「夏の終わりに・・・」

今年も最後のツバメのヒナ達が巣立って行き、暫くは昼の間だけ少し顔を見せるが、それも後1、2日の事だろう。

窓を開けていると、彼らがまるで別れを告げるかのように、私の目の前数十センチのところまで飛んできて、そして私を見ている。
ヒナのときは、小さな巣からこぼれ落ちんばかりにせり出して私を見ていた彼らは、今は止まっている私を自身が自由に飛びながら見ている。

盛夏の頃より少しだけ角度が加わった光はどこか人を寂しくさせるが、空になってしまった多くのツバメの巣をを見ていると、ここに残っている者を待っているものは「死」であるのに対し、ここを巣立っていく者には「生」と「可能性」が与えられる事を思う。

おそらく人間も一つの安定した所に居ては、待っているものは「死」なのだろう。
辛く厳しくても、「今」を巣立って飛び立たねば、そのまま冬が来て死んでしまうのだろう・・・。

おかしなものだ、こうして傾いた日の光に在ると、なぜか遠い昔の一つの場面を思い出す。
それも感動的な話ではなく、ほんの些細な日常の一こまなのだが、何故か今も忘れられない。

出向で滋賀県に住んでいた時、当時はコンビニシステムが初期の大流行時代だったが、私と数人の会社の仲間も郊外のコンビニを良く利用し、そのいつも行き付けのコンビニには、たぶん当時高校生だったように見受けられたが、一人の女の子がアルバイトで働いていた。

そしてその女の子は、私の同僚で会社でもイケ面として人気が有ったSの事がどうやら好きだったようで、彼が顔を出すとまるで花が開いたような表情になっていくのが周囲にも判るくらいだった。

だが、肝心のSの態度は冷たかった。
その理由は簡単だ、その女の子はどちらかと言えば男顔、しかもゴッツイ感じがする顔をしていたからだが、私はいつもSと一緒にコンビニ行く度に、彼女に冷たいSの事を人間性が無いなと思っていた。

しかし一方で、もし今くだんの彼女から自分と付き合って欲しいと言われたら、私は「喜んで・・・」と言えるのかと問われたなら、たぶん駄目だっただろう事も思っていた。
女は顔ではないと言いながら、それは他人の場合はそうでも、自分はそれをできない。
しかし他人の事は責める・・・。

何故か解からないが、もう30年近くも経つのに、未だに私はこの事を思い出し、そして自身の中に現実と建前の調和が取れないまま、彼女は幸せに暮らしているだろうか、などと言う、自己擁護にも似た事を思ってしまう。

今までの経験から仕事や社会、あるいは政治や経済の事は少しわかって来た事もあるかも知れないが、もしかしたらこうして傾いた日の光の中で思いだして、しかも今もどうして良いか解からない事を、本当は先に学ぶべきだったやも知れない。

こうした事に答えを出せない私は、多分他の事でもどこかでは明確な答えなど出せてはいないだろう・・・・。



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