2022/08/07
「信の貞観」抄
「その闇の最も深きは光の隣」、世の中が混乱の極みに達した時現れるものは「偽りの救世主」敵より深い敵は我が隣に在る者、つまりは味方の裏切りと言う事になるが、自分を狙う為にやってくる者の中で、一番軽いのは大騒ぎして自分を探しているチンピラであり、恐ろしいのは闇の中で息を殺して命を狙う者、更に恐ろしいのは自分が寝ている間に首に切り目を入れる美しい女・・・。
人間社会に措ける「信」の定義は曖昧で、尚且つ一般的には命をもってそれが担保されたように見えるかも知れないが、例えば経済や金融の世界では、その損失は該当者の命では抗う事が出来ない。
一方、人間には寿命が在り、この点で「信」に確固たるもの、継続性を概念することはできない。
限界が在り、「信」の本質は期限が存在するものと言う事になり、人間の行う事業にも期限が在る。
「信」はこうした期限の利益が一致した状態だと言え、これを思想面でも概念して固定すると、「裏切りが」が発生する。
「信」の正体はそれを、そうだと見せる事ができる環境と、時期にしか過ぎないと言う事になる。
完全なる「善」は「白痴」、完全なる悪もまた無意識であり、この状態の人間は恐らく存在できない。
いかなる悪人も今まさに橋の欄干に立ち、身を投げようとする女を、何も思わずに眺められる者はいない。
善悪は濃度で在り、その両端の完全な色は存在できない。
このような状態の中で、予め敵と判明している者は嬉しく、それがそう見えない者は悲しいが、この悲しい者こそが敵をこちらが操る事ができる唯一の手段なのである。
裏切るまでは、最も味方らしくしている訳だから、これを遣う事の利益は計り知れなく大きい。
ちょうど一番高くなった時に手放す株式にも似たりで、リスクも大きいが利益も大きく、しかしその限界点は大まかな予想ではできても、最高到達点が見えた時には、既に株価は落ち始めている。
韓非子はこの意味ではリスク側を追求したものだが、このリスクの最も大きなところは、裏切られる寸前、つまりはそこが最も大きな利益が存在している点でも在ると言う事になる。
自分に取って最も大きな悪は、目に見える極悪ではなく、目に見えない、一見味方に見える者の小さな裏切りに始まり、予め敵に与していて味方の振りをする者の濃度はまだ薄い。
完全なる善の白痴、悪の無意識を両極端とするなら、最大の敵は人の愚かさ、弱さ、貧しさであり、味方であってもこれらの状況が揃えば、敵以上に大きな損失を発生させる。
それゆえ一般的にはこれを遠ざけよと言う事になるのだが、何の事情も無い人間は少なく、そもそも事情が無い者は自分に近寄らない。
そしてこれらの者は損失を発生させる寸前まで遣う事もできる。
人の上に立つ者、政を為す者はこの利益の限界点を見定め、人を遣ってこそ大きな利益を得る事ができる。
また大きな荷物を持った老婆に取って、それを持って横断歩道を導いてくれる者が売名行為でやっていようが、本当の善意でやっていようが結果は同じ「利」である。
先に述べたように人間の善悪は濃度で在り、どの道完全な善意など存在しない事に鑑みるなら、それがグレーだろうが黒だろうが、大した意味はない。
これを「信」や「義」で縛って避けるは愚かな事であり、見えている敵には「信」の限界が予め現れている分「信」が存在し、見えていない敵、愚かさや弱さ、貧しさを持つ味方には限界点が見えていない分「信」が無い。
韓非子を読むとき、韓非子と同じ視点や考え方で読むは理解が薄くなる。
彼には常に僻みが在り、また秦に仕官しようと言う欲に拠って、分岐点を見誤ってしまった浅さが在る。
この浅さを理解し、そこから張り巡らされた敵の策謀を利用し、自身の利益に繋げてこそ価値が出てくる。
自分がそれを被って最も大きな損失となる部分を避ける事は、自身に取って目に見える利益よりも遥かに大きな利であり、敵の損失になるのであり、敵を避け、味方を遣っているだけでは利は薄い。
世の中は味方より、敵をどう遣うかに拠って違ってくる。
この点では西洋の両側投資、民主主義の根幹にも親和性が在る。
そして一番見えにくく、大きな脅威となるのは「愚かな善意」「偏狭な信義」であり、これを見据えるにはあらゆる客観的事象をして正確に測る事ができ、これを限界まで遣い切る事が最も有能な為政者と言える。
それはまるで水のように、高いところから低いところへ流れるように、整然と偽りなく動くものであり、これを見るには心と体を鍛え、その先には「仁」が在る。
「仁」は元々善を為すことを指してはいない。
「痛みを感じられる体」を指す。
善悪の定義は社会や時代に拠って変化し、これに連動して善悪の濃度が変化して行く、それを正確に感じる事を「仁」と言う。
その遠きは最も近く、その近くは最も遠い。
[本文は2022年1月28日、アメブロに掲載した記事を再掲載しています]