第六章・信・第一節「罪の始まり」

日本語で最終発音が「あ」で終わる文字は極めて少ないが、「ん」を最終発音とする文字は一番多いかも知れない。

「あ」は感嘆詞であり、主に言語の発音であり、為に英語やラテン語では最終発音に使われたが、漢字を起源とする言語形態、特に日本では「あ」は開始発音、「ん」が停止、終止発音となっている事からも、「ん」の最終発音が多いのである。

そしてこの「ん」は中国でも「ち」「し」と並ぶ汎用発音であり、「ん」は自己決定終結音でも有る。
自己決定終結音とは「自分が終わりを決めた」と言う事であり、「信」は「真」や「震」と時代を違えながらも同義であり、物事の本質や人間の心には底と深さ、或いは上と高さが在り際限がない。

それゆえ人間は完全な底と完全な上には行き着くことが出来ない。
ここを自分の限度とした点を終結とし、その「場」を「ん」とする、そう言う概念が「ん」には潜んでいる。

「信」は「人」に「言」だが、言の古い形は「辛」であり、中間過程では「辛」の下「口」を付けて「言」と同義にしたものも在り、「辛」の本質的意味は「罪」である。

「信」の別表現文字としては「言」の右に「心」を配した漢字も存在するが、押し並べて「信」は対等関係か立場は違っても部分的対等条件が存在し、為に王政や帝政に措ける上下区分の明確化が求められる場合、統制を図る概念からは許容し難い部分が存在し、こうした経緯から古い時代には人間の徳の中には入れられなかった。

「信」が徳の中に入ってくるのは春秋戦国時代の末期頃であり、つまり世の中に下克上が蔓延し、為政者の心が虚ろい易い時に「信」が求められたと言う事であり、「信」は「友」を始まりとして、この関係が儒教世界で拡大して行ったものである。

「信」は「願い」と「結果」の真ん中に在り、人と人の関係に措ける相互の願いであり、本来は形を持たないものだが、一度形を持ち出すと形への依存が強くなり、為に人間社会の多くの「信」は形を必要とするようになった。

「あれをしてくれたから信じる」、「ああ言ったから信じる」は本来の「信」ではなく、これは奇しくも罪の意識と非常によく似ている。
法と罰が在るから罪を恐れるのでは無く、それを罪と自身が思う事に拠って罪が理解できるのであり、「信」が在って「人」が在るのではなく、人が在って「信」が在る。
それゆえ「信」で人を計るのではなく、「人」と「信」を築くのであり、「信」は代償ではない。

「信」の「言」、その古い様式は「辛」、「幸福」の「幸」と「辛」の文字はとても近い。
「幸」の始まりは板の拘束具であり、「辛」は「罪」であり、この「辛」が「言」になって行った事はとても趣が深い。

古い概念で考えるなら「罪」に「人」で「信」と言う事になるが、言葉とは「罪」に「口」、つまり言葉は罪の始まりなのだろうか・・・。





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