「子年」



子年の「子」は陽の始まり、新しい何かが芽を吹く兆しですが、これの正は真夜中の12時にして早く進み、ゆえに吉凶どちらにしても展開は速くなる。

方角は北であり、北は集中の兆しと鋭角であり、最後は点となる。
陽は元々滑らかさの無いものであり、形で言うなら切っ先が鋭い金平糖、言葉で言うならイガイガの要素を持ち、変化が多く急、
これに北の方角が加わると、吉凶どちらも急にして他が見えにくく、吉の深さと凶の深さでは凶が深く、吉は浅くなる。

それゆえ子年はチャンスも多いが成功は小さく、失敗した時は大きくなる。
被さる仏は千手観世音、千手はあらゆる事に器用だが、何でもできるは何も出来ないに等しい(言葉通りに解釈してはいけない、何もしないは究極の動であり、これが何も出来ないは仏の極太)

五行で言うなら「水」だが、大河、湖とは趣を違える。
動きの早い水であり量は中の下、基本的に災禍の後に始まるものにして、この以前には滅(草木が枯れる)があり、滅が無い時は動きの早い水を不完全と解釈し、この時の水は隠れ、大きな滅へと繋がる。

解り易く言うなら、あらゆる事が小手先、中途半端になり易く、この年より前に水溜り(禍」を避けていると次の芽が曲がってしまい、結果として大きな水溜り、禍に繋がる恐れが出てくると言う事である。

子年は他の干支に比して幸運、繁栄側に少し傾きが有る。
が、これらはどれもが小さく、積み重ねる事を意識しなければ幸運、繁栄もまたバラバラになり、効力が薄い。

予め人の世は凶事九、好事一のものであり、数の多いものほど因縁を持つ。
為に子年の吉凶は本来同じ深さのものに在りながら、因縁に拠って広がる凶事が深くなる。

道理の薄くなる卦が有り、人心は直感、感覚に拠って動く事が多くなる。
理論的な展開、整合性よりも感情が優先される事が多くなる傾向に有り、これが長じれば知らぬ間に世を惑わす。

驕った心を抑え、落ち着いた対応を心がけるなら、例え小さくても好事を積み、目的を達する事もまた難しからず。
小手先やその場を凌ぐを積み重ねると、成功しているように見えながら、最後に無以上に帰する。
やり過ごすや逃げるは、本来解決からは遠いものである事を忘れてはならない。

世界が第二次世界大戦から完全に復活したのはヨーロッパが1983年、アメリカが1986年、日本が1990年だと考えた方が良い、つまり世の中が物余りになった時点をして、世の人々に行き渡る物が完了したと言う事なのであり、これ以降は物の生産を調整しなければならなかった。

しかし繁栄の幻影から逃れられない世界は、以後30年近くも幻を追いかけ、ようやく現実に追い詰められ、次の何かが始まろうとしている。
滅から新たな芽が出てくる兆しそのものと言えるが、この芽はしっかりとした滅が在って成り立つものであり、その以前に滅を逃れようとした者は苦しむ事になる。

日本だけではなく、世界はこれから経済を拡大させるのではなく、どう痛みを抑えながら経済を縮小させて行くかを考えなければならない、分岐点に差し掛かっている。

子年のチャンスは吉凶両側に開かれている。
その場凌ぎ、現実を逃れるなら、先に待っているものは積もりに積もった凶事と言う事になる。

新年、明けましておめでとうございます。
本年も何卒宜しくお願い申し上げます。
スポンサーサイト



「Michel Charles Sardou」







「Michel Charles Sardou」1947-(ミッシェル・サルドゥ)と言う名前は、日本ではなじみが薄いかも知れないが、私が中学生だった頃、毎日聴いていたシャンソン歌手で、当時はまだレコードが日本で発売されていなかった。

またそれ以降も彼の政治色の強い歌は、ともすればフランス極右のレッテルを貼られ、ネガティブキャンペーンに遭い、特に自由主義経済圏国家側の日本としては、中々評価しにくい歌手だったかも知れない。

しかし1970年台初頭、NHKのDJでとてもコアな人がいて、彼が仕入れたレコードを放送で流したのがきっかけとなり、レコードも入手できる程の小さなヒットになった。

勿論、かぐや姫の「神田川」、八代亜紀が全盛の時代、中学生の同期でミッシェル・サルドゥなど聴いている者は1人もいなかったが、私は「un enfant de toi」(アノフォン・ド・トワと発音する)をカセットに録音したのをきっかけに、「La maladie d`a aour」(ラ・マーラ・ディ・ダ・ムーと発音する)を毎日聴き続け、フランス語で歌えるほど聴き続けた。

またこうした事をきっかけにフランス語の辞書を買い、やがて映画「エクソシスト」が封切りになると、今度はテーマ曲の「tubular Bells」を毎日聴き、どうしてもラテン語の辞書が欲しくなって、書店で取り寄せたら9200円と言う高額なものだった。

だが今思うと、私はこの時期「Johann pachelbel」「パッヘルベル」の「canon in D」(カノン)形式に反応していたのではないかと思う。
それが音楽形式か、旋律形式かは問わず、全ての楽曲の中からカノンを探し出していて、それに反応していたに違いない。

「La maladie d`a aour」などはカノンそのものだったし、「Beatles」の「Let it be」などもそうだった。
小学4年生の時に初めて聴いたカノンがよほど衝撃だったのだろう。
多分、ミッシェル・サルドゥが好きだったのは、彼の楽曲の多くが、形式上のカノン、旋律上のカノンに近かったからではないかと、今は思う。

ミッシェル・サルドゥはとても誤解を受け易いアーティストだった。
フランスの男特有の斜めな考え方、ジョークか皮肉か微妙な線の表現、これらが相まって、ともすれば極右、差別主義と誤解され、そのために暫く放送禁止に近い活動の制限が加えられていた時期があった。

だが基本的に彼は両側評価だったと私は思っている。
「Vladimir Ilitch」(トゥヴラディミーリ・ィリッチ)はレーニンの事だが、ミッシェルはレーニンを崇拝する楽曲を書いていながら、イスラムに対しても敬意を払っている。

際どいジョークに皮肉と、それを一々弁明しない古典的な男の価値観に拠って誤解を受け、音楽界から干されたミッシェル、やがてそうしている内に世界はディスコサウンドブームを迎え、ここに埋没してしまう。

ミッシェル・サルドゥ?、そんな古いものを聴いているの、と言われてしまうようになってしまった。
ちょうど日本でアラベスク(スカスカの音でしたが・・・)がヒットを飛ばしている時に、三波春夫の東京音頭を聴いているようなものだったのかも知れない。

しかし東西冷戦が終結し、世界が価値観を失った時、ミッシェルが持っていた古典的な普遍性は相対的に価値観を大きくし、以後多少は波が有ったものの、72歳となる今日でも、フランス語圏では最も楽曲が売れている、興行で最も大きな収益が見込まれるアーティストとして知られています。

そのファンはヨーロッパは勿論、アフリカ、イスラム諸国でも多く存在し、日本でもファンは少なくないと、私は思っているのですが・・・。

年末に際し、特に思うところも無いので、少年の頃、胸をときめかせて聴いていた楽曲を聴きながら、今年を終えたいと思います。

1年間、記事を読んで頂き、有り難うございました。
皆様、良い年の瀬、新年をお迎えください。

有り難うございました。

「高温化傾向と地震」



2019年12月18日、午前8時34分に発生した沖縄本島近海を震源とするM5、震源の深さ40km、最大震度4の地震に関して、この地震の範囲は沖縄本島、九州南部地方の範囲だったが、直線距離で1500kmを超えて距離を隔てる石川県輪島市の一部地域で、同日同時刻に震度1の地震、若しくは空振が観測されている。

同時刻、石川県輪島市の天気は晴れ、気温14度、南西の風1m未満、低気圧の接近無し、同時刻上空を通過した飛行機、ジェット機は無く、隕石の突入も認められなかった。
輪島市で振動を感じた人は、狭い地域だが複数に及び、この事実のみ保勘平宏観地震資料編纂室より、気象庁に報告された。
ただし、同資料編纂室の直接観測ではない為、それが地震で有ったか空振であったかは定かではない。

また2019年12月19日、15時21分に発生した青森県東方沖を震源とするM5・5、震源の深さ50km、最大深度5弱の地震に関して、やはり距離にして500km以上も離れた石川県輪島市の同地域で、震度1程度の地震、若しくは空振が確認されている。

同日の輪島市の天気は曇り、気温13度、北東の風1未満、低気圧の接近は無く、飛行機なども通過していない。
隕石なども確認されていない。
この時の振動は2回観測され、同日15時20分55秒に1回、3秒後に1回、それぞれ振動を観測した。

この振動も半径5km以内の地域では有るが、複数の証言が得られている。
ただ、こちらも地震か空気振動かを確認出来ていない。

このような事象で考えられるケースは3つ、火山噴火と微弱地震観測地点の大きな地震、どこに来るかは分からない巨大地震の前兆であり、この中で最も確率が高いのは複合要因に拠る結果の分散である。

沖縄本島近海の地震発生時、能登で観測された振動が空気振動の場合は、九州南部から沖縄の北に位置する火山の噴火、若しくは新山の隆起の可能性であり、この場合は2019年の内に何らかの兆候が現れる。

青森県東方沖地震発生時、観測された能登での振動が空気振動の場合、統計的記録が無いので因果関係が分からないが、これも何らかの火山噴火と考えるのが妥当だが、震源付近の半径100km以内にある活火山は警戒を要する。

そしてこれが空気振動ではなかった場合、1番可能性が高くなるのが、能登半島、中越沖に発生する震度6クラスの大地震である。

震源が深い地震の場合、例えば200km以上であれば、地表での確率範囲は400kmも有り得るが、深さ50kmくらいの震源では地表誤差が100km以内である。
それゆえ沖縄本島や青森県の地震が能登半島まで到達する可能性はきわめて低い。

とすればこれまで耐えてきた地殻が、次のステージ圧力を受け始めている可能性が有り、この場合は現在発生している地震規模より大きなクラスの地震が発生する確率が出て来る。

能登半島地震は2007年に発生しているが、唯1回の記録なので統計的根拠は無いものの、同地域の2006年12月は25日に雪が降ったものの、12月、翌年の2007年1月とも温暖で豪雪地帯でも小春日和だった。
その為、住民が既に何か来るのではないかと、話していた。

関東大震災でも事前の高温傾向が記録に残っているが、この場合の気温の高さは数ヶ月におよび、その直後か2ヶ月ほど後に大きな地震になるケースが多い。
エルニーニョ現象と、こうした冬季の高温化傾向の関係は絶対的な雰囲気を持っているが、実は一致点は70%である。

この為、冬季の高温化傾向がエルニーニョの規模に比して大きな場合、また活動が弱くても高温化傾向を示す場合があり、この意味ではエルニーニョ現象と大地震の関係は否定される。

ただし、これも一つと考える謙虚さは大切であり、今のところ著しい高温化傾向が能登だから、その地域が危険率が高いのであって、これが広い範囲である場合は、その範囲のすべてが地震の影響を受けると考えた方が良く、こうした広域高温傾向では、どの地域が震源になるかは分からないものの、必ず高温化地域の中が震源となる。

輪島市では今も小春日和の日が多く、この先も積雪は少ない見込みであり、同じように「何か変だな」と感じている地域が有れば、同様の警戒を要し、高温化地域が日本の半分を超える場合は、プレート地震の可能性も考えなければならない。

このまま高温化傾向が続く場合、能登半島では2月後半、3月前半に大きな地震が発生する可能性を考慮しておく必要がある。
同様に茨城県、栃木県で震源を移動させながら続いた地震の影響が関東に及ぶ場合、2020年、1月20日前後に大きな地震が来る可能性を頭の隅に入れておく必要が有る。

また新年を挟む前後、南西諸島から九州南部での火山噴火、新山の噴火も確率として有り得る事を記録しておきます。

「自然対比不完全性」



AI家電の市場が広がりつつ有るが、例えば話せば応えてくれる猫型対話ロボットマスコットを買ったとして、自分が少し離れた所にいて何も話していないのに、A!が勝手に喋り始めた時、我々が一番最初に疑うのは「誤作動」だろう。

そして確かに多くの場合は気温や湿度、或いは接触不良、遠くの音源を拾うなどの誤作動に違いないが、100回誤作動が発生した内、1回だけ自分には見えないが、何かの存在がAIに周波数で話しかけていたとしても、我々はそれに気付かないかも知れない。

また幽霊は夜に現れ、体も半透明で足が無かったりするからそれだと気付くが、完全に人間と同じ光の反射率を持ち、物質的質感を備え、一般常識的な出で立ちをした幽霊の場合、午前11時にスーパーで買い物をしている女幽霊をそれと疑う者はいない。

このように物理的に説明の付かない現象は、実は多くの物理的説明の付く事象の中に隠れてしまっている事が多く、我々がそれに気付く場合、現れた事象の自然対比不完全性に拠ってしかこれを認識できない。

自然対比不完全性の認識は、元々生体維持機能から始まっている為、かなり高度な識別反応を持つが、移植手術でも形式が合わない組織は受け入れない事や、細かなウィルスに反応するなどを先頭に、1万個の白い粒の中に、1個しかないピンクの粒を認識できる機能なども同じものだ。

この機能の原則は危機管理、危険察知機能なのだが、希少性に価値観を持つ人間全体の価値観、芸術に対する感動の感覚も根底を同じくし、物理的事象の中では「速度」に対する認識レベルは危機察知機能の観点から、かなりハイレベルな識別能力を有する。

一方、人間が作ったもので自然形態と全く同じ速度や形状、光の反射率を持つものが存在する、或いは幽霊が人間と全く同じ質感を以って現れることが出来る確率は、おそらく0なのだろうと思える。

幽霊は人間ではなくなった時点で、「異」から脱することは出来ず、たとえ出来たとしても人間社会が変化していく中で、それが確定して変化しなければ「異」となり、同様に人間も変化に対応していく「位相性」の中で通常とは異なる事象を認識していく。

飛行機の速度だけでもプロペラ機からステルス機が存在し、これらの速度の全てに人間の違和感が無いのは、それが社会的事象として数が多くなり、「異」ではないからであり、逆に夜中に現れた人魂の速度に違和感を覚えるのは、物理的整合性の数の少なさと、その運動形態に対する経験が少ないからである。

風に舞う落ち葉の動きを人間の科学に拠って、自主運動機能で再現するのは不可能と言える。
なぜなら風に同じ条件、同じ速度のものは一瞬たりとも存在しないからで、自然や物の理は全てこうした不確定性を包括していて、人間の自然対比不完全性の認識もまた、こうした不確定性を「常」としているからであり、この意味では不確定性の無い速度や運動こそが、実は決定的な「自然対比不完全性」なのである。

2019年12月13日、福島県いわき市、小名浜に設置されたFNNのカメラが少し不思議な光を捉えた。
末尾にURLを貼り付けて置いたので、のちに見てもらえば解るが、正体不明の光が高速で移動している現象が現れ、飛行機にしては識別点滅灯が点滅していない。

流星や火球にしては上から下へ流れないのが不自然と言う説も出ているが、流星や火球でも下から上に上がって行く軌道のものも有る。
むしろ決定的なのはこの光の速度が制動性の速度であると言う点で、光源は雲の手前で僅かだが減速しているように見える。

灯台や地上光の反射光にしては、雲の中を移動する時の見え方が説明できない。
今の所、何に対しても自然対比不完全性を持つ移動光なのである。
UFO目撃報告の99%が誤認や虚実だと言われているが、では100%無いのかと言えば、これも断言できない。

しかし、人間と宇宙摂理の関係は実に素晴らしいものだなと思う。
宇宙は無常、常に変化して行く事で、こうして僅かでも変化が遅れているものを識別できるよう、生物機能に連動させている。
緻密にしてダイナミック、唯々、感動する以外にない。

ちなみに地球外生命体と人類の遭遇に関して、古くからその結末は悲観的な事になる話が多いが、仏教思想の影響で比較的平和思想の日本でも、「竹取物語」の中では、弓矢を持った兵士達が出動しているものの、果たしてどうだろうか・・・。

もし私が地球外生命体だったとして、宇宙船から見て思うなら、まだ衛星である月ですら1回しか行けておらず、共食いに拠って、もしかしたら数十万年もすれば絶滅しているかも知れない生物など、関心は無いだろう。
「フンっ」と鼻で笑って、次の面白そうな星を探すと思う・・・。


https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/fnn?a=20191213-00428900-fnn-soci  資料映像

「視覚感光システムと維持」





人間の視覚情報システムは、簡単に言うなら一枚の絵を少しずつずらして描き、それを重ねてパラパラと順に開いて行けば絵に動きが出る、あの古典的な動画作法と、フィルム写真に使われる、感光剤が組み合わさったようなものと言う事が出来る。

人間の目の網膜には「ロドプシン」と言う感光性の色素たんぱく質が有って、これは「オプシン」と「レチナール」の共役二重結合関係に有る不飽和アルデヒドに拠って構成されるが、ちなみに「オプシン」はたんぱく質であり、「レチナール」とは分子構造を違え、これらがほぼ同じ役割を負っていながら構造が異なる為、共役二重構造と言う。

ロドプシン中のレチナールにはc=c結合が4箇所含まれているが、この内中央付近の1つがシス形であり、11-cis-レチナールのアルデヒド基が、オプシンのリシン残基と結合したものが「ロドプシン」である。

ロドプシンに可視光が当たると、色素中のレチナールが全てトランス形に変化し、ここで折れ曲がったシス形と直線鎖のトランス形では形状が異なっていく為、結合しているオプシンも強制的に形状が変化させられる。

このたんぱく質の変化に拠って視細胞が興奮状態を起こし、視細胞膜のK+信号が閉じ、Na+信号が開く。
これに拠って膜電位変化が生じ、視神経を経由して大脳に情報が伝えられる。

ただし、これだけだとロドプシン中のシス形レチナールは、いずれすべてが変化してしまい消滅する為、数秒と言う単位を待たずして物を見る事が出来なくなるが、トランス形に変化したレチナールをシス形に戻す酵素に拠って、シス形レチナールが再生補給され、オプシンとの結合に拠ってロドプシンが再生し続ける。
これが連続して人間はものを見る事が出来るのである。

そしてここで出てきたレチナールはビタミンAが不足すると感光作用が落ち、少し暗くなっても目が見えない状態を引き起こす。
ビタミンAはレチナールの-CHO基をアルコール性-OHに置換した構造を持ち、別称レチノールと言う。

植物の中に含まれるβ-カロチンは、動物の体内で比較的容易にビタミンAへと合成される。
β-カロチンは酵素の作用に拠って、中央の二重構造が簡単に開き、2分子のレチナールに変化し、更には別の酵素作用でビタミンAへと還元され、肝臓に蓄えられる。
肝臓にエステルとして蓄えられたビタミンAは、必要が生じるといつでも体内で酸化され、レチナールに再置換されて視覚作用を維持している。

このような関係で、β-カロチンの摂取は視覚機能維持には欠かせないのであり、ニンジン、カボチャ、ほうれん草、柑橘類を避けていると、夕方早くからものが見えにくくなる症状を引き起こし易く、最も効率の良いβ-カロチンの摂取法は、その吸収親和性から油脂が適している。

ニンジンやカボチャ、ほうれん草を「なぜ食べなければいけないの」とお子さんから訪ねられたお母さん、この記事をプリントアウトして「ここに全て書いてあるから、ちゃんと読んでおいてね」と渡せば、彼等は黙って野菜も食べてくれる事だろう・・・(笑)

「何か嫌な予感が・・・」



古来から地震と気象を同じテーブルで考えてきた人間のセンスは、とても素晴らしいと思う。
が、一般的に専門研究としては分離していて、民間の地震研究者では気象と絡め合わせて研究している者も少なくないが、その多くは主に低気圧と地震発生との関係を考えているものと思われる。

しかし現実的には大きな地震が発生する場合、晴天の風の無い日と言うケースが圧倒的に多い。
また1週間以内に低気圧が1個も発生しない時期は限られていて、ここに低気圧との関連付けを考えるなら、すべてが適応されてしまう為、地震発生の前兆現象とは言えなくなってしまう。

ただ1986年に一度だけ気象庁が低気圧と地震の関係を認めたケースが存在し、この時は7日以内に3個の低気圧が同じ地点を通過した事と、地震発生が関連付けて考えられ、原因は不明とされた。

7日以内に同じ地点をカルマン渦低気圧ではない、独立性の低気圧が通過する確率は極めて低い。
そもそも余り発生する確率の少ないものの上に、震度5の地震が発生した事から、何らかの関連があるかも知れないが、その原因は解らないとしたのである。

また、例えば普通の低気圧と熱帯低気圧、別名「台風」だが、この両者の関係は台風に優先順位が存在し、影響を与える側が台風であり、影響を受けるのが低気圧であるのと同等の順位が、地震と気象の関係にも垣間見られる。

地震発生時には気象が地震発生の直接的介入を受けるケースが存在する為であり、玄界灘で発生した震度6の地震の際、当時の気象は弱い雨だったが、地震が発生する5分前に雨は止み、地震が発生した直後から、また雨が降り出した。

同じく石川県珠洲市沖で発生した震度5強の地震の際、当時は同地を低気圧の中心付近が通過していて、大荒れの雨だったが、ここでも地震発生5分前には雨が上がり、信じられない事に夜空には月と星が見られ、地震が発生し終わると同時に大嵐は再開された。

大きな地震はどうも雨を嫌う傾向に有り、この事から晴れた日の風のない日に発生する地震は大きくなり易く、この状況は大きな地震の場合、無理やり雨を晴らしてでもやってくる傾向を持っているかも知れない。

ただし、雨の日には絶対地震が来ないかと言えば、そうではなく、雨の日には震度4を超える大きな地震は少ないと言う事なのだが、本当に大きな地震の場合は、大嵐を強制的に中断させ、晴れた状態になってからやってくる、そんな優先順位が存在している可能性がある。

さらに大きな地震の前兆現象と震源の関係では、2011年の東日本大地震以降、常に日本列島が圧力を受けている状況が強まった事から、従来の周期的予測はもう使い物にならず、ここから比較的新しい傾向を探るなら、気温に関する前兆現象はその当地、微弱地震が震源を移動しながら発生している場合は、その地が大きな地震の震源になるとは限らないケースが増えている。

確かにそう広くない地域に微弱地震が発生している場合、該当地区に大きな地震が発生する確率は高いが、震源が散らばっている時、次にどこに大きな地震が来るかは解らないのである。
場合に拠っては太平洋側で微弱地震が続き、日本海側で大きな地震発生の可能性があり、勿論この反対も存在する。

また通年より気温が高い状態が続いている場合は、その気温が高く推移している地域に大きな地震が来易く、気温が高い地域が広範囲な場合、通年比較に拠って一番温度上昇率が高い地域が、大きな地震の震源になる可能性が高い。

こうして2011年以降の傾向を統計してみると、12月3日から5日まで続いた北関東の中規模、微弱地震が関東大地震の引き金となる可能性は低いものの、これ以降他の地域でも微弱地震が発生するようなら、僅かな回数の統計でしかないが、関東に大きな地震が来る時期としては2020年、1月18日から23日くらいであり、この確率は九州、北海道での発生確率と時期も規模もほぼ同じである。

現在「空振」(くうしん)は火山噴火の前兆現象で有る事が、統計的に確かめられたが、空振と地震の差異は、空振の場合は窓などがビリビリしたり、ドーンと言う音がしても地面は揺れていない状態を言い、これを地震と区別する場合は、水を入れた容器を置いておけば明白になる。

地震のように揺れても水が動いていなければ空振であり、噴火火山の付近でなければ特に警戒する必要は無い。
だが容器に張った水が揺れている時は地震である。

そして同じ微弱地震でも、震度6を超える地震が発生する場合の前触れ地震では、弱くても長く続く地震には警戒を要する。

私の住んでいる地域では、この季節なら4日に一度は冷たい雨か霰、それに高電圧の雷の日が有るのが普通だが、今年は異常に静かで気温も小春日和である。
それに今日、12月11日15時14分、12秒にも及ぶ微弱地震を観測したが、気象庁の地震計には記録されていない。

石川県能登地方に設置されている地震計は10箇所、しかし私の住んでいる所から半径10km以内に設置されている地震計は1つも無く、能登半島地震の前にも、中越沖地震の前も同様の事が有った。

外れてくれた方がとても嬉しいが、何か嫌な予感がする。

「腹八分目」



1987年12月17日に発生した千葉県東方沖地震、実はこの地震の前には東京、千葉、茨城で小、中規模地震が多発し、為に昭和関東大地震の発生が危ぶまれ、日本全体が今日か、明日かと騒然となっていた。

この中で当時FM電波の変動から、地震予知をしていたK(個人情報保護規定により秘匿する)氏を代表とする民間地震予知団体が判定会を開き、昭和関東地震発生を予知発表した。
だが、やはり民間の地震予知団体である「日本地震予知クラブ」はK氏の業績は称えたものの、自らの組織としては昭和関東大地震の予知を判定しなかった。

結果、発生したのは千葉県東方沖地震だったが、東京の震度は3だったのである。
K氏はこの地震予知を外した事から、社会的な信用を失う事になったが、その背景にはこの団体が当初謳っていた「災害に関する情報が金銭に拠って差別されてはならない」と言う方針を転換し、民間企業より情報提供料を受け、団体維持管理費、関係者の生活費などに充てられていた為だった。

民間から資金供与を受ける地震予知は、最後には必ず予知では無くなる。
資金供与は地震を予知していると言う実績に拠って信用を担保されるから、予知を外せない事になり、ここから毎日地震が来ると騒ぎ、地震のない日が少ない日本では、騒いでいれば事は足りる事になるからである。

これとは別に特殊能力、占いから地震を予知したとするケースでは、ただ1度の偶然を以後、自分で拡大解釈し、やはり毎日地震が来ると騒ぐ事から、民間資金供与を受けた場合の予知団体と同じにしかならす、大学などの研究機関が出す地震予知は「心得」か「暦」程度の話しである。

この宇宙で何かが移動、或いは伝播する時の形態は均一定量のケースが存在しない。
必ず波の性質を免れず、力学的なエネルギーの供与と、これに対する破砕の関係も波の性質を持つ。

エネルギーが加えられると、それに耐える力が働き、強弱を繰り返して最後に破砕するが、この時破砕する確率はエネルギー量に拠り変化し、このエネルギー量を正確に測定できなければ、破砕がいつ発生するかは解らない。

それゆえ地震の場合は相当の異常が発生しても、それが破砕に繋がるか否かの確率は33%を超えず、その先端には常に発生と非発生の確率、50対50の確率が付きまとう為、これはもう間違いない絶対地震が来ると思える異常でも、最大確率は16%なのである。

つまり事象の異常に拠る地震発生の予知は、9回の内当たるのが1回、その1回が最初の1回か、最後の1回なのか、どこに来るかは原理的には均等確率だが、現実には不均等確率なのだと言う事を覚えて置くと良いかも知れない。

12月3日から今日、12月5日に措いて、茨城県、栃木県で小、中規模地震が頻発している。
そしてこうした震源が分散して地震が発生している場合、大きなエネルギーが広範囲に圧力を加えている可能性が高い。

この場合震度5強以上の地震発生確率は、統計上1回目、6回目、9回目付近が他の回より大きい。
つまり数日以内と、2ヵ月後、7ヵ月後に大きな地震が発生する確率が、他の期間より少しだけ多く分布していて、7ヶ月付近では微細地震発生震源域の拘束を受けない。

簡単に言えば、小さな地震が発生している地域以外の、離れた地域で大きな地震が発生する確率が大きくなっている。
これも統計上の傾向でしかないが、震源が集中して小さな地震が発生している場合、大きな地震は数日内に発生するケースが多く、震源があちこちに分散して小さな地震が数日続く場合、大きな地震が1ヵ月後、2ヵ月後に発生する事が多くなり、微細地震が収束してからの期間が長いほど、大きな地震の震源は、当初の微細地震震源域から離れて行く傾向が有る。

私の住んでいる地域は豪雪地帯だが、11月末にムカデ、12月2日には家にカエルが迷い込んでいた。
本来有り得ない話ではあるが、もしかしたら何か大きなものが少しずつ近付いてきているのかも知れない。

地震予知は全て当たらない。
確率は来るか来ないかの50対50の自然確率であり、異常現象に拠る確率は3割、予知などしなくても、初めから100人いれば16人は当たる自然確率を持っている。

科学的だろうが非科学的だろうが関係なく、普段から食物摂取を自制し、五感を研ぎ澄ましてこれを「感じ」、経験や知識も加え、避難経路と家族が分散している場合は集合場所などを取り決めて措く、などの「勘」と「準備」こそが地震予知に勝る究極的予知と言うものだと思う。

「腹八分目」は古来よりの推奨慣習であり、人間は満腹時より空腹時の方が五感が研ぎ澄まされる。
災害予測に限らず有用な事である。
「食」の誘惑に怠惰になり感性が鈍り、肥え太った体では災害に拠って餌食にされる。

ちなみに猫がどうしても家から外に出ようとしてぐるぐる部屋を回っている、カエルの鳴き声が一斉に止まった、晴れている空に電車のような長い光の帯が見えた、いきなり遠くで大勢の人が話しているような声が聞こえた、或いは木の葉がざわついているような音が聞こえた時は、急がねばならない。

これらの場合は既に今この瞬間、大きな地震が発生した、と言う事なのである。

プロフィール

old passion

Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

[このサイトは以下の分科通信欄の機能を包括しています]
「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

最新トラックバック

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR

月別アーカイブ