2018/06/16
利・第六節「刀」
利と言う文字の「部」は「刂」(りっとう)と言い、これは「刀」の事だが、「刀」と言う文字の成立は象形に由来し、一般的に我々が描く「刀」の概念は金属の鋭さを拠り所とするが、本質的には1本の棒を持った瞬間から「刀」の概念は成立し、従って我々が持つ「刀」と言う概念はこれら1本の棒から始まる漠然とした概念の内、金属で出来ていて持ち手に装飾が為されたものを区分したものと言える。
つまり「権力」と「比較上の優位性」にその始まりが有る事になるが、「刂」は「刀」の省略形とされるものの、例えば同等の材質なら1本より2本、小さい者より大きな者が有利となる現実の前に、その材質の強度を上げて対抗する意味合いも潜んでいて、この場合は密度が深くなり、より切っ先の面積が小さくなって行く、何かが集中された状態を差す事になる。
しかし一方で「利」の部に「刀」が使われないのは何故か、「刂」も「刀」も文字として成立していながら、「利」の部は「刂」であり、「切」の部は「刀」である。
また「刀」同様に古来から存在する「槍」(やり)や矛(ほこ)には「刀」も「刂」も付かず、「力」と言う文字が「刀」に近いのは何故か・・・。
「力」と言う文字の始まりは「金属製の農具」の象形を始まりとする説が有り、この意味では密度の集中が存在する事から「刀」に近いのかも知れないが、いずれにしてもこうした背景に鑑みるなら「集中」には古い形と新しい形が存在し、どちらかと言うと「刀」は新しい集中、「刂」は古い形の集中、若しくは「刀」は集中の先鋭的な一部、「刂」は漠然とした広い意味での「集中」と言えるのかも知れない。
もっと解り易く表現するなら、狩猟農耕民族の権力の集中が武力に拠る権力の構築に至り、その象徴が「刀」になって行った流れが存在するのであり、「利」はこうした権力の始まり、力の始まりと言え、「刀」が持つ本来の意味は分離の始まり、何かが分離して行く契機を表現している。
ちょうど肉を包丁で切った時、その両側に分かれて行く肉の壁に同じで、まだ分離はしないが、それに拠ってやがては分離して行く、或いはいつかの時点では変質して行く契機となるものであり、「利」は社会のあらゆる場面に潜むこうした分離、区分の始まりを包括したものと考える事が出来る。
現状を変質させる契機となるものを言う事になるが、「利」の進む道は大きい事と小さく鋭くなって行く事を同義とする。
大きく自身に集中させる為には鋭く、小さく力を集めなければ大きなものを破る事は叶わず、大きくなったものは同様に大きくなったものには破れない。
大きく広がったものを破るのは、鋭く尖った切っ先なのである。
また「利」は社会に存在する総量が凡そ決まっている。
それゆえ利が存在する所には確実に損失が存在し、人間の社会はこうした比較上の動きをやり取りしながら成り立っている。
今日1個だったものが明日は1個と半分に増えるなら、今日1個の損失は損失にはならないが、その次の日は2個の損失を被るかも知れず、しかし更に翌日には2個半を得るかも知れない。
「利」とはこのように水の流れに同じであり、損得、禍福の連続の中のどれを見るか、どの時点を判断するかと言う事だけかも知れない。
その生涯が終われば全てが清算されるものでもある。
生きているのはこうして考えてみれば夢のようなものだが、例え短い夢で有っても、そこで殴られれば痛いし、ひどい目に遭えば恨みもする現実を悟ったように考えてはならない。
死の直前まで生きる為に全力を尽くさねばならず、その生きるを易くするものが「利」であるなら、最後の瞬間までそれに対してもがき続ける愚かさもまた、潔い生き方と言えるだろうと、私は信じる。
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