2018/05/18
利・第五節「燕」(つばめ)
「利益」と言う言葉が在り、ここから「利」と「益」は一般的に同様の概念が為されるが、例えば国家の利益を現す時、国益は使い易いが国利と表現する頻度は若干少ない。
これは何故かと言うと、「利」より「益」の範囲が広いからであり、「利」を幸福に辿り着く為の乗り物とするなら、「益」はその目的となる為だからだが、「益」の始まりは皿に食物が乗っている様、後には皿から物が溢れているいる事を指していて、満たされるを超える何かと言う意味である。
ただしこれは状況を現していて、確かに人であれば満たされるを超えるは「幸福」になるかも知れないが、基本的に「益」の上に来るものが満たされるを超えるのであり、利益の場合は利が溢れている、国益の場合は国が満たされるを超える状態と言う事である。
注意しなければならないのは「利」で溢れかえる事も、国が満たされるを超える状態でも、それが幸福と同義ではない、あくまでも幸福と言う状態の一部、若しくはその過程でしかないと言う事であり、「益」の根本的発生過程は始皇帝以前の「秦」黎明期に措ける「燕」(つばめ)の泣き声から来ている。
「益」とは燕が自由に空を飛ぶ様、その鳴き声を指していて、秦の人たちはこれを幸運の象徴としたのであり、実に日本で燕が家運上昇の兆しとされる伝承の始まりは、結構長くて深い歴史を持っているのである。
「利」はその状況に措ける優位性であり、この事は国家正義や自由、個人に取っては親族を殺されたなどの事由に次ぐ大義名分となり得るものであり、丁度「水」のようなものかも知れない。
人間の体が水を主体として体積の半分以上が構成されながら、この人体が正義や自由、平等を謳っているようなもので、人間の統一概念、考え方のフレームでも「生」や「死」と同等の統一概念を有する。
国家正義の為より国益と言われた方が人心の理解は得易く、誰もが納得できる、或いは誰も「益」に反対できない、そう言う統一価値観が形成されていて、「利」とはその眼前の現実に対して損失を抑制する、現実を有利にする事を意味し、これに鑑みるなら「利」を正確に見定めるは最も現実の近くを通る事を指している。
人間は感情の生物であり、その脳は空間的制約も時間的制約も持たない。
あらゆる場面で「現実」には一番遠い所に在り、「利」とはこの遠い所にある人間を「現実」の前に立たせてくれる最も有効な道具であり、この感情とは相反するものが、感情の一つの極点、目標である「幸福」に辿り着く為の乗り物なのである。
私事にて恐縮だが、先日スーパーの特売日で花を買いに行ったおり、私の前にいた高齢夫人が財布からお金を出すのにコインを一枚々々数え始め、ついにはポイントカードを探す為、持っていたバッグの中身を全てレジ台の上に並べ始めたのを見た女性店員、後ろで待っている私に「すみません・・・」と言ったのだが・・・。
「利益は大切な事ですよ、例え1円でも損をしてはいけない」
そう笑って返した私に「大抵は怒られるのですが優しいお客様で助かりました」と言い、それに対して私は「怒っても怒らなくても同じですから、だったらこの場を円滑にする事は私の利益になる」と、我ながらコテコテの良い人をやってしまった。
目を潤ませたように私を見る店員、私は思わず心の中でガッツポーズを取った。
「よっしゃ、これでこの店員の心は掴んだ、これでいつか有利な特売品情報が得られるかも知れない」などと考えたのだが、或いはいつか食事に誘っても良いかも・・・、などと考えてはいけない(笑)
「利」の過ぎたるは破滅への道に通じている。
他者の「利」を考える事が出来ない者は自分の「利」もまた見えていない・・・。
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2018/05/03
「菜の花」
そろそろ田植え前の仕上げをしようかと思い、トラクターを動かして少し奥まった所に在る田に向かったが、農道よりは少し低い位置に在る田に通じる道にはまだ背丈は低いものの、青々として雑草が生い茂り、そこを降りて行こうとしたら一瞬雑草が生えていない部分が見え、私は慌ててトラクターを止めた。辺り一面緑の中に在る土色に見えたものは「狸」(たぬき)だった。
しかも死んでいるらしく目は開いたまま虚空を見つめて横たわっていた。
死後2日は経過していない。
しかしそれは硬直している事から、おそらく前日の朝方死んだのかも知れなかったが、大きさからしてメスの狸で、もしかしたら子供が数匹いるかも知れない。
待っても二度と再び帰らぬ母を待ちわびて、彼らもまた命を失う・・・。
「無念だろうな・・・」
狐に襲われたか、或いは県道で車に撥ねられ、ここまで逃げて来て絶命したか・・・。
私は黒く太い尻尾を持ってそれを道の脇に寄せ、またトラクターに乗って田に入り、水が張られた田を仕上げた。
小さな田だからさほどの時間もかからなかったが、先程道の脇に寄せた狸を見ると、当然の事だが相変わらずそこに死んだままで、もしかしていなくなっていてくれたらと、都合の良い事を思っていた私の期待は少しだけ裏切られた。
「お前が死んだ事を知っている者は私一人だけんだな・・・」
自身が産んだ子供ですらその事実を知る事なく、やがて彼らも飢えて死んで行く。
こんな山際の田に近づく者は私しかいない。
だが、こうして私の目に触れた事も何かの縁だろう。
何かは解らないが、きっとお前にも私にも意味がある事なんだろう。
私に葬って欲しくてこの道を選んだか、いやそんな事はお互いの知る由も無い事だ。
が、現実にその状況になったと言う事はそう言う事だ。
このままではやがて烏(からす)や鳶(とび)についばまれて骨と肉がまばらに残った状態になる。
それは辛かろうな・・・。
私はやはり狸の尻尾を持って川の土手近くまで運び、少し崩れている斜面に置き、下に流れている土砂でそれを埋めた。
遠い昔、自分がまだ若くて何も恐いものなど無かった頃、近くにある禅寺の僧侶の話を聞いていて反抗した事が有った。
「真実」などどこに在るんだ、それが在るなら見せてくれ、見た事も無いものを信じることは出来ない。
若き私はそう言って口を尖らせた事があったが、真実は在るのでは無い、それは自分が成るべきものだ、老僧は穏やかに微笑んだものだったが、それがどこかで自分を馬鹿にしているように思えた私は、怒り心頭でその場を蹴った事が有った。
だが、そうだ、真実は自分が成るべきものだ。
ほんの近くまで来ていても田に用が無ければ狸が死んでいる事など知る由も無い。
しかしこの春の景色の中で、こうして死んでいる者が転がっている事もまた事実であり、唯周囲の景色を見て真実と思うのは浅い。
狸が死んでいる事も、雑草が呼吸している事も、その中で多くの生き物達が生きている事も知らねば、真実など見えようが無い。
そして私は全てを知ることは出来ない。
ゆえ、いつまでも追っても追いつかぬ虹のようなものを追い続けなければならないに違いない。
田から少し離れた畑に、昨年種を撒くのが遅すぎて白菜になれず、そこから塔が立ち、綺麗な黄色い菜の花になった群生が風に揺れるのを見ながら、遠い昔の老僧の微笑が少しだけ理解できたような気がした。
彼はきっと知らない事を知らない若さを頼もしく思ったに違いない・・・。
真実は在るのではなく、自分が成る・・・。
そう言ってくれる彼であればこそ、今の私の気持ちと同じではなかったか、そんな不遜な事を思ってみたりもした。
今は亡き老僧よ、春の霞に酔った者のたわ言と、ご笑覧あれ・・・。