智・第十節「何も示されない」

ここにあらゆる未来を見通せる者がいたとして、彼が私に付いて、明日の午後3時14分に自動車にはねられて死ぬ事を予言したとしようか・・・・。

死にたくない私は明日の午後、付近で一番頑丈な市役所の中央ロビーの真ん中に陣取り、絶対外に出なかったとしよう・・。

当然予言は外れる事になるが、では絶対的に見えた未来はどこに行ったのだろうか、それに明日の午後3時14分に死ぬと言う事は、反対側から考えるならそれまでは絶対に死なない事になるが、高さ70mの崖から飛び降りても、3時14分以前なら絶対死なないのだろうか・・・。

神仏は人間のする事に一切手出しが出来ない理由がここに存在する。
あらゆる未来を創り知っている者は、それに干渉すれば自身で自身を侵す事になる。
それゆえ、一切の事を知っていても、あらゆる現実としてそれが発現しても何も出来ないのであり、「智」の在り様もこれに同じである。

何もしない、何もできない事が「智」なのであり、昇る陽の光が影を切り取るように光で明白にして行くような、明確な結果や効果、助けを行わない。
このように「何も行わない」「何も示さない」事が神仏の可能性を示しているのであり、神仏と人間を唯一繫げている根拠なのである。

もっと簡単な例で言うなら、会社に入社直後の者の言動は責任がない分自由だが、これが社長や専務になって行くと、言える事は少なくなり勿論明白なえこひいきも出来なくなる。
知識も同じで、より多くの事を知るに付け人間が孤独であり、言葉は要を為さず、自身が無力で有る事を知るようになる。

人が救われるのは、その本人自らの力に拠ってでしか為し得ない事を知り、ここで言葉や行動で人が助かるなどと言う事を思う自身が在るなら、これを恥じ、そも自身がそれを為した事によって人の未来に責任も負えない分際で、何と言う事をするのか・・・。

こうした事を考えるに、知恵は出現する現実に即応するものだが、「智の光明」と言うものは、人に関わるをしない事に拠ってしか関わることが出来ないものであり、しかし人間がここに思いを無くしてはならず、完全に世俗を離れたものであってはならない。

神仏と人間を繫ぐものが「何もしない」「何も示されない」事を根拠とするに同じように、偶然と必然が同じでなければ人はそれを感じられない。

あたかもそれは今旅立つ者に対し、惜別の悲しみと未来の希望が一緒になった思いか、或いは困窮し苦しむ者を慈しむ涙と、自身がそれに何もしてやれない事を悔やむ涙が同じものとなったようなものかも知れない。

もっと言うなら秋の青空も、道端に転がる石の礫(つぶて)にも、風に揺れる草木の動きにも「智の光明」は存在し、それを知っても感じても、ではそれで何が出来るかと言えば何も出来ない、何もしてはならないもののような気がする・・・・。

そして「智」は「0」ではなく、限りなく「0」に近いものでありながら、決して「0」ではないだろう事を、「智」と「悟り」は決して同じものではない事を、私は思う・・・。




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