「朝の来ない夜は無い」



ルネサンス期のイングランドを代表する劇作家「Willam Shakespeare」(ウィリアム・シェイクスピア)(1564[受洗礼日]~1616年)が、1606年に成立させた物語「Macbeth」(マクベス)の中に、その有名な一言は出てくる。

「The night is long that never finds day 」

日本語に訳するなら「明けない夜は無い」若しくは「朝の来ない夜は無い」と言う事になるが、「吉川英治」が好んで色紙に書いたと言われるこの一節は、1980年代、アメリカでも大手自動車産業のCEOが絶望的な経営環境に晒られた時、彼の父が息子に送った言葉としても広く知られている。

過去、そして今現在絶望的な状況に在る者をも、多く救うで在ろうこの一節は、確かに暗闇を彷徨う者の光と為り得る。

しかし世の中には「完全な闇」「決して助からない状況」と言うものも存在し、しかもそうした状況に在る者の数は極めて稀と言う訳ではなく、明日、誰もがそうした状況にならないと言う保証は無いのである。

巨額の債務に追われた者の最後は、僅か数百円の事でも命がけになり、今日、決して治癒のできない病に冒された者、天寿が全うされる瞬間の者に取って、その暗闇は決して朝を迎える事は無く、絶望の淵から逃れる術はない。
彼らを言葉で救うことはできない。

だが、私は思う。
絶望と暗闇の彼方にも光り輝く、美しい世界が在る事を・・・。
絶望と暗闇から生まれるもの全てが、必ずしも絶望や暗闇ばかりとは決まっていないと・・・。

我が形を為すものは、幼き頃の貧しさから来る「僻み」(ひがみ)、「妬み」「自己顕示欲」「恨み」「やせ我慢」「猜疑心」と言った、ろくでもないものだったかも知れない。
が、しかしこうしたものの彼方にまで来てしまった我が身を振り返るに、それが見せてくれた景色の中にも、美しく心動かす事も存在した。

いやもっと言うなら、それが在ったからこそ見えた景色と言うべきだったかも知れない。
心を引き裂かれる思い、泣いて泣いて嘆きあかしても、どうにもならない思いも在ったが、我が手で我を殴って得られる痛みでは、決して得られない痛みがもたらす景色、その過酷さにこそ有り難さが在った。

仏陀は晩年、戦乱で屍の山となった故郷の地を踏み、その荒廃した景色を見てこう言った。

「この世は何と甘美なものだろう、生きていると言う事は何と美しいのだろう・・・」

眼前に広がる地獄の景色を眺め、絶望と苦しみ、悲しみ、それらを噛みしめながら、揺り篭にて春の陽を浴びているかの如く優しく、美しく、穏やかな、景色を見る。

今滅び去り行く命の傍らに、若さを謳歌し、頬を染めて恥ずかしそうに手を繋ぐ少年と少女の姿が在り、さらに傍らには子を抱く母親の姿、そして苦しみもだえる人も在る。

「ああ、何と素晴らしい事なのだろう・・・」
「命が溢れんばかりに光輝き、満面の笑みを以てゆっくり回っている・・・」
「まるで水面に映り返えった夏の陽の煌めき、その眩い(まばゆい)ばかりの在り様ではないか・・・・」

人は生きると言う旅の終わりに、生と死、その両方に対して戦いを挑まねばならない。
この世で最も過酷な、そして最も崇高な戦いの姿は、もしかしたら追われ続けて倒れ、泥水をすすって滅んで行く事になるのかも知れない。

だが、こうした在り様ですら、きっと最後は美しく穏やかな景色として映るに違いない。

水は最も最短にして、最も適切な道を通る。
だがそれは、それ以外の道はなかったと言う事でもある。

その生き方に一切の間違いはなかった。
全て正しかった。
そう自分の命が言ってくれるに違い無い。




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「鉞(まさかり)を研ぐ子供」・Ⅱ



此度東北を襲った大地震にあって、我が脳裏に真っ先に思い浮かんだのが、「柳田国男」のこの話であり、また関東大震災の折の記録だった。
この二者は互いに、そこに共通点を求めるなら「子供」がその主体となるが、全く別の記録なれど、どこかで同じ感じがするのである。

これは婦人公論大正12年10月号に掲載された記事からだが、関東大震災発生の3日後、横浜で恐らく30前後だろうか、泥だらけの浴衣姿の女が疲れ果てた感じではあるが、そのどこかでは興奮した様子で歩いていた。

女はやがて山の手の避難所まで辿り着くと、そこで誰かを探しているようにも見えたが、その人ごみの中を歩く2人の子供の姿を見つけると、「あっいた、いた」と言って子供達に走りよった。
なるほど震災で離れ離れになった母と子供が再開できたのか・・・、と周囲にいる誰もがそう思った。

しかし子供達に近付いた女は、次の瞬間そこに落ちていたレンガを拾うと、何と子供達の顔を滅多打ちにして殴りつけるのである。
カラカラと乾いた笑い声を上げながら執拗に子供達を殴りつける女、うずくまる子供たち、女は完全に狂ってしまっていたのである。

またやはり関東大震災発生の翌日、これは東京駅の昇降口を歩いていた人の記録だが、大勢の人が混乱して右往左往するその足元に、たこ糸で巻かれた紙包みが転がっていた。

何だろうと思ってそれをよく見てみると、紙の破れ目から、生後幾らも経過していない嬰児(えいじ・生まれた直後の子供)の片足がそこからはみ出していたのである。
しかも人々は激しくそこを行き来しながらこれを見ることも無く、紙に包まれた嬰児を蹴飛ばしながら通り過ぎていた。

そして2011年3月27日、宮城県石巻市渡波の山道で生まれた直後の女児の遺体が発見された。
2011年3月11日に発生した東北の地震では、この地区は津波被害地区からはかなり離れた場所にあり、従ってこの女児が津波によって死亡したとは考えにくい。

尚且つこの女児はへその緒が付いたままの状態で裸のままだったこと、付着した血液がまだ完全に乾いていなかったことから、生まれた直後に捨てられたと見られている。

どんな事情が有ったか分らないが、今回の地震によって生まれた子供を育てられないと思ったか、はたまた地震が起こる以前から生んではいけない子供を身ごもり、地震を幸いにして捨ててしまったか、我々はそれを推し量る術も無いが、子供が生まれた直後に親によって捨てられた事実は変わらない。

実は地震などの災害の最も恐ろしいところは、その災害もさることながら、それから後に起こってくる経済的な行き詰まりによってもたらされる現実かも知れない。
親を失った子供、ローンを組んでやっと手に入れた家を失った者、職場を失った者、彼等の眼前に広がる現実は並み大抵のものではない。

日本はこの東北の地震によって何か大きなものを失ったかのように見えるが、その実東北の地震以前から「何か天変地異でも起こって」と思う人間のいかに多かったことかを知るなら、そこには天変地異でも来なければ、自身の破滅の近かった者がどれだけ多かったかと言うことであり、彼等は大地震の影に隠れて救われた場合も存在し得る。

しかしこうして地震による被災も、地震発生の以前から抱えていた破滅も、結局はその当人の努力では如何ともし難いものであったなら、それはやはり天の為せるところとする以外に無く、我々は彼等彼女等を責めるに資する者とはなり得ない。

子は親を思い、親は子を思いながらもその生活に行き詰る現実は、いつ如何なる時代も無くなる事は無く、それは貧しい時代ほど多くなるが、人はこれを全て救うことはできない。

経済的には壊滅状態に近かった日本経済、その上に今回の大地震と原発事故である。
「頑張れ」「希望はある」の言葉の届く者も勿論あろう。
しかしこうした言葉が虚ろにしか聞こえない者も必ず存在し、それらの者は一線を越えてしまうかも知れない。

そして我々は彼等を全て救うことは恐らく叶うまい・・・。
それゆえ我々は一線を越えた彼等彼女達を、一様に犯罪者として憎んではならない。

ただ天に向かって「この親と、この子に何とぞ慈悲を賜れ」とひれ伏すのみである。

[本文は2011年3月27日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

「鉞(まさかり)を研ぐ子供」・Ⅰ

ある村の近くの山で炭焼きを生業としている男があった。
だがこの男の暮らしは貧しく、食うや食わずの毎日で、既にもう何日も食べるものを口にしておらず、その日も朝から村へ炭を売りに行ったが、炭はいっこうに売れず手ぶらで帰るしかなかった。

そして激しい徒労感から男は家へ帰って眠りに就いたが、ふと目が覚めてあたりを見回すと、すっかり傾いた陽の光が戸口を明るく照らし、そこには男の子供がただ黙って鉞(まさかり)を研いでいる姿が見えた。

「おまえ、そんなところで何をしている」
男は子供に尋ねるが、それに振り向いた子供は今まで研いでいた鉞を持って男にこう言う。
「これで殺してけろ」

そして子供と幼い妹は近くにあった丸太を枕に、そこに横たわる。
漠然とその光景を眺める男、一瞬頭の中がクラクラと来たかと思うと、次の瞬間、男の手に握られていた鉞はこの兄妹の首めがて振り下ろされていた。

人間はその年齢にならなければ、その経験をしなければ決して学べないし、理解できない事と言うものがある。
少年の頃、いや今もそうかも知れないが、我が根幹を為したものは「柳田国男」と「和辻哲郎」の著書だった。

だがこの二人の中でも取り分け私に衝撃を与えたのは「柳田国男」が著したこの冒頭の話だった。

確か、東北地方の昔の実話だったと記憶しているが、「遠野物語」でこの話を始めて読んだのは高校生くらいだったと思う。
だがその時は確かに悲惨なことでは有るが、それほど大きな思いはなかった。
この話が衝撃を持って自身に迫ってきたのは、結婚して5年目くらい、長男が4歳くらいのときだった。

妻の心臓病が見つかった時、入院生活になったことから、暫く自分と幼い長男、それに2歳くらいだっただろうか、長女の3人暮らしになった時期があり、ある日スーパーへ買い物に行った時の事だった。

菓子でも買ってやろうと思い、「何かほしいものはないか」と長男に尋ねたが、彼は珍しく「何も要らない」と答えた。
長男のこの言葉に何か不自然なものを感じ振り返った私は、そこに不安げに、そしてどこかで遠慮しているような長男の姿を見て、一瞬にして「柳田国男」のこの話を思い出した。

「あー、親とは、子供とはこうしたものだったのか・・・」と思ったものだ。
そして家へ帰り、子供達が寝静まった頃、夜遅くにもう一度「柳田国男」のこの話を読み返した私は号泣したことを憶えている。

貧しさは罪か、さにあらず。
しかし人間の世は幾ら努力してもどうにならない理不尽の上に立っていて、それは僅か船板一枚を挟んだその下は海の如くに広がっているものである。

追い詰められてその最後の瞬間に有っても、子はその生死の何たるかを知らずして既に親のことを思い、親もまたその子を思うとしても、眼前に広がる現実の前に幼き命はその先を絶たれる。

だが誰がどのようにしてこうした在り様を裁くことができようか。
およそ法と言うものには限界があり、その奥は言葉の無いものでしかそれを裁くことができない、いやそもそもこうした在り様に裁きなどが入り込める余地すらないように思えてしまう。

キリスト教の教義では幼き子供とその両親があった場合、究極の選択では両親が生き残ることを是としているが、その理由は若い両親ならまた子供が作れるからである。
が、そんな簡単な、そんな薄いもので人の命を、親子をはかることが出来ようはずも無い。

                     「鉞(まさかり)を研ぐ子供」・2に続く

[本文は2011年3月27日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

「東日本大震災への思い」



2011年3月11日は忘れることができない日だった・・・。

前年から高い気温が続き、多くの魚の異常はその数年前から続きながら、何も発生していなかった為、2010年、私は「何か大変なことが起こる」と、幾度となく記事を書いた記憶がある。

中でも「猛暑と地震の因果律」は2010年8月に書かれたものだったが、高い気温と地震の関係、政治的混乱と地震の関係を書かれたこの記事は、数人の人が事前に紹介していてくれていた為、東日本大震災発生直後から「予言が当たった」として、今の言葉言うなら「バズった」

以後、高い気温と地震の関係に関するサイトが増えてくるのだが、その始まりは2010年からなのである。
しかも、私は地震を予知したのではなく、完全に外していた訳で、何かが来ると思いながら、日本と言う列島構造上の基本である日本海溝を全く考えていなかった。

かつて阪神淡路大震災のおり、やはり私と同じように地震を研究していた先輩が、神戸に住んでいて、こんなにも色んな事が在ったのに、大地震を予見できなかったと涙をこぼしていた事が思い出された。

こんなにも色んな現象が現れ、相当なものがやってくると思っていながら、最も基本的なものを見ていなかった。
福島や宮城の人に申し訳ない気持ちで一杯になったものだった。
馬鹿だ、狂人だ、山師だ、詐欺師だと言われても良い、何でもっと大騒ぎしておかなかったのかと悔やんだものだった。

そして私は某中央新聞の記者と連携し、被災地がこれからどう言う余震に見舞われるのか、どう身を守れば良いのかを共同で発信して行ったが、その際キーワードとなるものが「どんな辛いことが有っても春になれば必ず花は咲き乱れ、大地は緑で覆われる」だった。

このキーワードの始まりは1974年に放送されたテレビドラマ「日本沈没」の主題歌で、五木ひろし氏が歌っっている「明日の愛」の中に出てくる「花は咲く、春になれば、地の果て続く限り」を元にしていて、演歌が大嫌いだった私が唯一、小学生の時に聞いて涙が流れた曲だった。

こうした記事を書いたのが2011年3月16日の事からだったが、それから1か月後、「花~は、花~は、花は咲く」と沖縄音階で楽曲を作った者がいて、これをNHKが取り上げて行った経緯には、その余りにも軽薄な在り様に反吐が出る思いがした。

絆だ、愛だ、復興だと言うものが、その地域にどう言う影響を及ぼすか、能登半島地震や中越沖地震後、それらの地域がどうなったかを見れば、東北が同じような目に合う事は明白だった。

関東大震災では、東京が火の海になった翌日には、既に廃材でバラックを建て、雑炊を売るものが出てくるし、当時の写真の中には、周囲の人を気にする事もなく、水たまりで裸になって体を洗う若い女性の姿も写っていて、「生きよう」とする自主性に満ちた力がみなぎっている。

また政府も被災して死亡した人を搬送する為に、生き残った民衆を使っている。
それもボランティアなどと言う中途半端なものではなく、金やコメを払って雇用していくのである。

援助とは難しいものだ・・・。
補助金も同じだが、常に底上げしてくれるものが在ると、その分人間は力を失う。
そして復興予算が終了した時には、街並みは映画のセットのように美しくなり、カラー舗装の道路は実に素晴らしいが、誰も人がいなくなるのである。

東北の人たちは震災に拠る絶望より、その後の復興事業と「優しさ」にこそ絶望した人も多いだろう。

福島原発付近は放射性物質の半減期から、後20年はそこには住めない。
迫ってくる過疎と経済的沈降、目立つ者だけが優遇されて行く復興事業、それらの前に今まさに人災を被っているかも知れない。

こうした日本海溝そのものの動きに関して、余震や付帯地震の傾向は最低でも60年、場合によって200年程同じ傾向が続くと推定される為、現在のような地震が多い状態は、恐らく60年は続く可能性があり、範囲は全国に及びます。
毎年震度7、6の地震が平均2回~3回、震度4、3は日常茶飯事と言う形が常態化するでしょう。

でも、春になれば同じ場所から、去年と同じ草が芽を吹き、花をつける。
それはまるで陽が昇り、沈むの如く、当然であるかのように静かに、確実に花を咲かせる・・・。

2021年3月11日、東日本大震災が発生してから10年の節目を迎えるに際し、亡くなられた方々とその遺族の方々には、あらためて追悼の意を表します。

尚、当時書いた記事の内、今の時代に最も必要であろうと思われる記事を、掲載して措きました。
「鉞(まさかり)を研ぐ子供」、2011年3月27日の記事です・・・。


「凶」



「農」は「田」と「辰」の合字にして、「辰」の方角は東南東、時刻は朝7時から9時を指し、冠する形は龍。

一方これとは別に「農」の上を「脳」と観念する流れも在り、「脳」は「月」、つまり「体」を意味し、つくりは「凶」に隙間の有る蓋、解り易く言えば凶の上に木の葉や草などを載せて隠した、或いは目立たないようにしたものを「脳」と言う。

だが「辰」の上に「脳」が載った形には更に原型が有り、「凶」の上に鍋の蓋を被せた状態がその始まりとされている。
従って「凶」に完全な蓋をしたものを「農」と概念し、人間の脳と言う考え方には蓋はしてあるものの、それは見かけ上、若しくは若干中の凶が漏れる可能性を残した状態を当てている。

このことは何を意味しているかと言えば、人間が「凶」に対して求めているものの違いを現し、農業に拠って得られる穀物収入には完全なコントロールを求め、人間の「凶」には完全な蓋をしない事を求めたと言う事である。

元々神仏が如く完全な人間など在る筈もなく、しかし社会というものを維持するためには、たとえ見せかけでも凶に蓋をした状態にする事が求められ、その現実的な在り様に鑑みるなら凶の蓋を木の葉、草で取り敢えず見えないようにしたと言う「脳」の形は大儀が在り、極めて趣深いと言える。
「凶」は「匚」(はこがまえ)で有る事から、全方向からその災いが見えない。
むしろ前面と横は箱に覆われていて見えず、正体は後ろに在ると考えた方が良く、「凶」の本質は箱に入った災い、中身のコントロールが完全ではないものを指している。

前面から既にそれと解る「災い」には「川」が鋭角になっている文字と火を当てているのは、それが既に見えているからである。

しかし「凶」は三方を囲まれているので、その正体は見えにくい。
一見幸運に見えたり、チャンスに見える事の中に、一方から激しい刀の一振り、槍の一突きが垣間見える状態を指している為、「凶」の始まりは人為的なもの、王が与える罰を始まりとした可能性がある。

「凶」は災いや良くない事を意味するが、趣深いのは、災いは既に見えている現実の形であるのに対し、「凶」は結果を現している点にある。
しかもそこには、未来に措いて自身が命の危機を頂上とした結果に、晒される事を暗示しているのである。

大切にしている茶碗が割れた、靴ひもが切れた、鏡が割れたなど、それ自体はそう大した事ではないが、禍々しいものの尻尾がちらっと見えた状態、これを凶とするのであり、祭りなども例えば「殷」や「周」の時代には生贄が人であった事から、祭りの本質は元々凶を包括したものと言える。

また箱に入った「メ」、刀や槍は「滅」の火と同様、絶対消し去ることができないものと考えられたようで、「滅」の字は「火」をあらゆる物や、大勢で囲んでいる状態を現わしているが、中心に在る火は小さくなっても決して消えてはいないのである。

これと同じことは凶の「メ」にも言える話であり、こうした災い、禍は決して滅ぼすことができ無いため、それを囲んで動けなくする事を上限としたのである。
つまり囲い切ってコントロールできる形が「滅」となり、「匚」のように一方の戸が開いているものを「凶」、そして現実に目の前に現れた火や水を「災」としたのである。

ちなみに「禍」は災いと同義だが、二天が指示した事柄が歪められた、或いは妨げられたことを意味し、ここから天の恩恵は予め全てが是と言う前提に立つ為、禍はまた未来に措ける禍と福に通じ、福もまた同じ。

それゆえ本質的には禍福は流れ動き続けるものの、どの時と場を、誰が切り取ったかと言う事に過ぎないのかも知れない。

プロフィール

old passion

Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

[このサイトは以下の分科通信欄の機能を包括しています]
「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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