信・第三節「厂」(かん)

私事で恐縮だが、過去幾度か地方の政争に刊行物の形で参加をさせて頂いた事が有り、この多く場合に「編集人」、「編集長」をさせて頂く事になった私が開口一番に言う事は決まっていた。

「参加の自由」、つまりこうした政争では、立場上、生活の上、姻戚関係や仕事関係等に拠って自分の思想や理想、或いは遺恨などは簡単に変化せざるを得ない状況がおとずれる為、その時は裏切っても構わないと言ったのであり、政争よりも個人が為す事は女房子供にご飯を食べさせる事であり、会社を経営する者は従業員を食べさせる事を一義にしなければならない、としたものだった。

それゆえ「飯椀」(せいかつ)と政争では常に「飯椀」を優先するように、状況が裏切らねばならない時が来た、或いは裏切った方が得になるなら、いつでも躊躇無く裏切るように言ったのであり、ただし、せめてもの情けを頂けるなら、裏切るときは理由を言う必要はないが、裏切るとだけ一言云ってくれれば、例え後に敵に回っても「友」として信じる事ができる。

が、これを最後まで言えずに黙って裏切る者は、その後の「信」は失う、と言う話を必ず冒頭の挨拶で行った。

「信」の始まりである「友」の概念は目的の為に共に手を取り合って進む事だが、この関係はいつでも解消できる自由を持っていて、この状態だからこそ自由が関係を縛るのだが、それも一定の限度を超えれば縛りは効力を失い、そしてこれを咎めない関係を言う。

よく友達だから裏切らない、裏切ってはならないと言うが、それは厳密には「友」ではなく「利害関係」であり、「友」と言う概念は裏切る事も許容出来る関係、それを理解できる関係をして言うのであり、この事が相互の裏切りを抑制する力と言える。

これを「心」や「友」と言う関係で縛って制限するなら、友や心は取引の条件に堕ちてしまうのであり、これは何を意味するかと言えば「又」(自分)が「厂」(かん・覆い)に拠って半分囲まれた状態になるのであり、四方の道の内、二方向が制限されて方向を半強制された状態で、選ぶのは自由だと言う事になる。

ここに敵か味方かと言う二者択一と半固定が強いられる。
「友」と言う関係式が「反」「敵」を生むのであり、人間の生きるは敵か味方かと言う単純なものには有らずして、東西南北の道が絡み合ってのものを、「友」に拠って敵と味方に分離する事は現実を引き裂く事になる。

自由で有る事、いつでも引き返す事ができ、それが許されるからこそ「信」が発生するのであり、これを関係で縛るは「厂」(かん)、いつか個人の事情が関係を超えるときが出てきた時には「反乱」、裏切りとなってしまう事を憶えて置くと良いだろう。

簡単に言えば「裏切り」はその裏切られた者の「友」、「信」の概念の狭さに拠って生じるものだと言う事である。

さて冒頭の話だが、こうして私が「裏切る事の自由」を挨拶にした時、「そうですね、自分もそうなるかも知れません」と頷いた者は大体最後まで裏切らないが、涙ながらに「自分は絶対裏切らない」と言った者は、必ずどこかで裏切る時がやってくる、いや既に裏切っているかも知れない・・・・(笑)






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