2019/08/25
「principle」
英国貴族、ロックフェラーとも親交の有った「白洲次郎」(以下敬称を省略する)をしても、日本語でどう表現して良いのかと言わしめた「principle」(プリンシプル)と言う言葉がある。
一般的には原理、原則、基礎と訳されるが、道徳や真理、規範とも訳され、前者と後者は同じものではないにも関わらず、包括して概念される。
為に、「principle」は特定の何かを指せない言葉と言え、同様の言語で言うなら「自由」「平和」などもこうした概念に属し、社会と物理的原則、自然と言うものに対する考え方の二面性がある。
「principle」の基本は誰もが納得する規範、ルールを守ると言う事なのかも知れないが、難しいのは「誰もが納得する」と言う部分であり、例えば1つの国家でルールとされ、誰もが知っている概念は、その国家内では絶対的なものであり、当然その概念は世界的ルールに及ぶものと概念される。
しかし現実の世界は多様な価値観、ルールが存在し、1つの国家のルールが全ての国家のそれに優先する事は有り得ない。
白洲次郎が日本語でどう訳して良いのかと迷ったのは、彼が活躍した第二次世界大戦前後の日本には、1つの国家としての「principle」が強すぎて、世界的な「principle」を日本が理解できない状況に有った為とも言える。
彼は武士道が残っていた日本では、こうした「principle」が残っていたとしているが、およそ封建制度は世界のどの国家も経験してきた汎用性のある仕組みだった。
それゆえ洋の東西を問わず、ここで概念される「principle」には汎用性が有り、同一フレーム中の概念が多くなる。
これが歪められた第二次世界大戦中の日本では失われていた上に、敗戦と言う現実に拠ってか他国から自己否定が求められた。
この時に世界的なフレームを知っていた白洲は、統一的「principle」に基いて行動する。
「日本は戦争に敗けたのであって、アメリカの奴隷になったのではない」
「戦争が終わったのだから、戦勝国と敗戦国はもはや同等のテーブルに着かねばならない、どこの世界に戦勝国の言葉で演説する馬鹿がいる・・・」
まさにそれまでの国際社会の規範だった、誇り高い英国の「principle」そのものと言える。
白洲は同時に日本は長い間戦争を引きずるだろうとも言っているが、その言葉の検証は我々の今の日本を見れば明白だ。
彼は日本がこの「principle」を誤るだろう事を見越していたし、事実敗戦と言うダメージを大きく捉えた日本は萎縮し、以後戦争や敗戦と言う一時の結果の影に隠れ、諦め続け、逃げてきた。
その付けが今、隣国の小さな「principle」を暴走させ、第二次世界大戦後失われた英国の「principle」は、不完全な形でもアメリカに拠って継承されたが、それもトランプ大統領の出現に拠って失われ、世界は今小さな「principle」がひしめく戦国時代となった。
日本は今こそ引きずってきた敗戦に真っ向から立ち向かい、白洲が言っていた「primciple」、それもグローバルな「principle」を築くチャンスを迎えている。
英国の誇り高き「principle」も、日本の武士道が持つ「principle」も、今でも世界の中で薄く弱くかも知れないが残っている。
遠からず終わるトランプ政権の後、アメリカ国民と共に、また統一的「principle」を伝統として持っている英国、フランス、ドイツ、オランダ、スペイン、ポルトガル、ギリシャなどの国家と共に手を携えて、小さな「principle」を統一するを目指す時が来ている。
誇り高き偉大な「principle」とは敵の立場の者でも認める「principle」だ。
発祥国である中国で失われた古典哲学思想、それを今に残して来た日本だ、きっとできる。
それが無くなった時は探すのではなく、自分がそれを目指さなければならない。