「コミュニケーション・プラス」




           「Communication Place」


忙しい、忙しいと言っている者に本当に忙しい者はいない・・・。

と、思うので仕事の間口は見栄を張らず、チャンスを最大限に広げる為、いつも暇だ、暇だと言ってる私は、気が付けばあらゆる物事に追われている事もしばしば、蕎麦屋の出前持ちの如く「今出ました、もうすぐです」と言いながら、実は手も付けられていなかったりして・・・。

そう言う状態ですので、このサイトの記事も明日書けるかも知れないが、もしかしたら3ヶ月後かも知れない不安定さを抱えている為、この辺で「コミュニケーション・プラス」と銘打って、通信専門の場を設定させて頂こうかと思います。


記事に関係のない事、他サイト掲載記事の事、近況やご連絡など、遠慮なく書き込んで頂ければと思います。
秘匿のコメントに関しましても、その秘匿性を担保しながら、コメントをさせて頂きます。

尚、頂いたコメントは早朝4時30分から5時30分、就寝前8時30分から9時30分のどこかで45分間を使って確認、ご返事させて頂くものとし、ご返事が長くなる場合は記事にさせて頂くかも知れません。
コメント数50を区切りとして、2ページ、3ページと追加して行く形式とし、誤字脱字、文法の乱れは全く気にされないようにお願い申し上げます。

私も誤字脱字、文法ミスは一切修正しないものとします。

ご返事が遅れる場合もございますが、そのおりはご容赦を・・・。

では、宜しくお願い申し上げます。

※ 「Communication」は英語、「Place」はポルトガル語で「場」の意味、本当は(プラス)と言う発音ではないが、ここでは造語として「コミュニケーション・プラス」とした。







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「終戦詔書」・2




昭和20年(1945年)7月16日、実はこの日、世界で始めてアメリカが原子爆弾の実験に成功した日だが、この翌日から開催されたポツダム会談は、事実上日本をどう処理するか、つまり戦争を終える機会を失っている日本に対して、どのような方法で降伏を宣言するか、またその後の世界をどうするかが決められたが、ここで決定したことは日本に対する無条件降伏の通告であり、このことは宣言として発表された。

だが事実上戦争を終結させる為に首相に就任したはずの鈴木貫太郎(すずき・かんたろう)以下、軍部はこれを無視すると言う子供のような反応しか示すことが出来なかった。

そして8月6日、広島に原爆が投下され、ここに人類は始めて原子力による破壊の凄まじさを目の当たりにすることになり、同年8月9日には長崎にもこの地獄絵図がくりひろげられてしまう。

これに慌てた日本政府は8月10日、天皇の地位を保全することを条件に、ポツダム宣言の受諾を連合国側に打診するが、無条件降伏の回答はイエスかノーでしかないことをまだ日本政府は分っておらず、結局この申し出は拒否される。

これで後が無くなった日本政府及び軍部は、昭和20年8月14日、昭和天皇ご出席のもと、「御前会議」を開くが、ここでも政府や軍部は分っていながらポツダム宣言の受諾を決定できない。

そして結局この会議で無条件降伏を受け入れる採決を、昭和天皇のご判断に仰ぐことにしたが、もともと天皇のご意思など何とも思わず好き勝手なことをして、その終決と言う最大の責任をまた天皇に押し付け、そして自らはその天皇の事をおもんばかって嗚咽する軍幹部達、その中で昭和天皇は涙を流しながらポツダム宣言受諾を決定する。

そしてその日本側の宣言文が「終戦詔書・Ⅰ」の天皇のお言葉、いわゆる詔書の文面であり、これは「下村 定」「米内 光政」「迫水 久常」らが8月14日、夜11時までかかって文面を作成したものであり、それを「玉音盤」に録音し、この録音の放送は8月15日正午と決められていた。

だがこの玉音盤、当時の録音状況はきわめて悪く雑音だらけであり、加えてこれが放送されるラジオも、一般的に日本のラジオは性能が悪く、聞いていた殆どの人は何を言っているのか分らなかった。

しかし日本の民衆は何故か涙が止まらず、土下座して泣き崩れる者、いたたまれなくなって走り出す者、天皇陛下万歳と叫ぶ者など、日本が戦争に負けた事はどうにか伝わったのであり、ここに日本は敗戦と同時に終戦を迎えたのである。

ちなみにこの詔書を読んでいると、文面の前半と後半では大きな違いがある。
それは何故か、後半の半分は昭和天皇が8月14日の御前会議で、お言葉にされたものを文面にしているからである。

太平洋戦争が終わって73年、今日ばかりはかつて戦場で、そしてB29に追い回され、また一瞬の閃光の内に死んで行った人たちの魂に敬意を現そう。

彼らが有ったおかげで今日この国があり、自分が生きていることを心から感謝しよう・・・。

8月15日は日本の終戦記念日である。
それゆえ今日は、詔書原文と、その解説を掲載させて頂いた。



利・第九節「喜怒哀楽」


利を阻害、若しくは見えなくする最も大きな因は「感情」であり、「喜」は自我の暴走、「怒」は物事の破壊、「哀」は収縮、「楽」は秩序の毀損、悲しみと苦しみは喜怒哀楽と少しだけ距離が在り、この2つは喜怒哀楽が一方向なのに対して両方向を持つ。

悲しみのもたらすものは「哀」に近く「収縮」や「逆戻り」、苦しみもまたこれに近い。
が、一方でこの2つには「次」若しくは「未来」に措ける動きへの影響が存在し、「恨み」と「怨み」では「怨み」の方が深いものの、これらは共に2方向を持ち、妬みは「比較」だが、この遠い所に「正義」が在り、誠意の後ろには「喜」と同じ自我の暴走が在る。

嬉しいと「喜」は外に出なければ同じだが、「喜」は既に外に出ている為、これを引き返すことは出来ず、片や「嬉しい」は外に現さなければ引き返すことが出来る。
つまり「喜怒哀楽」とはその感情が既に外に出てしまっているものを言い、社会的にこれらを引き返すことが出来ない事を指している。

そして「喜怒哀楽」は社会と個人の関係で考えるなら、社会の「利」と相反する。

「喜」はまたどこかの誰かの凹みであり、口では何とでも言えるが、人が喜んでいる姿は現状が悪い者に取っては良い感情とはならず、世の多くの人の現状は常に悪い。

「怒」に至っては現状の即時破壊であり、「哀」に措ける姿はまた他者にも収縮や帰巣性もたらし、人が楽しそうにしている姿はまた「喜」に措ける他者の感情に近いものとなり、他者の感情表現とは常に内なる感情とは一致しない。

力関係に拠って感情が表せない時は、喜んでいなくても喜んでいるように振舞われ、それを基準に人を計ると、自身の力の上下に拠って、昨日共に喜んでくれた人が今日はそれを妬むかも知れないものでも有り、こうした喜怒哀楽は既に露出したものである事から、他者がこの力を測るのは容易い。

ところが悲しみや苦しみ、恨み、妬みや嬉しいなどは、あからさまにそれを社会に示さない分の謙虚さが在り、ましてやこれを押し隠して事を為そうとするは、外の社会がその個人の力を測れない。
どれほどの力が存在するのかが見えないのだが、そこには無限の力までも想定しなければならなくなり、この力が人を動かす。

「喜怒哀楽」の基本は「油断」であり、「利」を尊ぶ者は最低でもこれが外に出ていない状態に留めておくに越した事は無く、理想を言えばそれすらも外に出さねば大きく自分も他者をも使うことが出来る。

ただ、凡庸にこう言う事をしていると、まるで川水に流される枯れ落ち葉、風に転がる紙コップにしかならない。
「感情」は自分が使うものではなく、他者のものを使うのである。

人が喜んでいれば共に喜び、悲しんでいれば共に悲しみ、苦しんでいるものを蔑ろにせず、楽しんでいる時は共に楽しむ。
喜怒哀楽は人に攻める機会を与えるが、こうして他者の感情を使う者は、感情をして虚実を支配する存在となって行き、虚実を支配するなら「利」はそこに拠ってくる。

明治の元勲「児玉源太郎」は僅か5歳の時に父を失い、姉と姉の婿に拠って育てられたが、その義兄も源太郎13歳の時に佐幕派に拠って惨殺される。
このおり、源太郎はただ黙って義兄の体から刀を抜き体を綺麗に拭くと、遺体を丁重に寝具の上に横たえ、畳や腰板の血を拭き、葬儀の一切を仕切って弔いを行ったと言われている。

バルチック艦隊を撃破した日本陸軍、ロシア何するものぞが大勢だった陸軍に在って唯一講和を説いた「児玉源太郎」、彼と「山本権兵衛」が無ければ、日露戦争は勝利とはならなかっただろう・・・。

喜怒哀楽は自分のものを使えば他者の「利」、他者のものを使えば自分の「利」となる。



「最も尊い国」


物質のみならず生物、自然の摂理や運動の法則、社会の誕生と崩壊、男女関係から人間関係、気象、政治など、この世のあらゆる事象は混沌に向かい、この混沌に向かう速度や形態には一定の法則がある。

混沌に向かう為の最小単位を一番理解し易いモデルが「量子カオス系」理論だが、現代でこそミクロ構造が見つかっているものの、大まかな点では「プランク定数」で充分なのであり、自然や物理、生物の「ゆらぎ」の最小単位、この世界の原理と言えるものが「プランク定数」(h)である。

そしてこの「プランク定数」から、同じドイツの物理学者アインシュタインが量子力学理論を構築、「werner karl Heisenberg」(ヴェルナー・カール・ハイゼンベルグ)が「不確定性原理」を導き出したが、「Max karl ernst ludmig planck」(マックス・カール・エルンスト・ルードヴッヒ・プランク)やハイゼンベルグが歩んだ道は決して平坦なものではない。

「第二次世界大戦」と言うカオス(混沌)の極みに有って、ヒトラーの独裁政権から逃れ祖国を棄てるのも決断なら、その崩壊して行く祖国の崩壊の後を考え、弾圧に耐える事もまた祖国を逃れるよりも更に重い決断だった。

「プランク定数」の発見者「マックス・プランク」は、ヒトラー率いるナチス政権下でユダヤ人で有るが故に迫害され、追われるようにドイツを出国した「シュレディンガーの猫」で有名な物理学者、「エルヴィン・シュレディンガー」や「相対性理論」の「アインシュタイン」の為にヒトラーに直接抗議を行っている。

また1943年のベルリン大空襲では、住んでいた家から焼け出され、命からがらローゲッツに避難し、その翌年の1944年には次男の「Erwin Piank」(エルヴィン・プランク)がヒトラー暗殺計画に加担した事で処刑され、彼自身も国賊と蔑まれ、石もて追われていくのである。

1933年、ナチスの追求を恐れてロンドンに渡ったアインシュタイン、以後ユダヤ系科学者が次々ドイツを去っていく中、「マックス・プランク」はこの前年の1932年、31歳と言う若さでノーベル賞を受賞した天才「ハイゼンベルグ」にこう言っている。

「今は生きる為にあらゆる事を我慢しなければならない」
「そしてこの国は必ず崩壊する」
「だが、この国が崩壊した後、誰が新しい国を創りなおすことが出来るだろう、君は残ってその責務を負うべきだ・・・」

黙って下を向くハイゼンベルグ・・・。

それから後プランクとハイゼンベルグは周囲から「ユダヤ傾倒者」の烙印を押され、事有るごとに激しい言葉の攻撃に晒されながらもドイツ科学界に留まり、ドイツが開発しようとしていた原子力爆弾の開発を故意に遅らせていく。

更にそうした情報や技術を、かつてその下で学んだコペンハーゲンの「ニールス・ボーア」にハイゼンベルグが流し、ボーアを通じて連合国側がドイツの原爆開発の進捗状況が遅い事を認識していたのである。

ハイゼンベルグが日本への原爆投下を知ったのはイギリスの仮設収容所の中だった。

彼は一言、「有り得ない」、若しくは「馬鹿な・・・」と言う意味の事を呟いたと言われているが、この解釈は原爆が作られたと言う技術的な事に対するものか、或いは原爆が使われてしまった事に対するものかは明確になっていない。

彼が科学者だった事から、後年技術的な事に対する言葉だったと解釈されている場合が多いが、私はむしろ両方を含んだ言葉だったと考えている。

第二次世界大戦が終った1947年10月4日、マックス・プランクは89歳の生涯を全うし、この世を去った。

1930年、カイザー・ヴィルヘルム研究所の所長となったマックス・プランク、第二世界大戦終結後プランクの功績を讃え、カイザー・ヴィルヘルム研究所はマックス・プランク研究所と改名された。

そして2011年現在、このマックス・プランク研究所はドイツの学術振興機関として、81の多分野研究機関を持つ学術機関として発展している。

75年前の8月6日は広島に、8月9日は長崎に原爆が投下された日である。
遠く離れた同盟国、ドイツの地でも原爆を巡って科学者が闘っていた。
祖国の為に原爆が作られる事を阻止しようとしていた者達がいた。

原爆は人類が持ってはならない兵器だった。

奇しくも彼等の奮闘により、ドイツより先に連合国のアメリカがその開発に成功、先に敗戦となっていたドイツではなく、日本にそれが投下された事を彼等はどう思っていただろうか・・・。

自国でなくて良かった・・・と、そう思っていただろうか、否、違う。
そのエネルギーを頭の中で換算できた者たちは、原爆がいつか人類全体の脅威になる事を思っただろう。

そしてそれが日本と言う国に投下された事を知ったとき、彼らはこう思ったはずである。
「主よ、我々人類を許し給え・・・・」

アインシュタインは第二次世界大戦終結後、日本の地に立った時、「この国はもっとも尊い国です」と述べている。






「広島の天気はどうだ・・・」

このまま降伏と言う事態になれば、政府責任者は戦争犯罪人として死刑になるかもしれない・・・いやその前に国民総玉砕を主張する過激分子たちに暗殺されるかも知れない・・・・だがもう良い、どうなっても構わない・・・。
佐藤尚武駐ソビエト大使は溢れる涙と、胸の奥からこみ上げる熱い塊を感じながら、それでも東郷外相からの電報を押し戻す進言電報を起草した。

ポツダム宣言受諾を巡って日本がソビエトに仲介を頼んだ背景は、余りにも身勝手な理屈だった・・・すなわちポツダム宣言を受諾するにしても、日本国内で降伏と言う現実を納得させる方法がない・・・特に陸軍などは戦争継続を主張していて、このまま降伏したとしても、戦闘を平和的に収束させる力、統制が既に政府、軍部でもなかったのである。

また民主主義のイギリス、アメリカに対して共産主義のソビエトは確かに対立関係にあり、そうした意味でアメリカと戦争をしている日本には協力的なのではないか・・・とする日本の思惑は理解できない訳ではないが、7月24日、ソビエトは駐日大使を既に山形県酒田港から船で帰国させている。
ポツダム会談のさなか、こうしたソビエトの動きは、冷静に見れば既に結果が出ていたことを示しているが、それでも僅かな望みに頼らざるを得なかった日本・・・、決定的な意識の欠如はポツダム宣言の意味を理解していなかったことである。
ポツダム宣言は国際関係における明確な意思の表明であり、これに対する答えはイエスかノーであり、交渉も間接的回答も求めてはいないのであり、そこには日本国内の情勢により、降伏の体制を整えさせてくれれば降伏する・・・と言うお優しい配慮など望むべくも無いことだった。

1日の決断の遅れは後悔や懺悔ですむものではない、日本が滅亡する・・・このことを、この時点で切実に理解できたのは、駐ソビエト大使佐藤尚武をおいて他にはいなかっただろう。

8月2日午後3時、原爆攻撃を実行するテニヤン基地の第20航空隊は、8月6日、日本に「完全なる破壊」・・・すなわち原子爆弾第1号を投下する予定命令を受けていたのだった。
第1目標は広島、もし目視による爆撃が気象条件で困難な場合は小倉、長崎の順に目標を変更・・・となっていたが、このときの日本は例年にない寒気の影響を受けていて、梅雨は終わってようやく夏の暑さが訪れ始めていたとは言え、列島西半分の天気は相変わらず、ぐずついたものとなっていた。

テニヤン駐在の第393飛行大隊は、連日B 29を飛ばし日本上空を偵察していたが、広島方面の空は目視攻撃には適さない日が続いていた。
8月5日の朝、気象データは翌日の広島の空は「晴れ」と言う予報をだした・・・、運命の日がやってきたのである。
直径71センチ、全長3メートル、重さ約4トンのウラン型原子爆弾が組み立てられ、原爆投下機に指定された機体番号「44=86292」のB29に搭載され、整備員たちは大きな爆弾にクレヨンで思い思いのコメントを書いた・・・、「健闘を祈る」、「ヒロヒトに不運が訪れるように・・・」・・・・・などである。

機体整備と原爆搭載準備は8月5日午後11時には終り、従軍牧師の祈りの後、出撃前の食事が続いたが、その献立はオートミール、リンゴ、バター、ソーセージ、生卵、パンにコーヒーだった。
8月6日午前1時37分、気象観測用のB29が3機出発、それぞれ広島、小倉、長崎に飛び、上空の状況を後続の原爆搭載機に知らせてきた。
原爆搭載機の乗員はポール・チベッツ大佐以下11人、大佐は搭載機に「エノラ・ゲイ」の愛称を与えていたが、この名前は彼の母親の名前である。
この他に原爆装置に関する科学者4名、原子爆弾を含めて積載重量は65トンに達していたが、この積載重量は通常より7・2トンも重いもので、そのせいもあって「エノラ・ゲイ」は滑走開始から予想外に浮力がつかず、滑走路の先端付近でやっと離陸する・・・、8月6日午前2時45分のことだった。

エノラ・ゲイは硫黄島上空で夜明けを迎え、午前7時25分、四国の南東付近に到着・・・、その時先行して広島上空を観測していたB29「ストレート・フラッシュ」からモールス符暗号電文を受信した。
Y2、Q2、B2、C1・・・下の層の雲量2、中層の雲量1もしくは3、上層の雲量1もしくは3、第1攻撃目標爆撃可能・・。
「エノラ・ゲイ」は上昇を開始、午前8時38分、高度9970メートルにまで達すると水平飛行に移り、午前9時15分に第1目標の広島に原爆を投下する計画だったが、日本時間では8月6日午前8時15分のことだった・・・。

この日は月曜日、しかもこの時間は出勤時間でもあっただろう・・・、街には仕事に出かける人達が行き来し、家では主婦が洗濯、朝ごはんの後片付けをしていたに違いない、学校では元気な子供たちの声も響いていただろう。

8月6日午前7時9分、広島県北部に突然サイレンがなり響く・・・、大型機3機が豊後水道、九州、国東半島を北上してきたからだが、目標機はすぐに南下し始めたのでこの警報は午前7時31分に解除、3機の内1機は広島上空を横切って姿を消していった。
このB29は先行していた気象観測機だが、勿論そうしたことは日本側には分からない。
当時の広島市の人口は312000人、総戸数76000戸・・・、警報が解除されると広島市の街には会社、工場、学校へ出勤する人、疎開作業隊も作業を始め、編制中の本土決戦部隊に入隊しようとする者などが、いっせいに動き出していた。

「エノラ・ゲイ」は科学データ観測機と写真撮影機を後方に従え、広島市に接近、午前8時15分30秒、ウラン型原子爆弾を投下した。
広島では、原爆搭載機の接近には全く気づかず、上空に爆音が聞こえ、B29の姿が見えたときには全市が廃墟と化していた。
そして広島市民が最後に見たのは激しい閃光で、その後発生してきた強烈な爆風や空気ショック、赤い火焔を見た者は死を免れた者だけだ・・・。

15000戸の家が一瞬にして吹き飛ばされ、街は焼け焦げた死体で覆われ、その殆どが全裸体になっていて、男女の区別さえつかず、僅かに残る靴で軍人か民間人かを判別できただけだった。
激しい爆風に続いて発生した火災は、僅かに生き残った者にまで更に追い討ちをかけ、約57000戸の家を焼いた火焔地獄は死者の数をさらに増やした。
広島市の被害は市内の60%、約44平方キロメートルが廃墟と化し、死者行方不明者20万人、重軽傷者31000人と推定されている。

そしてこうした事態にもかかわらず、日本政府が状況を把握できたのは8月7日、それも原子爆弾に関する声明を出したトルーマン大統領を伝えた、サンフランシスコ放送のニュースで、始めて事態の深刻さを理解したのだった。

戦後アメリカは戦争終結への道は原爆投下以外になかったことを力説、またポツダム宣言に対して日本が取った態度が「無視」だったことをその理由としているが、日本に対する原爆の投下・・・その効果が絶大であることを知ったのは事実だ、そのことは戦後、戦勝国が先を争って核開発を行って来たことでも明白であり、いかなる言葉を持ってしても、その後ろに隠れた思惑を覆い隠すことはできなかった。

確かに核兵器は「神の力」かも知れない・・・・が、それを使ったときはどうなるか、神の如くにまるで虫けらのように人の手足をもぎ取り、ゴミのように焼くことの恐ろしさ、同じ肉体を持ち同じように心を持ったものを、これほどまでに容易く殺戮することの恐ろしさ・・・神が持つ力は絶大なら、その責任もまた無限の責任があることを我々は憶えておくべきだろう。

最後に核兵器が使われてから既に70年以上の歳月が流れた・・・その本当の悲惨さを知るものは年々少なくなってきている。
日本がどう言うところから今日までを立ち上がってきたのか、また「神の力」が使われた結果がどうなったか・・・
8月6日に際して、今一度思いをめぐらせて頂ければと思います。

(この記事は2009年4月29日、「神の力」の表題で記載したものだが、広島に原爆が投下された8月6日と言う日の資料として本日再々度記事とさせて頂いた)


「銭洲」(ぜにす)



伊豆大島近海地震、伊豆東方沖地震、伊豆半島沖地震、伊豆諸島北部群発地震、河津地震は名称上区分されているが、この付近には100を超える小さな海底火山が存在し、為に地震発生のメカニズムとしては伊豆半島沖の全てを一つの広域震源と看做す事が出来る。

こうした傾向は、例えば関東地震などにも同じものが見られ、こちらは海底火山の群在は無いが、記録に残る震源に鑑みるなら、関東の全域で震源にならなかった地域の方が少ないのであり、1923年の関東大震災の震源は横浜の西部なのである。

しかも1921年茨城県南部でM7・0の地震が発生し、1922年には浦賀水道でM6・8の地震が発生し、1923年の5月から6月には水戸で有感地震が73回、銚子で64回、東京で17回の群発地震が発生し、9月1日には関東大震災に至っている。

関東地震に関係するのは相模トラフだが、この相模トラフと東海地震震源沿いの駿河トラフは伊豆半島の根元を横切って繋がり、基本的に駿河トラフは南海トラフの一部であり、弧状列島側のプレートとフィリピン海プレートの接点は銭洲(ぜにす)である。

銭洲は伊豆諸島式島、神津島、新島などを連結する海嶺であり、この点に鑑みるなら関東地震も東海地震も、伊豆半島沖地震、伊豆大島近海地震も同じものだと言う事である。

更に1923年の例を見ても解る様に、事前には北関東で大きな地震が発生し、次は相模、そして有感地震の多くが水戸や銚子で頻発している。
決して関東地域が独立している訳ではないのであり、むしろ広義では日本の太平洋側は一つなのであり、これを無理やり区分するとしても、北関東から東海を一つの区分とするなら、以降南西諸島までの区分、東北太平洋岸の区分、北海道は楯に3つの区分が為される事になる。

1923年の関東大震災もその震源は最低でも2つ、もしかしたら3つの震源が逐次動いて大きな地震になった可能性がある。
当時の研究者たちの所見では、最初上下の震動が始まり、やがて水平方向の強い揺れになったとの記録、或いは東京では最初南北の揺れから、後には東西方向の揺れに転じたとの記録が残されている。

そしてこれより複雑な震源となるのが伊豆半島付近の地震であり、この場合最初の地震直後に次の震源が発生して大きな地震となる可能性が高く、3つ連鎖が続くと東海地震に繋がる可能性が出てくるが、これが発生する時は20秒以内に全てが発生する。

この地震の余震傾向は小さな地震が発生した直後、2・3分以内に同程度の地震が発生し、一時沈静化してから翌日有感地震が多くなったら要注意である。

ちなみに研究者や地震予知関連の情報サイトでは2018年の関東地震発生説を唱える者も多いが、この説の動機は1915年の11月に東京で有感地震が十数回観測され、その7年後に関東大震災に至った事が1点、もう一つは連日の猛暑が地震と関係在るのでは無いかと言う点だが、2011年の東日本大震災を東京での有感地震に当てはめただけの安易さがあり、尚且つ7年前の有感地震の頻発と関東大震災の関連はきわめて薄い。

更に猛暑と地震の関係だが、単なる猛暑だけでは地震との関連性は低い。
地殻がストレスを受け、プラスイオンが増大し、あらゆる生物がイガイガしたような不快感を伴うものである事、晴れた日に雷に近い現象が連日発生している事、井戸水などの水位変化がある事などが総合的に加味された上での猛暑と、先人たちは記録を残している。

単なる猛暑だけでは巨大地震とはならない。
その猛暑の中でも特殊な前兆が発生した場合にのみ「猛暑と地震の因果律」は成立し、それはその地域に住んでいる人で無ければ予測する事は難しい。

地震の前兆については2018年6月19日、「大阪北部震源地震に関して」と言う記事中に記載したので、参照下さい。

8月2日から3日にかけて、少し気になる小さな地震が伊豆近海で発生しているように思います。
他にも何か変わった事が発生している場合はご注意下さい。
また同様に南西諸島北部、九州南部の方々も普段とは違うものを感じたらご注意下さい。

ただし、地震雲に関しては99%が飛行機雲か、通常の気象条件を恣意的に見ている可能性が有るので、余り重きを措かないようにした方が良いと思います。

震度3や震度4の地震は日常のように発生していますので、これと気象条件をつなげない様に、地震を当てることに本旨があるのではなく、自分と自分が大切にしている人を守る為に、あらゆる努力をして頂けたらと思います。

「銭洲」(ぜにす)と言う名称、普段余り聞かない名前ですが、神津島の西にあるこの海域、日本の地震の一つのキーワードですので、どこかでご記憶頂ければ幸いです。




「日本銀行の偽り」

春に大地に撒かれた種は、それを撒いた者以外の目には真偽の程は見えない。

また種が撒かれたからと言って、それが確実に芽を出し、やがて結実するとは定められていない。

この段階では撒かれた豆は自他共に「虚」となるが、やがて芽を吹けば少なくとも種が撒かれた事は事実となるも、豆が収穫できなければ豆を得ることに付いては「虚」のままであり、ここで虚が実に確定するのは秋に豆が収穫できた時を言い、もっと厳密に言うならその豆を口に入れた時をして、種が撒かれたことの意義は実となる。

このように多くの実は虚から生まれ、そしてそれが実を結んで達成されると、また形を失い少しずつ虚に戻って行く。
それまで実で有ったものから虚は生まれ、この世はこうして虚と実が入り乱れた状態になり、結果が出て見ないとあらゆるものが虚となってしまい、これでは先は何も見通せない。

それゆえ人は虚実を計るとき、その人間の言葉を担保とするのではなく、その人間が過去に言葉を違えたか否か、或いは少なくとも種を撒いたと言えば、そこまでは間違いなく実行する人であるかどうか、それを計って虚となすか実と見るかを判断している。

虚実はまた「信」なのであり、この信は他者を当てにせぬなら必要が無い。

「信」は人を動かす力であり、少ない人数を動かす者は少ないなりの「信」、大きなものを動かす時は大きな「信」が必要になる。ただし、その人間が持つ社会観の範囲で最大限の努力をしないと、大きい輪だろうが小さい輪だろうが、その輪の限界まで力を尽くさねば、たった1人の人間すら動かす事は適わない。

この「信」が持つ力の方向の一つに「権威」があり、権威は「信」に拠ってしか担保されないが、権威は独存し易いものでもあり、やがて「信」から独存した「権威」は、それを守ろうとして「暴力」に依存し、言論、立場を利用した強制、恫喝などの形を取り、虚の強制と繋がっていく。

「信」の危うきは「虚」ではなく、人の不誠実に在り、種は撒いたが芽は吹かずとも、その人に信が有れば種が撒かれた事は虚とはならない。
が、種も撒かずに撒いたと言う者は、その後に行った実ですら虚と看做される。
もっと言うなら「虚」以前の社会に対する約束の不履行、つまり反社会に順ずるものでしかない。

日本銀行の資金循環総計の改定が6月下旬に行われたが、ここで個人が投資信託を保有している資金が33兆円も少ない事が修正された。
日本の資金が貯蓄から投資に移行しているとされていたにも拘わらず、実は投資から貯蓄に資金は流れていたのであり、これは詐欺だ。

元々アベノミクスと言う落下傘マネー政策は、借金の返済を自分で紙幣を印刷して払っていると言う、一番やってはいけない事をしている上に、日本銀行が市井の株を買い占めて市場操作すると言う、市場の公平性を歪める不正を行って、株価のみを経済と考えた政策だが、その根底である投資と言う部分にまで偽っていた場合、「種」は初めからなかったと言う事になる。

一番大きな「信」を必要する中央銀行と政府だが、彼らは国民に対して一番大きな「不義」を働き、それで知らぬ顔をしているのは、もはや異常としか言いようが無い。
この国の経済的崩壊はもはや確定的になった。

「偽」は「虚」の遥か下にあるマイナス、禍をもたらすものだ。
日本国民は地震、台風、水害、酷暑、厳冬、などの天変地異に加え、政治と言う人の災害まで被ることになるだろう。

身をかがめてこれに備えよ・・・。




プロフィール

old passion

Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

[このサイトは以下の分科通信欄の機能を包括しています]
「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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