2018/03/26
利・第四節「未来」
基本的に今と言う時系列とそこから先に来る時系列は交われず、過ぎ去った時系列とも交われない。だが人間の脳は必ずしも現実を現実として反映する情報処理媒体ではない為、脳の描いている眼前の現実は紙に書いた絵と同じ、今風の言葉で言うなら「仮想」と言える。
未来と言う現実は今では無いから未来なのであり、過去もまた今では無いから過去なのだが、人間はこれを情報として捉えるため、今と言う時系列で仮想された、或いは粉飾されたものを同一時間軸で描いていて、未来は今の時間軸では消費できない。
簡単な例を言うなら、自動車が欲しいと思って金を貯めている人に取って自動車は未来になるが、これをクレジットで買うと金銭的には未来を先食いした事になり、この代償は極めて大きい。
少ない給料から爪に火を灯す思いで金を貯めている者は未来の消費の為に富を蓄えているのであり、これは確かに「未来」だ。
しかしこれをクレジット、または割賦で買うと、その時点で未来は今と言う時間軸で完結し、その時点から返済と言う義務、責任を負うのであり、こうして未来を先食いするとその時点で未来は失われ、ラテン語の自由の解釈で言うなら「自由」を失う事になる。
もっとも、利は時に対して敏感であり、この意味では「時の利」と言うものも確実に存在する。
しかし間違えてならないのは「時の利」と「期限の利益」は同義では無く、むしろ間逆のもので有る事を理解する必要が有る。
時の利は利だが、期限に利益は無い。
期限はむしろ負債に対する猶予であり、予め「負」のものに利益など始めから在ろうはずも無い。
期限の利益は金銭かそれに拠って金銭利益の拡大が発生する場合のみ利益となるが、物品購入、消費されて無くなるものに費やされた場合、消費対価で有る事から、それに費やされた費用は消失する。
消費には初めから利益は無く、せいぜいが「負」を清算する、つまり生きていく為に必要最低限のものを得るか、或いは個人的嗜好と言う非統一価値観に拠って「利益を感じている」だけであり、感じただけの利益の現実は「負」と言うことになる。
時の利、拡大性の期限の利益とは「投資」の事であり、これを個人の消費と同一に考えてはならない。
春にジャガイモ1個を植えれば、夏にはジャガイモが7個になった。
この時ジャガイモ1個の対価が収穫されたジャガイモ2個だった場合、何も無かったところから春から夏と言う期限の間にジャガイモを5個にした。
これは利益、まさしく時の利益であり、期限の利益と言える。
しかし車をクレジットで買っても、そこから利益は出せるのはタクシー会社か、運送業を生業にする者だけであり、個人が得るものは「負債」である。
時の利とは「未来」の事であり、車を買うために金を貯めている者は、万一不測の事態が発生した場合、本来の目的を変更する事が可能であり、一方クレジットで買った者は変更が出来ない。
未来とはこうした変更が可能な事、不測の事態が含まれていると言う不確定な部分と、縛られていない「自由」を差すのである。
先はどうなるか解らない事は「未来」の重要な要素であり、これが確定している者に取って「未来」は無いのであり、その未来を今に消費した者は未来も失い、ついでに負債をも背負って気分的に満足している事になる。
そしてこうした未来を先食いする民衆が蔓延すると、あらゆる場面で未来、つまり時の利を減らして行く事になり、借金だけを一生懸命払っている社会が発生してくる。
「今得られないなから未来なのであり、その為に頑張っているから希望なのである」
未来を今の時点で遣い続けた世界経済が停滞しているのは、当然と言えば当然の事である。
消費は美徳でも何でも無い。
お姐さんの所で呑んでしまった酒代の付けを払う為に働くのと、仕事をして旨い酒を呑むのでは労働効率はもとより、酒の味も結構な違いが出るだろう。
世の中はとは色んな立場の、さまざまな状況の人がいて需要や供給、或いは権力者や被権力者と言った相対が生まれる。
皆が供給者では需要は無くなり、皆が権力者では権力は存在できない。
経済と言う一括り(ひとくくり)で全員が世の中を見ていては、それが成り立つはずもない・・・。