイト



特集・「2017年10月の衆議院総選挙の意義」

https://youtu.be/1hbQpjYtbps・・・・


特段の理由も無く安倍総理の個人的な理由に拠って解散された国会だが、小池百合子東京都知事のある種予測された蜂起に拠って、自由民主党は一時的に窮地に立たされたものの、結局都知事が結成した「希望の党」は都知事自らの「排除」の一言、また都知事の素行に鑑みるなら「現状より危険」を感じさせるものが垣間見える事、及び「希望の党」の参加者の愚かさ具合から自滅した。

.

民進党、前原代表の野党結集構想は小池知事のリベラル排除の一言で五里夢中となり、締め出された民進党衆議院議員達は「枝野幸男」に拠って、押し出された「ところてん」のようにして立ち上げられた「立憲民主党」に集結、ここに野党共闘構想は完全に分裂し、自由民主党は解散総選挙前の議席を完全に確保する大勝となった。

.

加計学園問題などを巡って説明責任を逃れる安倍総理、其の横柄かつ傲慢な在り様に国民は自由民主党に代わる政権、或いは自由民主党に拮抗する勢力の台頭を望んだが、国民の希望は「希望の党」に拠って打ち砕かれた形となった。

が、果たしてこの結果が悪いと言えるかどうかは疑問である。

.

太平洋戦争後、それ以前もそうだが野党や、例え拮抗している勢力が在ったとしても、与党政権の不祥事が野党の追及に拠ってこれが是正された事など一度も無い。

例え有ったとしても、それは与党政権との水面下での取引に拠って成立していたのであり、この点で言えば安倍総理に説明責任を果たさせる事が出来るのは「自由民主党」が一番効率的なのである。

.

1990年代に入って出現してきた日本新党の細川護煕内閣、其の後の民主党政権に鑑みるなら、非自民党政権は自民党の不祥事以上の国家混乱を引き起こしたのであり、僅かばかりの賄賂ぐらいでは済まされない影響を国民生活に及ぼした。

.

結果から言えば野党政権の誕生、その勢力の拮抗がもたらす国会や内閣の浄化作用より、自由民主党内部の派閥力学に拠って為される自浄作用の方が実例が多く、国民生活の混乱も少なかった訳である。

.

1988年のリクルート事件は巨額賄賂事件だが、これが発覚する発端は野党の調査でも新聞の取材でもない、端末の自由民主党系行政幹部、川崎市助役の放漫取引から始まったものであり、その後発生する東京佐川事件などは、「竹下登」総理誕生に絡んで田中角栄との仲介を頼んだ暴力団関係者の金銭事情の困窮に拠って発覚した。

.

自由民主党と言えど全ての人間が賢い訳では無く、端末へ行くに従っていい加減な事も増え、それが元で大事件が発覚、或いは派閥抗争は対野党ぐらいではない熾烈さが有り、こうした現実が野党の追及や野党政権より遥かに高い自浄作用を示す訳である。

.

またバブル経済崩壊に拠って方向性を失った日本社会は試行期間を迎え、ここではあらゆる可能性が躊躇なく試される社会傾向を生み、これが1993年の細川護煕内閣誕生に繋がり、やがて民主党政権にも繋がったが、これらの試行が失敗だった事を経験した日本国民は、やがて拮抗すれども政権は非自民党に取らせない状態になって行く。

.

この中で自由民主党は質的に節操を失って行くのだが、この原因は非自民政権の誕生に有り、例を言えば、それまで戦国時代の日本では日本人同士の内部抗争だったが江戸時代末期には黒船が来航し、こうした外の敵に対しては内部での小競り合いが控えられて事に当たる為、派閥力学が低下して行った経緯が在る。

.

つまり共通の敵の前では小さな敵は味方にならざるを得ない事になり、ここに自由民主党の危機は何としても防がねばならない状態が発生し、内部で多少人間性のないことが出てきても、それまでは許されなかったことが許されるようになって行き、その端末に安倍政権に代表されるような、言葉を蔑ろにする事の許容が蔓延して行った。

.

自由民主党の自浄作用は、短期間で幾度も発生した野党政権に対するトラウマから、派閥力学が低下して起こっているものであり、基本的に日本の政党政治には一貫した思想性など無く、それが在るように見えたとしても、選挙に当選する為の姿に過ぎなかった。

.

この意味では自由民主党の派閥も、野党と言うものの存在も大した差異は無く、政権与党には政権与党の派閥、大きくなった組織ゆえに発生する端末処理の不備、人材の劣化から来る情報管理の難しさ、と言った要素で不正や問題が陽の下に晒されるケースの方が、野党の追及より実質大きな効果を発揮する。

.

大躍進とされた立憲民主党だが、枝野代表が民主党政権下でやってきた言葉に対する冒涜は、安倍政権の師範クラスと言える在り様のものであり、やり方は小池百合子都知事と何ら変わるものではなかった。

50議席前後の最大野党など、1990年頃までの自由民主党、その弱小派閥程度のものでしかない。

.

今般「希望の党」の自滅、奇しくも投票日直前に日本を急襲した台風の有り様に鑑みるなら、私流に言うなら「天意」、別に言い方をするなら時代と言うもの、歴史と言うものの恐ろしさを感じざるを得ないものがあり、ひとえに「日本の萎縮」を思わざるを得ない。

.

豊かな時は優雅な暮らしが送れても、貧しくなってしまうと生活レベルは徐々に過去方向へと移行し、この時センスや感覚、システムなどは進化していても、現実は過去方向の現実へと帰って行く。

少子高齢化に拠る人口減少、経済の衰退、商品化して行く女性など、これらの現実は日本を過去へと押し戻していて、その結果が今回の自由民主党の圧勝と言う結果を生んだと言えるのではないだろうか。

.

単独過半数を維持した自由民主党、その一方で政権与党で在る公明党は議席を減らした。

この事は必ず自由民主党に驕りをもたらし、そこから協力関係に必ずヒビが入り、当選2回のお粗末若手議員が80名以上も残った上で安倍一強は容認された形と成った現実は、やがて色々な問題が自由民主党の愚かな部分から露呈され、一強に対する反発は必定、ここに派閥力学の復活がおとずれるのは間違いないだろう。

.

1990年までの政権与党が持つ自然自浄作用形態が復活してくる。

経済の沈降から報道の自由を放棄した日本のマスコミュニケーション、東芝の粉飾、三菱のデータ改ざん、日産の検査不正、神戸製鋼のデータ改ざんなどは、本来であればその会社は社会に対して全ての信を失って倒産すべき在り様ながら、国民生活を盾に取って民衆は責任追及を行わない。

.

無関心とも言える在り様で民衆が政府のみを追求するのは、いささか虫が良すぎる。

野党のみが正義を実現出来るのでは無く、正義は不正義の中にも存在し、人間のコミュニケーションは「利害関係の一致」と「対立」のみであり、外に敵がいなければ内から敵が現れる。

.

今回の衆議院選挙結果を見ていて、私は少なくとも自由民主党安倍政権に対する追求が、野党から自由民主党内部に移行した事を、野党勝利よりは大きく評価したい・・・。








信・第四節「約束」

https://youtu.be/h7z1aF2uL8o・・・・


何も無い部屋に一辺が1mの白くて正確な正方形の立方体が置かれ、そこに人間を入れて観察していると、彼、彼女は特に指示もせず頼みもしていないのに、必ず其の正方形が汚れていないか、或いはどこか欠けたところがないか、はたまた全体的に歪んではいないか、置かれた場所が部屋全体の中で違和感が無いかなどを探し始める。

.

だがこの逆で、何も無い部屋に人間を入れて置くと、彼や彼女はその中で壁板の節穴を三つほど繫げて、人間の顔に見えるかも知れないと思ったり、床のシミがどこかの国の地図に見えるかも知れないと思ったり、或いは何でここに机が無いのかと思ったりする。

.

この様に人間の思考方向は「何かを探す」方向へと常に動いているのだが、正方形ではそれが瑕疵(かし・まちがい)がないかと言う壊れている、或いは破壊が想定された探し方になり、片や何も無ければ形を見ようとする、「創る」と言う方向へ動いて行く。

つまり人間の思考方向は形が揃っていればそれを壊す方向へと動き、形が無ければそこに形を創る方向へと動いて行くのである。

.

「信」の発生原理は基本的に「約束」であり、「行動」は相手の錯誤を利用するなら「約束」になるが、この場合は相手が錯誤を錯誤しないような一貫性が必要になる。

相手が理解できる範囲での「行動」でなければ「信」の中に「疑」が発生する。

.

「信」もまた冒頭の正方形のようなもので、明確にそれを示すと、人はここから「偽」や「疑」を探し始め、「約束」の無い関係では相手側が何らかの関係を見ようとする。

行動から相手が「信」を探し始めるのであり、この事を考えるなら「信」を求める者の「信」は壊される方向へと動き、「信」を求めない、「信」を厭う(いとう)者は他者に拠って「信」が築かれようとする。

.

「信」には自己と他と言う二つの要素が存在するが、自己の信は他に拠って築かれ、他者の信は自己が築くものであり、しかもこれはいつでも「疑」に変換される可能性が在る為、基本的には独立しながら期間や環境、利害関係が心情に拠って共有されたと仮定された状態のものである。

.

言葉や行動は「約束」を生み、その約束は「信」に拠って縛られる。

「信」は約束が貫徹終了されるまでの「心の手形」なのであり、この手形に永遠は存在しない。

.

愛し合った二人の心は、実は瞬間ごとに変化しながら「信」が継続しているように見えるが、これは「信」が疑われない、疑うに資する行動や言語がないと言う、「信」の一番下の要素が守られているに過ぎない。

そしてやがて、言葉や行動で「信」を確かめる必要の無い距離感が形成されると、そこに「信」が必要とされない関係が現れる。

この状態が「信」の最上部と言える。

.

「信」を恐れるなら「約束」をしない事であり、人から「信」を得ようとしない事である。

黙々と自身が為せる事をやり、人から良く思われたいが為安易に約束をしない、簡単に言えば安易に言葉を使わない事であり、言葉とは基本的に「縛り」だからである。

「信」はそれを厭う者を好む・・・。

.







雨が降ってきた・・・。

この雨の中2km離れた投票場へ行き、地元名士やら市の職員、総勢10人ほどのいかつい顔をした立会人が並ぶ畳の間、有権者の姿は一人も見えない投票箱へたどり着かねばならぬのは辛い・・・。

穴の開いていない靴下を探しに行くのが既に面倒くさい・・・。

.



やれやれ・・・、権利とはとても辛いものだな・・・・(苦笑)







緊急特集「カテゴリー・4」

1991年9月27日、長崎県佐世保市に上陸した台風19号「mireile」(ミレーレ)、中心付近の気圧は925hp、最大風速50m/s、瞬間最大風速70m/s、航行不可能半径中の最大風速は88m/sだった。

「カテゴリー4」の台風とはこうした勢力を持った低気圧の事を言い、長崎県佐世保市上陸直後の中心気圧は940hp、最大風速は50m/s、瞬間最大風速も70m/sのままだったが、その後日本海沿岸を舐めるように進んだ19号は、佐渡島の西付近で中心気圧は975hpまで上昇したものと推測されたが、現実には日本海を通過した為、中心気圧は955と、僅かな気圧上昇でしかなかった。

九州から東北までの全て日本海側の地域は航行不可能半径に入り、各地の瞬間最大風速は50m/sから60m/sを記録する事になり、風速50m/s以上の風では、瞬間最大風速は65m/sとなり、竜巻の中心付近風速が70m/sから90m/sで有る事を考えるなら、中心気圧950hpで上陸した台風では、竜巻の状態が6時間、8時間続いたと同じである。

事実この19号台風では日本海側の各市町村で多くの屋根瓦が飛ばされ、道路は割れた瓦と看板で塞がれ、市街地では倒木によって道路と電線が寸断され、山林では樹齢100年と言う大木ですら、ゴジラとキングキドラの喧嘩でなぎ倒されたような情景になったのである。

また風速50n/sの風では瞬間ごとの風の強弱によって狭い地域に幾つもの小さな竜巻状の強風域が発生し、これらは屋根の瓦を円形状にむしり取り、ガラスは飛散してくる瓦礫飛散物に拠って簡単に割れてしまう。

更に鉄筋の入っていないブロック塀は全て風で倒壊し、大型看板は跡形も無く飛んで行き、建設現場の足場なども瓦解して付近住宅の被害に拍車をかける。

鉄骨のビルでも、風で飛んでくる物が当たれば強化ガラスでが割れ、いったん風が中に入ってしまうと、建設物は外部からの風圧には強度は有るが、内部から外に向かう圧力に対して窓などの強度は薄く、窓は内側から外側に向けて飛ばされて行く事になる。

現在日本に接近中の台風21号「LAN」は、この1991年の19号、ミレーレと同じ「カテゴリー4」の超大型台風であり、関東の東部、北関東、東北の太平洋沿岸は台風の中心が右側を通る「航行不可能半径」に入る可能性が高く、中心気圧は950hp前後の勢力で上陸する恐れが有り、台風が進行速度を上げた場合、例えば風速50m/sで80km/hの速度なら、航行不可能半径の中心付近では75m/sの風速を記録する事になる。

風速70m/sの風では殆どの木造建設物の屋根は飛ばされ、1989年までに作られたブロック塀の40%は倒壊、建設現場の足場は瓦解し、ビルの最上階に上がっているクレーンも倒壊、落下する可能性が有る。

関東以北の都市や市町村は水害の被害には何度も遭遇している為、これに対する警戒は万全のものが有るが、台風の上陸、「風」に対する経験は南西地域や四国東海よりは薄い。

台風には雨の警戒は当然必要だが、風の被害も想定しておかないと、被害が拡大する恐れが有る。

毎秒70mの風とは、既に竜巻なのである。

10月22日は衆議院総選挙と言う国民の有事だが、その翌日から翌々日は日本国土と民衆の命と資産に対する有事発生の恐れが有り、いつかの日、我々民衆はこの衆議院選挙にしてカテゴリー4の台風上陸が在った事を、むべからんと思う時が来るだろう・・・。


信・第三節「厂」(かん)

私事で恐縮だが、過去幾度か地方の政争に刊行物の形で参加をさせて頂いた事が有り、この多く場合に「編集人」、「編集長」をさせて頂く事になった私が開口一番に言う事は決まっていた。

「参加の自由」、つまりこうした政争では、立場上、生活の上、姻戚関係や仕事関係等に拠って自分の思想や理想、或いは遺恨などは簡単に変化せざるを得ない状況がおとずれる為、その時は裏切っても構わないと言ったのであり、政争よりも個人が為す事は女房子供にご飯を食べさせる事であり、会社を経営する者は従業員を食べさせる事を一義にしなければならない、としたものだった。

それゆえ「飯椀」(せいかつ)と政争では常に「飯椀」を優先するように、状況が裏切らねばならない時が来た、或いは裏切った方が得になるなら、いつでも躊躇無く裏切るように言ったのであり、ただし、せめてもの情けを頂けるなら、裏切るときは理由を言う必要はないが、裏切るとだけ一言云ってくれれば、例え後に敵に回っても「友」として信じる事ができる。

が、これを最後まで言えずに黙って裏切る者は、その後の「信」は失う、と言う話を必ず冒頭の挨拶で行った。

「信」の始まりである「友」の概念は目的の為に共に手を取り合って進む事だが、この関係はいつでも解消できる自由を持っていて、この状態だからこそ自由が関係を縛るのだが、それも一定の限度を超えれば縛りは効力を失い、そしてこれを咎めない関係を言う。

よく友達だから裏切らない、裏切ってはならないと言うが、それは厳密には「友」ではなく「利害関係」であり、「友」と言う概念は裏切る事も許容出来る関係、それを理解できる関係をして言うのであり、この事が相互の裏切りを抑制する力と言える。

これを「心」や「友」と言う関係で縛って制限するなら、友や心は取引の条件に堕ちてしまうのであり、これは何を意味するかと言えば「又」(自分)が「厂」(かん・覆い)に拠って半分囲まれた状態になるのであり、四方の道の内、二方向が制限されて方向を半強制された状態で、選ぶのは自由だと言う事になる。

ここに敵か味方かと言う二者択一と半固定が強いられる。
「友」と言う関係式が「反」「敵」を生むのであり、人間の生きるは敵か味方かと言う単純なものには有らずして、東西南北の道が絡み合ってのものを、「友」に拠って敵と味方に分離する事は現実を引き裂く事になる。

自由で有る事、いつでも引き返す事ができ、それが許されるからこそ「信」が発生するのであり、これを関係で縛るは「厂」(かん)、いつか個人の事情が関係を超えるときが出てきた時には「反乱」、裏切りとなってしまう事を憶えて置くと良いだろう。

簡単に言えば「裏切り」はその裏切られた者の「友」、「信」の概念の狭さに拠って生じるものだと言う事である。

さて冒頭の話だが、こうして私が「裏切る事の自由」を挨拶にした時、「そうですね、自分もそうなるかも知れません」と頷いた者は大体最後まで裏切らないが、涙ながらに「自分は絶対裏切らない」と言った者は、必ずどこかで裏切る時がやってくる、いや既に裏切っているかも知れない・・・・(笑)






信・第二節「友と反」

人類のごく初期段階の社会は「原始共産主義」と考える傾向が有るが、これは現在の思想をして過去を考えるからで、およそ生物の初期発生段階の社会は「力」と言う現実的結果を権威とするものであり、この意味では「平等」と言う本質は被支配層でも存在しない。

「平等」の本質は「比較」であり、この比較は予めの「格差」に拠ってでしか出てこないが、地球に措ける全ての原理原則は「格差」であり、一方の社会は「共有」を前提とする。

しかし個体である人間が「他」と全ての時と場で情報や目的を同じにする事は出来ず、為に人間の共有や共生は期間と場に拠る定めと「密度」を持ち、例えるなら1から6までの事情の人間がいたとして、「1」と「3」と「5」は奇数と言う持って生まれた「場」の環境が近いが、「2」と「4」、「6」は偶数と言う奇数とは違った出自を持ち、更に「2」「4」に対して「6」は「3」とも関連性が在る。

ここで1から6までが共有できる素質は「1」のみであり、社会はこの「1」を基盤にして組み立てられるが、「1」と「3」と「5」は仲がよく、「2」と「4」は故郷が同じで「3」と「6」は親戚と言う具合に、個体は「1」と言う社会の中で、与えられた環境や時の事情に拠って共有できるもの、共有できる時期が在る反面、これらを共有できない時期や「場」も持つ。

「信」の根底は「友」とされるが、友と言う漢字は「又」が二つ並んだ状態で有り、意味としては二つ並んだ「手」であり、同じ方向へ向かう事、手に手を取り合って進む事をさしているが、同じ「又」に「厂」(かん)が被されば「反」(はん)になる。

つまり「友」と「反」は、「又」(手)に表現される「個人」が「他」と現在に措いてどう言う関係に在るかを示しているのであり、友と反のどちらに優劣も善悪も偏ってはいないのだが、これを固定しようと考えた時に「信」が発生し、「反」で「又」を固定するものは「厂」(かん)、覆いである。

自分の手が、もう一本の「他」と言う「手」に拠って自発的固定されたものが「友」であり、自分の手が周囲の事情や環境に拠って半囲い、或いは薄い布で覆われてしまった状態を「反」と言うのであり、ここでの差は自分の意思で選択したか、或いは布で覆われたものを錯誤して選択した、若しくは仕方なくそれを選択したかと言う差であり、これに拠って得られる結果の善悪は、この時点で決定されていない。

古い時代には、おそらく今ほど「友」と「反」の優劣が傾いてはいなかっただろうし、現実には今でも「友」と「反」(敵)に対する労力は変わっていないかも知れない。
「信」は元々「友」の一部でしかなかったかも知れず、これを大きくしたのは「安定」を求めていく社会と言うものだった。

それゆえ変化となってしまう「反」を嫌い、良好な関係である「友」に傾いていくのは必然だったのだが、少数の支配者体制から春秋戦国と言う多数支配者割拠の時代を経て、支配者同士で共有できるものが増えて行き、やがて支配者同士の状況共有、「友」の概念が発生してくると、ここにそれを担保するものとして「信」が重要視されるようになった。

事の始まりは和睦の概念である。

ここに「信」は「友」から独立して「安定」を支える思想となった。
が、この過程は五常の「仁」「義」「礼」「智」「信」の全てに措いて言えるが、確かに安定して良好な関係は「羊」「美」、揃っていて美しいもの「善」と言えるものの、厳密には中間過程が美しければ結果も美しいと言う前提に拠って成り立っている。

世の中には「結果よければ全て良し」は有っても、「途中良ければ結果良し」と言う言葉は存在できない。
五常の徳は、ひたすら社会の安定を目的とするもので、ここで目指される結果は「予想」であり、現実がこれを反映するか否かは決まっていない。

「友」と「反」は、その時のその場の状態であり、基本的には結果の優劣では無い。
「信」とは安定を求める社会が「反」を嫌う事から始まっていて、「反」と表裏一体のものだと言う事であり、時と場、状況の中に存在し、決して未来永劫のものではない。

むしろ期限の定めが在る「信」こそ、本来の「信」に近いと言えるかも知れない。



第六章・信・第一節「罪の始まり」

日本語で最終発音が「あ」で終わる文字は極めて少ないが、「ん」を最終発音とする文字は一番多いかも知れない。

「あ」は感嘆詞であり、主に言語の発音であり、為に英語やラテン語では最終発音に使われたが、漢字を起源とする言語形態、特に日本では「あ」は開始発音、「ん」が停止、終止発音となっている事からも、「ん」の最終発音が多いのである。

そしてこの「ん」は中国でも「ち」「し」と並ぶ汎用発音であり、「ん」は自己決定終結音でも有る。
自己決定終結音とは「自分が終わりを決めた」と言う事であり、「信」は「真」や「震」と時代を違えながらも同義であり、物事の本質や人間の心には底と深さ、或いは上と高さが在り際限がない。

それゆえ人間は完全な底と完全な上には行き着くことが出来ない。
ここを自分の限度とした点を終結とし、その「場」を「ん」とする、そう言う概念が「ん」には潜んでいる。

「信」は「人」に「言」だが、言の古い形は「辛」であり、中間過程では「辛」の下「口」を付けて「言」と同義にしたものも在り、「辛」の本質的意味は「罪」である。

「信」の別表現文字としては「言」の右に「心」を配した漢字も存在するが、押し並べて「信」は対等関係か立場は違っても部分的対等条件が存在し、為に王政や帝政に措ける上下区分の明確化が求められる場合、統制を図る概念からは許容し難い部分が存在し、こうした経緯から古い時代には人間の徳の中には入れられなかった。

「信」が徳の中に入ってくるのは春秋戦国時代の末期頃であり、つまり世の中に下克上が蔓延し、為政者の心が虚ろい易い時に「信」が求められたと言う事であり、「信」は「友」を始まりとして、この関係が儒教世界で拡大して行ったものである。

「信」は「願い」と「結果」の真ん中に在り、人と人の関係に措ける相互の願いであり、本来は形を持たないものだが、一度形を持ち出すと形への依存が強くなり、為に人間社会の多くの「信」は形を必要とするようになった。

「あれをしてくれたから信じる」、「ああ言ったから信じる」は本来の「信」ではなく、これは奇しくも罪の意識と非常によく似ている。
法と罰が在るから罪を恐れるのでは無く、それを罪と自身が思う事に拠って罪が理解できるのであり、「信」が在って「人」が在るのではなく、人が在って「信」が在る。
それゆえ「信」で人を計るのではなく、「人」と「信」を築くのであり、「信」は代償ではない。

「信」の「言」、その古い様式は「辛」、「幸福」の「幸」と「辛」の文字はとても近い。
「幸」の始まりは板の拘束具であり、「辛」は「罪」であり、この「辛」が「言」になって行った事はとても趣が深い。

古い概念で考えるなら「罪」に「人」で「信」と言う事になるが、言葉とは「罪」に「口」、つまり言葉は罪の始まりなのだろうか・・・。





智・第十節「何も示されない」

ここにあらゆる未来を見通せる者がいたとして、彼が私に付いて、明日の午後3時14分に自動車にはねられて死ぬ事を予言したとしようか・・・・。

死にたくない私は明日の午後、付近で一番頑丈な市役所の中央ロビーの真ん中に陣取り、絶対外に出なかったとしよう・・。

当然予言は外れる事になるが、では絶対的に見えた未来はどこに行ったのだろうか、それに明日の午後3時14分に死ぬと言う事は、反対側から考えるならそれまでは絶対に死なない事になるが、高さ70mの崖から飛び降りても、3時14分以前なら絶対死なないのだろうか・・・。

神仏は人間のする事に一切手出しが出来ない理由がここに存在する。
あらゆる未来を創り知っている者は、それに干渉すれば自身で自身を侵す事になる。
それゆえ、一切の事を知っていても、あらゆる現実としてそれが発現しても何も出来ないのであり、「智」の在り様もこれに同じである。

何もしない、何もできない事が「智」なのであり、昇る陽の光が影を切り取るように光で明白にして行くような、明確な結果や効果、助けを行わない。
このように「何も行わない」「何も示さない」事が神仏の可能性を示しているのであり、神仏と人間を唯一繫げている根拠なのである。

もっと簡単な例で言うなら、会社に入社直後の者の言動は責任がない分自由だが、これが社長や専務になって行くと、言える事は少なくなり勿論明白なえこひいきも出来なくなる。
知識も同じで、より多くの事を知るに付け人間が孤独であり、言葉は要を為さず、自身が無力で有る事を知るようになる。

人が救われるのは、その本人自らの力に拠ってでしか為し得ない事を知り、ここで言葉や行動で人が助かるなどと言う事を思う自身が在るなら、これを恥じ、そも自身がそれを為した事によって人の未来に責任も負えない分際で、何と言う事をするのか・・・。

こうした事を考えるに、知恵は出現する現実に即応するものだが、「智の光明」と言うものは、人に関わるをしない事に拠ってしか関わることが出来ないものであり、しかし人間がここに思いを無くしてはならず、完全に世俗を離れたものであってはならない。

神仏と人間を繫ぐものが「何もしない」「何も示されない」事を根拠とするに同じように、偶然と必然が同じでなければ人はそれを感じられない。

あたかもそれは今旅立つ者に対し、惜別の悲しみと未来の希望が一緒になった思いか、或いは困窮し苦しむ者を慈しむ涙と、自身がそれに何もしてやれない事を悔やむ涙が同じものとなったようなものかも知れない。

もっと言うなら秋の青空も、道端に転がる石の礫(つぶて)にも、風に揺れる草木の動きにも「智の光明」は存在し、それを知っても感じても、ではそれで何が出来るかと言えば何も出来ない、何もしてはならないもののような気がする・・・・。

そして「智」は「0」ではなく、限りなく「0」に近いものでありながら、決して「0」ではないだろう事を、「智」と「悟り」は決して同じものではない事を、私は思う・・・。




智・第九節「対立と言う黎明」

王制、立憲君主制では「天意」、近代以降の国家では「民主主義」をその為政が成立する建前上の根拠とするが、外交でこれを操る場合、その国家の方針を動かすには民衆を動かす必要、或いは集中した権力には「人の数」を動かす必要が有り、ここで言う処の民衆や人の数とは思想や正義を差すのではなく、「気分」又は「感情」を操る事を意味する。

権力の根拠が民衆に傾き始めた頃から伝統的に使われる外交手段の一つとして「アルベール・アノトーの手法」と言うものが存在する。

1800年代フランスの外務卿、「アルベール・ド・ブロイ」「ガブリエル・アノトー」が好んで使った外交上の手法だった事から「アルベール・アノトー」の手法と呼ばれるが、民衆を操作して外交目標を達成する手法が、フランス革命の発生地で好んで使われた事は実に感慨深い。

方法は簡単であり、まず目標とする案件の条件を極端にして一つに絞り、それを大言壮語して発表した後、一切発言もしなければ質問にも答えずに置くと、民衆や政治組織内に憶測が発生し、やがてそれは議論を二分するようになって混乱し、賛否を巡って意見の対立が発生する。

そして対立が深まってどうしようもなくなった頃、その政策を強行に推し進める。

意見の対立が深まった頃には、それに拠って発生した混乱を収拾して欲しいと言う願望が発生し、既にこの頃には政策などどちらでも良い、何某かの先を求める民衆の感情が大きくなっている事から、ここに権力で在る政府が方針を強めると、議論が半々の上に権力が乗った方に簡単に傾いて行くのである。

この手法は主に内政に措いて有効だが、派生手法としては日露戦争時にロシア帝国外務卿のウィッテが使った、アメリカのマスコミと民衆操作なども系列手法であり、日本の最近では小泉純一郎元総理が強行した郵政民営化政策、これは「アルベール・アノトー」を基本通りに使ったものと言える。

我々は一般的に「対立」を避けるべきもの、悪いものと考えがちだが、対立は友好と同等のコミュニケーション手段であり、友好関係はその関係の外に大きな対立が在ると強化されるが、友好と言うコミュニケーションは個々の事情が抑制される。
為に友好はやがて対立に向かうものであり、対立と言う関係では個々の事情は拡大されて表現される為、問題が明確化し易い。

人間社会のコミュニケーションは50%対50%のものであり、味方と敵は半々のものだ。
それゆえ賛否が半々に分かれ、対立した瞬間からその案件は社会的に咀嚼(そしゃく)され始めた事を意味し、この咀嚼の彼方に「智」が存在する。

逆に友好と言う関係を維持しようとして個々の事情が制限されている状態では咀嚼は行われず、妥協或いは問題が先送りされ、それはいつか決定的な破綻をもたらす。
ヨーロッパ共同体「EU」などは思想的には「智」に見えながら、実態は内部から友好関係を守る為に対立が発生している。

「智」は思想的に見えるものではなく、大きなもののみを差すのではない。

道端に転がる石ころからでも始まるものであり、個人と個人の関係は二人から始まり、ここに友好と対立の二つが並んでいるなら、その集合で有る社会もまた友好と対立が均等に並んだ状態を平均とし、この平均こそが「智」の入り口となり、やがてそれが「時の篩」(ときのふるい)に拠って全員に認知される事をして「智」と呼ぶ事が出来るのではないだろうか・・・。

ちなみに現在進行中の衆議院選挙に措ける、「希望の党」の「小池百合子」代表も小泉純一郎元総理を真似て「アルベール・アノトー」を使おうとした形跡が見えるものの、失敗した。

原因は簡単である。

アルベール・アノトーの手法は問題を提起する発信元が「個」か、若しくは統制された少数でなければコントロールできないからで、多くの仲間と共同では情報のコントロール、「沈黙」が維持できない事、更には問題提起が集約された一つではない為で有り、あれもこれも提起しては「賛否の複合」「賛否の拡散」が発生して「アルベール・アノトー」の効果は消失するからである。





智・第八節「信の前」

心を寄せていた彼氏から誕生日に綺麗な薔薇の花束を貰った。

しかし程なく彼氏に自分以外の女がいる事が発覚、悔し涙の視線の先には一番立派な花瓶に入れられた彼氏からの薔薇が、これまた自分の愚かさをあざ笑うかのように美しく赤い・・・。

彼女は思わず薔薇の花を花瓶から抜き取ると、思いっきりそれを床に叩き付けたが、「智」は床に飛び散った赤い薔薇の花弁に同じかも知れない。

人間は金や物で人の心を買うを卑しい事、醜い事と考えがちだが、現実には心を形にする時言葉はこれを尽くせば尽くす程軽くなり、ならば金品に拠って言葉を減らし「礼」を現そうとし、この時の金品は「心」に置き換えられるものとされる。

しかし金品には初めから意思も無ければ「心」も無く、人間の関係は強固な様に見えながら、これを視覚的に現すなら左右に在る2枚の木の葉のようなものでしかなく、ここに関係を持たせているのが「言葉」や「態度」「出自」「金品」であり、これらは2枚の木の葉に渡された一本のストローくらいのものであり、木の葉はやがて朽ち果て、気まぐれなそよ風に拠ってすら、簡単にストローもろとも吹き飛ばされる。

本来から言えば愛している事は金品や言葉では置き換えられない。
肉親の情を言葉で表す事もできなければ、ましてや金や品物で表現するなど以っての他だが、形が無ければ理解する事が出来ない人間は「形」をして心を見てしまう。

そも薔薇の花束くらいの事で確かめられる愛など、私からすれば愛とは思えないが、これは他に対する比較を求めているに過ぎない。

全く関係の無い女には薔薇の花束は届かない。
彼に取って私は一般社会の女とは特別である事が示されたと考えるのだが、本来であればそんな事が無くても信じる事を愛と言うのであり、全ての状況に措いて人間はこうして心を金品に換算しながら、しかも金品を卑しいものと思ってしまう。

「五常」の中で「信」の前に「智」が在るのは飾りではない。
「仁「義」「礼」「智」「信」は互いに関係し合いながら、その中で微弱な重要性の差が示されたものだが、順列から言えば封建制に重要なものが上位に在り、個人に取って重要なものが後ろに並んでいる。

それからすると個人に取って一番大切なものは「信」なのだが、「智」はこれと社会に関連性をもたらす役割を負い、ここでは究極的には何も無くても「信」で在ることが望まれる。
しかしこれでは仏教の悟り、無意識の意識になってしまい、理想では有るが到底人間には追い付けない。

これを限りなく「無」に近づけるのが「智」であり、言動や物、金で人の心を求め、言葉や金品で人の心を計る事を出来る限り減らす努力こそが「智」の道であり、しかし完全に「無」であってはならない事が「信」の前に「智」が置かれている理由ではないかと、そう私は考えている。

打算であっても売名行為であっても、それを受けた者に取っては同じである。
ここに言葉や金品の為せる立場と言うものを理解し、それを心と結びつけずに感謝し、また人の心は瞬間のものである事を知るなら、為された行為の独立性を思わねばならず、この独立性を持った行為や事象の両端に人間の心が右往左往している姿が在る。

あらゆる人間の行為は終った瞬間から独立して行くものであり、これを「無常」と呼び、後に前に結びつけるところから悩みが始まる。
しかし五常の「仁」「義」「礼」「智」「信」は「関連性」を持たせることを告げていて、尚且つ「無常」を基本にせよとも言っているのであり、これは何を指すのかと言えば、「無」に近くても決して「無」で有ってはならない現実を表している。

彼氏から誕生日に薔薇の花を貰った嬉しさ、花の美しさ、彼氏の裏切りは「彼女」と言う「あなた」がいなければ、それぞれがバラバラのものでありながら、しかし全てあなたがいなければ出てこなかった。

「智」は結びついた自身の心を、どれだけバラバラの状態に考えられるか、それを考えられる自分になるかと言う事でも有るが、自分を「0」、無きものとしてはならないと言う事なのかも知れない。

床に飛び取った薔薇の花弁を見て思う事、悔しさの中に少しだけ感じる花の事、これもまた「智」の光明と言うべきもの・・・・。




プロフィール

old passion

Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

[このサイトは以下の分科通信欄の機能を包括しています]
「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

最新トラックバック

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR

月別アーカイブ