2017/10/14
智・第九節「対立と言う黎明」
王制、立憲君主制では「天意」、近代以降の国家では「民主主義」をその為政が成立する建前上の根拠とするが、外交でこれを操る場合、その国家の方針を動かすには民衆を動かす必要、或いは集中した権力には「人の数」を動かす必要が有り、ここで言う処の民衆や人の数とは思想や正義を差すのではなく、「気分」又は「感情」を操る事を意味する。権力の根拠が民衆に傾き始めた頃から伝統的に使われる外交手段の一つとして「アルベール・アノトーの手法」と言うものが存在する。
1800年代フランスの外務卿、「アルベール・ド・ブロイ」「ガブリエル・アノトー」が好んで使った外交上の手法だった事から「アルベール・アノトー」の手法と呼ばれるが、民衆を操作して外交目標を達成する手法が、フランス革命の発生地で好んで使われた事は実に感慨深い。
方法は簡単であり、まず目標とする案件の条件を極端にして一つに絞り、それを大言壮語して発表した後、一切発言もしなければ質問にも答えずに置くと、民衆や政治組織内に憶測が発生し、やがてそれは議論を二分するようになって混乱し、賛否を巡って意見の対立が発生する。
そして対立が深まってどうしようもなくなった頃、その政策を強行に推し進める。
意見の対立が深まった頃には、それに拠って発生した混乱を収拾して欲しいと言う願望が発生し、既にこの頃には政策などどちらでも良い、何某かの先を求める民衆の感情が大きくなっている事から、ここに権力で在る政府が方針を強めると、議論が半々の上に権力が乗った方に簡単に傾いて行くのである。
この手法は主に内政に措いて有効だが、派生手法としては日露戦争時にロシア帝国外務卿のウィッテが使った、アメリカのマスコミと民衆操作なども系列手法であり、日本の最近では小泉純一郎元総理が強行した郵政民営化政策、これは「アルベール・アノトー」を基本通りに使ったものと言える。
我々は一般的に「対立」を避けるべきもの、悪いものと考えがちだが、対立は友好と同等のコミュニケーション手段であり、友好関係はその関係の外に大きな対立が在ると強化されるが、友好と言うコミュニケーションは個々の事情が抑制される。
為に友好はやがて対立に向かうものであり、対立と言う関係では個々の事情は拡大されて表現される為、問題が明確化し易い。
人間社会のコミュニケーションは50%対50%のものであり、味方と敵は半々のものだ。
それゆえ賛否が半々に分かれ、対立した瞬間からその案件は社会的に咀嚼(そしゃく)され始めた事を意味し、この咀嚼の彼方に「智」が存在する。
逆に友好と言う関係を維持しようとして個々の事情が制限されている状態では咀嚼は行われず、妥協或いは問題が先送りされ、それはいつか決定的な破綻をもたらす。
ヨーロッパ共同体「EU」などは思想的には「智」に見えながら、実態は内部から友好関係を守る為に対立が発生している。
「智」は思想的に見えるものではなく、大きなもののみを差すのではない。
道端に転がる石ころからでも始まるものであり、個人と個人の関係は二人から始まり、ここに友好と対立の二つが並んでいるなら、その集合で有る社会もまた友好と対立が均等に並んだ状態を平均とし、この平均こそが「智」の入り口となり、やがてそれが「時の篩」(ときのふるい)に拠って全員に認知される事をして「智」と呼ぶ事が出来るのではないだろうか・・・。
ちなみに現在進行中の衆議院選挙に措ける、「希望の党」の「小池百合子」代表も小泉純一郎元総理を真似て「アルベール・アノトー」を使おうとした形跡が見えるものの、失敗した。
原因は簡単である。
アルベール・アノトーの手法は問題を提起する発信元が「個」か、若しくは統制された少数でなければコントロールできないからで、多くの仲間と共同では情報のコントロール、「沈黙」が維持できない事、更には問題提起が集約された一つではない為で有り、あれもこれも提起しては「賛否の複合」「賛否の拡散」が発生して「アルベール・アノトー」の効果は消失するからである。
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