「総理辞任に鑑みて」


安倍総理の辞任を考える時、もし今年に入ってからのコロナウィルス騒動が無かったら、2年前にヘリコプターマネー政策を終了させる事が出来ていたら、今回のように体調不良は有ったのかな・・・・。
そんな事を思ってしまう。

第一次安倍内閣の最後に鑑みても、安倍晋三と言う人間は、問題が山積して解決能力を失うと、一挙に弱気になり病気になる。
ある種登校拒否のの子供みたいなもののような気がする。
本当に体が悪いなら議員すらも辞職するはずだが、それは無くて総理だけ辞めるは、逃げたと言われても仕方がないし、事実政界の寝業師と言われた「三木武吉」らの在り様に鑑みるなら、如何にも政治を軽く観ているようにしか感じられない。

現実には6月18日時点で、あらゆる問題の解決方法を失っていたし、その後はもう病院へこれ見よがしに通ったり等、辞任に向けたストーリー作りだったように思う。
国家の首長が本当に具合が悪い時は、内政上も外交上もこれは秘せられるのが普通だから、敢えて早い時期から病院通いがリークされる場合には、スケジュールに向けたストーリー作りだったと考えられる訳で有る。

「病気で総理はできませんが、国会議員はできます」と言えるほど、心身喪失で判断もできない者でも務まるのが国会議員なのかと言う話である。
言葉の整合性が無く、どこかでは何かをなめている、これまでの在り様と何ら変わらない。

自身が批判される、或いは自分の名誉を守るために病院への通院をリークするのではなく、批判は覚悟の上で懸案となっている問題の1つでも、2つでも解決の道を付けて引くのが、国民の負託を受けた政治家の在り様だと思うし、その意味ではもはや負の遺産となってしまった政府の日銀侵食くらいは、しっかりけりを付けて欲しかった。

ひたすら幼児性が抜けないまま大人になって、周囲からおだてられその気になって2度も総理までやってしまったが、彼は戦後の総理の中では最低の総理と言える。
こうした引き際の幼稚さもそうだが、期限の定めなく日本銀行の中立性を侵した行為は、第二世界大戦中、統帥権まで独占した東条英機に匹敵する暴挙だった。
この1点でも安倍内閣の評価は戦後最悪の汚名を冠せられるものだ。

それともう一点、こちらは安倍総理の評価とは全く関係ないが、彼は地震に縁の有る総理で、第一次安倍内閣の時も選挙で完敗し、挙動が疑われ始めた頃を挟んで、能登半島地震、中越沖地震と言う大きな地震が発生するのである。

これは昔から言われている事だが、大きな政変の時は大きな地震が来ると言う伝説は、科学的根拠を持たないが、現実的には多く重なってきている。
阪神淡路大地震、東日本大地震発生時は、自民党が政権を失っていた。

それとこれも昔からの伝承だが、気温が高い年は大きな地震が来易いとも言われている。
全ての地震の数を把握できない限り、統計的にどうこう言う事は出来ないが、少なくとも1700年代以降の大きな地震では、比較的気温の高い現象が在って、大きな地震に至っている傾向がある。

科学は因果関係を好むが、この世の事象は全て合理的因果関係だけでできてはいない。
全く関係のない者同士でも因果関係が出てくる場合も存在する。
高温と地震は僅かかも知れないが、因果関係が有る事は理解できるかも知れない。

しかし政変と地震はどう考えても繋がらないが、だからと言って100%因果関係を拒否できるものでもない。
現実にそれが在って、何かが発生するなら、ここにどんなに関係性が認められなくても、因果関係は成立する。

既に総理辞任と言う大きな政変と、日本列島の高温化現象と言う、過去から言い伝えられている大きな地震発生を疑うべき現象が2つも揃って出てきている。
律令の時代なら、こうした事も配慮して自身の進退を決めるのが為政者と言うものだったのだが・・・。

一応、警戒すべきなのではないだろうか・・・・。

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「終戦詔書」

                  「詔   書」
朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク

朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

抑々帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所曩ニ米英二國ニ宣戦セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ニ安定トヲ庶幾スルニ出テ他國ノ主権ヲ排し領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戦巳ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ励精朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ盡セルニ拘ラス戦局必スシモ好轉セス世界の大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ殘虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルニミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ心霊ニ謝セムヤ是朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ

朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝國臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ為ニ裂ク目戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝國ノ受ケヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス

朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ亦誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ慈クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ将來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ

     御 名 御 璽    
昭和弐拾年八月拾四日
     

                 「詔書解説」
私は世界の情勢と現在のわが国の現状を考え、非常の措置でこの混乱を収拾したいと思うので、国民皆に発表します。

私は政府を通してアメリカ、イギリス、中国、ソビエトに対して共同宣言(無条件降伏)を受け入れる事を通知した。

そもそもアメリカ、イギリスに宣戦を布告したのは日本国民とアジアの安定の為、世界の共栄の為であり、これは天皇家伝統の精神であり私の基本的な精神である。
決して他国の領土や主権を侵すものではなかった、しかし戦争が始まってからもう4年経ったが、陸海軍の兵士、将校、一億国民がそれぞれ最善を尽くしたにも拘らず、戦局は思わしくなく、また世界の大勢もわが国に不利にはたらいている。

しかも敵は新しく大量殺戮が可能な残虐な爆弾を使い、罪の無い国民を殺害しているに及んでは、とても信じられない事である。
尚も戦争を続けるか、わが民族滅亡、ひいては人類文明をも叩き壊すようなことになれば、私は世界の人々や天皇家の祖先に対して、何と言ってお詫び出来るだろうか。
これが私が政府を通して無条件降伏に応じざるを得なかった理由である。

私は日本と共に東アジアの解放に協力してくれた国々に対して、残念とも言う事ができない。
また国民に対しては戦陣で死に、職場で死んだ者、及び其の遺族のことを想うと五臓が引き裂かれるれるようである。
更に戦争で傷を負った者、家や職業を失った者の厚生に至っては、私のとても心配なことである。

今後日本の苦難は計り知れない、国民の気持ちも良く分かる。
しかしこれも時の運である。
耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、世界の平和の為に道を開こうと思う。

私はここにいて、この国が存在し続け、国民皆の心と共に在る、決して激情したり取り乱したりして混乱を招き、世界の信用を失うようなことのない様に戒める。
どうか国を挙げて家族助け合い、この国の不滅を信じて、厳しく道は遠いが総力を上げて将来の建設に努め、道を踏み外さず強固な意志でこの国の繁栄の礎を築き、世界の発展に遅れない様にしてください。

国民の皆さん、私の気持ちを分ってください。

        昭 和 天 皇   印


この詔書は、文面の前半と後半では大きな違いがある。
どうしてかと言うと、前半の半分は政府、軍部関係者が作成したものだからであり、後半の半分は昭和天皇が8月14日の御前会議でお言葉にされたものを、文面にしているからである。
昭和天皇はご自身の事より、国民の事をより深く案じておられた事が伺える。

第二次世界大戦が終結して75年、日本が太平洋戦争にひた走って行った最も大きな契機は、蒋介石(しょうかいせき)率いる「国民政府軍」との和睦に失敗した事だった。
ここから中国に措ける戦闘状態の収拾が付けられなくなった日本は、戦争をコントロールできなくなって行った。

この責任の1番大きなものは「関東軍」と「日本陸軍」だが、それと並行して経済を優先させる財閥の在り様も、決して軽いものではなかった。
今、日本や世界の経済優先主義、保護主義的な経済環境に鑑みるなら、第二次世界大戦前夜と全く変わらない様相と言える。

私達が今、手にしている平和は、決して無償で天から降って来たものではない。
多くの人の血と肉に拠って、贖(あがなわれた)ものである事を忘れてはならない。
先人の苦難を偲び、平和と慈しみの心を深く養い、以て自身の幸福が国家の繁栄となり、やがては世界の繁栄となる事を、ここに祈念する。

8月15日の終戦記念日に際し、昭和天皇の終戦詔書を掲載させて頂いた。

「広島、天気は晴れ」

このまま降伏と言う事態になれば、政府責任者は戦争犯罪人として死刑になるかもしれない・・・。
いやその前に国民総玉砕を主張する過激分子たちに暗殺されるかも知れない・・・・。
だがもう良い、どうなっても構わない・・・。

「佐藤尚武」駐ソビエト大使は溢れる涙と、胸の奥からこみ上げる熱い塊を感じながら、それでも東郷外相からの電報(ソビエトに引き続き仲裁依頼を継続する旨)を押し戻す進言電報を起草した。

ポツダム宣言受諾を巡って日本がソビエトに仲介を頼んだ背景は、余りにも身勝手な理屈だった。
すなわちポツダム宣言を受諾するにしても、日本国内で降伏と言う現実を納得させる方法がない。
特に陸軍などは戦争継続を主張していて、このまま降伏したとしても、戦闘を平和的に収束させる力、統制が既に政府、軍部にもなかったのである。

また民主主義のイギリス、アメリカに対し、社会主義のソビエトは確かに対立関係にあり、そうした意味でアメリカと戦争をしている日本には協力的なのではないか、とする日本の思惑は理解できない訳ではないが、7月24日、ソビエトは駐日大使を既に山形県酒田港から船で帰国させている。

ポツダム会談のさなか、こうしたソビエトの動きは、冷静に見れば既に結果が出ていたことを示しているが、それでも僅かな望みに頼らざるを得なかった日本、決定的な意識の欠如はポツダム宣言の意味を理解していなかったことである。

ポツダム宣言は国際関係における明確な意思の表明であり、これに対する答えはイエスかノーであり、交渉も間接的回答も求めてはいないのであり、そこには日本国内の情勢により、降伏の体制を整えさせてくれれば降伏する、と言うお優しい配慮など望むべくも無いことだった。

1日の決断の遅れは後悔や懺悔ですむものではない、日本が滅亡する。
この事を、この時点で切実に理解できたのは、駐ソビエト大使「佐藤尚武」をおいて他にはいなかっただろう。

8月2日午後3時、原爆攻撃を実行するテニヤン基地の第20航空隊は、8月6日、日本に「完全なる破壊」すなわち原子爆弾第1号を投下する予定命令を受けていたのだった。

第1目標は広島、もし目視による爆撃が気象条件で困難な場合は小倉、更に長崎の順に目標を変更となっていたが、この時の日本は例年にない寒気の影響を受けていて、梅雨は終わってようやく夏の暑さが訪れ始めていたとは言え、列島西半分の天気は相変わらず、ぐずついたものとなっていた。

テニヤン駐在の第393飛行大隊は、連日B 29を飛ばし日本上空を偵察していたが、広島方面の空は目視攻撃には適さない日が続いていた。
しかし8月5日の朝、気象データは翌日の広島の空は「晴れ」と言う予報を出した。
運命の日がやってきたのである。

直径71センチ、全長3メートル、重さ約4トンのウラン型原子爆弾が組み立てられ、原爆投下機に指定された機体番号「44=86292」のB29に搭載され、整備員たちは大きな爆弾にクレヨンで思い思いのコメントを書いた。
「健闘を祈る」、「ヒロヒトに不運が訪れるように・・・」などである。

機体整備と原爆搭載準備は8月5日午後11時には終り、従軍牧師の祈りの後、出撃前の食事が続いたが、その献立はオートミール、リンゴ、バター、ソーセージ、生卵、パンにコーヒーだった。

8月6日午前1時37分、気象観測用のB29が3機出発、それぞれ広島、小倉、長崎に飛び、上空の状況を後続の原爆搭載機に知らせてきた。
原爆搭載機の乗員はポール・チベッツ大佐以下11人、大佐は搭載機に「エノラ・ゲイ」の愛称を与えていたが、この名前は彼の母親の名前である。

この他に原爆装置に関する科学者4名、原子爆弾を含めて積載重量は65トンに達していたが、この積載重量は通常より7・2トンも重いもので、そのせいもあって「エノラ・ゲイ」は滑走開始から予想外に浮力がつかず、滑走路の先端付近でやっと離陸する。
8月6日午前2時45分のことだった。

エノラ・ゲイは硫黄島上空で夜明けを迎え、午前7時25分、四国の南東付近に到着。
その時先行して広島上空を観測していたB29「ストレート・フラッシュ」からモールス符暗号電文を受信した。
Y2、Q2、B2、C1・・・下の層の雲量2、中層の雲量1もしくは3、上層の雲量1もしくは3、第1攻撃目標爆撃可能・・。

「エノラ・ゲイ」は上昇を開始、午前8時38分、高度9970メートルにまで達すると水平飛行に移り、午前9時15分に第1目標の広島に原爆を投下する計画だったが、日本時間では8月6日午前8時15分のことだった・・・。

この日は月曜日、しかもこの時間は出勤時間でもあっただろう。
街には仕事に出かける人達が行き来し、家では主婦が洗濯、朝ごはんの後片付けをしていたに違いない、学校では元気な子供たちの声も響いていただろう。

8月6日午前7時9分、広島県北部に突然サイレンがなり響く。
大型機3機が豊後水道、九州、国東半島を北上してきたからだが、目標機はすぐに南下し始めたので、この警報は午前7時31分に解除、3機の内1機は広島上空を横切って姿を消していった。
このB29は先行していた気象観測機だが、勿論そうしたことは日本側には分からない。

当時の広島市の人口は312000人、総戸数76000戸、警報が解除されると広島市の街には会社、工場、学校へ出勤する人、疎開作業隊も作業を始め、編制中の本土決戦部隊に入隊しようとする者などが、いっせいに動き出していた。

「エノラ・ゲイ」は科学データ観測機と写真撮影機を後方に従え、広島市に接近、午前8時15分30秒、ウラン型原子爆弾を投下した。
広島では、原爆搭載機の接近には全く気づかず、上空に爆音が聞こえ、B29の姿が見えたときには全市が廃墟と化していた。

そして広島市民が最後に見たのは激しい閃光で、その後発生してきた強烈な爆風や空気ショック、赤い火焔を見た者は一瞬死の訪れが遅れた者達だったが、それとて僅かな時間の差に過ぎなかった。

15000戸の家が一瞬にして吹き飛ばされ、街は焼け焦げた死体で覆われ、その殆どが全裸体になっていて、男女の区別さえつかず、僅かに残る靴で軍人か民間人かを判別できただけだった。
激しい爆風に続いて発生した火災は、僅かに生き残った者にまで更に追い討ちをかけ、約57000戸の家を焼いた火焔地獄は、慈悲の欠片もなく人々をなめ尽くした。

広島市の被害は市内の60%、約44平方キロメートルが廃墟と化し、死者行方不明者20万人、重軽傷者は31000人に及んだ。
そしてこうした事態にもかかわらず、日本政府が状況を把握できたのは翌日の8月7日、それも原子爆弾に関する声明を出したトルーマン大統領を伝えた、サンフランシスコ放送のニュースで、始めて事態の深刻さを理解したのだった。

戦後アメリカは戦争終結への道は原爆投下以外になかったことを力説、またポツダム宣言に対して日本が取った態度が「無視」だったことをその理由としているが、日本に対する原爆の投下は、その効果が絶大であることを、あらためて世界に知らしめたのも事実だった。

その事は戦後、戦勝国が先を争って核開発を行って来たことでも明白であり、いかなる言葉を持ってしても、その後ろに隠れた思惑を覆い隠すことはできなかった。

確かに核兵器は「神の力」かも知れない・・・・。

が、それを使った時はどうなるか、神の如くに、まるで虫けらのように人の手足をもぎ取り、ゴミのように焼くことの恐ろしさ、同じ肉体を持ち、同じように心を持った者を、これほどまでに容易く殺戮することの恐ろしさ・・・。
神が持つ力は絶大なら、その責任もまた無限の責任があることを我々は憶えておくべきだろう。

最後に核兵器が使われてから既に70年以上の歳月が流れた。
その本当の悲惨さを知る者は年々少なくなってきている。
日本がどう言うところから今日までを立ち上がってきたのか、また「神の力」が使われた結果がどうなったか・・・。
8月6日に際して、今一度思いをめぐらせて頂ければと思う。

1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下され、20万人の人が一瞬にして死んだ。
今日の日本の礎(いしずえ)となった祖先の苦難を思い、この平和が無傷で手に入ったものではない事を忘れず、平和を愛する心を深く養い、原爆の犠牲となった人達に敬意を現す為、本文を寄稿させて頂いた。

文 責  「The Times of Mirabilla」 Tadashi-Aasada

「夏の日の霧」

2020年7月31日、鹿児島県奄美名瀬市の市街地では、原因不明の「霧」が発生し、通常視界確認距離が20kmほどの同地の視界は3kmほどとなり、この現象は早朝に始まり、7月31日の夜まで続いた。

また同様の霧は奄美市瀬戸内町などでも発生しており、奄美市では広い範囲に渡って終日原因不明の霧に包まれたものと考えられる。

通常気温差から早朝などに霧が発生する事は珍しい事ではないが、この霧が広い範囲に渡って1日続く現象はとても珍しい。
気象学的も中々説明の付かない現象と言えるが、可能性としては黄砂の影響と言う事が考えられる。

しかし7月31日と言う時期、事前に低気圧の通過もなく風は穏やか、前日から当日まで降雨は全く観測されていない為、黄砂の粒に水蒸気が付着して発生する霧の可能性はとても低い。

午後3時頃からは同じ奄美市の和泊町でも、霧の為に視界は10kmまで下がったが、この事から霧は広範囲に持続的に発生していた事が伺えるのである。

当日奄美地方の気温は最低気温26度、最高気温32度で有り、昼間ここまで気温が上がりながら晴天の中、霧が発生し続ける現象はあまり例が無い。
気象庁でも原因は全く不明と見解している。

これと同じ現象が過去になかった調べていると、同じものではないかも知れないが、「大日本地震資料」記載事項中、1802年(享和2年)11月15日に発生した佐渡地震の記録が残っており、この中で「広島」と言う人が独自に地震の研究をしていて、彼が残した資料の中にこのような記述が有る。

今日、この地の者が私を訪ねて来て、不可解な天気に付いて尋ねた。
曰く、辺り一面朦朧(もうろう)として、四方見渡せず、霞が山の中ほどから下を覆い、しかし頂きは見えている。
雨とも言えず、風とも言えず、実に怪しい天気だが、こんな天気を見るのは初めてだ。

これに対して広島氏はこう答えている。
それは・・・、子供の頃父から聞いた事が有る。
「それは地震が来る時のしるしだ・・・」

この後、2人は慌てて宿に帰り、宿の主に避難するように告げ、自身らも急いで山から離れるように逃げて行った。
そして4里程(16km)の道を走って逃げている途中、M6・6の地震が発生し、彼らが泊まっていた宿は山崩れで押し潰されてしまうのである。

またここからは日本地震予知クラブ初代会長、亀井義次(かめい・よしつぐ 故人)氏が1996年7月に発行した「地震予知いろはがるた」の中の記述だが、前出の広島氏はこの佐渡地震の後、佐渡の金山を訪ね、そこで坑夫達から聞き取り調査を行っている事が記されている。

その中で広島氏は、この間の佐渡地震では金山でも坑道が崩れ、多くの人が犠牲になったのではないかと坑夫に尋ねるのだが、意外にも、坑夫は全員地震前に避難していたと答えるのである。

坑夫曰く・・・。
「大体地震が有る前には地面の気が上がって、坑道全体が霞に包まれてしまう」
「この前の時(地震の時)も地面の気が上がって、坑道の中は腰から上が見えなくなったくらいだ」
「地震の3日前から1人だって坑道には入らないさ・・・」

何でもかんでも地震に繋げる事は避けねばならないが、過去の事例に近いものが有るときは、その時に起こった事象を一応は警戒する必要が有るのかも知れない。
奄美地方の霧は、もしかしたら付近に発生する火山噴火、大地震の前触れ現象の可能性を完全排除できない。

夏の真昼の霧で他に近いに現象としては、高温に拠って植物が排出するトルエン成分の霞が有るが、この霞は視界を半減、或いは10分の1にまで下げるほどには至らず、しかも遠くからは青く見えるを倣いとする。

何も起こらねばそれで良いが、周囲に変わった事、説明の付かない現象が発生した時は、それが物理的に説明が付かない事を確認した後、注意を怠らない事が自身と家族を守る、一番基本的な防災意識と言うものでは無いかと思う。

「令和・中央集権の崩壊」

全ての原因はこの人の拝金主義から始まった気がするが、2020年8月1日、WHOのテドロス事務局長は、コロナウィルス・パンデミックの影響が今後数十年続くと発表した。

初期段階、これはパンデミックでは無いと言っていた彼が、今や恥ずかしくもなくパンデミックを公言している姿は、どうも納得いかないものが有るが、それ以上に異様なのは日本政府、首相周辺の異様な沈黙である。

既に第2波と言うより、2020年4月の非常事態時よりも感染者増加率が上昇し、今や首都圏だけではなく地方にまでそれが及び、4月のそれが非常事態なら今はもう超非常事態にも関わらず、Go toキャンペーンを推進し、どんどん旅行へ行ってくださいと言う方針を撤回もしない。

アクセルを踏んだけど前方には障害物が見え、今度はブレーキを踏まねばならなくなった。
にも関わらずアクセルを解除せず、ぼーっとしているのでは、障害物に衝突してしまう。
国家為政にも自動ブレーキアシストが標準装備されている、とでも思っているのだろうか・・・。

誰の目にもGo toキャンペーンは即時中止し、再度非常事態宣言を出さねばならない状況で有り、休業補償を想定するなら、休業要請の為の統一基準を設定しなければならない事は明白と言える。

この時期に国会が閉会だからと沈黙しているのでは混乱は深まる一方だし、既に政府はGovemment(ガヴァメント)の様相を呈していない。

国民の不幸は政策の失敗に有るのではなく、失敗した政策を継続しなければ信用を失うと思ってしまい、方針転回できなくなる為政者の心の卑屈さに因が有る。
そしてこの因は為政者が成立した時の「専横」を始まりとする。

少数意見や反対意見に対する自身の対応から疑心暗鬼に陥り、動けなくなるのだが、この原理は比較的簡単なものだ。
反対意見、少数意見を権力や多数決で徹底的に叩き、敵にしてしまうと、次は反対意見や少数意見だった者たちから、徹底的に叩かれると恐れる為、一度動き始めた政策は例えどんなに間違っていようが、絶対変更できなくなるのである。

本来政治の世界では、日本の為と言う視点なら敵も味方もないのだが、最初に少数意見者の声も反映しておけば、万一政策に誤りが有った時でもすぐにこれを正す事はできるが、ここで意見を巡って対立し、敵となった者たちを排除してしまっていると、方針転換時には自身そのものが誤りだった事になってしまう。

少数意見や反対意見を排除した度合い、敵視した度合いに応じて、政策に誤りが出た時は、自身存続の恐れが生じてしまう。
これを「ミラー効果」と私は表現しているが、実に自分がやった事に比例して、自分がそれを恐れる事になる訳である。

安倍政権は味方と敵のはっきりした政権だった事から、当然ミラー効果は大きく働き、政策の失敗は許されない状況になり、強行突破しているから、政策方針の転換はできない訳で、手立てもなく逃げ回るしかないのだが、ここで起こってくるものは権力の散逸である。

つまり権力が宙づりになってしまい、分散して四方八方に散らばってしまう事になり、ここに中央集権は終焉を迎える。
まさに歴史が繰り返してきた通りの道を、今の日本は歩んでいる。

天皇や大将軍、幕府の権力が散逸して行く過程に同じな訳であり、次に起こってくるものは地方勢力の台頭で有る。
政府が決めないなら、各都道府県が独自に決定して行くしかなく、嫌が上にも地方権力が上昇して行く。

東京都、沖縄、名古屋、岐阜、大阪が独自基準を模索して行く図式は、まさに中央集権国家から戦国時代に突入する過程と全く同じなのである。

だからこうして中央政府が手立てを出せない時は、各行政府が独自に努力、結束して台頭し、既存権力を突き崩せば良いのである。
既に自民党は死体も同然だし、野党に至っては悪鬼、欧米風に言うならゾンビ状態だ。

日本は今無政府状態なので、各行政府が中央政府を脅して動かし、新しい秩序を構築すれば良いのである。

浦賀に黒船が現れ、対処方策を失った幕府に拠って社会が混乱した図式と、コロナウィルスに拠って対処指針を失い、混乱を招いている令和2年の日本政府の図式は、同じに見えるが・・・。



プロフィール

old passion

Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

[このサイトは以下の分科通信欄の機能を包括しています]
「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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