2018/10/22
周易法・第十節「静寂の凶」
強風が平野の雪を巻き上げる嵐の夜はダイナミックだが、豪雪地帯で本当に雪が積もるのは静かな夜、それも恐ろしいくらいに静かな夜が危ない・・・。また地震が起こる時はカエルが鳴かなくなり、前触れではツバメなども数が減る。
この為に通常ではない「静」が訪れ、この瞬間に多くの人間は先に何が起こるかは解らなくても、「何かが起こる事」を肌で感じる事になる。
同様に人間の社会でも余りにも抵抗無く事が運ぶ時、幸福の絶頂に在る時、極端に静かな時は、その先に最大の危機が迫っている可能性があり、残念な事にこうして静けさが始まっている時は、既に手遅れとなっている。
対処方法は歩みを止める、或いは逃げるしか道が無くなっている。
人間の視覚や聴覚などの五感は空間的な隔絶性を持っていない。
純粋な視覚や聴覚などは存在し得ないのであり、必ず何某か周囲の「他」と入り組んだ状態になっている。
必要の無い景色や場面、必要の無い音の中で必要な景色や音を探しているのが通常であり、解り易く言うなら「ノイズ」の中に在るのが通常、いや厳密に言うなら、どこからどこまでがノイズで、何が必要、どれが必要ないのかも解らないのが普通なのである。
それゆえノイズが少なくなると、通常との落差を感じる事になるのだが、こうしたノイズの減少を歪めるのが人間の社会と人間であり、幸福感や絶望感、喜怒哀楽の感情はノイズどころか、本来必要としなければならなかった景色や音すらも見失っている状態と言え、よしんばそれが見えていたとしても感情は自分でノイズを増やして「静寂」を消してしまう。
最後まで気付かずに策略にはまり、利を失う事になる。
人の社会の静寂は何故発生するかと言えば、極めて生物学的な歴史を持っていて、例えば獲物を狙う時、正面から大騒ぎして襲ってくる事は有り得ず、狙っている者は必ず闇や影に身を潜めて獲物を狙っている。
この際、狙っている者は自分の音や姿を消そうとして、必要以上の静寂を作ってしまう為である。
人間社会でも余りにも抵抗無く事が進む場合は、この行き過ぎた静寂に等しく、揃い過ぎている事も同義となる。
「美」の本質は始皇帝以前の「秦」で「羊」を始まりとし、これは全てが揃っている事を意味する。
「羊」は神前に供えられる肉であり、この起源はすでに殷(商)の時代には成立していたが、この時の捧げ物は羊の肉で済んでいたかどうかは解っていない。
ただ「美」と言う文字を成立させるほど「秦」の地に厳しい祭祀が発生するのは、少なくとも江東よりも寒く生活が厳しい為であり、一般的に生活環境の厳しい場ほど社会的結束が無ければ生き残れない。
この為に秦の法はどの時代を通しても、他の国よりは厳しいのである。
そして「美」は包丁とまな板であり、ここでは完全に整えられた中で、何某かは屠られる(ほふられる)、羊なら良いが他者の策略で厳罰に処せられ、自分の首が捧げられる可能性が出てくる。
極端に揃った場、極端に静かな場は「自分が生贄になる」恐れが出てくるのである。
現代社会で言えば、自分の為に祝賀会を開いてくれると言われ、のこのこ出かけて行った結果、ちまちまと貶められるのが、これに相当するかも知れない。
この事態を防ぐのは中々難しいが、必要以上に恩賞を望めば策に堕ち、本来の働き以上の利を求めればこれも同じ。
普段から自分の力を知り、それに見合ったもの以上を求めない事、揃った場、晴れがましい場には出かけない事、人が揃えた物や場は、出来れば下見をしておく注意深さが身を助ける。
ユダヤの格言でも全員が賛成する事は、実行してはならないとされている。
冒頭でも書いたように、人間の社会はノイズの中を通常とし、どこからどこまでがノイズで本質は何かの区別が無いものゆえ、このノイズが無い状態は既に波乱の始まりとなる。
自分の進む道に敵もいなければ反対者もいない、妨害する者もいないと言う状態は、それが無価値か、そうでなければ人の策略の道を歩まされているかの、どちらかと言える。
因みにこうした静寂を消すにはどうしたらよいか・・・。
複数の相反に見える策を組み合わせると、策同士のノイズが絡み合って適度な自然さが出てくる。
「策の少なきは敗け、策の多ければ勝つ」はこの意味でもあり、策が多くなればなるほど自然対数に近づいて行く。
枯葉が落ちるように、水が流れる様に自然に事が流れ、それは凡庸にして、策が終わっても策であることすら人は気付かない事になる。
ただし、ここまで行くと最後は自分自身すら信じられなくなるかも知れないが・・・。