智・第八節「信の前」

心を寄せていた彼氏から誕生日に綺麗な薔薇の花束を貰った。

しかし程なく彼氏に自分以外の女がいる事が発覚、悔し涙の視線の先には一番立派な花瓶に入れられた彼氏からの薔薇が、これまた自分の愚かさをあざ笑うかのように美しく赤い・・・。

彼女は思わず薔薇の花を花瓶から抜き取ると、思いっきりそれを床に叩き付けたが、「智」は床に飛び散った赤い薔薇の花弁に同じかも知れない。

人間は金や物で人の心を買うを卑しい事、醜い事と考えがちだが、現実には心を形にする時言葉はこれを尽くせば尽くす程軽くなり、ならば金品に拠って言葉を減らし「礼」を現そうとし、この時の金品は「心」に置き換えられるものとされる。

しかし金品には初めから意思も無ければ「心」も無く、人間の関係は強固な様に見えながら、これを視覚的に現すなら左右に在る2枚の木の葉のようなものでしかなく、ここに関係を持たせているのが「言葉」や「態度」「出自」「金品」であり、これらは2枚の木の葉に渡された一本のストローくらいのものであり、木の葉はやがて朽ち果て、気まぐれなそよ風に拠ってすら、簡単にストローもろとも吹き飛ばされる。

本来から言えば愛している事は金品や言葉では置き換えられない。
肉親の情を言葉で表す事もできなければ、ましてや金や品物で表現するなど以っての他だが、形が無ければ理解する事が出来ない人間は「形」をして心を見てしまう。

そも薔薇の花束くらいの事で確かめられる愛など、私からすれば愛とは思えないが、これは他に対する比較を求めているに過ぎない。

全く関係の無い女には薔薇の花束は届かない。
彼に取って私は一般社会の女とは特別である事が示されたと考えるのだが、本来であればそんな事が無くても信じる事を愛と言うのであり、全ての状況に措いて人間はこうして心を金品に換算しながら、しかも金品を卑しいものと思ってしまう。

「五常」の中で「信」の前に「智」が在るのは飾りではない。
「仁「義」「礼」「智」「信」は互いに関係し合いながら、その中で微弱な重要性の差が示されたものだが、順列から言えば封建制に重要なものが上位に在り、個人に取って重要なものが後ろに並んでいる。

それからすると個人に取って一番大切なものは「信」なのだが、「智」はこれと社会に関連性をもたらす役割を負い、ここでは究極的には何も無くても「信」で在ることが望まれる。
しかしこれでは仏教の悟り、無意識の意識になってしまい、理想では有るが到底人間には追い付けない。

これを限りなく「無」に近づけるのが「智」であり、言動や物、金で人の心を求め、言葉や金品で人の心を計る事を出来る限り減らす努力こそが「智」の道であり、しかし完全に「無」であってはならない事が「信」の前に「智」が置かれている理由ではないかと、そう私は考えている。

打算であっても売名行為であっても、それを受けた者に取っては同じである。
ここに言葉や金品の為せる立場と言うものを理解し、それを心と結びつけずに感謝し、また人の心は瞬間のものである事を知るなら、為された行為の独立性を思わねばならず、この独立性を持った行為や事象の両端に人間の心が右往左往している姿が在る。

あらゆる人間の行為は終った瞬間から独立して行くものであり、これを「無常」と呼び、後に前に結びつけるところから悩みが始まる。
しかし五常の「仁」「義」「礼」「智」「信」は「関連性」を持たせることを告げていて、尚且つ「無常」を基本にせよとも言っているのであり、これは何を指すのかと言えば、「無」に近くても決して「無」で有ってはならない現実を表している。

彼氏から誕生日に薔薇の花を貰った嬉しさ、花の美しさ、彼氏の裏切りは「彼女」と言う「あなた」がいなければ、それぞれがバラバラのものでありながら、しかし全てあなたがいなければ出てこなかった。

「智」は結びついた自身の心を、どれだけバラバラの状態に考えられるか、それを考えられる自分になるかと言う事でも有るが、自分を「0」、無きものとしてはならないと言う事なのかも知れない。

床に飛び取った薔薇の花弁を見て思う事、悔しさの中に少しだけ感じる花の事、これもまた「智」の光明と言うべきもの・・・・。




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