2017/11/30
信・第九節「連と環」
数珠(じゅず)は実に良くできた「形」だと思う・・・。一つずつ「個」の球と言う独立が為された上で、それが連続しながら最終的には「環」が形成され、この「環」が千変万化する。
とても位相幾何学的な概念と言える。
「信」はその状況だけを考えるなら個々の事案は独立しているが、その一つ々々が全体に影響を及ぼし、全体が一つの「信」に反映される「連性」状態に在り、これは「過去」「現在」「未来」に措ける「信」の整合性に拠って担保される。
「連」の概念は深く、前後とその中心である「今」の関係に措いて、「今」とその前後は略(ほぼ)同じでありながら、しかし完全に一致している事を条件にしていない。
この意味では数珠のように完全に同じものが並んでいる状態のみを概念しない。
むしろ「前後」と言う「今」を基点にした直近では略同じだが、「連」の端では「今」より大きく変化している事を予想させるものでありながら、全体的には調和が取れている状態を概念させ、独立した「個」と同じ空間を占める事ができない為、連なった「信」の一つ々々はそれぞれが異なった環境に存在し、この異なった環境と整合性を築く過程で「信」は少しずつ変質する。
「信」の広がりは「点」の連続と言う線状的延びと、その点が延びて行った周囲の環境への溶融と言う「平面的」な性質を持ち、視覚的に表現するなら画用紙に描かれた1本の線であり、この両端は鉛筆の色が薄く、端末には画用紙の白色だが、線の中心付近は鉛筆の色が濃い状態と考えても良いだろう。
つまり「信」は「今」それに関わった者、これは本人、他者を問わず「今」それを考えた者に拠って過去の「信」も未来の「信」も影響を受けると言う事であり、過ぎ去った過去は確定したものと考えがちだが、実は過去も未来も「今」が創っている。
10年も前の話になるが、私の知人が転職して宅急便の配送の仕事を始めた時、中々趣深い事を言っていた。
それまでいつも利用していた小さなスーパーマーケットの奥さんは、いつも笑顔で平身低頭、支払いをする時には「お仕事大変ですね」と声をかけてくれ、彼はとても良い人だなと思っていた。
しかし転職して配達物を届けに行った時、その奥さんは彼の顔を見て認識しながら、「ああ、そこに置いといて」と言って奥に入って行き、また言葉遣いもとてもぞんざいなものだった事から彼はとても落胆していた。
彼がそれまで描いていたスーパーの奥さんに対する「信」は見事に砕け散った。
「信」など初めから無かったのであり、彼は自身の理想をスーパーの奥さんに投影していたに過ぎなかったのだが、「信」の本質など所詮はこうしたものであり、スーパーの奥さんのまずさは「心」や「感情」に従った為であり、これが「形」に従っているなら、相手の立場に拠って対応が変化する事は無かっただろう。
職業の貴賎は無く、商いをする者は世の中全員が「客」であると言う社会的原則が感情に優先していれば、以後も客となる者を失わずに済んだだろうし、彼の「信」は過去も未来も変わらなかっただろうが、たまたま感情的に油断してしまったスーパーの奥さんの「信」は、たった1回の言葉や行動で過去も未来も変えてしまった。
「信」の連性とはこうした事であり、整合性とは正誤を指しているのではなく、前後の関係に措ける落差の少ない事を言う。
地位や貧富と言う状況に対処する為には「適合」が必要だが、適合する事と流される事は異なる。
「信」に措ける感情と形の関係は、形に拠って「感情」を豊かにする事であり、前出のスーパーの奥さんの話で言うなら彼女の在り様は「普通」であり、自身が「客」である為に受けられていた恩恵は、立場が逆転すれば受けられない事は当然であり、「信」は「連」である事が望まれるが、そうでないからと言って責められるべきものでは無い。
こうした場合、相手に「信」が無かった事を思うのではなく、自身が「信」に甘えていた事を思い、そして自らは「信」の「連」に努める潔さが「連」を「環」とする道に繋がるものと私は思っている。