信・第二節「友と反」

人類のごく初期段階の社会は「原始共産主義」と考える傾向が有るが、これは現在の思想をして過去を考えるからで、およそ生物の初期発生段階の社会は「力」と言う現実的結果を権威とするものであり、この意味では「平等」と言う本質は被支配層でも存在しない。

「平等」の本質は「比較」であり、この比較は予めの「格差」に拠ってでしか出てこないが、地球に措ける全ての原理原則は「格差」であり、一方の社会は「共有」を前提とする。

しかし個体である人間が「他」と全ての時と場で情報や目的を同じにする事は出来ず、為に人間の共有や共生は期間と場に拠る定めと「密度」を持ち、例えるなら1から6までの事情の人間がいたとして、「1」と「3」と「5」は奇数と言う持って生まれた「場」の環境が近いが、「2」と「4」、「6」は偶数と言う奇数とは違った出自を持ち、更に「2」「4」に対して「6」は「3」とも関連性が在る。

ここで1から6までが共有できる素質は「1」のみであり、社会はこの「1」を基盤にして組み立てられるが、「1」と「3」と「5」は仲がよく、「2」と「4」は故郷が同じで「3」と「6」は親戚と言う具合に、個体は「1」と言う社会の中で、与えられた環境や時の事情に拠って共有できるもの、共有できる時期が在る反面、これらを共有できない時期や「場」も持つ。

「信」の根底は「友」とされるが、友と言う漢字は「又」が二つ並んだ状態で有り、意味としては二つ並んだ「手」であり、同じ方向へ向かう事、手に手を取り合って進む事をさしているが、同じ「又」に「厂」(かん)が被されば「反」(はん)になる。

つまり「友」と「反」は、「又」(手)に表現される「個人」が「他」と現在に措いてどう言う関係に在るかを示しているのであり、友と反のどちらに優劣も善悪も偏ってはいないのだが、これを固定しようと考えた時に「信」が発生し、「反」で「又」を固定するものは「厂」(かん)、覆いである。

自分の手が、もう一本の「他」と言う「手」に拠って自発的固定されたものが「友」であり、自分の手が周囲の事情や環境に拠って半囲い、或いは薄い布で覆われてしまった状態を「反」と言うのであり、ここでの差は自分の意思で選択したか、或いは布で覆われたものを錯誤して選択した、若しくは仕方なくそれを選択したかと言う差であり、これに拠って得られる結果の善悪は、この時点で決定されていない。

古い時代には、おそらく今ほど「友」と「反」の優劣が傾いてはいなかっただろうし、現実には今でも「友」と「反」(敵)に対する労力は変わっていないかも知れない。
「信」は元々「友」の一部でしかなかったかも知れず、これを大きくしたのは「安定」を求めていく社会と言うものだった。

それゆえ変化となってしまう「反」を嫌い、良好な関係である「友」に傾いていくのは必然だったのだが、少数の支配者体制から春秋戦国と言う多数支配者割拠の時代を経て、支配者同士で共有できるものが増えて行き、やがて支配者同士の状況共有、「友」の概念が発生してくると、ここにそれを担保するものとして「信」が重要視されるようになった。

事の始まりは和睦の概念である。

ここに「信」は「友」から独立して「安定」を支える思想となった。
が、この過程は五常の「仁」「義」「礼」「智」「信」の全てに措いて言えるが、確かに安定して良好な関係は「羊」「美」、揃っていて美しいもの「善」と言えるものの、厳密には中間過程が美しければ結果も美しいと言う前提に拠って成り立っている。

世の中には「結果よければ全て良し」は有っても、「途中良ければ結果良し」と言う言葉は存在できない。
五常の徳は、ひたすら社会の安定を目的とするもので、ここで目指される結果は「予想」であり、現実がこれを反映するか否かは決まっていない。

「友」と「反」は、その時のその場の状態であり、基本的には結果の優劣では無い。
「信」とは安定を求める社会が「反」を嫌う事から始まっていて、「反」と表裏一体のものだと言う事であり、時と場、状況の中に存在し、決して未来永劫のものではない。

むしろ期限の定めが在る「信」こそ、本来の「信」に近いと言えるかも知れない。



関連記事
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

プロフィール

old passion

Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

[このサイトは以下の分科通信欄の機能を包括しています]
「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

最新トラックバック

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR

月別アーカイブ