「心」第二節「操る(あやつる)、縛る」


今更ながらでは有るが、表題の「楽如」(がくじょ)は孔子の「礼楽」と、孫子に関わる逸話から付けられたものであり、こうした古典書物や兵法が存在する訳ではない。

孔子は「礼」が有名だが、実はその半分は詩や楽曲と融合されたものから構成されている。
現代では理解できないかも知れないが、この楽曲を聴いて一定の文章を読むと、何かが解ると言ったケースが用いられていて、正式な研究からすれば笑止と受け取られるかも知れないが、多分理解できる人には容易に理解できるはずである。

また「がくじょ」と言う音は孫子が楚を攻めるおり、敵を欺くために「ようり」と言う者をわざと裏切らせ、敵に取り入る策を用いたのだが、この時「ようり」は自身の両腕を切り落とさせ、愛していた妻の「がくじょ」を惨殺させて敵を信用させた。

「がくじょ」と言う音はこうした「ようり」の意思と妻に敬意を表して、また「ようり」が所有していた名剣も「がくじょ」と呼ばれた逸品だった事から、孔子の「楽」と組み合わせて音で「がくじょ」と為る「楽如」と言う表題にさせて頂いた次第である。

そして孫子を語るなら、彼の兵法は「人の心を操る」であり、孔子を語るなら、彼の思想は「人の心を縛る」である。
両者とも「心」をどうするかで対極的な関係に有るが、反面一番近いとも言え、例えば孫子で言う究極的な策は、誰も殺さず殺されずに目的を達するを至上とするなら、目的は孔子も同じである。

孫子は心を操ってそれを為そうと考え、孔子は「自律」でそれを為させようとしただけの差異に過ぎない。
この思想家と兵法家は深いところで入込んでいて、孫子は策略に拠って戦争に秩序を与え、その秩序を利用して戦争を効率化、言い換えれば人命の損耗を少なくしようとし、この意味では乱世に秩序を打ち立てようとする孔子と何ら変わるものではない。

しかし孫子のそれは周易から流れる「現実」を眼前に構える為、どうしても一番大切な人間を殺して多くの者を救う道とならざるを得ず、孔子のそれは逆に余りにも現実から離れ過ぎている。

秩序に拠って「現実」を支配する事は出来ない。

つまりこの2人の中国を代表する思想家、兵法家は「心」や「命」を中心とするなら、孫子が1歩手前、孔子が一歩過ぎたところに位置していると考えられ、2人とも人間の「心」と言うものを中心に苦汁、辛酸をなめ続けたに違いない。

人間の「心」は基本的に操る事も、縛ることも出来ない。
どれだけ環境や状況が揃っても、人の心がそこへ流れるとは決まっていない。
轟々とうなる滝に逆らっても進もうとする者もあれば、弱き者でもそうした時が存在する。

屈強な戦士が一番殺すを躊躇うは屈強な敵に在らず、穢れの無い女、生まれたばかりの赤子である。
そして生まれたばかりの赤子や弱き女は敵から身を守る事は出来ても、それだけでは生きて行くことが出来ない。

卑しくても生きている才の長ける者、心貧しく醜くとも親がいて、彼ら彼女らの雑多な関係の中でしか生き長らえる事は出来ない。
孫子も孔子も究極的には赤子の境地を思った事だろうが、その赤子を生かすものは何か1つの究極的なものではなく、理不尽かつ理解し難く先の見えない、この雑多な現世でしかない事が見えていただろうか・・・。

推測でしかないが、おそらく孫子も孔子も死の直前、この醜く卑怯で理不尽、辛い事しかない現世の景色を歓喜の涙で頬をぬらして終わって行ったのではないか、彼らであればこそ、その境地に至っていて欲しいと、そう願うものである。






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楽如・第十章「心」第一節「感じる」

殆どの漢字がそうであるように、心と言う漢字の起源もまた「形」から始まる。

心臓の形を始まりとする説も有るが、心臓の形を知っていたと言う事は、それを取り出して見た経験が有った事を意味し、鑑みるなら古代には心臓のみならず、人間の臓器に関して、現代よりは頻繁に人目に接する機会が有ったと言う事に他ならない。

だが「心」は確かに心臓の形に近いが、時折「腎」(じん)の書き換えに用いられる場合があるため、もしかしたら古代の「心」が示す形容的面積は今よりは広かったかも知れない。
つまり、複数の臓器を漠然と「心」としていた可能性が有る。

そして不思議な事だが、通常の漢字はこうして形容詞的な始まりから、あらゆる方向に発展して行く過程を持つが、「心」に関してはこの過程で停止して現代に至っている。
拡大して解釈してもせいぜいが「真ん中」や「思い」、周囲よりは硬いか、或いは濃い状態ぐらいのものしか出て来ない。

これは何故か、簡略に言えばその後の発展過程の方が大き過ぎて、元の形容詞的意味から若干分離し、尚且つ余りにも広範囲に波及した為、正体がなくなってしまったのである。
「朝顔につるべ取られてもらい水」どこではない、創業者が作った小さな会社の子会社が国際的企業になって、しかも総合商社になってしまった状態なのである。

従って現段階で「心」を正確に示す事の出来る文章や文字を人間は持っていない。
あらゆる場面に発生して来る「現実」に即して千変万化し、意味や合理性を超えて、我々はそれを感じるしか無いのである。

「心」は「忄」(りっしんべん)と小さな心にゴミが付いた「下心」とで構成され、この意味では古代の「心」が示すものは、我々が考えるほど美しいものでは済まなかった様でも有るが、それゆえに「心」は美しく有って欲しいと言う願いも感じられる。

人間の言語や思想はこの世に存在しないものほど人々から求められる傾向を持つ。
自由然り、平等然り、幸福然り、平和然りである。
「心」もまた、その現実の醜さゆえに、広く大きく美しいものが求められたと言うべきだろう。

そしてこうした美しさが無い時ほど、無い人間ほど「心」を大きく捉えてしまう。
「形」に心を見るは誤りだが、そもそも「心」を意識した時から、それは無限の要求を始めたに等しく、「心」はそれを求めない者に存在し、求める者には「心」は存在できない。

人に「心」を求めるなど以っての他であり、人に心を求めた時は、相手に「死ね」と言っているにも等しい事を認識しなければならない。
この世の森羅万象、あらゆるところに存在する「心」を求める事は、相手の全てを自分にくれと言っているに等しいのである。


だが反対にあらゆる場と時に存在する「心」なれば、自身がそれを「心」と思えば、それを信じることが出来るなら、どんな小さな事でも、例え飯の一杯、漬物の一欠けらでも「心」になり得る。
振り返った時一瞬見せた微かな笑い、無言ですら「心」の時が有り得る。
いや、むしろそうしたものこそ「心」と言うべきものなのかも知れない。

心は求めるものではなく、自分が感じるものだと言う事を、忘れずにいたいものだ・・・。


「楽如」第十章は「心」に付いて解説する。
ただし、寄稿者本人の都合により、月に1度か2度ほどしか寄稿が叶わない可能性が高く、第十章だけでも全節の掲載が終わるのは1年後かも知れない事をご了承頂きたい。




「自動走行システム」


一般的には余り知られてはいないが、元々自動車の自動走行システムに冠された名称を見るなら、「robotic car」であり、「intelligent transport system」、いわゆる「ITS」は日本でこそ「高度道路交通システム」と翻訳されているが、英語表記どおりに訳するなら、「道無き道を走る戦車」である。

西暦2000年の初期、アメリカでは砂漠を150マイル(241km)以上自動走行するロボット自動車の大会が行われていた。

第1回のそれでは殆どの車は10kmを超えて自動走行できなかった。
大半が数kmの範囲で制御を失った為、最長を走った車ですら11kmと言う記録だった。

だがこれが第2回ともなれば、ほぼ走破したチームを加えるなら4チームが241kmの砂漠を自動走行させる事に成功していて、ここからが楽しいところだが、こうした大会のスポンサーはアメリカ軍だった。

日本に在っては自動走行システムは利便性と言う事になるが、アメリカ合衆国では自動走行、その他ロボット開発の推進は「戦争のオートマチック化」が前提とされ、合衆国と言う国は自動車やロボットだけではなく、あらゆる事の前提が戦争に端を発している事を日本人は理解する必要がある。

食料、金融経済は言うに及ばず、日本では介護補助の為に開発されている補助器具も、アメリカではロボット戦闘員の開発から始まって行き、すでに戦車などは小形軽量化された車体に、以前の数倍の威力を持つミサイルが搭載され、砂漠どころか山林を自動走行するシステムが開発されている。

更に近年良く耳にする「無人偵察機」だが、既にオートマチック機関砲搭載は標準であり、迎撃用自動追尾自爆システムが搭載されているものまで存在し、合衆国はやがて全ての戦闘地域での無人化を目指している。

いずれは誰も乗ってない巨大な空母から、これまた誰も搭乗員のいない戦闘機が飛び立ち、5cmと違えない精度で敵を攻撃する日が必ずやってくる。

「バックする時も安心」や「中央分離白線を超えずに自動運転」、「自動ブレーキシステム」など、その背後に在るものを考えるなら馬鹿らしい限りであり、こうしたアメリカと日本のロボットに対する概念の差は今後益々拡大し、日本の「人に優しい」はいつか現実を知ったとき愕然とする日を迎える事になる。

日本の防衛省で開発された災害救助活動ロボット、多くの人は報道で知ったと思うが、震災で人が入り込めない狭い隙間から人の安否を確認するロボットも、アメリカでは既に改良版が開発されていて、移動速度は毎秒2cmから100cmの速度コントロールが可能で、しかも音は殆ど出ない。

これに搭載されている小形爆弾は半径5m以内のものは全て吹っ飛んでしまうし、同じく搭載されているオートマチック連射砲の径は3・8mmだが、これが何かに打ち込まれて止った瞬間、小さなスキップを起こし、半径3cmは破壊される。

人間を例に取れば、音も無く上から忍び寄った14cmの金属製の蜘蛛から、ピシッと言う小さな音が聞こえたら、既に打ち込まれた人間は死んでいるか、若しくは瀕死の状態になっていると言う事であり、テロリストが集まっている秘密基地に、これが音も無くやってきて、気が付いた時は全員が爆死と言う事である。

世界は止っているように見えて常に動いている。
ドローンなどもイスラエルでは軍事仕様の開発が先行して民間利用に移行している。

自動運転でアクセルを踏む事も、ブレーキを踏む事も忘れてしまった人間では、同じシステムなら全て予測どおりにしか動けず、これを攻撃するは文字通り寝ていても出来る。

統一したシステム情報にはカオス、つまり人間の持つアナログ操作こそが強力な対抗措置となるかも知れない。

遅ればせながら、新年明けましておめでとうございます。

本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。



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Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

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「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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