周易法・第十節「静寂の凶」

強風が平野の雪を巻き上げる嵐の夜はダイナミックだが、豪雪地帯で本当に雪が積もるのは静かな夜、それも恐ろしいくらいに静かな夜が危ない・・・。

また地震が起こる時はカエルが鳴かなくなり、前触れではツバメなども数が減る。
この為に通常ではない「静」が訪れ、この瞬間に多くの人間は先に何が起こるかは解らなくても、「何かが起こる事」を肌で感じる事になる。

同様に人間の社会でも余りにも抵抗無く事が運ぶ時、幸福の絶頂に在る時、極端に静かな時は、その先に最大の危機が迫っている可能性があり、残念な事にこうして静けさが始まっている時は、既に手遅れとなっている。
対処方法は歩みを止める、或いは逃げるしか道が無くなっている。

人間の視覚や聴覚などの五感は空間的な隔絶性を持っていない。
純粋な視覚や聴覚などは存在し得ないのであり、必ず何某か周囲の「他」と入り組んだ状態になっている。
必要の無い景色や場面、必要の無い音の中で必要な景色や音を探しているのが通常であり、解り易く言うなら「ノイズ」の中に在るのが通常、いや厳密に言うなら、どこからどこまでがノイズで、何が必要、どれが必要ないのかも解らないのが普通なのである。

それゆえノイズが少なくなると、通常との落差を感じる事になるのだが、こうしたノイズの減少を歪めるのが人間の社会と人間であり、幸福感や絶望感、喜怒哀楽の感情はノイズどころか、本来必要としなければならなかった景色や音すらも見失っている状態と言え、よしんばそれが見えていたとしても感情は自分でノイズを増やして「静寂」を消してしまう。

最後まで気付かずに策略にはまり、利を失う事になる。

人の社会の静寂は何故発生するかと言えば、極めて生物学的な歴史を持っていて、例えば獲物を狙う時、正面から大騒ぎして襲ってくる事は有り得ず、狙っている者は必ず闇や影に身を潜めて獲物を狙っている。
この際、狙っている者は自分の音や姿を消そうとして、必要以上の静寂を作ってしまう為である。

人間社会でも余りにも抵抗無く事が進む場合は、この行き過ぎた静寂に等しく、揃い過ぎている事も同義となる。
「美」の本質は始皇帝以前の「秦」で「羊」を始まりとし、これは全てが揃っている事を意味する。
「羊」は神前に供えられる肉であり、この起源はすでに殷(商)の時代には成立していたが、この時の捧げ物は羊の肉で済んでいたかどうかは解っていない。

ただ「美」と言う文字を成立させるほど「秦」の地に厳しい祭祀が発生するのは、少なくとも江東よりも寒く生活が厳しい為であり、一般的に生活環境の厳しい場ほど社会的結束が無ければ生き残れない。
この為に秦の法はどの時代を通しても、他の国よりは厳しいのである。

そして「美」は包丁とまな板であり、ここでは完全に整えられた中で、何某かは屠られる(ほふられる)、羊なら良いが他者の策略で厳罰に処せられ、自分の首が捧げられる可能性が出てくる。
極端に揃った場、極端に静かな場は「自分が生贄になる」恐れが出てくるのである。

現代社会で言えば、自分の為に祝賀会を開いてくれると言われ、のこのこ出かけて行った結果、ちまちまと貶められるのが、これに相当するかも知れない。

この事態を防ぐのは中々難しいが、必要以上に恩賞を望めば策に堕ち、本来の働き以上の利を求めればこれも同じ。
普段から自分の力を知り、それに見合ったもの以上を求めない事、揃った場、晴れがましい場には出かけない事、人が揃えた物や場は、出来れば下見をしておく注意深さが身を助ける。

ユダヤの格言でも全員が賛成する事は、実行してはならないとされている。
冒頭でも書いたように、人間の社会はノイズの中を通常とし、どこからどこまでがノイズで本質は何かの区別が無いものゆえ、このノイズが無い状態は既に波乱の始まりとなる。

自分の進む道に敵もいなければ反対者もいない、妨害する者もいないと言う状態は、それが無価値か、そうでなければ人の策略の道を歩まされているかの、どちらかと言える。

因みにこうした静寂を消すにはどうしたらよいか・・・。
複数の相反に見える策を組み合わせると、策同士のノイズが絡み合って適度な自然さが出てくる。
「策の少なきは敗け、策の多ければ勝つ」はこの意味でもあり、策が多くなればなるほど自然対数に近づいて行く。
枯葉が落ちるように、水が流れる様に自然に事が流れ、それは凡庸にして、策が終わっても策であることすら人は気付かない事になる。

ただし、ここまで行くと最後は自分自身すら信じられなくなるかも知れないが・・・。



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周易法・第九節「知るを恐れる」


情報の質とは面白いもので、例えば知り合いから何か相談事をされた時は、自身もその相談事に巻き込まれる事になるが、同じ情報を相手に知られる事無く得た場合、この時の情報は自身が当事者、半当事者としての責任やリスクの外に在って、しかも必要な時に使うことが出来る。

つまり情報とは「共有」はリスクを含むが、他者に拠って自身がその情報を得ている事が知られない情報は、良事、悪事いずれを働くにしても「利」の方向に傾いているものなのであり、これに鑑みるなら、他者が積極的に与えようする情報は「無害」が最上位、悪ければリスクが大きい事になる。

積極的に開示される情報は「利」に繋げる可能性は有るにしても、本体は「利」より「リスク」に傾いていて、情報と言うものが秘せられているを知る、或いは知らない事を知るを本質とするなら、開示された情報、積極的に示される情報は相手からの「コマーシャル」「利益誘導」に近いと言う事である。

人間には自分を知って欲しいと言う思いと、知られたくないと言う思いの、相反した感情が入り乱れている。
自分がいかに信用できる人間か、いかに優しくて義に篤く、礼儀正しいかは知って欲しいが、その醜い部分、恨みや妬み、困窮や不義、裏切りなどは人に知られたくない。

この中で積極的に開示されるのは自身の良い部分の情報だが、これは既に情報としての客観性を欠いたものであり、その人間を判断するに本当に必要なのは、むしろ秘せられた部分である。

人間は義と不義に拠って人を測るが、深く強い義はそう多くは無い。
それゆえ通常一般的な生活の中では、「義」よりも「不義の実績」に拠って人を測る。
ところがこの部分は開示されないまま、会話が弾めば「彼は信用できる」と思い、暫くして少し不可解な事が有れば、すぐに「信用できない」となる訳である。

古来多くの神話では自身の名を名乗ったり、それを尋ねる事は「関係性」を求める重要な作業だった様子が伺える。
「知る」は「共有」を意味していたのであり、この場合はその後、力の大きな者が小さな者を支配する事になる。

悪魔祓い「エクソシスト」で、祓い師が悪魔の名前を知ろうとするのは、その名が明かされると神の支配が来る為、悪魔は名前を知られる事を避けるものと考えられている。

また自身が相手に情報を求めれば、その求めた内容に拠って、こちらの情報もまた流出する。
情報とは開示されたものに価値は無く、秘せられた所に価値が有り、しかも自身が知ろうとして相手に尋ねれば、こちらの情報もまた流出し、その尋ねた内容に拠ってはこちらが知ろうとした事以上に、こちらの事情を相手に知られてしまう場合すら出てくるのである。

そしてこうした情報に気を取られ過ぎると、多くの情報を集めすぎて判断に迷う事になり、結局当初の何も知らない状態に近づいていく。

また例え知ったところで人間の気持ちなど終始一貫しているわけではないから、瞬間ごとに変化して行き、その瞬間の状況に対する「偶然」にどんどん近づいて行く。

「見ざる、言わざる、聞かざる」は日光東照宮の三猿だが、この中期起源は「疫病」に対する信仰であるものの、その古くは神話の世界から存在した情報に対する考え方である可能性が否定できない。

まるで草木のように存在に対する整合性を持ち、人に尋ねもしなければ自分の事も話さない。
それでいながら然るべき時に然るべき姿を違えない・・・。

私は人に名前も尋ねず、親しく会話している。
相手の連絡先を聞く事も無く、自分も聞かれねば言わない。
必要が有ればどんな事をしても知ろうとするだろうし、相手が必要なら戸を蹴破ってでもやってくるだろうと思っている。
相手がどんな悪人でも善人でも何も思わない。

その瞬間が全てであり、自身に力なければ相手の支配が及び、相手に力なければ私が支配する、それも自分の意思とは関係なく・・・。
こう言う事を教えてくれたのは、もしかしたら眼前のこの景色だったのかも知れない・・・・。


周易法・第八節「天意」


およそ人が生きていると、自分の力ではどうにもならない時、意に沿わぬ方向へと物事が動いて行く時が有り、古来こうした事に深く鑑みるなら、そこに自分以上の力が働いているのではないか、などと考える事になって行ったのだが、実はここには何も無い。

「神はおらず、天意は存在しない」
「神や天意は存在しない故に存在するのであり、だからこそ、その力は無限なのである」

また一般的に我々は天意と人為を分けて考えるが、抗う事ができなければ、これは同じ事であり、例えば交通事故は人為だが、その原因がどこから来ているかと言えば、対象者同士が出会う確率は「偶然」である。
政治、経済、思想もそうだが、これらは気象や地勢との関わりがとても深い。

純然たる「人為」は無いのであり、あらゆるものを辿れば、最後に残る一粒は「偶然」に行き着き、この偶然は意思や情、前後の関係性が存在しないからこそ「偶然」なのである
従って多くの人が望もうが叶えず、どれだけ人が死のうが何らの意思も無い故に「天上天下唯我独尊之全」と言える。

企業が崩壊するときは悪い粒に悪い粉が集まって団子になり、これが善の善なる者を潰し、結果として会社と言う組織を崩壊させるが、では善の善なる者はこの時最後の結果が「崩壊」である事を知って諦めて良いのかと言えば、それは誤りである。

「先は解らない」のであり、偶然はそのどちらにも味方しない。
それゆえ最後まで諦めずに意見具申を怠らない事が肝要で、この事は例え当初想定した通り組織が崩壊したとしても、その後に効力を発揮する事になる。

何も言わねば自身も「悪い粉」の一粒にしかならないが、ここで行動を起こして措く事は、後に自身が善の善なる者である事を示す事になり、やがては同様に善の善なる者を呼ぶ事になる。

或いは「善の者」から認識される事になる。

「悪い粉」は集まり易く、「善の粉」は独存に近い形で存在する。
善の粉は数が少なく集まりにくいが、悪い粉は簡単に集まる。

良い例が、問題を抱えた者同士が助け合うなどと言った集まりは、結果として「悪い粉」の集まりでしかない事から、何人集まっても解決策は見出せず、共倒れになって行くケースなどがそうである。

処世術として、崩壊して行く可能性が高い組織に比例して「正道」と「正論」を説くのであり、これは敵対する事と意味を同じくしてはならない。
あくまでもその組織のルールに則って、しかも相手の人格を尊重し、最後まで諦めない事が肝要である。

更にこの反対に伸びて行く新しい組織の場合、ここでは旧態が追いやられる事になるが、その場合は去っていく者の心情を慮った言葉をかけて置く事が望まれる。

新しい組織と言うものは基本的に独裁的なものであり、これは個人、集団を問わずいつか軌道に乗ったら反転する。
その時必要なものは部分的な「旧態」であり、この意味では「旧態」に声をかけておくことは先見の明ともなって行く可能性があるからである。

抗う事が出来なければ人為もまた天意であり、その先は解らない。
今天意を得ても、その得たものが既に次の瞬間には禍として降りかかって来るかも知れない。


周易法・第七節「色は無い」

明日に待っている結果は、例えば今日神社で御神籤(おみくじ)を引いて吉が出ようが、凶が出ようが変わらない。

今日の運勢で絶好調と占われても、大不調と占われても、それから先に発生して来る事が動く事は無い。
御神籤や占いは天の運行を示すもので、それに拠って運命が変わったり、人を救ってくれるものではない、むしろ変わらない事を守らねば成立しないものなのである。

人の先は千変万化が常であり、これを止めて考えれば運とも言えるが、その形は自身の通った草藪を、振り返れば道になっていると言うものであり、人の世は予め(あらかじめ)理不尽の中に在り、それぞれが違う所から生きるを始め、時には始まりから楽な者もいれば、始まり以前から苦難の者がいる。

しかし生きる事の中で一度も選択を誤らない者は無く、一度の機会も与えられ無かった者もいない。

ただ幸福であれば良いのか、不幸せは悲しい事なのか、その事の正誤は解らない。
漫然と暮らせるなら体は安んじられるかも知れないが、何も知らずに終わる。

苦難は生きるに戦いを伝え、その能力の限界までの力を出させる。
どちらが良くて、どちらが悪いとは言えないものなのかも知れない、色は無いのである。

時々人に馬鹿にされた、或いはコケにされたと憤る者が在るが、これは冒頭の占いと現実の関係に良く似ている。
現実には馬鹿にされても、それで自分の肉の一部が無くなる訳では無く、預金口座から馬鹿にされた分が引き落とされる訳でもない。
それに拠って何が変わるかと言えば何も変わらないにも関わらず、大変な事の様に騒ぐは時間と労力の無駄にしかならない。

またそうやって人を馬鹿にする人間と言う者は、人を表面的にだけしか見ない簡単な人間だと言う事で有り、この点で言うなら底は見えている訳で、耳障りになる事以外は害が無いとも言える。
しかし無表情な人間や逆に褒めてくる人間はそうは行かない。

底が見えない、色が解らない為に半々の確率で自身が何らかの不利益を被る可能性が出てくるのである。
「利」の章では繰り返し述べたが、「利」は自身が求めるものであり、他者が与えてくれるものではない。
もしそうした事が在ったとしても、それは過去に措ける何らかの代償、等価感情の清算に拠るもので、基本的に他者が持ってくるものは不利益である。

この点に鑑みるなら、人は関係のない者には愛想良くはしないのが基本で、愛想が良い場合は自身に何らかの関係性を求めてきている事になる。
そして自分が損をする相手に笑顔でいられる人間は少なく、自分が笑顔で接せねばならない時は、その人間に逆らえない場合、若しくはその者に何かを頼まねばならない時と言う事になる。

自身がそう言う訳だから、人が笑顔で近づいて来る時、褒めて来る時は、どこかで自身が何らかの不利益の入り口に立たされていると考えるべきで、謙遜などは「礼」の基本だが、人間社会の現実に対する対応でも、謙遜はこうした不利益から身を守るアプリケーションの一つだと言う事である。

褒められたり、賞賛を浴びるのは気分が良いが、これだけでは何も儲からないし、体を太らせる事も出来ない。
丁度豪華な食事に似て、舌には嬉しいが体には悪い。

美味しい薬が無いのと同じように、自分に対する厳しい言葉、あざけりなどは薬とも言えるが、褒められたり賞賛を受けた場合は必ず次の機会には損失が待っていると思わねばならない。

人を褒めたり賞賛するは、現実を玉虫色にする、或いは色を見え無くする法であり、これは自分が使う場合には良いが、他者に拠って使われている場合、これに乗せられてはならない。

人を試すに、褒めて単純に喜べば、その人間は自分を馬鹿にする人間と同じほど浅い。
しかし、真の賢者ほど一見した愚かさに在るを望む。
それゆえ、褒め言葉や賞賛、笑顔はどの場合でも均等に警戒を要するのである。

現実に色は無く、褒められるも馬鹿にされるも同じ虚でしかない。

これに支配を受けては虚の道を彷徨う・・・。


「コミュニケーション・プラス」・2P




近世封建制度(江戸時代)の「士農工商」で言う所の「農」、「工」を生業としている者としては、この秋の収穫が終わった時期が一番至福の時と言えるが、それもこれも苦しかった春から夏の頃の作業が在って味わえるものかもしれない・・・。

今年は春から夏まで殆ど雨が無く、9月に入ったら70%以上が雨の日だった為、稲刈りは遅れてしまったが、どうにか美味しい米を作らせて頂くことが出来た。

米の味は昼夜の気温差にどれだけさらして置くかで大きく違いが出てくる。
また出来るだけ肥料を少なくして地力を生かすほど、その味と香りは深みを増す。

一般的に粒が大きくて綺麗な米は美味しいと思われているが、これは実は錯誤だ。
丁度見た目が良い男や女が、良い人間か否かが決まっていないのと同じように、決して大粒の米がまずいとは決まっていないが、大粒にして美味い米は中々作れない。

9月後半の昼夜の気温差が出てくる時期まで稲を倒さず作るには、その時期まで稲が倒伏しないようにコントロールしなければならず、この意味では収穫を多くしようとしようとするなら肥料を有る程度投入し、9月前半に稲刈りをするように以って行けば、収量も多くて大粒の綺麗な米が収穫できる。

しかし米の味と香り、甘みを求めるなら稲刈りは9月後半まで待たねばならず、この場合は米粒の大きさを制限し、更に一本々々の穂の数も少なくしないと稲が倒れてしまい、一度地面にくっついてそこから水分を吸った米は、間違いなくたんぱく質が増加し味は落ちる。

しかも9月後半から10月前半は台風シーズンでもある。
人より遅く田植えをし、肥料をコントロールしている私に取って、9月前半、皆が稲刈りを終えていく中を我慢し、しかも天に祈る毎日を過ごしている訳である。

「まず、食べてみてから買ってください」、始めて私のところから米を買う人に必ず言う一言なのだが、それでサンプルに1升の米を進呈すると、大体皆が米の粒が小さいのではないかと言い、その翌日には「こんな美味しい米は初めて食べた」と、電話がかかってくる。

私が一番嬉しい瞬間だ・・・。

だがこうした経緯から常に収量は平均より少なく、注文をすべてこなすと家には米が残っていないか、或いは少し足りない状態になり、最後の方に来た人には丁重にお詫びして、それから以降自分の家で食べる米はスーパーから買ってくると言う事になる。

昔、金が無くてソニーのオーディオが買えず、海外メーカーのミニコンポを買った時、音がどうしても今ひとつだった。
やがて金をためてやっと買えたソニーのミニコンポ、その第一音を聴いた瞬間、涙が流れた。

以来私は安いからと買うと言う妥協はしなくなった。
そして当然自分が作るものも、儲かれば良い、楽が出来れば良いと言うものは作らない。
私のライバルや敵は今でもソニーで在り、サンスイであり、トヨタで在り、松下であり続けている・・・。

良い物を安く、早くは全ての基本だが、この中で早くする事が出来なければ、安くて美味いくらいは努力しないと、いつか自分の力を自分で大きく見てしまい、自滅して行く。
それゆえ、時々価格を上げればどうだと言う者もいるが、それをやると結局自分の努力を自分で驕ってしまう。

価格を出来るだけ安く抑えるのは人の為ではなく、未来の自分自身を守る為なんだよ・・・。

「コミュニケーション・プラス」、1ページのコメント数が50を越えましたので、ここからは2ページ目となります。




周易法・第六節「弱きは虚に衝かれる」




「敵を欺くには味方から・・・」は孫子の「九地編」の中に出てくる戦術だが、これの延長線上には「用の妙」と言うものが有り、こちらが特に意識していなくても、まるで水が高い所から低い所へ流れる如く自然に、自身が意識すらしない所で発生する離間効用が在る。

まず味方や仲間とは人目の在る所では仲良くしない事、同様の事は家族にも言える事で、褒賞や称賛は人目の無い所で行う事。
敵や仲良くない者との会話には笑顔を以って親密に話す事。
密談は四方の戸を開け放して行い、どうでも良い会談は戸を閉め切って行う事。

これらはいずれも「虚」を「実」にし、「実」を「虚」にする普段から行える自然防御策であり、敵に解り易く、敵を多く増やしたいなら、この反対を行えば良い。
下は家族、友から上は国家間までに使える、基本にして極意とも言える処世術である。

嫉妬心の無い人間は存在せず、多くの人間は大なり小なり嫉妬心に拠って頑張っているのかも知れない。
それゆえ、自分が僅かでも関係を持つ人間が、自分以外の他者と極端に親しい場面は、強弱が有っても必ず嫉妬心や僻みの感情を生み、これは理性に拠って外に出すか否かと言う外在的な違いは有っても、中身の心は変わるものではない。

親ばかの子を自慢するは、親子共々敵を増やす事になり、孫も同様。
他者は「素晴らしいですね」と言いながら、その実多くの人間はそうは思っていない。
従って親しい者ほど人前では親密にしない事が肝要で、必要最低限の会話に留め、家族や友だけになったら、親しく会話する事が望まれるが、多くの人間はこの逆をやっているものである。

これのビジネスモデルは「ヘッドハンティング」の防除と、上手く行けば自分の片腕を敵のスパイとする事が可能な点であり、社員同士や社員と取締役の仲が悪そうに見せておく事で、敵の手を引っ張り込み易くなる効用がある。
そもそも褒められたりぐらいの事で一喜一憂するような関係は浅く、それぐらいの事で築かれている「信」は「信」とは言えない。

敵と笑顔で談笑するは、敵も味方も欺く法であり、これで会話が成立しなくても笑っていると、敵には真意が解らなくなり、敵の中でこちらを強烈な敵とする事で自己主張している者が多ければ、談笑している姿をして、懐疑心を抱かせる可能性があり、これで気力が薄れれば敵の総合力は下がる。

場合に拠っては離反者を出させる事も可能かも知れない。

また「逃げる者は追われ、追う者は逃げられる」であり、隠せば見たくなり、隠さなければ見ようともしない。

真の密談は四方の戸を開け放って、囲炉裏があればその灰に文字でやり取りし、会話は時節の挨拶などたわいも無い事を話すの正しいが、外から見えないと言う事は中からも外が見えにくいと言う事であり、戸を閉め切ると敵の傍受者の存在をこちらが確認し辛く、心やましい者ほど影を好む。

つまり四方開け放たれた部屋には敵の傍受者も近寄り難い訳であり、これは密談のみならず、情報操作でも同様の手法を使うことが出来る。
明治の巨星「西郷隆盛」も密談は四方の戸をを開け放って・・・と周囲に言っている。

反対にどうでも良い話の時は、四方の戸を閉め切って行うと、何を話しているのかと関心を引き易く、話されている内容がどうでも良い会話だと余計に勘ぐりたくなるのが人間の心情であり、これは虚を実に見せる法と言えるが、これらは日常繰り返して使っていくほどに効果が出てくる。

心の強い者はそう簡単には動かない。
しかし心の弱い者、愚かな者、小さな心の者は「不安」に弱い。
それゆえ青いものも赤いものも玉虫色にして行く事で、相手の心の前に鏡を置く効用が発生し、そこから既存に対する揺らぎが発生して行くと、組織は簡単に壊れる。

弱い者、愚かな者、心の小さき者達が壊してくれるのであり、世に心の強い者は少なく、多くの者は弱いか、愚かか、小さい。

世の中で本当に恐い者は強者に有らず、愚かな者、弱き者、小さき者が一番恐ろしいのであり、これに鑑みるなら、自身の心を強くしておかねばならない事は言うまでも無い。




周易法・第五節「人に預け措く」




我々が心血を注いで金を貯め、そして手に入れた土地も家も、自身と、妻がいるなら彼女も死ねば子孫である子供たちの手に渡り、更にその次になれば誰のものになっているかすら解らず、如何なる事になっていても、もはや死した自身にはどうする事も出来ない。

よくよく考えてみれば、我々はあらゆるものを金を出して、生きている間だけ借りているに過ぎないのかも知れない。
たまさか今自身の手中に在るからと言って、本当にそれが自分のものかどうかは解らない。
或いは誰かのものを大枚はたいて預からせて頂いているだけかも知れない。

今この瞬間に本当に自身が必要なものは何か、健康である事、腹が満たされている事、家族やこの目で見える範囲の者が不幸ではない事、そのぐらいの事でしかないのかも知れない。
しかし、こんな僅かな事すら自身の思う通りにはならず、その中であがき、金や物は言うに及ばず信義や誠意、真実、自身の心までも人に預け、自身は人のそれらを預かっているのでは無いか・・・。

そして多くの物や心を預かると、担いでいる自身は重くて動きが取れない。
力以上に人の交わり、物や心を集めると自分が苦しむ事になる。
それゆえ出来るだけ人の物や心を預からず、出来れば自分の物や心すらも人に預け、身を軽くすると言う考え方も必要になってくる。

言い方が回りくどいか・・・。
簡単に言うなら「感情」や「欲」で動くなと言う事だ。
どれだけ高価で美味しいものを食べても、だからと言って粗食と比べ、そう大きな健康の増進が見られるわけではない。

パーティーに着て行く服は、そのパーティーだけに必要な物で、後は自宅に保管して置くだけなら、デパートの店頭に置いてある事との差は殆ど無いとも言える。

同様の事は知識や心でも言える話であり、その知識が図書館の本の中に在るのか、或いはパソコンの中に在るのか、自分や他者の頭の中に在るのかは、所在場所が違うだけに過ぎない。
知っているだけでは、それがどこに有ろうと大差は無い、使わなければ意味が無く、それがどこに在るかなど、そもそも関係が無い事なのである。

また心はどうか、多くの者は他者が自身をどう考えているかを気にするが、反対に自分は他者の事など真剣に考えた時が在るだろうか。
人のことなど常に考えている者などいない。
人はいつも自分の事、自分の環境に付いて考える時間が殆どであり、他者の事など瞬間に思うだけである。

それゆえこの瞬間を拡張して考えるのは、他者ではなく自分であり、他者に自分が思って欲しい事を、自分が預かってしまう事になる訳であり、ここで人から良く思われたいは、自分の欲と言うものにしか過ぎず、これを抱え込むと自分の欲に脅かされて行く事になる。

森羅万象のあまねく現実を、その現実通りに見る事を人間は出来ないかも知れない。
人間が築いた社会と出現する事象、現実の狭間が感情であり、これを避けるなら人は人では無くなる。
だがその「振り」は出来る。

生きていればいつか必ず人を裏切らざるを得ない時、それがどうしても避けららない時が出てくる。
だから、人がそうした場面で自身を裏切って行く時は、笑って見逃してやる、或いはその裏切りを助けてやれば良い。

去って行く者を追いかけるは、その逃げ足を早めるだけで、その事に縛られれば相手の心を自身がずっと抱え込んで恨まねばならない。
だが、裏切りを助けて逃げるのを手伝ってやれば、その事で相手は自分が本来恨みとして抱えて行く心を、引け目や感謝として預からねばならなくなる。

自分の恨みの心を相手の中で引け目や感謝として預けておくのである。
この事は男女の関係もまた然りで、相手をを本当に失いたくなければ追うな・・・。
裏切りはそれに気付くか否かは自身の力に拠るゆえ、気付くときは気付くし、気付かない時は気付かない。

そしてそうなってしまった者を咎めても咎めなくても結果は同じなら、笑っていれば良い。
たとえ気付かずにまんまと騙されても、何事も無かったように対処して行くと、相手は裏切りや騙しが成就したかどうかすら解らなくなり、こちらの真意は見えなくなる。

文字通り雲に隠れて天に昇る仙人、雲だと思えば雲になり、仙人だと思えば仙人が在り、緑と言えば緑、青だと思えば青、赤と見えれば赤の蜥蜴の(とかげ)の表皮に同じ。

それは相手の中で時に応じ、事情に拠って千変万化しながら残り続ける、私が預けた私の心・・・。




プロフィール

old passion

Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

[このサイトは以下の分科通信欄の機能を包括しています]
「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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