仁・第五節「城を攻めるに・・・」

戦争をするに当たって、その何を得て勝利とするかは実はとても難しい・・・。

古代の東洋思想では国家を「稷」(しょく)、つまりは食料とそれを生産する人民に求め、食料生産に必要な領土と並列した概念が存在したが、後に人は移動が可能な事から、次第に国家の概念が「領土」へと重きが置かれて行くようになる。

虚実、陰陽は似たような概念だが、現実には陰陽の思想の方が記録に残る範囲では古く、虚実の本来は数学的な概念であり、これが陰陽思想に融合して行った歴史的背景が有る。

10個のみかんが有って、これを通りがかりの者に1個ずつ持って行って貰うとしたら、1時間前には10個有ったみかんは、今は4個しか残っていなかったとしても、1時間前の事を考えるなら10個のみかんを考える事ができ、さらに同じペースで行けば、その先の1時間でみかんが1個も残っていない事を予想する事ができる。

ここでは「今」の瞬間をみるなら「実」は4個のみかんで、10個のみかんや0になったみかんは「虚」だが、1時間前には10個のみかんが「実」だった。
同様に1時間後にはみかんは0の状態が「実」になり、4個のみかんが「虚」となる。
つまり虚実の関係は「変化」だと言う事である。

こうした虚実の関係に結果と、その結果がさらにどう変化して行くかを考えるなら、そこには正邪、成功失敗、善悪などが無くなり、唯物事が流れていく姿だけが残る。
これが陰陽の基本であり、「周易」から「孫子」、「楚王陣法書」へと流れていく事になる。

「心」をして「形」を為し、「形」をして「心」を為す。
これは心を「虚」に「形」を「実」に入れ替えても全く同じ事であり、ここで言うところの「虚実」は前出の「みかんの数」に同じ事である。

すなわち考える事や予想できる事は「虚」であり、現実の「今」は実になるが、人心の過去が誤りであったと思わせ、未来に絶望を与えれば「実」も壊れ、今の4個のみかんが突然一挙に奪われる、「実」が壊されれば「虚」も壊れる。

城と言う象徴が無い時代の戦争は「略奪」と皆殺しだったが、実はこの段階は戦争とは呼べない。
唯の無秩序であり「粗野」であり、小規模な駆逐と略奪が永遠に限りなく続けば、自身一人しか残らず全員がいなくなる。

資本主義が持つ「虚」の予想に同じであり、やがて城の概念が発生してくると、物理的に城を陥落させる事よりも、その城を為す「人」を陥す事が考えられるようになって行く。

城を攻めるには「人」を攻め、人を攻める為の一つの方法が城壁を壊し、城を陥落させる事となって行ったのであり、こうした流れは相対的に人の価値を上昇させ、「仁」もまた拡大していく事になるが、「仁」の基本は「人を攻めるに・・・」に同じである。

人の持つ「虚」はその中に「実」を作り、この虚の中の実は守る事に拠って価値を高めるが、その価値の高まりはまた「攻めるに値する」事にもなって行く。
「其の守り大きければ攻めを呼び、攻めの大きは守りを固くさせる」

「仁」もまたこうして衰退と拡大を繰り返してきたが、「仁」の根底は「否定形等価思想」であり、それは良い事をすればいつかは自分に返ってくる、或いは「其れに仁無くば・・・」、「其の○○に仁無くば・・・」と言う表現の仕方を見れば解るように、期待してはならないが漠然と何かを期待している形である。

「仁」は「徳」の一歩手前、徳に通じるものだが、その「徳」には対価が潜んでいる。
目的や希望が潜んでいて、これらが在るゆえに徳が求められる。

「人類の平和」でも「みなが仲良く」でも「美味しいものが食べたい」でも何でも良い、そんな希望が潜んでいるから徳なのであり、これが無い者の「徳」や「仁」は虚中の虚としかならない・・・。


多分この記事が今年最後の投稿となるかと思います。
この1年間、記事を読んで頂きまして、本当に有難うございました。
皆様方にとって、新年が良い一年となる事を希望致します。
有難うございました。





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仁・第四節「普通」

サイコロを振って1の目が出る確率は6分の1だが、6回振ったら必ず1が1回出るとは限らず、場合に拠っては6回の内3回1が出るときも有れば、12回振っても1回も出ない時もある。

また人に拠っては6が出やすい者、2が出易い者と言う具合で数字は偏りがでるが、その多くは複数意識の単数認識である。
原理は簡単だ・・・。

自分の好きな数字と言うものは、まず最初に偶数であるか奇数であるかの大別が為され、次に関連数字を選んでしまう。
2を選択した者は5も選び易く、3を選択した者は6も選択し易いが、1と2と言う具合に隣接する数字を選ぶ事は少なく、1を選んだ者は4を選ぶ確率が高く、次に3を選び易い。

つまり1つの数字に対して近くも無く遠くも無い、何かしらの関連性が有る数字が意識されていて、この場合はサイコロで言うなら1から6の間に実際の選択と、仮想選択の2つの数字が意識され、そのどちらかが出れば「当たった」と認識してしまうのである。

例えば1を選択していて、仮想選択が4の場合、1が出なくて外れても、他の2や6が出るより「外れた」と言う意識が小さいのであり、この場合はサイコロの目の確率は6分の1ではなく、3分の1な訳であり、これが繰り返されると、「ああ、この数字は自分と縁が有る」と感じてしまうのである。

そしてさらに、この宇宙に平均密度は存在しない。

サイコロを6回振ってそれぞれの目が1回ずつ「綺麗」にでる現実はとても低く、ましてや1から順に6までの目が6回振って出る確率などは、確率は存在するが現実にはまず起こらない。

実は「仁」と言う「綺麗さ」はとても少ない確率の「平均値」と同等の確率の偏りを見ているのかも知れない。

そもそも個人が数字に対する偏りを始めるきっかけが何で有ったかを考えるなら、それは宇宙の密度の不均衡が始まりだったかも知れず、たまさか2が多く出る偶然が続けば、これに拠って個人の数字の偏りが2に始まる可能性が有り、その意味では数字の偏りは自身の意識の偏りと、宇宙密度の偏りが重なって構成されているのかも知れない。

つまりどこからどこまでが必然で、どこからが偶然かは解らないと言う事になる。

一方、今恋人と別れる事になった女性が人生に絶望し、橋の欄干から飛び降りようとするを身を挺して救ったなら、人々はこれを賞賛するだろう。
だが、反対を考えるならこうした場面で、知らぬ顔をして通り過ぎる事のできる人間もまた極めて少ない。

仁・第三節でも述べたように、犬がコロッケを食べたか、或いは食べなかったかで「仁」と「普通」に分離して行ったが、自身が犬だったとしたらコロッケを食べたかどうかを考えるなら、もしかしたら食べなかったかも知れないし、食べない自分で有りたいと思うかも知れない。

本当は「普通」を選択する事もまた難しかったはずである。

一般的には「普通」である事を軽く見るが、この普通は実は「選択」の一つであり、「仁」と確率を同じくするものと言え、「仁」に起承転結は無く人間の営みが続く限りは永遠でもある。

その時為された選択がたまさか次の瞬間「仁」になったとしても、その先の選択ではどうなるかは解らない。
反対に今は「普通」であったとしても、それが次の選択で「仁」にならないとは決まっていない。

「仁」と「普通」は兄弟姉妹のようなもので、根元を同じくし、普通の中にも「仁」は渦巻いている。
普通の中にも沢山の「仁」が在り、それが選択として突起できた時は、自身のその環境と、そうした思いを持ち続けさせてくれた周囲の社会、親に感謝するべきものやも知れない。

普通の中に在る多くの「仁」は、これを「仁」と意識させない「仁」、或る意味最も崇高な「仁」と言えるのかも知れない。




仁・第三節「犬はコロッケを食べよ」

私がまだ小学校低学年の頃の漫画だったと思うが、既に作者も、どのような漫画本だったかも忘れたものの、内容だけは鮮明に覚えている話が有り、それは貧しい家の少年と犬のエピソードだった。

家が貧しくいつも鶏ガラしか買えなかった少年は、それを買いに行くお使いを愛犬の「コロ」(だったと思うが自信は無い)に頼んでいた。

首に袋を提げさせて中にお金を入れ、肉屋までいつも犬はお使いに行くのだが、あるい日少しばかり金が入ったので袋の中にコロッケと書いた紙をいれた少年、しかしいつまで経っても犬は帰って来ない。

数日後、野良犬に追われて家に帰れなかった犬は泥だらけでフラフラになって帰ってきたものの、雨の中で死んでしまう。
ふと見ればお使いの袋の中のコロッケはそのままだった。
コロッケを食べて命を長らえれば良かったものを・・・・と、少年は号泣する。

そう言う話だったと思うが、当時自身もこれを読みながら涙を流したように思う。
が、今にして思えばこうした話を読んで涙を流せる自身を「無責任」だと思う。

「コロッケを食べてでも命を長らえれば良いものを・・・」と言うが、これが実際に犬がコロッケを食べて何とか危機をしのぎ、元気な姿で帰ってきていたら漫画となるだけの話にはならない、普通になってしまうのである。

「仁」の多くの姿はこの話に同じである。
「そうすれば良かったものを、そうしなかった」事をして人々は「仁」を見るが、これは基本的には「個」と「社会」に措いて「個」を犠牲にして「社会」を全うする姿を現し、しかもそれは自身が当事者で無いからこそ思える事に他ならない。

つまり我々は「仁」を求めていて、それが見たいから「仁」を見るのであり、同様の事は仏教思想の「飢え」に関する話でも出てくる。
すなわち「飢え」の恐さとは知らぬ間に、自身が意識しなくても、勝手に地蔵に供えられた饅頭に手を出している事となるが、これは生きている事が前提しているからこそ言える話であり、死んでしまっては説かれる「飢え」の恐さも存在できない。

この存在できない恐さを、現実には死んでしまえば全て終わりである事の上に持ってくる事が「仁」の一面でもあり、この考え方の根底には「他」、或いは「過ぎ去った事」と言う感覚が横たわる。

仏教はとても社会的なものだと言う事である。

この事は西洋思想の資本主義、そこから発生してくる「自由」に付いても同じ事が言えるが、個人の自由と、他者の自由は必ず対立し、この中では他者の自由、公の自由、或いは大きな自由が個人の自由の上に来る。
「Immanuel・Kant」(カント)ですら、4部6部で公の自由を上に持ってきている。

この宇宙のあらゆる物質、生命は全て予め崩壊する事が決まっている。
そして秩序に対する崩壊は混沌であり、混沌に対する崩壊は秩序、混沌の時は「個」の優先が始まり、混沌が秩序に入ると「社会」の優先が始まる。

「仁」とは混沌を過去にした時、社会が安定する方向に向かう為に発生する人々の願いであり、希望である。
為に美しいもの、感動的な事が求められるが、東洋古典思想の「仁」は語られる事を嫌い多弁を否定するも、それはいつかの発覚を期待する卑しさを持っていて、これもまた美しいものを求めているに同じである。

「犬はコロッケを食べて生き長らえよ・・・」
社会に迷惑がかからねば美しい事を目指さず、社会を壊さず自身も壊さない道を選べ。
誰も気づかず「普通」であることを目指せ。

およそ善悪は入り乱れて全てが終わらねば結果は出ない、今日美しく見えたものは明日には穢れ、今日の穢れは明日の救いとなるやも知れぬ。
美しいにしても汚いにしても、他者に影響を与える事を恐れるならカントの言うように、4部6部で社会を優先する事が人の限界かも知れない。

いにしえより続く「仁」とは異なるかも知れないが、「仁」はこれを目指さない者、今を生きるのに必死な者をして、これを冠することができるのではないか、そう私は思うのである。




仁・第二節「個人の事情」

アメリカ合衆国連邦憲章、各州法には大統領に関する規定で、個人の状況に拠って大統領候補者を制限する規定は無いが、これは個人の権利と平等を保障する為でありながら、現実には「ファーストレディー」と言う制度が定着している為に、少なくとも大統領候補者になっている期間は「独身者」「離婚調停中の者」などは不文律、消極的排除を受け、候補者として指名される可能性は低い。

合衆国大統領は健全で良好な者が求められる為で、これを証明するものが家族、親族との良好で善良な関係だからであり、この意味では合衆国大統領と言う地位は、その前提がファミリーであるとも言えるが、記憶するところでは歴代合衆国大統領とファーストレディーの数では、ファーストレディーの方が10人ほど多かったように思う。

ファーストレディは必ずしも大統領夫人と規定されている訳ではないから、勿論夫人以外のファーストレディも存在するが、死別はともかくとして、大統領在任期間に離婚、新たな女性を夫人として2人目のファーストレディと言う場合も存在したのである。

大統領候補者期間中では重大な効力を持った不文律、消極的排除だが、こうして権力を手に入れれば不文律慣習法などは反映されなくなってしまう。

また解り易い例で言うなら第42代の「クリントン政権」では「ビル・クリントン」大統領の不倫が発覚し、大統領の資質が問われたが、この時夫を救ったのが妻の「ヒラリー・クリントン」であり、彼女は女として、母として、妻として、合衆国大統領を優先した。

女としての感情を犠牲にして、国家や大統領に重きを置いたのであり、こうしてクリントンと言うファミリーは形を守ったが、ヒラリーが犠牲にした女の部分は、ファミリーの中で夫である大統領の地位を低下させ、相対的にヒラリーの発言力は大幅に拡大し、結果としてヒラリーと言うファミリーの感覚が国家運営に流出して行く事になる。

このヒラリー・クリントンの例を取るまでも無く、レーガン政権では大統領が重大な決定を判断する時、妻のナンシーの星占いに拠って判断していた事が知られていて、男の事情を優先させ、為に妻に頭が上がらない合衆国大統領、現実にはファミリーと言う個に近い事情で合衆国は動き続けてきたとも言えるのであり、この事は過去のどの国の歴史上でも、今でも全世界変わってはいない。

個人の事情と公の利益では世界のどの国家の憲章も憲法も公の利益が優先され、一般大衆は長きにわたる啓蒙に拠ってこの事を認知させられているが、権力の中枢では公の利益を優先する為、家族に犠牲を強いていく権力者の家族中に措ける立場の低下に拠って、家族的な事情が国政に流出し易くなる。

この事から政権発足時は革新的、民衆の側に有った政権でも、少しずつ混じってくる権力者個人の事情が流出し、これを自己擁護する為に民衆が少しずつ「敵」になって行き、やがては保守的、秘密主義的政治運営になって行くのである。

「仁」は冒頭の話で言うなら不文律、消極的排除の部分であり、これはある種の見せ掛けで有っても、それが相手に見透かされなければ成立し、しかも権力を得るための一時の姿に過ぎない。

決してその一時の姿が今後の全ての判断材料とはならないのだが、民衆はこの一時の姿で未来を判断、固定化してしまう。
為に、政治は常に民衆を裏切り続ける事になるのである。

民衆の側に在る「仁」は崇高で、義務を希望にまで昇華した美しいものだが、この「仁」を必要する側、時の為政者の「仁」は「自分の事情」なのであり、これは避ける事が難しい。


第七章・仁・第一節「二」

古来森羅万象にはその出自に措いて「縦」の生まれのもの、「横」の生まれのものが有ると考えられ、これを「縦生」「横生」と区別するが、万物は「横生」、「縦生」は実質人間のみである。.

これは人間を最も尊いものとした考え方に由来するが、「人」と言う文字の発祥は人間を横から見た形であり、正面から見た姿は「大」となるが、古来には「立っている」と言う事は重要な事であり、屍の概念が生死を問わず立っていない事を指していた事実に鑑みても、生きていると言う事は立っている事を指していたと言っても過言ではなかったのである。

こうした傾向は象形文字でも残されていて、古来家畜だった羊や豚にしても、その起源は立てられた姿を基にして象形が始まっている。
つまり人間以外の動物、人間の食料となる為、人間の次に重要な生き物が生きている状態を現す為、四足のものが縦に描かれ、これを引き継ぎ漢字が成立している。

「仁」の起源は不明である・・・。
古くは色んな形が存在し、その意味も異なるが、一つだけ面白い文字が残されている。
「二」を右に90度起こした形の「音」不明文字が存在し、もしかしたらこれが「仁」の始まりかも知れない。

「二」はとても重要な意味があり、「神」のへんとなる「示」は二天、つまり吉凶を意味し、或いは大地を意味する。
これを縦に起こした形となると、その意味は深遠な事になるが、この古い形の文字は「二」を起こしたものか、或いは初めから長さの違う二本の縦線なのかの判断はできない。

仮に初めから縦二本の線だったとしても、「則」や「利」のつくりである「刂」とは左右の線の長さが逆であり、ここから「刂」が発生してきた場合でも「刂」の概念は「限定性未指定領域」(いつかは何らかの秩序や範囲に属するが、今の段階ではそれの拘束を受けていない状態)であり、いずれしても二本の線と言う意味では、「天」との関わりが否定されるよりは肯定される可能性が高いように思われ、「仁」の最も古い解釈は冒頭の立っているか、横になっているかと言う区別に関係が深い。

後年の解釈を使うなら自身の手足が痛みを感じるか否か、体が正しく機能しているかと言う事を「五常」の「徳」に当てはめ、「義」「礼」「智」「信」を機能として、これらが正常に動く事をして「体」が成り立つとしたものだ。

しかし「仁」は「真」にしてまた「正」であり、「真」は前記事でも書いたとおり、仙人が人間の目を欺き、乗り物に乗って天に昇る様子を示すものであり、この意味するところは「良く現実を見よ」であり、隠されたものを見る事を指している。

同様に「正」の概念は「まともに動いている」と言う事であり、ここではその本質的「善」が問われていない。
せいぜいが「間違っていない事」、或いは「他に方法が無い」と言う程度の事なのである。

さらに「人」の持つ意味には、例えば「今」なども「人」を起源とする合字なのだが、ここでは「集」と「及」の意味を合わせて「今」と現され、この概念はとても深い。
「数世を集めてこの時に及ぶ」、この時が常にただの瞬間ではない事を現し、尚且つ「集」は「屋根」、「屋根の下に隠す」を指し、これが「陰」の原型とも言われている。

つまり「今」とは「屋根の下に隠された数世を集めてこの時に及ぶ」であり、これが「陰」であり、「神」の原型である「申」は陰の気の伸縮する様子な訳であり、「仁」は「人」と「二」にして「真」、人目を欺く仙人な訳である。

キーワードは「隠された」、「隠した」になって行くのであり、「仁」の古い解釈は「真」や「正」に近い。
機能がかろうじてでも動く事を意味し、その最低限の条件が「立っている事」なのである。

我々は「仁」を少し高尚に考え過ぎているかも知れない。
およそこの世界を正確に見ることはできない中で、人間のできる事はせいぜいが「誤りを犯さない」事が上限であり、これすらも実現する事が大変難しい事は、政治を語るまでもなく我が身を振り返っても理解できるだろう。

医は仁術と言う言葉が有るが、今日多くの者は「仁術」を「人の道」と考えるだろうが、この当初の意味は手足が痛みを感じるように戻す事を指していた。
快楽ではなく、「痛みを感じる」事と言うのが重要なところであり、「仁術」とは通常復帰、普通を普通に戻す事を意味し、つまり「仁」は「普通」である事を指していて、その条件は痛みを感じる事、かろうじてでも立っている、と言うことなのである。

信・第十節「信と義」

「信」に用いられる「言」の初源が「辛」と「口」の合字である事はこの章の冒頭に述べたが、「言」は単独で使うと「辛」と「口」になるものの、「信」の古書体には「イ」(にんべん)と「口」を用いたものがあり、これを解釈するなら「人」と「口」が一致する事を指す事になる。

また「信」に措いては事の「正」か「誤」を問う事は少なく、「真」や「心」「証」に重点があり、この内「真」を見てみるなら、これは仙人が人目を避ける為に姿を変え何か乗り物に乗って天に昇る様相を現していて、その意味の六割以上が「目」を現し、「ヒ」(化ける)と「目」の合字が「艮」(うしとら)であり、基本的に「隠れたもの」「隠されているもの」を指している。

それゆえ「真」は予め絶対性を有する何かではなく、目を見開く事、目の変化と言う「2つの目」が一度重複して後に一つが省略された経緯があり、意味としては欺かれたものの中から目を見開いて事実を見る事を指している。

「シン」と発音する漢字の根源は「申」にあり、これは「神」の原字であり、陰の気が伸縮する様、闇を切り裂く稲妻の事であり、音に現すなら「雷」、光に現すなら「電」となるが、後年「神」に関わるもの、すなわち自然や人間の本質が問われる状態には、「シン」と言う「音」を隠れた冠にして漢字に現したものと考えられている。

「信」の文字だけを見るなら「ゴン」「ゲン」「ニン」「ジン」、古書体でも「コン」の「音」が使われるのが限界であり、これに「シン」の音を重ねるは、事の重要性を現す為であったと考えるべきで、尚且つ「シン」と言う音が来ていると言う事は、古くから存在する概念ではなかったと言う事であり、現実的に発生してきた事象に文字を振り分け、そして「シン」の音を冠したものと言える。

「信」の古い用法はおそらく「義」であり、現代でも「信」と「義」を本質的に語るなら区別は難しいが、その昔、思想学的には「信」は「義」に包括されていたものの、庶民や個人と言う関係に措いては「信」の概念が先にあり、これが封建的思想体系に組み入れられた後、整理された「信」が発生してきたものと考えられ、一番古くから存在する庶民、個人の「信」は、その概念も曖昧なら、文字も「信」ではなく、音すらも「シン」ではなかったかも知れない。

この曖昧な庶民、個人の概念から「義」を生じせしめたものが封建制度であり、「義」の概念は「信」の概念より強くて具体的だが「信」より範囲は狭い。

味方かそれに順ずるものが「義」であり、これより少し脆弱な関係、或いは敵対する者に対する「義」の概念が「信」と言えるのかも知れない。

おそらく古い時代の庶民、個人が持つ「信」の概念はそれほど厳しいもの、切羽詰ったものではなかったものと思われるが、これが「義」を通って来た時には厳しくなった。
間に何が在るのかと言えば「戦乱」であり、敵か味方かと言う部分が「義」と「信」を分離させ、「信」を「真」「心」「証」としてしまったのではないか・・・・。

「信」の本髄は一種の因果律のようなものであり、たとえば約束していても交通事故に遭遇すれば約束は守れない。

また子供の頃、友人と約束していながら親から仕事を言い付けられ反故にしなければならなかった時、その友人は約束が守られなかった事を絶対許さなかっただろうか・・・。
理由を言えば「仕方ないな・・・」と言ってくれたはずであり、だからこそ友だったのではなかったか・・・。

約束、「義」や「信」を全うできるか否かは自身の力だけではどうにもならない時も存在する。
言い換えれば「義」や「信」は守るのではなく、「守れた」と言う事なのであり、時には守れなくても成立する場合すら在り得る。

それゆえ守れた時は、その環境に恵まれた事を感謝する気持ちを持って自身の信、人の信も眺める事ができれば、この世界は「信」に満ち溢れる事になるかも知れない。






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Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

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「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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