「飢え」



千葉県鴨川市から館山へ抜けるルート128号、この途中に江見海水浴場が在り、現在は閉じられているが、海から少し離れた土手に座り、113円のコンビニおにぎり2個を微糖コーヒーで流し込みながら、打ち寄せる波を見ていたら、自分でも気が付かない内に、右目から涙が流れていた。

以前に比べ「死」と言うものに関係する機会が増えた事は確かだが、そんなに悲しい訳でもないのに、何も思っていなかったのに、それでも人間は涙が流れる事が有る事を知った。

また少し前までは「死」などそんな恐れてはいなかったが、この数年異様に「死」が恐ろしい。
それも自己と言う存在の消滅に対する恐れ、と言う高尚なものではなく、単純に痛いのではないか、苦しいのではないかと言うリアルな苦痛に対する恐れだ。

それゆえ少し年上の人と話をする度、「死は恐くないですか」と訪ねるのだが、大方の人は私より死との距離が遠いか、曖昧なようで、明確な答えは帰ってこない。
生きている人間にとっては誰も経験した事が無いのだから、まあ無理もない事だし、いきなりそれを聞く私が間違っているとも思う。

だが、こうして「死」を考える時、どうしても思い出すのが「Agnese Gongea」(アグネス・ゴンジャ1910~1997)と言う女性の事だ。
「マザー・テレサ」と言った方が良いか、いや、それすらも今は多くの人に忘れられているかも知れないが、彼女がハーバード大学で行った講演の衝撃は、今以て瑞々しさを失う事が無い。

貧困でパンが食べられない事だけが「飢え」ではない。
誰からも必要とされない、誰からも愛されない事に対する「飢え」こそが最も深い「飢え」だと言った、あの低いがずっしり響くラテンなまりの言葉を聞いた時、愕然としたものだった。

仏に祈って極楽浄土へでは、現状が肯定されずに、曖昧な未来にそれを先送りしたに過ぎない、そう思っていた私に取っては、今死に行く者が最も必要する事が自己肯定だろうし、生まれて親すらもいない子供、障害を持つ人に最も必要な事は、「あなたは必要な人なんですよ」と言う祝福だと言うアグネスの言葉は、まさに救いそのものだった。

後世、修道女は看護資格を持たないから、医療ミスも多かったとする意見も有ったが、そもそも医療ミスの段階にすら至らず、死んで行く人の多かった事に鑑みるなら、それは現実に対する忠実さだったとも言える。

現在の日本は昔のカルカッタ程貧しくはないだろうし、飢えで死んで行く人も少ないだろうが、親を施設に預け、そこでは確かに孤独は無いかも知れないが、多くの人に囲まれながら孤独になってはいないか、自己肯定出来て、死んで行けるだろうか・・・。
施設へ入れる事が本当に親に対する愛だろうか・・・。

情報は発達し、多くの友に囲まれているように思っているが、その中で孤独を感じてはいないだろうか。
心を、優しさを、愛を求める根底に「飢え」は潜んでいないだろうか・・・。

幸い探したらYoutubeにマザー・テレサの動画が残っていたので、貼り付けて措いた。
これを観てどう思うかは自由だが、この機会に「自分が飢えていないか」「世の中が飢えで一杯になっていないか」深く、考える機会にして頂ければと思う。
(注・ゲストのコメントは聞く価値が無いので飛ばした方が良い・・・)

動画中、ベイルートの子供たちの救出の話が出てくるが、「この時マザーの祈りが通じたのか、翌日戦闘は収まった」と言う解説が出てくるが、これは誤りで、アグネスがイスラエル、パレスチナの両方の将軍に直談判し、停戦が成立したのである。
訂正しておく。
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「景気の悪い顔をしてるんじゃないよ」



20世紀を代表する歴史作家「司馬遼太郎」は晩年、「このままだと日本は亡くなってしまう」と言っていたが、彼の言葉を借りるなら、既に日本は亡くなっていると私は思う。

明治維新で背伸びして列強を目指した日本は、日露戦争に拠って多額の海外債務を抱え、少しずつ「仕方ない」を増やし経済を何でも有りにしてしまった。

やがてこれが集積し、太平洋戦争と言う一つの決着を付けなければならなくなり敗戦、惨めな状況から立ち直ったが、懲りもせず、またぞろ金に目が眩みバブル経済を引き起こし、「金を儲けないのは罪だ」とまで言わしめた結果が「崩壊」だった。

司馬遼太郎はこのバブルが崩壊する少し以前から「このままでは日本は危ない」と言い続けていたが、ここで彼が何を恐れていたかと言うと、それは「仕方ない」と言って、あらゆるやってはいけない事、秩序が金に換算されて流され、どうでも良くなってしまう事を指していただろうと思う。

だが司馬遼太郎の危惧は、それ以降も続き、日本は「仕方ない」と言いつつ、富士山や伝統的な祭りまで「観光資源」と言う金に換算する浅ましさとなり、昨今ではMMT理論を参照し、国債を日本銀行が紙幣を印刷して買い取る、20世紀の世界が「経験から学んだ禁じ手」まで侵してしまう有り様となった。

更に年金財源50兆円、日本銀行50兆円、合計100兆円の政府系資金が一般市場に参入し、全株式取り扱い金額の13%を日本政府が占めていても、誰も疑問にすら思わない程、日本の「仕方ない」は進行してきてしまった。

たかが13%くらい良いじゃないかと思うかも知れないが、もし株価が下落したら、この13%を占めている日本政府の資金が紙くずになる。
としたら、例え13%でも株価が下落するような事にならないよう、日本政府が動く事は明白であり、ここに100%政府が取引しているのと同等の効果が現れる。

これを海外から観たら、日本の株式市場は政府保証と見えてしまう訳であり、その結果が投資額の30%が海外資本と言う結果に繋がっているが、これは何を意味しているかと言えば、日本の株式市場の崩壊が、即時日本政府財務の崩壊だと言う事である。

印刷して市場に流されるはずの資本は、実体経済を遥かに追い越してしまっていて、需要以上に流れた資本は全て株式市場に流れ、それがどんどん膨れ上がっている。

これが今の日本の株式市場で有り、この限度はどこまでは解らないが、無限ではない事も確かで、政府保証が付いている株式市場では下がる要因は見つからず、どんどん株式市場は拡大し、更にここへ金が流れて行く。

かと言って金融緩和は世界的な流れだから、ここで日本だけが金融緩和を止めれば、「円」は高騰して行き、株価は暴落する。
行くも地獄、引き返すも地獄の在り様は、太平洋戦争前の日本経済、バブル経済と全く同じ構造と言える。

「景気」とは本来形の無いものであり、先の定まっていない千変万化のもの、言い換えれば人々の「思い」である。
これを統計や理論等と言った、物事を止まった状態で考え、時流と言う本来は人が創り上げねばならないものに、逆に脅されて従っている様では、面白くない事になるのは当然だ。

チマチマした統計や小賢しい経済論に振り回され、小枝の議論で一喜一憂し、大局は見ていない。
本来、それを人の手で変えて行かねねばならないものに振り回され、右往左往する姿は滑稽とも言えるが、この小賢しさがインテリジェンスと言う世の中では、先は暗い。

1990年代のテレビ番組、「知ってるつもり」でも紹介されたエピソードだが、明治維新第一級の功労者「勝海舟」が、下町の食堂に入ったおり、その店は結構忙しそうにしていたので、海舟は女将に「随分景気が良さそうだね」と声をかける。

すると女将は「とんでもない、最低だよ、何も儲かりゃしない」
「でもさ、景気が悪そうな顔をしていると、魚まで活(いき)が悪く見えちまう」
「無理して景気の良さそうな顔をしてるのさ」
「そうすれば、その内良い時もきっとやって来るってもんさ」

黙ってこれを聞いていた海舟、やおら懐から持ち金の全て、30両を取り出すと机の上に置いて「女将、勉強させてもらった」と言って帰るのである。

今の世の中で景気が悪い時に、それを跳ね返すように明るく振舞う商人、または店が存在するだろうか・・・。
殊更悪く見せる、或いは悪く言う者は多いかも知れないが、「とんでもない、家は景気が良いのさ」と言う者はいないだろう・・・。

実はこれが司馬遼太郎の危惧で有り、勝海舟の嘆きなのである。
予め補助金や給付金を貰う事が前提となっていて、その為には景気が良いなんて口が裂けても言えない。
これは基本的に物乞いか生活保護と原理は同じ事だ。

働ける元気な体が在って、頑張れるなら最大限努力をして稼ぐのが、商いをする者のプライドと言うものだ。
補助金や給付金を当てにして利益に勘定するようになってしまった、その事を悲しく思わねばならないのに、少しずつ気が付かない間に壊れてしまい、何も思わなくなってしまった。

それゆえ社会の風潮を気にして、それに自分を合わせて生きようする。
だがしかし、この社会の風潮と言うものは理論や統計と言った過去形のものが作るのではなく、先へ行って千変万化、今日来た道は明日は通れない人間が、その集合が創るものだ。

どこの世界に過ぎ去った暗い過去で現在、未来を創る愚か者が存在しようか・・・。
その暗さを何とかしようして現在が在るのに、チマチマとした小賢しさで暗さに自分を合わせてどうする。

今の日本、世界経済は明治維新、太平洋戦争前、バブル崩壊時と何ら変わらない。
精神的側面から言えば、今の日本は過去の如何なる危機よりも悪いかも知れない。
しかし、その悪さを何とかしなければならない時に、悪さに足を引っ張られ、沼に引きずり込まれて猶、自分は賢いと思っているようでは話にならない。

勝海舟ではないが、女将が言った「景気の悪い顔をしていると、魚まで活(いき)が悪く見えちまう」は経済の基本中の基本である。

今一度この事に思いを致し、この国を、自分を見つめなおす必要が有るのではないか・・・。

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Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

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「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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