「命の最終責任者」


例えば自身が何か反社会的な事をしてしまい、それに拠って抗議者たちが自宅に押し寄せ、大勢集まった民衆が過密状態に陥り、怪我人を出てしまったとしようか・・・・。

「コラー○○出てこい!」
などと煽っていた其の当人が怪我をしたとして、あなたはこの人を助けたいと思うだろうか・・・。
大抵は「ザマー・・・」と思うに違いないが、こうした場合でも人道上は勿論、広義では法的にも怪我人を放置してはならない。

緊急時は家に在る救急箱を提供し、或いは救急車の手配をし、怪我人の救済をするのが正しい。
勿論、本人が拒否した場合、直接の手当はできないが、それでも救急車を呼び、警察官を呼ぶ程度は行なう事を「法」は奨励している。

ここで言う法の奨励と言うのは、それが望ましいものの、現状に鑑みて履行できない場合、加害しない限り法的罰則を負わない事を言い、このマクロ的な思想が政府や行政に措ける「国民の財産、生命を守る」と言う日本国憲法、民法の根幹を為す思想の一部を構築している。

政府や行政は国民の生命財産を守ると言う大前提を負っていて、政府の政策に反対し大勢の民衆が集まり、其の中で怪我人が出てしまった時、抗議を受けている政府、行政の当事者が怪我人を放置する在り様は奨励されない。

勿論警察機構などが群衆を排除する場合でも、暴力や力の行使のない者を暴力で排除する事は出来ないが、抵抗する場合は権利に拠って保障されている暴力が履行され、このケースでは民衆は暴力に対し、法的にも抵抗できない。

こうした意味では警察機構と言うのは道具なので在り、道具は法的に誤りが無ければ現状に対処して暴力を発動できるが、政府や行政と言った大きな権力は、原則を超えた言動を起こす事を躊躇しなければ、其の権威が保てない。

「国民の生命財産を守る」と言う大前提は如何なる場合でも大きく踏み外してはならない事から、例え政府に抗議してデモが発生し、其の中から怪我人や死者が出たとしても、「ザマー・・・」とは言えないどころか、逆に責任を追及される事になるのである。

唯、こうした場合全てが政府や行政の責任かと言えば、冒頭に出てきた「法の奨励」を思い出して頂ければ理解できるかと思うが、政府や行政から要請を受けてデモに参加している訳ではない、個人の自由意思に拠ってデモに参加している訳だから、怪我人、死者の、其の状態に至った全ての責任が政府や行政に在るとは言えない。

其の多くの要因が「自己責任」なので在り、少し違った方向から見てみると更に分かり易いが、祭りに参加していて酒を飲み、躓いて川に転落して死亡したとするなら、この責任は誰に在るだろうか・・・。

祭りの主催者だろうか、或いは橋を管理している国土交通省だろうか・・・。
そして祭りの主催者にしても、国土交通省にしても、物理的にそこまでの管理が可能だろうか・・・。

結果として祭りの主催者が起訴されるくらいの事は有っても、損害賠償請求は為されないのが1980年代までの日本だった。
今日に至ってはこうした事例でも必ずと言って良いほど賠償請求訴訟が為されるが、ここで亡くなった方は被害者か否かと言うと、当事者では有っても祭りに参加して躓いたのは本人の意思や行動であり、被害者では無い。

こうした場合に措ける主催者や道路管理者は、個人の自由意志と本人の過失に対してまで全面的な責任を負えるのか否か、まるで自己決定に措ける責任を本人が忌避したような在り様になっていないか、そんな事も考えて頂ければと思う。

そしてこれまでのケースは主催者や其の概念に近い存在が在ったが、完全に偶然で多くの人が集まり、そこで人の過密が原因で事故が発生した時、訴えるべき主催者は無く、最終的には「国民の生命財産を守る」立場にある政府がこの責任を負う事は間違いではない。

だが、其の場に至ったのは本人の自由意思で在り、尚且つ自身の生命は「自分」が最終責任者である事を忘れてはならない。

人間が大きな事故に遭遇するのは、絶好調、幸福の真ただ中の時であり、注意や警戒、深い思慮を忘れている時である。

イベントは楽しく、暗い雰囲気の中で開催される祭りも悪くない、アイドルの追っかけも良いだろうが、そんな時ほど命の危機が迫っている事を忘れず、人の命は絶対的価値観を持っていない、何にも優っているのは自身と親族だけで在り、他者からしたら1人の人間の命は、必ずしも絶対的価値ではない。

またこうした自身が負わねばならない命の責任まで、常に政府や行政相手に100%の責任を負わせていると、政府や行政はこうした事態に対処すべく細かく監視、管理を徹底し、責任回避しようと言う方向に傾いて行く。

結果として自身の命の最終責任近くまで、監視、管理が届いて来る事になるので、原理としてはAI制御自動運転の自動車と同じで、何もしなくても目的地へ行く事はできるが、緊急時に措ける自身の命の行方も自動車が決定権を持つに同じ、気付かない内に統制社会、社会主義的な国家の在り様になって行く可能性が在る。

最後に、実は深い意味では自身の命の最終決定権は「自分」ではないのだが、今回は社会と言う観点から命の最終決定権者を「自分」と仮定させて頂いた。
スポンサーサイト



「逮捕要貞」

一般的に罰則が懲役3年以上と定められている犯罪を犯したと疑われる者に対し、逮捕要件が発生し、其の形態は「通常逮捕」「現行犯逮捕」「緊急逮捕」が在り、この他道路交通法違反、軽犯罪法違反の現行犯である場合、其の被疑者の氏名、居住所在地が不明であり、尚且つ逃亡の恐れが在る場合に限られ、一般市民でも被疑者を逮捕する事が許されており、これを「私人逮捕」と言う。

こうした要件に鑑みるなら、逮捕要件は事実さへ存在すれば可能のように考えてしまいがちだが、逮捕要件で最も重要な手続きは「逮捕状」であり、緊急逮捕、現行犯逮捕でも、逮捕後すぐに裁判所に対し逮捕状を請求し、これが却下された場合は即時釈放しなければならない。

また被疑者の氏名、住所が判明しており、更に逃亡や証拠隠滅の恐れが無い場合、逮捕要件は希釈になり、裁判所が認めれば被疑者の逮捕が為されない場合も存在する。

法と言うものは運用幅が存在し、其の運用の判断は犯罪現場を担当する警察庁等に負託されている部分も在るが、昨今若干疑問に感じるのは「交通事故」での逮捕である。

飲酒運転やひき逃げ、危険運転傷害、致死など明確に逃走や証拠隠滅の恐れがある場合はともかくとし、酒に酔って道路に寝ていた高齢者を轢いてしまったが、即時救済を行い、救急車を呼び、警察の到着を待っている道路交通法の過失運転者まで逮捕されるのは些か疑問を感じる。

道路交通法の被害者救済を、その報告を怠らなかった者は、逃亡の恐れもなく、現場の状況から証拠隠滅の恐れもない、免許証の提示で氏名、住所が明確になっている等、逮捕要件としては希釈な案件と言える。

それが故意ではなく、急な飛び出し、道路で寝ていた等の場合は、誰もが事故を避けられるわけではない。
過失と言う表現は人間のどれだけの能力を基準にして過失と呼ぶのかは曖昧であり、若しくは過失であったとしても、それが故意ではなく、証拠隠滅や逃亡の恐れが無い場合の逮捕には疑問を感じる。

1970年代の道路交通法違反、過失運転に措ける逮捕者は被害者が死亡した場合でも、それが飛び出しで在ったり、避けられない状態の事故の場合、逮捕されないケースも存在し、過失運転傷害の場合は殆ど逮捕されなかった。

2019年、東京豊島区東池袋で発生した高齢男性のブレーキ操作ミスに拠る母子死亡事故では、加害者の87歳の男性は逮捕されなかった。
勿論事故直後、加害者である男性も怪我を負っていた事は考慮されるが、こうした場合でも一般的には退院後、逮捕されるのが昨今の倣いだった。

しかしこの男性が元キャリア公務員だった事から、一般大衆の感情としては「特別な計らいが存在したのではないか」と言う疑惑が浮上し、ここから「上級国民」と言う特権階級の存在がまことしやかに囁かれるようになった。

確かに日本には長い官僚機構が存在する事から、特権階級の概念に近いものは存在する。
公務員同士の「忖度」は存在するが、一方で過失運転致死の加害者が80歳、高齢女性でも逮捕される現代の在り様は「法」がおかしいのではなく、それを運用する実行者の乱れが出てきている事、また善意的解釈で不逮捕にしたケースでの裏切り行為、証拠隠滅や逃亡を計る者の増加に拠って、運用が厳しくなったものと考えられる。

昔から公務員や代議士に対する忖度は存在していたが、それと同じように逮捕要件が希釈な者に対する配慮も存在した。
しかし、一般大衆の質の低下に拠って、この部分の法の適用が厳格になったものと推定され、安定し平和な社会が長く続くと、本質的変化がない事件、事故のイメージは、貧しい時代、混乱した時代よりは現代社会の方が相対的に重く感じられる。

1970年の日本と2020年の日本では、同じ事故であっても、被害者が感じるダメージは現代社会の方が大きく感じられる為、社会に適応し変化して行く法の運用は、こうした被害者意識の高まりに連動して重くなってきた背景が存在する。

そうした中で1970年代から変わらない官僚、公務員機構同志の忖度、配慮は、時代と共に変化して行った民衆が抱く命の重さと乖離して行き、ここにそれまではさほどの落差が無かった、民衆と官僚機構に対する法の運用に差異が生じてきた。

組織の中で象徴的、かつ一番厳格な形は「軍」と言えるが、この中で兵士たちが一番不満に感じる事が「差別」である。
軍律や処分の重さに対する不満は極めて少なく、それよりはむしろ他のケースと比較して著しい差が生じる事実を以て不満を感じ、これが組織の権威失墜に繋がっていく。

職業や年齢、現在の社会的地位に拠って法の運用が異なれば、法の権威は失墜し、其の法の重みはは少しずつ軽くなって行く。
今、既存の官僚機構間に存在する配慮、忖度の急激な改革が望めない場合、相対的に厳しくなっている道路交通法違反、過失傷害、過失致死の一般大衆に対する逮捕要件の緩和が望まれる。

これは裁判での量刑に対して云々の話ではなく、身柄確保時、逮捕要件が希釈な過失傷害、過失致死に関してまでも一律逮捕ではなく、其の現状に措ける情状に対し、法の運用を、少なくとも平等に見える程度には、修正して頂きたい旨を申し上げている。

警視庁、警察庁には是非とも実情に即した道路交通法過失運転傷害、同致死事故に措ける逮捕要件のガイドライン設置を希望する。

「YouTube上の経済論議」

お問い合わせの件に付き回答します。
正直この程度の事にお答えしなければならないのかと言う思いも有りますが、今後の事もございますので、記事にさせて頂きました。

まず私は「ひろゆき氏」も「赤木レイア氏」も存じ上げない為、今回ご案内頂いた配信のみを拝見させて頂き、この記事を作成している事をご了解下さい。

結果から申し上げますと、経済学的知識に付いては、この両者の程度はほゞ同程度かと思います。
「ひろゆき氏」の日本が為替介入に費やした予算を、国民に配布すれば良いと言うご意見は、どうも為替を錯誤されているようで、まるで9兆円がどぶに捨てられたかのような認識をされているようですが、正確には其の以前、ドルに対して高かった時の円と安くなった時の円の差額が損失になるので、9兆円全てが無駄になる訳では有りません。

この意味では何の脈絡もなく、国民に現金を配布する思想とは全く次元の異なった話ではあります。
唯、現状の日本銀行の金融緩和政策は、何の脈絡もなく国民に紙幣をばら撒いているのと同等の効力を持っているので、この状況下で為替介入しても全く意味は在りません。

為替介入が円安に対して何の効果もないと言うご意見に付いては、其の通りと言えますし、一般大衆の経済や為替に対する認識としてはこのようなものではないかと思います。
経済に関心のない一般大衆の考えと言うものは「現実」ではなく「望み」です。

「こうあって欲しい」「こうなれば良いな」が事実や現実の上を走って行きますから、其の事が事実で在るか現実であるかと言う事は、こうした「望み」や民衆の考え方の下に圧せられるのが、世の常と言うものではないかと思います。

これに対して激しく其の間違いを指摘されている「赤木レイア氏」の配信ですが、例えば「ひろゆき氏」が100間違えているとしたら、「赤木レイア氏」もまた80くらいは認識不足ではないかと思います。

まあ、そんなには変わらないと思います。
五十歩百歩と言う所ですが、「赤木レイア氏」は為替介入が何の為に行なわれ、それが何なのかと言う事を理解されていない様に思います。

氏は同配信中、外貨をどんどん放出すれば良い、そしたら余計儲かると仰っていますが、基本的に為替介入で利益は出ません。
自国通貨が安くなった時、為替介入が行われますから、価値の上がった外貨で易い円を買う訳ですから、為替介入直前の総資産と比較すれば、為替介入後の総資産は必ず減少します。

また外貨保有額の総量と言うのは、其の国家の経済的な力の象徴でもあります。
日本のように資源もなければ食料自給率も低い国家の通貨は、最後の担保となる要件が薄く、外貨発行当事国がこの逆の状態で在るなら、経済は常に外貨発行当事国の国情、政策に拠って左右されます。

其の為、外貨発行当事国の通貨を多く保有する事は、其の保有通貨に拠って外貨発行当事国へのプレッシャーとなり、ここに経済的な力の均衡、若しくは不利な状態からの浮上効果をもたらします。

外貨保有額の多きは、其の国家が外貨発行当事国に対する影響力の拡大と言え、広義では「相互確証戦略」に準ずる効果を持ち、1975年に発足したG7、この前進段階のG5から日本が加盟出来たのは、こうした為替に措ける影響力が大きくなった事が要因と言える。

分かり易く言えば、外貨を放出すればするほど、国力が失われたと同等の効果が発生し、外貨発行当事国に対する影響力を失って行く事を意味する。

日本の金融緩和政策と為替介入は相対する効果のものだが、ちょうど笊に水を入れているのと同じで、片方で紙幣をどんどん印刷し其の価値を下げながら、其の一方で保有外貨を放出して価値のない円を買っても、円安は止まらない。

自国通貨が高騰している時にも為替介入はできない訳ではないが、自国通貨が高い時は貨幣の金利を安くしていく方策が一般的で、自国通貨が安い時は為替介入か金利を上げる方策の2種の改善策が在る。

しかし金利を下げるか、金利そのものが無い状態での為替介入は無意味となり、この場合は自国通貨の下落が止まらず、海外から入って来る物資、資源はすべて高騰する事となり、其の高騰した部分が輸出で得られる利益、市場で企業が得られる利益に相当して行く。

原理的にはデフレーションでは国民に広く薄く国富が分散し、インフレーションでは政府と企業に国富が集まっていく。
力が分散された状態は弱体化したように見え、力が集中した時は強固に見えるが、国民が力を求めるか、或いは現在の安定を求めるかで、デフレーション、インフレーションに対する印象は変化し、一般的にインフレーションが好まれるのは、企業と政府が強くをこれを求めるためである。

現状のインフレーションは唯のインフレーションではなく、ロシアのウクライナ侵攻に拠る世界的経済制裁、中国の思想重視政策への変遷等に拠って、需要に供給が追い付いていない「動脈硬化」のような状態であり、長く続くと世界は保守的になり、更にブロック経済化が進み、これに拠って地域紛争や戦争勃発のリスクが増大する。

岸田内閣の経済政策は先に辞任したイングランド「リズ・トラス」首相のインフレーション時の金融緩和と同じなのだが、片方は辞任に追い込まれる健全性が在り、日本ではそんな話も出て来ない。

このままでは若年労働者や子供を持つ女性の生活から先に苦しくなっていく。

政治家とは、それを目指した時点で愚かななものであり、無能な者と言える。
だから大衆はこうした無能なものを育て、自身の意見をこうした愚か者を遣って実現していかねばならない。

政治家の多くは投票する価値もない者ばかりだが、選挙と言う権利を遣ってこれらの者達をコントロールし、自身の幸福につなげなければならない。
遠い道だが、国民はこれを目指さねば、偉大な政治家が現れて、幸福な時代が訪れる事など絶対無い。

お問い合わせを頂きまして、有り難うございました。

「景気の悪い面してんじゃないよ」

20世紀を代表する歴史作家「司馬遼太郎」は晩年、「このままだと日本は亡くなってしまう」と言っていたが、彼の言葉を借りるなら、既に日本は亡くなっていると私は思う。

明治維新で背伸びして列強を目指した日本は、日露戦争に拠って多額の海外債務を抱え、少しずつ「仕方ない」を増やし経済を何でも有りにしてしまった。

やがてこれが集積し、太平洋戦争と言う一つの決着を付けなければならなくなり敗戦、惨めな状況から立ち直ったが、懲りもせず、またぞろ金に目が眩みバブル経済を引き起こし、「金を儲けないのは罪だ」とまで言わしめた結果が「崩壊」だった。

司馬遼太郎はこのバブルが崩壊する少し以前から「このままでは日本は危ない」と言い続けていたが、ここで彼が何を恐れていたかと言うと、それは「仕方ない」と言って、あらゆるやってはいけない事、秩序が金に換算されて流され、どうでも良くなってしまう事を指していただろうと思う。

だが司馬遼太郎の危惧は、それ以降も続き、日本は「仕方ない」と言いつつ、富士山や伝統的な祭りまで「観光資源」と言う金に換算する浅ましさとなり、昨今ではMMT理論を参照し、国債を日本銀行が紙幣を印刷して買い取る、20世紀の世界が「経験から学んだ禁じ手」まで侵してしまう有り様となった。

更に年金財源50兆円、日本銀行50兆円、合計100兆円の政府系資金が一般市場に参入し、全株式取り扱い金額の13%を日本政府が占めていても、誰も疑問にすら思わない程、日本の「仕方ない」は進行してきてしまった。

たかが13%くらい良いじゃないかと思うかも知れないが、もし株価が下落したら、この13%を占めている日本政府の資金が紙くずになる。
としたら、例え13%でも株価が下落するような事にならないよう、日本政府が動く事は明白であり、ここに100%政府が取引しているのと同等の効果が現れる。

これを海外から観たら、日本の株式市場は政府保証と見えてしまう訳であり、その結果が投資額の30%が海外資本と言う結果に繋がっているが、これは何を意味しているかと言えば、日本の株式市場の崩壊が、即時日本政府財務の崩壊だと言う事である。

印刷して市場に流されるはずの資本は、実体経済を遥かに追い越してしまっていて、需要以上に流れた資本は全て株式市場に流れ、それがどんどん膨れ上がっている。

これが今の日本の株式市場で有り、この限度はどこまでは解らないが、無限ではない事も確かで、政府保証が付いている株式市場では下がる要因は見つからず、どんどん株式市場は拡大し、更にここへ金が流れて行く。

行くも地獄、引き返すも地獄の在り様は、太平洋戦争前の日本経済、バブル経済と全く同じ構造と言える。

「景気」とは本来形の無いものであり、先の定まっていない千変万化のもの、言い換えれば人々の「思い」である。
これを統計や理論等と言った、物事を止まった状態で考え、時流と言う本来は人が創り上げねばならないものに、逆に脅されて従っている様では、面白くない事になるのは当然だ。

チマチマした統計や小賢しい経済論に振り回され、小枝の議論で一喜一憂し、大局は見ていない。
本来、それを人の手で変えて行かねねばならないものに振り回され、右往左往する姿は滑稽とも言えるが、この小賢しさがインテリジェンスと言う世の中では、先は暗い。

1990年代のテレビ番組、「知ってるつもり」でも紹介されたエピソードだが、明治維新第一級の功労者「勝海舟」が、下町の食堂に入ったおり、その店は結構忙しそうにしていたので、海舟は女将に「随分景気が良さそうだね」と声をかける。

すると女将は「とんでもない、最低だよ、何も儲かりゃしない」
「でもさ、景気が悪そうな顔をしていると、魚まで活(いき)が悪く見えちまう」
「無理して景気の良さそうな顔をしてるのさ」
「そうすれば、その内良い時もきっとやって来るってもんさ」

黙ってこれを聞いていた海舟、やおら懐から持ち金の全て、30両を取り出すと机の上に置いて「女将、勉強させてもらった」と言って帰るのである。

今の世の中で景気が悪い時に、それを跳ね返すように明るく振舞う商人、または店が存在するだろうか・・・。
殊更悪く見せる、或いは悪く言う者は多いかも知れないが、「とんでもない、家は景気が良いのさ」と言う者はいないだろう・・・。

実はこれが司馬遼太郎の危惧で有り、勝海舟の嘆きなのである。
予め補助金や給付金を貰う事が前提となっていて、その為には景気が良いなんて口が裂けても言えない。
これは基本的に物乞いか生活保護と原理は同じ事だ。

働ける元気な体が在って、頑張れるなら最大限努力をして稼ぐのが、商いをする者のプライドと言うものだ。
補助金や給付金を当てにして利益に勘定するようになってしまった、その事を悲しく思わねばならないのに、少しずつ気が付かない間に壊れてしまい、何も思わなくなってしまった。

それゆえ社会の風潮を気にして、それに自分を合わせて生きようする。
だがしかし、この社会の風潮と言うものは理論や統計と言った過去形のものが作るのではなく、先へ行って千変万化、今日来た道は明日は通れない人間が、その集合が創るものだ。

どこの世界に過ぎ去った暗い過去で現在、未来を創る愚か者が存在しようか・・・。
その暗さを何とかしようして現在が在るのに、チマチマとした小賢しさで暗さに自分を合わせてどうする。

今の日本、世界経済は明治維新、太平洋戦争前、バブル崩壊時と何ら変わらない。
精神的側面から言えば、今の日本は過去の如何なる危機よりも悪いかも知れない。
しかし、その悪さを何とかしなければならない時に、悪さに足を引っ張られ、沼に引きずり込まれて猶、自分は賢いと思っているようでは話にならない。

勝海舟ではないが、女将が言った「景気の悪い顔をしていると、魚まで活(いき)が悪く見えちまう」は経済の基本中の基本である。

今一度この事に思いを致し、この国を、自分を見つめなおす必要が有るのではないか・・・。

「無制限金融緩和からの脱却」

もし其の国家の経済が閉じた状態で、人口に対する資源、食料自給率が100%であると仮定するなら、インフレーションが発生する原因は経済の拡大、人口の増加と言う事になり、逆に同条件でデフレーションが発生する場合は、人口の減少、経済が収縮して行く事を示す。

インフレーションは政府と企業に富が集まり、デフレーションは民衆に富が分散され、この状態はどちらにしても長期連続すれば経済が頭打ちになり閉塞感に繋がり、必ず是正しようと言う機運が発生する。

またインフレーションでは通貨供給過多で在る事から、自国通貨は他国通貨に比して下落し、デフレーションでは通貨供給が需要に対して少ない状態である事から、自国通貨は他国通貨に対して価値を上昇させる。
インフレーションもデフレーションも其の構造原理は単純なものなのだが、これは冒頭の条件のように入力データが安定しているからであり、実体経済はこのように簡単ではない。

インフレーションに関して、あらゆる物資、食料の自給率が100%の国は存在せず、鎖国状態の国家も存在できない。
この事から、世界を席巻するインフレーションは内在要因ではなく、常に一部、若しくは全てが外的要因に拠って発生する為、冒頭に掲げた原理だけ観ていては必ず判断を誤る。

これが何を意味しているかと言えば、原因が自国の外に在るなら、例えば為替介入などしても全く効果は無いか、其の効果は数日しか適用されないと言う事であり、1ドルに対し既に150円まで加速された円の下落は、日本銀行の為替介入が在っても、近い将来の1ドル160円越えを阻止できない。

自国通貨、日本の場合は円だが、円がドルに対して安くなったと言う事は、それだけアメリカに比して日本の国力が下っているという事であり、この点ではよく「良い円安、悪い円安」の議論が存在するが、原理的に良い円安と言うものは存在しないか、よほど特殊な好条件の一時期を言うのであり、其の国家が一度滅亡の危機に瀕して回復してくる時期などを指し、其のような条件は100年~数100年に1回しかない。

基本的に自国通貨が他国通貨に対して下落して行く時、それはその国家が力を失っていると判断されたと言う事である。

日本は2014年からModern Monetary Theory「MMT」がアベノミクスに拠って推進された。
「新貨幣論」「新貨幣概念」とも言って、何か最新の経済論のように思えるかも知れないが、1930年代、世界恐慌に対応した現実論から始まっていて、MMTはこうした歴史的な危機状態の緩和策を理論付したに過ぎない。
本質は「無制限金融緩和」国家が債権を紙幣の印刷で賄う、「財政ファイナンス」である。

ちょうど資本主義が行き詰ると、共産主義的なものが理想的に見えてしまうのと同じように、古いものが一巡しただけの事だった。
世界的にも経済危機に際してMMT理論に傾斜した経済政策が採られていくが、この理論は鎖国、自給率100%と言う仮定での話なので、これを採用して行くと、経済政策が国家方針を引っ張ってしまう。

世界は保守色を強め、経済的な対立が増えて行く結果が、今日のロシアのウクライナ侵攻であり、中国の経済と政治の覇権争い、言い換えれば習近平の文化大革命的逆行を引き起こしている。

第二次世界大戦以降、国際社会は経験から、無制限金融緩和がこうした傾向に陥る事を学習していた。

為に中央銀行の政府からの独立を原則とした国際秩序を打ち立てたが、困窮した状況はいとも簡単にこうした枠を壊し、それがまるでインテリジェンスのようにもてはやされたが、それを遣うのが人間である以上理論通りに収まるはずもなく、ましてや日本などの資源のない国、食料自給率の低い国家がこれを採用すると、MMT最大の弱点であるインフレーションの抑制が効かなくなる。

日本のインフレーションは常に外的要因で発生する為、全てを国家が管理してインフレーションを抑制する事は不可能なのであり、結果として通貨下落の幅が輸出による利益幅を超えてくると、日本は生産し販売するごとに対外赤字を増加させ、国民が気付かない間に国も人も貧しくなって行く。

円が114円の時と160円の時の落差は46円、1ドル対してこれだけ多くの物、サービスを提供しなければならなくなり、ついでに何か物を作る時に海外から材料を買えば、こちらでも1ドルに対して46円多くの円を渡さねばならなくなる。

日本は為替介入に拠ってドルで円を買い支えながら、企業は其のドルの取引に拠り、少し以前より5割近く多くの円をを放出して行く。
為替介入など「気分」の問題でしかない事が理解できるだろう。

日本の円急落の要因は、其の多くがロシアのウクライナ侵攻に拠るものと、それに付帯した経済制裁、そして中国の「0コロナ政策」「経済重視から思想偏重政策」への方針転換、そしてコロナ感染症に拠るものだが、こうした危機に対し、脆弱な無制限金融緩和政策を続けてきた事が最大の要因と言える。

世界各国はこうした無制限金融緩和の付けを払いながら正常な経済状態に戻そうと血の涙を流している。
アメリカは企業マインドの落ち込みを恐れながらも、FRBが大幅な金融引き締めを継続しているし、広義ではイギリスのトラス首相の辞任〈2022年10月20日〉もそう言う事になる。

個人的にはイングランド女らしい容貌のトラス首相のファンだったが、彼女の打ち出した大幅減税は少しまずかった。
これは金融緩和と同じ事なので、イギリス経済の再建には逆行するものだった。
だが、こうして自身の政策が実現できない事を理解したら「辞任」すると言う在り様は評価できる。
日本の政治家も見習って欲しい部分ではある。

インフレーションを抑制しようとして金利を上げれば企業利益が圧迫される。
放置しておくと民衆が食べられなくなる。
これを抜け出す方策は通貨金利を上げる事だが、既に1ドル150円まで下がり、それ以降も下る要因しかない円の価値を上げるには、少なくとも3%前後の金利が必要になる。

アメリカと同じように一挙に0.75%上げるも良し、若しくは次の段階では其の金利を0.5%に戻し、それから様子を見て0.75%を追加する、または0.35%上げて0.25%に戻すなど、4回から7回程金利を上げ下げしながら、最終的に3.18%の金利に落ち着ける方策が望ましい。

市場に期待と絶望の「慣れ」を与えながら金利を上げていくこの方法は、1979年第24代日本銀行総裁に就任した「前川春雄」が採った金融引き締めだが、第二次オイルショックに拠る強烈なインフレーションを絶妙に金利操作しながら切り抜け、世界的なインフレーションからいち早く日本を離脱させ、その後日本は空前の好景気を迎える事になった。

今の日本には1984年頃のように経済を拡大させる力は無い。
どんな手を打っても「少し楽になった」程度かも知れないが、それでも岸田内閣と黒田日本銀行総裁を放置して措いたら、確実に日本経済は破綻する。

コロナ政策が終わって日本の観光が賑わってきているが、これも1ドル150円だと、日本人が日本で円で物を買うのは構わないが、外国人に物やサービスが買われると、日本は往復で損失を出しながら物を売っている事になる。

観光業者が出した利益は、国民の物価高騰と言う薄い負担が集積されて成立しているのであり、これでは国家国民は富まない。
我々は景気の為、企業利益の為、税負担の為に生きているのではない。

インフレーションの時は消費すればする程損失になる。
こう言う時は静かにしているのが民衆としての定石で在り、政府や各行政区がコロナ対策後の消費を期待し、各地で観光客を呼び込んでいるようでは、我々国民の未来は暗い。

こう言う時は贅沢を控え、我慢する事を学ぶ良い機会とも言える。
「質素倹約」は人間の全歴史を通して重きを措かれるべき価値観だと、私は思う。



「市場に流出する税制」

われわれ一般大衆は基本的に生涯に措いて得られる所得(恒常所得)と将来世代への遺産、つまり子や孫へ残す遺産などを考えて、現在の消費や貯蓄を決定している。
だがここで政府が一定の政府支出増加に伴い、その資金調達として公債の発行、若しくは増税によって資金調達をはかろうとしたとしよう。

そしてこのパターンでは政府支出が増大したと言うことは、国内景気が今ひとつと言う状況でもあることから、増税よりは気軽な、公債発行によって資金調達をはかろうと言うことになり、公債が発行されたものとしようか・・・。

この時合理的に物事を考えるなら、政府が発行した公債はその元金と利子の支払いが未来の増税になることを理解しなければならないが、その原理は簡単だ。
足りなくなったから、公債を発行するのであって、その支払いはいつになったら終了するのかと言えば、政府が発行したものには終了点がなく、例えば相当景気が良い時期があったとしても、それが税収から得られた場合は「予算」となり、基本的には予算には貯蓄しておいて返済にまわす、と言うような思想が存在してない。

つまり毎年使い切りが原則であり、景気が良ければそれに応じた要求が民間から発生してくる。
それゆえ、本質的には政府が発行した公債はいずれの時期かに措いて、増税と言う手段でしか償還できないものなのである。
そこで一般大衆は自分と子孫の税負担の増加に備え、消費を増加させない、保有した公債は資産にはならず、未来に措いて起こってくるであろう「税負担の為の貯蓄」と言う考え方を持つのが正しい。

つまり公債発行は、それが行われた時点で未来に措ける増税を意味していて、この点で言えば現在の増税も、未来に措ける増税も同じことになり、こうしたことを運命論的に考えるなら、公債の発行は一般庶民の生涯所得に影響を与えない・・・。

これが古くは「リカード」(D.Ricardo 1772~1823)によって提唱され、「バロー」(R.J.Barro)が定式化した「リカード・バローの中立命題」、若しくは「同価定理」「公債の中立命題」「ネオ・リカーディアンの同価定理」と呼ばれる理論である。

だが国債の持つ性格はこれを金融資産と考えた時から、或いは紙幣を発行する側である中央政府銀行、日本で言うなら日本銀行が国債の買取をした時点で「リカード・バローの中立命題」から外れていく。

簡単に言うなら「税が市場に流出」していくのであり、政府が出した国債と言う債務は政府自体が利益活動をしていない事から、債務返済方法は将来の増税しか無い。

しかしこれを日本銀行が買い取った場合はどうなるかと言えば、債務を出した側が紙幣も印刷していて「泥棒が警官をしている」のと同じになってしまうのであり、これでもたらさせるものは通貨の信用不安と言う事になる。

その結果日本通貨は対外的な信用を低下させ「円安」と言う側面を持つが、これで発生してくるものは「物価の上昇」であり、通貨供給量を増やすと言う事の半分の効用は物価の上昇を意味するが、これによって増やされた通貨供給量の流れは水田に水を引く形と同じである。

流れの上から順にそれが個人や企業によって自身の所に蓄積される事から、一番下の方へ行くと殆ど何も残らない現象が発生する。

つまり一番大多数を占める一般庶民には通貨供給量の増加による物価上昇と言うマイナスは有っても、更に半分を占めるはずの「賃金の上昇」が無いか、有るとしても僅かになり、結果として一般庶民は「物価上昇」と言う負担だけを受ける事になる。

無論全ての国債を中央銀行が買い取る事は不可能で有るから、これに伴って健全な部分である「リカード・バローの中立命題」に従った「消費税増税」も実行されるが、日本の現在の国債に対する返済計画はこのように「市場に流出した税制」と、「健全な税制」の両方から健全化しようと言う方式が採られている。

従って政府が行う財政出動の償還は、一つは増税によって賄われるが、国債の買取が中央銀行によって為されている現実は、物価上昇と言う「市場調達増税」でも償還が為されている事を意味し、現在日本政府が行っている政策は「消費税増税」以外に「市場操作による税調達」が加わっていると言う事になるか、或いは物価上昇と言う現実はリアルタイムだが、賃金上昇が未来に対する希望の場合は「博打」を打っているに等しくなり、この間の負担は後に還元されない。

また国債の買取は政府による市場の干渉で有り、これを行ったら本来市場が持つ自然な動向に対してまでも政府が責任を持たねばならず、よって経済を社会主義化してコントロールする事は、ある種自然災害を人間がコントロールできると豪語しているような愚かさが付きまとい、必ず破綻する。

「リカード・バローの中立命題」から外れた通貨供給量の緩和がもたらす事の意味は、必要な資金がもう正規の手段では集められない状態に有る、「破綻した状態」であると言う事で、ここで発生してくるものは「貧困社会」の特徴的な傾向で有る「貧富の差」である。

元々国債はそれを買える資金が潤沢な者に取っては金融資産的な意味合いが有り、それを負担して行くのは国民と言う性質のもので、この図式から始まって貧富の差が出易い性質のものだが、この償還を市場に頼ってしまうと増税以上の国民負担を強いる事になる。

我々は「景気浮揚」や消費税増税だけを見ていてはいけない。

日本国債の中央銀行買い取りと言う行為は税制の市場流出、若しくは税制と市場が曖昧になる事を意味していて、これは事実上税制の際限の無い市場への流出の第一歩、泥沼化が始まった事を示している。



[本文は2013年9月28日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

「為替介入」

2022年9月14日黎夜、鈴木俊一財務大臣は、急激に下落して行く日本円の為替相場に対し、「あらゆる手段を講じる」と発言し、円下落に為替介入も辞さない事を示唆したが、少しお疲れか、若しくは何らかの勘違いをされていたようで、こうした発言の直後、為替介入の凡その時期も示さないし、そのような事は一切公にしないものと発言した。

が、これは流石に経済学部に在籍する学生でも知っている基礎的な知識の不足なので、鈴木財務大臣の発言を訂正、補足しておく。

為替相場で自国の通貨が下落してきた時、対策は大まかには2つ存在する。
一つは下落している要因対象通貨の自国保有分、または其の相対国家と協調して自国通貨に対し、値上がりしている通貨を市場に放出する方法、これを為替介入と言う。

もう一つは自国通貨の金利を上げる方法であり、こうした対策は追い詰められてからだと効果は薄いが、どちらかと言えば通貨金利を上げる方策より、市場の為替介入の方策が効果は薄い。

また株式市場、為替市場も「現在」を反映して動いていない。
両者とも「マインド」「予測気配」で動いている為、こうした市場は「現在」を「過去」に換算して「未来」を「今」に動いている。

市場に介入すると言う事は「マインド」を与える事であり、この意味では「雰囲気」を提供する事と言える為、財務省、日本銀行は「市場介入するかも知れんぞ」と言う事を、遠巻きに表現しなければ市場介入の効果は出なくなる。

秘密裏に行う市場介入は、為替相場介入効果を滅失させてしまう。
「市場介入は秘密裏に行うもの」とした鈴木財務大臣とは裏腹に、日本銀行は2022年9月14日の段階で、既に「レートチェック」を開始している。

「レートチェック」とは日本銀行が市場関係者に意見を聞くリサーチであり、こうした日本銀行の行動が漏れ伝わり、市場には近い内に為替介入が入りそうだと言う予測が働き、相場が動くを期待する、そう言う「ここだけの話」的な日本銀行の「噂流し」なのである。
勿論実際に相場の介入が在るかどうかは分からず、唯の噂に終わるかも知れないが、こうした「雰囲気」「マインド」の流布こそが市場介入効果なのである。

鈴木財務大臣は、財務大臣として基礎的な知識の有無が疑われる発言を、勢いよくやってしまった訳だが、弁舌強勢、趣旨優柔不断の岸田総理をはじめとして、日本の政治家に基礎知識を期待するのは酷だったか・・・。

また、基本的に日本円の下落は為替介入では改善しない。
一時的に円相場は少し上がるも、数日も持たない。
長らく無制限金融緩和をやっていると、為替市場介入と言う小手先でも、相当の覚悟を以てやっているかのように感じるかも知れないが、対外的には水鉄砲の玩具から、水が発射されたくらいの影響でしかない。

せっかく血を流しながらも、非常事態金融緩和から離脱を決めたアメリカ経済は、何が悲しくて金融緩和を続ける日本円を助けなければならないのか、むしろ日本こそこうした機会に金利を上げて頂きたい、そう思っているアメリカは、円相場に対して協調介入は在り得ない。

日本単独の為替介入になるばかりか、日本円が下落しているのはドルに対してだけではない。
無制限金融緩和から離脱しようとするアメリカ、ヨーロッパEUのユーロも金利を上げている為、日本円は全方向に対して下落している。

其の上にロシアのウクライナ侵攻、中国のコロナウィルス感染0政策が存在し、これらが改善されてくる日は近い。
爆発的に発生してくる需要、それに見合った世界的な生産体制の準備を考えるなら、それを緩やかに流していかなければ、各国ともインフレに潰されてしまう。

既に始まりつつある経済拡大、これに対応する政策を始めつつある世界市場、日本政府と日本銀行はこうした流れに逆行している為、円だけが沈んできているのであり、これを為替相場と言う小手先でかわす事は出来ず、ましてや財務大臣が、市場に分からない様に為替介入すると言った時には、日本経済の終焉を感じてしまう。

1970年代石油危機の折にも、物価高騰は政府の責任だと、民衆は政府をやり玉に挙げていたが、今から思えばあれは可哀そうだったなと言う思いがする。
2022年の政府に鑑みれば、遥かに勉強もしていたし、真剣に取り組んでいた。
あれは政府のせいではなく、国際情勢のせいだった。

今もこうした通貨下落、インフレは対外的要因に拠って、もたらされている事は変わらない。
しかし其の幾ばくかを政府、日本銀行の対面主義、虚栄心、愚かさが担保しているような在り様には腹が立つ。
他人が愚かなのはまあ良いとして、その愚かさに自分が巻き込まれるのは耐えられない。

[本日は特に記事掲載の予定は無かったが、2022年9月14日、鈴木俊一財務大臣の記者会見を拝見し、余りの愚かさぶりに本稿を寄稿した]

[未推敲ゆえ誤字脱字、文章の稚拙さにはご容赦頂きたい]

「円の戒厳令」2

アメリカFRB、ヨーロッパの欧州中央銀行などでは、日本に対して疑問を通り越し、先の安倍元総理暗殺事件を含めて、重大な事案が発生しているのではないかとの憶測も飛び始めている。

もはや国際経済はインフレーションが発生したら賃金も上昇し、経済が発展していくなどと言う、簡単な事では済まない状態になっている。
世界的な無秩序金融緩和が招いた事実は、ロシアのウクライナ侵攻であり、中国の脅迫的外交である。

これらはブロック経済に連動して来る現象であり、日本のような資源を持たない国家が経済制裁など笑止と言え、資源保有国家を資源を持たない国が経済制裁すると、工業生産原材料、食品加工資材などが逆に入ってこなくなり、原材料費、ガソリンなどが高騰する。

加えて世界的なコロナ感染に拠って、生産が減少していたところのロシアのウクライナ侵攻ゆえ、世界経済は需要が在っても物を作れない状態、ここに強度のインフレーションが発生していて、物の生産がインフレーションに対応する金融引き締めに追い付けない状態で、日本は市場に通貨供給量を増やしている為、日本の円は下落し、海外からの物資調達原価を上昇させている。

世界的にはインフレに対応して通貨金利を上げている中で、日本はこの反対をやっている訳だから、低いところに水が流れ込むように、加速を付けて日本のインフレーションは激化、物価高騰、円相場の急落が続いていく。
日本政府がばらまいている通貨は各所で詰まりかけていて、例えば企業の内部留保は500兆円を超えているが、こうした内部留保を従業員の給与上昇の為に使う事が出来ない。

不安定化する国際情勢、海外資材調達資金の上昇と、コロナ感染、ロシア侵攻後の生産を考えるなら、現状では内部留保を使えない。
原材料費の安い時にそれを買い、物を作って高く売るのが工業の原則だから、敢えて物価が上がっていく時に資材を買い、世界各国が物を作り始めて金利が下がって来た時にそれを売るのでは、2重の損失になる。

またインフレだから物が必要で、そこから人件費が上がるなど、1980年代の経済論であり、今は安い物は中国で生産され、高額なものはアメリカやヨーロッパで生産されていて、日本の工業はこのどちらにも追いついてない。
要らないものを作っても売れないのは当たり前で、今や日本の技術など時代遅れでもある。
日本の工業に求められているものは、その品質の安全性と強度、正確性であり、ここを踏み違えた物つくりでの競争力は無い。

日本の国家政策、財政政策でインフレーションは絶対克服できない。
このインフレーションはコロナ感染と言う世界的な感染症に端を発し、ロシアのウクライナ侵攻、中国の感染症0政策が招いている結果なので在り、これらが解消されない限り、日本ではインフレーション傾向は悪化していく。

この状況にも拘わらず、無制限金融緩和政策の放置は、世界的な財務担当者から見れば、もはや狂気の沙汰と捉えられているだろう。
2012年頃は、無制限金融緩和の全責任は安倍総理と言うCEOを持っていたが、今やその人は亡く、ここで金融緩和をやめれば企業にとっても民衆に取っても大きな痛みを伴う。
しかし、金融緩和を止めて通貨にトルクを加えねば、インフレーションで国民生活は困窮する。

日本銀行の黒田総裁にすれば、安倍元総理、言い換えれば政府の要請が在ってやったことだから、政府から止めてくれと言わない限り、自分からそれを言えば全ての泥を自分が被る事になる。
これは避けたいだろう。

本当は現政権である岸田内閣が、金融緩和の中止を行わなければならないのだが、旧統一教会問題に、オリンピックの不正問題で支持率が下がっている上に、せっかく上がってきた大企業の景況感、株価に冷や水をかける事になる。
とても恐ろしくて、そんな事は出来ない状態と言える。

財政ファイナンス、政府と中央銀行の一体化が何故禁じ手なのかと言うと、日本の今の現状のような事になり易いからである。
日本銀行総裁も、総理大臣も自分が貧乏くじを引きたくなくて、これはいけないと思っていても、保身の為に言い出せなくなる。

中央銀行と政府が独立していると、そのどちらもが責任者だから、悪くならない内に必ず手を打つし、それぞれが互いに追及する。
世の中には関係が良くて上手くいく場合と、緊張関係だからこそ上手くいく場合が在る。
お金に関して言えば、一定の緊張感が無いケースは、必ず失敗する。

黒田総裁でも岸田総理でも、どちらでも良い。
今は自身が泥をかぶっても金融緩和を止め、日本の円にトルクを加えると発言してほしい。
このままでは日本の円がブラックホールになって、国民が奈落の底へ引きずりこまれてしまう。

[本文は2022年9月8日、アメブロに掲載した記事を再掲載しています]

「円の戒厳令」1

世界各国の通貨、紙幣供給量は市場経済に影響を与えないよう一定の水準に保たれ、基本的には汚損したり破断、焼失などして減少して行く分を補う程度を、新規発行していく事を原則としている。

ただし、市場と民衆が蓄えている、所謂停滞している通貨に付いては、これが動かない以上、市場としてはその範囲の中であれば流出する可能性も付帯して行く為、市場に存在する通貨発行残高までを限界として、中央銀行が操作する事ができる。

日本の場合2021年末の通貨発行残高は122兆円であるから、2022年1月1日には122兆円の紙幣を印刷する事が可能なのだが、銀行も企業も個人も、1銭も残らず市場で通貨を使用する事は在り得ないので、通貨の価値を下げずに紙幣供給量を増やす場合、訳20兆円規模にまでに発行量を抑制しておかないと、市場が通貨供給量が増加した事に気づいて、通貨の価値は一挙に下がって行く。

一般的、建前としてはこう言う事になっているが、各国とも通貨発行量に付いては正確に公表しない為、実は結構アバウトな事になっているのも事実であり、経済が発展していく時は通貨の量が足りなくなる為、中央銀行は市場での価値を下げない程度に通貨発行量を増やし、こうした傾向が市場で見えてくると、今度は通貨の動きを悪くして市場の通貨流通量を減らしていく。

これが金融引き締め、金利を上げると言う操作になる。

市場の通貨量操作は物理的な操作、金利に拠る操作の2種類が存在する事になるが、世界各国の中央銀行が物理的な操作を建前上嫌うのは、通貨発行量を増やす方式は財政ファイナンス化し易い為で、国債など国の債務をその中央銀行が紙幣を印刷して補う方式を採用すると、ここから抜け出すのが困難になり、気付かない内に国富、財が対外的に価値を失って行く。

特に資源や食料自給率が低い国は、理由も分からずに貧富の差が開き、貧しい層の人口が増加していく為、民衆の声は強硬になり、それに対抗する事から資源保有国、大国はブロック経済などの保守的経済政策になって行き、やがては紛争や戦争と言う事態が発生する。

こうした経験上の理由から第二次世界大戦以降、世界各国の中央銀行は政府から独立していると言う建前をして、その信用を担保してきた。
簡単に言えば、その国家の通貨信用を担保していた。

この原則を一番最初に崩し始めたのは日本だった。
バブル経済が崩壊した時、国家予算、税金で大企業を救い中小零細企業には自腹を切らせ、金額の大小は有っても同じように税金を払いながら大企業は救われ、中小零細企業は見捨てられると言う、国家としてはやってはいけない不条理をやってしまった訳だが、選択肢としてはこれ以外に道もなかった。

そして2007年、アメリカで発生したリーマンショックでは、その対応策としてこうした日本の方式が採用された。
アメリカが建前上の正義を放棄した瞬間だったが、これもやはり他に選択肢がなかった事は理解できる。

ただ、ここで2006年からアメリカの中央銀行に相当する「FRB」の議長に就任していた「ベン・バーナンキ」が提唱したヘリコプターマネー、無制限金融緩和、簡単に言えば中央銀行が政府に連動し、好きなだけ紙幣を印刷できる制度が2008年から容認されだして、ここにアメリカは1つ壊れたら、もうどうでも良い状態へと突入し、通貨の持つ信用、それまでの正義をも放棄していった。

この措置は非常事態に対応するものだった為、2年をめどに改善したら無制限金融緩和を解消する目標も採択されたが、結局アメリカが金融緩和から脱出できたのはこの14年後の2022年になっての事だった。

だが例え14年後になったとは言え、こうしてきちんと無制限金融緩和から離脱しようとする正常性は、やはりアメリカ合衆国と言える。
モルヒネを打って何とかするような経済政策から抜け出す時は、経済の失速と言う痛みも伴うが、それでも正常化を目指す精神は尊敬に値する。

この動きはヨーロッパ経済にも影響を与え、2022年9月にはEUのユーロも金利を上げた。
世界各国がこれまでの非常事態に区切りを付け、モルヒネから脱却を始めているのである。

だが、こうした世界的な動きの中で各国中央銀行が不思議に思っている国が在る。
日本は2012年の安倍政権から無制限金融緩和を続けているが、この際更に崩壊させて中央銀行の一般株式市場参入と言う、半ば共産主義的な暴挙もしているのだが、こうした状態が維持されたまま、2022年9月に至っても何の音沙汰もない。

「円の戒厳令」2に続く

[本文は2022年9月8日、アメブロに掲載した記事を再掲載しています]

「国 葬」

古来より政治の理想的な状態と言うのは、政策に対して賛同と反対が半分ずつと言う形と言われていて、民衆が政治から関心が無い状態を頂点とする、そう言われている。

政治は調整機能だから、100%の大衆に対して政策を実行すると、凡そ半分の人がその政策に拠って恩恵を受けられず、次に残りの50%に対して半分の25%が望む政策を打ち出し、と言う具合にして行けば、最後は0.781145%の反対を残して全員が賛同になる原理だが、実は残った反対意見を賛同にするには、元々賛同した半分にある種の妥協を求めて行く形になる為、50%対50%の最初に出した政策にどれだけ妥協案を追加しても大きく変化しない。

賛同、反対意見共に曖昧さを増やして行くに過ぎない。

つまり政策に対する多くの調整案は余り効果が無く、本来政治に不満が無ければ民衆は政治の事を考えず、民衆が政治に関心を持つと言う状態は、政治の状態があまり良いとは言えないと言う事である。

1992年8月、「金丸信」自民党副総裁の5億円闇献金問題が発覚した。
俗に言う「東京佐川急便事件」だが、ここで東京地検特捜部は金丸氏に出頭を求めたが、金丸氏はこれを拒否し、代わりに上申書を提出し、罰金20万円の略式起訴で問題の解決を計った。

これに対しては検察庁内部からも批判が続出、国民の不満は頂点に達した。
これより少し前に発生していた1992年3月の、栃木県足利市で公演中の金丸信副総裁襲撃事件、金丸副総裁が右翼青年に拳銃で襲撃された事件などは、こうした一連の政治資金規正法違反に関係していたものの先駆けだったと見られている。

国会議員が民衆に示す民主主義とは、正規の手続きに拠って問題の解決が計られた事しか担保できない。

一般民衆なら刑事訴追の上収監、と言う事態が自民党副総裁なら罰金で済むと言う在り様では、国民の不満は大きくなり、その中で個人の事情が増長したものが増加している経済的停滞、或いは災害などが存在する場合、個人の事情が先鋭化した者の数も多くなり、そうした不満が明白に正義を歪めた国会議員の襲撃などに向かい易い。

こうした事態の責任は、本来正規の手続きを踏まなかった本人もそうだが、検察などの三権分立の一角に在る組織、国会に措ける責任の会見、野党の追及が正しく機能し、正規の手続きが為されていれば、避けられる問題とも言える。

2022年7月8日、安倍晋三元総理が奈良県で「山上徹也」に拠って銃撃暗殺されたが、安倍元総理は森友、加計問題では終始言葉で逃げ、花見問題でも同様だった。1992年の金丸信副総裁と同じ疑惑にも関わらず、また途中財務省職員が事件に関して自殺している事も、今では国民も忘れているのかも知れないが、そう言う疑惑に対して国会の追及は封殺され、検察も手を出さなかった。

また旧統一教会との関係など、政教分離など全くの無視状態と言える。
安倍元総理は既に総理の任期を終えていて、加えて日本の総理など狙う価値もない事を考えるなら、今回の暗殺事件は疑惑に対して真摯に向かい合わなかった国会と検察庁、それに政教分離の大原則を甘く見ていた安部元総理自身の、国会議員としての脇の甘さも一因したのではないかと思う。

しっかり皆が責任を以て働いていれば、こうした事態は発生しなかったのであり、SPに責任を転嫁する岸田総理の在り様は、自身の事を棚に上げた責任逃れの醜さも感じるが、政治家と言うものはこうしたものであり、国葬も悪くないだろう・・・。

少なくとも選挙活動中に殺されたのだから、国会議員と言う立場からすれば「殉職」と言える。
国家が葬儀を営むことは問題ないと思う。
野党の言う生前の政策を認めさせる事や、国民に弔意を強制と言う話は筋違いだろう。
別に嫌なら葬儀に参列する必要もないし、黙とうをする必要もない。
それを為さなかったからと言って刑事罰が下される訳でもないのだから、強制にはならない。

それにしても、こうして国葬と言うフレーズを聞くと、かつて昭和天皇に謁見したおり、「今日は大変な人に会った」と頬を紅潮させて領事館に帰ってきたと言う「鄧小平」の事を思い出す・・・。

「私の死くらいの事で人民の経済活動を止めてはならない」
「葬儀は行なわなくてよい、休日にもしてはならない」
「死んだら体は献体するので、使えるものが在ったら使ってくれ」

[本文は2022年7月16日、アメブロに掲載した記事を再掲載しています]




プロフィール

old passion

Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

[このサイトは以下の分科通信欄の機能を包括しています]
「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

最新トラックバック

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR

月別アーカイブ