「国定信用貨幣論」

かねてより金銀の産出量低迷が常態化し、市中に小判や銀貨の流通量が低下、その上に制限のない将軍家の散財、人口が増加し、経済規模が拡大しようとしていた江戸は経済危機を迎えていた。

ここにその抜群の経済センスで頭角を現してきた「荻原重秀」は、1695年、小判の金の純度を減らし、小判2枚から小判3枚を鋳造、また「寛永通寳」も薄く小さくし、市中通貨量を増加させた。
大幅な金融緩和、元禄バブルの始まりである。

国定信用貨幣論、MMTは最新の経済理論のように思うかも知れないが、同様のものはこうして300年前の日本、19世紀のヨーロッパでも見られた、しかも経済が困窮したら発生してくる考え方と言える。

そしてこれには条件が在り、経済が国家内に閉じている事、自給自足が可能な国家である事、他国経済の流入がない事などが必要だが、これはどう言う事かと言えば、「鎖国」状態と言う事であり、逆に言えばこうした経済を導入すると封鎖経済に向かっていくと言う事である。

原理は簡単だ。
我が家で子供たちに出している「肩たたき券」は、我が家内では1枚50円での換金もできるが、隣家ではその50円を保障してはくれないと言う事だ。
その為こうした経済観念は、どうしても経済をブロック化させ、対立の危機を招き易い。

1923年に関東大震災に見舞われた日本は、1930年には世界恐慌の煽りを受け経済危機が発生、高橋是清は通貨供給量を増やし、これに拠って日本は世界で最も早くデフレを切り抜ける。
これを見ていた日本の軍部は、「何だ通貨など国家で有れば何でも出来るんだな」と錯誤し、政府に軍事費用増加も紙幣の増刷で何とかして貰おうと言う方向に動いていく。

元々デフレ脱却の非常手段、例外的に政府と中央銀行の一体化、紙幣増刷に拠る金融緩和を想定し、これが長く続けば破綻する事を理解していた高橋是清は軍部の要求に難色を示し、これに拠って高橋是清は暗殺され、日本は金融緩和、財政ファイナンス状態から抜け出せなくなり、太平洋戦争へと突入して行く。

リスクとは、想定した期間内に何も他のアクシデントが発生しなければ、大きくはないものなのだが、人間社会とこの自然相手にアクシデントのない状態は存在できない。

また人の世は怠惰、卑怯、劣化、甘えの世界であり、元禄時代も荻原重秀の手法に味を占めた幕府は、将軍交代時のセレモニー費用までも、通貨の劣化鋳造で何とかしてして行き、1930年代の日本でも通貨発行で銀行を助けたのなら、増大する軍事費用も通貨発行で何とかしてくれと言う話になり、調整機能である政治はこれに優劣をつけられなくなる。

その上に国家と中央銀行が一体化している財政ファイナンス状態は、外部、自国以外の事情にとても脆く、一度足を踏み入れると容易に抜け出せない。

荻原重秀の財政ファイナンスは、後に「新井白石」の登場で方針転換されて行くが、急激な正常化と粛清は経済の急激な萎縮を招き、経済は一挙に低迷し民衆の暮らしは苦しくなる。
そこでまた揺り戻しを起こすのだが、こうした上下を来り返すと、国定信用貨幣の国の信用が失われて行き、長く暗くて苦しい生活が続いた挙句「破綻」して、それまでの秩序や経済システムが崩壊する。

元禄バブルの付けは100年の長期低迷、最後は黒船の到来で江戸幕府の崩壊で在り、1930年代の軍国財政ファイナンスは国家存亡の危機に繋がり、太平洋戦争敗戦で日本が何もかも失って終わった。

こうした傾向は少しずつ事情は違っても、世界各国同じ経験を繰り返して今日に至ている。
それゆえ第二世界大戦終結後の世界は、国家と中央銀行が一体化して、政府が無制限に好きなだけ、通貨発行可能な財政ファイナンス状態に陥らない事を誓い、これを国際経済ルールの基本と規定した。

現代社会ではバブル経済以降長期低迷が続く日本に対し、世界が一時的に財政ファイナンス状態を容認した。
これが「アベノミクス」であり、日本は国家会計上やってはいけない政府と中央銀行の一体化を進め、デフレに対して通貨発行量の増加をして対処し始めた。

そしてこれは戦争と同じでも在るから、目的と期限が設けられたが、それが2年と2%の物価上昇率だったにも拘わらず、目標は容易に達成できず、継続されていった。
財政ファイナンスの弱点は人の心の弱さと、甘え、怠惰で在り、またその国家外の事情と、災害などのアクシデントに拠って進退が極まる。

どの時代もどの民族でも同じだった。

アベノミクスで始まった異次元金融緩和は、今や抜け出せない状態になった。
コロナウィルスと言うアクシデント、ロシアのウクライナ侵攻に、NATO境界線の変化、中国の台頭、気象、災害に拠って常に緊急事態が連続し、金融緩和は継続すると国定信用が低下し、日本の財が海外から買い叩かれてしまうし、辞めれば惨めな暮らしが待っている。

戻る事も進む事もできずに、国民の暮らしは放物線的加速で困窮して行くだろう。

2022年7月13日、日本の鈴木財務大臣が元FRBのイエレン議長と会談したおり、現状を憂慮していると、まるで人事のような話をし、暗に協調介入で円相場を支えて欲しいような発言をしていたが、イエレン議長は薄い笑いをしていた。

日本銀行の黒田総裁が金融緩和を継続すると発言した直後から、円相場はドルに対して下落したのであり、アメリがこれを助ける義務はない。
むしろ先に「金融緩和状態を何とかしてから来てね!」と言うのが人としての全うな在り様だろう。

自分に都合の良い事情を相手に期待して物事を考えるような在り様は、太平洋戦争に突入する前の日本政府と全く同じに見える。

日本のこの先はもう決定している。
円相場の下落に拠る物資調達コストの上昇、国際的な資源産出量低下に拠って、需要はあっても生産ができない状態、そこへ通貨の円だけがどんどん入ってきても、通貨は出口がないから飽和状態になる。

便秘で苦しんでいる上からケーキ食べ放題の店に行って、泣きながらケーキを食べている、そんな状態と言え、その先に待っているものは誰もが想像できるだろう。
国定信用貨幣論は、外の事情に弱い、国家間の対立を生みやすい、人間の意志の弱さに拠ってコントロールが不可能になる、アクシデント、災害に脆い、そして一度始めると辞める事が出来なくなり、結果は必ずの破綻である。

150年前は江戸幕府の崩壊、75年前は太平洋戦争敗戦によって日本の財政ファイナンスを終える事が出来たが、令和の現代ではやはり戦争か、巨大地震か、気象災害でリセットなのかな・・・・。

それまで日本国民はずっとインフレに晒され、賃金はデフレのまま、毎年苦しくなりながら、崩壊を待つ事になるのだろうな・・・・。

「200年も前に最先端の経済論を理解していた事は驚きである」
ウキペディアでは荻原重秀をそう評しているが、これは些か現代を大きく見積もり過ぎているような気がする。

結局のところ、困窮すると節操を失い、既存秩序を壊してしまうのが人間の業であり、それが単純に繰り返えされ循環し、たまさか今世紀前後に同じ状況が現れ、同じような考え方がまた現れて来ただけだと思う。

「時系列的整合性の欠如」2

酒と女には気を付けろ、宗教や政治、応援している野球団の話はするな・・・。

今から40年前、自分が商いを初めた時、師匠とも呼べる方から言われた事だが、野球団がサッカーチームに変わったくらいで、今も変わらずこうした教訓は普遍的な命題と言えるだろう。

だが酒と女はともかく〈こう言う言い方をすれば差別と言われるのかも知れないが…笑〉宗教や政治、サッカーチームの話題は何故忌避されるのかと言うと、ひとえに敵を作らない為であり、世の中には色んな宗教が在り、政治団体も各種存在し、サッカーチームもあまた存在する。

この中で客、若しくは顧客がどんな嗜好なのかが判らない多方向営業の場合、相手がどんなサッカーチームを応援し、どんな宗教観を持ち、政治信条なのかは判らない。

応援しているサッカーチームくらいは聞きだす事ができるが、政治信条や宗教観はなかなか聞き出しにくく、容易に聞き出せた時は、下手をすれば勧誘されるかも知れず、顧客であればそれを断り辛く、安易に勧誘に乗ってしまうと、それに敵対する政治団体や宗教団体関係者の顧客を失う可能性がある。

それゆえこうした思想的な事、嗜好などに対して中立、白紙状態が理想とされるのだが、同様の事は好きな食べ物や飲み物にも言え、客や顧客の前ではこの類の自己主張は忌避するのが望ましいのである。

そしてこうした商いの上の不文律が、公的に必要とされる機関が報道の世界であり、ここでも特定の団体や嗜好へ傾倒した発言をすると、そこには個人的干渉が入る為、ニュースは事実のみを伝え、それを伝える者は自身の嗜好や感想を織り交ぜる事を忌避する事で、報道の正確性が担保される。

一方大衆はこうした報道機関の報道を視聴していると、どの報道機関も内容が同じである事から、そこに何か他との違いを探す傾向が出て来て、それは報道以外の部分にまで及ぶ。

例えば報道以外の場面でいつもニュースを読んでいるキャスターが、どこかの小さな定食屋でコロッケをうまそうに食べていて、幼い頃の最高のごちそうがコロッケだったと言う具合で、彼か彼女の出自が大変厳しいものだった事などが判明すると、それで何が分かったかと言えば何も分からないが、でも何かが分かった気がするのであり、以後はまずそのキャスターの報道を先に観るようになる。

「時系列的整合性」とは、その個人が生涯を通して、或いは長く変化させない普遍性を持った思想、形態、嗜好、思考の事を言い、1カ月前に言った事と現在言っている事が全く正反対だった場合、多くの人間はその対象者を信用できなくなるが、これが初めから忌避されていれば、事象に対する態度が予め存在しない為、信用が担保される。

しかし、これだと他と同じであるから、大衆はそこから「時系列的整合性」を探そうとするのであり、その「時系列的整合性」が好ましいものと思われれば、それに拠って「時系列的整合性」が忌避された部分でも人気が上がっていくのである。

こうした傾向が危機的になってきたのは、何と言ってもインターネットの普及で在り、双方向通信は、一般ネットユーザーに自己主張をの機会を与えたことから、初期媒体だった「ブログ」等の世界では、金太郎飴状態の報道形態より、自分の事を主張する形態、「時系列的整合性」がもっぱら記事に書かれて行った。

また記事を書く者は、その反応を気にするようになり、やがて「ナイス」や「いいね」でそれを測る形態が蔓延し、ここからネット内で「善」と「悪」が明確化する傾向が出てくる。

「ネットユーザー」の支持を多く集める「善」や「正義」「愛」に対して「悪」がくっきり区別されるようになり、その好ましいノマド「分岐点的かたまり」がもてはやされることから、皆がそちらに集中し、個人の「時系列的整合性」より、その好ましい部分、「善」「正義」「愛」の扱いが重要性を持ってしまう社会となって行った。

やがてフォロワーなどの制度が発生し、ブログからFacebook、Twitter、YouTubeと言う具合に発展していく過程で、言語は簡略化され、これに伴い「善」や「正義」「愛」はより先鋭化され、それを外れたものは全て「悪」となって行き、本来「時系列的整合性」の面では正しくても、それが現段階の「善」や「正義」「愛」に拠って拒否されてしまうようになった。

結果として、炎上やフォロワー数の激減などに繋がる為、発信者は「時系列的整合性」を無視しても、大衆が集まる側の事しか主張できなくなるのであり、この傾向にアプリケーションを提供する会社も、訴訟案件などが出てくる可能性もある為、「善」に拠る規制を大きくし、情報の多さから「時系列的整合性」が無視された状態が一般化して行った。

簡単に言えば、個人がその思う事が言えず、大衆が支持する平板な事しか言えない社会になってきたのであり、ここでは過去「善」で在ったものも、今の段階ではそれに優先する事情がある場合、過去の「善性」は無視され、統一した小さな今の「善」から外れる意見は「悪」とされてしまうのである。

この事は、それまでの「善」が逆転を受ける事はもとより、「時系列的整合性」をも「悪」に落とし、また思想的にグレーの状態も「悪」に落とすため、表面上は綺麗な話に囲まれながら、その下では「闇」を増やして行く。

「闇」はまた貧困を呼び、こうした貧困が増加すると、その内の何%かは心的破綻者を生じせしめ、綺麗な言葉に囲まれた社会に、ある日突然「信じられない事」が発生してしまうのである。

唯、こうした現時点の善性、正義、愛と言ったものは、それが過去になるに従って、その他多くの「時系列的整合性」の中に組み込まれて行く為、時間経過と共に「時系列的整合性」を復活させるが、それが復活した時には既に新たな善性や正義、愛が支配している為、遥か遠くの過去の小さな事でしかなくなり、連続して「時系列的整合性」が無視よりもっと悪い状態、予め欠如した状態で流れて行く。

人間の社会は多くの「善い人」の「善い考え方」で誤った方向に動いて行く。

最後に恐れ多いが、冒頭の「師」の言葉に足して、私も自身の教訓として心得みたいなものを残させて貰おうかな・・・。

人は他者の喜びを共有しない。
自身や親族の自慢話はどんな小さなものでも人前では語らず、どちらかと言えば少し貶めておく。
嬉しい時は悲しい顔をし、苦しい時は笑う。
褒められた時には、その褒めた分の対価を自身が失い、貶める者は、その貶められた分だけ、褒めた者より信用できる。



「時系列的整合性の欠如」1

人間にはズレがあり、このズレは何を起点としているかと言うと、その起点すらもはっきりしないが、若干の違和感にして深く、大した事ではないにも拘わらず、常にひっかかるズレが在る。
しかも多くの人間はこのズレに気付かない。

ズレは善と悪の双方に存在するが、悪の側は直近の比較が存在する為、「濃度」の形をとり、問題は「善」や「美」の側となる。

「善」や「美」の近くはそれが良いものだと思う為、ズレが在っても認識することはできず、信じれば信じるほどズレを大きくし、その大きなズレも認識することができないが、小さなズレは多くの人間に共感される、若しくは伝搬、いや、感染と言った方が良いのかも知れない、そう言う性質を持っている。

何か対象物が在る時、それを見て感動する道は大まかに2つ在る。
一つはその対象物が紛れもなく感動の対象である場合、もう1つは感動したい自分が在って、それを対象物に乗じる場合だが、この2者は自身の内に在って区別がつかない。

厳密には区別する事すら難しいのかも知れないが、個人差が存在する為、それが見える人間に取ってはこうした個人差をして、それが本質ではない事が見えてしまうのかも知れない。

だが元々差が存在するものからズレを認識すると言う場合、つまり比較の起点がはっきりしないものの誤差を何で測るのかと言えば、それは「数の多さ」と「時系列的整合性」の欠如なのかも知れない。

こうした閉塞して動きのない時代、多くの人間は大きな変化を求めず、小さな喜び、感動、満足を欲する傾向が在り、例えば1970年頃の日本の一般大衆の夢は「家を持つ」事だったが、失われた30年が継続中の今の時代、それがディズニーやユニバーサルスタジオ、或いはおいしい食事やスィーツと言う具合で小さく細分化される。

同様に感動も少なくなって、何か感動できるものが在れば、沢山の人間がそれに群がる事になり、これは本質的感動ではなく、何かの祭りのようなもので、感動したいが為に自身の言動思想の時系列的整合性を考えずに飛びつき、これに気付く少数の者は、こうした大衆の時系列的整合性の欠如をして、それがズレである事を認識している可能性がある。

多くの人間がこうして時系列的整合性を欠いた状態の中、これがズレである事に気が付く少数の人間が「ズレ」を主張しても、その時の大衆は気が付かないどころか、「善」や「美」に対するアンチと捉えてしまう。

今の時代で言えば「炎上」になってしまう訳である。

ただ、こうした時系列的整合性の欠如は、現在が過去になって行くと、過去の中で時系列的整合を獲得して行く。
つまり今それがズレである事に気付いた者は、それを記録し、5年後、10年後と言う時期を見計らって、それを世に出せば賛同者や理解者が多くなるのである。

ズレに気付いた者は、何故これが小さくても深く自分の中に残るのかと言えば、グレーの沢山の粒の中に、周囲のグレーより僅かに薄いグレーの粒が1つ存在した場合、これが僅かな差でも認識できる事、数が少ない故に際立つのである。

時系列的整合性の欠如は、一種の感情の増殖である事から、もう一つ例を挙げるなら、上に木の枝が在って、降ってくる雪は自分の所では積もらないが、周囲にはどんどん積雪量が増え、自分が周囲より沈んで見える。

この事が不安感に繋がり、自分が正しい、言い換えれば時系列的整合性を欠いていない事を主張したくなる為、焦燥感を覚える事になるが、春が来て雪が解ければ皆春を楽しみ、過ぎ去った雪の事は考えない。
大衆とはそうしたものだ。

今大衆の「ズレ」に気付いた者の心を埋めるのは難しいが、チャーチルが「最低だけど今はこれがベストだ」と言った民主主義と同じように、必ずしも正解ではないが、気付いた者は「利」を求めるしかない。
多くの者がズレを認識できない状態なのだから、これに便乗して「利」を得る事を考え、後にそのズレが解消された時、多くの者の油断を付いて利を上げた事をして対価とするしかないだろう。

利益は虚しいかも知れない。
豪華なホテルに泊まろうが、高額な食事をしようが、見目麗しい異性を傍らに侍らそうが、決して心は満たされない。
しかし、「利」は今の時代、人間社会で形なきものを形した、その形の最上位だから、虚しくてもこれを確保するを怠らないのが、人間社会に措ける唯一の正義、「善」だろう・・・。

[時系列整合性の欠如」2に続く

「日本の現実」

2022年7月8日11時30分頃、奈良県の近鉄「大和西大寺駅」前で演説中の「安部晋三」前内閣総理大臣が、40歳代の男に拠って後ろから散弾銃で襲撃を受け、2発の散弾を被弾し、心肺停止の状態で奈良県内の病院へ緊急搬送された。

12時50分現在、容体は不明だが、ここで緊急に為さねばならない事は、まず現内閣総理大臣と日本銀行の黒田総裁の身辺警護強化で有り、一般大衆は巨大地震などの災害に対して備える必要性が有る。

安部政権の特色は「金融緩和」で有った事、しかもこの金融政策は、現状では円安を招いていて、即時金融政策方針転換の必要性が有ったが、安部前総理の影響力が強く、忖度から現内閣は容易に変更ができていなかった。

経済界のみならず、財務省内でも出てきていた金融緩和政策の方針転換、日本銀行の一般市場干渉からの撤退の声は、安倍前総理と日本銀行の黒田総裁の存在に拠って方針転換されずに進んできていた為、万一今般の前総理襲撃事件の背景に、こうした経済政策に対するテロの思想が存在する場合、日本銀行の黒田総裁が同時標的にされている可能性を考慮しなければならない。

またこうした暴力と言うものは許し難い行為だが、現実にはこのようなパターンで国内の混乱は始まっていく。
これまで為されなかった金融緩和政策の方針転換が進んでいく可能性も出てくる事から、日本はこれからかなり大きな経済的混乱に突入し、折から少しずつ暗い影を落としていた「コロナウィルス第7波」と言う具合に、ある種バブル以降最も大きな混乱期の入口になる可能性がある。

そしてこうした国内に大きな政変や経済的混乱が発生した時、大きな地震も重なってくるケースが多い。
近代から現代でも安政年間、昭和では太平洋戦争終戦前、社会党内閣成立期、民主党政権発足時など、いずれの時も大きな地震が発生している。

国民は政変や経済的混乱と同時に、大きな地震にも備える必要が在る。
可能性として高いのは東北沿岸、北海道、南西諸島と九州南部、活火山付近では噴火の兆候が始まる場合もあるかも知れない。

戦争当事国のロシア、ウクライナ、またアメリカ合衆国やヨーロッパ諸国、中国や他日本より治安が悪いとされている第三国ですら、発生してない前国家代表の暗殺未遂事件が日本で発生しているのである。
この事を軽く考えてはならない。

表面上平和で自由の国なはずの日本で発生したものは、最も治安の悪い第三国、戦争当事国でも発生していない、危険で最低の状態を迎えているのであり、この事を自覚し、これから先に備えなければならない。


追加記事 ※2022年7月8日17時19分
時間経過と共に初期情報の変更が発生したので、記事を追加する。

まず襲撃に使用された銃だが、その後の情報では自作改造銃、〈オートマティック〉が使用され2発発射し、2発とも致命傷となる首、左胸に命中している。

犯人は職業不詳、奈良市の元海上自衛隊所属、「山上徹也」41歳。
山上は安部元総理に銃撃を加えた後、10mほど離れて静観している所を、8名ほどの男性たちに取り押さえられた。

また襲撃の際、全く声を上げずに安部元総理が演説を始める瞬間を静かに狙っている事から、威嚇や精神的なストレスの発散などではなく、初めから確実に安倍総理の命を狙っていたと考えられる。

逃走せずに現場に留まっていた事実、静かに安倍総理を狙っている事から、この背景には大きい小さいはともかく、かなりしっかりした組織的なものが想定できるが、実行犯が現場に留まっていると言う事は、捜査を被疑者以上に拡大させない効果が有り、1発も弾を外さす、しかもこれだけの重要犯罪を声も出さずに実行する覚悟は普通ではない。

恐らく背景が在ったとしても、被疑者から自供を得る事は出来ないだろうし、動機や背景は絶対表に出る事はないだろう。
またこれほどの事を実行できる被疑者だから、一定の期間が過ぎたら自殺、若しくは殺される可能性も考えておかねばならない。

拘留期間中の監視強化、検察に移動する折には充分な警護が必要になり、警察、検察内部の監査も徹底しておかないと、被疑者存続確保が危うい。
この事件は10年後に顧みると、必ず日本の社会や考え方が変化して行く1つの契機になっただろう事に気付く、重大な事件となる。

追加訂正記事 ※2022年7月9日9日6時34分

2022年7月8日17時10分、同日11時30分頃、銃撃により被弾し、心肺停止状態だった安部元総理の死亡が発表された。
なお、この記事の前半、安部元総理を前総理と表記したが、菅前総理の存在を忘れていた為、錯誤し前総理と表記した。
訂正してお詫び申し上げる。

ただし、記事の事後訂正は行わない。
誤字脱字、錯誤もまたその時の自身の状態と、認識状態を示すものと考えられる為、後日、当時の周辺環境を残す意味もあって、文字の差し替えは行わない。

この令和と言う時代に、日本で元国家元首が暗殺された事の衝撃は計り知れなく大きい。
だがいつの時代も、与党が自党利益、その存続を主眼として国民の負託をいい加減に処理したなら、それに対して野党も追求の手をこまねいていたら、この時点で民主主義は蔑ろにされた事になり、民衆は政治への関心を失う。

結果として自分たちの主張が正規の方法では反映されない状態となった民衆の、その先鋭化された異分子に拠って、暴力での主張に繋がっていく。

今、安倍元総理の暗殺事件に際し、国会議員や自民党諸氏は「民主主義への挑戦」と語気を荒げるが、初期の情報が錯綜している時は最大限拡大して警戒を要するが、7月9日に至って奈良県警は被疑者の山上徹也が、銃撃は安部元総理個人を目的としたものであると自供している旨を発表して以降、今般の事件が民主主義思想に対するテロではなく、また参議院選挙妨害を意図してはいない事、言論の弾圧を意図してはいないものと考えられる。

それゆえここで国会議員各党党首、並びに関係諸氏が民主主義に対する挑戦、或いは選挙妨害、言論の自由への挑戦と言う言葉を用いるのは拡大解釈と言え、参議院選挙と言う時期的なものを考慮しても、いたずらに拡大解釈された表現を用い、国民の不安を煽る事は、適切とは思えない。

また選挙のみが民主主義ではない。

国会で少数意見、或いは対立する意見をどう多数意見に反映させるかが、国会の議論の役目だと言う事を忘れずに、国民の負託に応える事が民主主義の根幹であり、選挙はそれを実現させるための手段で有る事を忘れないように、参議院議員選挙を成立させてほしいものである。

安部元総理のご家族に対し、謹んで哀悼の意を申し上げ、本件記録を終了する。

[本文は2022年7月8日、アメブロに掲載した記事を再掲載しています]


「能登半島珠洲市北東地震」2

2022年6月19日15時08分に発生した能登半島珠洲市北東地震に関して、地震の規模を示す「M」と震源の深さに付いて気象庁から修正が発表されたので記載し、またこの地震に付帯して少し所見を記録しておきたいと思います。

能登半島珠洲市東北地震

時間   2022年6月19日15時08分
北緯  37・5
東経  137.3
M   5・4
深さ  13km
震度  6弱
天気  晴れ
風速  平均3m
津波  無し

以上、赤い文字で表示された部分が修正された箇所です。

またこの地震に関して、ちょうどフォッサマグナ〈大地溝帯〉の東端がどこで終わっているのかが現在も議論されているように、実は西の北の限界線に付いても、何らかの延長線が珠洲市北東を通っているのではないか、そんな可能性も無いとは言えないような気がします。

勿論これは科学的な証拠が有っての話ではなく、私個人の「勘」でしかないのですが、珠洲市で2020年から発生していた群発地震の傾向が、少し以前長野県と岐阜県の境界付近で発生していた群発地震と似た傾向を持っていました。

こうした中、小規模地震が群発する傾向は、フォッサマグナ内には比較的多く発生する傾向が見られる為、フォッサマグナ西北の限界線が珠洲市北東を通っていると仮定すれば、珠洲市の群発地震がなぜ発生するかの1つの考え方になるような気がする訳です。

日本列島は数百年前、2つに折れた状態で大陸から離れ、その後フィリピン海プレートに圧されて日本海と太平洋が海で繋がっていた状態から圧縮を受けて隆起し、現在のように1つの本州を形成するに至っている。

従ってフォッサマグナは北アメリカプレートとユーラシアプレートの境界と考えられていて、この中央太平洋側に当たる伊豆、箱根などの地域は常にストレスを受け、大きな地震が発生するが、反対側の北西端を珠洲市とすると、東日本大地震以降の力関係で、新潟県中越沖からストレスを受ける面が珠洲市に変わってきて、群発地震が発生するに至ったとも考えられる。

唯、こうした背景を考えると、従来の余震傾向は通用しなくなる。
長野、岐阜県境で発生していた群発地震では、最大震度は5、ないし4以下が多かったが、珠洲市ではこのクラスに織り交ぜて震度6弱も標準で有り得る可能性が出てくるのである。

実際、15時08分に最大震度6弱の地震以降、余震は震度2を超えたものがなく、浅い震源としては余震数が少なすぎる。
この場合、大きな規模の地震も群発地震の1つである可能性が高く、大きな地震があったから、今後は地震の規模が小さくなりながら収束すると言うモデルは当てはまらなくなる。

今後も同程度、若しくは6月19日の深夜から既に、震度6弱の地震が再発する可能性が否定できず、また珠洲市にはもう1つ群発地震のクラスター箇所が存在し、今回の大きな地震震源の西、数十キロのところにも群発地震が連続していた箇所が存在し、今回の地震以降、こうした箇所で大きな地震発生の可能性も高くなったと言わざるを得ない。

今後1年は、警戒が必要と考えられるが、この規模の地震でも何か10の事が発生するとしたら、その内の1つでしかないと言う恐れがある。

今後日本海側で比較的大きな地震、或いは中規模の地震が続いた後、北関東や東北地方沿岸地域で中規模、或いはそれ以上の地震が適度に続き、それがある日それまで毎日日本列島のどこかで地震が発生していたのに、全く地震がなくなってしまう時を迎え、この期間は恐らく3日を超えない。

次に地震が発生した場合、それは恐らく太平洋側のどこかだが、確率としては東北沿岸、横浜を含む関東平野、東南海の小田原から名古屋にかけてのどこかで発生し、Mは7・6以上、最大震度は7となる可能性が高い。
珠洲市の地震の最大震度は6弱だが、このクラスの地震にして、何か大きな出来事の前触れにしか過ぎない可能性がある。

今後は日本海側の方々は注意が必要で、それが終わって北関東に地震が増え、ある日そうした地震がぴたっと止まった瞬間、その大きな地震は発生する。
注意点はこのぴたっと地震が止まった瞬間の1日~3日を見逃さない事に尽きる。

珠洲市の方々は今後も充分お気を付けて、お過ごしください。

[保勘平宏観地震予測資料編纂室第2121号連絡]
資料編纂記述責任者 保勘平宏観地震予測資料編纂室  浅 田   正

[本文は2022年6月19日、アメブロに掲載した記事を再掲載しています]

「2022年能登半島地震」

2022年6月19日15時8分、石川県珠洲市東北海岸付近〈北緯37・5度、東経137・3度〉を震源とする、震度6弱の地震が発生しました。

Mは5・2、震源の深さは10kmと推測されています。
こうした震源の浅い地震の場合、余震の数は多くなり、余震規模も地震発生直後から本震に匹敵する規模の余震発生の可能性があります。

玄関までの戸は、どこか1つでも構いませんので、暫くいつでも通れるように戸を開けて確保し、また室内に居る場合でも割れたガラスの上を歩ける程度の「靴」を近くに置いて、警戒してください。

これ以降は余震が発生する前、2秒ほど前には遠くから風が吹いてくるような、「ゴー」と言う音が聞こえ、余震が発生します。
こうした余震前の音に十分注意し、いつでも逃げられるようにしてください。

余震の傾向ですが、震度5付近の余震は4日以内に2回、震度4程度が4回、後は3以下の余震が2カ月ほど続く事になりますが、この震源に付いては過去に発生した珠洲市沖地震とは異なる為、余震が極端に少ない時、1カ月以内に同程度の大きな地震がもう1回発生する可能性が高くなります。

今後の余震傾向には充分注意して下さい。

また今回の能登半島地震含めて、以後中越沖、島根県や男鹿半島などで同程度の地震が発生し、その後数日の沈黙時期が出た場合、太平洋側で震度7の地震発生の確率があります。
日本海側での地震発生と言う事で、気を緩めることなく、今後の地震発生の傾向に注意してください。

最後に本通信では、珠洲市での地震発生の可能性に付いて、日本海溝のプレートが圧している為の1つの傾向で、最大でも震度5強くらいだろうと言う事を書いた記憶がありましたが、甘く油断した予測でした。
深くお詫び申し上げます。

能登半島珠洲市地震

時間   2022年6月19日15時08分
北緯  37・5
東経  137.3
M   5・2
深さ  10km
震度  6弱
天気  晴れ
風速  平均3m
津波  無し

[保勘平宏観地震予測資料編纂室第2120号連絡]
資料編纂記述責任者 保勘平宏観地震予測資料編纂室  浅 田   正

[本文は2022年6月19日、アメブロに掲載した記事を再掲載しています]

「終わりの始まり」

原始的なところではプラトンが、そしてアリストテレスがこれに言及し、ポリユビオスがまとめた「政体循環論」、この中で共通している政治的崩壊、若しくは政治的混乱の直近に現れてくるのが、「民主制」と言う形になる。

最後は「衆愚政治」となり、混乱して行くのだが、こうした政治的終焉、終わりの始まりが「民主制」であり、現在のロシアに拠るウクライナ侵攻を観ていると、どうしても「Gaius Iulius Caesar」〈シーザー、若しくはカエサル〉が台頭してくる古代ローマの共和制、民主制から独裁政権へ移行する過程を思わずにはいられない。

カエサルと言えばクレオパトラ7世との恋、それに「et tu Bruta」〈ブルータスお前もか?〉に代表される、英雄の叙事詩的な雰囲気が日本では主流だが、カエサルが出てくる過程と言うのは、ある種の政治的普遍性を持っていて、ヨーロッパ諸国が民主主義を掲げ乍も、それは必ず崩壊に向かう、または結果として理想の先に待っているものが暗いものである恐れを抱きつつ目指す、狂おしいまでの願いと悲哀がある。

民主主義、民主制には「限界」が在り、この限界スケールが古代ギリシャの「ポリス」と言われている。
距離にして100kmを超えない範囲、人口が5万人くらいまで、この中で政治に関心を持つ者が0・5%の状態をして、ギリギリ民主制を維持する事が可能になる。

それゆえこれ以上に領土が広がり、人口が増加し、若しくは政治に関心を持つ者が増加すると民主制は「衆愚化」していく。

古代ローマでは、決してカエサルが策略として行ったものではないが、自身の命を守るために取って行った方策が、中央議会を無視した領土拡大であり、敵勢力との融和政策であり、これに拠って議会議員が加速的に増設された事から、最終的に議会では何も決められない状態になった。

しかし一方でカエサルは民衆へのアピールを強力に行っていて、議会を脅かす勢力、将軍は悉く排除、殺害して行く議会より、民衆の力を得る努力をして行った。

この事は理論や行政的権威に固執する議会の権力を弱める事には寄与したが、半面政治が人気商売、アマチュア化する傾向を強め、結果として民主制の中で権威が分散し、あらゆる政治的決定が現実に追いついて行かない状態、つまり衆愚的政治混乱を引き起こして行き、この中で人気を得ていたカエサルは、永久執政官、簡単に言えば独裁政権を樹立していく。

近代以降のヨーロッパでは民主主義が台頭し、この中で政治的な関心を持つ者、議会議員に拠る間接民主主義を形成して行ったが、広い国土と500人を超えるような議員数では、あらゆる政治的問題の解決には至らない。
それゆえ大統領や首相と言った、制限付き執政官制度を採って行ったが、これでも完全な状態からは程遠い為、世界情勢は常に安定した時期が存在しなかった。

こうした状態にも関わらずヨーロッパ共同体、NATOと言う領土的拡大、人口の無限的増加、議会議員数の増加、または重複議会制度に至り、既にこうした組織では政治的に統一判断が不可能な状態に在った。
その上にウクライナや北欧、スカンジナビアからの新たなる加入希望に、もはやEUやNATOは統一方向を打ち出す事が不可能になっている。

こうした政治的速度の失速状態では永久執政官、独裁であるロシアのプーチンには勝てないどころか、何かしようとしても小学生の生徒会レベルにしかならない。

また経済制裁の有効性は非資源保有国、穀物輸入国に対するものであり、ロシアのような資源国、穀物輸出国に対し、こうした非資源保有国や輸入経済国家が混同した共同体、同盟国家群が株価経済を力と錯誤して経済制裁を発動すると、その発動した国家群がより深い経済的停滞を引き起こす。

武力に拠る侵攻には武力でしか抗えない事が見えないヨーロッパ諸国、日本を含めた民主主義国家群は、既に衆愚政治に陥っていて、こうした状態での決定と言うのは自身に都合の良い解釈に基づく希望的観測に拠る事態打開方策であり、必ず失敗する。

現状の世界各国では、多くの人に政治的関心を持って貰う事を理想としているが、これは民主主義の為ではなく、民衆の投票行動を期待するものでしかない。
どちらかと言えば、政治に関心を持つ者が増加する事は民主主義にとっては危機になる。

人口のクラスター内で政治的関心を持つ者は0・5%が限度で在り、現在のようにインターネットであらゆる情報が行きかう時代には、世界中がいつでも「衆愚政治」状態と同じ為、現実が見えず、小さな問題すら解決能力がない。
EUもNATOもロシアに拠って有名無実化されている状態であり、この状態が長く続けば本当に有名無実となって行き、長くなって行く経済制裁は世界経済を停滞させ、世界各国はブロック経済化し、あちこちで紛争や戦争の危機が増大する。

プーチン大統領など、ソビエト時代にKGBに憧れていた端役人に過ぎなかった。
この程度の者に世界が席巻されているようでは話にならない。

が、国際社会は現状を打破する能力を持っていない。
もしかしたら、既にEUやNATOに拠ってウクライナにロシアに対する譲歩案が提示され、ゼレンスキー大統領の説得工作が始まっているかも知れない・・・。

幾度となく大きな犠牲を払っても、それを求め続けたヨーロッパ諸国、しかし民主主義や民主制の行きつく先は常に同じだった。
21世紀の今度こそはと言う思いとは裏腹に、またもや民主主義ゆえに、民主主義や正義と言ったものの反対方向に流れて行くであろう現実が目前に迫っている。

EUやNATOを観ていると、その態度を責めるよりはむしろ、歴史が持つ大きな歯車と、それに抗えない人間の業と言うものを感じざるを得ない・・・・。

[本文は2022年6月18日、アメブロに掲載した記事を再掲載しています]

「客と消費者」

Custmers who do not benefit the company・・・

これは2021年、株式会社「楽天」が発行するポイントに関する改定を発表したおり、「三木谷浩史」代表が語った言葉の中に出てきた一節だが、日本語に訳するなら「会社の利益にならない者」と言う事になろうか・・・。

そもそも日本国内での会見で、何故全文英語だったのか、その必要性が疑われるシチュエーションだったが、もしかしたら三木谷代表は、日本語での会見だと、本人の自尊心が保てなかったのかも知れない。

連結赤字で、従来の楽天ポイント付与率を半分に下げる、或いはポイント付与そのものを廃止する事を発表する際、日本語だと敗北感が出てしまうが、これを一般的には日本語よりは理解者が少ない英語にする事で、どうにか胸を張れていた、堂々とし乍もどこかで痛々しい三木谷代表だった。

ここでは楽天ポイント改悪の発表だったにも関わらず、英語での会見だった為、その改悪のイメージは急激に拡散しなかった。
それゆえ、この会見を聞いていてポイント制度が改悪になった感覚を持つ者は少なく、「ああ、楽天もモバイル事業で赤字か、まあ仕方ないわな」の印象が大半だっただろう。

しかし、現実には付与ポイント率の縮小で、尚且つ冒頭の「Custmers who do not benefit the company」な訳である。
正直なところ、私はポイント付与率の改悪より、むしろ冒頭の言葉に、ある種の衝撃と言うか、「やっぱりな」と言う納得感を覚えたものだった。

三木谷代表は確かに偉大な経営者だが、「何か大切なものが欠けている」
この以前にも楽天市場に参入している業者に不当な圧力をかけ、その負担をして楽天が利益を得るような仕組みが垣間見えたものだったが、どうもこの経営者は「信用」と「利益」の関係が解っていないような気がする。
大衆が楽天の利益のために存在していると思っているのかも知れない。

古来より「徳は得なり」と言われているが、徳=利ではなく、この両者は2つで1セットのものと言う事ができる。
徳と言う終着駅(目標)が有り、そこまで運んでくれる電車が「利」となるが、これは「=」の関係ではなく、反対に「利」と言う終着駅(目的)まで乗せて行ってくれるのが「徳」になるが、これも「徳」単体では存在し得ない。

「Custmers who do not benefit the company」では、消費者と言う一般大衆は楽天の利益の為に存在し、楽天に利益をもたらさない者は客ではないと言う宣言をしたようなもので、これでは一般消費者は養殖されているウナギかハマチくらいにしか見られていない事になる。

そもそも商いや取引とは、需要と供給の接点で有り、ここではウィンウィンか、それを超えたものに見える物に対して、消費者は購買を決意するのであり、ここで重要なものはそのサービスが安定して供給されてこその継続契約となる。

つまり形骸、形而上だけでも「徳」となるものが見えないと、そのサービスを需要する者の信頼は失われる。
このまずさを英語で乗り切ろうとした三木谷代表の自尊心の高さ、言い換えれば一般大衆を餌としか見ていない在り様は、その後2020年の0円モバイルの実質有料化で具現する。

「本当にずっと無料なんですか」
「はい、そうです。ずっと無料です」
2021年の段階でそう回答していた楽天モバイル、カスタマーセンターのお姉さんは、2020年5月では一体どのような罵詈雑言を受けている事だろう。

「話が違うやんけ」
「申し訳ございません」
「一体どうしてくれるんや」

なら、まだ良いが・・・・。

「話が違うやんけ」
「嫌なら楽天モバイルを使わないでください」
「何だと、それが客に対する言葉か」
「上からの指示ですので、どうぞご勝手に」

2021年の三木谷代表の会見からは、「嫌なら使うな」のニュアンスが感じられるが、本当にそんな強気が通じるかは微妙かも知れない。

元々楽天の0円モバイル契約をした人は、それが0円だったから契約している人がほとんどだった。
総務省からプラチナバンドの許認可を得ていない楽天モバイルは、屋内での通信速度、通話が安定しなかったし、通話中も途切れる事が多かった。

iPhoneでは着信履歴すら残らずに電話が繋がらない状態で、その説明や改善案なども長く示されない状態だった。
しかしこれは0円だからこそ許されていたのであり、多くの契約者はしっかり繋がる他のスマホ契約を維持しながら楽天モバイルを使っていた。

全て0円だからこそ妥協できたのであり、これが有料化すると、せっかく0円で広げたモバイル契約者が、いつかの時点では大幅に失われる事は確実で、楽天がプラチナバンドを取得した時点で更なる値上げをするのではないか、そう言った将来に対する不安を払拭できない。
と言うより、これまでの楽天を見ていると、プラチナバンドを取得した時点での再値上げは確実、そうなれば競合他社との格差は無くなり、楽天の顧客に対する無礼さだけが、他社より優っていると言う事態にもなりかねない。

唯金だけが儲かれば良いと言うのでは淋しいものだし、下心も透けて見えてしまう。
三木谷代表には「徳」と「利」の関係を今一度考えてみる事をお勧めする。

日本の大手企業、とりわけIT企業と言われる業種にはどうもこの「徳」と「利」の関係が欠けている者が多いような気がする。
どれだけ技術が進もうが、どれだけ社会が変わろうが、この世界は「人」で成り立っている。

「人」を蔑ろにする者は久しからずや・・・。

「consumer」(コンシューマ)「消費者」はイギリス産業革命時、資本主義から見た場合の大衆で有り、ここでは財や物を消費する者と言う、如何にも砂糖に群がる蟻、若しくは餓鬼のようにただ貪る者のような在り様だが、これと日本の「客」の思想は同義ではない。
「客」と「consumer」は何かを提供する側に相対する存在と言う点、その英語の翻訳上では同意だが、「consumer」には消極的侮蔑が存在し、「客」には薄くても尊厳が存在する。
この違いを深く考えてみて頂ければ良いのだが・・・。

「consumer」「消費者」の本来の意味は消極的な侮蔑用語と言える。
それゆえ大衆は「consumer」「消費者」と自身を名乗ったり概念した時点で、自分で自分を貶める事になる。

などと言っても、もはや詮無き時代だったかな・・・(笑)

[本文は2022年5月11日、アメブロに掲載した記事を再掲載しています]

「日本銀行の子会社化と民主主義」

これは日本と日本国民に取っては「悲劇」或いは、「大災害」と言うべき存在と言える。

2022年5月9日、安倍元総理が大分で発言した「日本銀行は政府の子会社だから・・・・」の文言は、この政治家が明確に政治や歴史、経済の基礎的な知識すら持ち得ていない事を露呈する結果となった。

前々のFRB(合衆国連邦準備機構)議長ベン・バーナンキが推奨したMMT理論、ヘリコプターマネー理論は、理論としては成立しても、それが現実に適合するかと言えば、今の国際経済に鑑みれば結果が出ている。

麻薬と同じで適量使用ならば痛みを緩和できるが、これを適量で止められるケースは皆無に近い。
結果「他に方法がない」と言いながらズルズル使い続け、量も多くなって、気が付かない内にその人間が崩壊してしまう図式に全く同じである。

第一次世界大戦後、多くの国は国家財政と中央銀行が一体となった形態、借金した者と紙幣を発行する者が同一人物となる、「財政ファイナンス」状態になり、このMMT型式はどうしても危機的財政状態に措ける非常手段でしかないので、長期に継続すると発行紙幣の権威や信用が失われ易く、為に経済はどうしても保護主義的になっていく。

その結果世界経済はブロック経済的になって、経済を巡って国際的な壁が発生する可能性が高くなる。

近代から現代への移行期、日本では日露戦争戦費ファイナンスを税制で補う事が難しくなり、世界恐慌と関東大震災などの影響も加わり、一時的に紙幣が不足した時期が出てきた。
その折、名蔵相と名高い「高橋是清」は期限付きで政府と中央銀行が一体化する形態を採用したが、この期限は226事件に拠って「高橋是清」が暗殺された為、収束させる時期を失い経済は混乱し、「戦争」でしか解決が付かない状態に陥った。

日本が敗戦した「太平洋戦争」の最も大きな原因はここにある。

また政府と中央銀行が一体となる財政ファイナンスは鎖国経済的な要素を求めて行く為に、他国と経済的な壁を生じせしめ、この事が国家間の対立を深める事から、第二次世界大戦後の国際秩序は中央銀行の政府からの独立性を重要視してきた。

日本はバブル経済崩壊後、民間企業を税金で救済する方式を採用したが、この時の理由は「仕方ないじゃないか」だった。
ここから健全な税制概念が崩壊し、ついでに国家の借金は借金ではないと言う、枝葉理論をリベートで擁護したような考え方が発生して来た。

そしてアメリカで発生したリーマンショックの対処法は、先鞭となってなっていた日本のやり方を模倣して行き、ここで従来の税制秩序、モラルが崩壊した上に、国家の借金は借金じゃないと言う考え方の台頭で国際秩序は完全に第二次世界大戦前の様相に逆戻りしていた。

この意味では日本が先鞭を切ったバブル経済崩壊の対処策が、基本的には今の国際社会のぎくしゃくした関係を招聘(しょうへい)した発端であるとも言え、現状のロシアに拠るウクライナ侵攻の「遠雷」とも言えるのである。

日本のアベノミクスは、新しい経済理論ではなく、経済の沈降が20年以上も続く日本経済に対して、期限付きで世界が許容した非常事態、一時的なグレーの許容だった。
それゆえ第二次安倍政権発足時、有頂天になっていた当時の安倍総理に対し、ドイツのメリケル首相は「あの方は本当に理解されているのかしら」と呟くのである。

政府と紙幣を印刷する中央銀行が一体化する「財政ファイナンス」は過去の歴史上、どの国家も何度も経験し、その結果は全て大混乱や「民族紛争」「戦争」に繋がっている。

財政ファイナンス状態に反対した、前の日銀総裁「白川方明」(しらかわ・まさあき)を解任し、政府の太鼓持ちだった「黒田東彦」(くろだ・はるひこ)を日本銀行総裁に選任した時点から、日本の財政ファイナンス化は始まっていた。
「日本銀行は政府の子会社・・・」と発言する者は、ロシアのプーチン大統領と同じように、第二世界大戦後世界が努力して築いてきた秩序に破壊をもたらす者、国際平和に挑戦するテロリストに同じと言える。

また2022年5月10日、東京都内で行われたパーティで、「細田博之」衆議院議長は「議員の数を増やしても罰は当たらない」と発言したが、民主主義は数ではなく、「質」の問題で有り、例え独裁政権でも「民主主義」は存在し得る。
無能な者が集まって議会ごっこをしている状態で、それは確かに国会議員に取っては罰は当たらないが、罰が当たっているのは国民ではないか・・・。

組織や自己保全しか考えず、選挙対策と言う理由が簡単に法案成立を妨げる、或いは訳の分からないばらまき法案を成立させる国会に措いて、議員の数が増えれば増えるほど、罰は国民が受けているようなものである。

数で議論する事が民主主義では無く、議論を通して国民に、その法案の本質を理解せしめるのが議会制民主主義と言うものであり、数をして力、それを民主主義と錯誤する者を「専横主義」と言う。

「日本銀行は政府の子会社」と言う者や、大した仕事もせず知恵もなく、そして月額歳費60万円、70万円は安いから、数を増やしても良いと言う、国家、国民に対する背任が常態化している者こそ、まずは削減対象になって欲しいものである。

両者とも国家、国民に対する背任者であり、国際秩序、民主主義に愚かさで抗う者である。
日本の恥、いや世界の恥だ・・・。

[本文は2022年5月11日、アメブロに掲載した記事を再掲載しています]

「インフレーションとサブプライムローン」

暑い夏の日と言う条件は、必然的にアイスクリームの需要を押し上げるが、この時アイスクリームの生産量が予め決まった量で一定だった場合、アイスクリームの価格は上昇する。

それゆえアイスクリームを生産する会社が、その価格を一定に保とうとするサービスを提供する場合、統計を取って各季節ごとに生産の増減を調整する必要が出てくる。

通貨と物の関係はこれに全く同じで、通貨の供給量を増やせば物に対して通貨の価値は下がり、通貨の供給量を減らせば、物に対して通貨の価値が上昇していく。
デフレーションは通貨に対して物が多すぎる、つまりは通貨の需要に対してその供給量が少ない状態を指すが、基本的に日本でこれまで考えられてきたデフレーションは、一般的なデフレーションではなかった。
現実には通貨も物も余っていた。

人口減少と、少子高齢化で基礎需要そのものが減少に転じていたので有って、これを一般的なデフレーション対策、通貨供給量を増やす「金融緩和」で解決する事は、初めから不可能だった。
その上で世界的なコロナウィルス感染対策に拠るブロック、またロシアのウクライナ侵攻に拠る経済封鎖の結果、あらゆる物資の供給量が極端に減少し、相対的に急激な通貨余り、ハイパーインフレが発生してきたのである。

デフレーションと違ってインフレーションの解決策はそれほど複雑ではない。
物資の生産量を増やし、通貨の供給量を減らせば数年単位では有るが、状態を緩和する事はできる。
しかし、ロシアがウクライナに侵攻し、世界が経済封鎖を行っている為、生産量の増加と言う、対策の半分が実行不可能な現実は、その対策の大部分を通貨供給量の抑制にしか頼る事が出来ない状態を引き起こしている。

2022年5月5日、(日本時間)、アメリカのFRB(連邦準備制度)議長、ジェローム・パウエルはアメリカの金利を0・5%引き上げると発表した。
FRBが採る利上げ策としては、余りにも急激な利上げで有り、金利を上昇させると言う事は、それだけ市場が通貨を得にくくなる事を示していて、金利上昇はすなわち、通貨供給量を減らすと言う事である。

物資が不足して生産が間に合わない為、通常の利上げ幅の倍の利上げをした事が伺える。
これに対して日本はどうかと言うと、先日日本銀行の黒田総裁は、これまで通り金融緩和を継続すると発表しており、日本でも急激な物価上昇が発生している中での、この発言は経済界からも多くの疑問が投げかけられた。

インフレーション下で、それを加速させる政策を継続すれば、どう言う結果になるかは目に見えている。
日本の通貨「円」は世界的な全面安となり、近い将来1ドル150円は現実的な数字になり、日本の財は安く世界から買いたたかれる事になる。

加えて急激な物価上昇により経済困窮者は増加し、日本は内も外に対しても壊滅的な打撃を被る事になる。

また2010年の段階で日本でクレジットカード破産、若しくはそれに準じる状態の者が210万人存在していたと言われているが、2022年の消費者金融協会の発表では、消費者金融のカードローンを利用している人口は500万人ともされ、これに銀行が発行しているカードローン利用者、他ノンバンク、後払いサービスを利用している人口を加えると、1000万人以上が、何らかの後払い、分割支払いを選択している事になる。

その上、日本政府はキャッシュレスを推進している事から、クレジット会社の審査も、従来よりは危険な経済状態の者にまでカードを発行する傾向に有り、これに連動して銀行の審査が通らない経済状態の者にまで、ローンを適応させる為、銀行が消費者金融を子会社にして、きわどい融資も実行している現実がある。

日本の金融界は2009年に発生したリーマンショック、その原因ともなった「サブプライムローン」のような状態に近付いている。
経済的弱者も家が買えるように、ローンの審査基準を甘くした結果がリーマンショックだった。
日本政府が推進するキャッシュレスでは、クレジット、pay等の後払い清算方式は必須だが、経済的困窮者、18歳以下、69歳以上の者、また過去に金融事故を起こしている者にもキャッシュレスを適応させねばならない。

それゆえ日本の金融業界は劣後債、劣後ローンに近い状態に傾きかけているように見えるが、経済的に貧しい状態の者は返済の事は考えないものだと言う大観も存在する。
既に生活費を消費者金融のカードローンで補っている状態、リボビリング(分割定額支払い)を利用している状態は、返済が不可能になる可能性が高く、借金をさらに借金して返済する多重債務状態では、破綻は目に見えている。

日本人の6人に1人は消費者金融のカードローンを利用している現実、それに過去延滞や債務整理をしている者にまで拡大して、カードローンやクレジットリボビリングに拠る消費を広げて行く在り様は、先にとても恐ろしい何かを想定させる。

このインフレーション最中に「金融緩和を継続します」と言う日本銀行総裁のセンス、日本政府が推進するキャッシュレス時代、その為に恩恵の公平化と言う観点から、サブプライムローン化する金融業界・・・。

何かが狂い始めている。
いや、もう既に狂っている。

2022月5日6日7時28分。追記
R・Iよ、どうせフランス語の歌詞など、誰も詳しくは聞いていまいと思っていたのだが、流石に鋭かったな・・・(汗)
Michel Sardouはフランスの極右、そして指摘されたように、この歌はレーニン崇拝楽曲だ。
確かにこの時期に使うのは不適切だと自分でも思う。
だが、私はこのメロディが好きだった。

力強く、そして穏やかな理想がやがて訪れて来るような曲が好きだった。
同じ楽曲でもそこから感じるものはMichel Sardouと私では異なる。
例えその歌詞の内容が自分の理想や思想と異なるものであっても、曲の素晴らしさは評価しなければならない。

私としてはそう思う。
その時代にそぐわないから、あれもダメ、これもダメと言う社会は息苦しい。
結果として社会が全体主義的になっていく過程は、民主主義を標榜しようが社会主義を標榜しようが変わらない。

本当の意味の自由、平等とは、こうして時代が否定するものまでも、良ければ評価する心ではないか、そう思ったりするのだが、言い訳にしか聞こえないかな・・・(笑)

今日は午後から田植えだが、暑くなりそうだ・・・。
連絡、感謝する。

[本文は2022年5月5日、アメブロに掲載した記事を再掲載しています]

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Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

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「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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