2021/03/26
「朝の来ない夜は無い」
ルネサンス期のイングランドを代表する劇作家「Willam Shakespeare」(ウィリアム・シェイクスピア)(1564[受洗礼日]~1616年)が、1606年に成立させた物語「Macbeth」(マクベス)の中に、その有名な一言は出てくる。
「The night is long that never finds day 」
日本語に訳するなら「明けない夜は無い」若しくは「朝の来ない夜は無い」と言う事になるが、「吉川英治」が好んで色紙に書いたと言われるこの一節は、1980年代、アメリカでも大手自動車産業のCEOが絶望的な経営環境に晒られた時、彼の父が息子に送った言葉としても広く知られている。
過去、そして今現在絶望的な状況に在る者をも、多く救うで在ろうこの一節は、確かに暗闇を彷徨う者の光と為り得る。
しかし世の中には「完全な闇」「決して助からない状況」と言うものも存在し、しかもそうした状況に在る者の数は極めて稀と言う訳ではなく、明日、誰もがそうした状況にならないと言う保証は無いのである。
巨額の債務に追われた者の最後は、僅か数百円の事でも命がけになり、今日、決して治癒のできない病に冒された者、天寿が全うされる瞬間の者に取って、その暗闇は決して朝を迎える事は無く、絶望の淵から逃れる術はない。
彼らを言葉で救うことはできない。
だが、私は思う。
絶望と暗闇の彼方にも光り輝く、美しい世界が在る事を・・・。
絶望と暗闇から生まれるもの全てが、必ずしも絶望や暗闇ばかりとは決まっていないと・・・。
我が形を為すものは、幼き頃の貧しさから来る「僻み」(ひがみ)、「妬み」「自己顕示欲」「恨み」「やせ我慢」「猜疑心」と言った、ろくでもないものだったかも知れない。
が、しかしこうしたものの彼方にまで来てしまった我が身を振り返るに、それが見せてくれた景色の中にも、美しく心動かす事も存在した。
いやもっと言うなら、それが在ったからこそ見えた景色と言うべきだったかも知れない。
心を引き裂かれる思い、泣いて泣いて嘆きあかしても、どうにもならない思いも在ったが、我が手で我を殴って得られる痛みでは、決して得られない痛みがもたらす景色、その過酷さにこそ有り難さが在った。
仏陀は晩年、戦乱で屍の山となった故郷の地を踏み、その荒廃した景色を見てこう言った。
「この世は何と甘美なものだろう、生きていると言う事は何と美しいのだろう・・・」
眼前に広がる地獄の景色を眺め、絶望と苦しみ、悲しみ、それらを噛みしめながら、揺り篭にて春の陽を浴びているかの如く優しく、美しく、穏やかな、景色を見る。
今滅び去り行く命の傍らに、若さを謳歌し、頬を染めて恥ずかしそうに手を繋ぐ少年と少女の姿が在り、さらに傍らには子を抱く母親の姿、そして苦しみもだえる人も在る。
「ああ、何と素晴らしい事なのだろう・・・」
「命が溢れんばかりに光輝き、満面の笑みを以てゆっくり回っている・・・」
「まるで水面に映り返えった夏の陽の煌めき、その眩い(まばゆい)ばかりの在り様ではないか・・・・」
人は生きると言う旅の終わりに、生と死、その両方に対して戦いを挑まねばならない。
この世で最も過酷な、そして最も崇高な戦いの姿は、もしかしたら追われ続けて倒れ、泥水をすすって滅んで行く事になるのかも知れない。
だが、こうした在り様ですら、きっと最後は美しく穏やかな景色として映るに違いない。
水は最も最短にして、最も適切な道を通る。
だがそれは、それ以外の道はなかったと言う事でもある。
その生き方に一切の間違いはなかった。
全て正しかった。
そう自分の命が言ってくれるに違い無い。