「近似代数計算」

一般的にコンピューターや電子演算、計算機器におけるデータの正確さは、それが導き出される結果精度に反映されると考えられているが、例えばごく簡単な方程式の解が簡単ではない場合も存在し、こうした現実からカオス理論が発生した。

また我々が住む地球にそもそも「正確な数値」が存在するのかどうかも疑問である事に鑑みるなら、ある意味我々が絶対と信じている数値もまた、近似値と言う事ができるのかも知れないし、一筆書きで有名なオイラーの研究から端を発した「位相幾何学」などの解は、大きな幅を持っていたりもする。

そうした中で我々が一般生活を営む中には「近すぎて見えない」、或いは「細かく見過ぎて現実が見えない」と言う場合も多く存在する。
レントゲン写真ではピントがしっかり合っている写真では見えなくて、ピンボケした写真で疾患部位が見えてくる場合も存在する。

そこで考えられたのが閾値(しきいち)以下のデータを「0」と換算し、近似値計算に拠って、複雑な多項式近似的因数分解を容易にする方法だった。
これは実に画期的な発見だったが、多項式近似値因数分解が容易になるだけではなく、「解の因数」すら求められる場合が有る事が知られていた。

「佐々木建昭」筑波大学教授等が理研に在籍した時の研究だったが、カオス理論や位相幾何学の分野に匹敵する発見であるにも関わらず、その後あまり応用されていないのは極めて残念としか言いようがない。

閾値や限界点の位置を変えて「0」で計算し、元の設定限界点に拠る結果と比較する過程には、多くの発展的課題も含まれていたし、誤差が避けられない数値計算と、厳密である事を要する数式計算と言う、相反する概念の融合は、カオス理論の初期、秩序が混沌に向かう過程、或いは答えが一つではない位相幾何学との、現実的な関連性まで予想させてくれたものだった。

エドワード・N・ロレンツの観察的カオス証明は、絶対的に見えるものの始まりが非絶対性を示していたし、オイラーの等式(Euler's identity)などは近似代数計算で現れる「解の因数」と極めて近い匂いがしたものだった。

「近似代数計算」(approximate algebraic calculation)
いい加減な数値といい加減な数値を乗じたら正確な数値が現れ、正確な数値と正確な数値を乗じて行くと答えが不透明になっていく・・・・。
この世界は実に面白い・・・。
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「パズズ・蝗害」

「パズズ」は映画「エクソシスト」に出てきた悪霊、アッカドの人達が毒を以て毒を制するの思想から、魔除けに信仰した悪霊だが、ライオンの頭と鷲の足、4枚の羽根を持ち、サソリの尻尾に蛇の男根を持つ像がルーブル美術館に収蔵されている。

「風」それも「熱い風」の悪霊と言われ、すべての悪霊を統率するプリンスとして、紀元前3000年前のシュメール文明期から、信仰とアンチの中心に存在する悪霊の王だった。

しかも父となるハンビに関する記述は殆どなく、以後の歴史で継承発展する事もない、まったく独立して価値観を継続する邪神なのであり、同じようにハンビの子だった全悪フンババは殺され、レバノン杉と共に森は失われるが、パズズは一度も滅ぼされた事が無い。
極めて独立性の高い、他のいかなる神にも侵された事のない邪神なのである。

これの正体は蝗(イナゴ)と言われているが、アフリカ、エジプト、中東、アジア大陸では乾燥地帯で時折雨が多くなると、大量発生した群れが移動し、これに来襲された地域ではあらゆるものが食い尽くされ飢饉となって行った。
この為、近代に至るまで世界を襲う、最も大きな天災として恐れられて来た背景があり、現在でも基本的な脅威は払拭されていない。

またここでは「蝗」(イナゴ)と表記したが、これは日本的概念であり、パズズの基本概念は「バッタ」である。
イナゴはバッタの亜目だが同じではない。
バッタは遺伝学的には植物に近いいい加減さと、環境適合能力が在るため、「亜」に近い変化が成虫になっても発生する。
研究者の中にはイナゴとバッタを区別しないものもある。

ただし日本のそれは更に漠然性があり、紀元元年付近で伝えられた中国大陸のバッタ被害を、ほかの害虫や細菌に拠る農産物被害にまで拡大して解釈した為、「いもち病」や「ウンカ」まで「蝗害」(こうがい)と概念した。
それゆえ日本で言う「蝗害」と世界的な概念での「蝗害」は若干異なる。
世界的な「蝗害」の概念は「群生飛来バッタ被害」である。

バッタは集団になると、その性質が異なってくるものが出てくる。
これを「相異変」と言い、生物の本来は食物テリトリーの関係から、一定の面積中では単独で有ることを目指し、これを「孤独相」と言うが、バッタは一定数が過密になると、加速的に集積しようとする傾向が出てくる場合がある。

これを「群生相」と言うが、原因は遺伝とされているものの、本当は何故そうなるか解明されていない。
形状的変化も出てくるのだが、本来は孤独相なものが過密になって行く過程は、人間が考えるような理由を持たないのかも知れない。

そしてこの「蝗害」に関する記録を最も多く残しているのが、中国だった。
古代中国では、天災は統治者の不徳に拠って生じるとされてきた背景から、「蝗害」に関しては事の成否はともかく、歴代皇朝が徹底的に対応して来た歴史が在り、古くは「殷」の時代から軍隊を用いてまで、「蝗害」に対処してきている。

また聖書では神の罰として多くの「蝗害」の記述があり、この事はエジプトでも同じだった。
アフリカ、アジア大陸、中東、アメリカ大陸、ヨーロッパでは5000も年前から、今に至るまで最も忌避すべき災害として「蝗害」が存在し続けているのである。

あまり知られていないが、日本でも律令国家時代から昭和の時代まで「蝗害」が存在し、律令時代の記録では「蝗害」に拠る租税免除記述が有り、江戸時代の記録では一部の地域ではあるが、米の総収穫量が4分の1にまで減少した記録が残っている。

1870年代、アメリカのミズリー州では幾度も「蝗害」に見舞われたが、この中で一番大きな群生飛来は幅160km、長さ500km、群れの立体的厚みは平均900mにも及び、一番厚いところでは1600mの高さが有ったとされている。
日本の青森から山口県までの3分の1が、厚さ1kmに及ぶバッタに占拠された事になり、これが2日移動したら日本には雑草の1本も生えていない事態になった事だろう。

こうした群生飛来バッタの1立方メートル当たりの数は15~22匹、個体総数では300億匹~1000億匹と言われ、今この瞬間にもアフリカで大量発生したバッタの群れが、既に中国西部地方にまで及んできている。

20世紀入って先進国と呼ばれる国家では殺虫剤の普及により、「蝗害」は少なくなったが、経済的に苦しいアフリカ諸国は「蝗害」が克服できていない。
国際社会はこうした地域に援助し、「蝗害」を抑制していたのだが、ウィルス騒動でこの援助ができなかった事が、今回「蝗害」の拡大を許し、併せてやはりウィルス対策に奔走する中国は、大規模「蝗害」の危機に直面している。

この世界の食糧庫がバッタに食い荒らされ、中国14憶人の食糧確保が難しくなった場合の国際社会は、ウィルスと共に食糧危機にも晒される恐れがある。

こうしたウィルスや群生飛来バッタを観ていると、国境という概念が人間だけが見ている非現実にしか過ぎない事を改めて思い知らさせるが、何かの力が衰えると、それまで何とか出来ていたものまでも、防御できなくなる仕組みはウィルスも「蝗害」も同じだと言う事に気付かされる。

この世界は基本的に弱肉強食すらも超える「無機質」であり、共存や平和など絵に描いた餅にも至らぬものである事を思う。
唯ひたすらに「食」、蝕んでいくバッタの姿にこの地球の厳しさと、本質的には自分以外がすべてが敵なのだと言う現実を思わずにはいられない。
(この最後の4行は浅く捉えない方がいい・・・笑)

「Youtuber」

インターネット普及に伴い、民間放送業界の苦戦はもはや決定的な感が出てきているが、ラジオ放送しかなった時代にテレビが出現した時期を考えるなら、一つの普遍的なモジュールに拠って未来を占う事ができそうだ。

政治や戦争のモジュールでは安定期が終わる時、そこには新しい価値観、或いは手法、軍事面では武器の出現に拠って小さな混乱が生じ、その混乱が大きくなって行くと、小さな者が乱立する時期を迎え、ここから小さな者が統合する再編成時期が出現し、それは単純化(数が少なくなって大きくなる)して行くが、長じて専制や独裁が発生し、ここからまた初期の混乱へと向かう循環性を持っている。

これはアリストテレスやプラトンが唱えた政体循環論もまた同じだが、ある種の物理的法則でもある。
Youtubeと言う画像配信システムは、テレビと言う巨大資本専制に対する新しい個人参加の機会を提供したが、大きく動きが緩慢になっていた放送業界は、それまで持っていた利権が個人に分散して行く憂き目を防ぐ事が出来なかった。

この原因は何故かと言うと、ペーパーレスと言う、放送と言う枠より更に大きなシステム変化が発生していた為であり、結果として写真撮影技術は全てスマホとアプリケーションがカバーするに至って、画像に関しても専門性が民衆に開放され、雑誌の売り上げ、テレビ視聴率、報道も全て権威や利権が民衆の個人単位にまで分散されてしまった。

つまり大手のテレビ局も、個人も同じになってしまったのであり、今やYoutuberと言う個人が民衆の直接指示を受け、大手の放送局と拮抗できる時代になった訳である。

これは流通の簡略化とも考える事が出来る。
消費者と物を販売したい企業が広告と言う、間接コンテンツに拠って繋がれていた形式が、この広告すら消費者側が製作できる事になったとも言えるのである。

ただし、Youtubeの現状は極端な民主化であり、権威が個人の単位にまで細かく分散された状態は、不安定でいい加減な状態でもある事から、これから再編成が始まる。
有力youtuberは資本を形成し、それでより多くのコンテンツを取得し、巨大化する方向が1つ。

もう1つは、例えばサラリーマンの平均年収700万円で、23歳から60歳まで働いた場合、生涯に得る総収入は2億5千900万円だから、これを短期に稼いでしまえば良いと言う発想も出てくる。
個人Youtuberの「花の時期」は短い。
せいぜい5年が限度で、実際は3年以上継続して高い年収を得る事は出来ない。

それゆえ巨大化して継続しようと言う形に走るが、元々スピードと視聴回数が重視される中では、制作側は常に民衆の奴隷である。
大きくなっても10年と言う単位で企業として存続できる確率は極めて低い。

また構造的な事を言えば「無限連鎖講」、マルチ商法と同じ構造でもある。
無限連鎖講は物理的な現実的構造でもあるのだが、Youtuber全体の中で1千万円以上の年収を得ている者の割合は、各国民間分析機関に拠って異なるが、アメリカで0・73%、ドイツ0・51、フランス0・33%となっている。

日本の分析機関は0・64%と言う数字を出しているが、これは再生回数から計算されたものであり、収入の面から考えるならおそらくここまでの数字には達していないだろう。
形式として上位3%~4%のyoutuberが総閲覧数の90%を独占しているのであり、現実にはこれ以外のYoutuberは最低賃金をはるかに下回る収入しか、得られていないと言う事だ。

事実アメリカの統計ではYoutuber全体が得た収入を、Youtuberの総数で割ったら、貧困地域の年収にも届いていなかったと言う結果も出ている。
この形態は生物学的には受精卵と精子の関係に同じであり、1個の受精卵に数億の精子が競合し、優秀な1つの精子が選出され、この1個の精子はその他数億の精子がなければ成り立たない。

こう言う形を私は「損失集積寡占利益」と呼んでいるが、他の職種で働けば得られる収入からYoutubeで得られた収入を差し引き、この分をYoutubeと言う可能性に賭けて投資参入し、こうした人間が多く存在する事に拠ってYoutubeと言う媒体が成立する、多くの損失者に拠って僅かな成功者が多くの利益を得る訳である。

もっと分かり易く言えば、「宝くじ」か「博打」を楽しんでいるのと同じであり、この事はウェブライターもそうだが、その他多くのコンピュター関連事業に共通している形態である。

Youtuberは既に寡占が進んできている。
民間放送事業者はこうした中で有力YoutuberのM&Aを進め、3年以内の短期に絞って利益を出し使い捨てる方向が1つ。

もう一つは重くなった体を絞り、現場確認要員を増員し、これに拠って正確な報道と放送を行う事、更には資本が有る内にYoutuberが作れないハイクォリティなコンテンツを制作し、これをYoutubeに動画アップすることに拠って利益とスポンサーを確保する方法だ。

既にYoutubeは混乱の極みを過ぎて、次の道を辿り始めている。
人の事は言えないが、卑しい顔つきのお笑い芸人ばかりの番組を作り、流行だと思ってYoutuberと同じような事をやっているのでは、崩壊の餌食にしかならないだろう。

「本文は2020年3月18日、アメブロに掲載した記事を再掲載しています]

「第二文化大革命」

かつて見た事もない異常な光景だった。

2022年10月22日配信された中国の共産党大会閉幕式での事、中国共産党としては異例の、3期連続国家主席在任が決定した「習近平」主席の隣に座っていた「胡錦涛」元国家主席が、突然背広姿の警備関係者と思しき男達に、まるで連行されるようにして退席させられたのだった。

其の折「胡錦涛」氏は何度も男たちの手を振りほどいたが、最後は無理やり席を立たされ、習近平国家主席に何かを言いながら、また更に隣に座っていた「李克強」氏の肩を叩き、そして連行されて行った。

今までに中国共産党大会の配信映像を何回か見てきたが、流石にこれは異様だった。
思い浮かんだのは文化大革命の首謀者「江青」女史の裁判、其の時「あれは革命ではない」と法廷で叫び、振り上げられた「江青」女史の拳の先に感じた「革命」と言う言葉、そう1980年以来の事だった。

中国共産党に限らず中国と言う国家は「対面」「面子」〈めんつ〉を大切にする国家であり、影では殴り合い、殺し合いをしていても、それを外にまで知れるような無様な事はしない民族だった。

どんな頭に来ていても、笑顔で拍手して終わるのが中国共産党大会だったが、国家主席の隣に座る共産党重鎮が、皆の見ている前で連行されるなど在ってはならない事態だった。
見せしめとも受け取れ兼ねない習近平のこのやり方は、例え建前であっても今までは守られてきた慣例、そうした歴史的な形をも破壊する横暴さだった。

それまで共産主義と言うイデオロギー重視政策から、鄧小平の解放路線改革に拠って世界第二位の経済大国にまで昇りつめた中国、其の内部では経済的成功者の続出に伴い、相対的に権力が低下したように感じていた共産原理主義と言う思想主義も台頭してきていた。

体制主義、思想主義と言うのは経済的な成功者に対する「僻み」から始まるもので、経済が大きくなればなるほど其の対抗意識は大きくなる。

其の代表が「習近平」だった。
彼は余り頭が良くない、そのためインテリや経済原理の理論などが嫌いだった事から、自身を他に認めさせる方法として共産主義、独裁主義を強めて行った背景が在り、こうした傾向は1966年から始まり、1976年に毛沢東が死去して終わる「文化大革命」と構造は全く同じである。

基本的には資本主義と共産主義の戦いなのだが、厳密には資本主義と体制主義、原理主義との戦いと言える。
民衆の暮らしを考えるなら資本主義へ傾き、共産党と言う組織や思想へ傾くなら体制崇拝、独裁主義へと傾く。

毛沢東が生きている期間は体制第一主義で、国民の暮らしは顧みられなかった。
そして文化大革命言う原理主義、体制主義から鄧小平は国民の暮らしを顧みて、資本主義を導入と言う方針転換をして行った。

資本力に圧されて劣性を感じた共産主義は、経済第一主義から原理主義的方向を目指していくようになり、この急先鋒が習近平であり、鄧小平の解放改革路線を継承する勢力が「趙紫陽」長老、「江沢民」長老、「胡錦涛」元国家主席、「李克強」氏だった。

今回の出来事の前、10月に入って一時期、習近平主席が10日ほど姿を見せない時期が在った。
其の折、趙紫陽氏や江沢民氏、胡錦涛氏らに拠る習近平軟禁説と、クーデターの情報が世界を飛び交った。

0コロナ政策によって疲弊する中国人民、経済関係者たちがこれを歓迎した事もあって、情報の出所は怪しかったが、この情報は瞬く間に世界を駆け抜けたが、暫くして何事もなかったように、習近平国家主席が姿を現し、この情報は収束した。

この情報を出した所が似非〈えせ〉民主化運動組織だったようなのだが、どうもこの情報そのものが習近平サイドから流された形成が在り、今回の胡錦涛氏、李克強氏、などを追い落とすための策略だった可能性が在る。

クーデターを捏造して反対派を追い落とした感じがして、其の上で今回の粗暴な追い落としである。
以後の中国は「恐怖政治」「独裁全体主義政治」に陥る可能性が極めて高いと言わざるを得ない。

0コロナ政策に拠る経済的失速と貧困に拠って民衆の不満は募り、今回の横暴な反対派の追い落としに拠る反発、それを抑え込もうとする習近平派の対立は深まり、血で血を洗う水面下の争いが、もう始まっているような気がする。

中国人民各位にはこれから極めて暗い時代を迎える可能性が高く、これは中国だけの問題に留まらない。
内の不満を外に向けるべく、周辺諸国へ言いがかりを付けるのは勿論、体制維持の為に台湾の武力侵攻すら在り得る。

14億人の巨大市場、巨大製造工場が闇に包まれて行く訳だから、これから世界市場に与える影響、経済的損失は計り知れない。

これから中国は言論統制、国家主席崇拝条例とその罰則の制定、密告推奨、監禁拷問の多発、地方経済の崩壊、共産党員が優遇される法の設定、反対派の不審死などが横行する事になります。

日本政府日本人はこの事に備え、できるだけ中国に残された日本企業の引き上げを急ぐべきだと思う・・・。

「景気の悪い面してんじゃないよ」

20世紀を代表する歴史作家「司馬遼太郎」は晩年、「このままだと日本は亡くなってしまう」と言っていたが、彼の言葉を借りるなら、既に日本は亡くなっていると私は思う。

明治維新で背伸びして列強を目指した日本は、日露戦争に拠って多額の海外債務を抱え、少しずつ「仕方ない」を増やし経済を何でも有りにしてしまった。

やがてこれが集積し、太平洋戦争と言う一つの決着を付けなければならなくなり敗戦、惨めな状況から立ち直ったが、懲りもせず、またぞろ金に目が眩みバブル経済を引き起こし、「金を儲けないのは罪だ」とまで言わしめた結果が「崩壊」だった。

司馬遼太郎はこのバブルが崩壊する少し以前から「このままでは日本は危ない」と言い続けていたが、ここで彼が何を恐れていたかと言うと、それは「仕方ない」と言って、あらゆるやってはいけない事、秩序が金に換算されて流され、どうでも良くなってしまう事を指していただろうと思う。

だが司馬遼太郎の危惧は、それ以降も続き、日本は「仕方ない」と言いつつ、富士山や伝統的な祭りまで「観光資源」と言う金に換算する浅ましさとなり、昨今ではMMT理論を参照し、国債を日本銀行が紙幣を印刷して買い取る、20世紀の世界が「経験から学んだ禁じ手」まで侵してしまう有り様となった。

更に年金財源50兆円、日本銀行50兆円、合計100兆円の政府系資金が一般市場に参入し、全株式取り扱い金額の13%を日本政府が占めていても、誰も疑問にすら思わない程、日本の「仕方ない」は進行してきてしまった。

たかが13%くらい良いじゃないかと思うかも知れないが、もし株価が下落したら、この13%を占めている日本政府の資金が紙くずになる。
としたら、例え13%でも株価が下落するような事にならないよう、日本政府が動く事は明白であり、ここに100%政府が取引しているのと同等の効果が現れる。

これを海外から観たら、日本の株式市場は政府保証と見えてしまう訳であり、その結果が投資額の30%が海外資本と言う結果に繋がっているが、これは何を意味しているかと言えば、日本の株式市場の崩壊が、即時日本政府財務の崩壊だと言う事である。

印刷して市場に流されるはずの資本は、実体経済を遥かに追い越してしまっていて、需要以上に流れた資本は全て株式市場に流れ、それがどんどん膨れ上がっている。

これが今の日本の株式市場で有り、この限度はどこまでは解らないが、無限ではない事も確かで、政府保証が付いている株式市場では下がる要因は見つからず、どんどん株式市場は拡大し、更にここへ金が流れて行く。

行くも地獄、引き返すも地獄の在り様は、太平洋戦争前の日本経済、バブル経済と全く同じ構造と言える。

「景気」とは本来形の無いものであり、先の定まっていない千変万化のもの、言い換えれば人々の「思い」である。
これを統計や理論等と言った、物事を止まった状態で考え、時流と言う本来は人が創り上げねばならないものに、逆に脅されて従っている様では、面白くない事になるのは当然だ。

チマチマした統計や小賢しい経済論に振り回され、小枝の議論で一喜一憂し、大局は見ていない。
本来、それを人の手で変えて行かねねばならないものに振り回され、右往左往する姿は滑稽とも言えるが、この小賢しさがインテリジェンスと言う世の中では、先は暗い。

1990年代のテレビ番組、「知ってるつもり」でも紹介されたエピソードだが、明治維新第一級の功労者「勝海舟」が、下町の食堂に入ったおり、その店は結構忙しそうにしていたので、海舟は女将に「随分景気が良さそうだね」と声をかける。

すると女将は「とんでもない、最低だよ、何も儲かりゃしない」
「でもさ、景気が悪そうな顔をしていると、魚まで活(いき)が悪く見えちまう」
「無理して景気の良さそうな顔をしてるのさ」
「そうすれば、その内良い時もきっとやって来るってもんさ」

黙ってこれを聞いていた海舟、やおら懐から持ち金の全て、30両を取り出すと机の上に置いて「女将、勉強させてもらった」と言って帰るのである。

今の世の中で景気が悪い時に、それを跳ね返すように明るく振舞う商人、または店が存在するだろうか・・・。
殊更悪く見せる、或いは悪く言う者は多いかも知れないが、「とんでもない、家は景気が良いのさ」と言う者はいないだろう・・・。

実はこれが司馬遼太郎の危惧で有り、勝海舟の嘆きなのである。
予め補助金や給付金を貰う事が前提となっていて、その為には景気が良いなんて口が裂けても言えない。
これは基本的に物乞いか生活保護と原理は同じ事だ。

働ける元気な体が在って、頑張れるなら最大限努力をして稼ぐのが、商いをする者のプライドと言うものだ。
補助金や給付金を当てにして利益に勘定するようになってしまった、その事を悲しく思わねばならないのに、少しずつ気が付かない間に壊れてしまい、何も思わなくなってしまった。

それゆえ社会の風潮を気にして、それに自分を合わせて生きようする。
だがしかし、この社会の風潮と言うものは理論や統計と言った過去形のものが作るのではなく、先へ行って千変万化、今日来た道は明日は通れない人間が、その集合が創るものだ。

どこの世界に過ぎ去った暗い過去で現在、未来を創る愚か者が存在しようか・・・。
その暗さを何とかしようして現在が在るのに、チマチマとした小賢しさで暗さに自分を合わせてどうする。

今の日本、世界経済は明治維新、太平洋戦争前、バブル崩壊時と何ら変わらない。
精神的側面から言えば、今の日本は過去の如何なる危機よりも悪いかも知れない。
しかし、その悪さを何とかしなければならない時に、悪さに足を引っ張られ、沼に引きずり込まれて猶、自分は賢いと思っているようでは話にならない。

勝海舟ではないが、女将が言った「景気の悪い顔をしていると、魚まで活(いき)が悪く見えちまう」は経済の基本中の基本である。

今一度この事に思いを致し、この国を、自分を見つめなおす必要が有るのではないか・・・。

「市場に流出する税制」

われわれ一般大衆は基本的に生涯に措いて得られる所得(恒常所得)と将来世代への遺産、つまり子や孫へ残す遺産などを考えて、現在の消費や貯蓄を決定している。
だがここで政府が一定の政府支出増加に伴い、その資金調達として公債の発行、若しくは増税によって資金調達をはかろうとしたとしよう。

そしてこのパターンでは政府支出が増大したと言うことは、国内景気が今ひとつと言う状況でもあることから、増税よりは気軽な、公債発行によって資金調達をはかろうと言うことになり、公債が発行されたものとしようか・・・。

この時合理的に物事を考えるなら、政府が発行した公債はその元金と利子の支払いが未来の増税になることを理解しなければならないが、その原理は簡単だ。
足りなくなったから、公債を発行するのであって、その支払いはいつになったら終了するのかと言えば、政府が発行したものには終了点がなく、例えば相当景気が良い時期があったとしても、それが税収から得られた場合は「予算」となり、基本的には予算には貯蓄しておいて返済にまわす、と言うような思想が存在してない。

つまり毎年使い切りが原則であり、景気が良ければそれに応じた要求が民間から発生してくる。
それゆえ、本質的には政府が発行した公債はいずれの時期かに措いて、増税と言う手段でしか償還できないものなのである。
そこで一般大衆は自分と子孫の税負担の増加に備え、消費を増加させない、保有した公債は資産にはならず、未来に措いて起こってくるであろう「税負担の為の貯蓄」と言う考え方を持つのが正しい。

つまり公債発行は、それが行われた時点で未来に措ける増税を意味していて、この点で言えば現在の増税も、未来に措ける増税も同じことになり、こうしたことを運命論的に考えるなら、公債の発行は一般庶民の生涯所得に影響を与えない・・・。

これが古くは「リカード」(D.Ricardo 1772~1823)によって提唱され、「バロー」(R.J.Barro)が定式化した「リカード・バローの中立命題」、若しくは「同価定理」「公債の中立命題」「ネオ・リカーディアンの同価定理」と呼ばれる理論である。

だが国債の持つ性格はこれを金融資産と考えた時から、或いは紙幣を発行する側である中央政府銀行、日本で言うなら日本銀行が国債の買取をした時点で「リカード・バローの中立命題」から外れていく。

簡単に言うなら「税が市場に流出」していくのであり、政府が出した国債と言う債務は政府自体が利益活動をしていない事から、債務返済方法は将来の増税しか無い。

しかしこれを日本銀行が買い取った場合はどうなるかと言えば、債務を出した側が紙幣も印刷していて「泥棒が警官をしている」のと同じになってしまうのであり、これでもたらさせるものは通貨の信用不安と言う事になる。

その結果日本通貨は対外的な信用を低下させ「円安」と言う側面を持つが、これで発生してくるものは「物価の上昇」であり、通貨供給量を増やすと言う事の半分の効用は物価の上昇を意味するが、これによって増やされた通貨供給量の流れは水田に水を引く形と同じである。

流れの上から順にそれが個人や企業によって自身の所に蓄積される事から、一番下の方へ行くと殆ど何も残らない現象が発生する。

つまり一番大多数を占める一般庶民には通貨供給量の増加による物価上昇と言うマイナスは有っても、更に半分を占めるはずの「賃金の上昇」が無いか、有るとしても僅かになり、結果として一般庶民は「物価上昇」と言う負担だけを受ける事になる。

無論全ての国債を中央銀行が買い取る事は不可能で有るから、これに伴って健全な部分である「リカード・バローの中立命題」に従った「消費税増税」も実行されるが、日本の現在の国債に対する返済計画はこのように「市場に流出した税制」と、「健全な税制」の両方から健全化しようと言う方式が採られている。

従って政府が行う財政出動の償還は、一つは増税によって賄われるが、国債の買取が中央銀行によって為されている現実は、物価上昇と言う「市場調達増税」でも償還が為されている事を意味し、現在日本政府が行っている政策は「消費税増税」以外に「市場操作による税調達」が加わっていると言う事になるか、或いは物価上昇と言う現実はリアルタイムだが、賃金上昇が未来に対する希望の場合は「博打」を打っているに等しくなり、この間の負担は後に還元されない。

また国債の買取は政府による市場の干渉で有り、これを行ったら本来市場が持つ自然な動向に対してまでも政府が責任を持たねばならず、よって経済を社会主義化してコントロールする事は、ある種自然災害を人間がコントロールできると豪語しているような愚かさが付きまとい、必ず破綻する。

「リカード・バローの中立命題」から外れた通貨供給量の緩和がもたらす事の意味は、必要な資金がもう正規の手段では集められない状態に有る、「破綻した状態」であると言う事で、ここで発生してくるものは「貧困社会」の特徴的な傾向で有る「貧富の差」である。

元々国債はそれを買える資金が潤沢な者に取っては金融資産的な意味合いが有り、それを負担して行くのは国民と言う性質のもので、この図式から始まって貧富の差が出易い性質のものだが、この償還を市場に頼ってしまうと増税以上の国民負担を強いる事になる。

我々は「景気浮揚」や消費税増税だけを見ていてはいけない。

日本国債の中央銀行買い取りと言う行為は税制の市場流出、若しくは税制と市場が曖昧になる事を意味していて、これは事実上税制の際限の無い市場への流出の第一歩、泥沼化が始まった事を示している。


[本文は2013年9月28日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]


「無制限金融緩和からの脱却」

もし其の国家の経済が閉じた状態で、人口に対する資源、食料自給率が100%であると仮定するなら、インフレーションが発生する原因は経済の拡大、人口の増加と言う事になり、逆に同条件でデフレーションが発生する場合は、人口の減少、経済が収縮して行く事を示す。

インフレーションは政府と企業に富が集まり、デフレーションは民衆に富が分散され、この状態はどちらにしても長期連続すれば経済が頭打ちになり閉塞感に繋がり、必ず是正しようと言う機運が発生する。

またインフレーションでは通貨供給過多で在る事から、自国通貨は他国通貨に比して下落し、デフレーションでは通貨供給が需要に対して少ない状態である事から、自国通貨は他国通貨に対して価値を上昇させる。

インフレーションもデフレーションも其の構造原理は単純なものなのだが、これは冒頭の条件のように入力データが安定しているからであり、実体経済はこのように簡単ではない。

インフレーションに関して、あらゆる物資、食料の自給率が100%の国は存在せず、鎖国状態の国家も存在できない。
この事から、世界を席巻するインフレーションは内在要因ではなく、常に一部、若しくは全てが外的要因に拠って発生する為、冒頭に掲げた原理だけ観ていては必ず判断を誤る。

これが何を意味しているかと言えば、原因が自国の外に在るなら、例えば為替介入などしても全く効果は無いか、其の効果は数日しか適用されないと言う事であり、1ドルに対し既に150円まで加速された円の下落は、日本銀行の為替介入が在っても、近い将来の1ドル160円越えを阻止できない。

自国通貨、日本の場合は円だが、円がドルに対して安くなったと言う事は、それだけアメリカに比して日本の国力が下っているという事であり、この点ではよく「良い円安、悪い円安」の議論が存在するが、原理的に良い円安と言うものは存在しないか、よほど特殊な好条件の一時期を言うのであり、其の国家が一度滅亡の危機に瀕して回復してくる時期などを指し、其のような条件は100年~数100年に1回しかない。

基本的に自国通貨が他国通貨に対して下落して行く時、それはその国家が力を失っていると判断されたと言う事である。

日本は2014年からModern Monetary Theory「MMT」がアベノミクスに拠って推進された。
「新貨幣論」「新貨幣概念」とも言って、何か最新の経済論のように思えるかも知れないが、1930年代、世界恐慌に対応した現実論から始まっていて、MMTはこうした歴史的な危機状態の緩和策を理論付したに過ぎない。
本質は「無制限金融緩和」国家が債権を紙幣の印刷で賄う、「財政ファイナンス」である。

ちょうど資本主義が行き詰ると、共産主義的なものが理想的に見えてしまうのと同じように、古いものが一巡しただけの事だった。
世界的にも経済危機に際してMMT理論に傾斜した経済政策が採られていくが、この理論は鎖国、自給率100%と言う仮定での話なので、これを採用して行くと、経済政策が国家方針を引っ張ってしまう。

世界は保守色を強め、経済的な対立が増えて行く結果が、今日のロシアのウクライナ侵攻であり、中国の経済と政治の覇権争い、言い換えれば習近平の文化大革命的逆行を引き起こしている。

第二次世界大戦以降、国際社会は経験から、無制限金融緩和がこうした傾向に陥る事を学習していた。

為に中央銀行の政府からの独立を原則とした国際秩序を打ち立てたが、困窮した状況はいとも簡単にこうした枠を壊し、それがまるでインテリジェンスのようにもてはやされたが、それを遣うのが人間である以上理論通りに収まるはずもなく、ましてや日本などの資源のない国、食料自給率の低い国家がこれを採用すると、MMT最大の弱点であるインフレーションの抑制が効かなくなる。

日本のインフレーションは常に外的要因で発生する為、全てを国家が管理してインフレーションを抑制する事は不可能なのであり、結果として通貨下落の幅が輸出による利益幅を超えてくると、日本は生産し販売するごとに対外赤字を増加させ、国民が気付かない間に国も人も貧しくなって行く。

円が114円の時と160円の時の落差は46円、1ドル対してこれだけ多くの物、サービスを提供しなければならなくなり、ついでに何か物を作る時に海外から材料を買えば、こちらでも1ドルに対して46円多くの円を渡さねばならなくなる。

日本は為替介入に拠ってドルで円を買い支えながら、企業は其のドルの取引に拠り、少し以前より5割近く多くの円をを放出して行く。
為替介入など「気分」の問題でしかない事が理解できるだろう。

日本の円急落の要因は、其の多くがロシアのウクライナ侵攻に拠るものと、それに付帯した経済制裁、そして中国の「0コロナ政策」「経済重視から思想偏重政策」への方針転換、そしてコロナ感染症に拠るものだが、こうした危機に対し、脆弱な無制限金融緩和政策を続けてきた事が最大の要因と言える。

世界各国はこうした無制限金融緩和の付けを払いながら正常な経済状態に戻そうと血の涙を流している。
アメリカは企業マインドの落ち込みを恐れながらも、FRBが大幅な金融引き締めを継続しているし、広義ではイギリスのトラス首相の辞任〈2022年10月20日〉もそう言う事になる。

個人的にはイングランド女らしい容貌のトラス首相のファンだったが、彼女の打ち出した大幅減税は少しまずかった。
これは金融緩和と同じ事なので、イギリス経済の再建には逆行するものだった。
だが、こうして自身の政策が実現できない事を理解したら「辞任」すると言う在り様は評価できる。
日本の政治家も見習って欲しい部分ではある。

インフレーションを抑制しようとして金利を上げれば企業利益が圧迫される。
放置しておくと民衆が食べられなくなる。
これを抜け出す方策は通貨金利を上げる事だが、既に1ドル150円まで下がり、それ以降も下る要因しかない円の価値を上げるには、少なくとも3%前後の金利が必要になる。

アメリカと同じように一挙に0.75%上げるも良し、若しくは次の段階では其の金利を0.5%に戻し、それから様子を見て0.75%を追加する、または0.35%上げて0.25%に戻すなど、4回から7回程金利を上げ下げしながら、最終的に3.18%の金利に落ち着ける方策が望ましい。

市場に期待と絶望の「慣れ」を与えながら金利を上げていくこの方法は、1979年第24代日本銀行総裁に就任した「前川春雄」が採った金融引き締めだが、第二次オイルショックに拠る強烈なインフレーションを絶妙に金利操作しながら切り抜け、世界的なインフレーションからいち早く日本を離脱させ、その後日本は空前の好景気を迎える事になった。

今の日本には1984年頃のように経済を拡大させる力は無い。
どんな手を打っても「少し楽になった」程度かも知れないが、それでも岸田内閣と黒田日本銀行総裁を放置して措いたら、確実に日本経済は破綻する。

コロナ政策が終わって日本の観光が賑わってきているが、これも1ドル150円だと、日本人が日本で円で物を買うのは構わないが、外国人に物やサービスが買われると、日本は往復で損失を出しながら物を売っている事になる。

観光業者が出した利益は、国民の物価高騰と言う薄い負担が集積されて成立しているのであり、これでは国家国民は富まない。
我々は景気の為、企業利益の為、税負担の為に生きているのではない。

インフレーションの時は消費すればする程損失になる。
こう言う時は静かにしているのが民衆としての定石で在り、政府や各行政区がコロナ対策後の消費を期待し、各地で観光客を呼び込んでいるようでは、我々国民の未来は暗い。

こう言う時は贅沢を控え、我慢する事を学ぶ良い機会とも言える。

「質素倹約」は人間の全歴史を通して重きを措かれるべき価値観だと、私は思う。

「国 葬」2

「日本と中国2千年の歴史に比べれば、両国間の不幸な時期など、ほんの瞬〈まばたき〉に過ぎない」

これは日本を訪れた際、日本政府首脳に語った「鄧小平」自身の歴史観である。

「鄧小平」とソビエト連邦の「ゴルバチョフ」は共に共産主義、社会主義と対峙する自由主義、資本主義との関係に措いて、一方は封鎖、もう片方は解放と言う対照的な政策で望んだが、2022年の今日に鑑みるなら、解放をセーブする為に戦車まで繰り出して鎮圧した「鄧小平」の中国、社会主義からの解放を成し遂げた「ゴルバチョフ」のロシアは、どちらも国家として維持されて来た経緯から、その選択は双方とも誤りではなかったと言える。

ただ、少し寂しい事では在るが、こうして20世紀の偉大な政治家が切り開いた道を、2022年の現在、両国の為政者である、「習近平」「ウラジミール・プーチン」が逆行させるかの如く、在り様になっている事だ。

「習近平」はまるで「文化大革命」のような思想統制を始めているし、ロシアのプーチン大統領は、やはりソビエト時代の栄光を夢見ているようにしか見えない。

そしてロシアでは2022年8月30日、「ミハイル・ゴルバチョフ」が亡くなっているが、葬儀は「国葬」になっていない。
20世紀、ソビエトと言う現在のロシアと東欧を併合した規模の、領土国家国民を困窮から救った偉大な政治家で在るにも関わらず、現政権の「プーチン大統領」は、またぞろ大帝国化を目指す意味から、こうした偉大な政治家の業績を蔑ろにした形と言える。

また1997年2月19日に亡くなった「鄧小平」は、生前自身が死んだ後、国葬にする事を禁じていたばかりか、盛大な催しもするなと遺言していた。

「自身の為に中国人民、同志諸君の営みを止める事は許さない」とした彼は徹底していた。
遺体を献体にし、使えるものは全て使えとまで言っていたのだが、流石にこれは実行されず、角膜のみ摘出して遺言が実行され、荼毘の後遺骨は海に散骨された。

急激な解放改革は国家崩壊にしかならない。
隣国ソビエトの崩壊を見ていた鄧小平は、1万人殺しても10億の民が助かれば、それが政治だと言った。
そして戦車で民衆を弾圧したが、中国の現在の繁栄は間違いなく「鄧小平」の功績と言える。

しかしそんな偉大な政治家は、いや偉大だからこそかも知れないが、自身の葬儀を国葬にする事を嫌い、為に民衆は鄧小平が亡くなった翌日も、其の次の日も平日と同じ1日を送っていた。

2022年9月8日、イギリスのエリザベス女王も亡くなられた。
イギリスのみならず、世界の女王とも言える規範を持った君主だったが、同年9月19日に行われた葬儀では、混雑する中、並んで弔意を示す国民に対する配慮は、流石としか言いようがなかった。

所変わって日本、ここでも2022年9月27日、同年7月8日に暗殺された安倍晋三元総理の国葬が予定されているが、世界を変えたゴルバチョフですら国葬になっていない現実、鄧小平に至っては「俺の為にそんな無駄なことはするな」と言って拒否された国葬、何も語らずとも世界から多くの人が慕って参列した大英帝国エリザベス女王の葬儀に比して、安倍元総理の国葬が、何故か後ろめたい気がしてしまう。

皇室に対し頭ごなしに女系天皇は認めないと、上から目線の発言をし、政治資金規正法違反問題では自殺者まで出しながら言葉で逃げ、アベノミクスで財政ファイナンスの泥沼の扉を開け、東京高裁検事の定年に干渉するなど三権分立に干渉し、亡くなって以降は統一教会問題の温床が疑われ、オリンピックにかかわる贈収賄にも影がちら付いている。

前述の20世紀を代表する政治家達、エリザベス女王の葬儀の在り様に鑑みるなら、安倍総理は本当に国葬に資するものだったかの評価は分かれるだろう。

事実日本国内では安倍総理の国葬に対し、一部世論調査は国民の70%が反対である調査結果を報告しているし、反対派のデモは連日大盛況、ついには暗殺犯の英雄視、憤慨して焼身自殺未遂事件まで発生した。

日本国憲法、及び国内法では「国葬」に関する詳細規定は無い為、この裁量は行政府の最上位「内閣」に決定権が存在するものと見做される。
それゆえ時の内閣が「国葬」に相当すると言えば、全ての要件が満たされる。

岸田内閣が「国葬」に相当すると認識すれば、国民との感覚的乖離が存在しても問題は無いのだが、要貞は「国葬」の価値と権威に対してである。

例えば今から30年後、もし私が生きていて安倍元総理の記事を書くとしたら、事前の好悪感情が全くなかったとしても、安倍元総理が抱えていた疑惑、それに国民の反対を押し切っての、異例な国葬が敢行された事は書かざるを得ない。



だが、これがもし歴代総理のように「国葬」に付されていなかった場合、暗殺の憂き目に遭遇した、悲運の総理と言う印象を強くを持つだろう。
つまり国葬に拠って、後世安部元総理の評価、印象が下がってしまう可能性が在る、其の事を現内閣と内閣総理大臣は理解しているだろうか。

愚か者は、其の小さな正義に拠って、大きな正義を貶めるものであり、今、マスコミや野党は国葬の予算などで大騒ぎしているが、本当に慕った者が世を去った時、その葬儀にかかる費用などはどうでも良い。

問題の本質はその葬儀に見合った故人だったか否かと言う事であり、もっと言えばその国葬に拠って、将来亡くなった故人及び遺族が利するか、不利益を被るかと言う事ではないだろうか。

この場合、国葬に拠って将来安倍元総理の評価が下るとしたら、この国葬を敢行した者はとんでもない不忠者、故人を貶める者だと言う事である。
世界に対し何の影響力もない国の元首が、自身の評価を上げる為の弔問外交を期待していたとしたら、恥ずかしい限りの行ないとも言える。

ただ、前述したとおり、国葬に関する詳細規定に付いては内閣に権限があり、内閣総理大臣が「国葬」にすると言えば、民衆にはこれに抗う術はない。
故人を悼みたい者は弔意を示し、そうでない者は特に変わらぬ日常を送る、日本国民の採れる方策はそれしかない。

が、1つ言える事は、今回9月27日の「国葬」は日本の内政面に取っても、対外的な面でも日本の品格を失墜させ、世界的には幅を持ちながらも漠然と存在している「国葬」の権威や尊厳と言うものが貶められた、後世、そう評価される恐れのある「式典」となるのではないか、そんな気がする。


[本文は2022年9月26日、アメブロに掲載した記事を再掲載しています]

「為替介入」

2022年9月14日黎夜、鈴木俊一財務大臣は、急激に下落して行く日本円の為替相場に対し、「あらゆる手段を講じる」と発言し、円下落に為替介入も辞さない事を示唆したが、少しお疲れか、若しくは何らかの勘違いをされていたようで、こうした発言の直後、為替介入の凡その時期も示さないし、そのような事は一切公にしないものと発言した。

が、これは流石に経済学部に在籍する学生でも知っている基礎的な知識の不足なので、鈴木財務大臣の発言を訂正、補足しておく。

為替相場で自国の通貨が下落してきた時、対策は大まかには2つ存在する。
一つは下落している要因対象通貨の自国保有分、または其の相対国家と協調して自国通貨に対し、値上がりしている通貨を市場に放出する方法、これを為替介入と言う。

もう一つは自国通貨の金利を上げる方法であり、こうした対策は追い詰められてからだと効果は薄いが、どちらかと言えば通貨金利を上げる方策より、市場の為替介入の方策が効果は薄い。

また株式市場、為替市場も「現在」を反映して動いていない。
両者とも「マインド」「予測気配」で動いている為、こうした市場は「現在」を「過去」に換算して「未来」を「今」に動いている。
市場に介入すると言う事は「マインド」を与える事であり、この意味では「雰囲気」を提供する事と言える為、財務省、日本銀行は「市場介入するかも知れんぞ」と言う事を、遠巻きに表現しなければ市場介入の効果は出なくなる。

秘密裏に行う市場介入は、為替相場介入効果を滅失させてしまう。
「市場介入は秘密裏に行うもの」とした鈴木財務大臣とは裏腹に、日本銀行は2022年9月14日の段階で、既に「レートチェック」を開始している。

「レートチェック」とは日本銀行が市場関係者に意見を聞くリサーチであり、こうした日本銀行の行動が漏れ伝わり、市場には近い内に為替介入が入りそうだと言う予測が働き、相場が動くを期待する、そう言う「ここだけの話」的な日本銀行の「噂流し」なのである。

勿論実際に相場の介入が在るかどうかは分からず、唯の噂に終わるかも知れないが、こうした「雰囲気」「マインド」の流布こそが市場介入効果なのである。
鈴木財務大臣は、財務大臣として基礎的な知識の有無が疑われる発言を、勢いよくやってしまった訳だが、弁舌強勢、趣旨優柔不断の岸田総理をはじめとして、日本の政治家に基礎知識を期待するのは酷だったか・・・。

また、基本的に日本円の下落は為替介入では改善しない。
一時的に円相場は少し上がるも、数日も持たない。
長らく無制限金融緩和をやっていると、為替市場介入と言う小手先でも、相当の覚悟を以てやっているかのように感じるかも知れないが、対外的には水鉄砲の玩具から、水が発射されたくらいの影響でしかない。

せっかく血を流しながらも、非常事態金融緩和から離脱を決めたアメリカ経済は、何が悲しくて金融緩和を続ける日本円を助けなければならないのか、むしろ日本こそこうした機会に金利を上げて頂きたい、そう思っているアメリカは、円相場に対して協調介入は在り得ない。

日本単独の為替介入になるばかりか、日本円が下落しているのはドルに対してだけではない。
無制限金融緩和から離脱しようとするアメリカ、ヨーロッパEUのユーロも金利を上げている為、日本円は全方向に対して下落している。

其の上にロシアのウクライナ侵攻、中国のコロナウィルス感染0政策が存在し、これらが改善されてくる日は近い。
爆発的に発生してくる需要、それに見合った世界的な生産体制の準備を考えるなら、それを緩やかに流していかなければ、各国ともインフレに潰されてしまう。

既に始まりつつある経済拡大、これに対応する政策を始めつつある世界市場、日本政府と日本銀行はこうした流れに逆行している為、円だけが沈んできているのであり、これを為替相場と言う小手先でかわす事は出来ず、ましてや財務大臣が、市場に分からない様に為替介入すると言った時には、日本経済の終焉を感じてしまう。

1970年代石油危機の折にも、物価高騰は政府の責任だと、民衆は政府をやり玉に挙げていたが、今から思えばあれは可哀そうだったなと言う思いがする。
2022年の政府に鑑みれば、遥かに勉強もしていたし、真剣に取り組んでいた。
あれは政府のせいではなく、国際情勢のせいだった。

今もこうした通貨下落、インフレは対外的要因に拠って、もたらされている事は変わらない。
しかし其の幾ばくかを政府、日本銀行の対面主義、虚栄心、愚かさが担保しているような在り様には腹が立つ。
他人が愚かなのはまあ良いとして、その愚かさに自分が巻き込まれるのは耐えられない。

[本日は特に記事掲載の予定は無かったが、2022年9月14日、鈴木俊一財務大臣の記者会見を拝見し、余りの愚かさぶりに本稿を寄稿した]

[未推敲ゆえ誤字脱字、文章の稚拙さにはご容赦頂きたい]

[本文は2022年8月15日、アメブロに掲載した記事を再掲載しています]

「国 葬」

古来より政治の理想的な状態と言うのは、政策に対して賛同と反対が半分ずつと言う形と言われていて、民衆が政治から関心が無い状態を頂点とする、そう言われている。

政治は調整機能だから、100%の大衆に対して政策を実行すると、凡そ半分の人がその政策に拠って恩恵を受けられず、次に残りの50%に対して半分の25%が望む政策を打ち出し、と言う具合にして行けば、最後は0.781145%の反対を残して全員が賛同になる原理だが、実は残った反対意見を賛同にするには、元々賛同した半分にある種の妥協を求めて行く形になる為、50%対50%の最初に出した政策にどれだけ妥協案を追加しても大きく変化しない。

賛同、反対意見共に曖昧さを増やして行くに過ぎない。

つまり政策に対する多くの調整案は余り効果が無く、本来政治に不満が無ければ民衆は政治の事を考えず、民衆が政治に関心を持つと言う状態は、政治の状態があまり良いとは言えないと言う事である。

1992年8月、「金丸信」自民党副総裁の5億円闇献金問題が発覚した。
俗に言う「東京佐川急便事件」だが、ここで東京地検特捜部は金丸氏に出頭を求めたが、金丸氏はこれを拒否し、代わりに上申書を提出し、罰金20万円の略式起訴で問題の解決を計った。

これに対しては検察庁内部からも批判が続出、国民の不満は頂点に達した。
これより少し前に発生していた1992年3月の、栃木県足利市で公演中の金丸信副総裁襲撃事件、金丸副総裁が右翼青年に拳銃で襲撃された事件などは、こうした一連の政治資金規正法違反に関係していたものの先駆けだったと見られている。

国会議員が民衆に示す民主主義とは、正規の手続きに拠って問題の解決が計られた事しか担保できない。

一般民衆なら刑事訴追の上収監、と言う事態が自民党副総裁なら罰金で済むと言う在り様では、国民の不満は大きくなり、その中で個人の事情が増長したものが増加している経済的停滞、或いは災害などが存在する場合、個人の事情が先鋭化した者の数も多くなり、そうした不満が明白に正義を歪めた国会議員の襲撃などに向かい易い。

こうした事態の責任は、本来正規の手続きを踏まなかった本人もそうだが、検察などの三権分立の一角に在る組織、国会に措ける責任の会見、野党の追及が正しく機能し、正規の手続きが為されていれば、避けられる問題とも言える。

2022年7月8日、安倍晋三元総理が奈良県で「山上徹也」に拠って銃撃暗殺されたが、安倍元総理は森友、加計問題では終始言葉で逃げ、花見問題でも同様だった。1992年の金丸信副総裁と同じ疑惑にも関わらず、また途中財務省職員が事件に関して自殺している事も、今では国民も忘れているのかも知れないが、そう言う疑惑に対して国会の追及は封殺され、検察も手を出さなかった。

また旧統一教会との関係など、政教分離など全くの無視状態と言える。
安倍元総理は既に総理の任期を終えていて、加えて日本の総理など狙う価値もない事を考えるなら、今回の暗殺事件は疑惑に対して真摯に向かい合わなかった国会と検察庁、それに政教分離の大原則を甘く見ていた安部元総理自身の、国会議員としての脇の甘さも一因したのではないかと思う。

しっかり皆が責任を以て働いていれば、こうした事態は発生しなかったのであり、SPに責任を転嫁する岸田総理の在り様は、自身の事を棚に上げた責任逃れの醜さも感じるが、政治家と言うものはこうしたものであり、国葬も悪くないだろう・・・。

少なくとも選挙活動中に殺されたのだから、国会議員と言う立場からすれば「殉職」と言える。
国家が葬儀を営むことは問題ないと思う。
野党の言う生前の政策を認めさせる事や、国民に弔意を強制と言う話は筋違いだろう。
別に嫌なら葬儀に参列する必要もないし、黙とうをする必要もない。

それを為さなかったからと言って刑事罰が下される訳でもないのだから、強制にはならない。

それにしても、こうして国葬と言うフレーズを聞くと、かつて昭和天皇に謁見したおり、「今日は大変な人に会った」と頬を紅潮させて領事館に帰ってきたと言う「鄧小平」の事を思い出す・・・。

「私の死くらいの事で人民の経済活動を止めてはならない」
「葬儀は行なわなくてよい、休日にもしてはならない」
「死んだら体は献体するので、使えるものが在ったら使ってくれ」

[本文は2022年7月14日、アメブロに掲載した記事を再掲載しています]


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Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

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「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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