2017/12/26
仁・第五節「城を攻めるに・・・」
戦争をするに当たって、その何を得て勝利とするかは実はとても難しい・・・。古代の東洋思想では国家を「稷」(しょく)、つまりは食料とそれを生産する人民に求め、食料生産に必要な領土と並列した概念が存在したが、後に人は移動が可能な事から、次第に国家の概念が「領土」へと重きが置かれて行くようになる。
虚実、陰陽は似たような概念だが、現実には陰陽の思想の方が記録に残る範囲では古く、虚実の本来は数学的な概念であり、これが陰陽思想に融合して行った歴史的背景が有る。
10個のみかんが有って、これを通りがかりの者に1個ずつ持って行って貰うとしたら、1時間前には10個有ったみかんは、今は4個しか残っていなかったとしても、1時間前の事を考えるなら10個のみかんを考える事ができ、さらに同じペースで行けば、その先の1時間でみかんが1個も残っていない事を予想する事ができる。
ここでは「今」の瞬間をみるなら「実」は4個のみかんで、10個のみかんや0になったみかんは「虚」だが、1時間前には10個のみかんが「実」だった。
同様に1時間後にはみかんは0の状態が「実」になり、4個のみかんが「虚」となる。
つまり虚実の関係は「変化」だと言う事である。
こうした虚実の関係に結果と、その結果がさらにどう変化して行くかを考えるなら、そこには正邪、成功失敗、善悪などが無くなり、唯物事が流れていく姿だけが残る。
これが陰陽の基本であり、「周易」から「孫子」、「楚王陣法書」へと流れていく事になる。
「心」をして「形」を為し、「形」をして「心」を為す。
これは心を「虚」に「形」を「実」に入れ替えても全く同じ事であり、ここで言うところの「虚実」は前出の「みかんの数」に同じ事である。
すなわち考える事や予想できる事は「虚」であり、現実の「今」は実になるが、人心の過去が誤りであったと思わせ、未来に絶望を与えれば「実」も壊れ、今の4個のみかんが突然一挙に奪われる、「実」が壊されれば「虚」も壊れる。
城と言う象徴が無い時代の戦争は「略奪」と皆殺しだったが、実はこの段階は戦争とは呼べない。
唯の無秩序であり「粗野」であり、小規模な駆逐と略奪が永遠に限りなく続けば、自身一人しか残らず全員がいなくなる。
資本主義が持つ「虚」の予想に同じであり、やがて城の概念が発生してくると、物理的に城を陥落させる事よりも、その城を為す「人」を陥す事が考えられるようになって行く。
城を攻めるには「人」を攻め、人を攻める為の一つの方法が城壁を壊し、城を陥落させる事となって行ったのであり、こうした流れは相対的に人の価値を上昇させ、「仁」もまた拡大していく事になるが、「仁」の基本は「人を攻めるに・・・」に同じである。
人の持つ「虚」はその中に「実」を作り、この虚の中の実は守る事に拠って価値を高めるが、その価値の高まりはまた「攻めるに値する」事にもなって行く。
「其の守り大きければ攻めを呼び、攻めの大きは守りを固くさせる」
「仁」もまたこうして衰退と拡大を繰り返してきたが、「仁」の根底は「否定形等価思想」であり、それは良い事をすればいつかは自分に返ってくる、或いは「其れに仁無くば・・・」、「其の○○に仁無くば・・・」と言う表現の仕方を見れば解るように、期待してはならないが漠然と何かを期待している形である。
「仁」は「徳」の一歩手前、徳に通じるものだが、その「徳」には対価が潜んでいる。
目的や希望が潜んでいて、これらが在るゆえに徳が求められる。
「人類の平和」でも「みなが仲良く」でも「美味しいものが食べたい」でも何でも良い、そんな希望が潜んでいるから徳なのであり、これが無い者の「徳」や「仁」は虚中の虚としかならない・・・。
多分この記事が今年最後の投稿となるかと思います。
この1年間、記事を読んで頂きまして、本当に有難うございました。
皆様方にとって、新年が良い一年となる事を希望致します。
有難うございました。